2019/3/12, Tue.

 太陽を浴びながら眠って、一一時一五分に起床。例によって本当は七時頃に起きられたはずなのだが、いつの間にかまた眠ってしまっていた。二度寝、三度寝をすると身体が重くなってかえって起きるまでに時間が掛かってしまう。上階へ。両親は今日は苺狩りに出かけるとか前日言っていたが、書き置きには「イオン」とあったので、映画を見る方針に変えたのかもしれない。こちらが居間に上がって行った時、ちょうど出かけるところで、顔を合わせなかったが玄関の扉が閉まり、鍵が掛かる音がした。こちらは服をジャージに着替え、台所にあったスチーム・ケースに入った温野菜を電子レンジに突っ込んで二分を設定、合間に便所に行って放尿し、出てくると洗面所で顔を洗って髪を梳かした。そうして米をよそって食事。新聞の政治欄を瞥見しながら野菜に醤油を掛けて、それとともに米を頬張る。食べ終えると(ちょうど食べ終えた頃合いに、玄関外の階段を上がる重い足音がしたと思えばインターフォンが鳴ったので出ると、宅急便です、と女性の声が告げる。はい、少々お待ちくださいと受けて玄関に行き、棚の上に乗った簡易印鑑を取って扉を開けると、階段の途中に荷物を抱えた宅配員がいた。父親が定期的に頼んでいる炭酸水の入った段ボール箱である。お運びしますねと言うのを、率先して引き受けて、重いですよと言うのも意に介さず受け取って玄関のなかに運び込んでおいてから、受領書に印を押した。そうして礼を言って宅配員と別れて扉を閉め、段ボール箱はそのまま元祖父母の部屋に運んでおいた)皿を洗い、水を飲んで、柿の種を持って自室に帰った。前日の日課の記録を付け、今日の記事もEvernoteに作成し、それからBOOK WALKERにアクセスして、川上稔境界線上のホライゾンⅢ(上)』を読みはじめた。BGMは例によってFISHMANS『Oh! Mountain』。柿の種を小袋から右手に流し出し、それを一気に口に放り込みながら読む。そうして一時間ほど読んで読了し、それから日記を書き出して一〇分で前日の記事を仕上げてここまで。
 ブログに前日の記事を投稿。するとちょうど音楽も終わる頃合いで、時刻は一時半前、散歩に出ることにした。鍵をジャージのポケットに入れて上階に行き、まず風呂場にゴム靴で踏み入って浴槽を洗う。洗剤を大層泡立たせながらブラシで内壁を擦り、シャワーで流して蓋をしておき、外に出るとそのまま玄関に回って出発した。Hさんが世話をしている林の縁の畑にはキャベツが生えており、エリマキトカゲのようにして葉を広げている。麗らかな、と言って良いような春の陽気だった。道の先、Tさんの宅の横から梅の木が路上の空中に広がって白点を空間に浸潤させているのに視線を送りながら進んでいく。木の下まで来るとちょっと立ち止まって、低い枝先の、花びらの散ったあとの赤茶色を見上げてから過ぎた。震えながら立ち昇ってから矢を放つように一気に張られる鶯の声が道々聞こえ、耳をそばだててそれを待ち受けるようにしながら進む。ダウンジャケットを羽織っていると暑いくらいの気温の高さで、坂に入ってすぐのところでファスナーを下ろして前をひらいた。裏通りを行くあいだ、西の空には雲が多く湧き上がっているものの、その縁にある太陽は威力を削減されずに光を降らして、視線を上げればそれだけで眩しさが目に触れる。そこここに梅の木が咲き盛っているそのあいだを歩いて行き、街道に突き当たって横断歩道で止まると、車の途切れた道路のアスファルトの上を、薄緑色を孕んだような白さの小さな蝶が舞っており、その動きを見つめているとじきに風に乗るようにして思いの外に高く舞い上がり、電線を越えて西空の雲を背景に小さな点と化して消えて行った。横断歩道を渡り、路傍にオオイヌノフグリの生えている道を緩く上って行くと、途中の枯れ木に鳥が一羽止まって鳴き声を放っている。こちらも立ち止まってしばらく、白と黒の二色で構成されているその鳥を観察した。細い枝と枝のあいだを頻りに行き来しながら低い地鳴きを絶え間なく繰り返すその声は、何と言えば良いのだろうか、ビニール袋に物を入れて振った時に出るような、かしゃ、かしゃ、がさ、がさ、という音をちょっと連想させるようなのだが、自然の鳴き声というよりは人工音めいたその声を、鳥は動き回りながらこともなげに、鳴く時に特有の符牒のような動作を何も見せずに、きょろきょろとあたりに首を向けながら発してみせるので、その音が鳥の口から放たれているのが信じられないかのようで、むしろ空中から自ずから湧き出ているようにも聞こえるのだったが、目を凝らしてみれば確かに微小な口が微かにひらいて喉元が震えているのがわかるのだった。シジュウカラだろうか、と思った。まったく当てずっぽうで思ったのだったが、のちに帰ってきてから検索してみると、これが当たりだった。以前鳥の鳴き声について調べた時の記憶が残っていたのだろうか? ともかく、車が一台過ぎる際にこちらが一歩、木の方に寄ったのを機に、鳥は高いところへ渡って行ってしまったので、道の先を歩きはじめた。ダウンジャケットとジャージの下の肌に汗が滲みはじめていた。道の脇、奥のほうに冠型の、匂やかな薄紅色を漂わせた見事な枝垂れ梅が咲いているのを見ながら保育園の横を過ぎ、日向の敷かれた裏道を行く。梅の木がやはりそこここに見られ、点描画のような、大きな色の球が破裂して八方に中身が飛び散ったその瞬間に時間が止まって凍りついたかのような色彩の広がりを披露していた。駅を過ぎてふたたび街道に出ると、しばらく行ってから向かい、南側に渡り、木の間の細い坂道を下って家に帰った。
 玄関に入ると戸棚からカップヌードル(カレー味)を取り、湯を注いで割り箸とともに下階に持って帰った。そうして啜りながら、fuzkueの「読書日記(126)」を二日分読む。そうすると二時半過ぎで、そろそろ洗濯物を入れようと上階に行き、カップ麺の容器を始末しておくとベランダに続くガラス戸をひらいた。吊るされているものを屋内に取り込んでいき、タオルを畳みながら、花粉が入ってしまうけれど何となく外気を浴びたい気がしたので戸はひらいたままにしておく。外からは、飛行機が高い空を貫き渡るくぐもった音が響いてくる。タオルを畳んで洗面所に運んでおき、それから肌着、寝間着、靴下と整理してソファの上に並べておき、吊るされてあったものをすべて片付けるとアイロン掛けに入った。アイロンをセッティングしてスイッチを点け、機器が加熱されるのを待つあいだに床に脚を大きくひらいて下半身をほぐす。それからシャツ、エプロン、ハンカチの皺をそれぞれ取り除いて、そうして自室に帰るとちょうど三時である。Hiromi & Edmar Castaneda『Live In Montreal』を流して日記を書きはじめた。それで三時四〇分。合間、Hさんという方とTwitterでやり取り。
 それから田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』を読む。四時一五分頃になって両親が帰宅した。こちらは初め、ベッドの上に乗りながらも、緩い半跏趺坐のようにして背を立てて読んでいたのだが、じきに身体全体を少々下方に滑らして頭の位置が低くなり、脚を前に伸ばして背のクッションに凭れるようになった。そうしていると、午前中にたくさん眠ったというのにまたしても眠気が湧いてくる。それで実際に本を読んでいたのは四時半頃までで、その後は指を頁のあいだに挟んだまま目を閉じて休んでいた。そうしていると時刻はすぐに五時を越える。食事を作りに行かなくてはと思いつつも、上階でまだ母親の動く気配が立たないのを良いことに休み続けて、五時半までと定めて横になって身体を丸めて瞑目し、時間が来ると発起して起き上がり、上階に行った。台所に入ると、すき焼きのたれを買ってきたので野菜と肉を炒めると言う。それで、葱・玉ねぎ・椎茸・豚肉を切り分け(母親は見てきた映画――クリント・イーストウッドの『運び屋』が凄く良かったと話したあと、トイレに行きたくなってきたと言って下階の便所に下りて行った)、小沢健二『刹那』をラジカセで流しながらフライパンで炒めに掛かった。箸を用いて野菜を搔き混ぜ、狐色が付されてきたところで肉も入れ、肉の赤味がなくなってくると「創味」のすき焼きのたれ(半額で二〇〇円ほどになっていたと言う)を水と混ぜて椀に入れ、それを回しかける。そうしてしばらく蓋をして加熱して完成、流し台のほうでは母親がサラダを拵えていた。水菜・人参・新玉ねぎを洗い桶のなかにスライスした、生のものである。それにこちらが大根をスライスして加えてこれもOK、その後、冷蔵庫から蓮根を発掘した母親が黴が生えているから使ってしまおうと言うので、黴の付着した部分は包丁で切り落とし、半分にしてこれもスライサーでおろした(最後のほう、薄くなってからは勢い余って指を切ってしまう危険があるので、包丁で切り分けた)。そうしてフライパンに胡麻油を熱し、炒めはじめ、火が通ると砂糖と醤油が投入され、絡めて完成、それで食事の支度は完了して、こちらは下階に戻った。Room Eleven『Six White Russians & A Pink Pussycat』を流し、ベッドに乗ってムージルをふたたび読み出す。今度は眠らないように、半跏趺坐あるいは体育座りのような姿勢を保って、どちらにせよ身体を低くせずに背を立てての書見である。たびたび、音楽のほうに耳と意識が行ったのは、エッセイの部の最後に収録された「文士と文学」の内容が相変わらず難しくて掴めなかったからである。Room Elevenというのは確かオランダのバンドだったのではないかと思うが、ずっと以前に図書館で借りた音源で、ジャズやブルースの要素を孕んだ洒脱なポップスで、コーラスも利いていて、小粒な感はあるもののなかなかの佳作である。わからないわからないと唸りながら何とかエッセイの部を読み終わり、講演の部に入って「この時代の詩人」を読み出す頃にはもう七時である。こちらは一般聴衆を対象にした講演ということもあって、まだしも言っていることの意味が掴みやすい。エッセイのほうは本当にちんぷんかんぷんで、訳者たちはこれを訳しながら意味がわかっていたのだろうかという疑念を抱かざるを得ないのだが、しかし当たり前だが適当に訳されている感じはなく、文章としてはかなり力の入ったものになっているような感触があって、どうも自分にわからないだけでムージルのなかではきちんと各部、各文の繋がりがついているらしい。いつになったら理解できるようになるのか、もしかすると一生理解できないのかもしれないが、まあそれならそれで仕方あるまい。そうして七時過ぎまで読んでから日記を書き足して、現在は七時半を回っている。
 食事へ。台所に入り、米をよそり、炒め物も皿に盛って電子レンジへ。生野菜のサラダと小松菜を大皿に乗せ、そのほかコーンスープである。スープには母親が誤って割った生卵が加えられた。テーブルの上にはブルボン「エリーゼ」などの様々な菓子類や蜜柑が置かれてあったのだが、これは父親が友人から貰ってきたのだと言う。その友人の父親だか母親だかが先般亡くなって、その挨拶に先ほど行ってきたところ、礼の土産として持たされたものだと。友人の残った片親も九〇歳くらいでもういくらか呆けているらしく、その介護をするために会社も辞めたとそんな話を受けて母親は、自分が九〇になったらどうする、その頃になってもよぼよぼで生きていたら、などと訊いてくるのだが、どうしようもない、としか言いようがない。自分が老いるのはまだしも、両親が老いること、介護の問題など考えると自分に果たして本当にそんなことが出来るのだろうかと暗澹たる見通しを抱かざるを得ないが、しかし本当にそういう状況になったらどうにかやるしかないだろう。テレビは『ヒャッキン』。メキシコのタコス料理店で、タコスの皿を片腕にいくつも重ねて持ちながら全力の疾走で駐車場の客へとそれを届けに行く店員の様子など映されたが、特に言及するべきことはない。食後、薬を飲んでから皿を洗っていると、風呂から出てきた父親がこちらの背後を通りざまにお先に、と言うのだが、花粉にやられているためだろうか、その声はひどく掠れてざらついたものだった。父親も喉の乱れを取るために咳払いをしながら居間のほうに行って、パンツ一丁の格好で体重計に乗って自分の重さを測っていた。こちらはその後、さっさと入浴に行って、結局自分は頭もさほど良くないし行動力もないし、日記を書くことしかできないのだよなあ、自分にもし与えられたものがあるとしたら、この生でなすべきことがあるとしたらそれしかないだろうなどと、いつも立ち戻る原点を思いながら湯に浸かり、出てくるとジャージをソファの上に置いておいて自室に帰った。八時半過ぎから他人のブログを読む。Sさんが「三人の女(トンカ)」についての感想を綴っていた。記事中最後の段落が良く、そのなかでも「観念的な渦巻きと、物質の存在という事実が、まるで鉛を透かして届いた光線に照らされた家具のように、その薄暗さの中に平然と並んでいる」という一文、特に中間の比喩の一節が良かったので引用スターを付けておいた。彼の感想を読むと、明らかに自分には感じ取れない様々なことを感受しているのがありありとわかって、自分の感想や感受性が実に貧しく乏しいものに思われ、Sさんのような柔らかく、ある種印象批評的なのだけれど勘所を掴んだ感想を書ける人が羨ましくなる。ひとのブログを読んだあとは「記憶」記事を音読し、中国史の知識など改めて手帳にもメモを取って確認し、そうして一〇時に至った。
 音楽を聞く。まずは例によってBill Evans Trio, "All of You (take 1)"、Paul Motianのドラムスに耳を傾け、それからKenny Garrett『Pursuance: The Music Of John Coltrane』から、"Like Sonny"と"Pursuance"の二曲を聞いた。GarrettはColtrane風の気味も時折り見せながらも、彼よりも端正に、余裕を持って吹いていると言うか、Coltraneが我慢できずにといった調子で音を詰め込みはじめるような局面でも整然と、一音一音の粒立ち良くプレイをこなしている印象である。この日の聴取ではRodney Whitakerのベースが聞き物だった。Ray Brownのように低音部では弦が弾けて強く振動する響きをびりびりと伝えながら、ぐっと深く沈み込む音作りが気持ち良いのだ。
 一一時から読書、田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』。蒲団にくるまりながらムージルの講演録を読み進める。零時半過ぎまで読むと目が閉じるようになり、頭が回らなくなってきたので就床した。

 (……)詩人の仕事というものは新しい時代を拓こうとするときも、そのときどきの精神の状態を表現するだけに留まらないのです。彼にとっての伝統は何十年という単位で測れるものではなく、数千年を経たものなのです。フェニキアのある少女の書いた恋文は今日書かれたとしてもおかしくありません。あるエジプトの彫刻にはドイツで行われているあらゆる美術展に見られるよりも深くドイツ的な魂が表現されているのです。そして精神の歴史というものは政治的な変動をつらぬいて、独自の道を歩むものなのです。
 (田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』松籟社、一九九七年、211; 「この時代の詩人」)


・作文
 12:58 - 13:07 = 9分
 15:02 - 15:42 = 40分
 19:14 - 19:32 = 18分
 計: 1時間7分

・読書
 12:01 - 12:54 = 53分
 14:25 - 14:39 = 14分
 15:47 - 16:30 = 43分
 18:15 - 19:13 = 58分
 20:35 - 21:58 = 1時間23分
 23:03 - 24:34 = 1時間31分
 計: 5時間42分

・睡眠
 2:25 - 11:15 = 8時間50分

・音楽