2019/1/7, Mon.

 まだ部屋の暗い五時台に一度、覚めている。その次に目覚めたのが七時四〇分だった。カーテンを開けると、窓に切り取られた空に雲は一片も見えず、すっきりとした青さに満たされていて、昨日は日中雲が湧いたが今日はまた快晴が戻ってきている。ベッドを抜け、ダウンジャケットを羽織って上階へ行った。母親に挨拶をして、前日の残り物(葱と玉ねぎを混ぜた鶏肉のソテー、玉ねぎと椎茸と卵の味噌汁)で食事を取る。ものを食べながら新聞をめくるが、特段に興味を惹かれる記事は見つからない。味噌汁をおかわりして小鍋に残っていたものを払ってしまい、食べ終えると抗鬱薬を飲んで皿を洗った。そうして、母親と協力して洗濯物を干し、仏壇に供えられた花の水も取り替える。それから緑茶を用意していると、母親が、今日T子さんは「そうは」の手術をするのだと言う。掻爬なんて難しい言葉よく知ってるじゃん、搔き出すってことでしょ、難しい字だよねと笑うと(こちらは多田智満子の詩集でこの語を知った)、書けないけど、だって中絶で、掻爬の手術とかよく言うじゃんと母親。T子さんは第二子が残念ながら腹のなかで亡くなってしまったので、その「御遺体」を取り除く手術をするわけなのだ。そうして緑茶を持って下階に戻り、コンピューターを点けて前日の記事を僅かに書き足し、投稿。読んだなかから気に掛かった箇所は断片的な文言とともに読書ノートに書き記しており、その部分をいちいち写してコメントを付していたので時間が掛かり、文量も二万六〇〇〇字と馬鹿みたいに長くなってしまった――果たしてこんなものを、好んで読んでくれる人がいるのだろうか? しかし読書ノートに細かく記録を付けながらゆっくり読んでいると、いかにも精読しているという感が湧くものだ――だからと言って、そこから大した考察も生まれてはこないのだけれど。ヘッドフォンをつけて音楽を聞きながらここまで日記を綴って、現在は九時過ぎを迎えている。
 上階に行った。洗面所に入って立てかけられていた掃除機を取り出し、動作音のなかでQueen "Crazy Little Thing Called Love"を口ずさみながら、居間から台所から玄関まで埃や卵の欠片を吸い取った。それから玄関を開けて外を見たが、落葉ももうシーズンが終わったか、ほとんど散っていなかったので掃除はせずとも良いだろうと判断した。そうして自室に戻り、ベッドに乗って読書。鎌田道生・古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』から「愛の完成」の続き。まだ低い太陽が顔の左側に光線を送りつけてきて、頁の上にもそれは掛かり、右側の頁が明るむとともにその三分の一ほどまでは左頁の影で覆われる。空にあるのは太陽と青の色だけで、ほかに視線の縁[よすが]となる何の存在も見られない。BGMはChris Potter『Traveling Mercies』。一〇時頃、母親が部屋にやって来て、Yのおばさんが亡くなったと知らせた。九日が通夜、一〇日が告別式だと言う。これで母親は、一〇日に兄夫婦を見送りに成田まで行くはずだったところが、それができなくなったわけだ。お前ももし良かったら、と言うのだが、自分は出なくても良いだろうとこちらは受けた。それほど親[ちか]しい関係だったわけでもないし、息子さんともほとんど会ったこともない。それからしばらくすると今度はベランダに続く窓がとんとんと叩かれるので、鍵を開けて布団を二枚、毛布と薄いものだけ干した。一番外側の掛け布団は身体に掛けておきたかったのだ――そうすれば暖かいし、本を載せて読みやすくもなる。一一時半過ぎまで読み続け、「愛の完成」を読了した。傑作と言うべきだろう。「静かなヴェロニカの誘惑」よりはわかりやすかったが、しかしまだまだこの小説の真価を読み切れていない感じはする。いずれ岩波文庫の新訳で読み返す必要があるだろう。「ヴェロニカ」のほうは全然よくわからなかったのだが、しかしやはりバーナード犬の胸のあたりの描写は素晴らしかった。「愛の完成」のあと、そのまま『三人の女』の「グリージャ」にも入っていると母親が来て、唐揚げを揚げてくれと言う。すぐに了承して上階へ行き、台所に入った。調理台の上には既にボウルのなかに切り分けられた鶏肉が入れられ、味付けがなされていた。そこに天ぷら粉を足し、水を少量入れて混ぜ、古い油の残っていたフライパンのほうには梅干しを入れて熱し、毒気を抜く。ほか、エリンギも切って茸のほうから揚げはじめた。ラジカセで『ボヘミアン・ラプソディ』のサウンド・トラックを流し、Queenの曲を口ずさみながら進める。終わった頃には米もちょうど炊けて、揚げ物が温かいまますぐに食事にすることができた。ほか、里芋の煮物、大根とトマトのサラダ、ピザパン、前日に買ってこられた焼き鳥。Y家について母親と話しながら食事を取り(息子さんのお嫁さんが、義母が死んだと言うのにその片付けをまったく手伝おうとしないらしかった)、皿を洗って、下階に戻るとキーボードに触れはじめた。ちょっと書き足してから緑茶をつぎに行く。すると母親が、昨日T子さんから貰った菓子を食べるかと言うので、Jules Destrooperのビスケットを三枚貰って自室に帰った。そうしてここまで書き足して一二時五〇分。図書館に出かけようかと思っている。
 風呂を洗うのを忘れていたので洗いに行った。それから自室に戻ってくると、日記の読み返しを行った。まず一年前、二〇一八年一月七日。紙のノートに取った断片的なメモを写したなかに、「日記("水星"反復されて集中できない)」とある。頭のなかの自生音楽の程度が甚だしく、気を逸らされていたようだ。自生音楽は今もあり、折に触れて自分の脳内では音楽が自然に想起されているのだが(自分の頭というのは、音楽が鳴っているかそうでなければほとんど常に何らかの独り言=言語が湧いているか、そのどちらかである)、以前のようにそれに恐怖を覚えるとかいうことはなくなって、生活の一部として受け入れている。
 その次に、二〇一六年八月三〇日。『失われた時を求めて』を読んでいる。一つ素晴らしいと言って日記内に引用している部分があって、読み返してみてもやはり良かったのでここにも改めて引いておく。

 この日写したなかにはとりわけ素晴らしいと思われる箇所が一つあって、それは例の、スワンがオデットに会いたくてたまらなくなって夜の通りを彷徨い、ついに遭遇できたあとの馬車のなかで、胸元に挿されたカトレアの花を直すことを口実にして彼女を「ものにする」一夜の場面、その接吻の直前の一段落なのだが、スワンは自分が触れてその「肉体を所有」する以前の、最後のオデットの姿を記憶に残しておきたいとその顔をじっと見つめるのである――自分が「まだ接吻すらしていない」恋の相手の「最後の見おさめ」などという発想は、(実際に濃密な恋愛を経験した者からするとこうした心理はあるいはありふれたものなのかもしれないが)自分が恋愛小説を書くとしてもどうあがいても思いつけないものだと思われて、読んだ時にも勇んでページをメモしたし、今回書き抜きながらも再度びっくりさせられた。件の一節は次のようなものである。

 彼はもう一方の手を、オデットの頬に沿って上げていった。彼女は、物憂く重々しい様子で、じっと彼を見つめたが、それはかねがね彼がよく似ていると思っていたフィレンツェの巨匠の描く婦人たちの目つきだった。彼女らの目のように大きく切れ長で、きらきら光っているオデットの瞳は、飛び出さんばかりに瞼の縁まで引き寄せられて、まるで二粒の涙のように今にもこぼれ落ちそうに見えた。フィレンツェの巨匠の婦人たちが、宗教画のなかでも異教の情景のなかでもみなそうやっているように、彼女も首をかしげていた。そして、たぶん彼女のいつもの姿勢なのであろうか、このようなときにふさわしいことを心得ていて、忘れずにそうするように気をつけている姿勢をしながら、まるで目に見えない力でスワンの方に引き寄せられているかのように、自分の顔を抑えるのに必死になっている様子だった。そして、まるで心ならずもといったように、スワンの唇の上にその顔を落とすより早く、スワンの方が彼女の顔を両の手にはさんで、少し自分から離してそれを支えた。彼は、自分の思考が大急ぎでそこに駆けつけて、こんなに長いこと温めてきた夢を認め、その夢の実現に立ち会えるように、その余裕を与えてやりたかったのだ――ちょうど親戚の女性に声をかけて、彼女がとても可愛がっていた子供の晴れの舞台に列席させるように。おそらくまたスワンは、まだ肉体を所有していないオデット、まだ接吻すらしていないオデットの、最後の見おさめにと、あたかも出発の日に永久に別れを告げようとしている眼前の風景を目のなかにしまいこんで持ち去ろうとする人のように、その視線をじっと彼女の顔に注いでいたのだろう。
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へⅡ』集英社、一九九七年、 94~95)

 ほか、次の描写がなかなか良かった。

 頭上広くはスポンジのようにしっとりとした薄灰色の雲が敷かれているのだが、市街上空の一角でそれがほつれて、横に棚引く雲の有り様が露わになり、そのところどころが埋めこまれた電球によって内側からぼんやり照らされているように、茜色と橙色と薄紫色の三方から等しく距離を取ってその中心に収まる微妙な色合いで染まっているのだった。

 

 三時前まで二時間四〇分ほど、何物にも――眠気にさえ――妨げられることなくひたすら文字を追った。両親は既に寝付いており、時折り何かに苦しむように発される父親の呻きもこの日は聞こえず、家のなかには何の身動ぎの気配もなく空気が停滞していて、外からは青みがかった硝子色の虫の音が響いているが、それが海の表面を滑って行き来する漣のように間断なく、また立つ種の声もほとんど定期的なまでに一定の調子で立ちあがるため、一つのシーケンスを切り貼りしてループさせたコンピューターミュージックのように、延々と同じものが反復されているように聞こえて、動き進んでいるものと言えば目前に文字として迫る本のなかの世界だけのように思われるのだった。まるで現実は凍りついて時間が流れていないかのようなのだが、実際には勿論時計の針が一刻も休まない勤勉さでその歩みを進めており、この夜に囚われているあいだに本の終わりまで貪り読みたいというこちらの望みなどお構いなしに、朝と夜の分水嶺めいた午前三時の一点を越えようとするのだ。

 また、「読書中もそうだったが意識が冴えきっており、そのために頭が痛いかのようで、瞑想をして脳内を回したためか横になってからも思考が高速で回転して止まらなかった。その空転は何ら有効な考えには辿り着かずに、ただ無秩序に次々と、意味を構成しない言葉や声やイメージを増幅させ、氾濫させていく。それを前にしていると永久に眠くならないかのようで、視界から溢れ出るようにして押し迫ってくるそれらの圧迫感とまともに向かい合うのが嫌がられて、こんな状態を何度も続けたら自分は狂うのではないか、そのうちに統合失調症にでもなるのではないかと不安になったが、狂ったところで今度はその狂いを書き記すだけだと虚勢を張って、窓外の虫の声に意識を逸らした」とある。ここに書かれてある通り、それから一年と半年ののちには統合失調症的な度を越した自生思考に襲われるわけで、一種の予言のようだ。これを見ても、自分の頭は元々自生思考的だったと言うか、病前にあっても常に脳内で独り言を言っているような状態だったのがわかる。昨年初頭の変調はしかし、その動きが激しくなりすぎたことと、それに恐怖を覚えるようになったことが病的だったのだ。
 日記の読み返しを終えると時刻は一時半前、出かけることにした。Queen "Staying Power"を流して服を着替える。『Hot Space』Queenの作品のなかでは一種問題作と言うか、らしくないとしてあまり評判が良くないのではないかと思うが、ディスコ風味のこの曲はなかなか佳曲ではないか。間奏の勢いなど結構なものだ。服は濃紺と灰色のシャツに下は星模様が散ったベージュのズボン、そうしてモッズコートを羽織った。面倒だったので歯は磨かず、リュックサックに荷物を入れ、寝癖を直すのも面倒だったので帽子を被って上階に行くと、テレビには安藤奈津が出演しており、タブレットで彼女の情報を検索したらしい母親が、安藤奈津も一三年間、鬱病だったんだってと言う。ほか、犬養毅の「妾」(古めかしいような言葉だ)の娘なのだとか何とか。
 出発。道の上には日向が広く掛かっている。坂。正面から寄せてくる風が、清涼と言うにはやや冷たい。坂途中の家は今日も布団を干していた。頭の内には、先ほど流した"Staying Power"が流れている。街道前の梅の木が、色付きの豆電球のようにピンク色の花をつけていた。通りを渡ると、車の途切れた隙の静けさのなかに、竹の葉がさらさらと風に撫でられる音が忍び込む。街道を歩いていても正面から風が走ったが、いくらか歩いて身体が温まったのか、ここでは乾いて軽く冷たくもなく、清涼そのものだった。空は未だ雲の一つもその存在を許さない快晴、目から飲めるような清澄な青さがどこまでも広がっている。裏道に入る。後方からやってくる自転車の、タイヤの回転する音に耳を張りながら、病前のような集中力、まさしくムージルでもないけれど異界を幻視しようとするかのような、事物の裏にあるものを見通そうとするような、何かの訪れを深々と待ち受けるかのような集中力はやはりもうないなと見た。瞑想によって時にそうした集中力を獲得していたのだが、上の引用からも推測されるように、そのような精神の働きを鍛えすぎたことによって変調を招いたのではないかという気がしないでもない。何事もほどほどというものだろう。それで言えば今は読み書きへの欲望が以前よりは緩くなって、気負いがなくなった分、また変調以来の身体の変化で何だかあまり疲れなくなったから、かえって怠けることがなく病前よりも多くの時間を読み書きに充てられているようである。裏通りの途中では二箇所で工事をしていた。一箇所は青梅坂に出る前、ここでは工事夫がマンホールの蓋を開けてしゃがみこみ、そのなかを覗き込んでいた。もう一箇所は市民会館跡地の裏、ここでは路上の端が開けられて溝になっており、ショベルカーがそのなかから土を掘り出していた。
 駅。ホームに出て、停まっている電車の二号車、三人掛けに乗る。河辺まで二駅、数分しかないが、本を取り出して「グリージャ」を読み進める。発車してしばらくすると、線路が曲がって電車の向きが変わるのに応じて、床の上の光の矩形が緩慢に、忍び足のように滑って移動し、頁の上にも光と影が斜めに流れて行く。河辺で降車、便所に寄って放尿してから改札を抜け、図書館へ。カウンターでCD三枚を返却。そうしてCD棚へ。新着にめぼしいものはない。ジャズの区画を見ると、シーネ・エイがあって、バックの面子がJoey BaronにScott Colleyと豪華である。これは少々聞いてみたい気がする。ほか、借りるとしたら大西順子エスペランサ・スポルディングあたりだが、カードを忘れたのでこの日は見送った。そうして上階へ。新着図書、笙野頼子の作品や、『ユダヤ人の歴史』というものがある。それらを確認したのち書架を通って窓際に出たが、席は空いていない。フロアを辿り、テラス側に出てみてもわりあいに混んでいるものの、一応空いているところがあったので入った。荷物を置き、ストールを首から取り、コートも脱いでコンピューターを用意する。ソフトの起動を待つわずかなあいだも本に目を落とし、Evernoteが用意されると日記を書き出した。BGMはAaron Parks Trio『Alive In Japan』。ここまで書き足して、三時直前となっている。それでは以下に、先の読書の時に気になった箇所をメモしておこう。

  • ●242~243: 「自分の内には、行為には表わされず、また行為からは何ひとつこうむらぬものがある。言葉の領分よりも深いところにあるので、おのれを弁明するすべも知らぬ何か、それを理解するためには、まずそれを愛さなくてはならない、それがおのれを愛するように、それを愛さなくてはならない何か、ただ夫とだけ分かちあっているそんな何かが自分の内にあることを、彼女はこうした沈黙を守っていると、いよいよ強く感じた。それは内なる合一だった」――夫との「内なる合一」。彼女の内には明言できない「何か」があり、それは表面には顕れず、表面的な事柄からは何の影響も受けない。言語はそれに届かない。
  • ●245: 「目の前に立つこの男は醜いまでに凡庸な精神の持ち主だという意識が、彼女の心から一度に消えた。はるか遠い野面に立つ心地に彼女はなった。まわりにはさまざまな音が宙に立ち、空には雲が静かに浮かんで、それぞれおのれの場所と瞬間に耽りこんでいる。彼女ももはやそのような雲、そのような音、ただ渡り行くもの、鳴り響くものにほかならない……。獣たちの恋を彼女は理解したと思った。雲や物音の恋を」――男の「凡庸」さの消失。しかし匿名性は変わらない。この参事官はほとんど個性を持たない人物で(外見の情報は「髭」と「輝き出た片方の目」のみだし、人格的な部分ではいくつかの発言と、「如才のない受け答え」をするということくらいだ――「如才のない受け答え」などというのはしかもむしろ、没個性の証ではないのか?)、クラウディネは彼が彼であるそのこと故に彼に身を任せるのではない。最終盤では、参事官自身を愛しているのではなく、「参事官さんのそばにいること」、その「事実」、「偶然」を愛している、と彼女は述べている。
  • ●245: 「この瞬間、彼女の愛は途方もない冒険となりつつあるのか、それともすでに色あせて、かわりに官能が物見高い窓のようにひらいていくのか、彼女にはわからなかった」――「愛」が究極的な夫との「合一」を達成するのか、それともそれは単なる「官能」、性欲に堕してしまうのか。
  • ●245: 「口にする言葉がすべて袋か網かの中にとらえられていく想像をいだいた。遠い人間たちの言葉の間にあって、自分自身の言葉こそ、彼女には遠く感じられた」――離人感? 自己疎外感。
  • ●245: 「彼女はまたしても感じた。自分のことで、口で語れる、言葉で説明できることが、それが大事なのではなくて、あらゆる釈明はまったく違った何かの中に、ひとつの微笑、ひとつの沈黙、内なる声への傾聴の中にあるのだ、と」――「内側」への志向。「内なる声」を聞くことが、「不実」への釈明になる?
  • ●247: 「そして彼女は、男が眠気をそそる一本調子でしゃべるその間、その髭が上へ下へ、含み声の言葉を食むおぞましい山羊の髭のように、たえまなく動くさましか、もはや見ていなかった」――男の「髭」。
  • ●248: 「まだどこかしらにあの手が、かつがつに補われる温みが、<あなた>という意識があった。そのとき彼女は手を放した。そしてひとつの確信が彼女を受けとめた。いまでもまだお互いに最後の者でありうる。言葉も失ない、信じあうこともなく、それでも互いにひとつになって死ぬほど甘美な軽やかさをそなえた一枚の織物となり、まだ見出されぬ趣味のために織りなされたアラベスクとなり、それぞれひとつの音色となり相手の魂の内にだけひとつの音型を描き、相手の魂が耳を傾けぬところにはどこにも存在せず……」――彼女と「あなた」、夫は「互いに最後の者」となる。また、「音色」のテーマ。「音色」や「音楽」のテーマは諸所に出てきており、それはおそらく「合一」と何らかの関連があるようなのだが、この表現がどのような意味の射程、効果を持っているのか、それはまだ見えて来ていない。
  • ●249: 「この瞬間、彼女は自分の肉体を、おのれの感じ取るすべてを故郷[ふるさと]のように内に匿うこの肉体を、不透明な束縛と感じた。ほかの何よりも親しく彼女をつつみこむこの肉体の自己感覚を、彼女はいきなりひとつの脱れられぬ不実、愛する人から彼女を隔てる不実と感じた」――「肉体」は「束縛」、「不実」である。とすれば「肉体」を放棄し、男に委ね、自己を虚しくすることで「誠実」になることができる?
  • ●249: 「おそらくそのときでも、彼女は愛する人にこの肉体を捧げたいという願いのほかには何ひとつ心になかった。しかしさまざまな精神の価値の根深い揺らぎに戦慄させられて、その願いはあの縁もない男への欲求のごとく彼女をとらえた」――勘所だろう。夫に「肉体を捧げたいという願い」が、しかし、無縁の男に対する「欲求」となってしまう。何故そうなのか? 姦通が「究極の結婚」となるのと同じく、その論理が明晰に見えてこない。「精神の価値の根深い揺らぎ」がその媒介なのだが、これが一体どういうことなのか、よくもわからない。
  • ●249~250: 「まるで参事官の言葉を受けとめたかのように、「あの人はそれをこらえられるかしら……」と。/夫のことを口にしたのは、これが初めてだった。彼女ははっとした。何ひとつとして現実のものとも思えなかったが、しかしいったん口から洩れて生命を得た言葉の、とどめがたい力を、彼女はすでに感じ取った」――「いったん口から洩れて生命を得た言葉の、とどめがたい力」。素晴らしい一節、素晴らしい展開ぶり。三宅誰男『亜人』にも似たような展開の仕方がなかったか? /離人感? 非現実感。
  • ●250: 「暖かく輝く球の中へ這いこむように、夫へのあの感情の中へ這いもどることもできた」――「球体」のテーマ。
  • ●251: 「あのとき、ある思いがひそかに彼女の心をおそったものだった。どこかしら、この人間たちのあいだに、ひとりの人間が暮らしている、自分にはふさわしくない人間が、あかの他人が。しかし自分はこの人間にふさわしい女にもなれたのかもしれないのだ。もしもそうなっていたとしたら、今日ある<私>については、何ひとつ知らずにいたはずだ」――可能性感覚。おそらく「合一」と並んでこの小説の中心的なテーマ。当然「合一」と関わりがあるはずだが、どのような論理でそれらが繋がっているのか、自分にはまだよくわからない。
  • ●252~253: 「目がベッドの前の、大勢の足に踏みにじられてすりきれた小さな敷物の上にとまった。彼女はいきなり、それらの足の皮膚から染みだしてはまた見も知らぬ人間たちの心の中へ、生家のにおいのように親しく頼もしく、染みこむにおいのことを思った。それは独特な、ふた色の光に顫える想像だった。けうとくて吐気を催させたかと思うと、さからいがたく惹きつけ、まるでこれらすべての人間たちの自愛が彼女の内へ流れこみ、そして彼女には自分のものとして、もはや傍観する目しかのこらなくなったかのような」――クラウディネの過敏さ。「大勢の足」、人々の単なる痕跡(「におい」)に、彼女は作用されている。「吐気」と「惹きつけ」られる心の同時性(結びの部分、「あらゆる嫌悪にもかかわらず快楽に満たされてくる」のと軌を一にしている)。「自愛が彼女の内へ流れこみ」はよくわからないが、それによって彼女は自己を虚しくし、「傍観する目」と化す。
  • ●253: 「膝をついたままゆっくりと彼女は身を起した。今ごろはもう現実のこととなっていたかもしれない、という不可解さへ目を凝らし、自力によらずに、ただ偶然から危機を脱れた者の身ぶるいを覚えた」――可能性感覚。その「不可解さ」、馴染めなさ。
  • ●255: 「(……)彼女は感じた。あたしはあなたを苦しめている、と。しかしまた奇妙な感情をいだいた。あたしのしていることは何もかも、あなたもしているのだ、と」→●「テルレス」40: 「彼はあらゆるものを捨て去り両親のイメージを裏切ったのだ。そして今それによって自分がひどく孤独なことをしたのですらなく、まったくありふれたことをしたに過ぎないのだということを認めざるを得なかった。彼は恥ずかしく思った。だがまたもや別の考えが浮かんだ。両親も同じことをしているのだ! 彼らもお前を裏切っているんだ! お前には秘密の共演者がいるんだ!」――「裏切り」、「苦しめ」ることの相互性。
  • ●258: 「それでも肉体は彼女をつつんで、森の中で追われる獣のようにおののいた」――「獣」のテーマ。
  • ●258: 「いいえ、あたしは参事官さんのそばにいることを愛しているのです。参事官さんのそばにいるというこの事実、この偶然を。エスキモーたちのそばにだって坐っていられるかもしれませんわ。毛皮のズボンをはいて。垂れ下がった乳房をして。それを快いと感じる」――ここも勘所だと思うのだが、参事官自身ではなく、「参事官さんのそばにいることを愛している」とはどういうことなのか、いまいち判然としない。「幸福」が「偶然にすぎない」という意識、「遠く思いもおよばぬ生き方」があるという意識、つまりは可能性感覚と関わっているとは思うのだが、その理路が見えてこない。
  • ●258~259: 「……狭い峠道を越えていくときに似てるわ。獣も、人間も、花も、何もかも峠ひとつ越すと変ってしまう。自分自身もすっかり違ってしまう。そして首をかしげるんだわ、もしも初めからここに暮らしていたとしたら、あたしはこちらをどう思うことかしら、あちらをどう感じることかしらって。(……)でも、あたしはいよいよ色あせていくのでしょうね、人間たちは死んでいく、いいえ、しぼんでいくのでしょうね、樹木も鳥も獣たちも」――可能性感覚。および「獣」のテーマ。

 以上である。上記を写し終えたあとは、書抜きをしたのち、四時から読書に入った。『三人の女』から「グリージャ」である。ほとんど一頁ごとにノートにメモを取りながら読んでいくのでなかなか進まない。背後の席は高校生が座っているようで、何度か仲間が席のところにやって来てこちらの近くに立っていたが、イヤフォンで耳を塞いでいたおかげで声や物音はまったく聞こえなかったし、視線をそちらに上げることもせずに本を読み続けた。BGMとしてSarah Vaughanを掛けていたが、じきにコンピューターのバッテリーが少なくなって自動的に動作を停めたので、それからはイヤフォンを外して無言の静けさのなかで文字を追った。そうして六時に到って読書を切りあげ、帰ることにした。コンピューターを仕舞い、席を立ってコートやストールを身につける。リュックサックを背負ってそうしてフランス文学の区画に入り、棚から蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』を手に取った。これから四月までニートをやっているあいだに、『熱狂家たち』が入っている第八巻、日記やエッセイが収録された第九巻、そうして『特性のない男』全六巻と、『ムージル著作集』をすべて読み通すつもりでいるのだが、その前に蓮實重彦のテクスト読解の手付きやその見識などを――勿論自分がその真似事でさえもできるとは思っていないが――学んでおこうと思ったのだ。それで、八〇〇頁超の分厚い書籍を片手に下階に下りて、カウンターに近寄ると、職員がこんばんはと掛けてきたのでこちらも挨拶をした。すみません、これを借りたいんですが、カードを忘れてしまったんですけれど。お手数ですが、と個人情報記入の紙を差し出されたのに、番号がわかれば良いんですよねと聞いて、覚えていますのでと自分のカード番号を告げた。それで検索してもらい、こちらに向けられたコンピューターに映っている名前が自分のものであることを確認して、はい、僕ですと答えて手続きをしてもらった。そうして退館。
 河辺TOKYUへ。通り過ぎざまに灰色の籠を取り、最初に三つ一セットの豆腐を二セット入れる。そのほか、油、ドレッシング、飲むヨーグルト、豚肉などを集めていく。卵だけどこにあるのかしばらくわからなくてフロアをうろついたが、端、壁際のハムやソーセージが並んでいる区画に一緒に置いてあった。そうして会計へ。以下、購入したものの一覧。

1341 キャノーラ油1000g  \298
1511 スリオロシオニオンドレ380  \448
1511 シーザーサラダドレ380  \448
3274 ブルガリアノムプレーン
    2コ × 単138  \276
自動割引4  20%
    2コ × 単-28  -56
421 国産豚切り落し  \435
3252 JA 彩姫  \198
3201 絹美人 
    2コ × 単78  \156
小計  \2203
外税  \176
合計  \2379

 整理台で買った品物をビニール袋に収め、退館する。高架歩廊。風がさすがに肌に冷たい。駅に入り、改札から湧き出てくる人々の脇を通り抜け、エスカレーターを下る。ホームの先まで行き、ビニール袋をベンチに置いた。そうして本を取り出し、立ったまま読み出す。風は吹かず、首もともストールで守られてさほど寒いという感じはしなかった。電車が来ると乗り、同様に袋を座席に置いて、立ち尽くしたまま片手で手摺りに掴まって読書を続けるのは、リュックサックを下ろしたり背負なおしたりするのが面倒だからである。青梅に着くと降車。ちょうど奥多摩行きが来ていたが、四分ほどあったので本を持って急がずホームを歩く。最後尾の車両に乗車。車両内を歩いていると、W.Hが座席に座っている。塾で働いていた時の生徒である。相手のちょうど前で立ち止まるとこちらに気づいて、おつかれさまですと無声音で言ってくるので、会釈を返した。そこを過ぎ、扉際に立ってムージルを読み進める。最寄りに着くと、Wくんがこちらを窺っている気配を視界の端に感知したので、顔をふっと右に向けて、右手を上げながらドアの開閉ボタンを押した。降りるとベンチにふたたび荷物を乗せ、本を仕舞って家路を辿る。木の間の坂を下って行く。平らな道に出て見上げれば、乱れなく星の映って快晴の宵だった。
 帰宅。自室に帰り、コートを脱いで廊下に吊るしておく。そうして食事を取りに上階へ。エリンギとコーンなどの炒め物・大根の味噌汁・里芋の煮物・大根のサラダ・米である。夕刊を読みながら、炒め物をおかずに米を食い、食べ終わるとオレンジジュースの「なっちゃん」を飲んだ。コップを濯いでさらに水を汲み、薬を服用する。それから食器を洗って、入浴へ。例によって身体を搔きながら湯に浸かり、FISHMANS "いかれたBABY"のメロディを口笛で響かせる。出てくると短髪を櫛付きのドライヤーで乾かし、洗面所を抜けて自室に帰った。急須と湯呑みを持って上がり、緑茶を用意する。茶菓子として、Jules Destrooperのビスケット一枚と、Butter Butlerのフィナンシェを一つ、ポケットに入れて戻った。それらを食べたあと、茶を飲みながら日記を書き足して、現在九時過ぎ。scope『野中の薔薇』を流している。
 それでは例によって、「グリージャ」を読んでいて気に掛かった部分を写しておこう。

  • ●264: 「ホモは旅館ではなくて、実は自分でもどうしてかよくわからなかったのだが、ホフィンゴットの知りあいのあるイタリア人の家にとまっていた」――理由不明その一。
  • ●265: 「赤や青や淡紅の小さな家が、木々の中にうもれながらそれでもあざやかに眼にうつり、ばらばらに置かれたさいころのように、自分でもわからない独特の形式法則を、あからさまに人前にさらけだしていた」――「自分でもわからない」。
  • ●267: 「ここでは(……)どんな人間であろうと、さまざまな人生の問題についてどう考えていようと、ともかく愛をわがものとすることができたのだ(……)愛は伝令使のように先駆けし、いたるところで清潔な来客用ベッドのようにしつらえられ、ひとの視線はそのまま歓迎の贈りものだった」――「村」は「愛」の領域である。
  • ●267: 「だが、とある野のほとりを通りすぎる時、ひとりの老いた農夫がそこにたたずんで、現身[うつせみ]の死神のように大鎌をひらめかすことも時にはあったのだ」――「愛」の村に差し込む一抹の不吉さ。
  • ●267: 「この谷のはずれには奇妙なひとびとが住んでいた」→●265: 「村のまわりの風景も尋常一様のものではなかった」→●265: 「谷間へはいってみると、奇妙な村があった」――「村」や「ひとびと」の「奇妙」さ。
  • ●269: 「女たち(……)首のまわりに巻きつけたり、胸の上で十字形に結びあわせたりしている布は、近代工場で生産される規格判の安物のキャラコだった。しかしその色合い、ないし色の配合には、どこかしら、数世紀をへだてた遠い祖先をしのばせるものがあった。おおよその農民の服装よりもそれははるかに古かった」――相反する事柄の同時共存。「近代工場」の「キャラコ」を身に着けていながら、同時に「数世紀」前の「祖先」を思わせる。
  • ●269: 「彼らはまるで日本の女たちのように歩くのだった。(……)彼らは道ばたに腰をおろすのではなくて、道路の地べたにそのまますわりこみ、黒人のように立てひざをした。(……)驢馬にのって山をのぼっていく時には、横ずわりはせずに、男同様、太腿がすれるのもいっこう平気で、荷鞍のかたい木のかどの上にまたがり、またしても無作法に脚をひきあげ(……)」――何故か「女たち」に対して「彼ら」が使われている。また、「女たち」の男勝り、「無作法」さ、無骨さ。
  • ●269: 「しかしまた彼らは、ひとを戸惑いさせるほどこだわりのないやさしさと愛嬌をふりまくこともあった。(……)まるで大公妃のようにおおらかに、「どうぞおはいり」といったり、(……)突然いとも慇懃に、しかもつつしみぶかげに、「コートをおあずかりさせていただけません?」などということもできたのだ」――女たちは男勝りで「無作法」でありながら同時に、女らしい「やさしさと愛嬌」を備えており、「慇懃に」、「つつしみぶかげに」振る舞う。相反する事柄の同時共存。
  • ●269: 「ドクター・ホモがある時かわいい十四歳の少女にむかって、「おいで、干し草の中へ」といった、――それはただ干し草が彼にとって、動物が餌を見るように、突然この上なく自然なものに思われたからだったのだが」――「干し草」が「突然」、「自然なものに思われ」る。唐突な事物の性質の変容。
  • ●270: 「これまでのいかなる生活よりも明るく強烈な香りをはなつこの生活は、もはや現実ではなく、虚空にただようひとつのたわむれではないのか、そんな思いを彼はもうふり捨てることができなかった」――「愛」の「村」での生活は、「これまでのいかなる生活よりも明るく」、「現実」とは思えない。
  • ●270~271: 「白、紫、緑、茶、さまざまな色に野はよそおいをこらしていた。彼は幽霊ではなかった。やわらかな緑の髪を生いしげらせた、落葉松[からまつ]の老樹の童話めいた森が、エメラルドの色した斜面をおおっていた。苔の下には紫色や白色の水晶が息づいているかもしれなかった」――「彼は幽霊ではなかった」の一文が唐突で、この文脈での意味が判然とせず、不思議なものである。これがないほうがむしろ描写はスムーズに繋がるはずなのだ。
  • ●271: 「この自然界のおびただしい秘密はたがいに結びあいながら、ひとつの全体を形づくっていた。あわい緋色の花が咲いていたが、これはほかのどの男の世界にもなく、ただ彼の世界にだけ咲いていたのだった。紛うかたない奇蹟として、神がそのように取りはからわれたのだった。秘められた肉体の一点があって、死を招こうというのでないならばなんぴともそれを見ることは許されなかったが、ただひとりだけには許されていたのだ」――「あわい緋色の花」が実体的なものなのか、幻覚のようなものなのか、何かの比喩なのか判然としないが、ともかくそのまま読むと、それはほかの男には見えず、彼だけに見ることが「許されてい」る。言わば彼は神から選ばれて[﹅4]いる。
  • ●271: 「彼はおのれの手のうちに愛するものの手を感じ、愛するものの声を耳にした。肉体のありとある部分が、今はじめて外界の接触を受けたようだった。自分が、誰か別人の肉体によって構成された形態のような気がした。しかし彼はすでにおのが生命を投げ捨てていたのだ。愛するものの前で彼の心はかぎりなくつつましく、乞食のように貧しくなっていた。誓いと涙がまさに魂の中からあふれ出ようとしていた。だが、それにもかかわらず、彼がもう帰らないということは確実だった」――「愛するもの」とは子供のことだろうか? 離れながらの「合一」? 彼は、離れていながら、「愛するものの前」にいる。そして「それにもかかわらず」(愛するものの前にいられるなら、それが故に、が普通ではないかと思うのだが)、彼は「帰らない」。
  • ●271: 「彼の昂奮は森をめぐって一面に花咲きみだれる野の姿と、奇妙な具合に結びついていた。未来へのあこがれにもかかわらず、このアネモネや勿忘草や蘭やりんどうや、みごとな緑褐色のすかんぽのあいだに、いつかは倒れ伏して死ぬだろうという予感も、心にまつわりついてはなれなかった」――宗教的体験と「野」、自然の結びつき。
  • ●271~272: 「今までずっと彼は、現実の中に生きてきたつもりだった。だが、ひとりの人間が彼にとって、ほかのすべての人間とは別種の存在だということ、これほど非現実的なことがあったろうか? 数知れぬ肉体の中のひとつに、彼の内奥の本質が、ほとんどわれとわが肉体に対すると同じほど依存しているということ、その肉体の飢えや疲労、聴覚視覚が彼自身のそれと密接につながりあっているということ、これほど非現実的なことがあったろうか?」――ただ「ひとり」、「別種」の人間、そうした存在があること=「非現実的」。子供との相互依存、「合一」?
  • ●272: 「はじめて彼は、一切の疑いをまぬかれた天上の秘蹟として、愛を経験した。彼の生活をこの孤独へみちびいた神の摂理をまざまざと思い知りながら、彼は、黄金と宝石を秘めた足もとの地面を、もはや現世の宝庫ではなく、彼のために特別にとりはからわれた魔法の世界のように感じていた」――彼は「神の摂理」によって「天上」の「愛を経験」する。また、「足もとの地面」が「魔法の世界のように」なった。超現実感および天上性。
  • ●272~274: ここの一段落は特殊である。と言うのも、一つの段落のうちに複数の時間軸――少なくとも、六つ――が改行を挟まれずに詰まっているのだ。1. 「小僧が酒を盗んだ」挿話。2. 「馬がやってきた」挿話。3. 「犬がのこらず徴発された」挿話。4. 「朝の三時半」「山道をたどっていく」と、「牛」が「寝そべっていた」。5. 「男が脚を折って」「はこばれていった」。6. 「岩」の「爆破」を端緒とする「豚」の屠殺の挿話。これら六つのエピソードが、段落を変えず、一気に、ひと繋がりに語られている。しかもそれぞれのエピソードに充てられた文量の配分は不均等で、例えば五番などはたった一文で終わらせられている。また、一番と五番以外には動物が関わっているのも特徴だ。
  • ●273: 「馬たちは(……)いつも、どういう具合か一見無秩序にむらがって谷底へおりていくので、ひそかな黙契をかわした美学上の法則にもとづいて、それがあのセルヴォト山麓の緑や青や淡紅の小さな家々の追憶と、そのまま同じ姿を見せているのではあるまいかと思われるほどだった」――「馬たちは」「どういう具合か」、「無秩序にむらが」る。理由不明。また、「美学上の法則」。→●265: 「赤や青や淡紅の小さな家が、木々の中にうもれながらそれでもあざやかに眼にうつり、ばらばらに置かれたさいころのように、自分でもわからない独特の形式法則を、あからさまに人前にさらけだしていた」
  • ●273: 「月かげを浴びながら三時に出発し、朝の四時半にこの盆地に来かかると、馬たちはいっせいに通りすぎていく人間の方をふりむく(……)朝の三時半にはもうすっかり明るかったが、太陽はまだ見えなかった。山道をたどっていくと、近くの牧場の上で牛どもが(……)寝そべっていた」――上記の二番と四番のエピソードに当たる。ここにはまったく違う時のそれぞれの時間が、具体的な時刻で指し示されている。一つの段落中に、まったく異なる「三時」及び「四時半」と、「三時半」が並べて書き込まれ、共存しているわけである。
  • ●273: 「(……)馬たちはいっせいに通りすぎていく人間の方をふりむく、すると、おぼろな昧爽[まいそう]の光の中で、自分が非常に緩慢な思考の経路にうかんだ、ひとつの思想ででもあるかのような気がするのだった」――まず、「昧爽」の語は初見。夜明け、暁と同義。次に、うまく説明できないのだが、ここで用いられている「自分」が何か不思議な感じがする。語りの位置、位相がそれまでと少しずれているような?
  • ●273: 「どうしてかわからないが、犬どもはすぐいくつかのグループにわかれ、かたく結束を守っていた」――理由不明。
  • ●274: 「茫漠たる高貴な存在の世界を突っきるように、この牛どもの圏内を横断して、さらに高いところからふりかえると、彼らの背骨と後脚と尾で構成された線は、散乱する白い沈黙のト音記号のようだった」――「散乱する白い沈黙のト音記号」。卓抜な比喩。牛とムージルと言えば、磯崎憲一郎『肝心の子供』にも牛の出てくる風景があったことを思い出したので、下に引いておこう。

 思い返してみれば、確かにこの場所に一歩入ったときから、どこか奇妙に大袈裟な感じはあったのだ。野生の白い牛が三頭、野原のほぼ真ん中あたりに、前脚をきちんと折り畳んで寝そべっていた。彼らはブッダたち一行が近寄って来て傍らを通り過ぎようとしてもまったく動じることなく、三頭がそれぞれにどこか遠くの一点を凝視しながら、反芻する口を長い呪文でもつぶやくように、規則的にゆっくりと動かし続けているだけだった。牛の瘦せた背骨と皮のうえには、何匹もの蠅が留まっているのが見えたが、これらの虫でさえもじっと動かず、春の太陽を浴びて、黄金に光り輝いていたのだ。(……)
 (磯崎憲一郎『肝心の子供』河出書房新社、2007年、39)

  • ●275~276: この一段落も不思議である。「ジェラルディン・ファラー」のレコードの挿話と、「蠟引布」の上で死んでいく蝿の挿話が含まれているのだが、そのあいだに有機的な連関はなく――あいだに「いや、情欲ではない、冒険心なのだ、――いや、冒険心でもない、天から落ちてきたナイフ、死の天使、天使の狂気、戦争ではなかったろうか?」という、抽象的な語り手の独語を挟みながら――ただ並列させられているだけのように見える。また段落の終盤に、「ある男が実際に計算したところによると、ロスチャイルド家の全財産をもってしても、月へ行く三等料金を支払うにもたりないそうだ」という発言が差し込まれているが、これもそれを取り囲む蝿の挿話とは何の関係もない。蝿が死んでいくのに注目しているのはホモただ一人で、一座のほかの仲間たちは勝手に喋っているわけで、その点この「関係のなさ」は、そうした場の表現として一抹のリアルさを醸しているように感じないでもない。

 日記を書き足したあとは一〇時半からふたたび読書に入った。ベッドの上でヘッドフォンをつけて、Scott Colley『Empire』を流していた。そうして一時間ほど読み、「グリージャ」は読了した。全篇に渡って不思議なと言うか、奇妙な感触のある短篇だった。いくつかのエピソードは作中でどのような意味・役割を担っているのか、それがよくわからない。一番特殊に思われたのはやはり、二七二から二七四頁の長い、複数の時間が詰め込まれた一段落だろうか。ムージルの手腕を持ってすれば、あそこに書かれていたそれぞれの挿話をもっと整然と並べて上手い文脈を作り出すことなど容易だと思うのだが、何故か不均等になっている。そのあたり、緻密に組み立てられたと言うよりは、勢いで書かれているような気がしないこともないのだが、しかしムージルが勢いだけで書いたりするものだろうか。蝿の挿話の段落も同様だが、あそこはなかなか印象的である。ほか、離れている子供との「合一」のような(ここでは「融和」という言葉が使われていたが)宗教的な体験もあるのだが(天上的な「愛」の自覚)、これもその後の物語中で発展させられず、話はグリージャとの関係に移行していき、子供については(完全にそう明言されてはいないのだが)グリージャよりも愛するものがホモにはある、という形で僅かに触れられるのみである。そもそもこの子供についての情報は乏しく、ただ彼が病気であるということしか語られていない(妻に到っては完全に匿名的な存在だろう)。「合一」というのはムージルの中心的な主題の一つだと思うのだが、それが十分に発展・展開されず、突然の、一つの啓示体験のみで終わっているのも不思議な感じを与える(そしてこの宗教的体験の意味、それとグリージャとの不倫との関係もあまり明らかではない)。書抜きをしたいと思ったのは例の、「散乱する白い沈黙のト音記号」の比喩が含まれた牛の風景。
 一一時半からはしばらくインターネットを覗き、零時二〇分頃就床した。床に就いてから一五分後に一度時計を見たが、それからしばらくして寝付くことができたらしい。三〇分くらいで眠ったのではないか。「グリージャ」の残りの気に掛かった部分については、翌日の日記に記そう。


・作文
 8:29 - 9:04 = 35分
 12:27 - 12:49 = 22分
 14:30 - 15:41 = 1時間11分
 20:16 - 22:09 = 1時間7分
 計: 3時間15分

・読書
 9:25 - 11:38 = 2時間13分
 12:59 - 13:22 = 23分
 15:42 - 16:00 = 18分
 16:01 - 18:01 = 2時間
 18:25 - 18:46 = 21分
 22:33 - 23:30 = 57分
 計: 6時間12分

・睡眠
 1:15 - 7:40 = 6時間25分

・音楽

  • Chris Potter『The Dreamer Is The Dream』
  • Chris Potter『Traveling Mercies』
  • Aaron Parks Trio『Alive In Japan』
  • Alan Hampton『Origami For The Fire』
  • Sarah Vaughan『After Hours』
  • Sarah Vaughan『Crazy And Mixed Up』
  • scope『野中の薔薇』
  • Scorpions『Tokyo Tapes』
  • Scott Colley『Empire




鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』松籟社、一九九五年

 そんなとき彼女は、ことによると自分はほかの男のものにもなれるのかもしれない、と思うことができた。しかも彼女にはそれが不貞のように思えず、むしろ夫との究極の結婚のように思えた。どこやら二人がもはや存在しない、二人が音楽のようでしかなくなる、誰にも聞かれず何物にもこだまされぬ音楽にひとしくなるところで、成就する究極の結婚のように。(……)
 (222; 「愛の完成」)

     *

 雲間にかすかな風が起り、雲を一列に整えてゆっくりと引いていくように、じっと動かぬふくよかな感情の中へこの実現の動きが吹きこんできたのを、彼女は感じた。内からではなく、かたわらをかすめて……。そしてさまざまな事実が不可解にも流れ動きはじめるとき、感じやすい人間たちが多くそうであるように、彼女はもはや精神のはたらきをもたぬことを、もはや(end226)自分ではないことを、精神の無力と、屈辱と、苦悩とを愛した。あたかも弱い者を、たとえば子供や女を、かわいさのあまり叩いてしまって、それから着物になってしまいたい、着物になってたった一人で自分の痛みを人知れずつつんでいたいと願うように。
 (226~227; 「愛の完成」)

     *

 (……)自分はもう二度とほかの男のものに(end231)はなれない、と彼女は感じた。ところがまさにそのとき、まさに彼女の肉体がただ一つの肉体をひそやかに求めて、ほかのあらゆる肉体に嫌悪をいだくそのとき、それとともに彼女は――まるで一段と奥深いところで――なにやら低く身をかがめていく動きを、眩暈を感じた。それはおそらく人間の心の不確かさへの予感、おそらくおのれへの危惧、あるいはただ、不可解にも無意味にも淫らをこころみる心、なおかつあのもう一人の男のやってくるのを願う心にすぎなかったのかもしれない。不安が彼女の中を、身をこがす冷気のように吹き抜け、破壊的な悦びを追いたててきた。
 (231~232; 「愛の完成」)

     *

 やがて彼女は引き返し、街の表通りをたぶん一時間ほども落着きなく歩きまわった。小路という小路に入り、しばらくすると同じ道を返し、またその道を捨てて今度は街の反対側にむかって歩き、ほんの数分前に通り抜けたときの感じのまだのこる広場をいくつか横切った。いたるところで、熱にうかされた時の空虚[うつろ]なはるけさが白い濃淡をなして、この小さな、現実から隔絶された街の中を走り抜けた。家々の前には雪の塁壁が高く積まれ、空気は澄んで乾いていた。雪はまだ降っていたが、いまではもうまばらになり、ほとんど乾いてきらきらと輝くひらたい雪片をなして、いまにもやみそうに落ちていた。ときおり家々の閉ざされた戸口の上で窓がいかにも澄んだガラスの青をして表通りを見おろし、足もとの雪もガラスの澄んだ音をたてた。ときおり堅く凍りついた雪のひと塊が屋根の庇から落ち、数分の間、静けさの中にあいた荒い破れ目がそのまま見つめているような、そんな感じがのこった。いきなりどこかで家の壁がばら色に、あるいはカナリヤのような淡黄色に輝きはじめた……すると彼女には自分のふるまいが、異様な鮮やかさをおびて、奇妙なものに見えた。物音ひとつせぬ静けさの中で、一瞬、目に見えるもののすべてが、どこかほかの風景の中に、こだまのごとく繰り返されるかに思われた。やがてあ(end236)たりのすべてはふたたびおのれの内へ沈みこみ、家々は彼女のまわりに不可解な小路をなして、森の中で茸が並んで生える、あるいは灌木の一群がひろびろとした野づらにうずくまるようにつらなった。しかしいかにも大きな、眩暈を誘う心持が彼女にはなおもした。なにやら火のようなもの、焼けつくほどにからい液体のようなものが、彼女の内にあった。そして物を思いながら歩いていると、彼女は巨大な不思議な器となって表通りを運ばれていくかのようだった。いかにも薄手の、燃える炎をあげる器となって。
 (236~237; 「愛の完成」)