2019/4/18, Thu.

 一一時起床。今日も選挙カーが替わる替わる自宅周辺にやって来て候補者の名前を連呼していた。上階に行く。父親は仕事、母親は料理教室である。冷蔵庫にハンバーガーがあるとメモには書かれてあった。それで冷蔵庫から件のバーガーと、前夜の汁物を取り出し、バーガーは電子レンジへ、汁物は焜炉に掛けてそのあいだに便所に行って放尿した。戻ってくると卓に就いて、新聞をなおざりにめくりながら食事である。食べ終えると食器を台所に持っていき、箸と椀だけなので洗わずに放置しておき、下階に戻ってくるとコンピューターを点けて早速FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめた。一一時三八分から始めて素早く打鍵していき、前日分をさっと終わらせたつもりだったのが、今時計を見てみると一二時二四分を示していて、となるといつの間にか四五分も掛けていたことになって意外である。
 前日の記事をブログに投稿。例によってAmazon Affiliateのリンクを一つずつ地道に仕込むわけだが、これももう記事を投稿するたびにいちいちリンクを設けるのが面倒臭いのでやめようと思う。始めて二か月だか三か月だか経つが、未だにクリックされるばかりで一銭も入って来ていない。やはり自分のブログ程度では極々少量の金にすらならないのだということがよくわかった。そして、別に金にならないならならないでそれでも構わないのだ。
 投稿を済ませると一時直前から読書に入った。菊地章太『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム――一神教の連環を解く』である。ベッドの上に乗りながらしばらく読んで、読了した。この本はそれほど興味深いものではなかった。「聖戦」「平等」「福祉」「寛容/不寛容」などのキーワードに沿って三つの一神教を読み解いていくというような趣向なのだが、ココ・シャネルやモハメッド・アリなどといったちょっと意外に思われるような名前まで扱って様々な挿話など盛り込まれているものの、論点がいまいち収束せず散漫に拡散しているような印象だ。書抜きをしたいと思う箇所も一箇所しかなく、それはアンリ・ピレンヌのいわゆる「ピレンヌ・テーゼ」を概説した箇所である。懐かしい名前だ。これでも一応、大学時代は西洋史コースに属していたから――真面目な勉強などほとんどしなかったので世界史の知識はいまもってそのあたりの高校生にも劣る程度しかないけれど――アンリ・ピレンヌの名前は授業で聞いたことがある。しかし、彼の説の方はとなると細かい中身など既に記憶の彼方だから、改めて書き抜いて復習しておくことにしたのだった。
 それから、神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』を新たに読み出した。こちらの本はやはり新書レベルとは違って、読むのになかなか骨の折れそうな感触である。二時を回ったところまで読書をして、それから上階に行った。母親は帰って来ていた。筍ご飯などを作ったと言う。それで、I.Y子さんから貰ったタルト風ケーキを食べたあと、母親の作ってきた弁当も頂くことにして電子レンジで温めた。筍ご飯に野良坊菜、韮を肉で巻いた料理である。食べ終えると、アイロン掛けを行う。シャツ二枚にハンカチ三枚を処理したあと、母親が取り込むだけ取り込んでベランダの前に放置していった洗濯物を取り上げて、ソファの背の上に畳んで整理していった。すべて畳み終えるとタオルを洗面所に持っていき、次いで風呂洗いである。それも済んで下階に戻ってくると時刻は三時だった。T田の選集したクラシック音楽セレクションを流しながら、菊地章太『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム――一神教の連環を解く』の読んだ部分を大雑把に読み返していき、気に掛かった場所を手帳にメモする。宗教の平等性に関するモハメッド・アリの言葉がシンプルだがなかなか良い比喩だと思った――曰く、「我々は皆同じ神を持っている。ただそれぞれの神に仕えるやり方が違うだけだ。川も湖も海も呼び方は違うが、どれも水であることに変わりはない、それと同じことだ」と言う。そのほかにメモしたのは大概、基本的な歴史の知識である。ムスリムの五行であるとか、ミゼリコルディアという語の意味だとか、イスラームの征服政策についてとかそういった事々だ。それで四時からふたたび読書に入った。ベッドに寝転がって身体に布団を掛けながら神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』を五時半前まで読み進めたが、最後の方は本を置いて目を閉じていた。しかし眠りに落ちることはなかった。ただ、起き上がって食事を作りに行くのが億劫で、普段だったら五時にはもう作りはじめるのだけれど、この時は布団のなかに留まってのうのうと休んでいた。五時半を回ったところで一念発起して起き上がり、上階に行き、台所に入った。放置されていた洗い物を片付けたあと、母親の指示に従ってまずは人参を切る。人参に向かって包丁を斜めに傾け、輪切りにしていったものをさらに細く切り分ける。これは茹でてサラダにするためのものである。そのほか、蕎麦を茹で、天麩羅を揚げようということになった。そのために南瓜を、固いのを苦労して手に力を込めて薄切りにしていく。その間に油を注いだフライパンや、小麦粉や水を混ぜたボウルが用意され、南瓜から揚げはじめた。四度ほど掛けてすべて揚げると、その後、玉ねぎ、母親が外から取ってきた葱坊主、最後に鯖が揚げられていった。こちらが揚げ物に掛かりきりになっているあいだに母親はサラダを拵え、さらに大きな鍋で蕎麦も茹でられた。そうして最後の鯖まで揚げてしまうと一時間ほどが経過していて時刻は六時半過ぎ、そうしてこちらは自室に戻った。
 七時ぴったりからふたたび神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』を読みはじめた。ベッドに乗って布団を身体の上に掛け、しかし今度は完全に横にはなりきらずにクッションに凭れながら、いくらか読むと気になった箇所をメモしながら進めていった。興味深かったことの一つは、四世紀のギリシャ教父、ナジアンゾスのグレゴリオスの言葉で、曰く、彼は「自己自身に対して反逆する一者は多をもたらすことができる」と述べたらしい。この文言は、先般Uさんから教わった「自己に対する抵抗」のテーマと明らかに照応するところがあり、自己の傾向性に対して反抗することで達成される主体の複数性、というような哲学を考える際の標語になり得るものなのではないか。そのほか、前四〇三年にアテナイでいわゆる「三十人僭主政権」が倒れて民主派が権力を奪還した際に、「悪の記憶一般の禁止」が合意されたというのも興味深い。これは通常、「大赦」とも訳されるらしいのだが、三十人政権の中枢首謀者以外の一般市民への報復に関しては、これが完全に禁止されたのだ。「過去になされた悪」を記憶し、その恨みを心中に留めて報復に向かうのではなくて、ポリス全体の秩序の安定性のためにそれを忘却することが勧告されたということだ。
 七時半過ぎまで読んでから食事に行った。蕎麦を食い、天麩羅を食い、サラダを食べる。先日、左下の唇の裏を誤って盛大に噛んでしまい、その傷跡が大きな口内炎になっていて、食べながらそれが大層染みて痛かった。テレビはおよそどうでも良いような番組しかやっていない。食べ終えると皿を洗って風呂に行ったが、こちらが湯に浸かりはじめると同時に父親が帰宅して、車が発する何らかの電子音が聞こえたあと、外の階段を上って玄関を開ける気配がした。それでさほど長くは浸からずにさっさと上がり、出てくると食事を取りはじめるところだった父親におかえりと言って下階に下りた。部屋に帰ると、Marvin Gaye『What's Going On』を流しはじめて、ここまで日記を綴って九時二〇分過ぎを迎えた。
 その後、一〇時直前からふたたび読書。神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』を読み進める。例によって途中、一時間ほど目を瞑って意識が曖昧になった時間を差し挟んで、零時二〇分まで読み、そのまま歯磨きもせずに就寝した。


・作文
 11:38 - 12:25 = 48分
 20:43 - 21:22 = 39分
 計: 1時間27分

・読書
 12:58 - 14:11 = 1時間13分
 15:09 - 15:47 = 38分
 16:00 - 17:25 = 1時間25分
 19:00 - 19:36 = 36分
 21:58 - 24:20 = (一時間引いて)1時間22分
 計: 5時間14分

・睡眠
 2:30 - 11:00 = 8時間30分

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • 『Classical Music Selection』
  • Marvin Gaye『What's Going On』
  • Louis Cole『Time』