2019/1/4, Fri.

 前日の記事に書き忘れたのだが、昨日は午後九時頃、市川春子『宝石の国』第九巻を読んだ。
 たびたび覚醒して、最終的な起床は六時四〇分頃。最近の日々のなかではやや遅くなった。夢。学校の教室で授業を受けていたと思う。窓の外に、米軍の迷彩柄ヘリコプターが現れ、窓の上部に設けられた開口部を通して(まるで放り投げられたように放物線を描いて)小さな扉のようなものを落として行く。それがこちらの机の上に落下し、右手にほんの少し掠って怪我をする。血が出たので、憤慨しながら廊下の水場に行くと、あとからクラスメイトの女子がついて来る。こちらに好意を持っているらしいことがわかるのだが、こちらはその名前も覚えていないくらいで、視線を落として上履きを見てその名をようやく思い出す。村上何とかという名前だった。絆創膏を持っていないかと訊き、持っていると言うので貰う。
 その他、小中の同級生だったK.Yと何かしら険悪な関係になる夢があった気がするが、これはこちらからの一方的な憎悪だったかもしれない。現実の彼との関係は悪くはなく、むしろ小学生の頃などかなり仲が良かったと言っても良いほどで、と言うのは彼の家はこちらの宅の正面だったから遊びに行ったこともままあるし、学校への行き帰りなどよく一緒になって家の前の林を通り、どちらか速く下りられるか競争したりもしたものだ。
 ベッドから抜け出してダウンジャケットを羽織り、ファスナーを首もとまでぴっちりと閉めて便所に行く。放尿してから戻り、身体に布団を掛けて足をストーブに晒しながら読書を始める。『ムージル著作集 第七巻 小説集』から「テルレスの惑乱」。バイネベルクが形而上学的であるのに対し、テルレスも抽象的なことを考えるものの、彼はどちらかと言えば文学的だろうか? 観念による思考とイメージによる思考。ライティングはナポレオンを奉じているところから見て、もう少し実際的であるようだ。書見は七時三五分まで。七時半に近づくと太陽の光線から朱色が剝ぎ取られ、扉の横に生まれた矩形のなかは無色になってこちらの影が映し出される。空は淡い。
 上階へ。母親に挨拶。大根の葉の炒め物が残っているので皿に。ほか、納豆を食べようかと思ったところが、前日に父親が買ってきたセブンイレブンのチキンが一つあったのでこれをおかずに米を食うことに。味噌汁などそれぞれ用意して卓へ。図書館に行ってスーパーで買い物をすると言ったところ、緑茶は新しいものがあるとのこと。「大井川茶園 癒やしの禅」というものだった。食後、皿を洗っているところで蛸が余っていたのを思い出し、洗った箸をもう一度持って卓に就き、添えられていた山葵を擦りつけて蛸を食す。ふたたび洗い物をしてから風呂を洗おうかと思えば、湯がまだ少し残っていて母親が洗濯に使うというのでのちに。茶壺に新しい茶を入れておき、小さな容器に注いで仏壇に供え、そのあとから自分の分もついで下階へ。Queen『The Game』を流す。インターネットを覗き、"Crazy Little Thing Called Love"を歌ったのち、八時三五分から日記を作成。現在は九時一六分になっている。父親は今日は病院に行く祖母の付き添いに出ている。
 上階へ行って風呂を洗う。それから自室に戻り、FISHMANS "チャンス"をリピート再生させながら服を着替える。赤・黒・白三色の格子縞のシャツにグレーのイージー・スリム・パンツ、そしてその上からモスグリーンのモッズコートを羽織った。その格好で排便に行ってから歯磨きをし、口を濯いで戻ってくると "チャンス"が途中だったので、裏拍に指を鳴らしながら最後まで聞いてからコンピューターをシャットダウンした。そうしてリュックサックに収める。リュックサックにはほかに、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』『沖縄現代史 新版』、櫻澤誠『沖縄現代史』や、年金の支払い書に読書ノート、財布と携帯を入れた。返却本三つのうち後者二つは読めていないが、この先ムージル『特性のない男』を読むことにしたので、読むことの出来るまたの機会を待って返してしまうことにしたのだ。それで、緑色のチェックのストールを巻き、上階へ。母親は下階のトイレに入っていた。出てきたところに階段の上からもう行くよと掛けたものの聞こえなかったようなので、階段を下り、両親の寝室に行って、鏡台の前に座っていた母親に出かけることを告げて出発した。
 時刻は九時四五分。落葉の僅かに散った道に日向が広い。空は雲の完璧に排除されて、隅から隅まで乱れなく均一な青一色をひらいて静まっている。坂に入り、解体中の白井宅のほうを見下ろしながら進んで行く。上りきって街道に向かうと、空中に塵埃のような細かな虫が群れており、そのなかを分けるようにして進む傍から、また前方から途切れずに群がってきてこちらの脇を通り過ぎて行く。街道に出ると、日向の多い北側に渡った。右の側頭部から耳のあたりに掛けて太陽の感触が暖かく、対岸の家々から伸びてくる日蔭はこちらの頭まで隠す長さを持たず、薄青い蔭のなかに入っても寒くはない。ストールを巻いている首が少々暑いくらいだった。一軒の入り口で、父親が赤子をベビーカーに乗せているところだった。そちらのほうを見やって赤子と目を合わせながら、見つめ続けることができずに逸らしてしまう。本当は一つの絵画のように、あるいは一種の映画のようにそれらを観察したいのだが、生身の人間が相手では、失礼で風変わりな人間に思われるのではないかという自意識が働いて、そうそう視線をじっと持続させることができないのだ。視線には既に意味=権力が含まれており、人に向ければその力が作用してしまうのだ。それからちょっと進むと後ろからがらがらという音が聞こえはじめ、自転車と思っていたところが一向に抜かされないのは、先の赤子を乗せたベビーカーだった。脇に寄っていると、ベビーカーを押す父親は小走りになってこちらを抜かして行った。この頃から、右足の裏が筋肉痛になったように、突っ張ったような痛みが生じていた(実のところ、前日の散歩のあいだにも生じていたのだが)。駅に近づく頃には、その鈍い痛みがさらに嵩んでいた。それで、元々図書館まで一時間余り掛けて歩いて行くつもりだったが、この足の状態であと三〇分だか四〇分だか歩かなくてはならないのは厳しいな、というわけで、やむなく電車に乗ることにして、青梅駅前で路地に折れた。
 改札を通ってホームに上がり、二号車の三人掛けに掛けるとすぐにムージルを読みはじめた。バイネベルクの言っていることが形而上学的でよくわからない。発車してからも頁に目を落とし続けるが、途中でその視線を上げると、窓から射し込んで床に斜めに伸びたいくつもの陽だまりのなかを、車両の端から端まで、外の風景の作り出す影が高速で繰り返し滑って行く。それを凝視しながら、映画のようだと思った。
 河辺で降車。降りると足の痛みは引いていた。改札を抜けて図書館へ。歩廊から前方には、青く明るい空を背景に二つのビルを繋ぐ空中通路のなかで、人形のような薄影と化した人々が歩いて行く。背後から後頭部に太陽が当たって暖かい。入館。リュックサックから本を三冊取り出して返却。ありがとうございますと礼を言って離れ、CDの新着棚に行き、先客の後ろから覗き込む。「枯葉」の邦題で知られる有名作、Sarah Vaughanの『Crazy And Mixed Up』があったので借りることにした。ほか、ジュリー・ロンドンカーメン・マクレエ。後者の『After Glow』も借りることにして、現代のものは何かないかとジャズの棚を見に行くと、Blue Note All-Stars『Our Point Of View』があってこれは有り難い。Lionel Loueke、Ambrose Akinmusire、Marcus Strickland、Kendrick Scott、Robert Glasper、Derrick Hodgeというまさに錚々たるメンバーである。それらの三作を持って上階に上がり、貸出機て手続きをしてから新着図書を見分した。棚の半分だけ見て、もう半分の前には人がいたので先に席に入ることに。書架のあいだを窓際に抜けて見回すと、端から二番目の席が空いていたので近寄り、ががが、と音を立てながら椅子を引いて、リュックサックを下ろしストールを首から外した。コンピューターを起動させて早速日記を書き出して二五分、現在は一一時を迎えている。
 それから日記の読み返し。一年前の一月四日は、自生思考の暴走による不安がピークだった日で、風呂に入っている時に頭のなかの言語が完全に秩序を失って、「ああああああ」という意味を成さない呻きと化したことを今でも覚えているのだが、そういうわけで日記はきちんと綴っておらず、断片的ないくつかの文言が残っているのみである。そのほか、二〇一六年九月二日のものを読み、それから借りたCD三つの情報を早くも記録してしまうことにした。

Blue Note All-Stars『Our Point Of View』

1. Bruce's Vibe [Robert Glasper]
2. Cycling Through Reality [Kendrick Scott]
3. Meanings [Marcus Strickland]
4. Henya [Ambrose Akinmusire]
5. Witch Hunt [Wayne Shorter]
6. Second Light [Derrick Hodge]

1. Masquelero feat. Wayne Shorter & Herbie Hancock [Shorter]
2. Bayyinah [Glasper]
3. Message Of Hope [Hodge]
4. Freedom Dance [Lionel Loueke]
5. Bruce, The Last Dinosaur [Akinmusire]

Produced by Robert Glasper And Don Was
Recorded by Keith Lewis and assisted by Steve Genewick at Capitol Studios, Hollywood, CA
Mixed by Keith Lewis at Flying Dread Studios, Los Angels, CA
Mastered by Ron McMaster at Capitol Mastering, Hollywood, CA

Blue Note Records; (P)(C)UMG Recordings, Inc.
UCCQ-1072/3

Carmen McRae『After Glow』

1. I Can't Escape From You [Leo Robin / Richard A. Whiting]
2. Guess Who I Saw Today [M. Grand / E. Boyd]
3. My Funny Valentine [Rodgers / Hart]
4. The Little Things That Mean So Much [Harold Adamson / Teddy Wilson]
5. I'm Thru With Love [Matt Malneck / Fud Livingston / Gus Kahn]
6. Nice Work If You Can Get It [George & Ira Gershwin]
7. East Of The Sun (West Of The Moon) [Brooks Bowman]
8. Exactly Like You [McHugh / Fields]
9. All My Life [S.H. Stept / S. Mitchell]
10. Between The Devil And The Deep Blue Sea [Harold Arlen / Ted Koehler]
11. Dream Of Life [Carmen McRae / Luther Henderson, Jr.]
12. Perdido (Lost) [J. Tizol / E. Drake / H.J. Lengsfelder]

Carmen McRae: vo / p on 1,4,8,12
Ray Bryant: p
アイク・アイザックス: b
スペックス・ライト: ds

#1~4,7,8,11,12: 1957年3月6日録音
#5,6,9,10: 1957年4月18日録音

A Decca release; (P)(C)1957 Verve Label Group
UCCU-5863

Sarah Vaughan『Crazy And Mixed Up』

1. I Didn't Know What Time It Was [Lorenz Hart / Richard Rodgers]
2. That's All [Alan Brandt / Bob Haymes]
3. Autumn Leaves [Johnny Mercer / Jacques Prévert / Joseph Kosma]
4. Love Dance [Paul Williams / Ivan Lins / Victor Martins]
5. The Island [Alan Bergman / Marilyn Bergman / Ivan Lins / Victor Martins]
6. Seasons [Roland Hanna]
7. In Love In Vain [Leo Robin / Jerome Kern]
8. You Are too Beautiful [Lorenz Hart / Richard Rodgers]

Roland Hanna: p
Andy Simpkins: b
Harold Jones: ds
Joe Pass: g

Produced by Sarah Vaughan
Studio: Group Ⅳ Studios
Hollywood, CA
March 1 &2, 1982
Engineers: Denis Sands, Greg Orloff

(P)1982 Pablo Records, Inc.
(P)1982 & (C)2007 Concord Music Group, Inc.

 それから新着図書を確認するために席を立った。見ていなかった残り半分を見分し、手帳にメモを取る。気になったのは、ナボコフ若島正訳『ロリータ』(新潮文庫(だと思う))、残雪『黄泥街』(白水Uブックス)、『カタルーニャでいま起きていること』、岡真理『ガザに地下鉄が走る日』(みすず書房)、坂口恭平『建築現場』(みすず書房)。メモを終えるとトイレに行き、放尿して手を洗い、Brooks Brothersのハンカチで水気を拭う。そうして席に戻り、ムージルの書抜き、現在読んだところまで。すると一一時五〇分、「テルレスの惑乱」の続きを読みはじめる。大窓に掛けられた遮光幕の隙間から太陽が斜めに射し込んで、本の上に横向きの光の帯を作り出し、そうすると紙の頁に刻まれた、樹木の表面のような微細な肌理が目に見えるほどに浮かび上がる。太陽の帯は読み進めるあいだ、段々と頁の上を下って身体に近づいて行き、じきに左の側頭部にまで達して温もりをもたらす。外を見やればあれは何という木か、枝先を伐られて中途半端な箒のように短くなった街路樹が影を伸ばし、道の上は全面白く染まっている。セブンイレブンに「華の舞」が入った建物の屋上、縁に鳩がたくさん止まっており、二階にある居酒屋の窓には車の動きがたびたび映し出されて視界の端を掠めて行く。書見は一二時四五分まで続けた。
 ・「テルレスは考えるというより夢を見ていた」(71)――テルレスは思索者と言うよりは夢想家ではないか。イメージ=比喩による文学的思考。過敏でひどく繊細な少年の感受性が、見た物感じた物の端々から豊穣なイメージを引き出さずにはいられない。
 ・「事物も出来事も人間も、なにか二重の意味を持つものとして感じ取るという感覚が狂気のようにテルレスを襲った」(74)→「彼が先ほどバジーニのことを思い浮かべたとき、その顔の背後に二つ目の顔が朧げに見えはしなかっただろうか?」(70)――物の二重性。背後に隠されたもの[﹅9]=超越(?)の認識(直観?)。
 ・「彼は天が巨大な姿をして沈黙したまま自分をじっと見下ろしているのを感じた」「バジーニの身に起こったことについての観念がテルレスの心を真っ二つに引き裂いた。それはあるときはまともで、ありふれたものであったが、またときにはさまざまなイメージが掠め過ぎる沈黙に包まれていた。この沈黙はこれらすべての印象に共通しており(……)今や不意に現実的なもの、生命を持ったものとして扱われることを要求した」「テルレスは今、その沈黙が八方から自分を取り囲んでいるのを感じた」(74)→幼少期の挿話、森のなかに一人きりで残される――「なんなのだ、ぼく達の耳には聞こえない言葉のようなこの不意の沈黙は?」(26)
 腹のなかが空になっていたので食事を取りに行くことに。席から離れながらモッズコートを羽織り、下階に下って退館する。歩廊の上に反射する白昼の光が眩しい。高架歩廊から階段を下りてコンビニへ。まず年金の支払いを済ませ(一六四三〇円)、それから棚に寄っておにぎりを三つ――ツナマヨネーズ(一一五円)、明太子マヨネーズ(一三〇円)、旨辛鶏唐揚げ(一三〇円)――取り、先ほどと同じ店員のレジで精算した。外に出て、木製のベンチに腰掛けて買ったものを食べる。背後から陽が射してこちらの席は日向に包まれており、光線が後頭部に当たって熱をもたらす。風もなく、ストールを巻いてこなかったが寒くはない。周囲には石板のように薄青い羽根の鳩が何匹かうろうろとしていた。おにぎり三つを食べ終えると席を立ち、頬張ったものをもぐもぐと咀嚼しながら、コンビニのダストボックスに袋を捨てた。そうして図書館に戻る。
 時刻は一時。日記を書き足してからふたたび読書。しかし読みながら眠気が湧き、視界がぶれてなかなか集中できない。それでも二時半過ぎまで続けて、帰ることにした。荷物を片付けて席を立ち、モッズコートを羽織ってストールを巻く。退館。車の流れる音、電車の発車する音。歩廊を渡って隣の河辺TOKYUへ。薄灰色の籠を取り、野菜の区画を周り、茄子、椎茸、エリンギを収める。大島椿シャンプーを買ってきてほしいと母親からメールが入っていた――ここにしか売っていないらしい。それでシャンプーを保持し、その他緑茶やパンなど。飲むヨーグルトを買おうとしたら、ブルーベリー・ミックスと味のついていないプレーンしかなく、普通の味のものは売り切れていた。それで最後に肉を二パック取って、会計へ。以下一覧。

421 国産豚切り落し  \470
421 国産豚生姜焼ロース  \480
1861 放香堂 宇治茶  \748
3292 Vバターロール  \148
3291 ふんわり食パン  \160
1681 カルビー BIGBAG ウスシオ  \238
7110 大島椿シャンプー 400ml  \540
150 なす 3本パック 2コ × 単176  \352
130 生しいたけ  \176
137 V雪国エリンギ  \98
小計  \3410
外税  \272
合計  \3682

 愛想の良い女性店員相手に金を払い、整理台へ。茄子、椎茸、ポテトチップスはリュックサックに入れる。その他のものをビニール袋に詰め、右手に提げて出口へ。歩廊を渡って駅。エスカレーターを歩いて下り、ホームの先、日向のなかへ。ベンチに袋を置き、リュックサックから携帯を取り出してMさんのブログを読み出す。一五時四分発青梅行きに乗車。座らず、席に荷物を置いて立ったままブログを読み続ける。青梅に着いてからも待合室に入らず、ベンチにも腰掛けずに室の前に立ち尽くして読む。餅を一生食わないと決めている、というこちらの断言に対して爆笑したと。Thank you! 奥多摩行きが来ると扉際に就いて、ブログを読み終えると窓の外を覗く。車内の反対側、端のほうにはベビーカーが置かれ、幼児がはしゃぎ声を上げている。外は青梅市立第一小学校。こちらの母校である。その校庭に生えている常緑樹を眺めたり、視線を上げて青々と明るい空を眺めたり。石段を上って端、校舎の脇には二本、骨組みだけになった銀杏の木が立っており、天をまっすぐに刺すようなその枝々が鋭い。秋になると巨大な炎のように黄金色に燃え盛るものだ。視線を落とすと電車の外側、線路のあいだには老いて薄茶色になった猫じゃらしが生えている。幼児は発車後、沸騰した薬缶の蒸気が立てる音のような甲高い叫びを上げていた。
 発車。鬱蒼と茂る森(以前に一度だけ電車に乗っているあいだに鹿を見かけたことがある)を眺めながら乗り、最寄りに着くと、もうほとんど森に接しかけている太陽がその身を広げて眩しい。階段、老人がゆっくりと歩いている。その脇をゆっくりと抜かして行くと、横断歩道で老人二人と一緒になる。ボタンを押してもらって渡り、坂に入りながら空を見回せばこの時間になってもまだ雲の一片も存在しない青の領域が続いている。Mさんと初めて実際に会った時の二日目、二〇一四年三月一一日のことだが、その日もこのような、青梅から上野に行くまで雲をひとひらも見かけなかったのを覚えている。坂を下って平らな道に出ると、Nさんがしゃがんで何やら庭仕事か何かやっていた。そこにこんにちはと掛け、明けましておめでとうございますと互いに挨拶をする。父親に言及され、今年は大変な役が待っていますけれど、というようなことを言われる。別れて歩き出したあとから、休みはいつまでと追加で掛けられたので、えっと、僕は、明日までです、と嘘をつく。別に知られたって一向に構わないのだが、鬱病になってニートをやっているなどと説明する間柄でもないだろう。これだけ日記を書けることからもわかるように、もうほとんど治っていると言って良いと思うのだが、ひとまず休みはじめてから一年間、四月までは休ませてもらうつもりでいる。本当に日記を再開してから元気になってきた。やはり書くことによって自分の生は活性化されるらしい。その後、隣のTさんにも遭遇。ここでも明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いしますと礼をしながら挨拶すると、良い男だねとTさんは褒めてくれる。いつものことだ。こんなに良い男なら、彼女がいるんでしょうと続くのには笑みを浮かべて、いやいやいや、と首を振る。寒いから、おばさんも、気をつけて、と声を張って別れ、帰宅。カレーを作ったと言う。また、TさんとKさん(Sさん宅から下って行ったところの人らしい)が来て、色々と喋っていったと言う。買ってきた荷物を冷蔵庫に収めてから下階へ。FISHMANS "チャンス"をリピートさせながらジャージに着替え、脱いだ服を洗面所へ持って行く。戻ってきて、買ってきたポテトチップスを食いながら、借りてきたCDをインポート。あいだはずっと"チャンス"が掛かっている。終えると緑茶を用意してきて、Blue Note All-Stars『Our Point Of View』に音楽を切り替え、日記を書き足しはじめる。ここまで記して五時直前。『Our Point Of View』は結構な演奏。
 ムージル「テルレスの惑乱」を読み進める。七時半過ぎまで。BGMは今日借りてきたSarah Vaughan『Crazy And Mixed Up』にCarmen McRae『After Glow』。Vaughanのアルバムは世評通りの名盤だった。冒頭の"I Didn't Know What Time It Was"をちょっと聞いただけでもそれが予感される。McRaeのほうも悪くはない。読書、テルレスは言語に還元できない事物の真相のようなもの――例えばそれを「謎」とか「超越」とか言ってみたいが、言語に還元できないのだからそれは適当ではないのだろう――ただ「何か」と名指すことしかできないようなものの実在を予感し、それに惹かれ、求めている。それは彼にとって、思春期の性的欲望に密接に関連しているらしい。その性的衝動の対象となるのがバジーニである。
 上階へ。台所にいる父親におかえりと挨拶。食事、カレー、白菜や人参などの上に豚肉の乗ったサラダ、山芋のサラダ、そして雪花菜に栗きんとんの余り。食事を取りながら、新聞から佐々木毅と落合陽一の対談を読む。テレビにはほとんど目を向けなかったので特段の印象はない。食後、湯浴みへ。入る前にまず洗面所で髭を剃った。湯に浸かると身体はやはり痒いのだが、それでも段々ましになっているような気がしないでもない。出てくると母親が、山梨から貰ってきたオレンジジュース(先日の会食の余りだ)を飲みなと言う。特に飲みたくはなかったのだが、母親についでやり、こちらもコップに半分ほど注いで飲む。それから緑茶を用意して自室へ。ポテトチップスを食いながら自分のブログを読み返す。その後、ふたたびムージル。BGMはQueen『A Night At The Opera』小沢健二『犬は吠えるがキャラバンは進む』松本茜『Playing N.Y.』。最後の作は古き良き時代の、という言葉を思わせるジャズピアノという感じで、プレイは軽快でスウィンギーで良質である。Joe Farnsworthだったと思うが、ドラムスが軽く、小気味よく、Shelly Mannを連想させる。立ったり座ったりしながら文字を追う。どちらの姿勢であれ重要なのは、身体をなるべく動かさずに静止させることである。「テルレスの惑乱」には「沈黙」という語が頻出する――一つには通常の意味で使われ、もう一つには言語に還元不可能な「何か」を隠している事物の様相を指す語として使われる。今まで読んだところまで(もう最終盤だが)で、三三箇所出てきている。
 ・「彼がその中に入って行き視線とともに奥へ奥へと昇りつめて行けば行くほど、その青い輝く天の底はますます深く後退していった」(72)→「(……)それらのものは決して完全には言葉や思想にはなり切らないように思われた。出来事と彼の自我、いや、彼自身の感情とそれらの感情の理解を渇望する、いわば内奥の自我の間には、いつも境界線が引かれ、その線は彼がそれに近づけば近づくほど、まるで地平線のように彼の欲求の前に後退した」(28)――無限の観念と、「感情(感覚)」の相同性。
 ・「そのとき彼を苦しめたのは言葉の無力であり、言葉は詰まるところ感受された物を表現する偶然の口実でしかないという中途半端な意識であった」(76)→「彼には、それらのものが手に取れそうなほど分かりやすく見えたが、しかし、それらのものは決して完全には言葉や思想にはなり切らないように思われた」(28)→「彼はさまざまな人間を今まで見たこともなければ感じたこともないような姿で見た。(……)しかし、彼らはまるで踏み越えることのできない敷居のところで立ち止まるかのように、彼らを我がものにしようと言葉を探しはじめるや退いてしまうのであった」(64)→「なにかを言い当てなければならない気がしているのだが、しかし言い当てられない」(83)
 ・「そのときまたもや欲望が一段と強まった。それは彼を坐っているところから引きずり下ろし――跪かせ床に倒さんばかりであった」(81)→「今や現実にテルレスの中に激しい興奮が生じ、彼は自分を引き倒そうとする目眩から身を守るためにかたわらの梁にしがみつかねばならなかった」「テルレスは、自分が一種の性的興奮状態にいることに気づいていぶかしく思った」(82)→「この光の溜まりの中を転げ廻り――四つん這いになってあの埃っぽい片隅の真近にまで這って行きたいという欲求(……)そうすればまるでそのなにかを言い当てられるかも知れないような気持になるのだ」(83)――性と「超越」の結びつき? →「あたかも彼をその爪で掴み、その眼光で引き裂くような身の毛もよだつ獣じみた性の衝動」「今彼は、眼前に燃えさかる網しか感じなかった。それは言葉にはならなかったし、また言葉で言えるほど激しいものではない」(19)
 ・「バジーニの姿は信じ難いほど小さく撓められた(……)」(105)→「そのとき……遠くの端の方から……二人の小さなよろめく人影が――机の上を横切って近付いた。それは明らかに彼の両親であった」(98)→「しかし次の瞬間にはバジーニは姿を消し、やがて小さなごく小さな姿になって、(……)深いとてつもなく深い背景を前にきらきらと光を放った」(61)
 ・「肉体の影響力がバジーニから発散しているように思われた。いわば、女の傍らで寝ていていつでも掛け布を剝ぎ取れるという刺激。(……)若い夫婦をしばしばその性の欲求をはるかに越えた耽溺へと駆り立てるもの(……)」「性の衝動は弱くもなりまた強くもなった」(109)→「しかし今日は始めから、起き上がって向こうのバジーニのところへ行きたいという性的な欲望しかなかった」(112)
 テルレスは青空を見て「無限」の観念を実体的に理解・体験しているが、彼が事物の裏に感知する「何か」もそれと類同的なものではないのだろうか。すべての事物の背後には「無限」が隠されている――これはこちらの「信仰」、すべての瞬間・事物は書き記すに値するという原理的な幻想とも関わり合うだろう。我々がそれを認識できなくとも、事物の内に無限の差異があるからこそ、物を書くことができる。
 理屈は良くわからないものの、テルレスは性の衝動によってその「何か」に到達できると予感しているようだ。性と関連して「超越」のようなものに到るという命題を考えた時に思い出すのは、浅田彰メイプルソープについての講演で語っていたことで、ある種のゲイのコミュニティでは究極的なフィストファックとして、肛門から直腸まで腕の全体を突っ込むことが行われているのだと。それは死ぬこともあり得るほど危険な行為で、快楽の彼岸に達そうとするそのような行為は、ほとんど宗教的な儀式のようになるらしい。
 あとは「沈黙」の語の使用箇所一覧を作ろうと思うが、現在もう二五時の遅きに到っているので、これは明日以降、篇を最後まで読み終えてからで良いだろう。読書は零時過ぎまで続け、川本真琴 "タイムマシーン"をリピートさせながら日記を書き足した。
 一時過ぎ。ベッドに移ってふたたび読書。二時まで読み、「テルレスの惑乱」を読了してから就床。相変わらず眠気はないのだが、右を向き、腕を組みながら静止しているうちに眠れて、入眠には苦労しなかったようだ。
 ・「ある発展が完結した。魂が若木のように新しい年輪を一つ刻んだのだ――このまだ言葉にならない強烈な感情が、これまでに生じたすべての過ちを許した」(154)→「くぐり抜けねばならなかった精神の発展過程の終着点からほんの一歩のところに彼は到達していたが、その一歩が底知れぬ深淵のように彼を恐れさせた」(155)
 ・「事物の持つ第二の生命、秘密の、人に顧みられることのない生命(……)生きているのは、これらの事物じゃありません(……)そうではなくてぼくの中に、これらすべてのものを知性の目では見ない第二の生命があったのです」(161)――最終盤に到って、それまで「事物」のほうに託されていた「何か」が、テルレスの内にあるものとして、また「第二の生命」という語でもって指し示される。「知性の目では見ない」のだったら、どのようにして見るのか?(直観ということなのか? ムージルは「直観」という語は多分一度も使っていなかったように思うが)
 ほか、以下の記述が印象的だった。「思想というものは(……)もはや思考でもなく、もはや論理的でもないあるものがそれにつけ加わるその瞬間に初めて生命を得る(……)」。言うまでもなく言語とは形式論理に過ぎず、この世界の実相とはほとんど何の関係もないくらいに(というのは言い過ぎか)異なっている。その不完全な形式論理の網を用いて、いかに世界の動向を捉えるかというのが作家・文学者・哲学者たちが心を砕いてきたところだ。ムージルはそれを最も先鋭的な形でやった作家の一人だということになるのだろう。ここの記述は、一種の神秘主義宣言だろうか?

 そうなのだ。思想には、死んでいる思想と生きている思想がある。日の当たる表面を動く思考、常に因果律の筋道に照らして検証される思考は未だ生きている思考とは言えない。こうした道を歩む思想は、行進する兵士の隊列中の任意の兵のようにどうでもよいものだ。思想というものは――それは随分前にすでに我々の脳裡を掠めたかもしれないが――もはや思考でもなく、もはや論理的でもないあるものがそれにつけ加わるその瞬間に初めて生命を得るのであり、その時我々はその思想の真実に触れるのだ。だが、その真実はあらゆる論証の彼方にあり、あたかもその思想から投じられ、血の漲[みなぎ]る生きた肉体に食い込んだ繋留錨のようなものだ……偉大な認識は、その半分が脳髄の光の圏域で生まれ、他の半分は心の暗い奥底で生じる。そしてその認識とはなかんずく、最先端に思想がほんの一挿しの花のように載っている魂の状態に他ならない。
 (鎌田道生・古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年、160~161; 「テルレスの惑乱」)


・作文
 8:35 - 9:17 = 42分
 10:35 - 11:00 = 25分
 12:59 - 13:18 = 19分
 14:36 - 14:43 = 7分
 16:28 - 16:57 = 29分
 24:24 - 25:07 = 43分
 計: 2時間45分

・読書
 6:50 - 7:35 = 45分
 11:02 - 11:49 = 47分
 11:50 - 12:45 = 55分
 13:19 - 14:43 = 1時間24分
 15:02 - 15:25 = 23分
 17:11 - 19:35 = 2時間24分
 20:55 - 24:05 = 3時間10分
 25:10 - 25:55 = 45分
 計: 10時間33分

  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』: 58 - 165
  • 2016/9/2, Fri.
  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」; 2019-01-02「指先にともした炎元旦の星座が焼けるあのひとはいま」; 2019-01-03「惑星は神の眼球あらためて恥も誇りも地上のくびき」

・睡眠
 1:20 - 6:40 = 5時間20分

・音楽




鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年

 彼は家に手紙を書いた。ほぼ毎日のことだった。彼はこの手紙の中でのみ生きていた。それ以外になにをやっても彼にはすべてが影のようにぼんやりとした意味を失った出来事、時計の文字盤の時刻を示す数字のように関心を引かない通過点にしかすぎないように思われた。しかし、一方手紙を書いているときは、自分の内になにか秀でたもの、なにか他と相入れないおのの存在を感じた。そういうときには、来る日も来る日も冷淡に彼の周囲に押し寄せて来る灰色の感情の海の中から、あたかも素晴らしい陽光と色彩のみなぎる小島のように彼の心の中になにかが浮かび上がった。そして、日中遊んでいるときでも、あるいは授業中でも、(end8)晩になったら手紙を書こうと思いはじめると、彼はまるで自分が眼に見えない鎖に繋いだ黄金の鍵を隠し持っており、誰もが見ていないときにはそれを使って不思議の園の門を開けようとしているかのような気持になった。
 (8~9; 「テルレスの惑乱」)

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 公子との交際は、そこでテルレスにとって微妙な心理学的な楽しみとなった。そのお陰で彼の心の内に一種の人間を知る道が切り開かれた。それはつまり、声の抑揚、物を手にとる時の格好、いやそれどころかその人の沈黙の音色、またある空間に自分を順応させる肉体の姿勢を通して他人を識り楽しむことを彼に教えてくれたのである。要するに、こうした絶えず働いていて捉えにくい、だがそれでこそ初めて精神的・人間的存在であることのできる、本当の完全な在り方に従って人間を知ることであった。そして、そうした在り方は、その核心、つまりは捉えて論じることのできるものの周りをあたかも剝き出しの骸骨を包むように取り巻いているのである。その場合その認識や楽しみは、相手の精神的人格をあらかじめ見通していなければならないのである。
 (11; 「テルレスの惑乱」)

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 テルレスのある種の気分に対する偏愛は魂の発展の最初の兆候であり、それは後には驚嘆の才能となって表われた。つまり彼は、後になっても独自の能力にまさしく支配されるがままになったのである。その場合彼は出来事、人間、事物を、それどころか自分自身をすらしばしば過敏に意識するあまり、解きがたい不可解さの感情、また説明しがたく決して正当化できない同質性の感情を抱かざるを得なかったのである。彼には、それらのものが手に取れそうなほど分かりやすく見えたが、しかし、それらのものは決して完全には言葉や思想にはなり切らないように思われた。出来事と彼の自我、いや、彼自身の感情とそれらの感情の理解を渇望する、いわば内奥の自我の間には、いつも境界線が引かれ、その線は彼がそれに近づけば近づくほど、まるで地平線のように彼の欲求の前に後退した。たしかに、彼が自分の感覚を思考によって正確に把握しようとすればするほど、また、それらの感覚が彼に馴染みのものとなればなるほど、それらは同時に彼にはますます疎遠で不可解なものとなるように思われ、そのためそれらの感覚が彼から逃れて行くようにすらもはや見えず、かえって彼自身がそれから遠ざかって行くように、だがそれでいてそれらに近づいているような思い込みを振り払うことができないように思われた。
 (28; 「テルレスの惑乱」)

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 (……)というのも成長してゆく人間の最初の恋の情熱は、一人の女性への愛ではなくて、すべての女への憎悪だからである。(……)
 (34; 「テルレスの惑乱」)