2019/2/19, Tue.

 一二時起床。最近過眠気味であると言うか、だらだらといつまでも起きられずに寝床に留まってしまう傾向があって、これはあまり良くない向きである。もっと早く、しゃっきりと起床して本に触れる時間を増やしたいものだ。上階に行くと母親は着物リメイクの仕事で不在、夕刻までやってくるようである。台所には「ルクエ」のスチーム・ケースにソーセージやら野菜やら茸やらが収められてあった。それを電子レンジで二分間加熱するあいだに便所に行って糞と小便を垂れ、手を洗って戻ってくると食事、米をよそって前夜の大根の味噌汁を温めた。そうして卓へ。新聞を読みながらソーセージを噛み、それとともに白米を咀嚼する。食事を終えると抗鬱剤ほかを服用し、食器を洗って、ソフトサラダ煎餅二袋を持って自室に下りてきた。煎餅をぱりぱり食いながら前日の日課の記録を完成させ、その後、一二時五〇分から日記を書きはじめた。BGMはDonny McCaslin『Soar』。前日の記事を短く書き足して仕上げ、この日の記事もここまで書いて一時六分だが、こうして日記を書いていて、本当にいつも同じことばかり文にしているなという感慨を覚えざるを得ない。もっと新しいことを豊かに書いていきたいものなのだが、しかし毎日の生活というものにさほど変わりがない以上、仕方のないことではあるだろう。
 その後、一時四六分から日記の読み返し。一年前。この頃の自分は神経症の極致で、頭のなかにある思考そのものが気になるという状態にまで至っており、それから逃れるために「サティ」の技法を活用したりと必死になっている。お前、必死だなあと今から見ると気恥ずかしいようなところもあるが、当時はそれで本気も本気だったのだから難儀なことだった。それから、二〇一六年七月二四日日曜日の記事。立川に出向き、手帳を求めてモレスキンのものを買っているが、それが二一六〇円もすることにレジに行ってから気づいて驚愕・動揺している。馬鹿だなあ、と読み返しながら笑った。しかし、この手帳をこの日に早速使いはじめたわけではないが、おそらく二年くらいは保っているはずなので、二年で二一六〇円と考えればそれほど高い買い物でもなかったのかもしれない。実際、サイズ感などから見ても結構使いやすい手帳で、先日立川に行った際にはこれを改めて求めようと思っていたのだがしかし見当たらなかったので残念だった。ちなみに、以下の引用で「ロラン・バルトも使っていたわけだし」とされているのは記憶違いで、正確には『小説の準備』のなかで、フローベールモレスキンのノートを使っていたというのをロラン・バルトが紹介していたのだ。

 四周を眺めてみても、こちらの求めに応じそうなのはモレスキンくらいのものである。The Beatlesのものとか、特別なデザインを施されたなかに無地で一色のカバーで、手のひらを覆うくらいのサイズのものが並んでいたので、これにするかと決めた。手に取って見てみるとどれもハードカバー、ソフトカバーのものは一つしかなかったが、後者のほうがなんとなく良さそうだと思って、ビリジアンブルーのものを取って会計に行った。少々待ってから店員に品を差しだしたのだが、機械に映しだされて店員が読みあげた値段が二一六〇円、それを聞いた瞬間にマジかよと驚愕した。確かに、棚の縁に掛かった二一六〇円の値札を見かけてはいた。しかしそれは特別なデザイン品のほうだと思いこんでおり、通常の製品はそのすぐ近くにあった八五〇円だかの値札の領域に位置しているように見えたのだ。モレスキンというのはこんなに高いものなのか、このちっぽけな紙片の集合にカバーを付けたものがそんなにするのかと動揺した。しかし、勘違いを説明するのが煩わしくて――この煩わしさにはおそらく二つの要因がある。一つは、あるいはこれもあとのもう一つに吸収されるのかもしれないが、自意識過剰的な、単純な羞恥心である。もう一つは憂鬱で、と言うのも、おそらく夜更かしをした上に緑茶を飲んだためだろうが、いざ街に出てくるとその雰囲気や騒音がかすかに精神に障るようで、店員とやりとりするのにも僅かに緊張して親しみにくさを感じていたようなのだ――、まあロラン・バルトモレスキンの手帳を使っていると『小説の準備』のどこかで言っていたし、と考えて、平静を装って黙ったまま粛々と流れに従い、千円札三枚を金受けに置いた。レジを抜けて、手帳の入ったビニール袋をリュックサックに移すと、しかし二一六〇円とは、ゼーバルトの著作とほとんど変わらない、Brad Mehldauの新譜も買えるのではないかと早くも後悔の念が立ちはじめたが、まあロラン・バルトも使っていたわけだしと再びおのれを説得して、階段を下った。

 その後、「記憶」記事を読む。まず、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』から引いた記述。辺野古埋立承認(二〇一三年一二月二七日)についてなど。それからさらに、昨日新たに引いて読んだ岡本隆司『中国の論理 歴史から解き明かす』の記述。中国史の基礎的な事柄、事件についてなど。そうして二時半に至ると散歩に出ることにして、上階に行った。まず風呂を洗う。残り湯が結構あったがそのまま焚くのではなく洗うことにして、蓋を取って排水口の栓を抜く。水が捌けていくのを待つあいだ、首を回してほぐしながら先ほど読んだ中国史関連の記述など思い返す。そうして浴槽のなかに入り、前屈みに背を曲げながらブラシを上下に動かして壁面を擦った。そして出てくると、自室に一旦戻って鍵を取ってきて、出発である。白い曇天の日である。外に出ると路上に湿ったような痕が僅か残っていたので、気づかないうちに雨が降ったのかもしれない。実際、今に降ってもおかしくなさそうなどんよりとした空の白さだったが、寒々しい雰囲気のわりに気温は高いようで、風も吹かず、寒気は感じられない。道を歩きだしてまもなく、Nさんの旦那さんだろうが、あれはドーベルマンで良いのだろうか、黒に近い焦茶色のすらりとした体躯をした犬を連れた高年男性が現れたので、こんにちはと挨拶をした(向こうは誰だろう、というような様子で無言で会釈をするのみだった)。十字路あたりまで来ると、空中に細かな虫が飛んでいるのが観察され、その発生を見てもやはり気温は高めなようである。それにしても風の吹かない道だった。坂を上って行き、平らな道を進んで家並みの続くあたりまで来ると、結構前から新しい邸宅を建設中の一角がある。シートで高く覆われたその敷地のなかから、巨大なパンチで次々と穴を開けるような、何かを高速で打ちこむような強い打音が響いていた。裏路地を通り抜けて街道を渡り、いつもは斜面に沿って風の良く走る細道に入っても、この日は僅か流れるものがあるのみで、吹くというほどの強さに嵩まない。墓場にはところどころ、土日で供えられたものだろうか、色彩豊かな花々が見られ、しかしそのうちのいくつかは饐えたように茶色を帯び、花受けから飛び出して頭[こうべ]を逆さまに垂れ下げているものも多く見られた。保育園の横を過ぎ、そこここに生える梅の木を見やりながら家並みのあいだを通り抜けていく。駅を過ぎて街道に出るとちょっと行ったところで車の隙を見て渡ったが、そうして対岸に着くやいなや、ポケットに半ば入れた右手の上にぽつりと来るものがあって、やはり降りはじめたかと見た。細道に折れて林のなかに立ち入る頃にはあたりの樹々や葉々を打つ音が立ちはじめ、その微かなさざめきのなか、落葉の重なりを踏み分けながらくぐり下りて帰宅した。
 自室に下りると三時半からベッドに移り、斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』を読みはじめたのだが、多分実際に読んでいたのは二〇分くらいで、布団の温もりのためにか午前中をすべて費やして眠っていたというのにもかかわらず早くもふたたびうとうととしはじめ、まもなく力尽きた。それから六時過ぎまで床に留まることになる。五時頃母親が帰ってきた音を聞き、食事の支度に向かわなくてはと思いながらもどうしても力が湧かず、眠りを振りほどけないのだった。それで六時頃になってようやく起き上がり、上階に行くと、寝てたのと母親は訊くのでああ、と頷けば苦笑が返った。ソファに座り、仕事先でのことを話す母親の声を散漫に耳に入れながら(着物リメイクの現場に新しい人が入ってきて、そちらの人のほうがミシンの扱いが上手く速いので、母親はアイロン掛けの仕事のほうに回されてしまったらしく、彼女はそれにあまり釈然としていないようだった)テレビに目を向け――と言って何がやっていたのか覚えていない――、それからしばらくして母親が、おでんにゆで卵を入れてくれと言うのでソファを立った。台所に入り、小鍋で茹でられていた卵を別の小鍋に移して流水で冷やす。それで殻を剝いたのだが、三つが三つどれも半熟で、白身がちょっと剝けてとろりとしたなかの黄身が覗いていた。しかし気にせずにそのままおでんに加え、固まるように蓋をしておき、その後、ストーブの石油を補充しに外に出た。雨は続いていた。勝手口のほうに回り、薄暗がりのなか、弱い雨に打たれつつポンプが石油をタンクに汲み込むのを待って、中身がいっぱいになったものを室内に持ち帰ると自室に帰った。そうして六時四七分から書抜き、小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』である。Duke Ellington『Hi-Fi Ellington Uptown』を流して三〇分ほど打鍵してから食事を取りに行った。母親は炬燵に入ってタブレットでメルカリを見ているようで、これを見ているとあっという間に時間が過ぎてしまう、いつまで経っても動けないと漏らした。こちらはそんな母親を尻目にさっさと食事を用意して――白米・おでん・コロッケやメンチカツ三種・モヤシとキャベツの生サラダ――卓に就き、新聞を読みながらものを食べた。イスラエルにあった杉原千畝の記念碑がいつの間にか撤去されていたという話題が一つ、シリアで「イスラム国」の最終的掃討が大詰めに入っているという話が一つ、そのほか小泉純一郎政権時の政治の分析などを読んだ。そうしてものを食べ終わり、台所に移って網目の入った布きれで皿を洗っていると、父親が帰ってきたので居間に入ってきたところにおかえりと声を掛けた。母親は炬燵テーブルの上の宅配便の包みを二つ示して、カタログが来たようだと告げる。Yさんの告別式に出席したそのお返しらしい。こちらは薬を服用すると、風呂は父親が入るだろうから先に譲って下階に下りてきて、八時過ぎからSさんのブログを読んだ。そうして日記、BGMは『Hi-Fi Ellington Uptown』をもう一度繰り返している。ここまで綴ってちょうど九時を回ったところである。
 その後、一〇時直前から読書。斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』。ベッドに移って布団を身体に掛けながら読んでいると、階上で両親が何やら言い合っている声が響いてきて、父親などおそらく酒を飲んでいくらか気が強くなっていたこともあるのだろう、怒鳴るとまではいかなくとも結構大きな声を出していて、うるせえな、阿呆臭い、と思いながら読み進めた。一体何を言い合っていたのかは知らないが、またぞろ母親の言った何かに父親が気を損ねて罵倒していたような構図だと思う。実に阿呆臭い。それで読んでいるそのうちに、またしても眠気が湧きはじめて、順当に意識を落としたのだが、一体一日何時間眠るつもりなのか。合わせて一二時間かそこら、半日くらいは眠っていたのではないか。気づくと一時二〇分頃だった。そこから歯磨きをしつつ、読書をさらに進めて、二時一五分になったところで切りとして就床した。読書は「黒ツグミ」、「メロドラマ「黄道一二宮」の序幕」を読み終えて、「熱狂家たち」に入っている。「黒ツグミ」は様々な点で不透明性に満ちているが魅力的な短篇だ。「熱狂家たち」は凄い、熱量そのものと熱量そのものの烈しい応酬。ムージルの筆致は同じ戯曲形式の「メロドラマ「黄道一二宮」の序幕」よりも遥かに冴えているように思う。


・作文
 12:50 - 13:07 = 17分
 20:18 - 21:01 = 43分
 計: 1時間

・読書
 13:46 - 14:29 = 43分
 15:26 - 15:45? = 19分
 18:47 - 19:19 = 32分
 20:07 - 20:18 = 11分
 21:55 - 26:15 = (半分と考えて)2時間10分
 計: 3時間55分

・睡眠
 3:40 - 12:00 = 8時間20分

・音楽




小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』中公新書(2437)、二〇一七年

 孫文辛亥革命後に袁世凱との政争に敗れ、北京の中華民国政府から排除されていた。政権奪取を目指す孫文は、一九一九年に中国国民党を組織し、一九二三年一月にはソ連との提携方針を表明する。三月、孫文は広州に陸海軍大元帥大本営を組織し、北京政府に対抗する政権の樹立を図った。ソ連から派遣された顧問の下、中国国民党の改組が行われ、一九二四年一月に開かれた国民党第一次全国代表大会は、「連ソ容共」を掲げて中国共産党員の個人入党形式による合作を認めた(国共合作)。
 (109)

     *

 一九三一年九月一八日、関東軍奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、それを(end127)中国側の攻撃と主張して独断で軍事行動を起こした。国民政府は日本との全面戦争を避けるため不抵抗方針を採り、張学良軍も東三省から撤退した。そのため日本軍は東三省のほぼ全域を占領する。翌一九三二年一月には上海でも中国軍と日本海軍陸戦隊の衝突から、大規模な市街戦が発生した(第一次上海事変)。
 一九三二年三月、関東軍は清の最後の皇帝であった溥儀(一九〇六~六七)を執政として擁立し、満洲国の建国を宣言させた(一九三四年に溥儀が皇帝に即位し、国名も満洲帝国に変更)。
 蔣介石は「安内攘外」(まず国内を安定させ、それから対外的危機に対処する)政策を取り、武力で対抗するのではなく、国際連盟への提訴など、国際社会への訴えによる事態の解決を図った。蔣介石のこうした対応は、日本の行動を止めることはできなかったものの、中国ナショナリズムに対する英米の警戒心を緩和し、その同情を得るという効果を生んだ。他方で日本の武力侵略と国民政府の不抵抗方針に対して中国世論は激しく反発し、各地で空前の規模の日本製品ボイコットが起きた。
 (127~128)

     *

 孫文は革命直後の「軍政」から、国民党が国民の政権を代行しつつ国民を訓練する「訓政」の時期を経て、将来的には国民に政権を返し「憲政」に至るという「三序」構想を持っていた。孫文の構想はその後継者たちにとっても遵守すべきものだった。
 一九二八年一〇月に訓政綱領が発表され、訓政の開始が宣言された。訓政期には、党が国家を指導する政党国家体制がとられ、国政選挙など国民の政治的権利は制限を受けた。国民党党旗である青天白日旗を元にした青天白日満地紅旗が国旗とされた他、一九二九年には孫文の生前の訓辞を歌詞とする「中国国民党党歌」が新たに作成され、翌年に「国歌の制定以(end131)前には党歌で代用する」ことが正式に決定された。
 これによって、国家のシンボルと党のシンボル、国家に対する忠誠と党に対する忠誠の一元化が図られた。一九二六年以来、国民政府の下では体制イデオロギーである三民主義の実現を目標とする「党化教育」が提唱されていた。一九二八年にはこれを「三民主義教育」と改称し、教科書審定制度が開始された。
 (……)
 こうした政党国家体制の構想はソ連ソ連共産党の関係をモデルとしたものであり、のちの中国共産党政権とも共通点が多い。中国国民党中国共産党がともにソ連の影響を受けた双生児とも呼ばれる所以である。
 (131~132)

     *

 そもそも、ナショナリズムブルジョア社会のものであり、万国の労働者の団結による資本主義打倒を目指す共産主義者は国際主義者である、というのが共産党の基本的な考え方である。そのため一九一九年にモスクワでコミンテルン共産主義インターナショナル)が組織され、各国の共産党コミンテルン支部と位置づけられた。しかし実態としては、世界で最初に社会主義革命を成し遂げたという権威を背景に、支部の一つに過ぎないはずのソ連共産党コミンテルンを介して各国共産党に対し圧倒的な影響力を持つという状況が生じた。(end149)
 (……)
 ドイツで反共を掲げるナチ党が政権を握ると、ソ連ではドイツと日本に挟撃されることへの危機感が高まった。そこでソ連は、各国での革命の推進から、当面の敵であるファシズムの打倒を優先し、より広範な勢力との「統一戦線」の結成へと方針を転じた。これを受けて[一九三五年]八月、モスクワの中国共産党代表団は「八・一宣言」を発し、国民党を含む幅広い勢力に一致抗日を呼びかけた。この宣言が中国国内に伝わると、陝西[せんせい]省延安に逃げ延びた中国共産党は、一九三五年一二月に抗日民族統一戦線の推進を決定した。
 (149~150)

     *

 (……)一九三六年一二月の西安事件(……)。延安の共産党根拠地の包囲を命じられていた張学良は、共産党側の働きかけで統一戦線に賛同するようになり、督戦に訪れた蔣介石を監禁して内戦停止と一致抗日を迫った。蔣介石がこの要求を受け入れたことで事件は収束し、国共内戦は一時停止されることとなった。
 (152)

     *

 一九三七年七月七日、北平郊外の盧溝橋で夜間演習中の支那駐屯軍に対する発砲があった事件をきっかけに、現地の中国側軍隊との軍事衝突が発生する(盧溝橋事件)。日本は「支那軍の暴戻[ぼうれい]を膺懲[ようちょう]」するという声明を発し、北平・天津に対する全面攻撃を開始し、双方宣戦布告のないまま全面戦争が始まった。
 八月には上海の日本海軍陸戦隊と国民党軍との軍事衝突(第二次上海事変)から、大規模な戦闘が展開された。国民党軍は頑強な抵抗を見せたが、一一月の日本軍の杭州湾上陸作戦によって国民党軍の戦線は崩壊し、国民政府は南京から武漢を経て四川省重慶への移転を決定する。一二月に日本軍は南京を占領するが、このときに捕虜・非戦闘員に対する大規模な暴行・殺害事件が起きた(南京事件)。
 (153)