2019/2/25, Mon.

 布団のなかでぐずぐずして一〇時半起床――もっと早く起きたかったのだが。上階に行くと母親は、図書館に出かけると言って、ほかにも映画を見てくるかもしれない、洗濯物は雨が降ったら入れてくれと言い残してまもなく出かけて行った。こちらは前日の残り物を冷蔵庫から取り出して電子レンジに突っ込み、そのあいだに便所に行く。それから温められたものを卓に運ぶが、それだけではおかずとして足りないようだったので、冷凍の唐揚げを持ち出して、残っていた三つをすべて皿に滑り込ませ、それも電子レンジで温めた。そうして卓に就き、鶏肉や唐揚げとともに餅米入りの白米を咀嚼しながら、新聞一面から沖縄の県民投票の結果を読む。開票率八八パーセントの時点で賛成がおよそ一〇万票、反対は約三九万票、どちらでもないが四二〇〇〇票というわけで、辺野古新基地建設反対の民意が確実に示されたとは言えるのだろうが、しかし投票率が五二パーセントとあってはやはりインパクトは少ないだろう。そのほか、今上帝の在位三〇年記念式典の記事を読み、めくって三面から県民投票の付加記事も途中まで読んで席を立った。水を汲んできて薬を飲むと、皿洗いをしたのち、洗面所に入って髪にウォーターを吹きつけて、櫛の付いたドライヤーを操って寝癖を直した。そうしてアーモンド・ナッツの小袋を仏間から一つ取って下階に戻ると、それをばりばりやりながらコンピューターを起動させた。一一時二〇分前から日記、前日の記事を仕上げてここまで記すともう正午が目前である。
 それから日記の読み返し。一年前からは、次の文を引いておく――「自分がどのような人間かなどということは、最終的には誰にもわからないのではないか。ロラン・バルト的な言い分ではないが、主体の深奥にはただの空虚が広がっている、そこに向けて人間は一生のあいだ、ああでもないこうでもないと、「自己の解釈学」を延々と続けて生きなければならないのかもしれない」。これはまさしくその通りではないか。続けて二〇一六年七月一八日の記事も読んだ。六〇〇〇字以上でそれなりに長かったが、こちらからは、特段に言及しておくべきことは見当たらなかったと思う。さらに次には、「記憶」記事を音読する。これらのあいだのBGMはJim Hall『Concierto』。「記憶」記事は中国史関連の知識、七六番から最新の八三番まで読むと、『ムージル著作集 第八巻』からも「記憶」記事にアフォリズムの類を引いておいた。そうして時刻は一時前、そこから次の読書までに二〇分の時間が挟まっているのは、一つには腹筋運動を行ったことがあるが、これは僅か数分で終わったはずだ。そのほかに何をやっていたのかは思い出せない、部屋を出た記憶もないし、インターネットを回った覚えもないが、Twitterでも眺めていたのかもしれない。そうして、何をやろうかと迷いながらも、迷った時にはとりあえず本を読むものだろうというわけで、一時一〇分過ぎから神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』を読みはじめた。中畑正志「ソクラテスそしてプラトン」を読了し、金子善彦「アリストテレス」へ。アリストテレスの思想を紹介する後者の論稿は議論が抽象的でいまいちよくわからず、そういう時はいつも自分の地頭の悪さを突きつけられる気分になるのだが、しかし気にせずに読み進めていく。窓外では梅の木が白い花を灯して、午後の薄陽を受けて明るんでいる。二時を過ぎた頃合いになって母親が帰ってきた。それからもしばらく、臥位になって布団を身体に掛けながら読み続けて、二時五〇分になったところで切り上げて上階に行った。「どん兵衛」の鴨出汁蕎麦を食べるつもりだった。戸棚からそれを持ってくると、テレビには古代ローマコロッセオの情景が映っているので、何これ、『ベン・ハー』、と笑いながら訊くと、そうではなくて、『テルマエ・ロマエ』だと言った。母親は冷凍のチーズケーキを解凍して、ブルーベリーか何かのジャムを上にちょっと乗せて用意しておいてくれた。カップ蕎麦に湯を注いで、三分待つあいだにはその冷たく甘いケーキを食べ、それからカップの蓋を取り除いてつゆを入れるとともに麺を搔き混ぜる。そうして『テルマエ・ロマエ』に目をやりながら食事。シリアスとギャグの不調和あるいは亀裂。食べ終えるとスープも途中まで飲み、台所に移って容器を始末、そうして風呂を洗ってから下階に戻ってきて日記を書き足すと三時半、そろそろ出かけなければならない。
 歯磨きしながら自分のブログを読み返す――過去の日記から引いた川面の描写。それから、靴下を履きに上階に上がると、母親が針に糸を通してくれと。ピンク色の糸を二本撚り合わせたものを、口先で咥えて湿らせて二本がばらけないようにしてから、苦戦しつつ針に通す。そうして下階に戻ると着替え、臙脂色のシャツに茶色のズボン。カーディガンは羽織らない――帰りは父親の車だから、特に寒くはなかろう。深青のバルカラーコートを着て上へ。チケットを忘れずに持ち、Brooks Brothersのハンカチも尻のポケットに入れて出発。母親、戸口までやってきて郵便を取ってくれと言う。それでポストから夕刊を取り、政府は県民投票を受けても辺野古基地建設を停めないだろうというような見出しを瞥見しつつ母親に渡し、歩き出した。寒さはまったくなかった。風は流れるがそのなかに鋭さはなく、肌を強く擦ることのない愛撫のような流れである。坂を上って行き、三ツ辻に掛かると、ガードレールの向こう、斜面に生えた蠟梅が、もう花は落ちはじめていて乏しいけれど、その香りを鼻に届けてきた。下校する中学生らとすれ違いながら表へ。北側に渡る頃には早くも額に汗の感覚が滲んでいた。東の途上の空には形のない拡散的な雲がいくらか敷かれている。日向のなかを歩いていくあいだも、対岸に中学生の女子の姿が何人も見られる。街道を進み、途中で裏へ。背後からやはり中学生女子らの会話が聞こえる。カラオケに行こうとか、明日は学校がないとか言っていたが、翌日は火曜日で通常の登校日であるはずなので、これは彼女らの願望を表した冗談だったのかもしれない。ほか、席替えの話もしていて、なかの一人があいつの隣の席に座っているのはもう耐えられない、というような文句を漏らしていた。そうした話に耳を向けつつ歩いていると、次第に彼女らの声と影が近くなってきて、そのうちに抜かされた。四人であった。そのうちの一人だけ、黒の長いソックスでスカートの下に露出した脚を覆っていた。こちらの歩みが遅いため、次第に彼女らは先行して距離がひらいていく。背後からは淡い橙色に色づいた陽が射し、道脇の白塀にこちらの影が映し出されるのだが、頭の一箇所に直しきれなかった寝癖の無造作な突出があって、それはアニメや漫画の界隈で言うところの「アホ毛」のようで、こちらの歩みに合わせてちょっと弾むのだった。
 市民会館跡には、建設中の現場のシートも骨組みもなくなって、新しい建物の姿が露わになっていた。白く滑らかで真新しい壁の、四角四面の建造物である。何らかの文化施設になるはずだ。駅近くには小さな社があるのだが、その境内(と言うほど広いスペースはないが)に生えた百日紅の木が、中途からばっさりと断たれているのに気づいた。そうして剪定しても、夏にはまた生長して花をつけるのだろう。
 駅に到着し、ホームに上がる。向かいの小学校からは、放課後になって校庭で遊び回る子供たちの嬌声が響いてくる。二号車の三人掛けに乗り、手帳にメモを取る。発車してからも、電車の揺れに妨げられながらペンを動かし、牛浜あたりで現在時に追いついた。それから読書。神崎繁熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』。車内、こちらの斜め前の七人掛けには声の大きい女性二人が乗っていて、年齢は四〇くらいか? 話しながら時折り馬鹿笑いのようにして、笑声を爆発させていた。
 立川着。人が捌けるのを待って、着いてもしばらくのあいだ本を読む。ホームに人々の姿がなくなったところで降り、階段を上がって乗り換え、三・四番線のホームに下りるとちょうど三番線の快速が発車するところだった。急がずに見送って次を取ることにして、四番線の乗車位置に就く。左方を見れば禿頭の、まださほど年嵩ではないが、剃り上げた頭のサラリーマン。右方には威勢の良さそうな若者がやって来た。まもなく電車が入線、乗り込むと席の端に座って、また読書を始めた。車内にはマスクをつけている姿が多い。咳やくしゃみの音も聞かれて、花粉なり風邪なりがやはり流行っているのだろう。武蔵境あたりで若者二人が乗ってきて、こちらから見て対角線上にあたる向かいの左端に就いた。大学生だろうか――実にそれらしい、心配事のなさそうな威勢の良さと屈託のなさを漂わせていた。まだまだ世間に揉まれてなさそうな感じだ(いつまで経っても世間知らずなこちらが言うのも何だが)。彼らは新宿で降りて行った。こちらは四ツ谷で降車。ホームを辿り、表示に従って階段を上ると、一度改札を抜けた。目指すは東京メトロ南北線である。改札から左に折れて、駅舎の外へ出かけたところに南北線の入り口があった。下りて行く。改札を抜け、さらに下へ。ホームの一番端に下りたのだが、ホームと線路のあいだに仕切りがあって、それが頭上まで覆い、また左右もぴっちりと隙間なくガラスで閉ざしたもので、そうしたホームドアを見るのは初めてだったのだが、最初はその先、実際には線路の空間がある場所に、何か室があるのかと錯誤しかけたものだ。なるほどこれでは事故も起きないし、自殺をしようと思っても出来ないなと思った(帰りの車内でこのことを父親に話したところ、自殺もそうだが、目の不自由な人がホームから落ちるのを防ぐ意味合いが大きいのだと言った――何でも視覚障害者の六割だかそのくらいの数の人が、線路に落ちた経験があるらしい)。乗って二駅(一駅目は永田町で、永田町というのはこんなところにあるのかと思った――T谷やKくんの職場がこの永田町にあるらしい)。降りる。ホームの端へ向かう。上がると銀座線のホームに繋がっている。さらに進んで、改札を抜け、長々しい通路を行く。白っぽい灰色の無機質なタイル壁に、時折り申し訳のようにして色付きのタイルで装飾が施されている――風に葉を吹き落とされる裸木の、象形的な表現である。風は赤っぽいピンク色と青色、木は金色で、葉のなかにはやはり金色の、銀杏の形のそれが混じっていた。
 一三番出口から出る――通路の一番端だった。地上へ。ドトール・コーヒーが出てすぐ傍にあり、広々とした店内のそのなかに、スーツ姿がひしめくように集まっていた。横断歩道を渡る。何やらビルの看板を発見する。そこに、「サントリーホール」の文字が確かに。サントリーホールへ行く順路は手帳にメモしてきており、次のようなものだった――1. 溜池山王駅13番出口から真っすぐ。2. 信号のある横断歩道を渡る。3. アークヒルズ店舗看板の左手にエスカレーター。4. エスカレーターを昇る。5. 2階に上がり進むと、アーク・カラヤン広場。6. 広場の奥にサントリーホール。それで、ホームページで確認してきた写真とは違って、「アークヒルズ店舗看板」が見当たらないようだったが、確かにサントリーホールと書いてあるし、エスカレーターもあるし、ここでもう昇ってしまおうとエスカレーターを上がった。本当はもう少し先で上がるのが順路通りだったのだが、まあ良い。このビルはANAコンティネンタルとか何とか書いてあったと思う。エスカレーターを昇って上の通路に踏み入ると、実に高級そうな、綺羅びやかなカフェ・バーがある。その脇を通って進んでいくと、じきに眼下に、見覚えのある看板が見えた。あれが「アークヒルズ店舗看板」ということは、本来はここから上がるべきだったのだと見て、と言うことはこちらか、と左に折れて扉をくぐり、広場に入った。ここにもカフェがあって、テラス席がたくさん用意されていた。父親を待つか、連絡を入れるか瞬時迷った。本を読みながら待っていても良かったが、しかしテラス席は読書のためには照明が足りないようだった。それでもうなかに入ってしまうことに。ホールに近づくと、正装の男女が迎えてくれる。なかに入って進み、チケットを差し出す。正面、五番の入り口から入ってくださいと。ホールに入り、階段通路を下って行き、席へ。就くと手帳を取り出してメモを取った。正面、ステージの上には円柱形のシャンデリアが全部で一〇個、互い違いに吊るされてあり、天井は見上げるとちょっと怖くなるほどの高さである。ステージの向こうや四囲の壁際には二階席が設けられており、ステージ背後のその先には巨大な、ロボットのような、機械仕掛けの生命のようなパイプオルガンがあった。じきに父親がやって来た。メールを入れたが、と言うので、気づかなかったと答え、時折り話をしながらメモを続けた。
 そうして七時開演。会場で配られたプログラムが手もとにあるので、まずはそれを引用しておこう(文責は小室敬幸(作曲/音楽学))。本当は指揮者、ピアノ、オーケストラのそれぞれにも経歴や説明が付されているのだが、それは面倒なので省略する。

スメタナ 歌劇《売られた花嫁》序曲
 タイトルだけみれば人身売買が題材なのかと、勘違いしてしまいそうですが、さにあらず。ここで"売られた"と訳されているのは英語でいえば"バーター"――つまり"交換条件で"という意味になります。結婚を反対された主人公が、機転を利かせることで(ここでバーターが重要になります!)愛する彼女と結ばれるまでを描くラブコメディなのです。
 作曲を手がけたのは、<モルダウ>の作曲者として知られるベドルジハ・スメタナ(1824~1884)。1866年に初演されたこの作品は、チェコ語で書かれたオペラとしては初めてレパートリーに定着した記念碑的作品となり、長らくチェコの国民オペラとして愛好されるようになります。ただしチェコ語は難しく、他国でおいそれと上演ができません。その代わり、歌のない序曲はオーケストラのレパートリーとして定着しました。それが本作です。
 ソナタ形式で構成されている……と聴くと難しそうに聞こえるかもしれませんが、明るく朗らかな提示部を経て、中間の展開部では困難に当意即妙な発想で立ち向かい、そして最後には幸せを掴み取る! ――そんなオペラのあらすじを連想させる流れになっています。

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 Op. 23
 タイトルをご存じなくとも、音楽が始まれば「ああ、この曲か!」と誰もが納得の超有名曲。メロディーメーカーとして名高いロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキー(1840~1893)の面目躍如といったところでしょう。ところが意外なことに、この有名な旋律が出てくるのは第1楽章冒頭の3~4分程度だけ。あくまで"イントロ"なのです。
 ピアノが跳ねるようなリズムで、物悲しい旋律を奏でるところから本編開始。途中で内向的な音楽に転じつつも、前半からドラマティックな音楽を展開していきます。本編の前半部分がのちに再現されると、今度は破滅的なクライマックスを逃れることに成功。カデンツァと呼ばれるピアノの独奏部分を経て、前向きな雰囲気のまま第1楽章を終えます。続く第2楽章は、激動の前楽章がまるで嘘のような愛らしい音楽に。中間部ではピアノが無邪気な子どものようにはしゃぎ、駆け回っていくのです。第3楽章は当時、ロシア領であったウクライナの舞曲風メロディーを印象的に繰り返します。性格の異なる優しげな旋律も耳に残りますが、これが最後に朗々と歌われることでクライマックスを形作るのです。

シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 Op. 43
 メインプログラムとなるのは、日本ではムーミンの国というイメージが強いフィンランドの音楽。国民的作曲家ジャン・シベリウス(1865~1957)による代表作です。当時、ロシア帝国支配下にあったフィンランドも19世紀末になると、独立への機運が高まります。そのムーブメントのいわば"主題歌"となったのが1900年に初演されたシベリウス作曲の《フィンランディア》(オリジナルのタイトルは「フィンランドは目覚める」)でした。その旋律は現在でも、"フィンランド第二の国歌"として広く愛唱されているほどです。
 そんなシベリウスですが、自身はスウェーデン系。彼の作曲していた音楽も、ロシア音楽から多くを学んでいました。だからこそ自らのアイデンティティを模索するように、フィンランド独自の音楽を追い求めてゆくことになります。例えば、オーケストラの各楽器を分厚く重ねすぎないことでチャイコフスキーとは異なる、透明感のあるモダンなサウンドを実現。現在の北欧家具にも通じる雰囲気が、音楽で表現されていきます。
 本作は1901年に家族とともに長期滞在したイタリアで作曲が進められたこともあり、第1楽章は明るく朗らかな空気感ではじまります。中盤では雲行きが怪しくなりますが、大事件には至らず。最後は穏やかに音楽を結びます。第2楽章はイタリアで出会った、稀代の女好き「ドン・ファン伝説」が題材。女性をものにする過程で殺してしまった騎士団長が再び眼前に現れたことを驚き、苦悩するドン・ファンが音楽で描かれます。第3楽章は、ダイナミックな嵐のような音楽。祖国独立へ向けて戦う人々を想起させます。合間には、耐え忍ぶ人々の心境も描かれているかのようです。そのまま切れ目なく続けて演奏される第4楽章は、勝利の凱歌で始まりますが、しばらくすると葬儀のような悲痛な音楽も登場。この正反対の要素が拮抗していくのですが……果たしてハッピーエンドを迎えられるのでしょうか?

指揮 ヴァハン・マルディロシアン
ピアノ 萩原麻未
管弦楽 新日本フィルハーモニー交響楽団

 一番面白かったのは冒頭のスメタナの曲だったように思う。ヴァイオリンの速いパッセージから始まって、音量を一気に下げたヴァイオリンが相変わらず速いフレーズを下に敷くその上に、同型のパッセージがチェロやコントラバスへと広がっていく、という冒頭の趣向なのだが、その動きが面白かった。チャイコフスキーの曲は、確かに冒頭で有名なフレーズが出てきて、あの曲か、とわかったが、あまり印象に残っていない。ピアノ協奏曲なのでピアノが活躍していたのは確かだ(ピアノは初めは舞台の後方に置かれていたのだが、スメタナの曲が終わった時点でスタッフらによって舞台の前方中央、指揮台と被る位置に運ばれた)。Cecil Taylorかと思わせるような叩きつけるような無骨な強打や、McCoy Tynerばりの駆け上がりなど見せていたが、クラシックのピアニストに対してこのようにジャズの演者の名前を比較として挙げるのは本来適切でないに違いなく、こうした名前しか出てこないあたり自分のお里が知れる。こちらの位置からするとほぼ真横からピアノを眺める形になったが、女性の細腕ががくがくと、機械のように上下に高速で行き来し、震えて音を叩き散らすのを眺めていると、「豪腕」という言葉が浮かぶものだったし、さらにはその演奏について、「情念的」という形容も頭に浮かんだ(ピアニストは背中のひらいた、ラメをあしらった黒のドレスを身につけていた)。彼女は演奏が始まる前、舞台に出てきて椅子に就いた際、連続で六回ほど尻の座りを直していたし、演奏中も休みの部分に来るとたびたび立ち上がってはまた座り直していた。高速のフレーズを弾いたあとなど、顔を天に向けてまるで恍惚に達したかのように顎を上げてみせるのだった。チャイコフスキーの曲が終わると一旦二〇分の休憩に入った。こちらの右隣は父親、左隣は年配の男性が座っていたのだが、その男性が、トイレから戻ってきて席に就くと、熱演でしたなあ、と話しかけてきた(ちなみに、こちらの左方に二つ目の隣は赤紫色っぽいピンクのドレスを着た女性が就いていて、彼女は丁寧な人で、通路に入ってほかの人の前、狭いスペースを通らなければいけない時に、申し訳ありません、失礼致しますと上品に口にしてみせた)。ピアニストは腱鞘炎になるんじゃないかと思った、見ていて少々痛々しかったと言う。それを皮切りに、しばらく断続的にその男性と話をした。クラシックはよく聞かれるんですかと訊くと、小学校の頃から聞いており、年に数回はこうしてコンサートに足を運んでいると言う(見たところ七〇歳くらいかと思われたので、もう六〇年くらいは聞き続けているわけだ)。そのような年配者を前に、こちらは早めに自分の身分を白状しておいたほうが良かろうというわけで、僕はこうした場に来るのは今日が初めてでして、と明かし、父親に誘われて来たんですよと右方を示した。いいですなあ、というような反応を相手は見せたようだ。お父さんはよくお聞きになられる、と訊くので、どうですかねと右を向くと、いや、そうでもありませんと父親。年に一回くらいですかね。その男性の評価では、今宵の新日本フィルは、腰が軽いと言うか、少々上擦っているようなところがあるらしかった。指揮者は悪い指揮者ではないが、オーケストラがそれにちょっとついていっていないような感じがあると。上滑っているような、とこちらが訊くと、そうそう、と(完全に「岡目八目」ですけれどね、と男性は言ったが、これは調べてみると、「第三者は当事者よりも情勢が客観的によく判断できるということ」という意味だから、謙遜の語句としては本当は相応しからぬものだろう)。また、ピアニストはしかし熱演だった、腱鞘炎にならないかと思ったと先ほどの言を繰り返す。自分はどちらかと言うとジャズのほうを聞くのだとこちらは自分の趣味を明かし、ジャズはお聞きにならないですかと訊けば、多少は聞くと。ただ、Miles DavisJohn Coltraneのようないわゆる「こてこての」モダンジャズよりも、フュージョンなどのほうが好きらしかった(FourplayやBob Jamesなどをよく聞くようで、何度か名前を挙げていた)。しかしそう言うと、本線のジャズ好きからは馬鹿にされてしまう、と笑うので、それはわかります、とこちらも笑って受ける。高校の頃がちょうどモダンジャズの最盛期に当たって――と言うことは、「最盛期」を一九六〇年と考えるとしてその頃一五歳と見積もっても一九四五年生まれなので、やはり七〇そこらだったのではないか――、当時はクラシックを聞くというのは少数派だったから、迫害されていた、というようなことを言ったのでこれも笑った。しかし非常に良い、豊かな趣味をお持ちですねと向けると、いやあ、陰気だなんて言われますけどねと言うので、とんでもないとこちらは受ける。今日の曲なんかは、もう知っている、という感じですか。勿論そうで、それぞれの曲について何種類もCDだかレコードだかを持っていて聞いてきたらしかった。さすがに年の功というわけだ。次に控えたシベリウスの曲について、何か聞き所、というようなものはありますかと尋ねると、冒頭から「爽やかな空気感」があってなかなか好きだと。その後も「紆余曲折」あってののち、「明るい開放感」のような雰囲気に包まれて終わると。そんな話を聞いたあとに、後半の演目に突入した。確かに男性の言った通り、優美で繊細かつ爽やかな透明感を持った和音から始まる曲だった。しかし第二楽章ではがらりと雰囲気が変わって、コントバラスのピチカートから始まり、物静かで、ちょっと陰鬱なような風情が漂う。その後はどこが第三楽章なのか、どこが第四楽章なのかもわからず、しかし目を閉じて聞き入ったのだが、シベリウスという人は結構複雑な和音を使う人なのかなと思った。メロディもあまりキャッチーという方向性ではなく、ちょっと明るいフレーズを差し挟んでみたかと思えばふっとまた複雑な和音に戻って、なかなか解決しない。しかしそのなかでも、非常にわかりやすい、アンセム的な旋律が終盤になって導入されて、これは、ああ、このメロディがおっさんの言っていた「明るい開放感」というやつか、このまま終わるのだなと思っていたところ、一度目にそれが出てきてからもまだ結構長かった。その三音だか六音単位だかのメロディはもう一度、同じ形で出てきて、最後も同様に繰り返されるのかなと思っていたら、結びはちょっと形を変えたバリエーション的な感じになって終幕した。拍手が鳴り響いているなかで隣の男性が顔を寄せてきて、相当に「こってりとした」感じ、と評価を告げる。男性がそれまで聞いてきた演奏は、インテンポで、結構さらりと流すように、あっさりと演じるものだったらしいのだが、今回の演奏は、例えば第二楽章の最初などテンポをぐっと落としていたと(第二楽章というのは、コントラバスのピチカートから始まる、とこちらは確認する)。そのように、盛り上げるところと盛り下げるところの対比を強調して、かなりめりはりを付けた演奏だったらしく、特に第二楽章のあたりは指揮者の思い入れが入っていたのではないかというのが男性の見立てだった。ちょっと大仰な、と訊くと、そうそう、と受けて、だから「北欧的」というよりは、ちょっと「ロシア的」に感じられたと。なるほど、とこちらは受けているうちに、アンコールが始まった。これはこちらでも聞いたことのある有名な曲だったのだが、終わって拍手が鳴り響くとふたたび男性が顔を寄せてきて、エルガーの「威風堂々」ね、聞いたことあるでしょ、と言うので、ああ、なるほどと受けて、聞いたことあります。拍手は長く続いて、指揮者は一回退場してからもう一度挨拶をしに出てきた(それで言えば前半の終わりの拍手も相当に長く継続されて、ピアニストは退場しながらもまた出てくるのを繰り返して、四回ほど礼をしなければならなかった)。それで離席。通路に出ながら、男性に、どうでしたか全体として、と話しかけると、いやまあ熱演だったんじゃないですか、こういうのも良いんじゃないですかとやや曖昧な返事。父親はそれを受けて、管楽器の音が良かったですねえと。そのまま男性は、階段を上がって行き、人波のなかに混ざってしまった――こちらはもう少し話を聞いてみたかったし、何よりきちんと礼を言いたかったのだが、まあ仕方ない。ホールから出たところで、父親がトイレに行ってくると言うので荷物を受け持ち、壁に寄ってしばらく待った。トイレは混んでいるだろうからこのあいだにメモを取ろうと手帳を取り出したところが、思いの外に早く父親は帰ってきて、ほとんどいくらも書けないままだった。そうして退館。ホールを出ると左方に。階段を上る。芋虫のように上下に波打つ手摺りの設置された階段通路を行って裏通りに。途中、「HOMAT PRESIDENT」と浮き彫りのロゴが記された大仰な建物があった。その脇を抜けて、ホテル・オークラに。地下駐車場に入って車のもとへ。それで出庫するのだが、父親の手違いで、本当はホテル利用者しか停められない駐車場に停めていたのだった。ゲートをくぐる際になってそれが判明し、当然駐車券を入れただけではゲートは開かず、出られない。それで緊急連絡をして、事情を説明。連絡先の相手は、結構なおざりな感じの口調だった。今回はこちらで門を開けますと言って開けてくれたので何とか出られ、しかも金が掛からなかったのではないか? 父親は、申し訳ありませんと言って、走り出してからも、そりゃ失礼しましたと漏らしていた。それで、スメタナが一番面白かったなとか、シベリウスというのは結構複雑な和音を用いる人なのかななどと、上に書いたようなことを言ったり、おっさんのことを話したりしながら高速に乗る。この時点で九時半くらいだったはずだ。到着予定時刻は一〇時四五分ほどだった。しかし途中で飯屋に寄ったので、実際にはもう少し遅くなった。車に乗っているあいだ父親と多少のことを話したが、これは思い出すのも面倒臭いし、特に大した内容もなかったはずなので省略してしまえば良いだろう。カーナビはテレビを映していた。最初はNHKのニュース。それが沖縄県の県民投票に触れはじめたところで何故か父親が、何とか言って、こちらに気を遣ったのだろうか、むしろ彼の興味としては遠いはずの『しゃべくり007』にチャンネルを変えた。むしろこちらとしては辺野古関連の話題を追いたかったのだが――ゲストは高橋一生川口春奈という女性。まあ特段に書くほどのことは印象に残っていない。八王子で高速を降りる。そうして近場の中華屋、「南京亭」で飯を食っていこうということになった。駐車。車の外に出ると香ばしい匂いが漂っていた。入店。店内の空気がやや曇っていたのは、煙草の煙ではなく、厨房から上がる蒸気によるものだったようだ。広いテーブル席に就く。父親は野菜ラーメン。七百いくらかの品で、息子の立場で、そして代金を持ってもらう立場で(こちらは初めからそのつもりで財布を持ってくることすらしなかった)それよりも高い品を頼んでしまって良いものかちょっと迷ったが、八百いくらかの広東麺にした。そのほか、四つ入りのジャンボ餃子。父親は、母親にも土産として餃子を買っていこうかと言う。それで生の餃子一パック(四つ入り)が追加で注文された。餃子が先にやってきた。まあ普通の味といった感じ。特に美味くもまずくもない。父親は餃子に口につけて、熱っ、と言って大層辟易し、怯んでいた。じきにラーメンが来る。こちらの味もまあ普通、可もなく不可もなくで、いかにもチェーンの中華屋の味といった風情であり、積極的に通おうとは勿論思わない、そのくらいの味だった。父親のほうが先に食べ終わる。こちらは魚介や野菜を隈なく食い尽くし、スープもちょっと飲んでごちそうさま、父親がLINEか何か見ているらしいのを向かいにして手持ち無沙汰に黙っていると、じきに、行く、と訊かれたので、行こうと受けた。父親は金を払っておいてくれと言って一万円札を出した。それを受け取ってレジのほうに行きつつ、父親の行き先を見ると、店内のカウンターに座っていた別の客に話しかけていて、あとで聞いたところ会社の人だったと言う。こちらはレジで、一万円を差し出し、あと生餃子を、と申し出て受け取ると、ありがとうございましたと言って退店した(父親のほうはごちそうさま、と残した)。車に戻る。『しゃべくり007』は今度は伍代夏子が出演していた。取り寄せが趣味で、大量の品を保存するために冷蔵庫を四つも用意してしまうという彼女にちなんで、お薦めの取り寄せの商品を紹介する企画が催され、実際の佐川急便のスタッフが品を運んでくるなどという趣向だったのだけれどまあそのあたり詳しいことは良いだろう。こちらは頭痛を兆していた。疲労していた。以前よりも全然音楽の肌理のようなものを聞き取れなくなったように思うが、それでもやはりそれなりに集中力を使ったものらしい。それで途中、瞬間気持ち悪くなりかけるような一瞬も何度かあったが、まあ大したことにはなるまいと受けた。『しゃべくり007』が終わると、『NEWS ZERO』が始まって、渋谷区の児童養護施設の所長が元入所者の男(二二歳)に刺されて死亡したという事件が伝えられる。所長は人当たりも良く、温厚な人柄で評判も良かったと言う。容疑者とのあいだに一体どのような確執があったのか――とそんなことが報道されるのを見ながら車に揺られ、到着したのは一一時過ぎだったのだろうか? わからない。母親に買ってきた餃子を示し、良かった、と訊かれたのにはまあ良かった、と答える。詳しいおっさんがいてさ、と男性のことを笑いながら報告したのち、下へ。服を脱ぐ。上階に行って寝間着の下を履いてくると頭痛と疲労を宥めるためにベッドに横になり、布団を被ってしばらく休んだ。そののち入浴へ。風呂に入りはじめた頃にはもう零時を回っていた。湯のなかで身体を休めて出てくると、「バヤリースオレンジ」を戸棚から取り出し、氷の入ったコップも用意して自室に戻り、ジュースを飲んだ。そうしてその後はだらだらと夜更かしである。遅くに帰ってきた夜は、さっさと日記を書くなり寝るなりすれば良いはずなのに、長くなるであろう日記に取り掛かる意欲も湧かず、かと言って長く外出して精神が活動的になっているためだろうか、すぐに眠る気も起こらず、夜更かしをしてしまう傾向にある。三時過ぎまで夜を過ごして就寝。


・作文
 11:18 - 11:56 = 38分
 15:18 - 15:29 = 11分
 計: 49分

・読書
 12:05 - 12:52 = 47分
 13:12 - 14:50 = 1時間38分
 16:32 - 16:53 = 21分
 16:57 - 17:40 = 43分
 計: 3時間29分

  • 2018/2/25, Sun.
  • 2016/7/18, Mon.
  • 「記憶」: 76 - 83
  • 神崎繁熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』: 241 - 320

・睡眠
 1:45 - 10:30 = 8時間45分

・音楽