2019/1/18, Fri.

 九時二〇分頃まで床に留まってしまう。窓枠を離れた太陽の光を顔に受け、起き上がってベッドを抜け出すと、コンピューターにちょっと触れて前日の記録をつけてから上階に行った。母親に挨拶。台所に入るとフライパンにはハムやキャベツや菜っ葉を混ぜた目玉焼きが作られており、前日のスープの残りも僅かにあった。目玉焼きをすべて食べてしまって良いのかと訊くと良いと言うので、それらを皿に移し、卓に就いて食べだす。新聞からは二面の、「退位式 憲法に配慮 「剣璽の儀」 明確に分離 儀式概要 夕刻実施「国民のため」」を読んだ。そうして食器を洗い、風呂を洗いに行く。浴槽の下辺をゆっくりと、しかし何度もブラシを往復させて念入りに擦って仕上げると、緑茶を用意して自室に戻った。時刻はちょうど一〇時頃。母親が打ち直しを頼んだ布団屋が玄関に来ているようだった。こちらはダッシュボードにアクセスするとUさんのブログが更新されていたので、それを早速読みはじめる。こちらは叙事や引用ばかりを綴っていて、論理的な「思索」「思考」を彼ほど長く繋げて綴ることができないので、その点羨ましい部分だ(もっとも、叙事的な箇所も含めてこの日記全体が一つの「思考」だと言えばそれもそうかもしれないが)。引用――「知識とは、過去の信条や慣習を解きほぐし、より方向付けられた態度で世界に参加できるように導く活動である」。「哲学史を読む者は、卓越した言葉の使い手であり、弁が立つことが多いので、哲学者様に世の中の動向を尋ねる、という様子をよく見る。しかし、100人、1000人と人がいる中で、どうして、たった1人の意見だけを参照し、それに従おうとするのか。それこそが最も首を傾げるべき事態である」。「経験の方へと無限に開く運動と、思索によって閉じて結晶化する運動が、断続的に矛盾するとしたら、その矛盾の渦中において、緊張関係が生じるまさにその衝突を通じて思考可能となる、入れ物になりきらない入れ物、という第三の方向へと思索があり得る」。また、最終盤にデリダの名前を出しながら、「デカルトの一般的理解は、テクストの豊かさに沈潜することで揺り動かすことができる」と記されているが、これはこちらの言葉を使って言い換えれば、テクストの具体的な部分部分に当たることによってテクスト外に要約的に流通している一般的なイメージ――それを「神話」とか「物語」という言葉で表すこともできる――を解体せしめることができるということだろう。その場合、そうしたテクストに「沈潜」したことの成果物は、「流通」に抗する「翻訳」のようなものに、あるいは場合によっては「反復」になるのかもしれない。
 それから自分の日記の読み返し。まず一年前。「頭がまたぐるぐると回って落着かなくなっており、そのまま思念がコントロールできなくなり、発狂するのではないかという恐怖を覚える時間があった」、「覚醒時の不安や緊張、恐怖感についてはここのところ毎朝のようにあるわけだが、日中は比較的落着いており、目立った症状は起き抜けのそれのみとなっている」とある。今の目から見てみると、病状は一進一退という印象である。続いて二〇一六年八月一九日の記事は大したものではないが、「その頃には雨は消えて、夏らしく厚くもこもこと寄り集まった雲の周りに瑠璃色の空が覗いていた」という一節を見て、「瑠璃色」という色の表現は最近はとんと使っていないなと珍しく思われた。そうして時刻は一一時過ぎ、Junko Onishi『Musical Moments』を流しながら日記を記しはじめた。このアルバムの最後に据えられている一六分にも及ぶライブ音源、"So Long Eric - Mood Indigo - Do Nothin' Till Your Hear From Me"は名演だと言って良いだろう。
 日記を書き終えると上階に上がり、サンダルを突っかけて玄関を抜ける。家の南側へと小坂を下って行くと、正面から風が流れて身体に当たる。畑に下りて土に埋もれている大根を素手のまま二本取り、玄関外の水場に移ってブラシで擦り洗った。大根の表面にブラシを走らせるたびに水の飛沫が飛び散ってジャージの表面に付着する。洗った二本を勝手口の外に置いておいて室内に入ったのだが、聞けば母親が既に二本、取っていたのだと言う。それでTさんにあげてきたら、ということになった。ちょうど散歩に出るつもりだったので丁度良い。今度は自分の靴をしっかり履いてふたたび外に出て、水場に残っていた泥を流してから濡れた大根を持って道に出た。ちょっと歩いて左、細い階段に折れてTさん宅の敷地に入り、チャイムを鳴らした。はい、と聞こえるのにこんにちは、と呼びかけ、どうぞと続いて言われたので失礼しますと言いながら戸を開ける。なかの障子も開けるとおばさんが立っていたので大根を差し出し、今しがた取ったので、洗ったばかりで濡れているんですけれどと贈呈した。続けて調子はどうかと尋ねると、まあまあだと言う。これを書いている今、そう言えばお大事にとかお身体に気をつけてとか、そうした類の言葉を言い忘れたなと気づいた。Tさんが繰り返し礼を言うのを受けて、失礼しますと退去し、道に戻ってそのまま散歩に入った。Tさんのおばさんは、何だか顔が小さくなったかのようで、少し人相が違ったような印象を受けた。その印象を思い返しながら行く道に空気の動きはほんの僅かで、道端の細い草を微かに揺らがせるほどしかなく、太陽の厚い光線が前髪の裾あたりに寄ってきて暖かい。坂を上りながら、テクストにより「沈潜」する能力を涵養しなくてはなるまいなと考えていた。テクストを読むというのは、道を歩きながら色々なものに目を留め、そこから感覚や思考を伸ばして行くのと同じことである。むしろこの世界のほうがテクストと同じで言わば「無字の書」なのであり、散歩をするということは(と言うか生存して時間を送るということ全般が)それを読むことなのだと言ったほうが良いのかもしれない。従って、ものを読む時にせよ、道を歩く時にせよ、何らかの意味=差異=ニュアンスを自分が感得したということをその都度確かに自覚することが大事なのであって、そうした瞬間が訪れたならばそこから自分が何を感じ考えたのか、何を引き出すことができるのかということを、その時々に最大限求めることが肝要だろう。つまりは何かに遭遇したならば、その遭遇の周りを少々うろつく[﹅4]時間を取るということだ。歩く時はともかく本を読む時にはそこにおいてメモ書きが重要な手段となるだろうが、頭のなかで事柄の周囲をうろつき、事柄を反芻すれば仮にメモを取らなくとも自ずと記憶にも残りやすいだろう(自分の頭自体がメモになるということだ)。言い換えれば、書物=世界を読むとともに、その読書から生起するこちらの内的世界の経過をも合わせて読まなければならないだろうということだ。そんなようなことを考えながら坂を上り、裏路地を行くあいだ、空を見やれば雲はひとひらもなく清々しい青さに満たされている。最近はほとんど連日雲のない快晴が続いていて、この冬は特別に雨が降っていないようだが、それにしても冬というものはここまで雲の存在を許さないものだっただろうか? 路地の角を曲がると、道の外れに生えた竹が風に触れられてさらさらと、葉音のせせらぎを生み出しているが、こちらの立っているアスファルトの上には吹き掛かるものとてない。街道に上がって横断歩道で立ち止まると、ダウンジャケットとジャージを着ている下の身体の、腋の下のあたりなど温みが籠って少々湿りを帯びるようにも感じられた。道を渡ってふたたび裏に入り、斜面に広がる墓地の前を行くあいだ、ここでは風が正面から吹きつけるが、やはり寒いと感じることはない。保育園を過ぎてあたりを見回せば、本当にどの方向を向いても澄み切った青さが視界に入り、空は一つの皺もむらもない水色で際まで塗りこめられている。駅前を通り抜け、車の来ない隙に街道を渡り、ちょっと行って林のあいだの坂に折れた。そこを抜け、道に落ちている枯葉を踏んでぐしゃぐしゃと繊維の砕ける音を立てさせながら自宅に戻った。
 食事。茸の入った暖かな汁にうどんをつけて食う。ほか、牛肉の佃煮ともう一品何かがあったはずだが忘れてしまった。ものを食べて食器を洗うと自室に戻り、一二時半過ぎから蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』を読みはじめた。時々インターネットに触れながらも、五時過ぎまで四時間以上通して書見。BGMはJunko Onishi『Musical Moments』をもう一度流し、さらに『Live At The Village Vanguard Ⅱ』、Aaron Parks Trio『Live In Japan』。初めのうちはベッドの上に乗っていたが、じきに縁に腰掛けて椅子の上に書籍を乗せた。足もとは電気ストーブで温風を横から送るのだが、これが裸足に熱くて下肢が落ち着かず、たびたび位置をずらすがぴったり嵌まる距離が見つからない。そんなわけでもぞもぞ動きながらも読書を続け、部屋も薄暗んだ五時を回って夕食を拵えに行った。階段を上り、電灯を点けてカーテンを閉める。そうして台所に入るとまず米を磨いだ。それから大根の葉を茹でる用意がなされていたので、緑色の葉っぱを半分に切断して鍋に入れ、加熱しているあいだに茄子を切る。二本切って小鍋の水に晒したところで大根の葉を笊に取り、水を掛けて冷ますと一本残った茄子も切り、そのあとから葉っぱも細かく刻んだ。ほか、冷凍されていた豚肉を解凍して切り分け、フライパンで野菜を炒めはじめる。蓋を乗せて蒸し焼きにし、時折り開けてフライパンを振って搔き混ぜながら加熱し、肉も入れて赤味がなくなると醤油を加えて完成、合間に大根もスライスしてあった。汁物は昼の残りがあったので簡易だがこちらの仕事はそれで終いとし、室に帰るとふたたび読書を始めた。BGMはJoe Lovano『Tenor Time』を流す。スタンダードばかりで少々気の抜けたような、あまり締まりきらないアルバムだが、大西順子が頑張っている。『「ボヴァリー夫人」論』は七時半過ぎまで読み進めて、そうして夕食に行った。メニューは白米・煮た大根を加えられた汁物・鮭・昼の残りの細麺うどんを和えたサラダ・生の大根のスライスサラダ・大根の葉と茄子と豚肉の炒め物。新聞を読むでもなく、テレビに殊更見入るでもなく、ぼんやりと頭のなかで思考を回しながらものを食べ、食後すぐに風呂に入った。入浴など面倒臭い、さっさと出て本を読むなりものを書くなりしようと思っても、浸かって散漫な物思いを広げていればいつの間にか一〇分二〇分と過ぎている。出てくると緑茶を用意して下階に帰り、久しぶりに少々娯楽に遊んでから日記を記しはじめた。Joe Lovano Ensemble『Streams Of Expression』を背景にここまで進めて一〇時一〇分を迎えている。
 それでは以下に、Ernest Hemingway, The Old Man and the Seaの昨日読んだ部分からメモを取っておこう。

  • ●45: But he could see the prisms in the deep dark water and the line stretching ahead and the strange undulation of the calm.――undulation: うねり、波立ち
  • ●45: He looked at the sky and saw the white cumulus built like friendly piles of ice cream and high above were the thin feathers of the cirrus against the high September sky.――cumulus: 積雲 / cirrus: 絹雲
  • ●46: It is humiliating before others to have a diarrhoea from ptomaine poisoning or to vomit from it.――ptomaine poisoning: 食中毒
  • ●44: I wish I could feed the fish, he thought. He is my brother. But I must kill him and keep strong to do it.――魚は"my brother"なのに、それを殺さなければならないという矛盾(?)。
  • ●48: There was a small sea rising with the wind coming up from the east and at noon the old man's left hand was uncramped.――時間の指定、二日目の正午。

 続いて、『「ボヴァリー夫人」論』から。

  • ●362: 「エンマの髪は、シャルルにとって、何よりもまず距離をおいて視線で感じとるべき対象であり、触覚を刺激するものとしては描かれておらず、あたかもその黒髪に手をそえるのを怖れているかのように、彼は「妻の櫛や指輪やスカーフ」(Ⅰ-5: 55)に触るだけで満足している」
  • ●397~398:

 今日まで生きてきたこの一生のうち、楽しかったことといえばなんだったか? (……)さて学校を出てからの一年と二ヵ月というものは、ベッドにはいっても足が氷のように冷たい後家といっしょに暮らした。ところがどうだ、今こそは最愛のあの美女を永久にわがものとしてしまったのだ。(Ⅰ-5: 55)

  • 「(……)「結婚によって、よりよき生活状態の到来を予想」していた彼にとって、「ベッドにはいっても足が氷のように冷たい後家」とのトストでの結婚生活のみじめさが強調されているのは当然だろう。とりわけ我慢ならないのは、「人さまの前ではこう言いなさい、ああ言ってはいけません。(……)細君は彼に宛てた手紙を開封し、彼の行動をひそかにうかがい、女の患者が来て診察室で話していれば、壁越しに聞き耳を立てた」(Ⅰ-1: 22)と書かれているように、妻のたえざる介入である。つい読み落としがちなこうした細部によって、第一部の二章の冒頭で語られていた深夜の骨折治療の依頼が、書簡として二人の寝室にもたらされていたことの意味が改めて明らかなものとなる。年上の妻とベッドをともにするのをシャルルが快く思ってはいなかったその寝室に手紙がもたらされ、しかも、いつもならまず妻が目を通していたはずの封書をかたわらの彼女にさきがけて自分の手で開封し、みずからその内容に目を通すことが第三者の視線の前で初めて可能になったのであり、その例外的な振る舞いが、彼に新しい土地での新たな出会いをもたらすことになるのである」――『ボヴァリー夫人』からの引用文中で、「楽しかったことといえばなんだったか?」と反語的に疑問を投げかけ、エンマと結婚した現在との対比で語られているのだから、第一の夫人エロイーズとの結婚生活がシャルルにとって決して楽しいとは言えなかったことは確かだろう。その点、その生活が「みじめ」と形容されるところまではわかる。しかし、もう少しシャルルの心のなかに突っ込んで、「我慢ならない」という言葉を使うのは果たして適切なことかどうか。と言うのも、以前にも記したことだが、彼と最初の妻エロイーズとの夫婦関係を語る『ボヴァリー夫人』の該当箇所(二二~二三頁及び三一~三四頁)には、シャルルが結婚生活についてどのように感じていたかを示す直接的な表現は何一つ書き込まれていないように見えるからである。勿論、これも以前に記したように、細君の指図や嘆きや小言に対してシャルルが「うんざり」して「不満や失望」を抱えていたであろうことは容易に想像がつく[﹅5]のではあるが、しかしテクスト上にはそうした彼の外面的・内面的反応は明示されていないという「テクスト的な現実」を尊重するべきではないのだろうか。――もっとも、この点に関してこちらの疑念が受け入れられるとしても、この章におけるシャルルとエンマの類似、彼女による彼の反復という主要な論旨はほとんど傷つかないわけで、こちらはまさしくどうでも良いような枝葉末節にこだわっているわけなのだけれど。また、それはそれとして、後半のシャルルの「例外的な振る舞い」に関する観察は慧眼だと思う。
  • ●402: 「実際、「後家あがりの細君はやせがれて、前歯がいやに長くて、春夏問わず小さい黒のショールをかけて、その先が肩胛骨のあいだにたれてい」(Ⅰ-2: 33)たり、「そのドレスが短すぎて、足首がのぞき、平べったい靴につけた飾りリボンが鼠色の靴下の上で蝶結びになっている」(同前)といった描写には、その存在に対するシャルルの嘔吐に近い拒否反応がにじみでており、いったん抱いてしまったその否定的な感慨を意識から遠ざけることは、ほとんど不可能というに近い」――上と同趣旨。上記の描写に果たして「シャルルの嘔吐に近い拒否反応」までをも読み込めるかどうかこちらには疑問である。原作の該当箇所を読んでみると、この描写が、話者がシャルルの視点を借りてその目を通して語っているものなのか、それとも話者自身の認識を述べているのかを決定することは、きわめて微妙な問題のように思われる。
  • ●403: 「もちろん、シャルルが年上の未亡人と暮らしたのは「学校を出てからの一年と二ヵ月」(Ⅰ-5: 55)ほどのことでしかないのだから、配偶者ではない異性を愛する「権利」への自己肯定的な確信や心の底での配偶者の「否認」は、エンマのそれにくらべてみれば素描されたという程度の簡素なものでしかない」――上と同趣旨。果たして、シャルルの「心の底」などというものが読み取れるように書かれているのかどうか。
  • ●411: 「(……)自分自身の意志で選択したとはとても思えない窮屈そうな衣装をまとった少年が、もどかしげに「シャルボヴァリ」と口にするのみで、彼はみずからを他からきわだたせる勝義の特性のようなものを何ひとつ印象づけてはいない」――「勝義」。初見。意味は「その言葉の本質的な意味」。
  • ●414: 「ところが、シャルルやエンマの場合は、個性や性格として受けとめるにふさわしい独特な振る舞い方や言葉遣い、あるいは二人をとりまく室内や戸外の表情が物語の進展につれて豊かさをますということはほとんどなく、「読みやすさ」の保証としてははなはだ心もとない。それは、この二人が、あたかも作中人物としてはいわば「素人」にほかならず、作中人物の「玄人」――ほかの作家の作品においても、充分にその役割を演じうるという意味で――として振る舞うオメー氏やルールー氏のように、誰もが見誤ることのない個性的な人物像としては描かれていないからであり、その点でもシャルルとエンマはよく似ている」――作中人物の「素人/玄人」。面白い表現。
  • ●414: 「いうまでもなく、ある意味では兄妹のようによく似ているシャルルとエンマもまた、しかるべき点ではまったく異なる存在である。だが、その違いが二人の個性や性格などには還元されがたいところに、『ボヴァリー夫人』という長編小説のフィクションとしての意義深さが認められる
  • ●416: 「では、普通の人間とは何か。それは、その「個人的な世界」が読むものを多少とも惹きつける「特性」をそなえてはいない存在だとひとまずいえる」
  • ●422: 「あるいは、未知の存在にみたされた空間と初めて接した外部の人間の、不意の存在感の低下といったものに読者が立ちあっているといえばよいのかもしれない。それが、「特性」のない男シャルルの特性なのだといってもよい」――ムージルを想起しない者はいないだろう。
  • ●430: 「しばしば「描写魔」と呼ばれたりするフローベールにとっての建築は、その全貌も細部の骨格も描写の対象とはなりがたいものばかりだ。実際、導入部におけるシャルルやエンマにとっての主要な舞台装置となる中学校も尼僧院も、その建築学的な構造はいささかも描かれてはおらず、そこにたちこめている空気(……)の漠たる記述ですまされている」
  • ●462: 一八八〇年、フローベール死去。
  • ●482: 「したがって、「論理実証主義」によるなら、シャルルやエンマというフィクションの作中人物を含む『ボヴァリー夫人』のテクストは、「偽」の命題の連鎖にほかならないと結論される。その理論にしたがうなら、「ご自分をボヴァリー夫人に比較なさってはいけない。まったく似てはおられないのです」というルロワイエ・ド・シャントピー嬢に向けたフローベールの言葉もまた「偽」ということになろう。だとするなら、論理実証主義」なるものは、そうした「偽」の言葉なしにこの矛盾にみちた世界が成立しているとでも主張しているのかと真摯に問わざるをえない。いったい、彼らは、「真」と判断される命題だけで、この世界の曖昧さや複雑さが記述しうると本気で信じているのだろうか」
  • ●494: 「ところで、「ファイヒンガーのいう『美的フィクション』、芸術の形成体も『かのように』の構造によって規定されうるか」(ハンブルガー、ケーテ、『文学の論理』、植和田光晴訳、松籟社、1986年、48)という疑問を呈するハンブルガーは、語源的に見て「かのように」の構造は、ラテン語の《fingere》系の動詞に連なるものには妥当するが、同じラテン語の《fictio》系の動詞につらなる文学のフィクションには妥当しないと述べている。フリードリッヒ・シラー Friedrich von Shiller の戯曲『マリー・ステュワート』を挙げながら、「シラーはその作中人物マリー・ステュワートを、あたかも現実のマリーであるかのように造形したのではない」(同書 49)からというのがその理由であり、「装われたもの」と「創造的に形成」されたものとの差異を識別しそびれたが故に、ファイヒンガーは「『美的フィクション』の記述に失敗した」(同前)というのが彼女の結論である」
  • ●498: 「(……)「ドラマール事件」や「ルルセル事件」とはまったく事情が異なり、ヨンヴィルを舞台とした「ボヴァリー事件」などまったく起こりはしなかったのである。それが、『ボヴァリー夫人』のエンマの自死の試みのアイロニカルな効果にほかならない。アイロニカルというのは、彼女がみずからの意志で毒物を嚥下したにもかかわらず、「地方風俗」の維持のためにそれが事故死として処理されたのだから、宗教的にも社会的にもその意志は無視されてしまったというほかはないからである。にもかかわらず、フィクションをめぐって理論的な言説を展開しようとする者たちは、誰ひとりとして、そうした「テクスト的な現実」に目を向けようとせず、「エンマ・ボヴァリーは自殺した」と書くことでフィクションを読み誤っている
  • ●765; Ⅶ章註(1): 「「芸術と文学への愛が私の唯一の慰めです」(Corr. Ⅱ 695)というシャントピー嬢は、フランス西部のアンジェ Anger 在住の女性である。「地方の不愉快な環境に暮らしている私は、いまなお誹謗中傷や不正に苦しまねばなりませんでした」(同前)と書く彼女は、「私の悲哀と倦怠と渇望とは、あなたが『ボヴァリー夫人』でみごとに描かれたものそのものです」(同前)と続けている」――この部分を読んだ時に、一五〇年以上前のフランスにもこのような、文学への熱愛だけを拠り所とした孤独とも思える生を送る女性がいたのだな、と少々しみじみとしたような気持ちになった。
  • ●775: Ⅷ章註(18): 「脱構築」とは、「ある「理論的な言説」が、そのいわんとするものとは異なる別の意味を指し示していることを見わけ、その意味を明らかにする振る舞い」である。

 上記まで記すと既に零時だった。そこからふたたび『「ボヴァリー夫人」論』の書見に入った。深更、腹が減ってきてカップラーメンでも食おうかと思ったのだが、上階の様子を窺いがてら便所に行ってみると階上はまだ明かりが点いており父親が起きているようで、テレビを前にして一人で騒いでいる声や気配すらないものの、何かの音楽が流れ出していた。それでものを食べるのは止めにして用を足すと自室に戻り、それでも今夜は出来る限り本を読み進めよう、二時三時まで、何だったら場合によっては徹夜をしても良いと、そんな気分でいたところが、しかし一時半過ぎには瞼が落ちるようになったので、大人しく諦めて床に就いた。布団のなかでの記憶は残っていないので、早々と寝付いたのではないか。


・作文
 11:12 - 11:46 = 34分
 21:23 - 23:59 = 2時間36分
 計: 3時間10分

・読書
 10:01 - 10:31 = 30分
 10:42 - 11:11 = 29分
 12:35 - 17:12 = 4時間37分
 18:13 - 19:35 = 1時間22分
 24:02 - 25:40 = 1時間38分
 計: 8時間36分

・睡眠
 2:00 - 9:20 = 7時間20分

・音楽

  • Junko Onishi, "So Long Eric - Mood Indigo - Do Nothin' Till Your Hear From Me"
  • Junko Onishi『Musical Moments』
  • Junko Onishi『Live At The Village Vanguard Ⅱ』
  • Aaron Parks Trio『Alive In Japan』
  • Joe Lovano『Tenor Time』
  • Joe Lovano Ensemble『Streams Of Experssion』
  • Junko Onishi『Tea Times』