2019/1/31, Thu.

 まだ暗い四時前に目覚めた。そこでもう起きてしまって本を読もうということで、明かりを点けて、蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』を読みはじめた。しかし、やはり眠りが足りないのか、段々と目がひりつくようになってきて、仕方ないので五時半に達したところでもう一度眠ることにした。入眠は容易だったようだ。そうして、一一時まで眠りこけてしまう。昨夜は一一時には意識を失っていたと考えると、睡眠時間は合わせて一〇時間以上に上る。不眠が解消されて容易に眠れるようになったのは良いことなのだが、全然眠気の湧かないあの状態も読書の時間を確保するという観点からは益するものだったと言うか、端的に言ってもっと早起きしてもっと本を読みたいところはある。
 上階へ。母親に挨拶。せっかく早く起きたのにまた寝ちゃったよと漏らす。台所には「ルクレ」のスチームケースに温野菜が入っていた。それを温める一方、昨日コンビニで買ったレトルトカレーも食べることにして、小鍋に湯を沸かす。ほか、野菜スープ。湯が湧いたところでレトルトパウチを投入しておき、卓に就いて新聞を読みながら食べる。新聞記事は三面の、与野党代表質問についてのもの。醤油を掛けた温野菜(南瓜・人参・ピーマンなどに餃子が二つ入っていた)を食べ終えるとそろそろ良かろうというわけで台所に行き、炊飯器に僅かに残った米を全部払って、その上からカレーを掛けた。そうして卓に持って行くと炬燵に入ってタブレットを弄っていた母親が、凄いスパイスの匂いがする、と言った。それでものを食べ終えると薬を服用し、食器を洗う。そうして、前日はまた風呂を洗うのを忘れてしまったので、今日は怠るまいと早速浴室に行って浴槽を擦った。そうして自室にやって来て、日記を記すともう正午を回っている。
 日記の読み返し。一年前、二〇一六年八月八日とも、特段に言及しておくべきことはなかったと思う。それからMさんのブログ。松本卓也『享楽社会論』からの引用が面白い(この本は、昨日図書館で心理学関連の棚にあるのを発見した――ついでに言えば、立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』もそのすぐ近くにあった。これでMさんに本をあげてしまってから読みたくなっても困ることはないだろう)。さらに熊野純彦インタビュー「無償の情熱を読み、書く  『本居宣長』(作品社)刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4180)も読んだ。『古事記伝』は何と全四四巻もあるらしい。『古事記』のテクストを本当に一字ずつ劃定し、その読み方もすべて確定すると、そういう途方もないような仕事だったようだが、それを書くほうも書くほうだがすべて読むほうも読むほうである。しかも熊野という人はおそらく、それをカントやらハイデッガーやらの翻訳と並行して読んでいたようだからとんでもない。一体どこにそれほど多くの仕事をする時間があるのか。野家啓一だったか野矢茂樹だったかが(いつもどちらがどちらなのか区別がつかなくなってしまう)ちょっと前に新聞の書評でこの『本居宣長』を取り上げて、「この人の頭のなかは一体どうなっているんだ」という称賛を発していたけれど、それもむべなるかなという感じである。熊野純彦の本は色々と読んでみたい。さしあたり、図書館にはカントについての連載をまとめた『カント――美と倫理とのはざまで』があって、これは以前から読んでみたいと思っているし、ほか、講談社選書メチエから出ている『西洋哲学史』もあることを認識している。これは熊野の単著ではなくて共著だが、それを読んでみるのも良いだろう。岩波新書でも何かしら出していたはずだ。以下、引用――「宣長の政治思想を論じるというのは、足の小指を論じるようなものです」。「もう一つは、何と言っても『古事記伝』全四四巻。(……)宣長による膨大な註釈は、いま現在一人の学者が一生で身につけ得る教養を、おそらく超えてしまっている」。

しかし僕が「なお生きる宣長」という言葉に寄せて、今回一番書きたかったことは、宣長の学問の中には、「無償」の、見返りを求めない情熱が生きているということでした。人文学が危機に瀕する現代に、何かに仮託してでしかなかなか言えないことですが、真の学問とはいかに無償のものなのか。宣長はカントと同時代人ですが、この国にかつて、学問に無償の情熱を傾けた人間がいたということを、どうしても書きたかったのです。


宣長問題」としてもう一つ、宣長は本当に古伝説を信じていたのか、ということが取り沙汰されるのですが、それはテクストを本気で読むということを知らない人が立てた、つまらない問いです。読書の現場ではテクストが全てです。優れた解釈者は、物語を単に読むだけではなく、物語を生きるのです。(……)


優れたテクストからは、そこから都合のいい思想像や概念像を、取り出すことに挫折するものです。というのも、テクストの本当の魅力は細部にしかないからです。『古事記伝』はその典型的な本で、全国に散らばった弟子たちが、手紙で知らせてくる古伝説や土地土地の風習[ならわし]、遺されている言語[ものいい]、古典籍についてのささやかなエピソードなど、細部のつぶつぶが際立つ本です。それに比べて宣命祝詞のような文体で肩ひじ張った「直毘靈」など『古事記伝』本論に比べ、全く光を放たない。宣長について手っ取り早く論じようという人がそこしか読まないから、奇妙に傾斜した像が描かれてしまうだけのことです。逆に言うと、『古事記伝』の細部を取り上げて、一生懸命読み込んでも、都合のいい宣長像など、結びません。それは仕方がないことです。後世の人間が都合のいい図柄を作るために、先人たちの仕事があるわけではないのだから。

古代末期から現代に至るまで、プラトンアリストテレスの言論に、その数十倍もの註釈がつけられ、デカルトの数十頁の原文に対して、E・ジルソンが何百頁もの註釈をつけ、カントの五〇頁の原文に対して、ファイヒンガーが二巻本の註釈をつける。註釈の奥深いつまらなさと面白さ。つまらなさは学問の厳しさだし、面白さは註釈をつける人間、一人一人の面白さです。

そうした膨大な註釈をつけてテクストを読み、さらにその註釈自体を読むというのは、回り道に見える学びだし、明日の飯にはならない仕事です。でも近道を目指すことばかり続くならば、人文学のような学問は死滅します。つまらなさに耐えて、面白さを発見することが人文学には宿命としてあるのだと思います。

もう少し広い文脈で大言壮語するならば、この現代社会における価値の一元化が僕にとっては耐え難い。効用も有用性も究極の価値など与えません。それは「何かのため」でしかないわけですから。何のためでもないことにこそ、究極の価値がある。

分かりやすいのは遊びです。不謹慎なことを言えば、学問なんて遊びなんですよ。だから、おまえたちが遊ぶために、なぜ金を出さなければいけないんだと言われたら、ぐうの音も出ないわけですが。僕は啓蒙という言葉は大嫌いだし、自分が入門書を書いているとも全く思いませんが、論文であれ何であれ、どこかに自分のしていることの魅力を、メタメッセージとして含みこむべきだし、どんな本にもそれがあって欲しいと思います。(……)

 そうすると二時前。食事を取りに行った。居間に上がると母親は図書館に行ったようで不在だった。洗濯物は既に取り込まれてあった。「緑のたぬき」を用意する。湯を注いで卓に置き、三分を待つあいだに台所で大根をスライスして持ってくる。「すりおろしオニオンドレッシング」を掛けて食べる。そうして蕎麦もほぐして啜りながら新聞。二面、「英首相 離脱案再交渉へ 下院 「国境規定修正」可決」。英国のEU離脱予定日は三月二九日。北アイルランドの国境管理問題が焦点となっているらしい。「過去の宗教紛争を再燃させかねないため、英EUは開かれた国境を維持する方針で一致している。[二〇一八年一一月に合意された]離脱協定案では、EUと英国の関係を維持する2020年末までの「移行期間」中に管理の具体策が決まらない場合、安全策として英国全体がEUの関税同盟に残ることを定めている」と言う。また、下院にこの度提出された動議と採決の結果が表として載っているのだが、保守党議員の提出した「「合意なき離脱」を回避」という動議が、賛成三一八、反対三一〇なので、随分とぎりぎりではないかと思った。ほか、「勤労統計 厚労省 都内直接調査へ 6月にも、統計委承認」の記事も読んで容器や食器を片付け、自室に帰った。英語のリーディング、まずはErnest Hemingway, The Old Man And The Sea。これを最後まで読了した。前回読んだ時にも思ったが、充分な具体性を持った記述によるなかなか充実した物語で、筋としても非常にわかりやすいので文学に普段触れない人でも読みやすいのではないか。柏艪舎の中山善之という人の訳を参照しながら読んで、色々と参考になる箇所はあったものの、この人の翻訳は全体として、日本語として固くこなれていない。光文社古典新訳文庫小川高義訳は多分もっと良いのではないかと予想する。彼らの訳を参考にしながら、翻訳の練習がてら自分で訳してみても良いかもしれないとも思うが、そこそこ長いのでまずは短いものを訳してみてからだろう。『老人と海』を読み終えたあとはそのまま同じHemingwayのMen Without Womenを読みはじめた。冒頭、"The Undefeated"。以下、英単語メモ。

  • ●97: You can make the blade from a spring leaf from an old Ford. We can grind it in Guanabacoa. It should be sharp and not tempered so it will break.――grind: 磨ぐ / temper: 焼き入れする
  • ●1: Over his head was a bull's head, stuffed by a Madrid taxidermist; ――taxidermy: 剝製術
  • ●1: 'How many corridas you had this year?' ――corrida: 闘牛
  • ●3: 'Whose novillos?' Manuel asked./'I don't know. Whatever stuff they've got in the corrals. What the veterinaries won't pass in the daytime.' ――corral: 柵囲い / veterinary: 獣医

 それで三時過ぎ。続けて、蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』を読み出したのだが、早朝と午前であれほど眠ったのにもかかわらず、何故かふたたび眠気が差してきて、四時半を迎える前に意識を失っていた。気づくと五時を越えており、母親が帰ってきた気配があったのだが、起きられず、曖昧な意識のまま臥位を保ち続け、あっという間に六時半過ぎである。当然、その頃には食事の支度など終わっている。不甲斐ない頭で上階に行き、母親に、眠ってしまったと報告しておいてから戻って改めて読書を始めた。「視線のテクノロジー――フーコーの「矛盾」」。続けて、「聡明なる猿の挑発――ミシェル・フーコーのインタヴュー「権力と知」のあとがきとして」。五〇分読んで七時半、食事を取りに上階へ。幅広のうどんに、温かいつけ汁が作られてあったがこちらは麺つゆで、冷やで食べることに。ほか、肉や菜っ葉を混ぜた厚揚げと母親が買ってきたネギトロ巻きを四つ。新聞は読まなかったが、テレビのことも覚えていない。どうでも良い番組だったはずだ。二月七日に墓参りに行くかとまた訊かれたので、ちょうどMさんが東京に来るのだと説明する。何しに来るのと言うので、それは、我々に会いに来るのさと笑った。我々というのは、と続くのには、自分や、Hさんなど、物書きの仲間だと。それで、Hさんも仲間なのねと初めて母親はそこを認識したらしかった。Mさんは出身は伊勢で、現在中国で働いているが、今は三重の実家に戻ってきているなどとそういったことも説明し、抗うつ剤を飲んで皿を洗うと入浴。散漫に物思いをしながら湯に浸かり、出てくると自室へ。緑茶を久しぶりに飲む。飲みながら「ウォール伝、はてなバージョン。」。「日本ってまぁ堅苦しいっていうマイナス面もあるけど基本真面目だよね。荷物をちゃんと届けるというのはちゃんとやるじゃないですか?もうぶっちゃけその時点でアメリカよりキリスト教的なんだよね」。「信仰無き哲学は空っぽで逆もまた然りで哲学が無い宗教ってのはただの盲目だ」。「客観的にその学問が実学なのか虚学なのか?ということではなくて長期的な目で見て結果的に実学になったっていうような主観的な価値が重要なんだよね」。その後、前夜歯磨きをしなかったのでまた忘れないように早めに磨いておこうと歯ブラシを咥え、UさんのブログやSさんのブログも読む。そうしてさらに、書抜きの読み返し。音読をしたあとに目を瞑って記憶を想起させるのは面倒なのでやらず、ただ三回ずつ音読をするのみ。そのほうが楽ではある。一月一三日、八日、五日分を行って一二月には遡らず、この日の記事に大津透『天皇の歴史1』から記紀神話の要約を引いておき、それも読んだあと、さらに二八日の分も読む。それだから今日は五日分を復習したことになる。そうすると一〇時半、そこからKeith Jarrett Trio『Standards, Vol.1』を流しつつ日記。ここまで記して一一時一五分。他人のブログを読んでいるあいだはGary Smulyan and Brass『Blue Suite』を流していたが、このアルバムは、ベースのChristian McBrideの働きにせよリーダーのGary Smulyanのバリトンにせよ豪放といった感じで良質であり、売る気にはならない。
 その後、零時過ぎまで短歌を作った。

 禽獣の歩行者天国突っ込んで白鳥捕らえ一緒に渡る
 悲しみは空き缶道路薄の穂夢の畔でまた会う日まで
 約束は破るためにこそあるのだと手紙をくれた若者いずこ
 一滴の雲もない空羽ばたいて西陽のもとに帰る赤子よ
 存在を擦って燃やした昨日から受け継ぐものは燐の光だけ
 剝ぎ取られ白紙のように血を抜いて透き通る肌にほくろはいくつ
 むき出しの骨と血肉と歯の裏に小人が棲んで脳を直すよ
 青色の汁を流して一休み穴から穴へ凍えないように
 ガラス窓の向こうに佇む亡霊を抱いてキスして初めて笑え
 人工の光を浴びて手を振って影を踏まれて生まれ変わって
 照明に荒れ果てたこの丸部屋へ鎮魂歌来る悲しいリフレイン
 宝石のように目も手もなくなって声のみ残れ光はいらぬ
 我らの唄あれはハーレム・ノクターン眠れ眠れと森の木霊に
 連れて行ってもぬけの殻の楽園へ夢より朧な現のなかへ

 岩田宏の詩のフレーズを借用したものがいくつかある。零時一五分から読書。蓮實重彦『表象の奈落』だが、新しい頁を読み進めるのではなくて、既に読んだところを大雑把に読み返しながら書抜き箇所を吟味しているだけで一時間半が経ってしまった。それから早速書抜きを始め、三〇分。二時二〇分に至る。眠る前にふたたび短歌を拵えた。

 成熟よ睫毛の下に陽を浴びて目を細めればまるで虹のなか
 唇を青く濡らしてこの夕べ波間に憩う燃え尽きるまで
 郷愁は寂しい木馬雲の上に嘶き渡り雷[いかずち]となれ

 それで二時四〇分を迎えて消灯。入眠を待つあいだも短歌を考える。岩田宏神田神保町」の一節、「やさしい人はおしなべてうつむき」を取りこんだものを作りたかった。第一句、「鴇色」のというのがまず出てきた。「やさしい」という言葉から連想される色を考えてみた時に、薄ピンク色が頭に浮かんだのだった。それから「鴇色のやさしい人はおしなべてうつむき呟く~~」まで出来た。そうして何を呟くのか考えているあいだに、「呟く」よりも「歌う」のほうが音としても七音になるし良いのではないかと思った。そこまで来るとあとは簡単で、最後の第五句は「~~の言葉を」にしようと思って考えると、「風の言葉を」というのが出てきた。かくして、「鴇色のやさしい人はおしなべてうつむき歌う風の言葉を」と仕上がったわけだ。「鴇色」は「朱鷺色」と表記を迷ったのだが、後者は「朱」の字が入っているのが何となく強いような感じがして、前者のほうが「やさしい」と相応するかと考えた。そのように一首拵えたので、忘れないうちにと消していた明かりをもう一度点けてコンピューターも起動させ、EvernoteにメモするとともにTwitterにも投稿しておいた。時刻は二時五五分だった。そうして再度消灯して寝床に戻り、横を向いてまた短歌を考えながら入眠した。


・作文
 11:48 - 12:10 = 22分
 22:33 - 23:17 = 44分
 計: 1時間6分

・読書
 4:37 - 5:30 = 53分
 12:14 - 13:43 = 1時間29分
 14:10 - 15:06 = 56分
 15:25 - 16:15 = 50分
 18:42 - 19:32 = 50分
 20:43 - 21:20 = 37分
 21:45 - 22:30 = 45分
 24:15 - 25:46 = 1時間31分
 25:47 - 26:20 = 33分
 計: 8時間24分

  • 蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』: 89 - 134
  • 2018/1/31, Wed.
  • 2016/8/8, Mon.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-01-27「晴天の軒先に立ち雨宿りしている見えない誰かの横で」; 2019-01-28「遠吠えを真似て咳き込む飼い犬の牙がするどく空を切るとき」; 2019-01-29「へんじがないただのしかばねのようだおきのどくですがぼうけんのしょは」; 2019-01-30「光あれ塩の柱に降りそそぐ唯物論者の今際を照らす」
  • 熊野純彦インタビュー「無償の情熱を読み、書く  『本居宣長』(作品社)刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=4180
  • Ernest Hemingway, The Old Man And The Sea: 94 - 99(読了)
  • Ernest Hemingway, Men Without Women: 1 - 4
  • 「ウォール伝、はてなバージョン。」: 「キリスト教に目覚めていく私。その3。」
  • 「思索」: 「1月30日2019年」
  • 「at-oyr」: 「若者」; 「子供」
  • 2019/1/13, Sun.
  • 2019/1/8, Tue.
  • 2019/1/5, Sat.
  • 2019/1/31, Thu.
  • 2019/1/28, Mon.
  • 蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』青土社、二〇一八年(新装版)、書抜き

・睡眠
 23:00? - 3:50 = 4時間50分?
 5:30 - 11:00 = 5時間30分
 計: 10時間20分

・音楽

  • Shelly Manne & His Men At The Black Hawk, Vol.1』
  • the Hiatus『A World Of Pandemonium』
  • John Pizzarelli Trio『Live At Birdland』
  • Gary Smulyan and Brass『Blue Suite』
  • The Monday Night Orchestra『Playing The Music Of Gil Evans』
  • Keith Jarrett Trio『Standards, Vol.1』




蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』青土社、二〇一八年(新装版)

 「アブラハムは……おそらくその富なしには、私たちが文学と呼ぶものがそのようなものとして、その名のもとに生じることなどけっしてありえなかったような、そうした遺産の起源でもある」。デリダは、(end62)「秘密の文学」の導入部からそう宣言する。ここで名指されているアブラハムは、神の命令にひたすら忠実なまま、息子のイサクをともなってモリアの地に赴き、神の命じる山の頂で、その言葉通り、最愛の者を犠牲として捧げねばならぬという試練に直面したアブラハムにほかならない。彼は、神の言葉について、イサクはいうまでもなく、家族にもいっさい広言しておらず、すべては孤独な沈黙のうちに推移している。「絶対的な秘密、恐ろしい秘密、無限の秘密を守り通した」者としてのアブラハムが、ここでのデリダを惹きつけているのは明らかだろう。そこには、声としては響かぬ言葉が、「神とアブラハムとの間の選別の《契約》[アリアンス・エレクティヴ]」として、沈黙の中にとりかわされているにすぎない。秘密が秘密たる所以は、何かを隠したり、真実をいわずにおくことではなく、まさにアブラハムがそうあるしかないという「絶対的な独異性[サンギュラリテ]」にある。また、みずからに向けて刀を振り下ろそうとする父アブラハムを見てしまった息子のイサクもまた、そのことを誰にも口にすることはなく、ここで秘密を貫く沈黙はいくえにも深まってゆく。
 (62~63; 「「本質」、「宿命」、「起源」――ジャック・デリダによる「文学と/の批評」」)

     *

 実際、「古典主義」的と「近代」的の区別は、的確でもなければ本質的でもない。フーコーに従えば、もっとも重要なのは、十九世紀における《人間》の衝撃的な登場、その《人間》自身の起源との間に起こった断絶にほかならぬ有限性の発見、思考の内への思考されえぬものの導入、等々によって、《人間》がもろもろの知の主体であり同時にその客体ともなったことにほかならず、そのとき、「肉体を持ち、(end73)労働し、話すという実存として指定されうるあの人間」(『言葉と物』三三八頁)は、「いかなる起源からも引きはなされ、すでにそこにある」(三五三頁)ということになる。このように、経験的であると同時に先験的でもあるこの期限を欠いた特定の存在は、反復、回帰、または再来としての時間のテーマ系を、十九世紀をとおして問題にし続けたのである。『言葉と物』の最後の二章におけるフーコーの最大の問題は、西欧のエピステーメーの中で起こった《人間》の出現という、この記述しがたいできごとの輪郭を記述することだったのである。
 (73~74; 「フーコーと《十九世紀》――われわれにとって、なお、同時代的な」

     *

 十八世紀末以前に、<人間>というものは実在しなかったのである。(……)<人間>こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない。(『言葉と物』三二八頁)

 ここで問題となっている<人間>の出現が「近代」的と形容される必要などまったくないことをまず強調しておきたい。なぜならば、この人間は「古典主義的」エピステーメーにとっては、実在していなかったからである。論理的にこの《人間》は対立項をもちえない存在であり、「近代」的にしか実在しえない。それは「古典主義的/近代的」という歴史的な比較要素さえも無視するものである。フーコーにとって、「古典主義」的な人間とは純粋な幻想であり、「近代」的な人間とは、それじたいが同義反復にほかならない。
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