2019/2/20, Wed.

 六時半頃に一度覚醒して、それが結構軽くはっきりとした目覚めで、起きようと思えばここで起きられたのだろうが例によってふたたび眠り、最終的に一一時前起床である。外は快晴、何に遮られることもなく南の空に押し広がっている太陽の光を正面から顔に受けて覚醒を図った。ベッドから立ち上がり、ダウンジャケットを持って上階へ。書き置きによると母親は前日に引き続き着物リメイクの仕事らしく不在、花粉が凄いらしいので洗濯物は大方室内に入れておく、バスタオルだけ午後になったらよくはたいて入れてくれと書いてあった。台所に入ると、スチーム・ケースに入った温野菜と、フライパンには焼きそばが作られてあり、前夜のおでんの残りも一杯ある。それらをそれぞれ温めて卓に就いた。新聞が見当たらなかったので、焼きそばを一口口に入れてもぐもぐと咀嚼しながら玄関を抜け、ポストに取りに行った。戻ってくるとそれを読みながら食事、米国が前オバマ政権の対キューバ融和政策から転換して、同国をふたたびテロ支援国家に指定しようとしているとか。食べ終えると薬を飲み、使った食器を洗って階段を下った。自室に戻るとコンピューターの前に立って、持ってきた煎餅をぱりぱり食いながら前日の記録を付け、そうしていつものように日記を綴りだす。一九日の記事を短く書き足して仕上げると、この日の分も綴って計三〇分ほど費やして、現在は正午を越えている。今日は良い天気のところ(気温は何と一九度まで上がるらしい)勿体無いが、何となく散歩を怠けようかと思っている。その分読書や書抜きをしたいところだ。
 Duke Ellington『Hi-Fi Ellington Uptown』を流しつつ、前日の記事をブログに投稿。それから間髪入れずに過去の日記の読み返し。一年前の日記からはフローベールに関するゼーバルトの文章がちょっと面白かったので以下に改めて引いておく。

 (……)ちなみに自分の考えを話しながらときにこちらが心配になるほどの興奮にたびたび陥ったジャニーンが、ことのほか個人的な関心を込めて探究していたのが、書くことに対するフロベールの懐疑についてであった。ジャニーンの言うには、フロベールは嘘偽りを書いてしまうのではないかという恐怖に取り憑かれ、そのあまりに何週間も何か月もソファーに座ったまま動かず、自分はもう一言半句も紙に書きつけることはできない、書けばとてつもなくみずからを辱めることになってしまう、と恐怖していたという。そんな気持ちにかられたときには、とジャニーンは語った、フロベールはこの先将来、自分はいっさい執筆などしまいと思ったどころか、過去に自分が書いたものはどれもこれも、およそ許しがたい、測り知れない影響をおよぼすだろう誤謬と嘘がたてつづけに並んでいるだけのものだ、とかたく思い込んでいた。ジャニーンの言うのは、フロベールがこのような懐疑を抱いたのは、この世に愚鈍がますます蔓延していくのを目にしたからであり、そしてその愚かさがすでに自分の頭をも冒しつつあると信じていたからだった。砂のなかにずぶずぶと沈んでいくような気がする、とフロベールはあるとき語ったという。(……)
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』白水社、二〇〇七年、11)

 それから二〇一六年七月二三日の日記も読み(今とほとんど文調に変わりがないと言うか、端的に言って自分はちっとも進歩していないではないかという感を受ける)、そのまま「記憶」記事の音読。カフカの書簡からの文言、岩田宏神田神保町」の一節、沖縄関連の情報や『古事記』についてなど読む。そうすると一時一三分、そのままやはり間髪を入れずに小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史』の書抜きに入った。『Hi-Fi Ellington Uptown』の流れるなかで打鍵を進め、五〇分経って二時に至ると一度部屋を出て上階に行った。ベランダに吊るされたバスタオルを二枚、取り込んでおき、便所に行って糞を垂れてから風呂場へ、宇治茶のような薄い黄緑色に染まった湯を見下ろし、栓を抜くとともに洗濯機に繋がっているポンプを持ち上げ、管のなかから水が出てくるのを待つ(切れの悪い小便のように滴が間歇的にぽたぽたと垂れる)。それからブラシを用いて浴槽をごしごしと洗い、出てくると自室に戻って、書見に移った。斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』である。また眠ってしまうのではという危惧を抱えながらもベッドに移って身体に布団を掛けたのだが、やはり姿勢を水平に近くすると眠気が湧くようでちょっと欠伸を漏らした時間もあったものの、体勢を大方垂直に近く保った書見で、今回は眠気の魔の手に落ちることはなかった。「熱狂家たち」を読み進めている。ここにある原理は調和ではなく葛藤、それも激しさそのものが激しさそのものとぶつかり合う最上級の葛藤であり、とにかく熱っぽいのだが、その熱っぽさが読者を吸いつけ、時間を忘れさせる力になっている。その熱量は著者であるムージル本人ですら日記に、「しかし読んでいるうちにわたしは疲れてしまった(つまり作者すら疲れるのだ!)」と漏らしているほどだ。登場人物のなかではトーマスがとりわけ観念的で饒舌であり、喋ることに夢中になると我を忘れて手がつけられないといった調子で、その口からはアフォリズムに近い文言がしばしば漏れる。彼は同時にしかし、全般的な葛藤のなかでも比較的冷静を保っており、飄々とした様子で状況を面白がっているようにすら見えるのだが、そんな彼も、同様に大仰で芝居がかっているアンゼルムとのやりとりのなかで自制を失っていくようだ。四時を回ったところで母親が帰宅した気配があった。こちらは立ち上がり、コンピューターの前に移って日記を書き足して四時半。「可能性感覚」の概念が台詞として現れている鋭い応酬を以下に引いておく。

 トーマス (抗議を断ち切りつつ、挑発して内心を告白させようとするかのようにアンゼルムをみつめる)ほかのひとびとが、たとえば探偵のように、現実としてあるものを認識するときに、可能性としてありうるものだけを認識する人間がいるものだ。ほかの人びとが安定しているときに、なにか不安定なものを隠している人間がいるものだ。別の生を生きる可能性の予感と言ってもいい。あるいは、この世の崇高と卑劣のあいだにあって、共感も嫌悪も感じない、方向を失った感情。故郷のない郷愁、と言ってもいい。それがあらゆることを可能にするのだ!
 マリーア それもやっぱり理論にすぎないじゃありませんか!
 アンゼルム そう、理論にすぎない。あなたは正確な表現をみつけましたよ。しかし、理論はひとの生死に介入してくるとき、まことに恐るべきものになるのです。(苛立たしげにふたたび手紙を取り上げる)
 トーマス (苦々しげに、弾劾しつつ、しだいに熱っぽく)そう、理論にすぎない。まだ若かったころ、ぼくたちも理論をつくったものだった。まだ若かったころ、ぼくたちは知っていた、おとなたちが《真面目に》生死の契機としていたすべてが、精神的にはとうに片づけられた、恐ろしく退屈なものであることを。人間的な冒険性という点で楕円積分ないし飛行機と比較できるような美徳も悪徳もないことを。まだ若かったころ、ぼくたちは知っていた、実際に起るものは、起りうるものと較べればまるで重要ではないことを。人類の進歩は、実際に起るものではなくて、考えられるもののなかに、その不確実性、その精神の炎のなかに潜んでいることを。まだ若かったころ、ぼくたちは感じていた、情熱的な人間はけっして感情をもたない、彼には形のさだまらない裸形のエネルギーの嵐があるだけなのだということを!!
 アンゼルム (同じように昂奮して)そう、そしていまではぼくは、それが誤りで青臭いものだったことを知っている。それは木立だった。しかし風はこの木立を揺さぶらなかったのだ。これらの考えに欠けていたのは、結局あらゆる思想は誤りであり、それゆえにこそ[﹅7]信じられねばならない、心あたたかなひとびとによって信じられねばならない、というほんのわずかな認識の謙虚さだった!
 (斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』松籟社、一九九六年、169~170; 「熱狂家たち」)

 食事の支度をするために上階に行った。居間の電気も点けずに薄暗いなかで卓に就いている母親におかえりと挨拶し、麻婆豆腐を作ると言って台所へ入る。冷蔵庫から豆腐を取り出し、野菜室からモヤシを一袋取って(モヤシを茹でてくれと言われていた)がさごぞやったのち、麻婆豆腐に入れるものは何かないかと訊けば、葱があると。それで母親の買ってきたそれを受け取り、一本引き抜いて俎板代わりの牛乳パックの上で切りはじめた。母親は食卓灯すら灯さずに卓に就いて、翌日の料理教室のレシピを見ながら何か書いたり計算したりしているようだった。面倒臭いなあ、という声が漏れる。だったら辞めれば良いではないかとこちらなどは思ってしまうのだが(彼女は料理教室に行っていて本当に楽しいのだろうか?)、それを言えばおそらくはまた、辞めてずっと家にいるのが嫌だなどという言が返るのだろう。こちらは黙って作業を進め、フライパンに水と混ぜて麻婆豆腐の素を用意し、切った葱と豆腐を投入、しばらく煮てから火を止めて、とろみ粉液を回し掛けてふたたび熱せば完了である。次に、味噌汁を作ることにして例によって玉ねぎを一つ取る。それを切り、火に掛けた小鍋に早速入れてしまい、一方左側の焜炉ではもう一つ小鍋を熱してモヤシを茹でた。モヤシはちょっとしてから笊に上げておき、溶き卵を用意しているあいだに玉ねぎも煮えると味噌を溶き入れる(「まつや」の「とり野菜みそ」はもうほとんどなくなってしまったのだ)。そうして卵を垂らしておくと味噌汁も完成、あとは任せると母親に言ってこちらは自室に戻った。あと書くのを忘れていたが、料理を進めているあいだに米も新たに四合磨いで、時間を置かず炊けるようにすぐに炊飯ボタンを押しておいた。ほか、腹が減っていたので母親が買ってきたホイップクリーム餡パンを彼女と半分ずつ分け合って食べ、さらにバナナも一本貰い、エネルギーを補給しながらの調理だった。
 五時五〇分からMさんのブログを読んだ。BGMとして掛けたのはKenny Garrett『Pursuance: The Music Of John Coltrane』。Mさんが東京に来た時にちょっと話に出た木村敏からの引用は、ノエシスだのノエマだのややこしくてあまりよくわからなかった。三日分の記事を読むと音楽がちょうど最後の"Latifa"に入っていたので、椅子に就いて目を閉じ、Kenny GarrettとPat Methenyの同調的な咆哮を聞き、曲の最後まで耳を傾けた。そうすると六時半過ぎ、やや早いが食事を取りに行く。階段を上がるとソファに就いた母親は、ほうれん草を茹でたかったけれど、というようなことを言う。茹でようと思っていたところがまたタブレットに時間を費やしてしまったらしい。台所に入り、丼に米を大盛りにしながら、それにしても最近の母親のやる気のなさは凄い、時間さえあればタブレットでメルカリなり何なり見ているのではないかと思った。それから米の上に麻婆豆腐を掛け、味噌汁もよそって卓へ。テレビはニュースを映しており、カナダはトロントで四五階のビルの上から地上へ椅子を投げ落とすというやや気違いじみた行動を取った女性のことが報じられていたが(怪我人や破損物はなかったと言った)、母親がその途中でチャンネルをNHKへ、こちらもやっているのはニュースで、まもなく気象情報に移り変わった。今夜は大気が不安定だが明日になればまた晴れるらしく、最高気温は一四度で暖かそうだ。その後もニュースを目にしながら新聞は読まずにものを食ったはずだが、どのようなニュースがやっていたのかとんと思い出せない。もっと優れた記憶力を持ちたいと思って止まない最近の日々である。まあ生まれ持った能力は仕方がない、それにニュースもさほど長くは映されずに、母親がまた『笑ってコラえて』に番組を変えてしまったのだった。その母親は途中で、苺を一つ乗せたサラダを拵えてくれたので、それも食べた。DA PUMP高橋一生が物真似を披露するのを特に笑わずに眺めたあと、薬を服用して台所に食器を運ぶ。流し台の生ゴミを袋に入れておいてから皿を洗って、すぐに入浴に行った。湯船のなかに浸かって、両側の縁に腕を掛けながら脚を伸ばし、目を閉じる。そうして脳内を遊泳する思念に目を向けるが、そのうちに窓外で鳥の鳴き声が立ちはじめた。ホイッスルを短く連続で吹き鳴らすような声が、遠く近くなりながらやたらと頻りに鳴き盛っている。何かの前触れではなかろうなと、本気でそう思うわけでないが窓を開けて寄ってみると、腕を差し出してみても滴の感触は感じられなかったが、どうも黒々とした柵の艶から見て、またあたりの幽かな気配からしても、雨が降り出しているのではないかと思われた。それから湯のなかにまた座りこみ、しばらく浸かってから頭を洗い、出てくるとすぐに下階に戻って、Led Zeppelin『Houses Of The Holy』を流しながら八時ちょうどから日記を綴って三〇分。"The Rain Song"は名曲である。
 それからインターネットに繰り出して他人のブログを色々と読む。そうしてあっという間に一時間余りが経ち、一〇時である。Ernest Hemingway, Men Without Womenを読みはじめる。本篇を読む前に、読書ノートを持ってベッドに横たわり、メモしてある英単語を一つ三回ずつ、無声音で呟き復習した。それからコンピューターの前に移って時折りインターネットの辞書サイトで英単語の意味を調べながら読む。一時間を費やしたのだが、四頁しか進まなかった。Hemingway程度の英語でこれなのだから自分の英語力というものもまだまだ相当に低いが、しかしHemingway程度、と言っても思いの外に難しくて、単語の意味はわかるけれど文全体としての意味がよく取れないというような部分が散見されて、邦訳を参照してそこをいちいち確認しているとやはり時間が掛かる。どちらか良いのか――意味のわからないところに拘泥せずに生半可な理解であってもどんどん読み進めていくのが良いのか、それともやはり一つずつ地道に確認していくのが良いのか、迷い所である。それで時刻は一一時、ベッドに移って斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』から「熱狂家たち」を読み進める。しかしこの読書のあいだのことは何ら印象や記憶に残っていないようだ――一時まで読んだのだが、最後のほうは意識がいくらか眠気に濁っていたのかもしれない。歯磨きは済ませてあったので、一時に至ると読書を切り上げてそのまま就寝した。眠りに苦労した覚えはない。


・作文
 11:36 - 12:02 = 26分
 16:11 - 16:38 = 27分
 20:00 - 20:30 = 30分
 計: 1時間23分

・読書
 12:19 - 13:13 = 54分
 13:13 - 14:02 = 49分
 14:18 - 16:07 = 1時間49分
 17:50 - 18:33 = 43分
 20:34 - 21:50 = 1時間16分
 22:04 - 23:06 = 1時間2分
 23:10 - 25:00 = 1時間50分
 計: 8時間23分

・睡眠
 2:20 - 10:50 = 8時間30分

・音楽




小野寺史郎『中国ナショナリズム 民族と愛国の近現代史中公新書(2437)、二〇一七年

 一九三八年一月、近衛文麿内閣は事態の打開を図り、「爾後国民政府を対手[あいて]とせず」、新興政権の成立を目指す宣言を発する(第一次近衛声明)。この背景には、緒戦の敗北により国民政府が中央政府から地方政権に転落するという予想があった。
 日本は蔣介石に代わる「新中央政権」の樹立を図り、国民政府のナンバー2である汪兆銘に対する工作を開始した。これに応じた汪らは重慶を脱出し、一九四〇年三月、南京に新た(end154)な国民政府を組織した。日本は一一月に日華基本条約を締結し、汪兆銘政権を承認した。(……)
 しかし、日本側が中国からの撤兵という汪との約束を履行しなかったこともあり、重慶国民政府から汪に続く離脱者は現れず、むしろ蔣介石の下で中国側の結束が高まる結果を招いた。汪兆銘の離脱により重慶国民政府が瓦解するとの日本の見込みも外れることになった。
 (154~155)

     *

 一九四一年一二月に日本が米英に宣戦すると、重慶国民政府も米英とともに正式に対日宣戦した。翌一九四二年一月に米英ソ中ほか二四ヵ国による連合国共同宣言が発表され、連合国が結成される。中国には日本軍を引きとめる役割が期待された。そのため一九四三年一月には米英が中国との不平等条約を廃棄し、治外法権を撤廃した。一一月には米英中首脳によ(end163)るカイロ会談が開かれ、日清戦争以来日本の植民地となっていた台湾や東三省の中国返還が決まった。
 このように、第二次世界大戦のなかで中国は清末以来の不平等条約撤廃と利権回収に成功し、さらに「四大国」の一員へと、国際的地位を著しく向上させる。
 (163~164)

     *

 一九四五年七月、米英中(のちにソ連も加わる)が、日本の降伏条件を定めたポツダム宣言を発表する。八月九日にソ連が日ソ中立条約を破棄して満洲国に侵攻、八月一四日に日本政府はポツダム宣言受諾を正式に決定した。九月二日に日本は連合国への降伏文書に調印し、九日に支那派遣軍も降伏文書に調印した。一〇月に国際連合が発足すると、中華民国安全保障理事会常任理事国として五大国の一つとなる。
 (167)

     *

 共産党は一九四九年九月に北京(北平から再び改称)で中国人民政治協商会議を開催し、一〇月一日に毛沢東を主席、周恩来を総理兼外交部長とする中華人民共和国の成立を宣言した。この日は従来の一〇月一〇日に替わる新たな国慶日とされた。国旗には新しくデザイン(end172)された「五星紅旗」が採用され、また「正式決定以前には義勇軍進行曲を国歌とする」ことが決まった。
 国民党は台湾以外の支配地域をほぼ失ったものの、一九四九年一二月に政府を台北へ移転して中華民国を存続させた。ソ連や東欧諸国は中華人民共和国を承認し、アメリカや西欧諸国は引き続き台湾の中華民国を承認した(ただしイギリスは一九五〇年に中華人民共和国を承認)。国連でも、どちらが正式な中国政府かという代表権問題が生じた。高まりつつあった東西冷戦と米ソ対立は、中国の内戦の帰趨にも大きな影響を及ぼすこととなった。
 (172~173)

     *

 一九五〇年六月、北朝鮮朝鮮半島の統一を目指し韓国に侵攻する。北朝鮮軍は一時は釜山を除く韓国全域を占領したが、米軍を中心とする国連軍が仁川[インチョン]上陸作戦に成功すると敗走に転じた。しかし国連軍が北朝鮮領内にまで侵攻し、中朝国境に迫ると、中国は人民解放軍を「人民志願軍」(義勇軍)として派遣し、参戦した。この背景には、自国領土にもアメリカが侵攻してくるのではないかという強い危機感があった。義勇軍という形式を取ったのも、アメリカに中国本土攻撃の口実を与えないためだった。(end174)
 中国の参戦によって南北の戦線は北緯三八度付近で膠着し、一九五三年に休戦協定が結ばれた。一方、台湾進攻のための部隊が朝鮮戦争に転用されたこと、アメリカが台湾海峡に艦隊を派遣したことから、中華人民共和国による台湾の「解放」は不可能となり、海峡を挟んだ国共の対峙が固定化された。
 (174~175)

     *

 朝鮮戦争は、建国直後の中華人民共和国超大国アメリカと直接矛を交えた戦争であり、中国は大きな人的・経済的損失を被ることとなった。対外的な危機に直面した中国政府のイデオロギー戦略にとって、愛国主義による人民の団結は最重要課題だった(「毛沢東時代の「愛国」イデオロギーと大衆動員」)。
 清末以来、中国社会には一貫してアメリカに対する好意的な世論が存在した。アメリカは日中戦争中の同盟国でもあった。しかし国共内戦朝鮮戦争を経て、アメリカは最大の帝国主義国、台湾の国民党政権の後ろ盾として、共産党政権と中国ナショナリズムにとっての「主要敵」と位置づけられるようになる。ただ、「ヴォイス・オブ・アメリカ」のラジオ放送などの「アメリカのデマの拒絶」が繰り返し呼びかけられたことは、逆説的に中国社会の親(end176)米感情の根強さを物語っている。
 (176~177)

     *

 共産党が統治する中華人民共和国の下では、国家の構成要素に関し、中華民国期とは異なる説明がなされた。その最たるものが国名にも含まれる「人民」という概念である。中華人民共和国成立直前、暫定憲法に相当する中国人民政治協商会議共同綱領を起草した周恩来は(end178)次のように説明している。

 一つ説明しなければならない定義は、「人民」と「国民」には区別があるということである。「人民」は労働者階級、農民階級、小資産階級、民族資産階級、および反動階級から目覚めた一部の愛国民主分子である。官僚資産階級はその財産を没収された後、地主階級はその土地が分配された後、消極的には彼らのなかの反動活動を厳しく取り締り、積極的には彼らにより多くの労働を強いて、彼らを新しく改造しなければならない。改変以前には、彼らは人民の範囲に含まれないが、ただ中国の一国民ではあるので、当(end179)面彼らには人民の権利を享受させず、逆に国民の義務は遵守させねばならない。
 (「人民政協共同綱領草案的特点」 一九四九年九月)

 中華人民共和国の下では「国民」(あるいは「公民」)よりも社会主義的な階級概念に基づく「人民」が重視された。国籍を有する者は一律に「国民」だが、「国民」のなかに「人民」とその敵が存在するという説明である。もっとも中華人民共和国が「国民」という語の使用を避けたのは、中国国民[﹅2]党との敵対関係が続いていたという事情も考えられる。
 しかし、誰が「人民」で誰が「人民の敵」なのかは非常に曖昧である。これをどう判別するのか。やや後になるが、毛沢東は次のように述べている。

 まず何が人民で、何が敵かをはっきりさせねばならない。人民という概念は異なる国家あるいは各国家の異なる歴史時期ごとに、異なる内容を持つ。我が国の状況について言えば、抗日戦争期には、抗日の階級、階層と社会集団はみな人民の範囲に含まれ、日本帝国主義、漢奸、親日派はみな人民の敵である。解放戦争〔国共内戦〕期には、アメリカ帝国主義とその走狗つまり官僚資産階級、地主階級とこれらの階級を代表する国民的反動派は、みな人民の敵である。これらの敵に反対する階級、階層と社会集団は、み(end180)な人民の範囲に含まれる。現段階、社会主義建設期には、社会主義建設事業に賛成し、擁護し参加する階級、階層、社会集団は、みな人民の範囲に含まれる。社会主義革命に反抗し、社会主義建設を敵視し、破壊する社会勢力と社会集団は、みな人民の敵である。
 (関於正確処理人民内部矛盾的問題」 一九五七年二月)

 つまり、誰が「人民」で誰が「人民の敵」かは、そのときの状況に応じて共産党が決定するということになる。中華人民共和国成立後、共産党は国内の反対勢力の制圧を進めたが、その際に援用されたのがこの論理である。
 (178~181)