2019/4/17, Wed.

 一〇時前起床。Yさん(叔母)とI.Y子さん(大叔母)を伴って墓参りに行くという日で、一一時に青梅駅で待ち合わせとのことだったが、何とか間に合うことが出来そうだった。上階へ。前夜の鯖が残っていたが、それには食指が動かなかったので、卵とハムを焼くことにした。フライパンに油を引き、ハムを四枚敷いた上から卵を二つ割り落として加熱したのだが、古くなってきているフライパンのせいかそれともこちらの腕の問題か、卵焼きの底がフライパンに貼りつき気味になってしまって、フライパンから丼によそった米の上に取る時にフライパンの方に白身が一部残るような形になってしまった。加えて、フライパンの下面を気づかないうちに丼の米に触れさせてしまい、そこに米粒がたくさんくっついて汚れる仕儀にもなってしまった。それでもともかく卵焼き丼を完成させて卓に運び、黄身が崩れて黄色い液体が米に染みているその上から醤油を掛けてぐちゃぐちゃと搔き回し、貪った。そうして食器を洗っておき、下階に戻ってコンピューターを点け、昨夜見なかったLINEのやり取りを閲覧する。五月に調布のバラ園を見に行こうとのT田発案の誘いで、その日程決めのやり取りで、それで言えば九時頃にそのT田から携帯の方にメールも来ていて、一九日か二六日ではどうかと言うものだから自分はどちらでも良いと返していたのだった。それでLINEの方でも、こちらの用事がなければ一九日にしようとの結論になっていたので、一九日了解、と送っておいた。そうしてFISHMANS『Oh! Mountain』を流し出し――あるいは既に、LINEを見る前に流しはじめていたかもしれないが――、市議会議員選挙の情報を求めてインターネットを検索した。青梅市のホームページに選挙公報のPDFファイルを見つけたのでURLを日記にメモしておき、そうして服を着替える。臙脂色のシャツに鮮やかに色濃い褐色のズボン、上着は前日に買ったBANANA REPUBLICのジャケットを早速着用することにして、タグを切って外した。リュックサックにコンピューターなどを用意して――墓参りのあとに図書館に寄るつもりだったのだ――その格好で上に行くとしかし、そのジャケットに茶色では色の組み合わせが合っていないと母親は言う。鏡に映して見てみるとそう変でもなかったが、確かにちょっとぶつかっているような気がしないでもなく、ここは忠告を聞き入れておくかというわけで下階に戻り、前日も履いたグレー・ブルーのズボンに履き替えた。そうして上階に戻ると、風呂を洗ってしまえばと母親が言うのでジャケットを脱いでソファに置き、浴室に行って、結構湯が残っていて勿体なかったが栓を抜いてすべて流してしまい、浴槽をブラシで擦り回した。出てくると時刻は一〇時四五分過ぎ、出発である。リュックサックを負い、Bill Evans Trio『Waltz For Debby』のディスクを片手に持って玄関を抜けた。向かいの家の裏の林のなかから何やら声と、がさがさと草を分ける音がしていて、誰かがおそらく二人連れで森のなかに入っているようだった。筍を取っていたのかもしれない。筍かな、と出てきた母親に言うと、知り合いでもなかろうに、そして相手に聞こえないだろうに母親は、車に乗り際、おはようございますと小さく呟いて頭を動かしていた。
 乗車。Bill Evans Trio『Waltz For Debby』を流しはじめる。"My Foolish Heart"から始まる音源を聞くのは久しぶりだが、車の走行音がうるさくて大して聞こえやしない。それでもPaul Motianのシズルシンバルの音を耳に入れながら青梅駅に着くのを待った。駅前ロータリーに着くと既に二人は待っていた。車のなかから二人に向けてお辞儀をし、寄ってきて扉を開けるとこんにちはと挨拶した。Y子さんは笑って、Sくんもしばらくです、と声を掛けてきた。そうして喋りながら――こちらは無論黙っている――寺へ。途中、こちらの知らなかった話として、Mちゃん――祖父の妹――が老人ホームに入ったのだという情報があった。寺院着。枝垂れた桜の木の下に車を止め、寺の人に挨拶をするという母親を残して三人で墓地へ。水場に入るとYさんが率先して水を汲み出し――桶を置いて、手押しポンプを使った井戸で汲むのだ――こちらは箒二本と塵取りを取った。水は最初、黒く濁っていたが、何度か水を捨てながら汲んでいると、多少ましになって、使えるくらいの透明度になった。それで我が家の墓所へ。着くと早速こちらは箒を使って辺りに散らばっている落葉や細かな草木の屑を取る。墓所には花が供えられていて、それがまだ比較的新しく、枯れきらず姿形を残しているもので、おそらく一週間か一〇日くらいしか経っていないように思われた。我が家で前回やって来たのは多分彼岸頃の話で、さすがにその時の花はこれほど残っていないはずだ。そうすると、誰かほかに、畑中のK.Hさんあたりが――母方の祖母の弟だ――来てくれたのかもしれない。Y子さんが率先して花を取って捨て、花受けはYさんがこれも率先して洗いに行く。その後Y子さんはまた、雑巾を使って墓石を拭いたりもして――このあたり本来自分が率先してやるべきだったと思うのだが――Yさんも誰も何も言わずとも墓所墓所のあいだの隅で火を点けて皆の分の線香を用意してくれる。そのあいだ我が母親は背後に立ち尽くして喋っているばかりで、時折り申し訳程度に箒を取って動かすのみで、このあたり実家にいたまま婿養子に来てもらって甘やかされてきた長女と、嫁に行って姑に揉まれて過ごしてきた組との違いがやはり見えるなと、自分のことは棚に上げて観察した。そうしてそれぞれ線香を上げ、手を合わせて拝んで、少々雑談を交わしてから墓所をあとにした。こちらはゴミの入った塵取りと母親の持ってきた道具の入った袋を持つ。水場へ戻り、ゴミを分別して捨て場に廃棄し、それから皆で井戸を使って手を洗った。Yさんがここでも率先してポンプを押してくれ、そのYさんが手を洗う時にはこちらがポンプを押した。そうして墓地を出ると、鯉のいる池に寄って、母親が持ってきたパンを皆で分けて、ひととき鯉に餌をやった。そうしながらまた話をする。こちらが風呂洗い、アイロン掛け、食事作りなどの家事を、毎日ではなくとも受け持っていることに対して、Y子さんはそれは偉いねえといった反応を見せる。こうして母親にくっついて墓参りに出てくる、それだけでも偉いと。もう二九の良い歳の青年であって、偉いと褒められるような年頃でもないのだが、まあY子さんくらいの歳からしてみればこちらなどまだまだひよっ子の若造ではあるだろう。最近では男の人もそういう風に、家事とか子育てとかやらなければ務まらない、それに替わって女の人のほうがどんと構えちゃって、最近では男女逆転しているみたいだねえとY子さんは言う。実際のところ嫁も子供もいないこちらにはどうだかよく知らないが、「イクメン」などという言葉も生まれて、男も妻にばかり任せておらずに子育てを受け持たなければ回っていかない世になりつつはあるのだろう。
 しばらくしてからそれでは行くかとなって、しかしどこへ食べに行くかとなって、こちらは先ほど食べたばかりで腹も減っていないし、ここでお暇して図書館に行こうかと思っていたのだが、YさんもY子さんもせっかくだから来なよと誘ってくれたので、まあたまにはご一緒して話を聞かせてもらうかということでこちらも同道することにした。それで、小作の「なか安」という寿司などが食える店に行くことになった。それで車に乗って発車。道中何を話していたのかは覚えていない。「なか安」に着くと母親が、お前先に降りて四人って言ってきてと言うのでこちらは先に降車し、店に入って、四人なんですけれどと告げた。座敷とテーブルとあるがと言われた。迷っていると、テーブルはこんな感じでと近くの席を示され、お座敷の方は閉められるようになっていてと来たので、多分個室でゆっくり、周囲の気兼ねなく話せたほうが良かろうということで座敷の方でと決めた。それで案内されて店の奥の一室に入り、メニューを見ながら待っているとあとの三人がやって来たのだが、それに少々時間が掛かったのは、こちらが一旦戻ってくるものだと思ってあちらも待っていたらしい。このあたり先に黙って入ってしまって、気の回らない自分である。ランチメニューに一二〇〇円の握りがあったのでこちらはそれに決めた。ほかの三人は一四〇〇円の「すし御膳」というもので、寿司にサラダやら天麩羅やら何品か余分についているものだった。それで食べながら女性連中の話が止まらず、こちらは大方それを聞くのみで例によって黙っているのだが、母親が思ったよりも話しておらずにこちらと同様どちらかと言えば聞き役に回っていた印象で、YさんとY子さんが闊達に喋っており、特にY子さんの方が色々と話を弾ませていた。Yの仕事の話、K子姉さんという、Yちゃんの叔母さんの結婚した娘さんの話、Y子さんのまだ若かった頃の姑との関係の話など、またそのほかにも町会の方の話など色々とあったが、詳しく書くのは大変なので簡潔に行こう。その前に、各家庭の基本情報を、いつも忘れてしまうのでメモしておきたい。まず、立川の方は、K子姉さんというのがYちゃん(叔父)の叔母さんで、その人には一人娘があって、その娘はここで再婚したらしいのだがもう四〇過ぎくらいで、前の旦那とのあいだに一人子供があってその子はもう二五くらいである。そしてS子さんと言われていたのが、Yちゃんのお姉さんのことで、これはすなわちA家のことである。旦那さんはHちゃんと呼ばれていた人で、ここには確か四人子供がいたはずで、そのうちの男の二人、長男次男はこちらも一度会ったことがある。Y子さんの家には今はTさんとKさんという男女の子供が独身で住んでいて、もう一人、多分長女だと思うのだがCさんという人は結婚して立川あたりに出ているのだが、旦那さんは早くして亡くなってしまい、今は子供二人と母子家庭、そのうちの上の子が「Yっ子」と呼ばれている子で小学三年生かそこら、下の子は「M」と言ってここで小学一年生に上がって、この日の墓場ではそれに対するおめでとうございますの言葉もあったし、そのお祝いで我が家から金か何か送ったそのお返しに、先日Y子さんから――名義はおそらくCさんのものとして――ドレッシングの詰め合わせが送られてきた。
 そうして、Yの話。座敷に就いて最初のうちはこの話が長く続いて、それはこちらから、Yが今日うちに来るとか聞いたけど、とYさんに話を振ったからだ。そこから、彼がここでO.N中に着任したのだけれど、その仕事が大変だという話が長く続いた。ただそのほか、面接時の試験官が彼の小学校時代の担任の先生だったとか、同僚にYちゃんの同級生の女性がいたとか、果ては校長もYさんの知り合いの先生だったとか、周りの人員にはそうした偶然だが偶然とは思えないような巡り合わせがあったらしい。それで仕事の方はしかし大変で、まずパソコンがYはあまり得意でないのだけれど、よりにもよって教務部という、パソコンを使った事務作業ばかりやるような部署に回されてしまった。時間割を作ったりなどするのだと言う。それで仕事はまだあまりわからず、うまく出来ない日々なのだが、かと言って、先輩同僚が熱心に教えてくれることもあり、皆が忙しくしているところに自分だけ先にお疲れ様ですと言って帰るわけにも行かず――このあたりいかにも日本的な労働環境の害悪だが――帰りが遅くなってしまって、定時は四時四五分だと言うけれど実際には早くても家に着くのが八時過ぎ、遅ければ一〇時半頃になると言う。部活はサッカー部の顧問を任せられて、土日もそちらの方で出ていかなければいけないし、平日も朝練があれば六時一〇分頃の電車に乗らなければいけないと。それで一〇時半帰りでは飯を食って寝るしか家で出来ることがないとそんな話だった。それで、今日彼が泊まりに来るかもしれないと言うのは、明日は学力テストがあって、その資料をダウンロードするだかでかなり夜遅くまで仕事が掛かるようで、あまり遅くなるようだったら立川よりも近い我が家に泊めてもらえとの話になったということだった。勿論我が家としては構わない。実際今夜どうなるかはYからの連絡待ちである。
 K子姉さんの娘さんの話も一応書いておこうか。この人は先にも書いたようにここで四〇代くらいで再婚したのだが、その相手と言うのがあまり良くないらしく、と言うかそもそもこの娘さん自体がキャバクラに勤めていたか何かで、Yさん曰くあまり「身持ちのいい」人ではないらしく、A家、特にYちゃんはあまり良い印象を持っていなかった。その再婚相手というのも、キャバクラで働いていた時に知り合った人で、不動産屋か何かやっていると言っていたか? いや、これはこちらの記憶違いかもしれない。話を聞いていると金があるんだかないんだかよくわからないような人で、妻となる娘さんのために家を建ててやったり、七〇〇万円だかする高い車を買ってやったり、二五歳の前夫との息子にも同じように車を買ってやったりしたのだけれど、金がなくてその車の納品が遅れたとかいう話が同時にあって、そんな風でこの先本当にやっていけるのだろうかと端から見ているとひやひやものだと言う。そもそもその娘さんという人が、今まで生活保護を受けていたりとか、そのあいだにアルバイトをやっていたのがばれて保護も打ち消され、支給された金も返還しなくてはいけないことになって、親、すなわちK子姉さんにに金をせびりに来ながら暮らしていたりとかしていた人で、繰り返しになるがYちゃんはあまり良い印象を持っていなかったところに選んだ再婚相手もそんな風だと来て――加えて、一度正月だかに多分A家にも集まったらしくその時Yちゃんとも会っているのだが、その際、ほとんどスマートフォンばかり弄っていて他人と関わろうとしない雰囲気だったのにも良い印象を持てなかったようで――正直自分は、結婚式に呼ばれているけれど行きたくないとYちゃんがK子姉さん当人に吐露して一悶着あったらしい。そうは言っても呼ばれて行かないわけにも行かないので実際行ったのだが、結婚式の参列者の、新婦の友人連中なんかはやはりそういった方面の、夜の仕事をしているような雰囲気の人々が多数集まっていたらしい。それでその新婦の前夫との息子さん、二五歳のその人が、母親の花嫁姿を見て――実母の花嫁姿を見るという機会も大方の人は持てないものだと思うが――どういう心中だったのか涙を零していたと言い、それを見ているとYさんたちも胸が苦しくなってしまったと、心境如何ばかりかと思ってしまったとそんな話だった――その息子さんと再婚相手の男性との関係とは、多分悪いわけではなくて、男性の方は息子さんを可愛がっていてそれで車も買ってくれたのだろうけれど、しかし息子の方からしてみると複雑な思いがあっただろうということだった。
 Y子さんの嫁姑話は申し訳ないが省略させてもらおう。それで二時に至ると店員が、ラストオーダーの時間ですとやって来た。書き忘れていたが、食後、こちら以外の三人はホットコーヒーとクリームあんみつを頼んでいて、こちらはコーラを頂いた。それで二時でおひらきということになり、皆で室を出て、個別会計、YさんとY子さんが先に二三〇〇円ほどを払い、こちらはトイレに行っている母親から預かった一万円札で三八〇〇円ほどを支払い、戻ってきた母親に釣りを渡した。そうして車に戻って発車、小作駅まで二人を送って行く。駅に着くとこちらは車から降り、すっと立って、後部座席から降りてきた二人に別れの挨拶をした。ありがとうございましたと礼を言い、二人のそれぞれと手を握り合って、Y子さんにはまた来てくださいと声を掛け、YさんからはSもまたうちに来なとあったのに、またそのうちに行かせてもらいますと受けるとY子さんが、そのうちにじゃなくてすぐにって言ってあげなきゃ、と笑って言うので、またすぐに行かせてもらいますと言い直した。そうして別れ、小作駅に上がっていく二人を見送ってこちらは車に戻り、ふたたび発車した。図書館に行って下ろしてもらうわけだが、途中で、ALL FREEの箱などを買いたいということで、ドラッグストアに寄った。籠を載せたカートを伴って入店、洗剤やゴミ袋など入れて行き、回っているうちに色々と籠に加えられて結局満杯になる。こちらは久しぶりにハイチュウなど求めた――しかも二種類。それでいっぱいになった籠を運んで会計、整理台で母親と手分けして品物を袋に詰め、カートに載せて車まで運んで行き、ビニール袋とALL FREEの六缶パック三つを後部座席に入れておくと、カートを店の入口に戻した。そうして乗車、しばらく移動して河辺に着き、母親は西友に寄ると言うのでその入口のところで下ろしてもらい、彼女と別れた。リュックサックを片方の肩に負って歩いて行くと、河辺駅前で市議会選の候補者が演説を終えたところで、通っていく中学生に、新入生、校歌は覚えましたか、などと気さくぶって声を掛けていた。階段を上がり、図書館に入ると、多目的室で期日前投票を受け付けている。そこに選挙広報の入った箱があるのを目に留めたので、取ろうと近づくと、係員の女性が選挙ですかと声を掛けてきたので、あ、広報を、頂こうかと、と言うと、彼女が取ってきてくれたので、礼を言って受け取った。それを片手に持ったままゲートをくぐって図書館に入り、CDの新着を瞥見して――BRADIOというような名前だったか、まったく知らない、前情報のないグループなのだが、日本のバンドの作品があったのがちょっと気になった。アルバムタイトルが『YES』だったので、プログレバンドのYESの新作だろうかと見たらそうではなくて、三人組の日本のグループだったのだ――上階へ、新着図書にはみすず書房の本がいくつか新しく見られた。みすず書房の著作は興味深いものばかりなのでどんどん入れてほしい。そうして書架のあいだを抜けて大窓際へ、席を一つ取って、便所に行った。放尿して手を洗い、戻ってくるとジャケットを脱いで椅子に掛け、コンピューターを取り出し、選挙公報を読みながら起動を待つ。そうして、グレープ味のハイチュウを、椅子の背に掛けたジャケットの胸裏の隠しから時折り取り出し、飲食禁止なので職員に見つからないように、目立たないようにもぐもぐ食いながら日記を記した。前日分から始まって、この日の分をここまで書き終えるまで、結構掛かって二時間以上が経ち、書きはじめたのが三時過ぎだったが、現在は五時二〇分前に至っている。一一〇〇〇字ほど一気に書いたようだ。
 それから書抜きを始めた。山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』である。書棚から『日ロ交渉史』(というタイトルだと思ったが)という大部の著作を持ってきて、それでもって選書の頁を押さえながら打鍵を進めていたが、一箇所書き抜いて二箇所目の途中で、バッテリー残量が五パーセントほどになっているとの警告が画面に出た。早い。このコンピューターももう数年使っているわけで、着実に劣化は進んでいるらしく、電源に繋がないまま打鍵を続けているとバッテリーが保つのはせいぜい三時間か二時間半くらいになってしまったようだ。それで、まだ一〇分しか書抜きを行っていなかったが、バッテリーがないのでは仕方がないので帰ることにした。荷物をまとめてジャケットを羽織り、席を立つと『日ロ交渉史』を書棚に戻しておき、書架のあいだを抜けて退館に向かった。
 歩廊に出ると、男性が一人、途中に立ち尽くして、極々小さな声で何やら通行人に呼びかけていた。この人はたびたび見かける人で、どうやら何らかの署名活動を行っているらしいのだが、チラシを配るでもなく動かずその場に立ち尽くしながらぼそぼそ呟くのみで、声が小さすぎてどういう活動なのか一向に知れないのだ。その人の前を過ぎ、歩廊を渡って駅へ、掲示板を見ると――ホームにある掲示板は以前は時刻表が記されていたのが、何故か広告に変わってしまい、これは改悪だと思うのだが、ともかくこの駅舎に入ってすぐのところにある掲示板を見ないと、奥多摩行きへの接続が確認できない――奥多摩行き接続の電車は先だった。直近は五時四〇分の電車で、それはまもなく、もう二分ほどでやって来る。そういうわけで改札を抜け、エスカレーターを下ると、すぐに電車がやって来て、こちらは手帳を取り出しながら乗り込んだ。扉際に立ち、手帳に記されている事柄を復習していく。そうして青梅着、二番線の方に降りると、看板の傍にちょっと立ち止まって人が階段付近から去って行くのを待った。それからホームを移動、待合室には入らず、その外の壁に凭れながら引き続き手帳を眺める。時折り、買っておいた二種のハイチュウのうちもう一種、酸っぱいレモン味のものを胸裏の隠しから取り出して口に入れる。そうしてじきに奥多摩行きが来るので乗った。席には座らずに扉際に立ち、やはり手帳を見やる。手帳の復習をしていると、待ち時間がまったく苦にならない、あっという間に時間が過ぎる。良い時間の潰し方を見つけたものだ。そうしてじきに発車、最寄り駅に着くと降り、ホームを行きながら目を上げると、駅前の桜はもう花をすべて落とし終わって薄緑の装いに変わっていた。階段を上った上から見える広場にはしかし、今ちょうど盛りを迎えている枝垂れた桜があって、薄桃色をドーム状に広げていた。駅舎を抜けると横断歩道を渡って坂道に入り、ガードレールの向こうの木々の合間、闇が満ちている空間に目を凝らしながら下って行き、帰路を辿った。
 帰宅すると六時半前だったはずだ。ジャケットのポケットに入れておいたハイチュウのゴミを、台所のゴミ箱に捨てておく。そうして下階に下り、自室に帰ってコンピューターを電源に繋ぎ、服を着替えた。それで七時直前から書抜きの続きを始めた。BGMはFISHMANS『Oh! Mountain』の続きを流した。アダムとエバの物語とか、バベルの塔の挿話とか十戒とかを書き抜いて行き、最後に長々と、それまでの本書の記述を改めて要約してまとめた部分を五頁分写して終了、七時半過ぎになっていた。それから市議会選挙の情報を収集。市議会のホームページに会派一覧があった。定数は二四。自民党勢がやはり一番多数で、続いて公明党、続いて「改革フォーラム」、共産党勢と続く。改革フォーラムという党派が国民民主などを含んでいて、中道左派という感じでここに属している候補者を選ぶのが良いかなと思ったのだが、同じくホームページにPDFファイルが置かれていた「市議会だより」を閲覧して、議決の詳細を見てみると、改革フォーラムはどの議案にもまったく反対しておらず、自民公明勢に同じているものだから実質与党側と考えて差し支えないだろう。反対しているのは共産党の連中と、もう一人、単独で緑のオンブズマンという会を作っているH.N子という人である。一応、与党に対抗してバランスを取る意味合いで反対の党派を応援したいと思っているが、改革フォーラムがあの体たらくではやはり共産党しかないのか……と見ていると、さらにもう一人、T.Mと言って、一人会派を作っている人がいてこの人も共産党に同じて反対票を入れているのだが、調べてみるとこの人は元々共産党に属していたのが、運動を巡って意見の対立が解消されなかったために昨年末に共産党を離れたのだと言う。それで何となく、この人に投票するのが良いかもしれないと思った。共産党のF.H氏は既に七期も務めているベテランなので、こちらが投票せずとも当選するだろう。それだったらこのT氏の、党の拘束を逃れその後援も排したその心意気を買ってみるのも良いのではないか。調べてみるとアニメが好きなようで、資料にアニメキャラクターの絵を取り入れてそれに文言を喋らせているあたりとか、演出手法として稚拙で何だかなあという感じもあり、ブログにもわかりやすい「いい話」を載せているその「物語」への抵抗のなさも気にかかるは気にかかるのだけれど、さらにホームページに載せられていた政策提案を見てもいかにもコテコテの左派といった感じで面白味がないと言えばないのだが、野党として一定の役割を果たしてくれそうではあるので、一応今のところこの人に投票してみようかと思っている。
 そんなところで、八時頃情報収集を切り上げて上階に行った。先に風呂に入るつもりだったのだが、裸になって浴室に踏み入ると、母親がスイッチを押すのを忘れたようで湯が沸いていなかったので、肌着とパンツ一枚の姿に戻り、沸くのを待つあいだに飯を食うことにした。米・餃子・エノキダケと菜っ葉と豆腐のスープ・サラダである。立川のYは、結局今日は早く帰れそうなので帰宅するとのことだった。早く帰れそうでも来れば良いではないかと母親の携帯を借りてLINEメッセージを送ったのだが、やはり今日は帰るとのことだった。そうして八時半過ぎになって入浴。こちらが湯に浸かりはじめたとほぼ同時に父親が帰ってきたようだった。出てくると居間のテーブルに就いて血圧を測っていたので、おかえりと声を掛ける。I.Y子さんに貰ったタルトと言うかパイのような類のケーキを冷蔵庫から皿に取り出し、父親の向かいに就く。久しぶりの会社だから疲れたんじゃないと訊くと、まあそうかもしれない、見るものがたくさん溜まっていたからとの返事があった。ケーキを食い終わるとこちらは下階へ、LINEでT田にメッセージを送った。彼のクラシック選集の一曲目、クレマン・ジャヌカン作曲の合唱曲「鳥の歌」がどうもやばいなと思われたので、これやばくない? 何という音源に入ってんの? と送ったのだった。それを受けてT田はインターネット上から当該アルバムの説明を記したブログを探し出してきてくれて、加えて音源があるからCD-Rに焼いて二〇日に持っていこうかと言う。好意に甘えることにした。それから彼とやりとりを交わしながら、一〇時直前から「記憶」記事音読。三〇分ほど。BGMは彼のクラシック選集である。今のところ聞いた感じでは、最初のその合唱曲と、最後に収録されているラヴェルのピアノ協奏曲が良い。T田とはハードロックの話や、パワー・コードはいつからロックに取り入れられたのだろうかなどという話をした。そのなかで、お前、Led Zeppelinの曲だったらどれが一番好き? と尋ねてみると、彼は間髪入れずに、"Babe I'm Gonna Leave You"、と返してきたので、良いところを選ぶなと思った。こちらもファースト・アルバムの二曲目に収録されたあの曲は好きだったのだ。多分正規のライブ音源では取り上げられていなくて、どちらかと言えばマイナーな位置づけではないかと思うのだが、良い曲、良い演奏なのだ。そんな話を一一半頃まで交わしたところで終了し、こちらはそれからベッドに移って菊地章太『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム――一神教の連環を解く』を読んだ。一時間半以上ぶっ通しで読んだあと、インターネットを少々回って、一時半からふたたび読書を始めて一時間、二時半に至って書見を切り上げて眠りに向かった。


・作文
 15:08 - 17:19 = 2時間11分

・読書
 17:23 - 17:33 = 10分
 18:54 - 19:36 = 42分
 21:55 - 22:23 = 28分
 23:05 - 24:44 = 1時間39分
 25:31 - 26:28 = 57分
 計: 3時間56分

・睡眠
 2:15 - 9:50 = 7時間35分

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • 『Classical Music Selection』
  • Jimi Hendrix『Blue Wild Angel: Live At The Isle Of Wight』




山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』筑摩選書、二〇一三年

 ヤハウェは苦役に呻くイスラエル人の声を聞き、イスラエルをエジプトから導き出すようモーセに使命を課し、奇跡を行う力を与える(出三―四章)。モーセ(とその助手である兄アロン)はエジプト王の前に出てイスラエルの奴隷生活からの解放を要求するが、ファラオはこれに取り合わない(出五章)。そこでモーセ(とアロン)はナイル川の水を血に変える、蛙や害虫を大発生させてエジプト人の生活を混乱させる、疫病や皮膚病を蔓延させる、雹を降らせ、いなごを大発生させて穀物を全滅させる、昼でも太陽を昇らせないなどの一連の奇跡でエジプト人を悩ませる(出七―一〇章)。それでもファラオが奴隷たちを解放しないので、ヤハウェは第一〇の決定的な災いを下す。すなわち、エジプトのすべての家で一晩のうちに長子が死んでしまうのである。イスラエル人だけは、「過越(ペサハ)」の儀式を行ってこの災いを「過ぎ越した」ので、やがてこの祭りが出エジプトの記念となった。自分の子供さえ失ったファラオは、ついにモーセの要求に屈服し、イスラエル人の解放に同意する(出一一―一二章)。
 しかし、危機と「奇跡」は続く。イスラエル人がエジプトを出た後、ファラオは「考えを変えて」戦車軍団を出動させ、イスラエル人を皆殺しにさせようとするのである。折しもイスラエルの人々は「海」(位置は不明)のほとりに宿営しており、図らずも「背水の陣」となってしまう。万事休すと思われたとき、奇跡物語には事欠かない旧約聖書でも最大級の奇跡が起きる。何と、ヤハウェが海の水を二つに分けて道を拓き、イスラエル人を横断させ、他方でエジプトの戦車軍(end129)団は水に呑まれて海の藻屑と消えるのである。(……)
 (129~130)

     *

 エデンの園におけるアダムとエバの物語は旧約聖書の中でも最も有名なエピソードの一つであるが、一般的にあまり知られていない細部がある。エデンの園の中央には、一本ではなく二本の特別な木があった。一方は「命の木」であり、他方は「善悪の知識の木」である(創二9)。ヤハウェはアダムに「善悪の知識の木」から実を取って食べることを禁じるが(創二17)、アダムの妻エバは、食べれば「神のよう」になれる、という蛇の誘惑に屈してその実を食べ、夫にも食べさせる(創三5-6)。それを知ったヤハウェは次のように言う。

 人は我々の一人のように[﹅9]、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある。(創三22)

 そこでヤハウェは、人が「永遠に生きる者」となるのを阻止するために、アダムとエバエデンの園から追放するのである。「命の木」と「善悪の知識の木」の関係は、正直言ってよく分からない。最初にはっきりと禁じられたのは「善悪の知識の木」であるが、「命の木」の実を食べることは許されていた、とは読めない。おそらくは、「善悪の知識の木」の実を食べて「神のよう」な知識を得た者だけが、命の木の実を食べられる、と考えられていたのであろう。
 (179)

     *

 [神が「我々」と語る]第三の箇所は、やはり有名なバベルの塔の物語の中に見られる。これは、メソポタミアによく見られた「ジックラト」と呼ばれる高い塔形の神殿を素材にしたものと考えられている。まだ人類の言語が一つであったころ、シンアルの地(メソポタミア)に人々は、「天まで届く塔」のある街を建て、自分たちの名を上げようとする(創一一4)。天上でこれを見たヤハウェは、次のように語って、人間の力を制限しようとする。

 彼らは一つの民で、皆一つの言語を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何をくわだてても、妨げることはできない。我々は[﹅3]降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう。(創一一5-6)

 ヤハウェが人々の言葉を混乱させたので、人々は意思の疎通がとれなくなり、塔の建築を放棄して世界各地に散り散りになっていった。言うまでもなく、この物語は世界各地における言語の多様性ということの由来譚にもなっている。
 (180)

     *

 (……)「十戒」は、出エジプト記二〇章2-17節と申命記五章6-21節に二重に伝承されているのである。
 出エジプト記によればシナイ山(出一九18)で、また申命記によればホレブ(申五2)で、ヤハウェモーセを介してイスラエルと契約を結んだとき、ヤハウェはまず、一〇の戒めを示した。それら一〇の戒めをどのように数えるかは、実はユダヤ教カトリック(およびルター派)、(ルター派以外の)プロテスタントで伝統的に微妙な違いがあるのだが、ここではあまり細かい点には立ち入れないし、その必要もない。わが国で最も一般的に親しまれているプロテスタントの数え方によれば、この「十戒」は以下の一〇の命令からなる。

(1)あなたには他の神々があってはならない。
(2)あなたは偶像を造ってそれらにひれ伏してはならない。
(3)あなたはヤハウェの名をみだりに唱えてはならない。
(4)安息日を守りなさい。(end278)
(5)あなたの父母を敬いなさい。
(6)あなたは殺してはならない。
(7)あなたは姦淫してはならない。
(8)あなたは盗んではならない。
(9)あなたは隣人に関して偽証してはならない。
(10)あなたは隣人のものを欲してはならない。

 (278~279)

     *

 以上のように、第二イザヤは、捕囚という状況の中で、絶望疲弊し、ヤハウェへの信仰を失いかけ、バビロンの偶像崇拝の誘惑にさらされている同胞に対して、ヤハウェのみが救う力を持ち、信頼に値する神であることを論証し、説得しなければならなかった。しかも、彼らはその救いのメッセージを容易には信じようとしなかった。バビロニア人と彼らの神々が圧倒的に勝ち誇っているように見える状況下で、従来のように、もっぱらイスラエルの神ヤハウェの「卓越性」や「無比性」を力説したところで、所詮は「ゴマメの歯ぎしり」、「引かれ者の小唄」以上には聞こえなかったであろう。
 このようなジレンマの中で、第二イザヤはいわば「ゴルディオンの結び目」を一刀両断にする新しい考え方を打ち出したのである。すなわち、どの神がより卓越しているか、無比であるかが問題なのではない。そもそも、ヤハウェ以外に神は存在しない、というのである。これは、おそらく明確な形ではそれまで誰も考えたことのない、考え方の枠組み(パラダイム)そのものの転換であった。ここに、思想上、神観上のある種の突破、革命があることは明白である。それは、進化論的に言えば、観念上のある種の「突然変異」である。ここで重要なのは、第一章でも見た(end354)ように、「変異」が「進化」に通じるのは、その変異が困難な状況を克服して個体と種を生き延びさせる環境適応力を持つ場合だということである。第二イザヤの唯一神観は、まさに捕囚における信仰の深刻な危機を克服させる、「環境適応力」のあるものであったと言えよう。
 (354~355)

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 (……)前一三〇〇年頃以前には、そもそもイスラエルという民族も存在していなければ、ヤハウェという神も知られてはいなかった。しかし、遅くとも前一二〇〇年の少し前までには、パレスチナに「イスラエル」と(end361)呼ばれる部族連合的な共同体成立していた(メルエンプタハ碑文)。多様で複雑な起源を持つこの共同体は、やがて共通の先祖に遡る系図、共通の歴史伝承、同じ神の共有等を通じて一つの民族としての性格を強めていく。
 「イスラエル」という名称から見て、この集団は、最初は「エル」という神を共通の神として結束していたらしい。このエル崇拝が、すでに排他的な一神崇拝の性格を持っていたかどうかは分からない。このエルが、やがて外部から(出エジプト伝承の担い手である集団によって?)もたらされたヤハウェという強力な戦いの神と同一視された。この段階で、ヤハウェ崇拝には排他的な性格が強まったと考えられる。この経過の中で、単に従来の神との同一視が行われるだけでなく、従来の神(々)の自覚的放棄が決断されるという事態もあったらしい。この時代は、エジプトの支配権のパレスチナからの後退とその結果としてのカナン都市国家同士の抗争激化、ペリシテ人を含む「海の民」の侵入などに起因する政治的・社会的な大変動、混乱の時期であった。そのような不安定で困難な状況の中で、共同体全体がヤハウェのみを排他的に崇拝することは、イスラエルという民族のアイデンティティを創出・維持・強化するために「環境適合的」な作用を持ったと思われる。それは、危機的な状況を克服し、共同体が存続するための知恵でもあった。これが、いわば「第一の革命」である。
 ただし、初期イスラエルの一神崇拝は、他の民族の神々の存在は否定せず、ただ「イスラエルの神」はヤハウェのみだという、民族神的拝一神教であった。それはイスラエルの民族神、国家(end362)神はヤハウェのみであるというものであり、地域や家族の生活のレベルでは、ヤハウェ信仰以前の宗教的慣習が色濃く残されていた。
 サムエル記の記述にもかかわらず、イスラエルにおける王国成立の歴史的過程はよく分からない。イスラエルとユダが、列王記に描かれるように統一王国から二つに分裂したのか、それとも別々に成立したのかについても、現在の状況では確言できない。しかし、王たちを含む人名の検討などから、そのどちらの国においてもヤハウェが唯一無二の国家神、王朝神であったことは確かである。このうち、特にユダ王国においては、ヤハウェダビデ王朝の結び付きが極めて緊密であった。
 前九世紀から前八世紀にかけて、北王国イスラエルではフェニキアとの同盟を通じてバアル崇拝が蔓延し、南王国ユダではアッシリアの国家祭儀の導入に触発されて宗教混淆的傾向が強まった。このような信仰の危機ともいえる状況下で、従来のヤハウェ専一信仰を守るために戦ったのが、エリヤやエリシャなどの預言者たちであった。特に、前八世紀の文書預言者たちは、イスラエル、ユダとヤハウェの間の民族宗教的な絆を一旦断ち切り、従来の民族主義的拝一神教の枠を超えて、異邦人勢力を用いてイスラエル、ユダを罰する世界神としてのヤハウェの観念を生み出した。いわばこれが、「第二の革命」であった。前七二二年のイスラエル北王国の滅亡は、そのようなヤハウェの裁きの実現と解釈された。
 前七世紀後半になると、申命記運動の担い手とヨシヤ王は、地方聖所の廃止と祭儀集中、異教(end364)的要素の粛清という国家的、政治的手段を通じて、ヤハウェのみの排他的崇拝を復興し、強化しようとした。これにより、地域のレベルでの非ヤハウェ信仰的要素も排除されることになった。また、この運動を通じて、ヤハウェとの契約の観念、申命記法、十戒、「シェマの祈り」などが確立した。これを「第三の革命」と見ることができる。ただし、この段階でも、神観はあくまで拝一神教的なものであった。
 ヨシヤ王や申命記運動の奮闘にもかかわらず、この信仰「革命」はヨシヤの非業の死によって頓挫し、その後ユダ王国は滅亡し、生き残りの人々の多くがバビロン捕囚となる。この前六世紀の破局的事態は、捕囚民に未曾有の信仰の危機と動揺をもたらした。それはバビロンの神々の勝利として、またヤハウェの敗北や無力さの露呈と解釈されるおそれがあった。しかし、申命記運動の継承者たちや捕囚時代の預言者たちは、あるいはこの破局イスラエルの罪の結果として意味づけ、あるいは不可能を可能にするヤハウェの全能を描くことで、この信仰の危機を克服しようと努めた。ここに「第四の革命」がある。
 このような国家の滅亡と捕囚という極限的な状況の中で生じた一連の「第四の革命」に続いて、それとは質的に異なる、ある意味で人類宗教史上最大の思想的・信仰的革命が起こった。それが、ヤハウェ以外の神の存在を原理的に否定する、第二イザヤによる唯一神観の宣言である。ヤハウェ以外に神は一切存在しない。これが、いわば「第五の革命」である。そこには、神というものについて考える枠組み(パラダイム)の転換があり、「逆転の発想」がある。重要なことは、それ(end364)が国も王も土地も神殿も失い、絶望の淵に追い込まれた捕囚民の間から、無力な民に力を与え、絶望を希望に変える起死回生的、一発逆転的な究極の論理として語り出されたということである。アクエンアテンの場合とは異なり、それは独裁的な支配と権力を補完し維持するための論理ではなかった。それは、最も非力な集団が絶望的な状況を克服し、生存と信仰を維持するための「生き残り」のための論理であった。
 (361~365)