2019/3/27, Wed.

 一一時半起床。もはや意志的に早起きをすることは不可能だと悟った。意図していないのにたまたま早く起床できてしまった、という偶然の恩寵を待つしかない。眠りたければ眠りたいだけ眠るが良いのだ。
 上階に行き、寝間着からジャージに着替える。母親は料理教室で不在、帰りにお茶をしてくるかもしれないとのことだった。台所に入り、冷蔵庫から水菜の生サラダと味噌汁の鍋を取り出す。味噌汁は前夜味が薄かったので塩を少々振り入れて熱し、そのほかチョコチップメロンパンを持って卓に就いた。新聞は国際面を読む。米国のゴラン高原におけるイスラエル主権容認の話題。また、イスラエルがガザからの攻撃を受けてハマスの関連施設に空爆を行ったとのこと。ほか、ローマ法王フランシスコが一一月にも来日との見通し。彼は史上初めてのイエズス会出身の法王だと言う。それらを読みつつものを食べて、味噌汁は二杯飲んですべて払ってしまい、薬を服用すると台所に行って、食器に洗剤を垂らして網状の布でごしごしと擦った。泡を流し、食器乾燥機に収めておいて、そうして下階に戻ると、イギリスのEU離脱国民投票が行われたのは二〇一六年の六月だったよなと確認のために検索した。そうすると、「イギリス「EU離脱」はなぜこうももめているのか」(https://toyokeizai.net/articles/-/272661)、「【ゼロからわかる】イギリス国民はなぜ「EU離脱」を決めたのか」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50639)という二つの記事をついでに見つけたので、いずれ読むことにして日記にメモしておいた。それからTwitterを覗いていると、次のようなツイートが目についた。

https://twitter.com/tryshd/status/1110500478721245184
ごく普通の会社員‏ @tryshd
ごく普通の会社員さんが小林 章をリツイートしました
へえ…やはり今の日本、狂ってるよ。 レイプの加害者が次々と不起訴というだけでも十分狂気なんだが…

とうとうレイプの「加害者」が「被害者」を逆ギレで訴え返す、1億3000万も賠償請求するなんて事態に。

「被害者」が徹底的に、完膚なきまでに叩きのめされる美しい国、ニッポン…

 伊藤詩織氏の件で、被告である山口敬之が反訴を行い、一億三〇〇〇万もの賠償を請求したとのことである。これも忘れないように、リツイート元のツイート及び画像とともに、Evernoteの日記にメモしておいた。気になったことはとにかく何でもメモしておくのが吉であろう。それから日記を書き出したのが一二時二〇分過ぎ、三〇分を費やしてここまで追いついている。
 cero "Yellow Magus (Obscure)"の流れるなかで前日の記事をブログに投稿し、Twitterにも投稿通知を流しておいて、それから"Summer Soul"に"Orphans"を歌うと、散歩に出ることにした。鍵をズボンのポケットに、手帳と赤ボールペンを上のジャージのポケットに収めて上階に行き、早速玄関を抜けた。外に出るとともに軽い風が踊るように身の周りを包みこんで、肌に緩く絡んでくる。午後一時の日向はまだ広く、西に向かって歩いていると正面から陽射しが降ってきて額が温かい。空はしかし前日よりも雲が遥かに多く、南のほうでは裾が空の地に溶け込んでおり、十字路に辿り着く頃には陽も一旦陰っていたものの、歩いているうちにまたすぐに日向が復活し、どちらかと言えば太陽の方が勝って西の空は雲もまとめて空がすべて淡くなっていた。やや大股に、一歩一歩を着実に踏んで脚をほぐすようにしながら坂を上って行くと、周囲の木々が風に触れられて鳴りを立てるが、道にいるこちらの身に重く掛かってくるものはない。沈丁花の香りを今日も嗅ぎながら家並みのあいだを行っているあいだ、上空でも風がよく流れているのか雲の動きが速いようで、頻りに路上で日向と日陰が入れ替わり、電線の影が足もとにまっすぐ浮かび上がったかと思えばすぐにその周囲から陰が湧出してきて道の色に同化してしまうのだった。それでも全体には天気は晴れに寄っていて、陽の射している時間のほうが長いようだ。
 街道を渡って上の道へと入りながら、目の前の一軒の一角に黄色く染まった花の無数に茂った木が立っているのを、これはレンギョウというやつだろうかと目に留めた。それから右に折れて緩やかな坂道を歩いて行くと、足もとのハナニラに微小な蜂が寄っている。斜面に沿って起伏の乏しいこの坂道では、風がいつも強く吹く。この時にも正面から分厚く駆けてくるものがあったが、勢いは強くてもそのなかに冷たさが含まれていないのが気温の高さを物語っている。墓場まで来ると壁のような斜面がひらけて空間がやや広くなるためか、風も拡散するようで、身に触れてくるものが弱まった。
 最寄り駅まで来ると桜の木はほとんど白に近いごく淡い紅を枝に乗せて美しく、整然と統一された色彩の存在感が強まっていた。街道の道路工事は続いており、対岸の歩道際、ショベルカーが出張って土を掘り返している。カラーコーンのなかに立っているヘルメットを被った交通整理員の、大きなくしゃみを放った一人が、市民会館跡地の現場にも勤めていた髭の老人――母親が「亀仙人」と呼んだ人だ――であることに気がついた。道を東へ向かって行き、横断歩道前で車の途切れた隙に渡って、油っぽい匂いの漂う肉屋の脇からまっすぐ下って行く木の間の坂道に入った。今日も微風の舞い上がってくるなかをゆっくりと、膝を曲げながら一歩一歩を踏んで帰る。
 帰宅すると自室に戻って、ベッドに乗って小林康夫『君自身の哲学へ』を読みはじめた。BGMにはJose James『The Dreamer』を流していた。一時四〇分から二時半まで読んでこの本は読了、感想と言ってうまくまとまって統一された言葉にならない。「語り書き」の本らしく柔らかく、簡便な語り口ではあったが、多くのイメージを手がかりに思考を連ねていくその文章は、やはりいくらか抽象的ではあって、隅々まで腑に落とすことが出来たわけではない。しかしブリコラージュ的な「希望の装置」の製作だとか、「親」が自分の絶対的な起源ではないという知見など、収穫はあったと言うべきだろう。それからインターネットで『君自身の哲学へ』の感想を少々探ったのち、ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』を新しく読みはじめた。しかしまもなく三時に達したので、一旦読書をやめて上階に行き、ベランダの洗濯物を室内に取り込む。タオルや肌着類、靴下などをソファの背の上で畳み、それから風呂場に向かうとその途中の台所にレトルトのカレー――先日、Yさんの葬式で返礼品として貰ったカタログで頼んだのが届いたものだ――があるのを見て食べてみたくなったので、小鍋に水を汲んで火に掛けておいた。そうして風呂場に入って浴槽を洗う。出てくると湯が沸いていたのでレトルトパウチを放り込んでおき、加熱されるあいだに今度はアイロン掛けである。炬燵テーブルの上に台を出して、母親のシャツ、エプロン、ハンカチを処理していき、終わると台所に行って大皿に米をよそり、鋏を使ってパウチを開封してその上に中身を掛けた。そうしてテーブルに移動して食べたが、不味くはないけれどまあそれほど大した味ではなかった。皿にこびりついたカレーの残骸を水で洗い流して、洗剤を使って洗うことはまだせずに水に浸けて放置しておくと下階に戻って、ふたたび『読書について 他二篇』を読みはじめた。
 「ところで読書と学習の二つならば実際だれでも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。つまり思索はいわば、風にあやつられる火のように、その対象によせる何らかの関心に左右されながら燃えあがり、燃えつづく」(6)と言う。「思索」を実行することはやはり困難なのだが、そもそもそれは意志的にやろうと思ってできるものではないのではなかろうか。「関心」を種として半ば自動的に展開し、炎が風に吹かれて勢威を増すように煽られるものだとすれば、それでは「関心」を育むためにはどうすれば良いのか、というのが次の問いになるだろう。
 またショウペンハウアーは読書は思索の代用品に過ぎず、本を読むのではなく自ら考えることこそが肝要だと主張するが、自分の身など照らし合わせてみて、一部の才人ならともかく、精神の「弾力性」を持たない凡人は自分自身だけで思想を作り上げることは難事であって、やはり他人の書籍の助けが必要なのではないかと思ってしまう。読書が思索に比べて一段劣った位置に置かれるのは、それが精神の方向や気分と無縁な思想を押しつけるからだと言うが、その圧力を跳ね返し、あるいは取り込む「弾力性」を持つことができれば読書もまた精神に益するものとなるのではないか。あるいはまた、精神の「気分」と「無縁」でない読書、自分の関心に適切に、正確に従った読書なら有益ではないかとも考えられる。
 いずれにせよショーペンハウアーは、思想家とは書物ではなく世界そのものから「素材」を得て思索を練り上げる人と考えているようだ。しかし、書籍だって「世界」の一部、立派な「素材」の提供源ではないだろうか。それと同様に、世界もまた言ってみれば一冊の、そしておそらくこの世で最も豊かな「書物」なのであり、禅の言い方をすればそれは言わば「無字の書」である。重要なのは世界と書物のあいだに境界線を置いて截然と区切ってしまうのではなく、それらを一体のものとして学びの源泉にすることではないだろうか。小林康夫の「教養」の定義を思い出そう――「どんなものからも学ぶことができ、かつ学びは無限でけっして終わりがないということを知っていること、そしてそれゆえに一生学び続けることを――どのようにしてか――決意[﹅2]していることが<教養>というものでしょう」。
 しかしショーペンハウアーの、読書は思索の代用品でしかないという主張、読書をしている時我々は決して自分の頭で考えているのではないということを頭に留めておくのは有益なことだろう。問題はそこからどのように自分で考えられるかということなのだ。ところでショーペンハウアー自身も、読書にも一抹の有用性があることは認めている。「読書はただ自分の思想の湧出がとだえた時にのみ試みるべきで、事実、もっともすぐれた頭脳の持ち主でもそうしたことはよく見うけられる事実であろう」(9)と言っているからだ。自分の考えの流れが止まってしまったら、読書からさらなる材料を得ることができるのだ。しかしあくまで自分で考えること、自分の考えを発展させることが主なのであって、ただ字句を読み取ることを目的としてはならないというわけだろう。その二つの事柄のあいだの軽重を逆転させてはならないのだ。
 同様に彼は、「思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない」と、思想家も多くの本を読むことを認めてもいる。「思想家」の精神には「弾力性」があるため、知識に溺れずにそれらを「消化」することができるのだ。凡人たる我々は、どうすればそのようになれるのだろうか? 上に書いたように意志的に、コントロールして思索ができないのだとすれば、それが自然に生まれてくるのを待つしかない。我々に出来るのは、貧しいものでありながらも確かな思考の生まれた瞬間を逃さず捉えることだけなのではないか――実際、この点に関してはショーペンハウアーも次のように述べている。「思想と人間とは同じようなもので、かってに呼びにやったところで来るとは限らず、その到来を辛抱強く待つほかはない」(15)。思索は外からの刺激と内側の「気分」がうまく一致すれば自ずと動き出すと言うのだ。従って、思考の発生は「意志」によるのではなくて「気分」によるのであって、それは外界との相互作用として現出するのだ。
 四時二〇分まで書見を行った。それからちょっとインターネットを回って、五時前から文章を書き出し――BGMはcero『Obscure Ride』――現在五時四〇分である。
 上階に行った。台所に入り、炊飯器に残った固くなった米を皿に取って新たに米を磨ごうとしているところで母親が帰ってきた。玄関に行き、まだ何もやっていないよと言いながら、父親がクリーニングに出していたワイシャツやネクタイを引き受けて、それを下階の衣装部屋に持って行った。それから上階に戻り、笊を持って玄関の戸棚に行き、米を三合取り分けると流し台でそれを磨いだ。そうして炊飯器にセットしておき、次の料理に取り掛かる。鶏肉があったのでそれを焼くことにした。塊を二つに切って、それぞれに切り込みを入れてちょっと平らにひらき伸ばすようにして、そのほか葱と椎茸も切り分けた。そうしてフライパンで焼く。蓋をしながら弱火で加熱し、そうしているあいだに母親が茹でたほうれん草を一つずつ揃えて絞って切り分けた。鶏肉に焦げ目がついたところで裏返し、ふたたびしばらく熱しながらほうれん草を処理し、鶏肉の裏側も焼けると母親が拵えておいた調味料――ニンニク醤油に生姜などを混ぜたもの――を掛け入れて、弱火で少々沸騰させれば完成である。汁物はジャガイモとワカメの味噌汁が製作中、こちらは仕事をそこまでとして下階に戻った。そうして小林康夫『君自身の哲学へ』を書き抜きはじめる。BGMは物凄く久しぶりに、JUDY AND MARY『THE POWER SOURCE』など流したが、JUDY AND MARYのロックは激しく、良質なものである。一時間ほど打鍵して、七時半を迎えたところで上階に行ったと思う。それとも食事を取りに行く前にインターネットを回ったりしたのだったか? よく覚えていない。
 上階に行くと父親が既に帰宅しており、機器に片腕を突っ込んで血圧を測っていた。こちらは食事を用意して――米・鶏肉・母親が料理教室で作った弁当(こちらにもチキンが入っており、そのほかキャベツのオムレツとパスタ)・味噌汁・ほうれん草――卓に就いた。テレビは最初、よくわからない何かのドラマをやっていたが特段に興味の惹かれるものではなかった。それから母親がチャンネルを変えて、カラオケ大会のような番組が映し出された。プロの歌手が持ち曲を歌って、素人によるカラオケの平均点と競い合うみたいな企画らしい。どうでも良いが、途中で出てきた相川七瀬が"夢見る少女じゃいられない"を歌ったのはそこそこ格好が良かった(サビで最高音に達する時、ほんの僅かに――多分六分の一音かそのくらい――フラット気味だったが)。食事を終えると風呂は父親が入っていたので下階に戻って、「記憶」記事を読んだ。BGMはFISHMANS『Oh! Mountain』。蓮實重彦の文章などを読んでいるあいだ、Twitterも覗いていたのだが、Yさんという方から、こちらのツイートはそれ自体シュルレアリスムの作品のようだ、との評言が届いた。シュルレアリスムとは自分はまったく思ってもみない言葉だったので、どのような点にそう思われましたかと尋ねたところ、「わたしの感じる空気と、F氏が感じる空気との間に、絶望的なまでの隔たりを感じます。同じ空気や風景も、わたしの感じ方と、F氏の感じ方では全く別の感じ方であり、F氏の現実は、わたしの現実ではない。当たり前のことなのですが、F氏の文章を読んでいると、それを強く感じます」との返答があった。それに対して、「なるほど。非常に朧気な記憶ですが、プルーストが、作家というものはそれぞれ違う宇宙、違う星雲に棲んでいる、というようなことを言っていたのを思い出します。しかし作家に限らず、人間は皆それぞれの宇宙、それぞれの世界に棲み、それぞれの感覚の在り方を保っている」「これはまことに、「当たり前のこと」ですね。しかし、そうした「当たり前のこと」を改めて、ありありと感じさせる、それも文学が成す重要な働きの一つなのかもしれません。自分の文章が他人にそう感じさせることが出来たこと、そしてYさんがそのように感じてくださったことに感謝したいと思います」との回答を送っておいた。
 そうして九時頃になって入浴へ。出てくると、すぐに下階に戻り、それからyoutubeFISHMANSのライブ音源など流しながら、だらだらとした時間が続くことになる。零時前になってようやく読書に入った――川上稔境界線上のホライゾンⅢ(中)』。三〇分ほど読み、ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』に移行。しかしどうも、よく覚えていないのだが、この書見の途中で意識を失っていたようだ。気づくと時計が二時一五分を指していたのでそのまま就寝した。


・作文
 12:23 - 12:52 = 29分
 16:48 - 17:41 = 53分
 計: 1時間22分

・読書
 13:39 - 14:30 = 51分
 14:48 - 15:05 = 17分
 15:35 - 16:20 = 45分
 18:27 - 19:25 = 58分
 20:15 - 20:52 = 37分
 23:55 - 26:15 = 2時間20分
 計: 5時間48分

・睡眠
 0:45 - 11:30 = 10時間45分

・音楽




小林康夫『君自身の哲学へ』大和書房、二〇一五年

 異なるものに出会うことによって初めて、ほんとうのゲームが生まれてくる。ほんとうのゲーム……つまり、誰かがつくった、規則やルールによってすでに完成されているゲームではなくて、その場で、その場かぎりで、まさに生まれつつあるゲームと言うか。それは、クリエイティヴィティと言ってもいいんですが、それがどんなに乏しい、ささやかなものでもそれを自分のなかに、自分の「井戸」のなかにつくっていく。自分と異なったものとの出会いとインターラクション、共同作業を通じてでなければ、自分を再組織化することができない。砂の穴の底で、それでもカラスを捕まえようとし、カラスとプレイしようとしなくてはならないと言ってもいい。(end102)
 ここで問題になっているのは、たとえ瞬間的であっても、自分一人ではできないような仕方で、この世界のなかで自分を再組織化すること。それをするためには、なにか自分とは違ったルールをもっている存在が必要です。
 (102~103)

     *

 一歩先の可能性へとみずからを開いていく――それが、希望です。だから、これは、再組織化を一度したら、共同作業を一度したらそれで終わりということではなくて、あくまでずっと不断に続けるものなんだと思います。自己の存在そのものの組織化、アレンジメントとかアジャンスマン(agencement)とドゥルーズふうに言ってもいいのですが、そういう営みは、それが生まれた瞬間に、逆に、習慣になり、拘束になる。だからこそ、つねに再組織化して、活性化しなくてはならない。
 (106)

     *

 母親だけではなくて、幾人かの複数の「つながり」によって編み上げられ織られた、ちょうど掌のように、落ちてくる生命を受けとめてくれる窪みのようなもの、容器。それが与えられることによって、そのような迎え容れの贈与によって初めて人間はほんとうに誕生することができる。それが整わなければ、誕生に失敗するということだってあるわけです。これは、ひどく当たり前のことかもしれませんが、それが感覚として自分のなかにあることがとても大事です。
 ついでに、註みたいに言っておくなら、これが、感覚としてある、ということが、たとえば最近よく、きわめて人工的な仕方で設定される「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いへの答えだと思いますね。その問いが論理的な問いで、論理的に解答できて、どこかに正解があると考えているうちは、問いそのものに届いていないというか。それは、(end117)無意味な、「ためにする」言語ゲームにとどまっているように思います。そうではない、自分の生命の根源的な無力性が救われたその迎え容れのギフトを感覚として思い出すことだけが、その問いに対する、正解ではなくて、応答[﹅2]なのだと思います。
 (117~118)

     *

 親は、重力に従って落ちてきたこの無力でフラジャイルな存在を、最初に受けとめ、迎え容れてくれた。彼らの迎容の「縁」をめがけて、わたしは落ちてきたのです。そして、そこで差し出された手の「輪」が、わたしがこうして育つことをゆるしてくれた。それは当たり前のことではないのです。そこにはわたしが負うべき負債がある。けっして返すことのできない負債です。そう思えて、初めて親に対して、ある特別の感謝というものが湧き上がってくる。生物学的な親だからなのではないのです。生物学的に血がつながっていようがいまいが、わたしの落下を受けとめてくれた「近さ」、それこそが「親」なのです。
 その意味では、われわれはみんな孤児です。その孤児を受けとめて、迎え容れてくれた人が「親」なのです。だが、同時に、すぐに言っておきたいのですが、だからこそ、われわれは、誰もが同胞である。親もまたしかり。親は最初の、もっとも近い同胞です。そし(end127)てその延長で、過激な言い方をすれば、(僕はそれがなんだかわからないのですが)「魂」というものにとっては、兄弟姉妹しかいない。どうしてもそのような地平へと開かれていかなければならないと思います。
 (127~128)

     *

 この物語の一番重要な、おもしろい問題というのは、「この門は彼のためだけの門であった」ということです。一般的に考えれば、これはおかしい。「法」というものであれば、それは、「彼のためだけ」ではありえない。「わたしのための法」は「法」ではない。「法」(end132)は、どこかで人称性をもたない、普遍的な、あるいは一般的なものであるから「法」なわけですから。しかし田舎からこの男が出てきてこの「法」の前に佇む。すると、彼の人生の最後の瞬間、ほとんど死が訪れてくる瞬間に告げられることこそ、ちょうど死が一般的、普遍的でもあるけれど、それぞれの死はその人だけの死であるのと同様に[﹅3]、この「法の門」は彼のためだけの門であったということなのです。
 (132~133)

     *

 「我思う」なら、少なくともあらゆる論理展開の手前において、それがどんなものかよくわからないのだけど、なにか「我」なるものが確固として[﹅5]存在しているだろう。そこまではいい。だが、その「我」の存在はどういう意味なのか[﹅9]――これには、近代の思考は答えることができない。というより、その問いは、「我思う」の展開のうちにはない。「我思う」はけっして「我」の存在の意味を明らかにすることはできない。
 困りましたね。でも、困りませんね。むしろ「Lucky!」とでも言ったらいいか。なぜなら、ある意味では、それは、われわれの存在は、あらかじめ先立って意味を決定されていない、つまりわれわれは自由である、ということだからです。意味から自由なんです。素(end146)晴らしい。でも、同時に、それは、われわれは「無意味」である、ということと紙一重です。
 (146~147)

     *

 思わず「すくい出す」という言葉を使いましたが、これが決定的なこと。つまり、ここで問題となっている存在の「意味」というのは、なにか言語を使って論理的に、客観的に、第三者的に説明できるようなものではなくて、一人称的に、わたしにおいて、その意味がわたしの存在を照らし出し、存在をまるごと肯定し、そして――叶うことならば――この混沌たる存在をすくう[﹅3]ものでなければならないというわけです。
 これは、逆転です。「意味」の意味が逆転する。なぜなら、これまでの論理では、――(end149)そして論理というのはそういうものなのですが――存在するものがあって、意味がある。そこでは「すくい」は問題にならない。けれども、「すくい出す」というときには、「意味」があって、それが存在をあらしめる[﹅5]。「意味」が存在をすくう。「無意味」から「存在」をすくい出す。つまり、「意味」が存在を存在させる。別な言い方をすれば、存在を存在させるものこそが「意味」であるのでなければならない。
 (149~150)

     *

 特殊なケースとしては、――人類の社会はかつては(今でもありますけれど)そういう原理で貫かれていたのですが――存在しているというだけで、つまり「生まれ」だけで、「意味」が決定されていたこともある。この原理を押し進めればカーストになります。ところが、人類は、近代とともにその原理を、少なくとも表面上は、部分的には、廃棄して、存在[﹅2]ではなく、――ではなんでしょう?――そう、行為[﹅2]において「意味」を承認するとい(end151)う方向へ決定的な舵を切りました。そのことによって、先に述べたように、存在は「意味」から自由になり、われわれはみずからの行為によってその「意味」を証明しなければならなくなった。たいへんですね。誰もが他者からの承認を得るべく行為し、戦わなければならないのだから。社会とは承認を得るための戦場となったと言ってもいい。だが、同時に、それは、社会のなかで承認を得ることに失敗する人々が出てくることを必然化します。いや、戦いに参加できない弱者はどうするのか、という問題も出てくる。
 この承認という欲望・欲求がどのくらい根底的かということは、昨今、ときどき社会を騒がせて戦慄させる、自分とはまったく無関係の人を無差別に殺す事件によく表れていると思います。一般的な観察にすぎませんが、社会のなかでまったく承認されない、存在の「意味」を奪われた若者が、人を殺すという代価を払っても、自分の存在を社会に否応なく承認させるという構図。他人を殺し、自分の社会的な生命が断たれてもいいから、一度は、社会に自分の存在を承認させてみるという暴力です。
 社会が自分の存在を肯定しないのだから、自分も社会、つまり不特定多数の存在を肯定しない、いや、否定する。その否定の力が突出すれば、「殺す」ということになる。「殺す」という究極の行為は、かならず存在の「意味」にかかわっています。多くの場合、そ(end152)れは、存在を肯定されないどころか、否定された人が、その否定を逆転させて相手の存在を奪うという構図をとるのではないでしょうか。
 承認というのは、ある意味では、戦いです。それは、哲学的には、あのヘーゲルが、人間の歴史を見通す哲学を構想したときの最重要の鍵でした。その核心が『精神現象学』のなかに出てくる「主人」と「奴隷」の弁証法ということになるのでしょうが、そこには踏み込まない。ここでは、承認をかけて、人間は戦い、そのことが最終的には、歴史というダイナミズムを産み出すということを見ておけばいいだけです。その戦いが、「殺す」という相手の存在の全否定につながるような戦争状態にならない場合でも、社会はつねに、競争という形でその承認をかけた戦いを導入する、いや、さらに全面化する。すべてが競争という形をとる。個人という次元では、学歴からはじまって、就職、結婚、それが「勝ち組」「負け組」に分かれていくシステム。集団のレベルでも、企業の競争、国家間の競争、すべてがコンペティションになる。
 グローバル時代というのは、簡単に言えば、地球上のすべての存在が「競争」的な関係を生き抜くことを強いられるということを意味しています。しかも、人々は、こうした競争に熱狂するわけでしょう。それが投票という形でも、賞という形でも、レースという形(end153)でも、誰もが勝ち負けに熱狂する。オリンピックでもノーベル賞でもワールドカップでもF1でもダービーでもAKB48でも文化勲章でも、競争ほど人々の胸を熱くすることはない。他人の承認すら、興奮して、それを自分の承認と同一化したりする。
 (151~154)

     *

 (……)人間というのは根本的に、ただ地上の戦いにおいて勝利して他者からの承認を獲得しただけでは満たされることのない、もうひとつ別の次元をもっている(……)。他者からの承認という水平的な関係性を超えたもの、それに対して人間は開かれている。行為とその代償という相互的な関係づけを超えたもの。それは、ともかくほかの言葉がないので、「愛」という言葉で言いましょうか。
 (……)(end156)(……)
 では、「愛」とはなんなのか。わかりません。でも、少なくとも、地上の支配する掟であるさまざまな関係づけ、その相互的な条件づけの関係性が超えられることだと思います。すなわち、条件なしの承認と言ったらいいか。存在が無条件で肯定され、承認されること。迎え容れですが、天から落ちてきたばかりの無垢な赤児を迎え容れるのならともかく、それなりに個性や性格や運命や、さまざまな特異性が顕在化し、しかもみずからを主張し、(end157)表現し、戦おうとしているこの大人の存在を、はたして誰が、無条件で愛せるのか。そんなことは不可能ではないのか。そこには、ある種のパラドックス、あるいはアポリアがあるのかもしれません。このような意味での「愛する」などということが、そう簡単にできると思うほうが間違っているのかもしれない。そうではないでしょうか。もし「愛する」が行為なら、その行為は地上においては、かならずや条件づけられています。その行為を行いながら、しかしそれが条件づけを解除することであるような、無条件の肯定であるようなことがどのようにして可能なのか。
 はっきりしていることは、「愛して!」と言われて、もちろん「make love」なら簡単(?)かもしれませんが、ほんとうに「愛する」ことはできないということ。命令されたところで、もう、アウト。すなわち、「愛する」ということは、ほかの行為のように行為できることではないのです。それは、実は行為ではない。わたしの意志の問題ではないのです。それは、わたしの自由によって決めることができるわけではない。
 「汝の隣人を愛せよ」――言うのは簡単です。でも、誰もできません。せいぜい隣人に「親切にしてあげる」くらいです。そんなもの「愛」ではありません。単なる善行。善行なら行為できます。それは立派なことです。でも、立派だと言われるようでは、もう条件(end158)づけにぴったりはまっています。Aを行為したら、Bが還ってくる。それが地上の掟。条件づけという掟。因果応報、作用反作用――肯定にはつねに影のように否定がつきまとう。肯定と否定が裏表です。
 (156~159)