2019/3/17, Sun.

 八時のアラームで夢のなかから追い出され、ベッドを抜けて立ち上がり、そのまま寝床に戻らず伸びをして、起床を実現することに成功した。睡眠時間は六時間三〇分、上々だろう。日々このくらいの睡眠に抑えられれば結構なことである。夢はもうよくも覚えていないし、細かに思い出して記述するのも面倒臭い。
 まだ眠たい頭を抱えて上階に行くと母親はテーブルに就いて食事を取っている。弱設定になったストーブの前に座り込んで、眠い眠いと言いながらしばらく温風を受けていると、便所に行っていた父親が玄関から居間に入ってきたので挨拶をした。それからこちらは立って台所に入り、フライパンにあったモヤシなどの炒め物に同じくモヤシの汁物、そして米をそれぞれよそる。卓に向かって新聞をひらきながら食事を取りはじめた。書評欄を瞥見すると、苅部直古井由吉の『この道』を紹介している。それを読み、それから二面に戻ってニュージーランドのテロ事件の続報を追いつつ、炒め物とともに米を頬張った。向かいには父親も来て、くしゃみをしながら食事を始め、こちらも鼻がむずむずしてくしゃみが湧く。テレビは『小さな旅』を映しており、この日は青森かどこかが舞台で、番組中の一人がシジミラーメンを拵えているのを見て、そう言えば昔は祖母がよくシジミの味噌汁を作ったものだと思い出し、昔、お祖母さんがよく洗面所でやっていたなと口にすると、砂出しね、と母親が受ける。洗面所の足もとの、あれは洗面器だったのかほかの何かだったのか、ともかくそれにシジミが詰め込まれて、水のなかに浸っていたものだ。そのうちに母親が林檎を剝いて切ってきたのでそれも頂き、ジャージに着替えて薬を服用すると、台所に移って皿洗い、自分の分と両親の分、それに前夜に父親が散らかした分も含めて洗うので、計四人分となって仕事が多かった。大量の皿を網状の布で擦り、濯いでは食器乾燥機に収めて行き、終わるとダウンジャケットを羽織って洗面所に入って整髪料をちょっと頭につけた。そうして下階に下りてきて、八時四六分から日記を書き出して二〇分、BGMは前夜にちょっとだけ流したBrad Mehldau Trio『Art Of The Trio, Vol. 4: Back At The Vanguard』を掛けている。
 前日の記事をブログに、Amazonへのリンクも本文中にいちいち仕込んで投稿し、Twitterにも通知を流したのち、九時半からMさんのブログを読みはじめた。傍ら、ポテトチップス(しあわせバター味)を摘まむ。C.Sくんに対するMさんの手紙はやはり素晴らしいと言いたい。リルケの「若い詩人への手紙」を思い出さずにはいられない。
 それから、自分の過去の日記も読み返す。この頃には音楽は例によってFISHMANS『Oh! Mountain』に移っていた。二〇一六年七月二日を読みつつ、まあまあ書けているなと思った箇所をTwitterに投稿していると、Yさんという方が、Fさんの文章、すごく好きですとメッセージを送ってきてくれたので、嬉しいですとお礼を返した。ここに引いておきたいのは、夏の夜空に幽かに残った青さの描写である。結構凝縮的に良く書けていると思われ、二〇一六年当時の自分は、風景に関する感知力でいったら現在の自分よりも優れているのではないか――しかし現在は現在でそれとは違った形で強みを持っていると言うか、当時よりも日々を細かく記せているのは確かだし、当時は書けなかったようなささやかな事柄も、それほど練られた文章ではないにしても、「散文的に」記述のなかに取り込むことが出来ているのではないか。やはり無駄と思われるようなことでも冗長に書いてこその散文、日記である。

 職場の戸口から踏みだした瞬間に、空気がひどくぬるいのが感知された。蒸された夜気が身を囲んで、それは皮膚を覆うというよりは、無臭でありながら夏のにおいとして嗅覚を刺激するような種類のものだった。やはり尾骶骨が痛むなと思いながら裏通りに入って歩いている途中に、行く手の西空が青いなと気付いて、足を止めた。八時を迎えるまであと五分の時刻になっても、まだ宵の名残りが残っているのだ。丘の際からまさしく最後の明るみ――明るみと言うのも誇張になるくらいの、うっすらとした透明感のようなものだが――が洩れて青さを辛うじて空に留めており、同時に、今はただ切り絵のような黒い影と化している森が昼間には満々と湛えていた緑の色素が風に吹きあげられてその影の奥から染みだしたかのように、空に生まれた池のなかには翡翠めいた神妙な色合いが数滴加えられていた。そのような精妙な色の空を目にするのは、おそらく初めてだった。東の方角を振り仰ぐと、ビルの先に覗くそちらの空はもはや単調な墨色に染まり尽くしており、左手、南側の空も地上から舞いあがる光を夜の深みが吸いこんでいる。西空のなか、やや北寄りの一角のみに、闇に追いやられて取り囲まれ、暗んでほとんど埋没しかけた青の領域が夜の侵食に対して虚しい抵抗を続けていたわけだが、それも東から迫り来る無慈悲な夜空の静かで仮借のない進軍のなかに吸収されてしまうのは、もうまもなくのことだった。

 日記の読み返しを終えたあとは、一〇時二〇分あたりから「記憶」記事の音読に取り掛かった。一日三〇分ぐらいずつ、読んでいければ上々なのではないか。ムージルアフォリズムや、神崎繁熊野純彦・鈴木泉編集『西洋哲学史Ⅰ 「ある」の衝撃からはじまる』講談社選書メチエ(511)、二〇一一年からの記述を読んでいく。アナクサゴラスの世界論はなかなか面白い。彼はこの世界の根源(アルケー)を考えるに当たって、ほかの全てを構成する原子のような最終的な物質的着地点(例えばエンペドクレスが考えた、火、水、空気、土の四元素のような)を想定するのではなくて、世界の最小単位への分割は無限に続くと構想した。無限に分かたれて無限に小さくなっていくその微小体のなかに、あらゆる事物の最小部分が含まれていると考えたのだ。だから、あらゆる事物を含み持った混合物が、それぞれに特有の仕方で寄り集まってあらゆる事物を形成している。従って、例えば「肉」という物質が顕現しているとしても、この「肉」はたまたま「肉」という性質が優勢になっているから「肉」として現れているのであって、純粋無垢な「肉」ではありえず、ほかのあらゆる物質の性質を分かち持った混合物だということになる。アナクサゴラスはこうした意味での世界の最小単位を「事物(クレーマタ)」あるいは「種子(スペルマタ)」と呼び、「あらゆるもののうちにあらゆるものの部分が含まれている」(エン・パンティ・パントス・モイラ・エネスティ)という原理を打ち立てたのだ(中二病的精神をくすぐるような用語ではないか?)。
 一一時まで「記憶」記事を音読したのち、上階に行って風呂を洗った。ゴム靴で浴室に踏み入ると浴槽の蓋を除き、洗濯機に繋がったポンプを持ち上げて静止させ、管のなかに溜まった水をまっすぐ下方に排出させる。それから洗剤を取って風呂桶の内壁に吹きつけ、今しがた読んだばかりの哲学的知識を断片的に思い返しながらブラシで擦って行った。隅々まで洗い終えるとシャワーを使って洗剤を流し、栓と蓋を戻しておいて退出、自室に戻ってくると日記を書き出して、現在一一時半過ぎに達している。そろそろ出かける時間だ。
 FISHMANS, "MELODY"を流して、音楽のなかで服を着替えた。臙脂色のシャツ、褐色のスラックス、それに濃紺のジャケットである。髪を切ったので青い帽子も被る。そうして次に、"Walkin'"の流れるなかで歯を磨き、そうして荷物をクラッチバッグにまとめた。斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』を入れ、夜になると寒かろうかとストールを丸めて収め、さらに財布と携帯である。そうして上階へ。母親は、それだと寒いよとこちらの格好を指して言うのだが、バルカラー・コートでは暑いだろうし、最高気温が一四度か一五度あるのだから大丈夫だろうと意に介さずに、戸棚の引き出しからBrooks Brothersのハンカチを取った。父親は自治会か床屋か何かに出かけて帰ってきたところらしく、白灰色のジャンパーを羽織って黙って立ち尽くし、うつむきながら携帯か何かに視線を落としていた。こちらはポケットティッシュをジャケットのポケットに入れ、これも持っていきなと母親に言われたチョコレート(リキュール入りのもの)をバッグに加えて出発した。
 道へ出ると、坂を一人の女性が上がって来たので、こんにちはと挨拶を送ると、向こうも、誰だろうとちょっと戸惑うような風を見せながら、こんにちはとそれでも明るめの声で返してきた。下のHさんの娘さんだろうか? わからない。そこを過ぎて上り坂に入ると、なるほど風に冷たさが含まれてはいるが、しかしだからといってそれが寒さに繋がるわけでもない。あるきながら足もとを見つめると、日向とその上に象られた自分の影とが薄く、振り仰げば西空に雲が白くて、首を曲げた視界に太陽は高く眩しいものの相応に遮られているようだ。東のほうは雲が少なめで青さが見えるが、それも淡いようだった。上って行き、坂の出口に掛かるとガードレールの向こうの斜面で篠竹が鳴りを立て、遅れてその向かい、左方の、小さな斜面の草も吹かれてさらさらと響き、冷たさが顔を擦るものの、進んで風が止まれば背が温もって、街道に出る頃には服の内で汗の感触も微かに兆していた。街道に出る前、斜面下から生え伸びた巨木から、シジュウカラだろうか、ぴち、ぴちと鳥の声が、表通りの車の音にも負けずに降っていた。
 一軒の壁にチラシが貼ってあり、見れば市議会議員選挙が四月二一日にあると言う。ちょっと進んでから、胸の隠しから手帳を取り出してメモしておいた。そうしてふたたび歩き出す。ベランダに干された色とりどりの布団。胸を張り、片手をズボンのポケットに突っ込んで意気揚々と行く。そうして裏道へ。この日も淡と濃の紅梅二種が、視線を送っているあいだぴくりとも揺らがず、静かに灯っている。過ぎて、反対側の右方の家には百日紅の木が蜂の巣のような瘤を晒している。裏通りに入って行っていると、一軒の前で犬に吠えられた。窓外の柵のあいだから顔を出した白い小犬で、さらさらとした毛が放射状に顔の周りを覆っていて可愛らしかった。
 風はよく流れ、続いていた。ドーム状に枝を振り伸ばした、鮮やかに色濃い紅梅を過ぎ、白木蓮を見上げて過ぎ、青梅坂から表へ出た。郵便局に寄って金を下ろすつもりだったのだが、この日が日曜日だということを失念していたのだ――いかにも毎日休暇で曜日感覚のない生活をしている無職らしい失念である。その後、特段に興味深い事物とは遭遇しなかったようだ。街灯につけられた旗が風にことごとく身じろぎしているなかを駅に向かった。
 電車は一二時二五分発だった。ホームへ上り、例によって二号車の三人掛けに腰を下ろす。今日はリュックサックではなくて手持ちのバッグなので、ストールのせいでやや膨れたのを丸めて、左の仕切りと身体のあいだに置き、その上に腕を乗せて携帯電話を使って道中のことをメモに取った。それがほとんど立川まで掛かってしまい、本を読むことが出来なかった。日曜日とあって車内には子連れの家族の姿が多く見られたように思う。立川では三番線に着き、降りて階段を上がって、改札を抜けると人の流れのなかを横切って、向かいの壁のATMに寄った。五万円を下ろす。それから北口へと向かう。人々のざわめきのなか、頭上からは駅員のアナウンスが落ち、ダイヤ改正に伴って特急がどうのこうのと言っていた。駅構内の隅、広場との境には托鉢僧の姿があって、鈴の音が凛と響き渡り、その着物には風雲流水を表現したものだろうか、雲のような不定形の筋状の模様が描かれているのだが、それが場合によっては砂埃に汚れきったさまのようにも見えるのだった。
 広場に出て左方に折れ、HMVのほうに向かう(立川で降りたのはこのCD屋に寄るためだったのだ)。歩いていると左方、駅改札のほうから何やら音楽に乗った歌声が渡ってくるのだが、曲調は愚にもつかないJ-POP風のもので、二人でハーモニーを合わせているボーカルもまあ『のど自慢』レベルだろうというところだった。そこを過ぎ、モノレール駅の下の通路をくぐって行き、ビルのなかに入ってSUIT SELECTの前を過ぎ、HMVに入店した。目当ては三つあった。一つはFISHMANSのライブ盤、もう一つは中村佳穂、さらにceroである。入口にはSuchmosの三枚目のアルバムが発売されるという広告が張られてあった。最初にFISHMANSの区画を見に行ったが、ベスト盤しか置いておらずDamnである。中村佳穂も、まあ勿論そうだろうと思っていたがあるわけがない。最後にceroは四、五枚あって、そのなかから『WORLD RECORD』、『Obscure Ride』、『POLY LIFE MULTI SOUL』を一気に買うことにした(あとの一枚は『My Lost City』というやつだった)。それからジャズの区画も一応見に行ったが、ここの店のジャズの品揃えは大したことがないので早々に場を離れて会計へ。無精髭の生えた男性店員を相手に七九三三円を支払い、袋を受け取って退店すると、まだ駅には向かわず、何も買う気はないが本屋もちょっと見ていくかということでエスカレーターに乗った。前には小さな男児が親と一緒に乗っていて、彼の履いている靴がちょっときらきらとしたものだったので、なかなかいかしたものを履いているねと心のなかで話しかけた。オリオン書房に入店するとまず海外文学のほうに行くのだが、その途中、芥川賞を受賞した町屋良平選書フェアという棚が設けられていた。オクタビオ・パスとかバルトとかが並んでいたと思ったが、以前会った時にヴァージニア・ウルフの『灯台へ』が好きだと言っていたのでそれもあったかもしれない、よく見なかったが。それから書架のあいだを抜けて、壁際の海外文学へ。アリス・マンローの新作。国書刊行会水声社の著作がやはり面白そうである。ほか、名前が覚えられずメモも取っていないのだが、「一五世紀のジョイス」と言われているらしい人の本などもあって、これにはやはり興味を惹かれずにはいられない。平積みにされている本を端から端まで見下ろしていったあと、今度は哲学の区画に移って、ここでも新刊を確認していった。『今から始める哲学入門』というような本があったように思う。京都大学学術出版会から出ているやつで、このあたりの良質そうな入門書の類をたくさん読むことで、哲学というものに慣れていけないだろうか。ほかには何があったのか、特段に印象に残っているものはない。西谷修の著作が二、三あったのでこれも読んでみたいはみたい。
 そうして退店した。エスカレーターを下り、Right Onの横を通り過ぎて外へ、駅に戻っていくあいだに特に印象深いことはなかった。駅構内に入ると、焼き栗屋がモンブランやマロンデニッシュを売っている出店の横を通り過ぎ、改札を抜けて三・四番線のホームへ、下りて先頭車両のほうに行くとまもなく電車が入線してきた。快速である。車内はがらがらだったので席の端に座ることができた。ここではメモをほとんど取らず、本を読むことにして、斎藤慶典『哲学がはじまるとき――思考は何/どこに向かうのか』をひらいた。国分寺で特快と待ち合わせをしたが、そう急ぐこともあるまいというわけで座ったまま電車を移らず、その後も引き続き本を読み続けた。向かいの席にはポケットモンスターのゲームか玩具か買ってもらったらしい男児が、両親と一緒に乗ってきて、彼らは武蔵境で降りて行ったのだが、率先して降車していく子どもに向けて母親が後ろから、早くやりたくてたまらないんだよね、と声を放っていた。その後向かいにはまた別の親子連れが入ってきていたと思う。
 三鷹で降車。クラッチバッグをベンチに置いて手帳を取り出し、読書時間をメモする(一時五一分まで)。それからエスカレーターを上り、QUEEN'S ISETANという構内のスーパーに入る。ジンジャーエールをいつも買ってきてもらっていたので、今日は自分で買って行こうと思ったのだ。さらについでに、チョコレートも買って持って行くつもりだった。それでジンジャーエールのペットボトルを持ってチョコレートの区画を見分し、アーモンド・チョコレートを買うことにした。これは結構数がたくさん入っているもので、大学時代、サークルにまだ属していた時分、スタジオ練習の時にもよく買って行ったものだ。
 会計して(三七五円)ビニール袋を手に提げながら改札を抜け、駅舎を出る。左方に折れてすぐのところをさらに左方に、高いマンションのあいだを通り抜け、裏路地に入ってKくんの宅を目指す。マンションの入口を入り、エレベーターは使わずに階段をとんとん踏んで四階まで上がり、Kくんの部屋に辿り着くとインターフォンを鳴らした。彼が出てきたのでこんにちはと挨拶し、靴を脱いでなかに入って、既に集まっていた皆にもこんにちはと挨拶をする。T、T田、Mさんが既におり、来ていないのはあとはT谷だけだった。荷物を置くと、部屋の奥に踏み入り、ベッドの端に座って、ごくナチュラルに、断りもせずにKくんのギターを手に取る。するとKくんがチューナーアプリを起動させたスマートフォンを貸してくれたので、それを使ってチューニングし、適当に弾きはじめた。じきにT谷もやってきてこれでメンバーが揃った。
 それから、多分二時半頃からだろうか、"(……)"という曲のMVの絵コンテ案をMさんが作ってきてくれたのを、皆で見ながら話し合って案を出していくということを、一旦七時頃まで行い、その後外に飯を食いに行ってきたあと戻って、ふたたび一〇時頃まで話し合ったのだが、特段に興味深い展開や瞬間もなかったように思うし、細部まで記憶できてもいないし、こうした時間のことをどのように書けば良いかもよくわからないので、どんどん省略して行こう。絵コンテ案は全部で九〇番まであったのだが、そのままだとMさんが描かなければならない絵の量が膨大になったり、また場面転換も速すぎる部分が散見されたので、原案から削れるところは削って行く方向で皆で話し合った。こちらはこうした場合、結構やはり黙りがちで、うんうん頷くばかりで大した意見や案を出せるわけではないので、途中でたびたびギターを弄って遊んでいた(Kくんも、彼はアニメなどにも詳しくて、よく考えられた提案を色々と出していたが、彼もまたその合間にギターをこちらと交替で弄ったり、コーヒーを作ったりしていた)。MさんはGoogle Driveにアップロードした絵コンテ案を紙に印刷して持ってきており、それを配布してくれたり、それぞれの絵を小さな紙に切り抜いて色をつけて、紙芝居風にして見られるようにもしてきてくれており、随分とこの活動に熱心に力を注いでいるという印象を受ける。対してこちらは美術は専門外だし、音楽に対する熱情ももうさほどないというわけで、まあ言ってみれば外部オブザーバー的な立場だと自認している。
 そういうわけで詳細の諸々はさっさと省略して、飯の時間のことに移ろう。七時前に至ってTがこちらに、お腹空いた、と訊いてきた。まあ、普通に、と答えると、彼女とKくんでよく行く店があって、今日は皆でそこに行きたいと言う。勿論異論のあろうはずがない。それでKくんが七時半に予約を取り、それからまた少々話し合って、七時一五分頃に宅を出た。皆がエレベーターに乗るなか、こちらは一人階段を下りて行くと、一階でちょうど合流できた。外に出て、裏通りから表のほうへと抜けて行く。最初のうちはKくんにT谷が先頭に並び、その後ろにこちら、さらに後ろにほかの三人といった隊列だった。三鷹駅の反対側へ抜けて、高架歩廊からエスカレーターで通りへ下りた際に、T谷が吹き寄せる風に寒いとか何とか言って、三月のわりにまだまだ寒くないかと言ってきた。こちらは、今年はしかし、暖冬だったと返し、二月が暖かかったかわりに三月がまだ寒いのだろうかなどと根拠のない適当なことを言った。それから歩いているうちに、T谷は後方に退いていったようで、Kくんとこちらが先頭で並ぶことになった。道中、「M」があったので、言及すると、思い出の? とKくんに訊かれた。いや、思い出というほどでもないが、こちらはMで働いていたのだ。すると、やっぱり思い出のじゃんと。まあ青梅のはね。そこから塾についてちょっと話した。Kくんがこちらの病気についてどこまで知っているのか知らないが、Tからどれくらい聞いているのか知らないが、去年調子が悪くて今は休んでいるのだと話す。それから、塾、行っていた? と尋ねると、小学校の公文式から始まって高校のZ会までずっと行っていたと。小学校の時にはしかもKくんは、自ら率先して公文式をやりたいと言い出したらしい、と言うのは、友達がやはり塾に通っていて小学生なのに既に中学校の勉強をやっているのが格好良かったから、とそんな理由を挙げていた。
 その他に話したことは覚えていない。そのうちに裏路地の途中にある店に着いた。「(……)」という店だった。入店するとちょっと待たされたのち――待っているあいだ、Tがこちらに寄ってきて、調子はどう、と尋ねてくるので、まあ悪くはないと答える。問題はないと。薬を飲んでいるかとの問いにも肯定し、こちらのことを心配してくれているようなので、もう一度、問題はないと答えておいた――、フロア奥の席に六人で案内される。(……)という語が店名に入っているだけあってというわけか、子供連れの姿が見られて、赤ん坊の泣き声なども途中で聞かれていた。席に就いてメニューをひらくと(席順は、三人ずつで分かれて、こちらの側は左からKくん、こちら、T田、向かいは左からT谷、T、Mさんだった)、ここのグラタンが非常にお薦めだとTが言う。グラタンの概念を覆されるとまで言うので、それならば自分は、グラタンは結構好きなことでもあるし、それにするかとすぐに決めた。しかし煮込みハンバーグも良いなと言うと、T田がそれにするからシェアしようと言う。了承し、こちらはそのほかにシーザーサラダのSサイズを頼むことにした。ライスかパンのセットにすればミニサラダがついてくるらしかったのだが、こちらはライスもパンも別にほしくなかったし、あくまでも単品でのサラダにこだわった。そのほかKくんとTはこちらと同じくグラタン、T谷は和牛ハンバーグ、Mさんは日替わりのパスタにしていた。
 BGMはわりと洒落た感じで、フォーキーなものやソウルフルなボーカルが掛かっていて、まあ悪くなかった。待っているあいだ、隣のT田に呼びかけ、最近はどうだ、人生は、と実にふわりとして曖昧な質問を投げかける。するとT田は、そろそろようやく進路というものをきちんと考え出したと。何でもAI関係に興味が出てきているらしい。と言うのは、自分はなるべくなら働きたくない、嫌な仕事をやらなくて済む社会のほうが良いと思う、だからそうした社会を作ることに貢献したいと思うのだが、そのためにはやはりAI技術というものが核心の一つになってくるだろうから、そうした分野に多少なりとも参加したいようなことを言っていた。しかし今まで彼がやってきた医学、理学療法士関連の分野とはやはり違う方向なので、どのような形になるかはまだまったくわからないと。T田はAI技術が発展して、なおかつ政治がそれを活かして社会保障のシステムを革新するなりすれば、今よりも労働というものの比重が減って、もっと文化的な隆盛が見られる社会になるのではないかと希望しているらしい。平たく言ってベーシック・インカムのようなことを思っているのではないかとこちらは思い、俺もベーシック・インカムをさっさと導入しろとずっと思っているよと財源のことなどまったく考えず主張すると、T田は財源の問題は、やはりAIが仕事を肩代わりすることによって余剰になる人件費などから捻出できるのではないかと言うが、しかし企業は絶対に抵抗するだろうなとこちらは返す。
 そんな話をしているうちに、じきにサラダから品がやってくる。ミニサラダとシーザーサラダを比べるとやはりこちらのほうが充分な量で、余は満足であった。グラタンは確かに美味かった。しかし「概念が覆される」はさすがに大袈裟だったが、Tが話すに、この店の品はグラタンなのにマカロニがほとんど入っていない、その代わりに野菜がごろごろとふんだんに入れられている、そこでこんなにマカロニ少なくていいんだ……!となって「グラタン」の考えを一新されるとのことだった。実際、自家製ベーコンと野菜のグラタンなので野菜を売りにしているわけなのだが、蕪・薩摩芋・ジャガイモ・キャベツ・南瓜などなどが含まれていて、どれも美味かった。どう、と訊かれたのに、細かいことはわからないが、と置いてから、美味い、と断言し、何だかまろやかだねと付け足した。T田とシェアしたハンバーグも美味であった。
 食事のあとは、Kくんがカフェオレを頼んだのみで、皆デザートなどは注文しなかった(ガトーショコラが非常に美味いという話だった)。そうして会計。個別に。先頭のT田が会計している際、釣りが足りなくなったらしく、一円玉が切れたので少々お待ちくださいねと店員が言う。それで新たな硬貨の筒が用意された。こちらの会計の時にも、それから固い包装を取り除いて硬貨を取り出すのに店員が苦戦して、ちょっと待ち時間があったが、こちらは彼の様子を観察しながら待った。茶髪を後ろに引っ詰めて一つに結わえて眼鏡を掛けたこの店員は、オーダーの時から配膳までずっと我々のテーブルを担当してくれたのだが、なかなか丁寧な物腰・言動で印象が良かった。先の、硬貨が切れたということを伝える時などもそうで、こういう時結構皆無言で作業を進めてしまうように思うのだが、一言、しかも慌てるでもなく軽い感じで、かと言って軽薄にもならずに客に断りを入れるというこの一手間が丁寧が印象を与えるのだった。しかし硬貨の筒のある場所を知らずにほかの同僚に訊いていて、その際に何か指示を受けたりもしていたので、この店のなかでは下っ端のほうなのかもしれない。
 そうしてそれぞれ皆会計を済ませて退店(こちらは一五一二円だった)。店からの帰りはふたたびKくんと並んで塾の話をした。何を教えていたのかと訊くので、英国社、たまに数学と答える。オールマイティーだね。理科は出来ないよ。英語が一番楽だったね、予習をしなくても済む。国語が面倒臭かった、やっぱり事前に読んでおかないと細かいところまで教えられないから。しかし準備時間もそう豊富にあるわけではないのだ、と話す。準備の時間も給料に含まれるので、基本は授業前一〇分で済ませるように求められる、それ以上に時間が欲しい場合には申請書類を書いて提出しなければならないのだ、と(こちらは元々給料に含まれている一〇分に加えてさらに一〇分を毎回準備時間として貰っていた。書類の提出も、もう話が通っているので毎回室長の許可を貰うなどしなくて良いのだが、申請書類をいちいち記入しなければならないのはちょっと面倒臭かった)。それだからあまり多くの時間準備をしたい時などは必然的にただ働きになってしまう、しかしそれでも良くなったほうなのだ、と言うのは以前は準備時間にはまったく給料が出ていなかったのだから。それで誰かが訴えて、塾業界はブラックだなどと一時期話題になったこともあったのだが、結果、今の申請方式に落着いているというわけなのだった。
 そんな話が終わったあと、Kくんは一応、オタクなんだよねとこちらから話を振る。きっかけは何だったのと。まずオタクというのはKくんの考えでは、オタクになるとかオタクをやめるとかそういう類のものではなく、何か一つのことを突き詰めずにはいられない性向のことを言うのだと。そこに例えばアニメオタクとか漫画オタクとか形容がつくこともあるのだが、Kくん自身はアニメオタクに類するらしかった。きっかけは、『涼宮ハルヒの憂鬱』だと言う。あのアニメが放映されていたのがちょうどKくんが中学二年のあたり、多感な時期だったのだが、そこにそれを見て自分のなかで革命が起こったらしい。そこから深夜アニメの類に嵌まって、高校時代は軽音楽部に入ったのだが、アニメ・ゲーム・音楽の三位一体三昧の生活を送っていたと言う。
 三鷹駅構内に入ると、俺がギターを始めたのも中学二年だったよとこちらのことを話す。やはりそのあたりで自意識が出来てきて、自分の興味を追求しはじめるよね、と。駅を出て、暗闇の夜空の下を行きながら、まあしかしオタクってのはいいもんだよとKくんが言う。それを受けてこちらは、まあ一生退屈しなさそうだなってのはあるよねと。裏路地に入る間際のマンションの区画には梅が咲いており、夜闇のなかでうっすらと明るんでいた。それを見ながら、(……)は梅の里だから、そこら中に梅があるよなどと言いながらKくん宅に戻っていく。
 それでふたたび絵コンテ案について話されるわけだが、こちらは例によってギターを弄って遊んでおり、話し合いは大方Mさん、T、T田の三人のあいだで行われたようだった。それで一〇時頃になると、時間がまだあるので(こちらの終電は一一時ぴったりだった)レコーディングをしようということになる。"(……)"の音源にこちらのギターを入れるのだ。Kくんがコンピューターでソフトを立ち上げたり、オーディオインターフェースにコードを繋いだり、マルチエフェクターを取り出したりして準備を整えてくれているあいだ、こちらはベッドに腰掛けて待ちながらT田と話す。『灯台へ』を読んだかと訊くと、読んでいる途中で、そろそろ第一部が終わりそうなところだった。一一章が全篇完璧で素晴らしいと主張しておく。そこから純文学と大衆小説などについて話したが、細かく覚えていないので内容は割愛する。T田はほか、音楽に出来ることは何か、というようなことを考えたと話す。それはまずもってやはり、当たり前のことではあるが、音響のデザインなのであって、例えば吹奏楽部員(高校の頃のことか、大学の部でのことか、それともT田がOBとして高校の部に教えに行った時のことか、その全部か)が表現を考える時に、ここはどういう表現にするかと訊くと、視覚的なイメージとか物語的な要素はよく出てくるのだが、音楽的なアイディアというものはあまり提出されないのだと。しかし、物語を表現するというのはほかのメディアでも出来ることなのだから、音楽特有の表現というものはあくまで音楽的なものでなければならないのだよな、とそんなことを話すのに、こちらは全面的に同意し、その通りだと頷きを繰り返す。こちらは、音楽を物語などの「意味」に還元する向きがあまり性に合わないのだ。勿論それは音楽を表象に奉仕させるということになるからである。勿論物語と結びついた音楽があって結構なのだが、まずもって音楽は音楽としての組成と形式を持って我々の感覚に現前するのだから、最低限というか第一の段階で、音楽として整っていなければならないだろうとそういうことである。
 そのうちにKくんがソフトを整えて録音の準備が出来た。KくんのエフェクターにもT谷が持ってきたディストーションにもギターを繋ぐという大掛かりなことになったが、ヘッドフォンを借りて音色を少々調整し、一〇時半くらいから、じゃあやります、と言って弾きはじめ、少々ミスしたが一発録りで五分くらいで仕事を終えた。全体的に下手くそで、コードチェンジなど滑らかでないのだが、と言うかコードチェンジとかアルペジオというのは基本中の基本であるはずなのだけれど、ギターを弾いていて一番難しいのはそこではないか。録ったものをTに聞いてもらい、彼女はふむふむ、なるほど、などと言っていたのだが、どうすか、と尋ねると、いや、もっと聴き込んでみないと、簡単には答えられないということを言った。そんなに難しいことをやっているのではないのだが。
 それで一〇時四五分頃になってKくん宅を辞した。こちらはゴミを残して行くまいとジンジャーエールの空のボトルと、アーモンド・チョコレートのケースを誰にも気づかれずにバッグに入れ、余ったリキュール入りのチョコレートはT田に食ってくれと渡した。そうして室の外に出て、今度は皆でエレベーターに乗って地上に下り、裏路地から表へ、ここでもこちらは確かKくんと並んで歩いたと思う。そうして三鷹駅へ。改札。皆で顔を見合わせて、また四月に集まりましょうと。こちらはKくんと意味もなく、何故だかわからないがとりあえず握手をした。それで別れ、改札をくぐる。そうして振り向き、手を挙げて左右に緩く振ると、Kくんも手を挙げて笑っていた。
 東京方面に向かうT谷とMさんとも別れて、こちらはT田と一緒に三番線へ。一〇時五五分発の電車に乗る。そうしてT田に、そう言えば、例の人のイベントには行ったのかと尋ねると、まだだ、今月末だと。どんなことを話したらいいかわからない、向こうも同じだと思うと苦笑してT田。一週間に一通くらいのやり取りだから何とか話せているが、もっと頻繁だったらネタが尽きているだろうと。こちらはMさんの日記に書いてあったカップルのやり取りを思い出して、いつも話しているからどんなことを話せばわからないですね、と言えば良いんだと助言する。
 そのうちに、この日の絵コンテ案の話し合いについてからずれたのだったと思うが、最近自分がいかにものを考えていないか痛感しているということを語った。ものを考えるということは一体どうやってやるのか? 自分はもっとよく、深くものを考えたいと思うのだが、なかなかそれが出来ない、全然考えていないように思われると。受けてT田も、クラシックのコンサートなど自分も少し前に行って、悪くはなかったのだが、いざどうだったかと訊かれると感想が出てこない、自分は何を感じたのだろうと。そういうことがあると、自分はクラシック音楽が実はそんなに好きではないのではなどと思ってしまうと。その気持ちはこちらもわかって、例えばこちらは日記を書いていて、勿論毎日の日記には本を読んだということも書くわけだが、ではその時に、どんなことが書いてあったか思い出して書こうとしても一向に思い出せないと話す。
 ショーペンハウアーっていうドイツの哲学者がいてさ、とそのうちにこちら。『読書について』って本を書いているんだよね、もう随分前に読んだから記憶がだいぶ曖昧だけれど凄く簡単に言うと、読書ばかりする人は他人の考えを追ってばかりだから自分の頭で考えられなくなる、とそういうことを言っているんだわ。何かそれが段々わかるようになってきたような気がするな……。確かにインプットだけでそれを消化してアウトプットする機会がないと、そうなるかもなとT田。アウトプットのやり方も考えもので、自分は日記をずっと書いてきたけれど、そのせいで思考の形が日記向けになったと言うか、日記の形でしかなかなか文章を考えられなくなっているような気がする、自分が追求してきた形式に縛られるっていうこともあるんだろうな。
 そんなようなことを話しながら立川まで揺られ、降りて階段を上り、T田と別れて一番線へ。奥多摩行きに乗り、座って携帯電話でメモを取る。Kくんの宅でもずっと座っていたから腰が痛んだ。河辺まで来て乗客がほとんどいなくなると、人の少なさを良いことに靴を脱ぎ、脚を前方にだらりとまっすぐ伸ばしてだらしない姿勢を取った。そうして青梅に着くと降りて、奥多摩方面の車両に乗り移る。そうして扉際に立ち、相変わらずメモを続けるのだが、こちらの前の席に座っている男が酒を飲んできたらしく頻りにしゃっくりを発しており、何だか気分も余り良くなさそうなので、頼むから俺が降りるまでに吐かないでくれよと祈った。
 無事、嘔吐されることはなく最寄り駅で降りて駅舎を抜け、深夜零時の聖なる静寂のなか通りを渡り、坂道に入る。足もとに伸びた自分の影が明らかなのに、どうも月があるらしいなと見上げると、やはり、七割くらいに膨らんだ月がくっきりと照っており、星もあった。坂を下って行き、平らな道に出て夜道を辿り、帰宅した。なかに入ると、父親が仏間で仏壇に向けて正座して線香を上げているところだった。酒を飲んだのが一見してわかる顔で何とか呟いており、こちらの姿を見ると仏壇に向かって、Sが帰ってきましたよと祖父母に報告していた。こちらはすぐに下階に下りて服を脱ぎ、入浴に行った。さすがに疲れたので湯のなかに長く身を沈めて上がると、父親はまだ居間にいてカーリングを観ている。こちらが戸棚から「どん兵衛」の豚葱うどんを取り出して湯を注ごうとすると、父親は、今日は何を作ったの、と訊いてくるので、今日は作っていない、外で食べたと答えて、下階に向かった。その後、即席うどんを食い、Tから一か月遅れのバレンタインデープレゼントして皆に配られたシフォンケーキの類も食って、のち長々と夜更かしをして、三時半に就床した。