2019/1/1, Tue.

 四時半前に覚醒。未だ真っ暗で、三時間ほどしか眠っていないが、もう起きてしまうことに。身体は相変わらず痒い――しかし何故か、寝間着の上からダウンジャケットを羽織ると比較的収まった。読書、『後藤明生コレクション4 後期』。「蜂アカデミーへの報告」。電気ストーブを点けてベッドのほうに持ってきて、最初のうちは枕とクッションにもたれながら布団のなかに入っていたが、じきに膝から腹まで布団を掛けた状態でベッドに腰掛け、脚をストーブの前に下ろした格好になる。「蜂アカデミーへの報告」はなかなか面白い。信濃追分の山荘での蜂との格闘・攻防体験を題材にしたもので、その経緯が克明に記述されており、私小説的でもあるがファーブル『昆虫記』ほか様々な新聞記事や著作からの引用が集積されていたりもする。文体は余計な修辞を取り払ったもので、飄逸ながら散文的で読みやすく、すらすらと読み進めることができる。ファーブル『昆虫記』は文学的散文として優れた著作のようで、読んでみたい気がする。六時半前に達してカーテンをめくると、山際に沿ってオレンジ色が横に塗り込められて帯を成し、それを背景に密集する枯れ木の影が黒く生えている。ごく細い月が直上西寄りに出ていた。雲は山の向こう、空の低みにあって横向きに長く、水っぽい青の色で垂れているのみで、天上はすっきりと払われている。六時四五分頃になると、曙光の色はかえって抑えられて空の青も和紙のように淡くなる。七時直前で読書を切って、前日の日記を僅かに書き足して投稿、それからこの日の記事もここまで綴った。
 ふたたび後藤明生の読書。ストーブを消し、ベッドに乗って身体に布団を掛ける。太陽は山から離れて空中に浮かび、その色からは既に橙色が抜けて純白で、光線が窓から入りこんで顔の横を温める。永井荷風の『断腸亭日乗』は有名な日記だが、これは非常に長く大正六年(一九一七年)九月一六日から昭和三四年(一九五九年)四月二九日まで続くものらしく、だから荷風は四〇年以上に渡って、まさしく絶命するその前日まで日記を書き続けたわけだ。彼は天気だとか買った物だとかあるいは関係を持った女性のことだとかを逐一記録しているらしく、こちらもこの先達の顰に倣って記録的熱情を大いに発揮し、生命を失うその日まで日記を書き続けたいと思う――生のドキュメントとしての、世界一長いであろう日記を。しかし勿論、病気によって一時書けなくなっていたようにまた不測の事態によって記せなくなるかもしれないし、単純に飽きてしまうということもあるかもしれないが。
 八時半くらいからうとうととして文字を負えなくなった。九時頃意識を取り戻して上階へ。おはよう、おめでとうございますと両親に挨拶をして、ストーブの前に座り込んで身体を熱風で温める。しばらくしてから台所に入り、伊達巻玉子や錦玉子を切り分ける。父親も立って、カウンターの上で蒲鉾を切っていた。それらを大皿に盛って行き、ほか母親の作った醤油風味のスープもよそって卓へ。新聞をひらき、記事をチェックする。そうしているあいだに盛り付けが完成したので食卓に運んで、席に就く。こちらの飲み物はなかった――母親がビールをほんの少しだけと言ってついでくれたので、乾杯をして僅かに、舌で舐める程度口をつけてみたが、これが不味い。顔を歪ませて不味い、と漏らすと、母親は大笑いしていた。ビールすら美味しく飲むことのできない、幼児的な味覚である。二〇歳の時点では既にパニック障害に侵されており、精神系の薬剤はアルコールとの飲み合わせが悪いので、今までずっと飲まないで来たのだ。大皿に盛られた品は先の三品に、黒豆、栗きんとん、生ハム。生ハムが美味だった。テレビは正月特番をやっていて、まあおよそどうでも良い類のものだが、芸人が色々出てくる。けん玉とダンスを混ぜたパフォーマンスをする二人組ユニットが出演しており、これには凄いなと目を向けた。音楽に合わせて踊りながら高速でけん玉を振り、回し、宙を飛び交う玉は次々とそれぞれの土台に移って行き、パフォーマンスのあいだ一度も失敗することなく着地するのだ。しかも最初のうちは、紐のついていない玉でそれをやっていたようだった。それを見てものを食べ終え、皿を洗うとそのまま玄関に行く。後ろから来た母親がこちらの動きを捉えて、外を掃いてくれるのと掛けてきたのでそうだと肯定し、裸足にサンダルを履いて玄関を抜けた。中くらいの箒と塵取りを使って落葉を集めて行く。一〇分もしないで集め終わり、林のほうに捨てておくとすぐに玄関に戻ったが、すると母親がもう終わったのと言う。確認しに出た彼女に、端のほうにまだ葉が残っていることを指摘されたが、面倒臭かったのであとは頼むと言って自室に下りた。ブログにアクセスして自分の日記を読み返したあと、この日の日記を書き足して、現在一一時過ぎである。FISHMANS『Chappie, Don't Cry』を流している。相変わらず"ひこうき"が良い。
 それからUさんに宛てたメールを綴りはじめた。まずおおまかに文言を作成し、口に出して読み返しながらその都度細かな部分や読点の位置を修正していく。四回か五回ほど読み返したところで、直すところがなくなったと思われたのでコピー&ペーストをして送信した。以下がその本文である。

 Uさん、お久しぶりです。明けましておめでとうございます。お元気にされているでしょうか? 新年がUさんにとって実り多き、恵みの豊かなものとなることを願っています。

 こちらのほうはと言えば、昨年はとてもではないが良い年とは言えませんでした。この一年は統合失調症的な精神の変調から始まり、鬱病の症状も経験して、一時は読み書きもまったくできなくなり、人生のなかでも二度目となるどん底を体験しましたが、年の最後に到って日記の作成をまた習慣として復活させることができました。それは、図書館の新着図書の棚で西村賢太の日記を少々覗いたことがきっかけです。彼の日記はこちらの書いていたものとは違って、至極簡潔、簡素な類のものでした。それを読んで、自分もこの程度のもので全然良いじゃないか、ともかくもまた書きはじめてみよう、と再開したところ、初めのうちはなかなか書きにくかったのですが、また次第に記憶を細かく辿れるようになり、昨日の分など二万字を超えるほどに詳しく綴ってしまいました。むしろ以前よりも詳細に、緻密に書くことができていると思います――一筆書きのようにして、流れるがままに「ただ書く」という領域に近づいているような気もします。生命の危機、瀕死状態を迎えるたびに一回り力強く復活し、より強大な能力を得るサイヤ人のように(『ドラゴンボール』をお読みになったことはあるでしょうか?)、病気を通過したことによって自分の頭は新しい力を得たと言えるのかもしれません。

 今回の件を通して、やはり自分には日記を書くことしかないと改めて確信しました。実際、文章をたくさん書けるようになってからのこちらは調子が良く、感情が完全に戻ったわけではありませんが、読み書きも充実していると思われ、自分は現在の状態に概ね満足しています。結局自分にとっては、毎日書くこと、やはりそれが重要なのだということを強く再認識しました。たとえたったの一行であっても毎日書けていればそれで良い、それを本当に、この世から彼岸へと去って行くその日まで続けることができたならば、それはなかなか大したことではないでしょうか? 自分は日記を書くことによって、つまりはこの世界から意味を読み取ることによって、自分の生に意味を与えているのだと思います。絶え間ない生成の差異/ニュアンスを取り込むことによって、生命を活性化させているとも言えるかもしれません。

 ちょうど一年前の日記でも考察したことですが、自分の生の隅々まで隈なく目を配り、それを言語化するということは、こちらにとっては書くことと生きることの往還のなかに自分を投げ込み、それによって、彫刻家が鑿を使って木や石から像を創り上げるように自己を彫琢し、洗練/変容させて行くという意味合いを持つものだと思います。短く言い換えればそれは、自己を芸術作品化して行くということです(ミシェル・フーコーが晩年に追究していた主題です)。それはさらに換言するならば、自己のテクスト的分身を作り、それとのあいだに相互影響関係を築くということですが、要するにテクストそのものになりたいということ[﹅18]、それがこちらの欲望の正体なのかもしれません。

 日記を書き続けることで本当に上のようなことが実現できるのか――この先実際に、こちらの見識や性質が深化/成熟して行くのか、それは先になってみないとわかりませんが、ともかくも自分はふたたび書くことを始めました。そしてこの頭のなかにある自動筆記装置、「テクスト的領域」とこちらが呼び習わしている能力を、もう二度と失いたくないと心の底から願っています。Uさんのほうも、言われるまでもないことと思いますが、書くこと、考えることを止めず、日々に続けて行ってほしいと思います。Uさんのブログ、「思索」もたびたび読ませていただいており、刺激を受けています。こちらのブログももしまた読んでいただけるならば嬉しいです。

 それでは。またいずれお会いして、色々とお話をする機会が巡ってくることを心待ちにしております。

 時刻は一二時過ぎ。散歩に出ることにした。部屋を抜けて上階に行くと、父親は炬燵のなかに潜り込んで寝転がっており、何かくぐもったような唸り声を立てていた。炬燵テーブルの上に置かれてあった青い靴下を履いて、ダウンジャケットを羽織ったジャージ姿で玄関を抜ける。道には陽が射して日向が広く作られており、歩きはじめると天頂に達した太陽が視界の端に広がって眩しい。道端の垣根の葉の上に白さが貼り付いている。道の先に人の姿が見えたのは、Sさんだったようだ。人通りのない正午の静けさのなかに道端の、枯れかけて乾いた草木の風に触れられてさらさらと鳴る音が立ち、遠くからは救急車の響きが伝わって来る。日蔭に入ると背に触れる空気の流れがやはり冷たいが、坂に掛かってまた日向が生まれていた。頭のなかにはFISHMANS "ひこうき"が流れていた。
 裏路地を通って行き、表道との交差部に出て横断歩道で止まったところで空を見上げると、その水色の均一な明瞭さに思わず驚かされた。左右を見回してみると、本当に雲の一片も存在せずに隅から隅まで青さが湛えられている。道を渡ってまた裏道に入ると、前方に見える木々の姿形も、青空を背景にひどくくっきりとしている。近くから何か音が立って見れば、脇の斜面に鳩が二羽現れていて、鳩だ、と無声音で呟きながら立ち止まった。距離はかなり近かったが、鳩たちはこちらの出現に驚くこともなく、飛び立ちはしなかった。振り向いてみるとしかし、犬を連れた女性が後ろからやって来る。立ち尽くして鳩をじっと見つめているのを見られるのも気恥ずかしかったので足をまた動かしはじめると、片方がばさりと飛び上がって斜面の上のほうに着地した。墓場を過ぎて掛かった保育園では、賑やかに叫び声を上げながらブランコで遊ぶ子どもらとその親たちがいた。もう少し行けば雅楽の笛の音が聞こえてきたのは、神社で演奏されているらしい。
 駅はちょうど電車が入線してきたところだった。過ぎて街道を行き、裏に入って家へと続く坂を下って行く。Tさんの宅に息子さん夫婦だろうか、子どもを連れた家族が入って行くところだった。木の間の坂では常緑樹の葉の上にやはり白さが溜まって、緑と白とで稠密な、しかし整然とはしておらず少し型破りなチェック模様のようなテクスチャーが出来ていて、目にざらざらとした感触を与える。坂を抜けると我が家のすぐ前の道を、何か黒い動物がのそのそと横切って行くのが見えた。猫か、あるいは狸だったかもしれない。遅れてその地点に達したが、林のなかかどこかに消えてしまったようで、動物の姿はもうどこにも見えず、木々のさやぐ音のみが響いていた。
 家のなかに入ると、炬燵の父親の姿はなくなっていた。自室に戻って『後藤明生コレクション』を読みはじめたが、腹の内で臓器が蠢き鳴ったので、何かものを食おうとすぐに上階に上がった。「マルちゃん」の「黒い豚カレーうどん」を食べることにして、戸棚からカップ麺を取り出し、湯を注ぐ。ティッシュ箱をその上に載せて本を読みながら五分待ち、蓋を開けると、本はティッシュ箱に立てかけながらテーブルのちょっと奥に離して、汁が跳ね跳ばないようにゆっくりと麺をほぐす。紙上に目を向けながら、本を汚すことのないように、やはりゆっくりと静かに麺を持ち上げ、同様に勢いよく啜ることもせずに口のなかに取り込んで咀嚼することを繰り返した。口内炎に沁みるのを我慢しながら、汁はなくなる三歩手前くらいまで飲んで台所に立ち、容器に水を入れておくだけで片付けはせずに下階に戻った。そうして読書を続ける。途中で隣室にいた母親がこちらの部屋にやって来て、携帯を取ってくれと言う。兄のベッドの下に落としてしまったらしい。それで隣室に入り、ベッドの上に乗って隙間を見てみるがどこにあるのかわからない。両親の部屋に行き、ベランダに出て布団を取り込んでいた母親に向けてわからないよ、と言うが、この時、アザラシのようにうつ伏せになって布団にくるまり寝転がっていた父親を気づかず踏んでしまい、痛え、という声が上がったので笑いながらごめんと謝った。母親が取り込んだ掛け布団をその父親の上に二枚掛けてやり、それから兄の部屋にまた移る。床に伏せてベッド下を覗いてみると、確かに携帯が落ちている。母親が何かないかとそのあたりを探って渡してきたブーメランを持ち、床に低くなって腕を伸ばし、ブーメランの先で携帯を壁際まで押して取ることができた。そうして自室に戻り、読書の続き。途中で、室内にちょっと暖気が籠もっているような感じがしたので窓を開けたが、寒くなかった。川の響きや烏の鳴き声が伝わってくる。「蜂アカデミーへの報告」の終盤に、岩田久二雄という昆虫学者の言が引かれている。

 記録というものはいくら冗長でもさしつかえない。冗長で克明なほどよい。要領よくとられた記録は、もはや万能の資料としては役立たない。篩にかけた記録は、やはりそれをとった当座に思いついていた目的のみにそう抽象でしかない。記録は完全な客観として初めてその価値をもち、自然の反映となれるのである。(……)
 (『後藤明生コレクション4 後期』国書刊行会、二〇一七年226~227; 岩田久二雄『昆虫学五十年――あるナチュラリストの回想』中公新書より)

 自分の生の記録であるこの日記も、相当に長々しい、冗長そのものという類の文章だと言えるだろう。しかしそれで良いどころか、そうでなければならないのだ。後藤明生は岩田久二雄のこの発言を取って「冗長主義」と言っているが、自分も自信を持って冗長主義を奉じて行きたいと思う。この明治晩年生まれの昆虫学者は「日本のファーブル」と呼ばれているらしく、その著作、四巻本だという『自然観察者の手記』というものは、ちょっと読んでみたいような気もする。インターネットを探ったところ、何でも平出隆が何とかいう作品を作る時の構想元になった本だそうだ。その他、「ピラミッドトーク」「ジャムの空壜」も読んで三時を迎え、読書を中断して日記に。BGMはAlan Hampton『Origami For The Fire』。三〇分掛けてここまで書き足した。
 一年前の日記読み返し。Albert Ayler『Goin' Home』を掛け、ゴスペル風味の音楽に合わせて指を鳴らしながら読む。体調が悪くなってきている。発狂への恐怖。以下、当時の考察。

 ウィキペディアの「解離性障害」の記事には、「離人症性障害/現実感喪失」という項目があり、そこに定義要件の一つとして、「自分の精神過程または身体から遊離して、あたかも自分が外部の傍観者であるかのように(例えば夢の中であるかのように)感じることが持続的または反復的である」と書かれているのだが、これは自分の感覚にぴったりと適合する記述である。自身を絶えず観察/傍観し続けるというのはヴィパッサナー瞑想の中核を成す技法であって、したがってヴィパッサナー瞑想はそもそも、場合によっては離人症を促進するような性質を持ったものだと言えるのかもしれないが、自分の場合さらにそこに「書くこと」に対する欲望が結びついて、「観察」がほとんどそのまま「言語化」として定式化されてしまった。感覚的直接性を絶えず言語に変換しようとするのがこちらの主体としての存在様式なのだが、それによって感覚的直接性が切り離され、この世界そのものが記号の体系として現実感を失ったものとして構成される、それが怖いのではないかということである。
 元々自分は、自分の体験したもの、この世界の豊かさを隈なく書き記したいという欲望を持っており、物事をより緻密に感じ取れるように感受性を磨くことを目指してきた。だから当初は感覚が大元としてあり、それを表現/記録するために言語を使う、という関係だったはずが、言語的能力(文を作成する能力)が発展してくるにしたがい、いつの間にか言語の地位のほうが優勢になってしまうという転倒が起こったのではないだろうか。つまりは自分の体験がすべて言語に還元されてしまい、感覚的直接性を確保できなくなるかのようであること(これが離人感というものだろう)に不安を覚えるのではないか。
 別の説明の仕方をしてみると、世界の認識における区分として、まずカントが「物自体」と呼んだこの世界そのものの姿、というような段階がある。これがどのようなものなのか我々人間は知ることができず、人間が認知することができる世界の像は、人体の感覚器官を通して構成されたものにならざるを得ない。これが通常「世界」とか「現実」とかと言われているものであり、先ほど言及した「感覚的直接性」もこのレベルのものとして考えている。この「世界」は言わば、「物自体」の表象としてあると考えられるわけだが、この上にさらに、二番目の「世界」の表象として、言語によって構成される意味論的体系の領域としての世界像が個々人において作り出されるだろう(それを「物語」とか「フィクション」とか呼ぶはずだ)。二層目の世界像と三層目の世界像は勿論相互に関連し合っており、そう截然と区分できるものではないはずだが、自分は今まで、感覚的直接性の世界の「真正性」を信じていたはずのところ、言語的に構築された世界のほうが優勢になってきて、言わばそちらのほうが「リアル」に感じられるようになり、感覚世界の像が相対化されて崩れていく、それに不安を感じているということではないのだろうか(要はこの世界そのものが記号の体系(「テクスト」)として、「フィクション」としてますます感じられるのが怖いということではないか)。

 それからSさんのブログ、「ワニ狩り連絡帳」と読み、ふたたび自分の過去の日記、今度は二〇一六年九月五日を読んでブログに投稿。そうして『後藤明生コレクション4』。読んでいると五時直前になって天井が鳴ったので、本を閉じ、Albert Ayler『In Greenwich Village』も止めて上へ。今日は風呂を洗っていないよねと母親に指摘され、忘れていたことに気づく。それで浴槽をブラシで洗い、それから夕食の支度。米が釜に結構あり、レトルトのカレーにしようかと母親は言う。ほか、大根の葉の炒め物。流し台には大根や春菊が置かれてあり、これだって自分で取ってきたんだよと母親は文句を言う。フライパンに水を入れて火に掛け、沸騰を待つあいだに外に出る。夕刊を取ろうと思ったのだが来ていなかったので、今日は休みなのか? それで朝刊の一面から、政府はサイバーセキュリティの観点上、電力や水道の業者には電子データを国内サーバーに保存するよう求める方針、との記事を読むのだが、まもなく湯が沸いたので、冒頭の要約しか読めず。大根の葉を入れ、すぐに取り出して水のなかへ。絞って切る。肉も切り、さらにエノキダケと合わせて炒める。醤油で味付け。それから、モヤシを二袋、笊にあけて洗い、白く大きめの、菫の花(ヴァイオレット)が描かれた鍋にまた湯を沸かす。合間、新聞記事に目を通す。そうしてモヤシを茹ではじめると、居間のほうでタブレットを弄りながら『笑点』を見ていた母親がやって来て、メルカリで気になったブラウスを買おうかと思うがどうかと意見を求めてくる。薔薇の柄のブラウスが良いと言うが、模様がいくらかがちゃがちゃしているように思われた。しかしそれは口にせず。もう一つ、黒の地にレモンとライムがいくつも描かれたものも非常に気になると言うので、ならば買えば良かろうと受ける。そうしてモヤシを母親の持った笊にあけ、洗い桶を掃除してそこにスライサーで大根を下ろす。水を注いで冷やしたあと、これも笊に取っておき、それで支度は終了。
 下階へ戻って読書。「禁煙問答」「『芋粥』問答」を抜け、「マーラーの夜」に入る。後藤明生の小説には(少なくとも自分が読んだこの『コレクション4』においては)必ず他者のテクストが引用される。テクストとテクストのあいだを飄々とした感じで、小気味よく繋ぎ、渡って行く。Charles Lloyd『Sangam』を背景に六時半まで読んで、それから日記。
 夕食を取りに上階へ。レトルトのカレーを食べるという話だったが、加熱を待つのが面倒なので納豆で食うと告げる。メニューは米、ひきわり納豆、冷凍の塩唐揚げ四つ、大根やトマトのサラダ、醤油風味の薄味スープに酢蛸。卓に就き食べはじめると、七時のニュースで、原宿は竹下通りで行われた車暴走事件が伝えられる。容疑者の男は初めテロを起こしたと供述し、さらにその後、「死刑制度への報復のためにやった」と言っているらしい。一人重体とのこと。それを聞いたあと、ものを食いながら新聞の一面に目を落とす。東京電力が千葉県銚子沖に原発一基並の発電量を持つ洋上風力発電施設を造る計画、と。早々とものを食べ、さっさと皿も洗うとアイロン掛け。炬燵に入った母親にちょっとずれてもらい、その脇、テーブルの上にアイロン台を乗せる。シャツやエプロンにアイロンを掛けているあいだ、テレビは歌の上手な子どもたちが競う歌唱大会を映している。MISIA "Everything"を歌う一二歳の日本人少年がいて、確かに声は安定しており音程も乱れず上手いが、上手い以上の感想は出てこない。その次に歌ったのはカナダかどこかのこれも一三歳だかの少年で、Stevie Wonder "Superstition"を演じていた。ピアノの弾き語りから始まってマイクを持つと踊りながら歌う。なかなか盛り上げ上手で、音程や声のまとまり、安定性では甲乙付けがたいものの、選曲のセンスとパフォーマンスの個性で後者の勝ちだろうなと勝手な予想を立てていると、果たしてその通りだった。それから電話が鳴る。出るとI.Y子さんで、お世話になっておりますと告げる。今年もよろしくと言ってきたのではい、おめでとうございますと返して母親に変わると、彼女は炬燵を抜けて洗面所か玄関のほうへ話しに行く。風呂から出てきていた父親のほうは、こちらがハンカチを処理している横で、O.Mさんに電話を掛けていた。明日は山梨の祖母宅(父親の実家)に集まることになっているが、その時刻を一〇時半としていたところ、一〇時でも良いかと。そうなると我々は八時半には出なければならず、なかなか早い活動開始である。
 アイロン掛けを終えるとすぐに風呂に入った。身体はやはり痒く、赤くなって発疹のために到るところざらざらとしている。FISHMANS "ずっと前"を口ずさみながら浸かり、出るとポットに湯を足しておいて自室へ。しばらくすると茶をついできて、それを飲みながらTwitterを覗き、いくつかアカウントを新しくフォロー。そうして九時ちょうどから読書。「マーラーの夜」。この篇の主題はタイトルにもなっているマーラーの演奏会なのだが、その演奏会自体は結局小説のなかで体験されることがなく、そこに向かう前に「海老フライライス」を食おうと「レストランG」に向かうところでこの篇は唐突に終わっている。一応、レストランがいつの間にか閉店していたという落ちがついてはいるのだが、突然の、尻切れトンボの感じがないこともない。また、この篇から舞台は大阪に移っており、続く「十七枚の写真」「大阪城ワッソ」と、後藤明生の語り手は町を歩きはじめ、そこで見たものを細かく記し出す。それまでテクストとテクストのあいだを渡り歩いていた後藤明生的主体は今度は実際の町を渡り歩き出し、二種類の遊歩が相互に交錯するわけだ。また後藤明生は、ホームレスのことを「ディオゲネス犬儒派の末裔」と呼ぶ。
 一〇時五〇分まで書見。ベッドの上に胡座をかき、布団を身体に乗せてじっと静止し、文字を静かに追い続ける。それからここまで日記を書き足して一一時半。打鍵のあいだにダウンジャケットのポケットに手が当たり、何か硬いものの感触があったと思えば、プレス・バター・サンドが入っていた。緑茶での一服とともに食べようと思っていたのをすっかり忘れていたのだ。これは先日の会食の時にT.T子さんから頂いたものらしく、なかなか美味だった。東京駅で売っているようだ。
 音楽を聞くことに。ヘッドフォンをつけ、FISHMANS "気分"を流し、先日買ったCDの曲目や録音情報をEvernoteに写す。Chris Potterの二作を写したのみで仕舞いとし、椅子に就いて目を閉じ、彼の『The Dreamer Is The Dream』を聞きはじめる。"Heart In Hand"。Chris Potterはやはりトーン・コントロールが抜群だというか、中心に強い芯の通って非常に明晰な、まさしくトーン[﹅3]というものを持っている演者である。二曲目、"Ilimba"。弾力的でリズミカルだが、譜割りが良くわからない。四拍子か三拍子かそれとも七拍子なのか。サックスソロのあいだはそれで困惑し、音楽をうまく掴めない。ピアノソロになると小節の頭を律儀に維持しているベース(Joe Martin)に導かれて聞けるようになる。それでも細かな譜割りはやはり良くわからない。四か三だが、順当にそうは聞こえないようなリズムを組み立てているような気がする。Potterはかなりのハイトーンまで吹いているが、音が濁らず、痩せ細ることもなく、音程のフラット・シャープなどもまったくなく安定しているのが流石である。
 零時過ぎ。ふたたび読書。零時三五分で切り上げて消灯。この日の作文は二時間五三分、読書は数えてみると何と一〇時間三三分も行っていた。『後藤明生コレクション』はこの日だけで二七〇頁ほど読んだことになる。