2019/2/2, Sat.

 七時頃覚醒。夢を見たが、もうほとんど覚えていないし記述するのは面倒臭い。Wが出てきたとだけ言っておく。あとは寿司作り。七時二五分頃になって起き上がって、陽の射し入るなかを通って部屋を抜け、上階へ。おはようと快活に言ってくる母親の声に、ああ、と低く答える。そうしてストーブの前に座り込む。洗面所では父親がドライヤーを使って、残り少ない髪の毛を整えていた。こちらの身の周りには細かな塵が、水のなかを漂う泡のようにして浮遊し、行き交っていく。歯ブラシを咥えた父親が出てくるとおはようと挨拶し、しばらくしてからジャージに着替えた。食事は温野菜。母親が作ってくれるのを待つあいだ、新聞をめくる。そうして薄皮クリームパンに大根の煮物と大根の味噌汁とともに食べつつ、新聞からは英国のEU離脱関連の記事やブラジル大統領の動向についての記事などを読む。また、辺野古基地建設の賛否を問う県民投票は全県で行われることが決定したとのことである。食事を終えると薬を服用し、父親が夜のあいだに残した分もまとめて皿を洗い、それから洗面所で寝癖を直す。前屈みになって髪を水で濡らしたあとに、櫛付きのドライヤーで撫で梳かしていく。洗濯がそろそろ終わる頃合いだったので待っていると、まだ絞るようだから、自分がやるから良いと母親が言うので、言葉に甘えて下階に下り、ポテトチップス(しあわせバター味)を食べながら、この日はまず日記の読み返しをした。一年前には特筆することはない。二〇一六年八月六日は花火大会の日で、図書館からの帰路に花火を目撃している。

 七時四五分になって閉館一五分前のアナウンスが入ったところで帰ることにして、階段を下ると、踊り場の窓の向こうで空が黄色く泡立つようになっているのが見えた。歩廊に出ると彼方から花火を打ちあげる音が届いてきて、駅舎のすぐ傍には、そこがマンションなどに遮られずに空の向こうがよく見えるところなので、人々が集って柵に寄り、同じ方向を向いて携帯電話を構えたりしている。その一団のなかにこちらも混ざって、夜空の一角で小さいながらも次々と色付きの火花の饗宴が演じられるのを見た。ヒマワリを模したような、一つの内にもう一つの円が膨らむ形の大きなものがひらかれた時には、群衆からどよめきが上がった。しばらく眺めてから電車の時間が気になって、一旦離れて駅舎に入り、数分の猶予がまだあることを確認してから戻ると、すれ違いざまに子を連れた若い男が、お前、花火でお腹はいっぱいにならねえだろ、とか息子に向かって言って、急いで去っていった。元の場所に戻ると花火は一時収まっていて、浴衣を纏った子どもから花火は花火は、と急かす声が上がる。ちょっとしてから再開されたのを、時計を見ながらまた眺めて、残り一分になったところで駅に入った。電車内にいるあいだも時折り、破裂音が響いてくる。降りるとすぐ頭上から、先ほどとは比較にならない衝撃で音が降ってきて、近くの男性が上から押されたように首を前に曲げて身をすくませていた。小学校のほうの空を見れば、太い響きとともに視界いっぱいに次々と宝石が散りばめられて、これはすごいなと思われた、今までそんなに間近で花火を見たことがなかったのだ。ホームを進んでいくと職員がかしましく、ホームでの花火見物はご遠慮下さいと繰り返して群衆を階段へと進ませているのだが、こちらは乗り換えを待つ身で、階段口の縁に背を寄せてしばらく眺めることができた。夜空を広大なキャンバスとして目一杯使って、光の絵図が塗り組み立てられては一瞬で夜に拭い取られて、また次の形が展開されていく。会場である丘陵公園は指定席が設けられていて有料なのだが、そのすぐ下に当たる小学校グラウンドはおそらく無料で入れるはず、あそこでも全然楽しめるなと思った。前年の立川の花火大会でも同じものを見たが、大輪の花がひらいたあとにその外周を構成する一つ一つの光が数瞬残り、暗闇を丸く囲みながら空にゆっくりと垂れ流れてから消えるものがあって、二次元平面の提示から即座に三次元へと移行してみせる巨大なそれが打ちあげられると、校庭のほうから喜びのざわめきが上がっていたようである。少し横にいる中年男女の女性のほうも、酒でも飲んでいたのかしきりにはしゃいでいた。ほかに自分の気に入ったのは、花ひらいたあとにエメラルド色の魂めいた塊がいくつか残って、それがまるで素早い蛍のように滑って曲線の軌跡を宙に描いてから、停まってふっと力尽きるものである。電車がやってくると乗りこんだが、奥のほうの席に就いて、窓からまた眺めた。さすがに窓に枠を画されて、またそこには車内の様子、吊り革だとか壁の上部の広告だとかの夾雑物も映りこんでいるために、直接目にする時の巨大さと立体感が失われてしまうのだが、それでも息つく間も許さずに連続して打ちあげられた時などは、重なりあう一つ一つの花が大きく拡散するたびに、圧迫感を持って視覚に迫り来るような感じがした。

 一年前の日記よりも、そして今よりも、この頃、二〇一六年のほうがよほど頑張って物々の具体性を捉えながら記述しているような気がする。
 そうして九時前、日記を書きはじめて、前日の記事は即座に仕上がり、ここまで記すと九時九分。
 fuzkueの読書日記を読んだ。その後九時五〇分から書見、蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』。二時間余り。途中、母親がベランダに現れたので誘われて布団を干した。正午を過ぎて上階に行くと、何を食べるかと言う。レトルトのカレーで良いと答えれば、そうではなく茄子のカレーを作ろうかと。こちらとしてはどちらでも良かったのだが、いずれにせよ散歩に出るつもりだった。母親はカレーを作る気になったらしく取り掛かりはじめたそれを尻目に、便所に寄ってから外に出た。Hさんの家の庭木、あれは赤く小さな実が生っていたところから見て南天だろうか、臙脂色や山吹色に染まったその葉が光を受けているのを横目に見ながら歩き出す。市営住宅前の工事現場は、溝のなかに灰色の砂が敷かれて空洞が浅くなっていた。光を浴びながら濃緑に締まっている樹々の横を通り過ぎ、坂を上って行くと曲がり角から見える川向こうの集落、山の前に薄く煙が湧いていて微かな白緑色を揺蕩わせている。裏通りを行くあいだ、風は乏しく、陽光が服の表面にぴたりと止まって何かゼリー状の膜に包まれているような暖かさである。風は林の竹の葉を僅かに揺らすのみで、さらさらと葉擦れを立てさせるほどの強さもない。街道に出て渡ってふたたび裏に入りながら振り仰げば、四方のどこにも視線は雲を捕まえることのできない快晴である。道の左右に鳩が一羽ずつ佇んで何やら地を啄んでいたが、こちらが近づくと飛び上がって手近の木の幹から伸びた細枝に止まった。その下を通り抜け、無人の墓場の前を行くと卒塔婆の触れあう音がほんの微かに立つ。さらに進んだ裏路地、風は本当に少なくて、空気のぴたりと静止した穏和な瞬間が訪れ、そのなかにいるとまるで世界で動いている事物は自分だけのようだとありがちな感慨が湧くが、数秒後には空気がなだらかに撓み、その静謐は乱されてしまうのだった。駅前の広場にはベンチに座って、高年の男性がコンビニ弁当か何か食べていた。街道に出て東へ向かい、途中で車の隙をついて南側に渡り、家の建て込んで日蔭になった坂を下って行くが、薄青い地帯のなかにあっても寒さというものが少しも身に触れてこない、まるで春のような陽気である。平らな道からさらに木の間の坂を下って行き、出口近くでやはり白い光を溜めている道脇の樹々の葉に目が行って、自然というものはまったくもって肌理が細かい、樹が一本そこにあるだけで視界に精妙な粒立ちがもたらされて目を楽しませてくれると思った。
 帰宅。カレーはちょうど出来上がっていた。大皿に米をよそってその上に掛け、ほか、ワカメのふんだんに入ったサラダ。テレビは『メレンゲの気持ち』。浅利陽介だったか、こちらも顔は知っている俳優と、三年くらい前に堀北真希と結婚したらしい山本耕史が出ていて、しかし特段の関心はないし大したことは話していなかったと思う。食器を洗って自室に帰ると、ポテトチップスはこの時食べたか、それとももう午前中に食べ終わっていたか、ともかくコンピューターの前に就いて「ウォール伝」を読む。「共存するっていう多様性ではなくて様々な原理が存在するんだけどそれが真理である以上、真理同士がぶつからないっていう多元性」。それからさらに、「週刊読書人」の、J・M・G・ル・クレジオ単独インタビュー「作家に今何ができるか」も読む。ル・クレジオはその作品は読みたいと思っているが、このインタビューと講演録は思いの外に、あまり感銘を受ける部分がなかった。「(……)作家というのは無口な存在です。コミュニケーションに不向きな人間、存在することへの困難を抱えた人間が、自分が存在することを表現しようとする時、小説は生まれます。書くという行為は孤独なものです。困難な青春期をすごした人間が、外界を発見する時に生まれるのがエクリチュールなのです」と。そうして一時五〇分、ふたたび蓮實重彦の読書を始める。BGMはThelonious MonkGerry Mulliganがコラボレーションした『Mulligan Meets Monk』。凄まじい名盤ではないが、Mulliganの音出しが実に端正で期待を裏切らず高品質にまとまったプレイを聞かせてくれる。そう言えば読書を始める前に布団を取りこんだのだった。ベランダに出て自らの布団を一枚ずつ、その表面をちょっと撫でてから持ち上げたあと、ゆっくりと運んでは寝床に敷いて行く。両親の布団もそちらの部屋に入れておいて、それから読書を始めた。『Mulligan Meets Monk』のあとは、Roscoe Mitchell『Composition / Improvisation Nos.1, 2 & 3』。ここまで来るとジャズでもなく、明確なフリージャズという趣でもなく、むしろ現代音楽みたいな音がしているのだが、結構悪くない。今日聞いているものはどれも売ろうとは思わない作品ばかりである。蓮實重彦の批評はいつもながら、さも当然といったような顔つきで事もなげに、多様な記述から共通する主題を抽出してみせる、その分類/分析と抽象化の滑らかさが羨ましい。三時間余り読んで、ちょうど五時に至るころに読了した。結構頑張ったものだ。全体として、前半から中盤に掛けての、ドゥルーズデリダフーコーソシュールなどに関する評論はやはり難しくて大概理解できていないのだが、「近代の散文」と題された四章以後、『ブヴァールとペキュシェ』論だとか、『「ボヴァリー夫人」論』の下敷きになったような論考は結構わかりやすかったように思う。
 上階へ。母親はメモも残さずに出かけていた。アイロン掛けをする。サラミとトマトの乗ったピザや運河のなかを漕いでいる船が描かれたエプロン。花柄の布袋。「CROCODILE」というタグがついた深緑色の、どこか寝巻きじみたようなチェック柄のシャツ。そのほか自分の白シャツやハンカチを数枚処理していると、母親が帰ってきた。服を買いに行っていたらしい。そうして時刻は五時二五分、カレーがあるので夕食の支度は少なくて済むのだが、また芸もなく茄子と肉でも炒めるかと決めた。それで茄子を三つ薄切りにして水に晒し、フライパンにオリーブオイルを垂らしたあとにチューブのニンニクを落とす。そうして茄子を投入し、蓋を閉めながらある程度加熱したところで、切り落としの豚肉を箸でつまんで加えた。味付けは母親が醤油や蜂蜜を混ぜて作ったたれを注ぐ。そうして手間を掛けずに完成、一方で母親が洗い桶にサニーレタスや大根などを浮かべてサラダとして用意していたので、あとは良かろうと自室に帰った。そうしてインターネットを閲覧して時間を使う。七時半前になったところで日記を書くことにして打鍵を始め、ここまで記して八時過ぎである。蓮實重彦の次は『ムージル著作集』の第八巻を読もうかと思っている。
 上階へ。父親が既に帰ってきていたので、入浴ももう済ませたらしく藍色の寝間着姿の彼におかえりなさいと声を掛ける。食事はカレーに、茄子と豚肉の炒め物に、サラダ。釜に残っていた米をすべて払ってしまう。テレビは『欽ちゃん&香取慎吾全日本仮装大賞』。あとでTwitterに書かれていたところによると、香取慎吾はこれが一年ぶりの地上波全国放送への出演とのことだった。特段の関心はないが(炬燵に並んで入った両親は感心しながら楽しんで見ている様子だった)、時折りテレビのほうに目をやりながらものを食べて、食器を洗ってしまうと入浴へ。風呂に入っているあいだの時間というのはどうにも書くことがなく、あまり面白くない。本来なら思考を離れて湯浴みの安楽さにくつろぐべき時間なのだろうが、こちらの気分は病気以来常に平静で平板で、「くつろぎ」というような感覚も生じてこないようだ。明瞭な形を成してまとまった思索を繰り広げられれば退屈しないのだろうが、人間常に何らかのことを考えているとは言ってもこちらの頭のなかに回るのは実に散漫な物思いそれだけで、それらはあとになると忘れてしまうようなものであり、したがって書き記すこともできないし、無理に思い出してそうするほどの価値もないようなものだ。そのようなことを考えながら浴室に入って湯に浸かり、出てくると鏡の前で髪を乾かす。最近は髭を剃らずに放置している――何となく剃る気にならないだけだが、顎の周りに不精にぼさぼさと生えるものがあるのは無職らしくもある。風呂から出た時ではなくて入る前だったかとも思うが、『仮装大賞』をちょっと眺めた。その時演じられていたのは黒いシルエットのみによってサファリの色々な動物を表現する演目で、なかなか見事だと思われた――手や脚を使ったり、複数人で重なり合ったりして動物の形を象ってみせる様子も正確だったし、入退場の際に体操風に転がったりしてみせるのも優雅で滑らかだった。それで風呂を出たあとはさっさと自室に下り、九時二〇分から書抜きの読み返しを始めた。今まで、日記の記事に数箇所ずつ引用してあるのを日毎に読み返していたのだが、一括して一つの記事にまとめてしまおうということで、「記憶」という新しい記事を作った。そこに、以前から記録してあったお気に入りの言葉――カフカの書簡中のものとか、岩田宏神田神保町」の一節とかだ――を最初に引いておき、ほか、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』に、大津透『天皇の歴史1』の記述を加えた。勿論書き抜いた箇所全部を引くわけではない、繰り返し読んで頭に入れておくべきだろうと思った部分のみだ。各々の断章には番号を付して、この記事をこれからなるべく毎日少しずつ音読していき、知識として取りこんでいきたいというわけだ。それで二〇分ほどで一番から一〇番まで三回ずつ音読し、それからErnest Hemingway, Men Without Womenを読みはじめた。The Old Man And The Seaの時はたびたび日本語訳を参照しながら読んでいたのだが、『全短編』を持ってはいるものの、わかりにくいところをいちいち確認するのも面倒臭いので、多少よくわからない部分があっても気にせずに、日本語訳を見ることもせずに読み進めていくことにした。それでコンピューターの前に座って、時折りインターネットの辞書サイトで英単語を調べながら読んでいく。一時間弱で四頁から一二頁までだからまだまだ遅い。

  • ●4: 'All I want is an even break,' Manuel said reasoningly. ――even break: 公平な扱い
  • ●5: a boy who had followed him poured coffee and milk into the glass from two shiny, spouted pots with long handles. ――spout: 注ぎ口
  • ●5: Manuel took off his cap and the waiter noticed his pigtail pinned forward on his head. ――pigtail: 弁髪
  • ●6: The waiter uncorked the bottle and poured the glass full, slopping another drink into the saucer. ――slop: 零す、取り分ける
  • ●6: 'If you stand in with Retana in this town, you're a made man,' the tall waiter said. ――made man: 成功した人
  • ●7: Perhaps it would be better to put it back under the seat, against the wall. He leaned down and shoved it under. ――shove: 押す
  • ●10: Manuel liked the smell of the stables about the patio de caballos. ――stable: 馬小屋、家畜小屋
  • ●10: a third in the uniform of a hotel bell-boy who stooped and picked up the hats and canes thrown down onto the sand and tossed them back up into the darkness. ――cane: 杖、鞭
  • ●11: Behind them came the jingle of the mules, coming out to go into the arena and be hitched onto the dead bull. ――hitch: 繋ぐ
  • ●11: He had been on twice before in nocturnals and was beginning to get a following in Madrid. ――following: ファン

 それから、音楽。久しぶりに流し聞きではなくて集中して耳を傾ける。まず、Cal Tjader Quartet, "I'll Remember April"(『Jazz At The Blackhawk』)。実に小気味よいヴィブラフォンの音の連なり。リズム的な変化も時折り導入されているし、これはほとんど完璧に歌い上げていると言っても良いのではないか。Cal Tjaderがここまでの奏者だとは思わなかった。次に、John Coltrane『Soultrane』から"Good Bait"と"I Want To Talk About You"。Coltraneはのちのちの、空間を搔き乱すようなプレイの片鱗が僅かに窺えなくもないものの、まだまだ尋常な吹き方。とは言え、五六年の時点ではMiles Davisのいわゆるマラソン・セッションでおずおずとした、ぎこちないプレイを見せていた若造が、それからたった二年で――『Soultrane』は一九五八年二月七日の録音である――ここまで堂々と、朗々と吹くようになるかといった驚きはある。Red Garlandは手の早い転がるようなフレーズを見せるものの、高速になるとタッチが少々弱くなるようで、速弾きでも豪放とした迫力はないのだが、それがこの人の品の良さだと捉えるべきなのだろう。ただ、"I Want To Talk About You"のほうではソロの冒頭から披露される丸みを帯びたブロックコードが、ややカクテル・ピアノに寄っていると言うか、幾分甘めに感じられた。後半の、和音の構成音すべてを同時に強く鳴らして固く締めるコード奏法のほうがこちらの好みではある。Paul Chambersはバッキングにせよソロにせよいつも通り。ドラムのArthur Taylorはいかにも古き良き時代の、と言うか、実に古色蒼然とした感じのドラマーである。そして最後に、Carlo De Rosa's Cross-Fade, "Circular Woes"(『Brain Dance』)。まずもって譜割りがどうなっているのか全然掴めない。それでもサックスのMark Shim(ここでしか見たことのない名前だ)は熱演だし、Carlo De Rosaのベースソロもスピーディーで鋭い。このアルバムはピアノがVijay IyerでドラムがJustin Brownと豪華なメンバーでもあるので、ちょっと聴き込んでみたいものだ。
 そうして一一時二〇分から読書、福間健二『あと少しだけ just a little more』。『ムージル著作集』第八巻を読むと上には書いたが、詩を読むことにした。小説・その他の教養書あるいはエッセイ・詩(俳句・短歌も含む)の三つを一セットとしてローテーションしていければ良いと思うのだが、それほど厳密に守るつもりもないので、ある程度の方針ではある。しかし詩というものはどのように読めば良いのか、まだ全然わからない。別に意味がわからなくても良いのだが、それぞれの詩に相応しく読むということは一体どういうことなのだろう。一時前まで読んで就床。


・作文
 8:51 - 9:09 = 18分
 19:23 - 20:07 = 44分
 計: 1時間2分

・読書
 8:28 - 8:51 = 23分
 9:20 - 9:46 = 26分
 9:50 - 12:03 = 2時間13分
 13:03 - 13:46 = 43分
 13:50 - 16:59 = 3時間9分
 21:20 - 21:40 = 20分
 21:44 - 22:40 = 56分
 23:20 - 24:50 = 1時間30分
 計: 9時間40分

  • 2018/2/2, Fri.
  • 2016/8/6, Sat.
  • fuzkue「読書日記(120)」
  • 蓮實重彦『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』: 214 - 369(読了)
  • 「ウォール伝、はてなバージョン。」: 「キリスト教に目覚めていく私。その4。」
  • J・M・G・ル・クレジオ単独インタビュー「作家に今何ができるか」
  • 「記憶」1 - 10
  • Ernest Hemingway, Men Without Women : 4 - 12
  • 福間健二『あと少しだけ just a little more』: 8 - 40

・睡眠
 1:45 - 7:25 = 5時間40分

・音楽

  • 『Cal Tjader's Latin Concert』
  • Cal Tjader Quartet『Jazz At The Blackhawk』
  • Carlo De Rosa's Cross-Fade『Brain Dance』
  • Thelonious Monk and Gerry Mulligan『Mulligan Meets Monk』
  • Roscoe Mitchell『Composition / Improvisation Nos.1, 2 & 3』
  • Don Ellis Orchestra『'Live' At Monterey!』
  • Cal Tjader Quartet, "I'll Remember April"(『Jazz At The Blackhawk』)
  • John Coltrane, "Good Bait", "I Want To Talk About You"(『Soultrane』)
  • Carlo De Rosa's Cross-Fade, "Circular Woes"(『Brain Dance』)