2019/1/8, Tue.

 五時台のあたりに一度目覚めたような覚えがうっすらとある。その次に覚めたのが七時前。二〇一四年に亡くなった母方の祖母の夢を見たのを覚えている。台所に入って、両親と並んで釜の白米をよそっていると、何か狭いなというような感じを覚えた。左方を見ると、冷蔵庫の前に祖母がいる。何をやっていたのかは忘れてしまった。お祖母さん、と呼びかけながら見ていると(死んでしまっているのは夢のなかでも同じで、あれは祖母の幽霊だという認識があったと思う)、じきに祖母は少し後ろに場を離れて、遺影のような表情を浮かべながらすうっと消えていった。こちらは確か、それで泣きそうになったのだったと思うが、目覚めた時にはそうした痕跡は残っていなかった。
 覚めてからもしばらく布団の温みのなかに留まって、七時を回ってから抜け出した。ダウンジャケットを羽織る。部屋を抜ける間際、壁に掛かったオレンジ色のなかに、こちらの影が写し絵となる。上階へ行き、ストーブの前にちょっと座ったあと、台所に入って冷凍の唐揚げを取り出した。残っていた五個を一つずつ箸でつまみ、皿に盛って、電子レンジに入れる。その他米と大根の味噌汁(前日の残り)を用意して卓へ。新聞がなかったので食べる前に取りに行った。玄関を抜けて外気に入ると、息が白く染まり、陽の掛かった林からは鵯の鳴きが立っている。戻ってものを食べながら記事をチェックしたのち、一面に戻って、「北方4島 日露で賠償請求放棄案 平和条約締結時に 政府提起へ」を読んだ。平和条約交渉で、北方領土についての賠償請求権を互いに放棄する方針だというのだが、そもそもロシア側は賠償を要求する言われなどないわけで、これは日本側が一方的に譲歩を強いられたということではないのだろうか――素人なのでまったくよくわからないが。ものを食べているあいだ、卓の向かいの母親が、お祖母ちゃんの命日が近づいてくると嫌だよ、と言うので、こいつ、文句ばかり言っているな、と思った。親戚が訪ねてきたりして、その相手をしたり、仏壇を綺麗に保っておいたりするのが面倒なのだろう。食後、薬を飲み、昨晩父親が放置したものも含めて皿を洗うと、父親への指示をメモに記していた母親が(最近風呂の給湯器の調子が悪く、エラーが表示されるようになったので、今日業者に来てもらうことになっていたのだ)、大根をごま油で炒めてくれと言う。細かく切って干してぱりぱりに乾かした大根を戻したものである。それで望みの通りにフライパンで炒め、その後に洗面所を覗くとまだ洗濯機が稼働していたので、一旦日記を書こうと自室に戻った。前日の記事を仕上げ、投稿してからふたたび上階に戻り、母親と協力して洗濯物を干した。水色のシャツを第一ボタンまで留めて、下にはネイビー・ブルーのジーンズを履いた父親は、無言でテレビを見つめていた。そうしてまたねぐらに帰り、緑茶を飲みながらここまで綴るともう九時も近くなっている。時間が経つのがまことに速い。
 それでは前日に読んだ「グリージャ」から、気に掛かった箇所を抜き出しておく。

  • ●277: 「その時彼女は菫褐色のスカートをはき(……)」――珍しい色の表現。
  • ●277: 「だがグリージャは頑固にもすぐまた谷の方へはなれていきたがったので、この一部始終は、その微細ないちいちの部分にいたるまで、下垂してはまた新たに巻きあげられる振子の重みに似た規則正しさでもって反復された。それがまことに天国的に無意味だったので、彼は彼女自身をグリージャと呼んでからかったのだった」――「天国的に無意味」。良い表現。
  • ●277: 「その時彼女は菫褐色のスカートをはき(……)牧場のへりに腰をおろしていた。(……)そうやってすわっている女に遠くから近づいていくにつれて、胸の鼓動が次第にはげしくなるのに気づかないわけにはいかなかった」――省略部分には、「彼女」=レーネ・マリア・レンツィを「グリージャ」と呼ぶようになった経緯が語られている。そのあとに「そうやって(……」の部分が始まるが、ここで語りの時間が先の「その時」の時点に巻き戻っている。語りはうろついている[﹅7]。このあたりも、ムージルの実力ならもっと容易に、順序良く、整然と語ることができるはずなのだが、何故かそうしない。
  • ●278: 「思うに彼をその農婦に結びつけたものは、ほかならぬ自然のそれらの特質だったろう。また別の反面では、彼女があまりにもれっきとした婦人らしく見えたのに驚くばかりだった(……)森のまんなかで貴婦人が茶飲み茶碗を手にしてすわっているのを見れば、誰もがびっくりするはずである」――両義性。グリージャは「土臭い」「農婦」でありながら同時に、「れっきとした婦人」らしい。「貴婦人」にすら喩えられている。
  • ●278: 「口は彼に非常に強い印象を与えた。それはキューピッドの弓のようにそりかえり、しかも唾をのみこむ時のようにかたく結ばれていた。ここから、その繊細な美しさとはうらはらの、一種断固たる野卑の印象が生まれ(……)」――両義性。
  • ●279: 「どうしてかわからなかったが、彼はこの地でおこなわれている風習やこの地にひそむ危険については、およそ無知といってよく、また別の機会もあることだからと、好奇心にあふれた希望をつないでいたのだった」――理由不明。
  • ●280: 「こうした一部始終は、馬や牝牛や死んだ豚とまったく同様に、きわめて単純な、しかもまさにそれゆえにきわめて非現実的な、魔法の世界の出来事のようだった」――非現実性。「魔法の世界」。→●272: 「はじめて彼は、一切の疑いをまぬかれた天上の秘蹟として、愛を経験した。彼の生活をこの孤独へみちびいた神の摂理をまざまざと思い知りながら、彼は、黄金と宝石を秘めた足もとの地面を、もはや現世の宝庫ではなく、彼のために特別にとりはからわれた魔法の世界のように感じていた」。
  • ●280: 「その口に接吻する時、はたして自分はこの女を愛しているのか、それとも自分に明かされるのはひとつの奇蹟なので、グリージャは、愛するものと自分とを永遠にわたって結びつける使命の、単なる一部分にすぎないのではないか、彼にはまったく見当がつかなかった」――重要な箇所だと思われるが、その内実は良くわからない。「愛するもの」はおそらく子供のことではないかと思うのだが、グリージャとの不倫によって、子供との「合一」「融和」が達成される? また、「ひとつの奇蹟」。→●271: 「あわい緋色の花が咲いていたが、これはほかのどの男の世界にもなく、ただ彼の世界にだけ咲いていたのだった。紛うかたない奇蹟として、神がそのように取りはからわれたのだった」
  • ●281: 「これまでの彼の生活は無力になっていた。それは秋が近づくにつれていよいよ衰える一羽の蝶のようだった」――夏には宗教的な、天上的な愛を経験していたのに。
  • ●281~282: 「とうとう娘は一本の綱でからげた束の下に全身をもぐりこませると、それをかついでゆっくりとからだをおこした。束は、それをかついでいるまだら模様の服装をした華奢なこびとよりも、はるかに大きかった――それともこれは、グリージャではなかったか?」――長くなるので一部にしたが、この部分を含む段落は不思議である。「干し草の刈り入れ」後、その運搬をする「娘」をホモが眺めているのだが、それまでの文脈からしてこの「娘」は当然グリージャのことを指しているのだろうと思って読み進めるところが、最後の一文が来て読者は困惑させられるわけである。ここでは語りの安定性、その真正性が破れている。誰とも知れない「娘」の匿名性。
  • ●282: 「彼と話をしている際に唾を吐く必要があると、女たちは技工をこらしたやりかたをした。三本の指でひと束の干し草を引き抜き、漏斗状にひらいた穴の中に唾を吐きこみ、その上からまた干し草を押しこんだのだ。見ていると思わず吹きだしたくなるようなしぐさだった。ただ、グリージャをさがしているホモのように、彼らと切っても切れぬつながりを感じている場合には、この粗野な上品さにははっと驚くこともあるかもしれなかった」――「粗野な上品さ」。両義性。また、この小説では一貫して何故か、「女たち」が「彼ら」という代名詞によって指し示されている。「彼女」という語で名指されるのはグリージャただ一人である。
  • ●283: 「だがある日グリージャがいった、もうこうしてはいられないわ。いくら問いただしても、なぜこうしていられないのか、彼女はいわなかった」――理由不明。グリージャの他者性、謎。磯崎憲一郎ムージルから盗んでいる部分である。彼の小説では、女性は一貫してその行動原理が不明な、純然たる他者としての相貌を露わにする。『終の住処』の記述を引いておこう。

 新婚旅行のあいだじゅう、妻は不機嫌だった。彼はその理由を尋ねたが、妻は「別にいまに限って怒っているわけではない」といった。(……)
 (磯﨑憲一郎『終の住処』新潮社、2009年、6)

 その日の夕方、帰宅した彼は何かの用事で妻に話しかけた。子供をどちらが風呂に入れるかとか、疲れたから夕飯を外で食べるかどうするかとか、そんな用事だったかもしれない。妻は彼の言葉に応えなかった。また妻の気まぐれな不機嫌が始まったのかな? でもどうせ明日になれば戻るだろう、彼は深くは気にかけなかった。
 翌朝、妻は彼と口を利かなかった。
 次に妻が彼と話したのは、それから十一年後だった。
 (69~70)

  • ●283~284: 「その女は彼の知らないただひとりの農婦だったが、その外見が眼をひいたにもかかわらず、ふしぎなことに、どういう女なのか、彼はまだ誰にもたずねてみなかったのだ」――理由不明。不思議さ。
  • ●285: 「ホモは心の中で、ここへのぼってくるまでの模様をくり返し思いえがいてみた。村の裏手でグリージャと落ちあい、のぼり、道を曲がってはまたのぼる自分の姿が眼にうかび、膝の下にオレンジ色の縫縁[ぬいべり]がついている彼女の靴下、おどけた靴をはいた彼女のゆれ動くような足どりが眼にうかんだ。坑道の前に立ちどまっている彼女の姿が見え、金色にかがやく小さな畑のある風景が見え――突然、明るい入口に彼女の夫の姿が見えた」――秀逸な展開。はっとさせられるような演出。それまでホモの心中の像だった記述が、「突然」、目の前の現実のものへと転換し、「夫」の出現によって物語は最終盤へと突入していく。
  • ●286: 「しかし今彼は、そもそもグリージャのことさえ忘れてしまっていた。彼女の肩に触れてはいたのだが、それにもかかわらず彼女は彼から遠くはなれさっていた、あるいは彼が彼女からはなれていたのかもしれない」――両義性。遠くにありながら「合一」する、近くにありながら離れているという構図はムージルの小説の基本的なものだろう。
  • ●286~287: 「すると狭いすきまが見つかった。(……)これは脱出路だった。しかしこの時、生に復帰するには彼は衰えすぎていたのだろう。復帰を望まなかったのかもしれないし、それとももう意識を失っていたのかもしれなかった。/まさしくこの時、すべての努力が水泡に帰し、企図のむなしさが覆いようもなくなったため、モーツァルト・アマデオ・ホフィンゴットは、谷間で作業中断の指令をくだしていた」――結び。これもちょっと不思議だと言うか、前段落で終わっても良いのではないかと思うのだが、最後はホモから離れて終わるわけである。よくわからないが、何か読者を突き放す[﹅4]ような感じがあるような気がしないでもない。

 こうして見てくると、両義性、相反する事柄の同時共存がムージルの小説の基本的な原理の一つだとわかるだろう。「グリージャ」においては例えば、「女たち」は「近代工場で生産される」「安物のキャラコ」を身につけていながら同時に、「遠い祖先をしのばせる」ものを持っている。彼女らはまた、土着的で男勝りでありながら、女らしい「やさしさと愛嬌」をも備えており、時には「大公妃のようにおおらかに」、また「慇懃に」振舞うこともできる。「Aでありながら同時にBである」というのが、ムージルの作法、その小説の土壌だ。それが頂点に達するのはおそらく彼の中心的なテーマである「合一」においてだろう。ムージルにおいて「合一」は、必ず遠く離れた状態で達成される。二者は、遠くにありながら一体であり、近くにありながら離れている――「しかし今彼は、そもそもグリージャのことさえ忘れてしまっていた。彼女の肩に触れてはいたのだが、それにもかかわらず彼女は彼から遠くはなれさっていた、あるいは彼が彼女からはなれていたのかもしれない」。
 また、「理由不明」というのも「グリージャ」において頻出する性質である(これは磯崎憲一郎が自分の小説に取り入れている)。「どうしてかよくわからないのだが」といった言明が、枕詞のようにしてたびたび導入されるのだ。例えばホモは、「自分でもどうしてかよくわからなかったのだが」、旅館ではなくて「あるイタリア人」の家に滞在する。徴発された犬たちは、「どうしてかわからないが」、いくつかのグループに分かれて結束する。理由が不明な事柄の最たるものは、グリージャの心変わりだろう。ある日彼女は、「もうこうしてはいられないわ」と言って彼との関係を終わらせに掛かるのだが、「いくら問いただしても、なぜこうしていられないのか」、その理由は明かされない。ここでは「理由不明」、「謎」が、女であるグリージャの「他者性」と結びついている。「グリージャ」においては小説の「場」そのものが「理由不明」の磁場となっており、頻出する「どうしてかよくわからないが」の言明は、終盤のグリージャの「他者性」を準備していると言えるだろう。
 上記まで記すとちょうど一〇時、日記の読み返しを始めた。まず二〇一八年一月八日。以下引用。わりあいに良く書けていると思う。

 料理をするあいだなどは、先ほど考えたように、ホームポジションとしての呼吸を意識した。一方、頭に言語が浮かんでくるのが不安になったり、自分が思ってもいないようなことが言語として浮かんできたりするのも特に困惑させられるのだが、しかしこれは気にせず、受け入れれば良いのだろう。ヴィパッサナー瞑想が教える通り、言語や思念とは所詮は心の反応にすぎず、端的に言って、去来するもの=次々と来ては去っていくものである。自分はどうやら、言語を実体化しすぎていたようだ。ある一つの事柄に対して、相反する二つの思いを抱くこともあるだろう(と言うか、そうしたことはむしろありふれているはずだ)。それどころか、もっとたくさんの、複雑に絡み合い、矛盾し合う反応を覚えることもあろう。今回自分は、不安障害的な性向が手伝ってか、それらの断片化された反応群のあいだに整理をつけられず、思考の統合を失いかけ、恐怖を覚えたらしいが、「自己」という点から考えると、それらの混乱した反応をすべて合わせた総体こそが自己である(これはおそらく、「自己」など存在しない、と言っているに等しい)。人間の反応、思考、感情は、すさまじく複雑で、自分は言語と密着しすぎたがためにその複雑に襲われてしまい、頭をやられかけたのかもしれない。要は、主体とは、散乱させられたもの[﹅9]としてある。その散乱した断片群のなかには、我々が目をそむけたいもの、抑圧したいもの、自分の一部として認めたくないものが当然含まれている。「悟り」という概念をひとまず、それらをも等しく受け入れていく態度として考えよう。そのようなある種の平等主義において、(はじめて?)「自由」が発生するとも考えられる。なぜなら、現実に「自己」「主体」として生きている我々は、何らかの行動をしていかなければならず、我々のうちに生起する反応群がいかに込み入ったものだろうとも、そのあいだにおいて何らかの判断を下していかなければならないからである。言いかえれば、自分のうちに発生した無数の相矛盾する反応のうち、我々が我々のものにするのはどれなのかを、我々は具体的な場において判断し、選択し、決定することができる。その判断(吟味)、選択、決定は、時には非常に責任を持たれた理性的なものでもあろうし、時にはただ何となくの、まるで無根拠なものでもあるだろう。具体的な瞬間ごとのそのような決定において、かろうじて、仮に作り上げられるもの、立ち上げられてはすぐにまた散乱していくもの、それが「主体」ではないのか。「主体感」とはそのようにして、その都度仮に確保されるのではないか。
 すべての先行的な観念を相対化・解体し(今のところ、「悟り」をこのようなものとして考えておきたいが)、自己のすべての反応を受け入れる「悟り」の境地にあっては、判断・決定の選択肢は非常に広いはずである。極端な話、そこにおいて主体は、その都度いかようにも姿を変えることのできる「流体的なもの」として現前するのではないか? しかし、理論的にこう考えたとしても、先行的な観念が解体されつくしたとしても、現実的には、主体のその都度の選択をある程度規定し、方向づける具体的な条件が残っているだろう。一つはその場=時空における意味=力の配置のネットワークであり、一つは直前の時点から引き続く状況の文脈であり、一つは主体がそれまでに積み重ねてきた経験の記憶への照会である。以上の記述を踏まえて、ひとまずここでは「悟り」を次のように定式化しておきたい(もう、勤務に向かわねばならない)。すなわち、極限的な自己の微分と、徹底的な帰納主義による主体の高度な流体化、と。

 それから二〇一六年八月二九日の分も読み、投稿したあと、琉球新報「土砂投入海域のサンゴ移植ゼロ 辺野古、首相は「移している」と答弁」をさらに読んだ。何故一国の首相が不正確な発言をするのか、すぐにばれる嘘をつくのか。それからUさんのブログ。面白い。参考になる。自分ももっと豊かな思考を綴りたいという気持ちにさせてくれる。気になった箇所をいくつか、下に引いておく。
 「交通事故の全容が様々な目撃情報によって明らかになるように、土壌から行う思索は、個々人が自らの生ける状況や傾向性を直視しながら行う協同のプロジェクトなのである。そして、仮に原子レベルにまで精密に交通情報を捉えたとしても、過去の経験を活かして知性的応答はできるかもしれないが、次の瞬間に道路で何が起こるかを予知することはできない。思索は、たとえどれほど前例に則った形式を採用しようと前例などなく、目の前の世界を捉え切ることはできない」
 「ある思索が一個人の思い込みを超えていると思えるのは、その思索が余白を残すからである。思索の果実が自己完結しており、ほかに考える余地がないと言われると、それは非常に胡散臭い」
 「始原的思索を試みる者は、誰よりも卓越した言葉の使い手だからこそ、言葉に惑わされてはならないのである」
 「仮に、光と網膜の関係性の原理と、レモン汁と舌の細胞の構造を明らかにしたとしても、それは、そのまま今日も発現する否定しようのない事実を自明視した上での知見に過ぎない。人工農園でレモンを栽培できるようになったとしても、その事実は変わらない。そこで行っているのは、レモンが勝手にこの世界に発現する事実から学んだ暁の条件整備である。人間がレモンを「造っている」わけではないのである。レモンを造っているのはレモン自身の歴史であり、レモンなる果実を生み出す地球の無限に豊かな条件における差異化の過程である」
 「寓話の文脈において概念を示せば、思索者は、その表現物が、あくまでも寓話における一解釈に過ぎないことを読者(次の瞬間の自分・不特定多数の他者)に知らしめることができる。その限りにおいて、思索は私個人がしているにもかかわらず、そこに他者を招き入れることができ、強い主張の思索が持つ窮屈さに陥らなくなる」
 さらにSさんのブログも読んで時刻は一一時半前。[https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005FGFC/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=diary20161111-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B00005FGFC&linkId=5b040e4735d92518daa7e8c19568c5a9:title=Seiji Ozawa/Wiener Philharmonike『Dvorak: Symphony No.9 』]をヘッドフォンで掛け、ものを読む合間時々、目を閉じて耳を傾けていた。他人のブログを読み終えると第四楽章に入ったところだったので、瞑目し、椅子にじっと静止して聞き入る。激しい躍動感。優美な静と雄々しい動の対比。それからJohn Coltrane『Live Trane』の冒頭、"Impressions"も聞く。Coltraneは序盤は穏当に吹いているかと思いきや、じきにいつもどおり興が乗ってきて、鱗で鎧った龍のように細かくうねりはじめる。DolphyはやはりDolphyである。確かMiles Davisが彼のプレイを「馬のいななき」と評したのではなかったかと思うが、喋っているように聞こえることもある。一〇分以上の演奏に耳を傾けて、それから上階に行った。
 居間は無人。母親は仕事、父親は不明。玄関のほうに出ると、外から車の滑るような動作音が聞こえて、どこかに出かけていた父親が今しがた帰ってきたところらしかった。こちらは台所に入り、茄子を切る。水を張ったボウルに浸け、ちょっとしてからフライパンに油を引いて、チューブのニンニクを落とす。そうして茄子を投入。蓋を閉めて蒸し焼きにし、焼け具合を確認しながら熱していき、豚肉の切り落としも、面倒なのでそれ以上細かく切らないままに一パック分全部入れた。味付けは醤油。フライパンを使う一方で、豆腐を冷蔵庫から出して電子レンジで熱し、鰹節と麺つゆを掛けた。そうして料理が出来ると、丼に盛った米の上に炒めたものを乗せて、部屋から新聞を取ってきて一人食事を取る。記事は一一面、「アラブ民主化 「春」また巡る」。ジャンピエール・フィリユという教授のインタビュー。読み終えて食器を洗う。書き忘れたいたが風呂場を覗くと、何故か既に湯が張られてあった。こちらが部屋に籠っているあいだ、業者がやってきた時に確認のために焚いたのだろうか。
 洗い物を済ませて散歩に出ることに。玄関を抜けると父親がいたので、散歩、と告げて道を歩き出す。歩きはじめると同時に風が正面から駆けてきたが、冷たいものの寒くはない。日向が広い。道端の斜面から生えている櫛形の細い緑葉が、光を受けて金属的に、固くなったように明るんでいる。日向に入っていれば陽光が顔に密着してきて暖かい。頭にはSarah Vaughanの"Everytime We Say Goodbye"が掛かっていた。坂を上り、ムージルのことを考えながら、陽の射す裏道を行く。空は今日は快晴とは行かず、雲が薄く広く浸透するように掛かっている。脇の家の庭木の枝に、メジロの体の薄抹茶色が垣間見える。街道に一旦出て、通りを渡ってふたたび裏へ。風がふたたび走り、身体の全面が覆われて、水の壁に触れているよう。近くの家から鶏の声が立つ。保育園は無人だが、建物のなかから子供らの燥ぎ叫ぶ声が漏れ、道の反対側からは鵯の張り詰めた鳴きが落ちた。ポケットに手を突っ込みながらぶらぶらと駅まで行くと、駅前広場のベンチに座っている老婆がいて、まったく気配を感じず人がいると感知できなかったので、見つけた時には少々びくりとしてしまった。老婆は会釈をしてきたので、視線を逸らして通り過ぎかけていたこちらも遅れて頭を揺らし、駅前を渡って下り坂に入る。細い弦を弾くようなちっ、ちっ、という鳥の声が林のなかから落ちてくる。ガードレールの向こうでは濃緑の葉のそれぞれに隈なく、光の白さが散りばめられて[﹅7]いる。そこを過ぎてまた出てくるほかの木も、葉の上に隙間なく白糸を巻きつけたようになっている。坂を出て道を行くと、Kさんの奥さんがしゃがみこんでゴミ袋を縛っていたので、こんにちはと挨拶をして過ぎた。
 帰宅すると母親も帰ってきており、両親はこれから食事を取るところだった。弁当を一パック貰ってきたと母親は言う。それでそのなかに含まれていた干瓢巻を二つつまみ食いして、緑茶を用意して自室に帰った。そうして、John Lewis『Evolution』を流しながら日記をここまで綴って一時半。ではなかった、日記の前にポール・クルーグマンのインタビューやMさんのブログを読み、一二月二七日の書抜きも読み返したのだった。まあ記述する順番はどうでも良い、記録ができさえすれば良い。
 日記を綴ったあとは、上階で洗濯物を取り込む気配が出ていたので畳みに行ったのだったと思う。タオルや肌着を畳んで洗面所に運んだり、そのあたりにまとめたりしておき、それからアイロンを用意してシャツやハンカチの皺を伸ばした。そうして緑茶を用意し、Jules Destrooperのビスケットを二枚、ポケットに入れる。こちらが下階に下りるとほとんど同時に、両親は出かけて行った。行き先は先日おばさんが亡くなったY家である(明日が通夜、明後日が告別式だ)。こちらはそれからまず書抜きの読み返しを行い、合間に「ウォール伝」の記事も読み、一二月二五日の分まで読み返しが終わったので、この日の日記に新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』から記述を写しておき、それも読んで記憶することを試みた。重要だと思われるのは日米安保体制における沖縄の役割で、ベトナム戦争当時は岩国、佐世保、横須賀などの在日米軍基地からも軍隊が出動した。日米安保条約の第六条に関する交換公文では、日本からの戦闘行動は事前協議の対象になると規定されているのだが、明らかに「日本からの戦闘作戦行動」であるこれらの出動は、しかし協議の対象にされなかった(この事前協議は条約成立以来一度も行われたことがない)。日本の基地から沖縄への移動は戦闘作戦行動ではない、そして当時はまだ返還前だった沖縄は安保条約の適用対象外なので、そこからの出撃は事前協議の対象にはならないという、まあ詭弁と言うべき論理によってそうした事態が容認されたわけだが、このようにして「安保体制を外から強化する役割」を沖縄は担わされていた。有り体に言えば、アメリカの戦争のため、米軍が自由な軍事行動を行うために沖縄は利用されてきたというわけだろう。
 時刻は三時、読書を始めた。鎌田道生・古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』から『三人の女』、そのうちの「ポルトガルの女」である。ベッドの上で身体に布団を掛け、前かがみに胡座を搔いたり、あるいはクッションによりかかったり、そして相変わらずメモを取りながら、五時まで読み続けた。最後のほうは部屋のなかに薄暗がりが忍び入っていたので、文字を読み取ったりメモを取ったりするのが難儀だった。「ポルトガルの女」が残り五頁ほどになったところで中断し、上階に行った。夕食の支度である。母親が米を磨いで用意していた。鍋を作ることになった。Queenのベスト盤をラジカセで流し、もう古くなった白菜を、色の変わっているところは省いてざくざくと切り、その他人参・牛蒡・大根も切って炒める。しばらくしてから水をいっぱいに注ぎ、煮はじめたところで、風呂を洗わなくてはならないことが判明した。業者が確認のために焚いたのを追い焚きすれば良いだろうと思っていたところが、父親が言うには、配管の洗浄なども行ったのであの水は汚れているとのことなのだ。それで風呂場に行って見てみると、確かにゴミや毛が含まれているので洗うことにして栓を抜いた。一旦台所に立って新聞を読みながら水がなくなるのを待ち、洗っていると、香典か何かを用意していた母親が台所に入って蟹を切断する。それを鍋に加え、さらにシーフード・ミックスも投入して煮続け、待つあいだはまた新聞を読んだ。記事タイトルについてはあとでメモしておこう。じきに母親が洗い桶のなかにレタスを千切ったので、それを引き継いで、玉ねぎや大根をスライサーでおろす。さらに卵を二つ剝き、簡易な機械で切り分けて合わせておき、鍋にもエバラ「プチっと鍋」(丸鶏塩ちゃんこ鍋)を二つ注いで味を付けた。それで仕事は仕舞い、自室に帰ると六時前、ふたたび読書である。「ポルトガルの女」を読了し、「トンカ」にも入ってしばらく読んだところで七時を迎えたので切り上げ、三〇分間でここまで日記を書き足した。
 上には書き忘れたが、読書のあいだにはJohn Zorn Masada『Masada: Alef』やJoni Mitchell『Blue』を掛けていた。後者は名盤と言うべきだろう――驚くべき透明感。そして日記を綴ったその後、食事を取りに行った。米・鍋・昼間に作った茄子の炒め物の残り・鮭・大根ほかのサラダである。サラダの大根がしゃきしゃきとしており、またキューピーの「すりおろしオニオンドレッシング」も美味く、おかわりをした。テレビは『ヒャッキン』だが、この番組に特段の興味はないので、時たま目を向けつつも、黙ってものを貪るようにして食べた。鍋は母親にやや薄味だが美味しいと好評だった。食事を終える頃、母親が、スルメイカを忘れていたと声を上げた。台所のオーブントースターのなかで熱してあったのだ。それで、それをもう一度加熱し、待つあいだに食器を洗っていると、炙られた烏賊の芳しい香りが漂ってくる。食器を片付けると両親の入っている炬燵テーブルに持っていき、マヨネーズを掛けて食べるのだが、熱してもかなり固いので何度も何度も咀嚼しなくては飲み込めないのだった。それで口に烏賊を入れたまま洗面所に行き、服を脱いで浴槽に浸かってからもしばらくもぐもぐとやっていた。頭を洗って風呂を出ると、緑茶をついで自室に帰った。ここまで書き足して現在八時半ぴったりである。上記で読んだ新聞記事というのは、それぞれ七面の、「壁を越えて 5 宗派融和 子供たちに託す 「イスラムは一つ」 共感呼ぶ」と、イアン・ブレマーのインタビュー、「危険な兆候 備える時 社会分断が加速 欧米でポピュリズム 日独仏など協調を」である。後者から気になった箇所を引いておくと、「トランプ氏を巡っては、米メディアの問題も深刻だ。テレビや新聞など主要メディアが社会の分断を加速させている。トランプ氏とメディアは、反発しながら依存し合っているという「いびつな関係」にある。視聴率を稼げるからといってトランプ政権のことしか報じない現状では、米国民は正しいニュースを提供されていないも同然だ。世界の様々な問題から目を背ける結果につながり、極めて不健全だと言わざるを得ない」とある。こうしたドナルド・トランプ一人に留まらない批判的な視点は重要だろう。ほか、「多国間協調に背を向けるトランプ氏は、ロシアのプーチン大統領北朝鮮金正恩朝鮮労働党委員長らとあたかも共同歩調を取っているかのようだ。従来の米国主導の「有志連合」とは対極にある。同盟ほど強固ではなく、大義を持たないという意味では国際政治における「海賊」のような存在に近いかもしれない」とのこと。
 以下、ムージルポルトガルの女」からの抜き出し。

  • ●288: 「しかし狂騒にたじろぐことなく眼を放てば、この音の抵抗はものの数でもなく、思うさま見はらす眼がやがてはたと驚き、くるめきながら眺望の底知れぬ丸みの中に吸いこまれるのだった」――「くるめく」。こちらの語彙にはなかった言葉。
  • ●288~289: 「ケッテン殿は代々苛烈かつ緻密の性格をうたわれていた。(……)幾年幾百年を通じて、それがどういう人物だったにしても、褐色の頭髪や髭に時ならぬ白髪をまじえ、六十路[むそじ]の声をきく前に世を去ったという点では、彼らはすべて共通していた。また、彼らのしばしば見せた途方もない力が、中背の華奢な肉体からわきでるのでもなければ、そこに居をさだめているのでもないということ、むしろその力は眼と額から発するように見えるということ、この点においても彼らはみな同じようだったという」――代々の「ケッテン殿」の共通性、同一性。
  • ●290: 「相変わらず彼女は、その所有するおびただしい真珠の首飾り同様に神秘的だった。たかの知れた代物、この隆々たる手の上にのせれば、豌豆[えんどう]のようにひねりつぶすこともできようものを、と彼は妻のかたわらに馬を進めながら胸のうちでつぶやいた」――「ひねりつぶす」。→●三宅誰男『亜人』、26~27: 「大広間の頭上をぐるりととりかこむ吹きぬけの回廊をゆく途中、大佐はしばしば祖先の頭蓋を覆う鉄兜の陰に身をひそめながら眼下の光景をながめやった。ここから太刀を投げつければその盲目的な歩みもたちどころに途絶えるものを、その首ねっこ、ひねりつぶしてやろうか!」
  • ●290: 「少年のように素はだかの、日ざしのきびしい日々がまためぐってくると、冬の夢まぼろしがたちまち片隅に押しやられてしまうようなものだった」――音調が良いように感じたが、今抜き出してみるとそうでもないかもしれない。
  • ●291: 「森の中には鹿や熊や、猪や狼がいた、ことによると一角獣も棲んでいるかもしれなかった。(……)森が切れて山なみがひろがるその上の方では、精霊の国がはじまっていた。そこには魔神どもが嵐や雲とともにたむろしていた」――ファンタジー的な要素。
  • ●292: 「二日後には彼はふたたび馬上の人となっていた」→●『亜人』17: 「敵船上陸の報せが夜目の利く伝書鳩によって館内にもたらされたとき、大佐は太刀を片手にだれよりもはやく馬上のひととなった」。
  • ●292: 「十一年たって、彼はやはり鞍にまたがっていた。トレント奇襲は準備不足のために失敗し、緒戦にしてすでに騎士側は三分の一以上の従卒となかば以上の血気を喪失した」――突然の大きな時間の飛躍。素早い展開。しかし、直後の文では「緒戦」にまで時間が巻き戻っているわけで、ここにあるのはガルシア=マルケスなども使う「先取り」の技法だろう。→●294: 「気長に待てば、めったにないことがひょっとしたら起きるかもしれないのだ。彼は十一年待った」――ケッテンの主の負傷や戦闘の状況などが語られたあと、ここに到って、十一年後の時間がふたたび提示される。
  • ●296: 「豪奢な服のスカートは無数のひだになって渓流のように流れ落ち、静かにすわっているその人の姿は、吹きあげてはまた自分自身の中へ落下する噴水のようだった。魔法か奇蹟によらずに、噴水を救済することができるだろうか。噴水が、われとわが身をになうそのたゆたいから、完全に脱けだすことができるだろうか? この女を抱きしめれば、突然魔力的な抵抗の一撃を見舞われるかもしれなかった。実際はそんな事態にはならなかったが、しかしやさしさとは、抵抗以上に無気味なものではなかろうか?」――「噴水」の比喩を受け取って、それを「救済」するなどと言い出す。突然の観念的な記述。意味がよくわからない。「やさしさとは、抵抗以上に無気味なものではなかろうか?」のアフォリズムは印象的。
  • ●297: 「ところで、彼女の城内の取りしきりは、なげやりだがそつはなかった。息子たちは――だが長男も次男も海を見たことがない、それが彼女の子だったろうか? 息子たちが狼の仔でもあるかのような気が、ときどきした。ある時一匹の狼の仔が森から生けどりにされてきた」――「ところで」の文以下、「ポルトガルの女」の「城内の取りしきり」について詳述されるのかと思いきや、そうではなく、「息子たち」にすぐに話が移る。しかもそれは、「息子たちは――」と何かを言いかけたところで「だが」とその発言を打ち消す形になっており、突然彼らが「海を見たことがない」事実が提示される。この場で思いついたことを即時的に導入してみたかのような風である。「彼女の子だったろうか?」の疑い、息子らが「狼の仔」であるかのような錯覚、その直後の「生けどりにされ」た狼の仔の導入も、連想的に綴られているのではないかという気がする。全篇を通して緊密に、実に順序良く語られているこの小説のなかで、ここだけリズムに「つまずき」のようなものがあると言うか、不思議な感じがする箇所となっている。
  • ●299: 「この新しい傷は奇妙に痛んで、どうにもこらえるすべがなかった」→「こらえようのない痛みも奇妙だったが、その後の病状の経過も、ふつうの病人のそれとは似ても似つかぬものだった」――「奇妙」さ。→●304: 「奇妙な経験が彼をおそった。彼をつつんでいた病気の霧の中では、妻の姿が実際よりやさしくほのかに見えた」――しかし最も「奇妙な経験」は、三〇一頁の、ケッテンの頭蓋が何故か小さくなるという、物理法則に反した出来事ではないだろうか?
  • ●300: 「ケッテンの主と彼の月夜の妖女は、この肉体から脱けだして、静かにかなたへ遠ざかっていた。まだ姿は見えた、数歩大股で追っていけば、追いつくことができるだろうとはわかっていた、ただ彼には、自分がもうその二人と同じ世界に属しているのか、まだここにいるのかわからなかった」――「月夜の妖女」。何を指しているのか不明。また、「この肉体」、「彼」はケッテンを指しているわけだが、そこから「ケッテンの主」と「月夜の妖女」の「二人」が「脱けだして」行くわけで、「月夜の妖女」はケッテンの内部に存在していたものであるらしい。そして、その二人と(つまりケッテン自身と)ケッテンのあいだに分裂が起こっている。
  • ●300: 「ベッドにはこびもどされた時、彼は弩をもってくるように命じた。弓を引きしぼることもできないほど衰弱しているのを知って、彼はわが身にあきれはてた。従士を手招きして弩をわたし、命じていった。狼。従士がためらったので、彼は子どものように腹を立てた。その日の晩には狼の皮が城の中庭にかかっていた」――なぜケッテンが狼を殺したのか、その理由や彼の心理は書かれていないし、推測するよすがとなる情報もない。「理由不明」である。「グリージャ」ではグリージャの心変わりが一つの「謎」となって彼女の「他者性」を形作っていたが、ここでは男であるケッテンの主の内に「見通せなさ」が含まれている。この技法を受け継いだのが磯崎憲一郎古井由吉だろう。
  • ●301~302: 「三人でいた時、妻がいった、「まあ、頭が小さくなって!」(……)そもそも頭蓋骨が小さくなるなどということがあるだろうか? (……)しかし疑う余地はなかった、頭は小さくなっていた」――「説明のつかぬ」事象。物理法則に反しているのだが、「疑う余地」がなく「頭は小さくなっていた」と書かれている以上、この小説内においては確かにそれが起こっている。これが言わば蓮實重彦の言葉を借りれば「テクスト的現実」であり、どれだけ不可思議であったり説明がつかないことであったりしても、あることが起こったと書けば確かに起こってしまう、それが小説の、言語の持つ「破廉恥さ」である。磯崎憲一郎『終の住処』にも、蓮實重彦『随想』からの孫引きになってしまうが、「食事からの帰り道、空には満月があった。この数ヶ月というもの、月は満月のままだった。どんなときでも、それはもちろん夜に限ってではあるが、彼が空を見上げればそこには満月があった。月は自らの力で銀色に輝き始め、不思議なことに雲よりも近く手前にあった。しかも彼以外の誰にも気づかれぬくらい密やかに、ゆっくりと、大きくなっていた」という似たような「説明のつかぬ」事象が書き込まれている。
  • ●304: 「ほかに何ごとも起こらぬ以上は、奇蹟の起こらぬはずがないような気がした。運命が口をつぐんでいたい時に、語ることを強いてはならない、やがておとずれるものを待ちうけて、耳をすまさなくてはならないのだ」――「運命が」以降は格好良い。また、「奇蹟」のテーマ。→●296: 「魔法か奇蹟によらずに、噴水を救済することができるだろうか」→●297: 「全力をかたむけて対抗している司教のことを考えると、思いの糸は長くむすばれてもつれからまることもしばしばだった。奇蹟だけがこの糸を解きほぐすことができるような気がした」
  • ●305: 「愛撫する指に小さな爪で子どものようにむかってくるこの小さな生きものに、ポルトガルの女はやさしく身をかがめた。若い友だちは笑いながら、猫とそれを抱いた膝の上へぐっと身を乗りだした。この他愛のないたわむれは、ケッテンの主に自分の癒えかけた病気を思いださせた。病気が死のやさしさを秘めたまま、この動物に姿を変えたのだ、しかもただその体内にやどっているばかりではなくて、この二人のあいだに介在しているのだ、そんな気がした」――勘所と思われるが、その意味の射程が掴めない。ケッテンの「病気」が猫に姿を変え、それによって「ポルトガルの女」と「若い友だち」の関係が保たれている?
  • ●307: 「三人の誰もが、現世からなかば解脱したこの小さな猫にやどっているのは、自分自身の運命なのだ、と思わずにはおられなかった」――上と同様。猫は「従士」によって殺されてしまうわけだが、それが「ポルトガルの男」の死をも暗示しているのだとしたら、彼は猫と同じように自分が殺されるということを予感して、月の出とともに城を去ったということになるだろうか? しかし、ほかの二人の「運命」については?
  • ●307: 「ポルトガルの男は、試練に耐えてでもいるように頭を低く垂れ、それから、女友だちにむかっていった、どうしようもないでしょう。このことばは、いった当人にも、われとわが身にくだされた死刑の判決を承認したようにきこえた」――上の推測を補強しそうな部分だが、そうした穏当な読みで良いのか、果たして。
  • ●307: 「従士は病んだ猫を自分の部屋へもっていった。翌日、猫はどこにもいなかった。誰もどうしたかとたずねなかった。従士が猫を殺したことはみなが知っていた」――猫は「従士」によって殺される。これよりも前に出てくる「狼」もまた、「従士」に殺される。二つの「従士」が同じ人物なのかどうか、それは知るすべがないが、ともかくもどちらも「従士」に殺されるわけで、猫の死は狼の死を反復している。
  • ●307: 「しるしはたしかに示されていた、だがそれをどう解いたらよいのか、何がおこるというのか?」――ここも重要なポイントだろうが、やはり意味の射程が良くわからない。「しるし」とは何のことを指しているのか、猫の死のことなのか?
  • ●308: 「少年のころ彼は、城の下にある登攀不能の岩壁を、一度よじ登ってみたいと始終思っていたものだった。これは気ちがいじみた、自殺にひとしい考えだったが、神の裁きか到来真近の奇蹟のように、茫漠とした感情をとりこにしてしまった」――「奇蹟」のテーマ。

 「ポルトガルの女」は傑作と言うべきだろう。個々の文の修飾や表現、つまり文体にしろ、語りの順序・配分にしろ、隅から隅まで実に緊密に構成されていて、ほとんど完璧だと言いたいほどである。対して、「グリージャ」を自分は「傑作」とか「完璧」とかいう言葉で形容することはできない、あれはまさしく「奇妙な」と言うべき作品となっており、普通の「小説」として、「傑作」として書かれることを目指していないように思われるのだ。「ポルトガルの女」のほうは、大枠では小説として正当な路線を継いでいると言うか、観念的な記述もあるけれど、物語としてのリーダビリティも充分に兼ね備えていると思う。終盤に関しては意味の射程を読みきれなかったので、それは今後の再読に委ねたい。
 続いて、「トンカ」のなかからの抜書き。

  • ●310: 「とある生垣のほとり。一羽の鳥がさえずった。と思うと太陽は、もう藪かげのどこかに姿をかくしていた。鳥の歌がやんだ。夕方だ。百姓娘たちが歌をうたいながら野をこえてきた。こんな書きかたはくだくだしいか? だが、このような一部始終が、まるで服に取りつくいが[﹅2]かなんぞのように、人の心にまつわりついてはなれないとしたら、それは些細なことだろうか? それが、トンカだった。無限というものは、しばしば、ひとしずくずつ滴り落ちるものである」――書き出しの段落。「こんな書きかたはくだくだしいか?」と自己言及(自己批判)がある。この小説の語り手は、自意識を持っており[﹅9]、ただ物語を過不足なく語るのみの透明な存在ではなく、しばしばその姿を露わに示している。/この一段落の全体としての意味はあまり判然としない。「無限というものは(……)」の唐突なアフォリズムとその前との連関も良くわからないが、この一節はそれだけ抜き出しても威力を持つ、印象的なものである。
  • ●310: 「彼が柳の木につないでおいた、葦毛の馬のことも、言い落としてはなるまい」――ここでも語り手は姿を現している。まるで自分に言い聞かせているかのような口振りである。→●312: 「家のことも忘れてはなるまい」
  • ●312: 「十六歳になったトンカが、あいも変わらず平気で従姉ユーリエといっしょにふざけていたのは、不品行に対する無知というべきだろうか、それとも、不品行を感じとる繊細な情感が、すでに磨滅しつくしていたのだと考えるべきだろうか? どのみち彼女の責任ではないが、それにしてもなんと特徴的なことだろう!」――エクスクラメーションによる「感嘆」。ここで語り手は自分の語る物語内容に言わば評価を下しており、やはりただ物語を語るだけの存在とはなっていない。
  • ●312~313: 「彼と知りあうようになってようやく、この印象が常軌を逸していたということに彼女は気づいたのだった。ところで、彼女の本当の名前はトンカではなく、ドイツ風のれっきとしたアントーニエという洗礼名があった。(……)」――突然の話題転換。トンカの名前について説明されるのだが、ここでなくてもほかにいくらでも置くのに適した場所がありそうなもので、この書きぶりも「グリージャ」と似たような「奇妙さ」を与える。
  • ●313: 「だが、こんなことを考えてみたところで、どうなるというのか。あの日、彼女はただ生垣のそばに立っていただけなのだ」――段落替えを挟んで上記に続く部分で、ここでも語り手は自分の語った内容に自ら疑問を呈している。よく覚えていないが、磯崎憲一郎もやはり、こうした自らに対する「突っ込み」のような声を小説内に取り入れていたと思う。
  • ●313: 「本当のことをいうと、彼がはじめて彼女に会ったのは、ある石造りのアーケードのある大通り、「リング」でのことだった」――奇妙な箇所。なぜ最初から「本当のこと」を語らないのか? 上記の「生垣のそばに立っていた」時点が先に来て、読者は当然そこが「彼」とトンカとの最初の出会いだと思って読むが、実はそうではなかったのだ。引用部分で「語り直し」が行われている。それで見てみれば確かに、上記部分では「彼」とトンカが初めて出会ったとは書かれていない。
  • ●314: 「彼女の顔は整ってはいなかった。しかしその表情には何かしら明確な、きっぱりとしたものがあった。顔全体のバランスがとれている時にのみ魅力的に感じられる、あのこせついた狡猾な女らしさは、この顔の中にはどこを探してもなかった」――「顔全体のバランスがとれている時にのみ魅力的に感じられる、あのこせついた狡猾な女らしさ」。的確な表現。
  • ●314: 「この記憶は確かだった。すると彼女はその頃は反物問屋に勤めていたわけだ。(……)これは夢ではなかった。彼女の顔ははっきり心にうかんだ。(……)」――奇妙な箇所。「この記憶」は誰の記憶なのか? 勿論「彼」のものなのだが、語りの位相がはっきりしないと言うか、「彼」に寄ってその視点と同一化しているようでもあるし、同時に距離を置いているようでもある。「これは夢ではなかった」も奇妙。語られている内容に自信が持てない? 「彼」の記憶が曖昧なのだろうか。
  • ●314: 「そして今、過去の霧をすかして、現実にあったことがはっきり見えるこの時、彼自身の母親の微笑、彼に対する同情と軽蔑にみちた、疑わしげな、傍観者的な微笑が心にうかびあがってきた。(……)そしてそれから、新婚の夜々のことが思いだされた(……)」――「彼」が「今」の時点から、回想をしていることがここで明らかになるわけだが、この「今」「この時」とは一体いつであり、「彼」はどこにいるのか?

 まだ六頁しか読んでいないのだが、「トンカ」は妙に引っ掛かるところが多い。もしかしたら、「グリージャ」以上に奇妙な小説となっているのかもしれない。この二篇と比べれば、「ポルトガルの女」は、まだしも言わば「普通の」小説としての範疇にあり、その範囲で高い完成度を達成していると思う。ところでそれにしても、今、腹が刺されたようにしくしくと痛むのだが、まさか盲腸か何かだろうか。
 しばらくTwitterを覗いたり歯磨きをしたりしたあと、一一時半から書見。ムージル「トンカ」。時折りTwitterを見ながら二時半過ぎまで三時間。エクスクラメーションを用いて大袈裟な感嘆が示されたり、クエスチョンマークによって疑問が提示され、それに自問自答的に答えることによって語りが進んで行く感じなど、いかにもムージルらしいという感じがする。「!」と「?」の数は『三人の女』三篇のなかで一番多いのではないか。
 「トンカ」を読み終えるべく、三時頃まで夜更かしをしてしまおうと思っていたのだが、二時半で眠くなったので力尽き、読了はできなかった。それよりも前、一時半には小腹を満たしに上階に行って、台所の電灯を点け、夜の静寂のなかで音をなるべく立てないように皿を片付け、そのあとからラップを敷いておにぎりを作った。戻ってベッドの上でそれを食いながらさらに読み進め、二時半に到って歯も磨かずに就床したというわけだ。眠りに苦労はしなかった。


・作文
 7:52 - 8:18 = 26分
 8:34 - 10:00 = 1時間26分
 13:02 - 13:31 = 29分
 19:04 - 19:31 = 27分
 20:23 - 22:45 = 2時間22分
 計: 5時間10分

・読書
 10:03 - 11:22 = 1時間19分
 12:39 - 13:02 = 23分
 13:59 - 14:18 = 19分
 14:34 - 14:59 = 25分
 15:03 - 16:56 = 1時間53分
 17:52 - 19:00 = 1時間8分
 23:27 - 26:33 = 3時間6分
 計: 8時間33分

  • 2018/1/8, Mon.
  • 2016/8/29, Mon.
  • 琉球新報「土砂投入海域のサンゴ移植ゼロ 辺野古、首相は「移している」と答弁」
  • 「思索」: 「気分と調律(8)」; 「気分と調律(9)」
  • 「at-oyr」: 「三日目」; 「出勤」; 「公園通り」; 「プレイタイム」
  • WEBVoice: ポール・クルーグマン「消費増税は景気回復を妨げる ポール・クルーグマン氏が語る日本経済の未来」
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-01-06「感傷は錆びた道連れくそったれ言葉は鉄におれは潮に」
  • 2018/12/27, Thu.
  • 2018/12/26, Wed.
  • 「ウォール伝、はてなバージョン。」: 「新年二発目。」
  • 2018/12/25, Tue.
  • 2019/1/8, Tue.
  • 鎌田道生古井由吉・川村二郎・久山秀貞訳『ムージル著作集 第七巻 小説集』: 288 - 346

・睡眠
 0:20 - 6:50 = 6時間30分

・音楽

  • Scott Colley『The Magic Line』
  • Seiji Ozawa/Wiener Philharmonike『Dvorak: Symphony No.9
  • John Coltrane, "Impressions"(『Live Trane - The Europern Tours』:#1-1)
  • John Lewis『Evolution』
  • 『John Mayall & The Blues Breakers with Eric Clapton
  • John Zorn Masada『Masada: Alef』
  • Joni Mitchell『Blue』
  • Joni Mitchell『Hejira』
  • Joni Mitchell『Shadows And Light』
  • Jose James『No Beginning No End』