2019/1/19, Sat.

 七時三五分、出し抜けに目覚める。夢を見ていたがその詳細はもはや失われた。二度寝に入らずベッドを抜けて、寝間着の上にダウンジャケットを羽織って部屋を出る。上階に行き、ストーブの前に座りこんで身体を暖めたのち、洗面所で顔を洗ってから台所。ほうれん草の小片がフライパンに乗っていたのでそれに卵とハムを足して焼く。ほか、前夜の残りの薩摩芋に鮭や、即席の味噌汁である。卓に就いて新聞をめくりながらものを食べる。新聞からは一三面の「補助線: 見えない戦争が始まった」を読んだ。「ロシアのサイバー部隊は1000人規模に上る」。また、「北朝鮮はサイバー部隊を7000人抱え」ており、「中国はさらにその先を行く。諸外国へのサイバー攻撃を担当する部隊は13万人に達するという」。さらには、昨年の秋の日中首脳会談での習近平国家主席の発言が紹介されていた――「中国にサイバー部隊はある。攻撃をしてはいけないと言い聞かせているが、中国は発展途上国だから、民間のハッカーが攻撃することがあるかもしれない」。「中国は発展途上国だから」などと、そんなことは本当はまったく思っていないだろう。そうして食事を終えると食器を洗ってポットに湯を足し、一旦自室に帰った。Twitterを覗いたり、メールで届いたfuzkueの読書日記を瞥見したりしたのち緑茶をつぎに上がって行く。茶を用意する前に、台所で鏡餅を細かく切断した。干して霰[あられ]にして食べるのだと言う。既に一つ分切ってあって、三つ分あったもののうちこちらも力を込めて一つを切ったが、最後の一つに関してはこのような面倒なことはやっていられないというわけで頬かむりし、緑茶を湯呑みに注いで自室に逃げた。そうして日記。前日の分を僅かに書き足して投稿し、この日の分もここまで綴って九時半。BGMはJunko Onishi『Musical Moments』だが、このアルバムは相当な充実作だと思う。名盤と言ってしまっても良いのかもしれない。
 一年前の日記を読んだ。O.Mさんが尋ねてきている日で、この人は祖母と仲の良かった近所の老婦人で、元々快活だったのに鬱病だかノイローゼだかに掛かってしまい、この日の少し前にも尋ねてきてその時は自殺をしようと思って橋まで行きたかったが行く気力すらもなかったなどと口にして、大丈夫かと思っていたところの再訪であり、この日は先般よりも元気なように見え、チーズケーキなど出すと喜んで食べていたのだったが、結局昨年の三月に自殺をしてしまった。自ら言っていた通り、橋から飛んだらしい。こちらも鬱症状のピーク時にベッドのなかで飛び降りることを想像してばかりいたその橋だろう。死にたい死にたいと思いながらもとてもでないが飛び降りる勇気のなかったこちらからすれば、よく飛んだものだなと思われるが、それはやはり勇気とか気概の問題ではなく、そこまでもう追い詰められていたということなのだろうか。
 それからさらに二〇一六年八月一八日の日記も読んでブログに投稿し、続いてMさんのブログを読んだ。冒頭に引かれていた松本卓也『享楽社会論』からの引用が面白かったので、一部ここに引かせてもらう。

 さらに遡るなら、このような関係は、西洋思想がデカルト以来維持してきたひとつのオブセッションでもあった。実際、ジャック・デリダ(1967)が指摘しているように、デカルトの「コギト」は、非理性(悪霊)を排除することによって近代的で理性的な主体を確実なものとして立ち上げるものであったというよりも、非理性につきまとわれている可能性に絶えず苛まれているものであった。言い換えれば、「コギト」とは、亡霊のような非理性の取り憑きを自覚し、むしろそのこと(「われ疑う」)を〈私〉の確実性の根拠に据えようとするものであった。つまり、〈私〉は非理性(悪霊)を排除することができないがゆえに――実際、彼は『省察』のなかでメランコリー性の狂気の事例を参照している——存在しうるのであり、「コギト」は人間の理性を狂気から切り離して純化することを可能にするどころか、理性が狂気なくては存在しえないことを示すものですらあったのである。
 カントもまた、『純粋理性批判』のなかで感性を統合する超越論的な「統覚 Apperzeption」の機能について検討する際に、精神医学者ならば統合失調症の幻覚や自我障害と呼びたくなるような狂気の現象を次のように参照している。
 「私は考える Ich denke」が、私の表象のすべてにともなうことが可能でなければならない。そうでなければ、まったく思考されることのできないものが私に表象されることになるからである。(…)ある直観において与えられている多様な表象は、それが総じてひとつの自己意識にぞくするのでなければ、総体として私の表象であることにはならないだろうからである。(…)そうでなければ、じぶんに意識されている表象を有するのと、おなじだけさまざまに色づけられて、あいことなった自己を私はもつことになるだろう(…)。(カント 2012, pp.144-8)
 パラフレーズしておこう。人間の「正常」な認識は、頭のなかに湧き上がるあらゆる表象に「私のもの」というラベルを貼ることによって成立している。たとえば、〈私〉が頭のなかで考えた言葉あるいは〈私〉に生じた感情や空想は、すべて〈私〉が考えたもの(=私のもの)である。では、もし、「私のもの」というラベルが貼られていない表象があったとすれば、どうなるだろうか。そのとき、私の頭のなかでは、誰か別の人が考え、話す——つまりは、幻聴や考想吹入のような自我障害が生じる——ということになり、さらには〈私〉そのものの精神が分裂することになってしまうにちがいない。そうカントは主張しているのである。だとすれば、狂気ではない私たち人間の「正常」な認識には、狂気を抑え込む「統覚」というメカニズムが備わっているはずである。このように論証を進めるカントもまた、狂気の可能性から出発して人間の真理を獲得しようとする弁証法的な運動に依拠していたと言えるだろう。この意味で、カントが「脳病試論」や『実用的見地における人間学』のなかで狂気に興味をもち、その分類を試みたことは一種の理論的必然でもあった。カントが見いだしたものが近代的自己の構造であったとするならば、その構造の発見は、近代的自己を確固たるものとすることを可能にするとともに、その自己なるものが故障しうること、狂いうることをその構造的必然として抱え込んでいることを同時に抉りだしてしまったのである。
 (松本卓也『享楽社会論 現代ラカン派の展開』より「第一章 現代ラカン派の見取り図」)

 そうしてものを読んでいるうちにあっという間に一一時、時の階[きざはし]が絶え間なく、砂のようにぼろぼろと零れていって時間が過ぎるのが早くて仕方がないが、Ernest Hemingway, The Old Man and the Seaを読みはじめた。こちらの乗ったベッドの上には正午前の光が射し込んで暖かかったはずだ。The Old Man and the Seaには"strange"という単語がよく出てくるかもしれない、今のところ、まだ意識していなかった序盤を除けば三回出てきている。そうして一一時四五分で切りとして、食事を取りに上階に行った。母親は不在で、メモを見るとクリーニング及び宅配事務所に行くということだった。カップラーメンのシーフード味を戸棚から取り出して湯を注ぐ。一方で小さな豆腐を電子レンジで加熱し、持ってきた蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』に目を落としながら出来上がりを待つ。一分半加熱した豆腐を持ってきて、シーザーサラダドレッシングを掛けて食べながらラーメンの三分を待ち、麺がほぐれると分厚い本をティッシュ箱に立てかけて目を向けながらジャンクフードを啜る。その後ゆで卵も食べ、さらには何か野菜が食べたかったというかシーザーサラダドレッシングが思いのほかに美味くて、生野菜にそれを掛けて食べたかったので台所に行って大根を細かくスライスした。それを食べているところで母親が帰ってきて、カップラーメンばかり食べていると身体に悪いというようなことを言われたが意に介さない。そうして食器を片付けると散歩に出た。西へ向かう。陽の射すなかを歩き十字路まで来ると前方に人があって、どうやらHさんらしい。道の角に設けられた立て看板をしばらく見てからこちらに向かって来たが、この人は無愛想な人でこちらが挨拶をしても不機嫌そうな調子で低く返すだけなのでこの時は声を掛けなかった。看板は選挙の候補者を告示するそれと似ていたが、工事の知らせだったようだ。坂を上り、裏路地を行きながら、上に引いた『享楽社会論』のなかの「統覚」や狂気について散漫にものを思っていた。自分も一年前にはいわゆる自生思考に襲われて狂気に近づいたように思われたのだったが、いわゆる統合失調症の患者と自分の症状とで決定的に違っていたのは、頭のなかの独り言がこちらにあっては終始一貫して自分に属するものとして感じられていたということだろう。他人の考えを吹き込まれているだとか、頭のなかでほかの存在が喋っているとかいう風に感じたことは一度もなかった、ただ思考=脳内言語のスピードが半端ではなく、無秩序な奔流として疾走していくのに発狂するのではないかという恐怖を覚えるのだった。また、こちらが呼ぶところの「殺人妄想」、自分の意志によらず脳内に独りでに「殺す」とか「殺したい」とかいう語句が浮かび上がる、ということもあったが、これにしても事情は同じで、それは自分の意志には反する思念だったものの、しかしだからと言って決して他人の考えでもない、あくまでやはり自分の思考として認識されていた。もう一つ、いわゆる精神病の患者と自分で違っていたのは、これは第一の点と同じことなのかもしれないが、自生思考は自分の頭のなかに留まるもので、それが外界に響く声として聞こえるわけでもなかったし、他人にも聞こえるものとして認識されていたわけでもなかった。その点こちらは、異常な現象に襲われながらもあくまで理性を保っていた、決定的な狂気の領域へと境を越えることはなかったというわけだろう。歩きながら、しかしこの頭のなかの声が他人には聞こえていないというのも、何だか考えてみると不思議なようだなと思われたのだったが、これは自分の場合、自らの思考(の少なくとも一部)をも常に客体として対象化している(脳内にほとんど常に独り言が発生している)から、それが外界の事物などと等し並に、ほとんど同一平面上にあるように感じられるからだろう。そんなようなことを考えながら街道を歩いているうちに、コンビニの前を通り過ぎるくらいまで来ていたはずだ。この日も空は絹雲のひと刷毛すらも見られぬ快晴だが、しかし前日よりも広がる水色は軽い質感のように思われた。街道をさらに先まで行き、通りを渡る際に、西の彼方の山が目に入る。くすんだ色合いの常緑樹の表面を覆って動物の毛皮のようになっているその姿の、しかし全体としては遠く煙るようで地平の果てに貼りつけられたような平板さだった。それを見やりながら方向転換し、今しがた歩いてきた街道に沿う細道に入って東に向かう。陽射しのなかに塵のような細かな虫が無数に漂って途切れることがない。じきに路傍に現れた櫛形の細い葉の集合の、光をはらんで凍りついたように、あるいは滝の流れのように白く輝いているのを見て、やはり凄いなと思われた。道が尽きると街道に合流し、車の流れ過ぎていく横をちょっと歩いたのち、家へと続く裏道に復帰した。坂を下って行き、小橋に掛かるとそこの宙に垂れ下がった枝葉が絨毯のように広がっており、やはり光を帯びて硬質になっているその平面的な広がりの、鱗のようなざらつきも凄いなと目を惹いた。さらに行くと洗濯物を取り込んでいたKさんの奥さんが上から挨拶を降らせてくるので、こんにちはとこちらも声を放って残りの帰路を辿った。
 帰宅後、一時過ぎから読書。『「ボヴァリー夫人」論』である。夕食の支度も怠けて七時直前まで六時間弱、読み耽ったが、途中ベッドにいるあいだに眠気にやられた時間があったから実質五時間くらいだろうか。この分厚い批評書も残り一〇〇頁強のところまでやって来た。そうして食事を取りに上階へ。白米・煮込み素麺・大根やモヤシやベビーリーフやパプリカやカニかまぼこのサラダ・豚肉の上にチーズや何やらを乗せてオーブントースターで焼いた料理。食べながら夕刊の一面から、「米朝会談2月末 トランプ氏 北高官と面会」を読む。テレビは『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』。大山と言うから鳥取らしい。確か志賀直哉が『暗夜行路』の終盤で舞台にしていたのがこの山だろう。そちらにも目を時折りやりながらものを食べ終えると、すぐに入浴した。一五分ほどで早々と上がる。そうして緑茶を用意して自室に帰り、飲みながらfuzkue「読書日記(119)」を読んだ――一月八日の記事まで。それから自分の日記を綴る。音楽はJunko Onishi Trio『Live At The Village Vanguard』と同じく『Ⅱ』。ここ最近大西順子のアルバムをよく聞いているが、彼女の演奏には外れがない。
 それからふたたび『「ボヴァリー夫人」論』を読む。ヘッドフォンをつけて、Martha Argerich『Schumann: Fantasie In C, Fantasiestucke, Op.12』Pablo Casals『Schumann: Cello Concerto & Showpieces』を聞きながら読書をした。ジャズに比べてクラシックというジャンルは聞き慣れておらず門外漢で、その評価基準も固まっていないのだが、前者は正直なところあまりピンとこなかった。Casalsが時折り唸り声を漏らしながら音程のやや不安定な演奏を披露している後者のほうが気に入られたようだ。そうして二時半まで書見を続けたのだが、零時を過ぎたあたりから時計を見た記憶がなく、二時半に至った時はベッドの上で眠気にやられてはっと気づいたのだった。それで歯磨きもせずにそのまま就床した。『「ボヴァリー夫人」論』はこの日だけで一五〇頁ほど読んだのでなかなか頑張っているものだが、しかし少々急いた読書になってしまったような気がしないでもない。


・作文
 9:03 - 9:30 = 27分
 20:25 - 21:42 = 1時間17分
 計: 1時間44分

・読書
 9:30 - 10:59 = 1時間29分
 11:09 - 11:45 = 36分
 13:12 - 18:54 = 5時間42分
 20:07 - 20:25 = 18分
 21:46 - 26:32 = 4時間46分
 計: 12時間51分

  • 2018/1/19, Fri.
  • 2016/8/18, Thu.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」; 2019-01-15「透明なものが透明でなくなる夜はまぼろしいまここで死ね」; 2019-01-16「胃薬を奥歯で砕く魂は樹木のごとく血は葉のごとく」; 2019-01-17「偽物の狂気をまとって海に行く余震にはじまり余震に終わる」
  • Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea: 49 - 54
  • 蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』: 532 - 673, 778 - 788
  • fuzukue「読書日記(119)」; 1月8日(火)まで。

・睡眠
 1:40 - 7:35 = 5時間55分

・音楽

  • Junko Onishi『Musical Moments』
  • Junko Onishi Trio『Live At The Village Vanguard
  • Junko Onishi Trio『Live At The Village Vanguard Ⅱ』
  • Martha Argerich『Schumann: Fantasie In C, Fantasiestucke, Op.12』
  • Pablo Casals『Schumann: Cello Concerto & Showpieces』