2019/3/13, Wed.

 七時のアラームで起床した。睡眠という魔のものに対する久方ぶりの勝利である。実のところ、三時や五時台にもたびたび覚めていて、その時夢を見たり、寝間着の裏の脚が汗をかいたりもしていて、あまり深く眠れてはいないのかもしれない。夢は忘れてしまった。上階に行くと、居間の窓には明るい陽が宿り、台所では小鍋で卵が茹でられ、洗面所からは洗濯機の駆動音が響くなか、人の姿はない。ティッシュを取って花粉で汚れた鼻のなかを掃除したあと、冷蔵庫から前夜の残り物を取り出し、電子レンジでそれを加熱しているあいだに洗面所に入って顔を洗うとともに髪を梳かした。米をよそって食事である。薄茶色の炒め物と米を一緒に食べていると、母親が下階から上がってきて、まもなく仕事着姿の父親も姿を現した。ピエール瀧がコカイン使用で逮捕との報。ものを食べ終えると抗鬱薬ほかを服用し、食器を洗って一旦下階に戻った。燃えないゴミのゴミ箱を上階に持って行っておき、それから洗濯機の動きが止まるまでの時間でと自室に戻って、前日の記録を付けてこの日の記事も作った。そうしてもう一度上階に行き、居間のテーブルに就いて新聞を瞥見したのち、洗濯機はもう停まっていたので、洗面所に入って籠に絡まった洗濯物をまとめて乗せ、居間の隅のソファの上に持って行く。そうして母親と手分けして洗濯物を干した。バスタオルを洗濯挟みで留めてハンガーに吊るし、寝間着や下着など裏返して干して行く。それが終わる頃には八時近く、自室に戻って日記を綴りはじめた。そうして八時半過ぎである。
 FISHMANS, "なんてったの"をリピート再生させながら、ブログに前日の記事を投稿。それからやはり眠りが足りないのか身体全体が鈍っているような、特に下半身がこごっているような感じがしたので、音楽の繰り返されるなかでベッドに仰向けに寝そべってしばらく休んだ。そうして寝そべったままの姿勢で田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』を読みはじめたのが九時過ぎである。読んでいるうちにやはり眠気に抗しきれなくなってきて、手近の目覚まし時計で九時五四分を確認してから目を閉じ、休眠に入った。最初のうちは太陽の光が身体の上に乗って温かかったが、そのうちに雲が空に湧いたようで外の空気から暖色が失われ、室内のこちらも薄布団を身体に掛けて眠った。切れ切れに眠りの国を揺蕩って、一二時過ぎである。起きる前に窓ガラスの向こうに視線をやり、蒼穹を行く雲の動きをちょっと眺めた。雲隊の動きは一定ではなく、上空では風が入り乱れているようで、あるものは西から東へ、あるものはそれに逆らって東から西へと交差的に流れて行く。初めのうちは白さの露わな雲ばかりだったのが、じきに西空、窓枠の向こうからのっぺりと灰色に潰された大きな雲の原が現れて、細かな切れ端を押し潰すようにして飲み込んで行った。そうして起床すると、上階に行ってカップヌードル(シーフード味)を用意し、割り箸とともに部屋に戻ってそれを啜りながら過去の日記の読み返しをした。二〇一六年七月四日の記事である。

 窓外には鳥の声が無数に満ちているが、そのなかでとりわけ際立って聞こえるのはやはり(固有名と音が結びついて同定できるのがそれだけだということに過ぎないのだろうが)鶯のもので、ホケキョ、ホケキョ、と尋常に鳴いているかと思いきや突然狂いだし、ひゅるるるるると花火が上がっていく音のような声を、しかし花火の軌跡とは反対に錐揉み状に螺旋を描いて落下させて、最下部に達するとまたちょっと短い声を数回撒き散らす、それを繰り返すのだった。鳥の声に混じって聞き取りにくいが、低く鈍色めいた虫の音もずっと途切れず持続しており、それはあたかも空間にぴんと張ったワイヤーが長く差しこまれているかのようである。話し声なり車の走行音なり槌で木を叩く音なり、普段はどこかしらから響いてくるはずの、人間の立てる物音がこの時は不在で、そのため外気は賑やかでありながらある種の静けさをはらんでいるようでもあり、それらの最周縁を画す川の響きに耳を寄せていると、その音はおのれの心臓の鼓動に合わせて波打っているようにも聞こえるのだった。

 居間はオレンジ色の食卓灯が点いているのみで母親の姿が見えないのに、体調を崩してでもいないだろうなと思いながら一旦自室に行き、両親の寝室に見に行くと、母親は布団の上に仰向けになって眠たいようにしていた。コンビニで当てたアイスの引換券を差しだすと、母親は色のくすんで肌色というよりは茶色がかったような顔で笑って、子どものように、あるいは反対に老人のように、その券を両手の指でつまんで腕を伸ばし、裏返しながら眺めるようにしていた。ネクタイをほどきながら自室に帰って、スラックスも脱ぎながら、あああの母親も、いつか死ぬんだなと不意に思われて、少々寂しいような気分になった。

 カップヌードルの容器を台所に片付けてきてから戻ると、上西充子「小川淳也議員による根本大臣不信任決議案趣旨弁明を悪意ある切り取り編集で貶めたNHK」(https://hbol.jp/187300)という記事を読んだ。NHKのニュース編集の問題点を、簡潔に、明快に指摘している。そうして一時半。
 二時前から、田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』の書見。講演録を通り過ぎ、書簡の部に入った。経済的困窮を切り抜けるべくトーマス・マンなどに金の無心の手紙を送っているムージル。それを追うこちらは初めのうちは姿勢を正していたが、例によって途中から身体が水平に近くなり、布団を胸のあたりまで掛けて、頭をクッションに凭せ掛けて読むことになった。しかし先ほど眠ったので、さすがにこの時は眠気が忍び寄っては来なかった。三時まで読んで、そろそろ洗濯物を入れようと部屋を抜けて階段を上った。ベランダに続く戸をひらき、吊るされているものを順々に取り込んで行って、まずタオル類を畳んでいく。それからこちらと父親の肌着を整理し、寝間着や靴下なども畳んだあと、焦らず一つずつやろうと自分に言い聞かせつつ、アイロンを用意した。スイッチを入れて器具が熱されるのを待つあいだに、前後左右に開脚して下半身を伸ばす。それからシャツやエプロン、ハンカチの皺を伸ばしたあと、風呂を洗いに行った。栓を抜いて残り湯を流し、洗濯機に繋がっているポンプもバケツのなかに上げておき、洗剤を僅かずつ浴槽に吹きかけながらブラシを使って擦って行く。内壁に沿って上下にブラシを動かして隙間なく洗っておき、シャワーで流したあと、ゴム靴を脱いで浴室を出た。そうして下階に戻ってくると三時半過ぎ、日記をここまで二〇分で書き足して四時直前となっている。散歩に出ようか迷うところだが、もう陽が結構低い。たまには暮れてからでも歩こうか。
 ギターを弾いた。隣室に入ってテレキャスターを手に取り、VOXの小型アンプからビートを流し出させて、それに合わせて適当にフレーズを散らかす。しばらくそうしたあと、ギターを自室に持ってきて、Tらの曲、"(……)"に合わせて演奏をした。一七日にまた仲間内で集まることになっているのだが、どうもその時に、録音をさせられるような気配があるのだ。もしそうなのだとしたら、それなりに練習しておかなければならないというわけで、コード進行の忘れていた部分なども確認してから隣室に楽器を戻した。そうして、食事の支度を始める五時まで残り三〇分、何をしようかと迷いながらもやはり本を読むことにして『ムージル著作集』を手に取り、書簡の部を読み進める。亡命後のムージルは相当に困窮していたようで、明日とは言わずとも二週間後の暮らしがわからないような生活がもう数か月続いていると漏らしており、方々に助けの手を求めている。それでいて、自分の意に沿わない条件の出版はしたくないという雰囲気も漂っていて、そのあたり意固地である。五時を回る頃合いまでベッドの上に座って読み進めて、上階に行った。母親は既に帰ってきていた。今日は市役所で販売の手伝いをしていたはずだ。結構売れて忙しかったらしい。ブロッコリーを茹でてくれと言うので、フライパンに湯を沸かす。その傍ら、五本入りの茄子の袋を冷蔵庫から取り出して開封し、そのすべてを切り分けて小鍋の水に晒す。ブロッコリーのほうも湯に投入し、豚肉を切っている合間に箸を使って回転させながら茹で、そうすると洗い桶のなかの水に浸しておいた。それからもう一つのフライパンを使って茄子を炒めに掛かる。油を充分熱してから放り込むと蓋をして、加熱のあいだは床の上で前後左右に開脚して柔軟運動を行いながら待つ。蓋を開けてフライパンを振ってはまた閉じてストレッチ、という行程を何度か繰り返し、茄子が良い具合にこんがりとしてきたので、豚肉も投入した。そうして同じように加熱したあと、「創味」のすきやきのたれを注いで少々汁気を飛ばせば完成である。そのほかに、味噌汁を作り、米も炊かなくてはならなかった。汁物を煮込んでいるあいだに米を磨げば丁度良かろうというわけで、先に小鍋に水を汲んで火に掛け、玉ねぎを切る。切ったものを鍋に投入しておくと笊を持って玄関のほうに行き、戸棚から米を三合、笊に入れて戻って、中身を取り出した炊飯器の釜を洗ってから三合を磨いだ。そうしてもうすぐにセットして、六時半には炊けるようにしておき、その頃には玉ねぎが良く煮えていたので、水を少々足して嵩を増してからチューブ型の味噌をお玉の上に押し出して溶かした。最後に溶き卵を垂らして完成、これで米・汁物・炒め物・ブロッコリーまで用意できたから、あとのサラダか何かは母親に任せることにしてこちらは一旦自室に戻り、ダウンジャケットを羽織ってくるとソファの上に先ほど畳んで置いておいた短い靴下を履いて、散歩に出ることにした――出るその前に洗面所に入って髭を剃ったのだった。
 外に出ると、隣家で食事の支度をしているその匂いだろうか、燻製のような臭気が鼻に触れた。風のよく吹く暮れ方だった。道を行きながら、地上に立った旗から見上げる木々の梢まで、一様に風に揺らされて、勿論こちらの身にも吹きつけてくるが、黄昏の六時前になってもその内に冷たさがないのが既に冬の去ったのを告げている。十字路まで来ると風が盛って、近くの木々の列が一際高い鳴りを立てるそのなかで、道の先で黒い猫が一匹、通りを横切って道脇の階段のなかに消えて行った。坂を上って行って平らな道に出ても風は止まず、ガードレールの向こうの常緑樹が頻りに身じろぎをしてSの子音を持続的に鳴らす。空は色味を剝がされつつあるなかに、千切れ雲がいくつか浮いていた。家並みのあいだを通って行き、裏道から表に出る間際でまた風が走って、本当にひっきりなしに吹くもののある夕べであり、そこら中から葉擦れの響きが聞こえてくる。横断歩道で待っているあいだにも風が吹きつけて髪を乱し、薄暗くなった空気のなかで二つ目を光らせた車たちが過ぎて行き、視線を上げれば西空はますます色を剝がされて青を失い白に近づき、その上に青灰色を帯びはじめた雲が漂っているが、通りを渡りながら首を振って東の空に視線を向ければ、こちらには山際にまだ青さがくゆっており、そのなかで西の空の反転図となったかのように白さを残した雲が輪郭の震えた筋となって揺蕩っているのだった。ふたたび裏通りに入って行き、保育園の横を過ぎながら、左方、民家の奥に視線をやれば先日も見た冠型の枝垂れ梅の、今日は海月のようだと思える楕円形の樹冠が、薄青い空気に囲まれて淡い色を沈ませている。街道の北側の裏通りを通っているのだが、合間に風の止まった静けさが差し挟まって、ここでは吹かないか、風が入ってこないかと見ているうちにしかし流れるものがまた始まって、とは言え吹きつけるというほどの強さでもなかった。駅に出て横断歩道を渡って、たまには違うルートを取るかということで駅前の坂道をそのまま下って行く。強風で落とされたものだろう、木屑が散乱しているなかを下りて行くと、出口付近の一角で、街灯に照らされたガードレールの向こうの葉叢の影が、向かいの土壁に網状に映り、これも風を受けてふわふわと道の上に揺れていた。
 帰宅。行く時にはソファに就いてタブレットを弄っていた母親は、この時は台所に入っていた。カーテンを閉めてくれと言うので、居間の南窓に幕を閉ざし、そうして自室に帰ると早速日記を書き出した。三〇分ほど掛けてここまで記したが、何だか随分と集中して書けたような感じがしたと言うか、以前書いていた時と同じような感触があったようで、散歩のあいだのことなどそこそこ充実した筆致になったような気がする。
 その後、七時半から読書時間が記録されているのだが、多分ここではMさんのブログを読んだのだったと思う。そうして八時頃になってから食事へ。米・味噌汁・茄子と豚肉の炒め物・ブロッコリー・キャベツや新玉ねぎのサラダ。テレビは何をやっていたのだったか――『ためしてガッテン』が最初のうちには映っていて、柔軟剤の効果、その使い方を紹介していたが、あまりよく見ていなかったので内容は覚えていない。我が家の洗濯には柔軟剤は使っていない。母親が匂いが嫌なのだと言う(しかし無香料のものもあるという話だった)。そのうちに、まだ食事を取っているあいだに父親が帰ってきて、一旦下階に行って仕事着から寝間着に着替えて上がってきた。彼の声はどうもひどく掠れて弱々しいようになっていて、それが疲れのためなのか花粉のためなのかはわからなかった。父親が先に風呂に行ったので、こちらは皿を洗うと下階に下りて、八時半から「記憶」記事を読んだ。町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』から、単語の意味はラングの共時態のなかで個々の言葉の差異によって決まるという記述を読んだり、その後、中国史の項目を二つ読んだりした。清の成立とか、アヘン戦争とか、五口通商章程・虎門寨追加条約とか、そのあたりである。そうして九時頃になってから入浴に行った。湯のなかでは目を閉じて、先ほど読んだ知識を思い返し、頭を洗って出てくると燃えるゴミを持ってきておいてくれと母親に言われたので、自室からゴミ箱を持ってきて丸めたティッシュなどのゴミを上階のものと合流させておいた。
 ちょっと遊んだあと、一〇時過ぎからErnest Hemingway, Men Without Women。"Fifty Grand"をちびちびと、邦訳をいちいち参照しながら読み進める。単語それ自体として見覚えのないものというのは少ないのだが、会話や英語特有の表現のニュアンスなどが掴みづらく、そういう時に邦訳があるのは大層役に立つ。三〇分ほど読んでまたちょっと遊んだあと、 田島範男・水藤龍彦・長谷川淳基訳『ムージル著作集 第九巻 日記/エッセイ/書簡』からムージルの書簡に取り組みはじめた。一九四〇年一一月一一日付けのヘルマン・ブロッホ宛書簡には、「あなた宛ての文書をカール・ゼーリッヒの手を煩わせお送りしました」とあるが、このカール・ゼーリッヒというのはローベルト・ヴァルザーの晩年に彼に付き添って、『ヴァルザーとの散歩』みたいな題の証言録を出していた人ではないだろうか(この著作を日本語に訳してくれる人をこちらは待望している)。また、自身の「名声」「声望」に対するムージルの強気の自信――「いまだ私が享受している、この決してささやかならぬ名声(自分で自分の名声を筆にすることをお許しください)(……)」(262)、「私が声望のあるドイツの詩人の一人であると言っても、決して不遜に過ぎることはなかろうかと存じます。(……)私の仕事は、ドイツ文学の偉大な伝統にもとるものではない、との評価が囁かれているに留まらず、新たなものを包含し、現代の精神的発展に影響を及ぼす性質のものであるとも言われています」(280)。もっともこれは、助成を受けるために自分の著述の文学的評判を強調しなければならなかったという事情から来ているのかもしれないが、しかし多分ムージル自身、己の能力や価値に自負を持ってもいただろう。ところが現実には、ムージルほどの作家が窮乏のうちに死んでいかなければならなかったわけだ(もっともその死は、貧窮のなかで老い、病に掛かってついには倒れるといった類のものではなく、脳卒中という形で突然訪れたものだが)。二八〇頁と同じウィリアム・E・ラパール宛の手紙には、『特性のない男』について、「一八〇〇ページという長さと、四〇マルクもの高価格にも関わらず、私がドイツを去る以前に二万部が売れていました」との証言がある。ムージルの、『特性のない男』などという作が二万部も売れる、そんな世界がこの世にあったのかと驚いたのだが(この現代日本で『特性のない男』をその一巻だけでも読んだ人間、松籟社の『ムージル著作集』を購入した人間がどれだけいるのかと考えてみれば、ほとんど隔絶の感があるだろう)、しかし年譜の欄には、少なくともその一巻は、「ローヴォルトによれば五二〇〇部の内、二七八三部しか売れなかった」とも書かれているので、これもことによるとムージル自身の誇張が含まれているのかもしれない。
 『ムージル著作集』を最後まで読み終えた時点でもう一時が近かったか、あるいは一時に達していたと思う。それから、図書館で借りてきた斎藤慶典『哲学がはじまるとき』をちょっとめくり、一時一〇分に床に就いた。