七時半頃に一度意識を取り戻して――その前にも覚めていたと思うが――、毎日このくらいの時間に起きられれば丁度良いなと思っていたところが、起床に至らないままにふたたび睡眠に入って、寝床に光の射し込む一〇時過ぎになってようやく身体を起こした。昨夜は何時から意識を失っていたのかわからないので、睡眠時間もわからないが、二時四〇分からとすると七時間半といったところだ。上階に行き、台所に入って冷蔵庫から前夜の残り物である茄子と鶏肉の炒め物を取り出し、電子レンジに突っ込んだ。そのほか米をよそり、同じく前夜から残った汁物――小松菜とエノキダケとなめこの味噌汁――も温めて、卓に就く。新聞をめくって記事の見出しを瞥見しながらものを食い、抗鬱剤ほかを服用すると、皿を洗った。両親はコンビニや自治会館に出かけるとのことだった。こちらは食器を洗うと両親を見送ってから下階に戻り、コンピューターを起動させた。LINEを立ち上げるのは、翌日のプラネタリウム鑑賞会について、待ち合わせの話し合いを始めたとTからメールが入っていたからだ。見ると、彼女が多摩科学六都館へのアクセスと、翌日のプログラムを載せていた。それで、どこで何時に待ち合わせるかと彼女は問うているのだが、誰か発言するかとしばらく待っていたものの誰も発言しそうにないので、花小金井駅待ち合わせで良いのでは、とこちらが一番に返答をした。現地から一番近いのがその駅らしいのだ。バスが出ているのだが、こちらとしては、一八分間掛かるとは書かれているものの、駅から歩いて現場まで行きたかった。
一方で、この日もFISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなか、一一時直前から日記を書きはじめていた。Twitterで昨夜リプライを送ってきてくれていたYさんとやり取りを交わしながらここまで綴って、一一時半である。
前日の記事をブログに投稿し、noteの方にも投稿しておいてのち、正午直前からベッドに移って山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』を読みはじめた。「おわりに」の冒頭、三六一頁から三六五頁に掛けて、本書で語られてきた一連の「革命」による唯一神教成立の経緯が改めて短く要約されている。まず第一に、前一二〇〇年頃、パレスチナに「イスラエル」と呼ばれる民族共同体が成立する。彼らは初めは「エル」という神を崇拝していたが、それが外から伝わってきた「ヤハウェ」と習合され、ヤハウェ崇拝の下に民族的アイデンティティが創出・強化されていく。これが言わば第一の革命に当たるが、この段階ではまだ他民族の神々の存在も否定されず、しかし「イスラエルの神」はヤハウェのみだという民族神的拝一神教の形態が取られていた。
第二の革命は前九世紀から八世紀に掛けてである。この時期にはバアルというフェニキア人の神への崇敬が強まったり、アッシリアの国家祭儀に影響されて宗教混淆的な状況が生まれたりと、「信仰の危機」とでも言うべき情勢が生じていた。それに対して前八世紀の文書預言者たちは、そのような「不信仰」への報復として異邦人勢力を道具に用いてイスラエル民族を処罰する世界神としてのヤハウェという観念を生み出した。ここには従来の民族神的拝一神教の枠を越えて、普遍主義的な神観念へと向かっていこうとする動勢が見て取れる。
前七世紀後半に至ると、ヨシヤ王の宗教改革が行われる。地方聖所を廃止し、祭儀の場をエルサレムに集中させることで、異教的要素を排除し、ヤハウェへの排他的崇拝を強化したのだ。これが第三の革命に当たるが、しかしこの宗教改革はまもなく頓挫し、それに留まらずユダ王国自体が滅ぼされてバビロン捕囚が起こってしまう。ここにおいて未曾有の規模で、再度の信仰の危機が出来する。捕囚時代の預言者たちは、このような苦境をヤハウェの無力だと取られかねない可能性に対して、民のあいだに篤い信仰心を回復させるような解釈を編み出さなければならなかった。彼らはこの破局を、不信仰に走ったイスラエル民族の「罪」の結果であると意味づけしたのだ。ヤハウェは無力な存在なのではまったくなく、むしろ反対に全能であり、他民族をも処罰の道具として操ることのできる力を持っているのだ。
そうして第二イザヤによる唯一神観の宣言が最後の革命に当たる。ヤハウェ以外の神は一切存在しないということが明言されたのだ。それまでの拝一神教的枠組みを超え出て、ほかの神々の存在を原理的に否定するこのような思考は、国家の滅亡と民族捕囚という根源的な危機状況における究極のパラダイム転換だった。それは言わば、絶望の淵に立たされた捕囚の民が一発逆転的に編み出した起死回生の一策だったのだ。
一時間ほど読んだところで最後まで読了し、それから頁を戻して手帳に気になったところをメモしていると、天井が鳴った。食事を食べないのかという知らせだろう。ちょうどメモも終わるところだったので、読書時間を記録しておいて部屋を抜け、上階に上がると、テーブルの上には竹笊に入ったうどんと筍などの天麩羅が置かれていた。筍は家の傍の林から採ったものである。台所から葱や鶏肉の入ったつゆを椀によそってきて、天麩羅に醤油を垂らしておかずにしながらうどんを啜る。そのほか、セブン・イレブンのパックに入った鶏の手羽中も三本頂いた。テレビで掛かっていたのは『メレンゲの気持ち』で、母親がこの番組が好きなので土曜日は基本的に欠かさず見ているのだった。土屋神葉[しんば]という、土屋太鳳の弟で声優をやっているという人が出演していたが、特段の関心は惹かれない。食事を終えると使った食器を洗い、新しくなった食器乾燥機に収めておいて、スイッチを押した。この新品の乾燥機は以前のもののようにつまみをひねって乾燥時間を調節するのではなくて、二五分か五〇分の二コースしか選べないようになっているのが使いにくいところである。
それから母親の頼みを聞き入れて、駐車場に面した外壁の角や玄関外の脇に取り付けられている電灯の電池を取り替えた。そうして下階に戻り、前夜に歯磨きをしなかったので、出かける前に歯を磨いた。それからFISHMANS "忘れちゃうひととき"を流し、部屋を満たす音楽のなかで旋律を口ずさみながら服を着替えた。白シャツにベージュのズボン、上は胡桃ボタンのブルゾンを羽織る。それでコンピューターをシャットダウンしてマウスとともにリュックサックに入れ、その他の荷物もまとめて上階に行った。出発しようとしたところで母親が風呂は洗ったかと訊くのに洗っていないことを思い出して、リュックサックを下ろして浴室に入った。手摺りを掴んで体重を預けながら前屈みに姿勢を曲げてブラシを操る。そうして洗い終わって出てくると、今度は洗濯物も入れておくかということでベランダに続くガラス戸を開けた。日向ぼっこというわけか、父親が洗濯物の向こうに座って本をひらいていた。吊るされたものを取り込んでいき、タオルや寝間着やジャージを畳んでおくと、あとは母親に任せようというわけで、そのように声を掛けておいて出発した。午後二時だった。
端から端まで雲の一滴もなく青さが渡っているなかに、月がうっすらと、上部のみ露出した半月の形で現れていた。鳥の声がぴちぴちと落ちる木の間の坂を上って行き、平らな道に出ると、鶯が林の方で、ふくよかに響く鳴き声を天に向けて放つ。街道に出る頃には肩口に温もりが溜まって暑いくらいで、腕に脚にと汗の感触も滲んでくる。そろそろ燕が通りの上を飛び出す頃だなと、宙に視線をやりながら歩いて行くと、小公園の桜の木が微風に触れられてひらひらと花びらを零していた。枝先からふっと力なく離れる花弁の、宙に浮かぶシャボン玉の泡のようでもあり、一つの花の終幕を迎えるさまというよりは、新たな一個の生命がそこから生まれ出ているようでもあった。
裏通りに入って、背を変わらず陽に照らされながら歩いて行く。緑の新しくなってきた丘の上方には僅かに一箇所、桜の煙るような薄桃色が差し込まれている。土曜日の昼下がりの静けさのなかに、線路の向こうの林が風に鳴らされる葉擦れの音が差し入ってきて、そのさらに向こうからふたたび鶯の鳴きも上がった。白猫に出会いたいと思っていると、果たして、家の前の車の脇で日向ぼっこをしている姿があったので、近づいていってしゃがみこみ、先日と同様に頭や腹や体を撫ででやった。猫は時折りこちらの手指に顔を寄せてきて、湿った鼻の感触が指に伝わる。しばらく撫で回して戯れて、別れてふたたび歩き出した。
梅岩寺の枝垂れ桜が風を受けて、下に向かって円を描くように緩慢に、前後左右に揺らいでいた。駅に着くと改札をくぐり、ホームに上がって二番線の立川行きに乗り込む。今日は三号車の三人掛けである。リュックサックを背負ったままに浅く腰掛けて、手帳を取り出してメモしてある事柄を復習した。その頁の上に、扉から斜めに入ってくる光が差し掛かって明るくなり、左を向けば通路の上にも車両の端まで複数の日向が刳り貫かれている。じきに河辺に着いたので降車し、大口開けて欠伸を漏らしながらエスカレーターを上った。改札を抜け、駅舎を出て、歩廊を渡って図書館に入館、新着のCDを見に行くとJohn Scofieldの新作があって、メンバーを見ればGerald ClaytonにVicente ArcherにBill Stewartと大層な面子でこれは是非とも聞いてみたいが、そう急いで借りなくても良かろう。それからジャズの棚もちょっと見分しておいてから上階に上がり、新着図書の棚の前には何人も人がいたので後回しとして、政治学の棚に寄って神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』を手に取った。何となく以前から気になっている著作で、今日借りてしまおうかと思っていたのだ。しかし今日の目当てはほかにもある。一旦書架のあいだを抜けて大窓際の席を一つ取り、リュックサックを置いておいてから宗教の区画に向かった。それで菊地章太『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム――一神教の連環を解く』を発見する。山我哲雄『一神教の起源』を読書会のために読んだわけだが、さらなる理解の増進を図って同系統の主題のこの本も読書会までに読んでみようと思っていたのだ。ちくま新書のその本を手に取り、政治哲学の区画に戻って、神崎繁『内乱の政治哲学』もやはり借りることにした。さらには、同じように以前から興味を惹かれているハンナ・アーレント『政治とは何か』も借りることを決断してしまい、こうしてムージル『特性のない男』の読了がどんどん遠くなってしまうわけだ。
それで席に戻るとコンピューターを取り出し、『内乱の政治哲学』の冒頭をちょっとだけ読んでから、日記を書き出したのが三時二〇分だった。どうもうまく文章が流れず、何だかぎこちないような書きぶりになってしまって、時間も一時間以上掛かって現在四時半直前を迎えている。これから『一神教の起源』を書き抜きし、新着図書を確認し、卵を買って――母親に頼まれていたのだ――帰宅する。
先に席を立って新着図書を確認しに行ったが、それほど目新しいものはなかったように思う。ちくま学芸文庫の『資治通鑑』があった。そのほか、アーサー・ウェイリー版の『源氏物語』の翻訳第一巻が入っていた。これは平凡社ライブラリーの方にも別の訳者で翻訳が入っているのだが、どちらが良いのだろうか。堀口大學訳のボードレール『悪の華』もあった。そのほかは覚えていない。席に戻ってくると、山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』の書抜きを始めた。手もとにある本のなかでは一番大きかったハンナ・アーレント『政治とは何か』で頁を押さえてひらいたままにしながら打鍵を進める。出エジプトの元となった出来事が現実にあったとしても、それがエジプト側の記録にも残らないほどに小規模の、ささやかなものだったという歴史学的推定は、やはりユダヤ教徒の立場からすると衝撃的な事実ではないだろうか。打鍵は一時間強に及んだ。五時四五分頃になると今日はこのくらいにしておくかというわけで、コンピューターをシャットダウンし、荷物をまとめて席を立ち、途中で脱いでいたブルゾンを身につけた。
便所に寄って排尿してから、洗った手を拭きながら室を出て、そのまま階段を下って出口に向かった。退館し、歩廊を渡って向かいの河辺TOKYUに入る。フロアの奥に進んで行き、灰色の籠を取って野菜の区画に踏み入ると、最初に胡瓜を籠に入れた。その次に茄子を二袋籠に加え、手近に置かれていた甘辛いソースに絡めた鶏の胸肉のパックもおかずにしようというわけで手もとに保持する。ほか、頼まれていた卵やヨーグルト、ポテトチップスに冷凍の唐揚げなど確保してから会計に行った。列に並んでいる時、リュックサックを下ろして財布を取り出すついでに携帯を確認すると母親からメールが入っていて、卵は買ったとあったのだが、今更列を離れて戻しに行くのも面倒臭いので買ってしまうことにしてそのままその場に留まり続けた。会計は一八八四円。ありがとうございますと店員の顔を正面から見ながら礼を言い、整理台に移ってビニール袋に品物を収めると、右手に提げて出口に向かった。
歩廊を歩いていると駅のホームに青梅行きが来ているのが見えるが、間に合う距離ではない。発車するのを見送り、歩廊を進みながら、薄青い空の宙空に、あれは燕なのだろうか何匹もの鳥が鳴き声を降らせながら旋回・滑空しているのが見えた。今しがた発った青梅行きから降りて改札を抜けてくる人々のなか、駅舎に入って掲示板の前に立つ。先ほど出たのは六時一〇分発、その次は二〇分発で、これが都合良く奥多摩行きへの接続電車だった。改札をくぐり、いつもならエスカレーターを下りてホームの先の方に行くところを、右折して階段を下って四号車の位置、ホームのなかほどに立ち尽くした。そうして手帳を取り出し、電車を待ちながらメモしてある事柄を読み返して行く。果たして燕なのかそれともほかの鳥なのか、相変わらず駅舎の周りを盛んに飛び交う集団があり、屋根の端からその姿が時折り覗いて鳴き声も姦しく降っていた。じきに電車がやって来たので乗り込み、扉際に立って足もとにビニール袋を置いてしまう。揺られているあいだは引き続き手帳を眺め、青梅に着くとほかの人が出ていくのを待ってから降りて向かいの電車に乗り換えた。最後尾の扉の前に立ち、同じように手帳に目を落としながら発車及び到着を待つ。最寄り駅に着くと駅舎を抜けて、冷めた青さの空を背景に桜の木を見上げたが、既に光の絶えたあとで桜の白さも定かならず、そうでなくてももう大方散ってしまったようだった。横断歩道を渡って坂道に入り下って行くと、日中風がたくさん吹いたのだろう、足もとに木屑やら枝やら激しく散らばっていて、それを見下ろしながら歩いているとそのなかに、どこから飛んできたのか、桜の花びらが白く点々と混ざっているのに気がついた。途切れるまでに結構な歩数があった。坂を抜けて通りに出ると、小公園の桜の木が今日も電灯の光を浴びて白く咲き静まっているその下、市議会選挙の看板の、まだ候補者のポスターが一つも貼られていないその前に、枝から離れたものがたくさん散らばっていた。向かい風を浴びながら家路を辿る。
帰宅すると台所に入って買ってきたものを冷蔵庫に収め、下階に下って自室に帰った。コンピューターを机上に据えて立ち上げるとともに服を脱ぎ、ジャージに着替える。LINEを確認すると明日は現地集合ということになっていたので、自分は花小金井駅から歩いて行くつもりだと表明しておいた。そうして食事に上がる。メニューは米・天麩羅粉の余りを使ったお好み焼きめいた料理・水菜や大根のサラダ・父親の作った野菜炒め・こちらの買ってきた鶏の胸肉などである。喉が渇いていたのでジュースを飲むかというわけで、オレンジジュースをコップに注いだ。そうして食事を食べるのだが、食事中のことというのはどうにも書きづらい、と言うか書くことがない。父親と母親がどのような動きをしていたのか、どういった会話が交わされていたのかよくも覚えていない(別段大した話題はないから余計に書きづらいのだ)。ともかくも食事を終えて薬を飲むと台所に行って食器を洗った、とこうしていつもの流れになってしまうのがつまらず、たまにはもう少し詳しいような事柄も書いてみたいものだ。
入浴した。入浴中というのも動きがなくて、あまり書くことがない時間だ。上がって来るとすぐに階段を下りて自室に戻り、明日のために花小金井駅から多摩科学六都館までの道を確認した。グーグル・マップを活用する。地図で経路を確認したあと、念を入れてストリート・ビューまでモニターに映し出させて、画像とともに実際の道順を推移して行き、手帳に道のりをメモしておいた。これで明日はどうにかなるだろう。待ち合わせは一二時半に現地となって結構早い。青梅発一〇時五四分だったかの電車に乗ろうと思うが、そうすると一〇時半前には家を出なければならず、日記を書いたりする時間を考えると八時には起きたいところだ。七時に起床することを目指してアラームを掛けておこうと思う。
その後、買ってきたポテトチップスを貪り食いながらだらだらと過ごして、一〇時過ぎからこの日記を記しはじめて現在一〇時四五分。BGMはAntonio Sanchez『Migration』。時間も時間なのでヘッドフォンで聞いている。今日は「記憶」記事を読むことが出来なかった! やはり昼間のうちに読んでしまわなくては駄目だ。
そうして読書。まず、川上稔『境界線上のホライゾンⅣ(中)』を新しく読み出す。戦闘シーンは相変わらずイメージがしにくいので細かく読まずに結構読み飛ばしてしまう。政治交渉シーンの方が面白いような気がする。一時間ほど読んで日付が替わると、菊地章太(「しょうた」ではなくて「のりたか」と読むらしい)『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム――一神教の連環を解く』をこれも新しく読み出した。簡潔な語り口だが、今のところは山我哲雄『一神教の起源』の方が面白かったなという感じ。手帳にメモしようと思う事柄があまり見つからない。これを午前一時まで読み進めて、就床した。
・作文
10:57 - 11:29 = 32分
15:21 - 16:27 = 1時間6分
22:08 - 22:46 = 38分
計: 2時間16分
・読書
11:55 - 12:57 = 1時間2分
16:37 - 17:46 = 1時間9分
22:51 - 25:00 = 2時間9分
計: 4時間20分
- 山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』: 351 - 376(読了)
- 山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』筑摩選書、二〇一三年、書抜き
- 川上稔『境界線上のホライゾンⅣ(中)』: 20 - 146
- 菊地章太『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム――一神教の連環を解く』: 9 - 26
・睡眠
? - 10:10 = ?
・音楽
- FISHMANS『Oh! Mountain』
- Antonio Sanchez『Three Times Three』
- Antonio Sanchez『Migration』