2019/3/9, Sat.

 一〇時五〇分起床。まあまだ許せる範囲だろう。七時にアラームを掛けていて、その前にアラームを待たずして覚めていて、しかも結構軽い覚醒なのだが、もう少し経ってから起きようと思っているのがやはり甘いところで、そこで問答無用で起床してしまえば良いのだ。眠りが足りないのだとしたら、あとで改めて眠れば良い。
 上階へ。母親いる。台所に入り、冷蔵庫から前日の残り物を取り出す――水菜のサラダや、牛肉の炒め物。炒め物を温め、豚汁の僅かな残りも熱してそれぞれよそって卓へ。三人連続で人が来たと言う。そのうちの一人は市議会議員に出馬する予定の人で、K.Hと言ったが、これは母親の同級生の姪の旦那さんらしく、それで挨拶に来たと言う。四二歳くらい。母親はその人のプロフィールをスマートフォンで検索して何だかんだと言っていた。こちらは新聞から、イスラエルでネタニヤフ首相のリクード党が汚職問題か何かで危機的状況に立たされているという記事を読みながらものを食べた。野党はリクードに対抗するため超党派で連合を組んでいるらしく、パレスチナ問題の観点からするとそちらに政権が移ったほうがまだしも良さそうではある。食事を取ると薬を飲み、皿を洗って下階へ。日記を書き出したのがちょうど正午。そうして五〇分ほど掛けて現在時へ追いついた。
 そこから一時半に至って日記の読み返しを始めるまで三〇分の間があるのだが、ここでは何をしていたのか。インターネットでも回っていたのだろうか。それで二〇一七年七月六日の日記の読み返し。

 (……)外出前の瞑想を行った。最初は脳内に先ほどの音楽を聞いていたのだが、そのうちひらいた窓の向こうに賑わう鳥の声に意識が行った。距離は遠くて一つ一つは霞のような覚束ない実体しか持っていないのだが、実にさまざまな声音がそこかしこに湧いているものである。入れ替わり立ち替わり前面化するそれらに耳を寄せていると、入り乱れる声の連なりがリズムと音域に時に思いもかけぬ飛躍的な展開をもたらし、構成も秩序もない流れのそのまったくの偶然性が前衛音楽のようで面白がられた。そのうちに幼稚園児の拙いそれのように、同じ鳴き声を持つ鳥たちが不揃いの合唱を始めて、ぴよぴよぴよぴよとしきりに騒ぐその音は、まるで小さな花がひらいては閉じてをほんの一瞬で繰り返し、空間のあちこちに灯っているかのようなのだが、渡ってくる槌の音がさらにその上にかぶさって、ほとんど同じようなリズムで打音を響かせて人為と自然のあいだの一種の協調を見せるのだった。

 それからMさんのブログ、二日分。そうして二時。腹が減ったので何かものを摂取しようと上階へ。階段を上がりながら、そう言えば冷凍のたこ焼きがあったと思い出し、台所に入ると冷蔵庫を開けてパックを取り出し、開封して紙のケースに入ったままのものを電子レンジに突っ込んだ。五分三〇秒を設定。それで一旦下階に戻り、二時五分からfuzkueの「読書日記」を読みはじめた。五分間読んで上階にたこ焼きを取りに行く。電子レンジからケースを取り出し、鰹節とソースを上に掛けた。マヨネーズも掛けようと冷蔵庫を開けたが、尽きていたので諦めて、たこ焼きを持って自室へ戻った。そうして熱々のそれを頬張りながら他人の日記を読む。二日分読むと、久しぶりに「ワニ狩り連絡帳2」をひらいた。このブログも毎日欠かさず、時には一日に何記事も更新されていて読むのが追いつかないのだが、まあ少しずつ、ちびちびと読んでいけたら良かろう。ニェネントくんは可愛らしい。
 そうして二時半。そこから三時前までまた日課の記録に空白があるが、何をしていたのかわからない。三時前からコンピューターを持ってベッドに移り、川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(上)』を読みはじめたのだが、これはわざわざ電子書籍で買わなくても、図書館で紙の本を借りてくれば良かったのではないかと今更になって思わないでもない。やはりコンピューターで長く文を読むというのは慣れないところがある。そうして四時二〇分。その頃にはパソコン教室に出かけていた母親も帰ってきていたようだ。こちらはそれから田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』を読みはじめて、意識を完全に落としはしなかったものの途中目を閉じている時間が長くあり、起き上がるのが億劫で、五時を過ぎても今日は食事の支度は母親に任せようと怠けて横着し、外が青く、部屋も薄暗くなるなかで本を読み続けていたが、六時を迎えたところで、そう言えば風呂を洗っていなかったと思い出して本を置き、上階に行った。台所で料理をしている母親に、もう点けちゃった、と訊く。何を、と返されるので風呂のことだと重ねて返すと、風呂は今日は、父親が山梨に泊まってきて二人だけだからあのままで良いとのことだった。それで、ストーブの石油を補充してくれないかと言われたので求めに応じてタンクを持って外に出、勝手口のほうに回ってポンプを使って石油を注ぎ入れる。既に暮れきって薄闇があたりを包んでいたが、外気は寒くはなかった。石油は枯渇気味。あと少々でなくなってしまう。そうして屋内に戻り、呻き声を漏らしながらタンクをストーブ本体に戻して、便所で排尿してから自室に帰った。そうしてまた読書。エッセイを読み進めているのだが、ムージルの言っていることは何が何だかまるでわからない。何と言うか、基本的な概念把握能力がこちらに足りないと言うか、概念の射程、観念的な語句の意味の広がりに全然馴染めておらず、それでちんぷんかんぷんなのではないかという感じがする。そのあたり、ものを読み続けることで段々とわかるようになってくるのだろうか? どうもそうした自信がないのだが。哲学というものに興味を持ってはいるものの、それを充分に理解するための思考力、概念に対するセンスのようなものがこちらにはないのではないかというような気がする。運動神経のようなもので、思考においても生まれ持った能力の範囲、水準というものはあるだろう、それがこちらには足りていないのではないかというように思うのだが。だとしてもしかし、興味が尽きないあいだは読むしかない。そして気になったところを書き抜くほかはない。

 対象がなんであるかによって、概念性か、それとも体験の変転してやまない性格のどちらが、思想にとっての最重要事項となるかが決まるという事実を肝に銘じさえすれば、シュペングラーならずとも生きた認識と死んだ認識のあいだに立てる区別を、神秘主義の介在なしに理解できる。学校で教わるようなこと、つまり知識と合理的秩序、概念的に定義づけされた対象や関係などを、ひとは獲得したり、しなかったり、それを意識したり忘れたりすることがありうる。それは、きちんと角が直角で、きれいに磨かれた立方体のように、われわれの内部にはめ込んだり、取り出したりすることができる。そうしった思念はある意味では死んでいる。それらがわれわれとは関わりなく妥当性を有するという感情の裏側にはこの事実がある。厳密性、正確さは死を招く。定義づけできるもの、概念化されたものは死んでおり、石化であり骸骨である。単なる合理主義者はその関心領域の中では、このことを体験するチャンスにはけっして恵まれない。
 (田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』松籟社、一九九七年、88~89; 「精神と経験――西洋の没落を逃れた読者のための覚書」)

 その後、インターネットで調べ物をしばらくしてから――背後の窓の外から発情期を迎えたらしい猫の叫び声が騒がしく、間断なく響いていた――七時台後半になって食事へ。煮込み素麺、鶏肉のソテー、白米にほうれん草。テレビは『世界一受けたい授業』で、『メモの魔力』という最近売れているらしい本の著者である、前田何とか言う、どこかの准教授か何かなのだろうか、まだ三一歳の若い人が出演していた。古市憲寿などとも仲が良いようだが、何となく外見にしても佇まいにしても、確かに同種族のような感じがしないでもない。この人は一日の生活のなかで折に触れて何でもメモに取り、それを毎晩眠る前に読み返すという生活習慣を取っているらしく、メモノートは見開きで使って左側に事実を、右側に自分の感想や事実から気づいたことなどを記すというテクニックなど紹介していたが、そのテクニックを採用するかどうかは措いておいても、確かに自分ももっとメモノートを活用しても良いかもしれないなあとは思った。今記しているのは、読書時間の記録と、読書中に気になった箇所の含まれる頁数くらいだが(あと出先で日記の下書き的にメモを取ることはあるが)、もっと読書中など気になった文言を積極的にメモして行っても良いのかもしれない。歴史の本などは特に、出てきた事件の時系列をいちいちメモしながら読むだけでも記憶の度合いが違ってくるだろう。そうしてものを食うと抗鬱剤ほかを摂取し、食器乾燥機の乾いた皿たちを片づけておいてから使った食器も洗ってから風呂に入ろうとしたのだが、服を脱いで浴室に入り、蓋を開けてみると湧いていないことが判明した。母親が湯沸かしスイッチを押すのを忘れていたのだ。それでボタンを押しておき、下着は身につけず裸の上にジャージだけ纏って戻り、湯が湧くのを待つあいだに日記を書こうと自室に下り、日記を書く前に窓辺に寄ってガラスを開けると、発情して鳴き盛っていた猫の声が止まった。闇のなかに白く小さな影が固まって見えるのに、あそこにいるのだなと口笛を吹いてみたり舌を鳴らしてみたりするが特に反応はない。戻ってコンピューターに向かい合っていると、そのうちに鳴き声は復活した。打鍵していると母親が戸口にやって来て、何だ、入ってなかったのかと言う。そのまま彼女はベッドに寄り、その上に乗って窓を開け、わん、わんわん、と下手くそな犬の鳴き真似をしてみせた。猫に対する威嚇のつもりらしいが、そんなものでいなくなったりはしないだろう。あそこ、白い影があると言うと、あれは猫ではなくて雑巾だと笑ってみせた。そうだったのか。それで母親が去ったあともちょっと打鍵して、九時前になってから入浴へ。浴室に入り、沸いた湯のなかに入浴剤をさっと落とすと、茸雲のような、あるいは海棲の軟体生物のような煙が湯のなかにうねり湧き起こって、手を突っ込んで搔き混ぜてからなかに入ると、沈んだ身体が見えないほどに湯は濁ってみせる。入浴剤入りの湯のなかでしばらく浸かってから出てくると、頭を乾かして洗面所を抜ける。母親が買ってきたハーゲンダッツを食べようと言うので、半分ずつ分け合って賞味してからねぐらに戻った。そうして日記をここまで書き足すと九時半である。
 aiko『夏服』を流しながら「記憶」記事の音読。一項目読むたびに、そのなかで重要と思われる部分を断片的に手帳にメモしながら進めた。大津透『天皇の歴史1』の記述。そうして一〇時を回る。三四番から四六番まで読んだのち、『ムージル著作集 第九巻』の書抜き箇所を読書ノートに記録。音楽はaikoの次はAmbrose Akinmusire『A Rift In Decorum: Live At The Village Vanguard』に移した。音楽の途切れていたあいだに、上階で母親が、ケツメイシの"さくら"を口ずさんでいるのが聞こえてきて、その歌声は何となく切なさを喚び起こすようなものだった。記録を終えるとベッドに移ってそのまま書見。相変わらずムージルの言っていることは良くわからない。良くわからないなりに一応文字を追うのだが、この時も気になった箇所を手帳にメモして、簡潔な、要約的な断片的な文言を付しながら読み進めた。しかしこれはやってもやらなくてもどちらでも良いかもしれない、それよりは読んでいるあいだに思いついたことや、連想的に湧き上がってきたことなどをメモするほうが面白いかもしれない。ともかく、メモの使い方というのはまだまだ自分のなかで未開発なので、これから方式を探っていく必要があろう。書見は長く、一時過ぎまで続けた。そうして就床。


・作文
 11:59 - 12:52 = 53分
 20:22 - 20:46 = 24分
 21:16 - 21:31 = 15分
 計: 1時間32分

・読書
 13:32 - 14:02 = 30分
 14:05 - 14:30 = 25分
 14:52 - 16:20 = 1時間28分
 16:25 - 18:01 = 1時間36分
 18:12 - 19:00 = 48分
 21:35 - 22:16 = 41分
 22:23 - 25:12 = 2時間49分
 計: 8時間17分

  • 2016/7/6, Wed.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-03-05「三月はすでにして春停電さえもが愛しい夜が親しい」; 2019-03-06「げっ歯類みたいなきみが箸を持ち麺をすすっているのを見てる」
  • fuzkue「読書日記(125)」; 2月23日(土)まで。
  • 「ワニ狩り連絡帳2」: 「2019-02-16(Sat)」; 「2019-02-17(Sun)」; 「「日本文学盛衰史高橋源一郎:著」; 「2019-02-18(Mon)」; 「2019-02-19(Tue)」
  • 川上稔境界線上のホライゾンⅢ(上)』: 254 - 376
  • 田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』: 82 - 118
  • 「記憶」: 34 - 46

・睡眠
 1:00 - 10:50 = 9時間50分

・音楽