2019/3/28, Thu.

 一〇時二〇分希少。ここ最近の日々のなかではまずまずといったところか。上階に行くと母親はテーブルに就いていた。ジャージに着替え、洗面所で顔を洗い、台所に入って、フライパンに炒められた菜っ葉とウインナーを皿に取って電子レンジに突っ込み、味噌汁は焜炉で熱する。そうして米をよそって卓へ。母親は、父親の入院関係の書類に署名していた。手術は四月三日、そこから一週間ほど入院するらしい。手術に立ち会うのは面倒臭いが、どうせ暇なのでまあ行ってもいい。入院中も一日くらいは見舞いに行くのも良いだろう。その時には、暇つぶしのために何か漫画でも持っていってあげようか――などとそんなことを考えながらものを食べた。そうして抗鬱薬ほかを服用し、皿を洗って下階へ。時刻は一一時頃だったはずだ。ceroの三曲を流しながら前日の記録をつけ、この日の記事も作成すると、コンピューターの速度を回復させるために一旦再起動した。そうしてだらだらとした時間を過ごしたあと、正午に至って日記を書きはじめた。流したのはFISHMANS『Oh! Mountain』
 前日の記事をブログに投稿すると、一二時四〇分からベッドに移って読書を始めた。ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』である。途中、鶯の鳴き声が窓の外から聞こえた。また、何かの器具で土を搔いて草を取っているらしい音も窓外から伝わってきたので、母親が草取りをしているのかと思いきや、これは隣のTさんが頼んだ男性が発する音だった。空は曇り、今日は散歩に出る気にもならない。それなので思う存分本を読もうと思ったところが、二時一五分に達して、何だか疲れが湧いたようで――朝もゆっくり眠って、そののちもほとんど何もしていないのに疲れるというのが不思議なところだが――横になっているうちに意識を失った。そのまま断続的に、意識を取り戻しつつも四時一〇分まで休んで起き上がった。そうしてふたたび読書。二七頁には、「低劣な著作家の大多数は、新刊書以外は読もうとしない民衆の愚かさだけをたよりに生きているにすぎない」という文言がある。何故、専ら新刊書しか読まない者は「愚か」なのか? それは、それらの新刊書は未だ時の試練を経ておらず、価値が定まっていないものだからだろう。勿論、新刊書のなかにものちのちの「古典」となるべき卓抜した著作はあるだろう。しかし大半は凡百のもので、時代を越えてあとに残ることはないものばかりである。何よりも、既に幾星霜を耐え抜いて価値が証明された「古典」を読まずしてどうするのか、ということだろう。とは言え、読書好きの身からすると、次々と出版されて目まぐるしく書店に並ぶ色とりどりの新刊のなかにも、魅力的な、興味を惹かれる本はたくさんあるもので、と言い訳をしたくなる。また、現在/現代の、同時代の作品をこそ読んでいくべきだという考え方もあり得るだろう。いずれにせよ大事なのは、無数の出版物の氾濫に溺れないように、楔となるような自分の「古典」を見つけていくことだと、そんな穏当なところに落としたい。
 また、ショーペンハウアーは独特の具体的な比喩を使って、なかなか鋭く痛烈な罵倒を放ってみせる。例えば、「そのへんの藁にも似たもろい頭脳の所有者たち」(59)とか、「中古のガタガタ水車式にとめどなくしゃべりちらして、客をつんぼにしかねない浮世床的饒舌」(64)などといった調子である。その痛罵が最高潮に達するのが、四六頁から五四頁に掛けて長々と繰り広げられている「匿名批評家」への非難である。ショーペンハウアーは署名をせずに無記名の陰に隠れながら他人を批判する文筆家が大嫌いなようで、それは詐欺の輩、卑しい存在だと断じており、彼らが文章を書く際には、「不肖この私めは」「臆病狡猾なこの私は」「卑しき素浪人の私は」などといった一人称の言い方を使うべきだなどと主張している。鋭い舌鋒のその執拗さにはほとんど憎しみのようなものすら感じられて、翻って滑稽に思われるくらいだ。
 五時二〇分に至ったところで読書を切り上げ、上階に行った。ほぼ同時に電話が鳴って、母親が出て玄関に持っていく一方こちらは風呂場に行って浴槽を洗うのだが、漏れ聞こえてくる母親の声から察するに、下のMさんが亡くなったらしい。それでこちらが風呂桶のなかに入って壁を擦っているあいだに通話を終えた母親は、ちょっと行ってくるねと言って外出していった。残ったこちらは食事の支度をすることにして台所に入り、冷蔵庫を覗くと茄子が一本残っており、それに先日買ってきた椎茸があったので、これらは味噌汁にすることにした。ほか、ほうれん草もあったのでこれを玉ねぎと混ぜ、ウインナーと一緒に炒めれば良かろうというわけで支度に取り掛かった。まず茄子を細く切り分ける。椎茸も切って小鍋に沸いた湯に投入し、一方でフライパンにも湯を沸かして、いくつかに切り分けたほうれん草を投入、茹でているあいだに玉ねぎを切った。そうしてほうれん草を笊に茹でこぼすと、油を引いて玉ねぎを炒めはじめ、まもなくウインナーも計一二本投入して、その上からほうれん草も加えた。かたわら、汁物は茄子がもうよく煮えているようだったので、チューブ式の味噌を押し出して溶かす。それからしばらく炒めて完成、時刻は五時四五分頃だった。母親の帰ってこないうちにもう食べてしまおうかと思いながらも一旦下階に下りようとすると、ちょうど彼女が帰ってきたので、どこからの電話だったのかと訊くと、M先生とかいう名を出していたが、こちらはこの人のことを定かに知らない。ともあれ、Mさんが亡くなったので至急回覧板を回さなければならず、自治会長である我が家に連絡が来たという経緯だと思われる。息子か娘かが来ている先方の宅に行ってきた母親は、何か菓子の小袋を貰ってきていた。亡くなったのはちょうど今日だと言う。死因は不明。こちらはちょっと話を聞くと自室に下りて、日記を書きはじめてここまで綴って六時半前である。
 やや早いが、食事に行った。米にウインナーの炒め物、茄子の味噌汁に、何となくカップカレーうどんが食べたい気がしたので、「どん兵衛」を戸棚から取り出して湯を注いだ(しかしこれは、カップ麺に相応しく大した味ではなかった)。バターと醤油で味付けをした炒め物をおかずに白米を頬張り、カレーうどんのつゆを飲みながら汗を肌に滲ませる。食事を終えると薬を服用し、台所で皿を洗って下階に下りた。そこから、FISHMANS『ORANGE』を背景に流しながらだらだら。八時前になって入浴へ。湯のなかに浸かりながら、前日に「記憶」記事の読み返しで読んだ蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』の文言――テクストを読むことはどこかしら生を生きることに似ているという指摘周辺の――を思い返し、出てくると畳んだジャージをソファに置いて下階に戻る。そうして八時半過ぎから読書、川上稔『境界線上のホライゾンⅢ(中)』をまもなく読了し、下巻にも入って、一〇時一五分あたりまで読み進めた。それからショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』をふたたび。一二八頁には、読まれたものは「反芻」され、「熟慮」されなければならないとの真っ当な主張が見られる。「熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる」のだ。この「反芻」の試みとして自分が行っているのが、書抜き及びそれに付随した「記憶」記事音読の実践である。本を読んでいて良いと思った部分や興味を惹かれた箇所を書き抜くことはもう長年の習慣となっているが、そうして写した記述のなかからさらに頭に深く染みつかせたいと思った文章を、「記憶」と題した記事にまとめて折に触れて読み返しているのだ。「反芻」の試みはそれで良いとして、それでは「熟慮」のほうは? まずもって、どのような箇所を熟慮すべきなのか――それは勿論、自らが「関心」を持った箇所を、ということになるだろう。この本の冒頭近く、「思索」の篇のなかでショーペンハウアーも、思考というものは「風にあやつられる火のように」、「関心」によってこそ燃え上がると述べていた。自分の場合は「関心」を惹いた箇所というのは基本的に書き抜かれる箇所のことである。それでは次に、我々はどのようにして「熟慮」すれば良いのか、あるいは「熟慮」するとはどういったことなのか? それは、該当箇所を読みながら、そこから思考が広がって行かないか、何か別の事柄に繋がる道筋が見えてはこないか精査することではないだろうか。言わば、生い茂った草のあいだに隠れている間道がないかどうか探索するようなものだ。ふと気に留まった一文が、時には一語さえもが触発源になるだろう――たった一語すらにも反応するということこそが、テクストを読むということではないだろうか? そして、多くの場合、隠れた道筋への入り口は問いの形を取るのではないか。と言うのも、思考とは一般に、何らかの問いを抱き、それに対する答えを求めてその周囲を経巡ることだと考えられるからだ。そしてその場合、結果として何らかの答えに到達できるかどうかはおそらくさほど重要なことではない。答えを探して問いの周りをぐるぐると回る運動、そのうろつき[﹅4]の過程こそが思考そのものであるからだ。
 一三三から一三四頁では、「読まずにすます」技術の重要性が語られる。「多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである」。ショーペンハウアーの考えでは、ベストセラーは読むに値しない本なのだ。確かに、書店の入り口、踏み入った誰の目にもつく場所で平積みにされ、あるいは棚に立てかけられ、表紙を見せて置かれている本のことを考えてみると、それが一年後に読み返す価値があるか、一〇年後も残っているかどうか疑わしくなってくるのではないだろうか。ショーペンハウアーが言うには、「愚者のために書く執筆者」は、「つねに多数の読者に迎えられる」のだ。あまりに売れすぎているものには警戒が必要なのかもしれない。それは、時の試練を耐え抜いて後代にまで残る普遍性を持つがための人気と言うよりは、誰にでも受け入れられるように口当たりよく薄められているが故の取りつきやすさかもしれないのだ。誰にでも受け入れられるものほど貧しいものはないのではないだろうか? カフカの言葉を思い出そう――「僕は、およそ自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている」(吉田仙太郎訳『決定版カフカ全集9 手紙 1902―1924』新潮社、1992年、25)
 一一時一五分まで読んでから、ベッドを離れ、FISHMANS『KING MASTER GEORGE』をヘッドフォンで聞きつつ日記を書きはじめた。そうしてここまで綴って日付も変わる直前である。
 日記を書きながら上に記した感想をTwitterに投稿し、書き終わったあとしばらく他人のツイートも眺めて、零時半前からふたたび読書に入った。ショウペンハウエル/斎藤忍随訳『読書について 他二篇』は読了。そうしてついに、加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』を読みはじめた。「大西洋上に低気圧があった」の一文から始まる冒頭、気象の叙述を過ぎたあと、視点はウィーン市街に焦点を絞り、賑やかな街の「騒音」を「針金の束」に喩える稠密な描写が繰り広げられる。「千百の音響」がひしめき合うその街のざわめきのなかから、外見や言動も上品で、「明らかに特権階級の一員」と見られる二人の男女が現れ通りを闊歩してくるのだが、「彼らの名前はアルンハイムとエルメリンダ・トゥッチだとすれば、それは当たっていない」(10)と二人は紹介される。ここで思わず、当たっていないのかよ! と笑ってしまった。この小説作品に書き込まれている最初の固有名詞が主人公ウルリヒのそれではなくこの二つであるにもかかわらず、この場面ではそれらの名前は誰とも知れずただ導入されるだけで、いま現前している二人の男女を指示することなくどことも知れぬ領域へと浮遊していく。彼らはアルンハイム及びエルメリンダ・トゥッチ「でない」という否定性によって導入される謎めいた二重の匿名性――通りを歩く二人がどこの誰だか皆目わからないという匿名性と、固有名詞によって指示される二人も未だ作品中に姿を現してはおらず、その細かな素性も知られないという匿名性――が生み出す、いま現前している人物たちとそこに書き込まれた名前とのあいだのずれ=亀裂、そのなかからこの小説世界は立ち上がろうとしているのだ。
 一時四〇分まで読んで就寝。二段組でもあり、記述も密でなかなか読み進まない。これを六巻分読むのは骨が折れる読書になりそうだ。


・作文
 11:58 - 12:26 = 28分
 17:49 - 18:22 = 33分
 23:17 - 23:54 = 37分
 計: 1時間38分

・読書
 12:40 - 14:15 = 1時間35分
 16:10 - 17:20 = 1時間10分
 20:34 - 23:15 = 2時間41分
 24:24 - 25:41 = 1時間17分
 計: 6時間43分

・睡眠
 2:15 - 10:20 = 8時間5分

・音楽