一一時まで例によってだらだらと寝過ごす。一〇時半頃には眠気は散っていたが、布団のなかの安穏とした心地良さから逃れることが出来なかった。いい加減、七時、八時頃にきちんと起きる生活を実現したいのだが、どうしても眠りというものに打ち勝つことが出来ない。上階へ。母親はソファに就いてテレビの録画欄を映し出していた。食事はおじやだと言う。台所に入って小鍋のおじやを温め、その他ゆで卵も持って卓に移る。食べていると母親が冷凍されていた筍の天麩羅を解凍して出してくれて、自分もそのまま食事に入った。スリランカのテロ事件の続報を新聞から追いながらものを食べ、薬を飲んで皿を洗った。そうして下階に戻り、FISHMANS『Oh! Mountain』を流し出して前日の記録を付けたり、他人のブログをちょっと覗いたりしていると、母親が呼びに来た。筍を採るから手伝ってくれと言う。わざわざ労力を掛けて採らなくても良かろうと思うのだが、祭りに持っていくとか何とかでどうやら必要らしい。それで、裸足にクロックスのサンダルを突っかけて上階の玄関から外に出た。道を渡り、林に接したスペースに行く。母親は大きめのビニール袋と、鍬を持ってきていた。それで彼女が斜面になっている林のなかの、低い位置に生えているものを、鍬を使うまでもなく両手で引っ張って採るのをぼけっと突っ立って眺め、採れたものを受け取って袋に入れる。そのようにして二本採ったあと、次はもう少し高いところにあるものに挑戦することになったので、これはこちらが担当することにした。鍬を受け取り、サンダル履きという頼りない足もとだが、それを物ともせず、雨で濡れて積もった落葉の柔らかくなった斜面を、竹に手を掛けたり足場として支えにしたりしながら慎重に昇って行き、目的の筍を採っていると、母親が頭を下げて誰かに挨拶をしている。現れたのは賑やかな男性とその夫人らしき女性で、こちらには誰だかわからなかったのだが、斜面の上から挨拶をした。夫人の方が、良く会うのよねなどと言っているので、ああ先日遭遇したオレンジのマスクの婦人だったかとわかった。それでWさんかなと見当を付けたのだったが、あとで母親に訊くとそうではなくて、この人たちはKさんと言って、Aくんの家のすぐ傍に住んでいる人たちらしい。こちらは今まで全然会った覚えのない人たちだが、よく夫人の方はこちらのことをFの息子だと認識していたものだ。それで母親が夫妻に筍を持っていくように勧めて、旦那さんの方が遠慮のしない人のようでこちらにも話しかけてくるので、そこの袋に入っていますと言うと自分で欲しいものを勝手に選び出していた。ちょっと大きいですよね、もう育っちゃってますねなどと言いながらこちらはもう一本、鍬を使いながら筍を採って、それを持って下に下りる頃には夫妻は既に去っていた。それからあともう一本、林の奥の方に入って、結構高いところまで昇って採ったのだが、そこまで斜面を昇っているあいだに、風が吹いて、雨の止んで仄かな薄陽の入り込んでいるその空中に、黄色く染まった竹の葉がはらはらと舞い落ちる光景を目にした。昇って筍を採っているあいだにも、こちらの方まで小さな黄色い葉っぱがひらひらと漂ってきて、竹秋が近いなと思われた。そうして仕事は完了、袋を持って家の横の、自転車置場のあたりまで運んでおき、それから玄関外の水場で手を洗った。そうして自転車置き場に戻ると、母親が重い袋を持つのに難儀していたので、替わって物置のなかに運び込んでおき、玄関から室内に入ると台所で石鹸を使ってもう一度手を洗った。それで下階に戻り、一二時一二分から日記を書き出そうとすると、携帯電話が持続的に震えて、見ればNからの電話である。何となく、ゴールデン・ウィークにも入ったしそろそろ連絡が来るのではないかと思っていたところだった。出る。元気かとあるので、お蔭様で調子は良いと答え、訊けば昨日まで非常に多忙だったが、ゴールデン・ウィークは七日間休めると言う。それでららぽーと立川立飛にまた行きたいと言ったので了承した。こちらも何となく、Nと会うことになったらまた行きたいと思っていたところだったのだ――先日買ったばかりで贅沢なことだが、何か格好良いジャケットが欲しい。それで翌日の一時から会うことになった。約束を決めて通話を終え、そうして日記に取り掛かり、前日分を仕上げてのちにここまで書くと、現在はちょうど一時である。今日は久しぶりに図書館に出かけようかと思っている。
前日の記事を投稿していると、母親がまた呼びにやって来た。今度は筍を切断するのを手伝ってくれとの由である。それでブログとnoteに二六日の記事を投稿し終わると、音楽を止めて部屋を出て、下階の物置に入った。包丁を借りて、筍に縦に切れ目を入れていき、二つに割ったそのあとから皮を剝いでいく。二本分、そのように行ってなかの身を取り出したあと、不要な皮の部分を捨てに行くことになった。それでこちらは剝き出しのまま皮を集めたものを両手に抱え、母親は袋に入れて物置きから外に出て、ふたたび林の奥の方へ向かう。そのあたりに放り投げて皮を捨てておき、戻るところで通った高年の夫妻があって、母親がそれに声を掛けた。Tさん、と言った。三丁目に住んでいて、料理教室で一緒の人らしい。それで女性同士の立ち話が始まってしばらく続くのを、こちらと、あちらの旦那さんの男連はやや所在なげに立ち尽くして終わるのを待った。そうして別れ、物置きに戻ると、皮を剝いた筍を持って上階に上がり、米の磨ぎ汁で湯搔くためにまずは流し台を片付けなければならない。それで放置されていた洗い物を洗って片付け、それから米を三合半磨いで、釜も洗っていなかったので洗ったあとから米を入れて六時五〇分に炊けるようにセットしておき、磨ぎ汁を洗い桶から筍の入った大鍋に注いだ。それでこちらの仕事は終わり、図書館に行くと言うと母親も出かけると言うので、雨も降ったりやんだりでよくわからない天気で、外を歩いていても大して気持ち良くもなさそうなので、車に同乗させてもらうことにした。そのためには筍を湯搔き終わるのを待たなければならないというわけで下階に戻り、まず歯を磨いた。それから、一時半過ぎから「記憶」記事を音読し、イギリスのEU離脱関連の情報などを確認したのち、服を着替えた。上は白シャツ、下はベージュの、星のような模様が黒く散っているズボン、その上にジャケットの格好で、靴下は赤一色である。そうしてTwitterを眺めていると、鼓直の訃報に接したので、『族長の秋』は自分を文学の終わりなき沼に引きずりこんだ「恩書」である、これを機に『族長の秋』を読み返そうと思うと呟いたので、次に読む本はそのように決まった。しかしこのようにしてまた、ムージル『特性のない男』の読了が遠のいていくわけだ。
それでコンピューターをシャットダウンし、荷物をまとめて上階へ。母親がまごまごと支度をするのを手帳を眺めながら待ち、一旦支度が出来て玄関まで行ったかと思えば、ここでもまたぐずぐずとトイレに行ったり何だりしていて待たされるのでやはり手帳を眺め、そうしてようやく家の外に出た。風が流れており、林から竹の葉の黄色い集団が雨に混じって舞い落ちるのがふたたび見られた。それで車に乗り、持ってきたFISHMANS『ORANGE』のディスクをシステムに挿入する。
最初に、時計の電池を替えてもらうために時計屋に寄るとのことだった。薄く流れる音楽を聞きながら車に揺られていると、自分は乗っているからお前が店に行ってきてくれと言われたので了解し、駅前に着くと小さな時計を持って車を降りた。入店すると、店の奥にいた主人がいらっしゃいませと声を掛けてきたので、こんにちは、と言い、鷹揚な足取りで近づいて行き、電池を取り替えてもらいたいんですがと頼んだ。高年の、白髪のもうあまり残っていない主人はすぐに了解し、お掛けになってお待ち下さいとのことだったので、宝石のついた指輪の並んだケースの前に置かれていた椅子に腰を掛けた。ケースの向こう、室の角のところで主人は作業をしており、その傍の壁には一面いっぱいに時計が掛けられてあって、複数の振り子が微妙にずれて交錯しながらかちかちと音を重ねているのを聞いていると、このような響きのなかにある時計屋というのは独特な雰囲気の空間だなと思われた。ケースのなかの宝石――小さなダイヤモンドやら、サファイアやら、ペリドットやらエメラルドやら――を眺めているうちに作業は終わって、主人は壁の時計を見やりながら手もとの時計の時刻を合わせてくれ、動くようになりましたけど、と言うので礼を言った。二五〇円だと言う。硬貨でぴったり支払って、レシートを受け取ってどうもありがとうございましたと礼を言うと、またお願いしますと主人は返した。それでふたたび鷹揚な足取りて出口まで歩いて退店し、車に戻り、母親に時計を渡すとふたたび発車した。
さっさと図書館に下ろしてもらっても良かったのだが、スーパーやユニクロに行きたいと母親は言う。それに付き合う義理も特段あったわけでもないけれど、先にそちらに行っても良いかと言うので、まあ良いかと了承し、一路東へ走った。そうしてスーパー「ジェーソン」に到着する。こちらはだらだらと眠ったにも関わらず――あるいはむしろそのために――何だか身体が疲れているような感じがして、呻きを漏らしながら車から降り、目つきの弱いような覇気のない顔でカートを持って入店した。それで基本的に母親のあとをついて回り、ジュースの缶やらペットボトルやら、菓子やらを籠に収めていく。その他、母親が翌日、自治会の会合で使うらしい紙コップや、化粧水など。これで良いと言いながら母親が店内を見て回るのをやめないので、結局それに付き合ってほとんど隅々まで回ることになったが、実に色々な品物が売っているものだ――なかにはペットをあやすための、尻尾のような毛が先端についた棒などという製品まであって、人間よくぞこうしたものを思いついて売り出そうと考えるものである。それで会計、二七〇〇円少々だかを一万円札で支払い、整理台に移って二つのビニール袋に品物を分けて詰めた。そうして退店し、車に戻ると、今度はすぐ斜め向かいにあるユニクロに移動した。高年の案内員の誘導に従って駐車場に入って車を停め、降りて案内員の傍を通り過ぎる時に母親が会釈すると、彼はいらっしゃいませ、とにこやかに声を掛けてくれたので、こちらも会釈をした。それで入店。入ってすぐのところにまあまあ見目の良いパンツの類が置かれてあって、四〇〇〇円くらいだったが、ユニクロで街着を買おうとは思わない、買うとすれば肌着や靴下の類である。それでフロアの奥に進んで、靴下を見たり、下着を見分したりした結果、ニット・トランクスを二枚買うことにした。品物を手に掴んで店内を回り、母親を見つけると、彼女はカーディガンを見分しているところだった。籠を持ってきてトランクス二つをそのなかに入れ、母親を待っていると彼女も買うものを決めたのでカーディガンを受け取って籠に入れ、そうして会計してきてと言うので一人で支払いに向かった。ユニクロの支払いはセルフレジになっていて、こちらの前には高年の男性が並んでいて、女性の店員が丁寧に案内をしていた。こちらも教えてもらわないと良くもわからないなと思っていたところが、実際は特段苦労もしない簡単なシステムで、ハンガーは事前に取っておかなければならないのだけれど、籠をスペースに収めて、手もとのタッチパネルで案内に従っていれば――押すのは大概、「次に」か「確定」かである――自然と支払いが完了した。代金は三〇〇〇円ぴったりだった。そうして支払いを終えると背後の台に近づき、合流した母親の用意したビニール袋に品物を入れ――「ジェーソン」でもあったのだが、この際、袋の口を指で擦ってひらくことができない母親が渡してきたものをこちらが触れて擦ると、簡単にひらくことができるのだった。やはり歳を取ると指からも油や水気がなくなるということなのだろうか――退店した。退店する際、前を親子連れが通っていて、その子供が数人、ペンギンの子供のようにしてよちよちと歩いていて可愛らしかった。
車に戻ると発車し、あとは図書館に寄ってもらうだけである。セカンド・ストリートに寄ろうと誘われたが、明日Nと服を見に行くからと断って、それでしばらくすると図書館の付近に到着して車を降りた。近くの八百屋に長い行列が出来ていたのだが、これはどうも焼き芋の売出しが始まって、それを目当ての客だったのではないか。おそらくその八百屋の客の持ち犬だと思うけれど、傍のガードレールのポールに紐を繋がれて大人しく待っている薄褐色の犬――柴犬だろうか?――がいたので通り過ぎがてら、他人の犬なのに勝手に頭を撫でてやったが、あまり大した反応も見せない無頓着な犬だった。そうして紅色と白のハナミズキの咲きはじめている街路を歩いて行き、図書館に入館し、CDの新着棚を見るとジェシー・ハリスのアルバムや、イリアーヌ・イリアスのブラジリアン・アルバム――ランディ・ブレッカーやマイク・マイニエリが参加しているけれどこれはあまり借りようという気にはならない――、ほかにはOmer Avitalの新作らしきものがあって、こちらは少々興味を惹かれた。しかし今はT田から借りたクラシックを聞く期間なので借りはせずに上階に行き、新着図書を見ると、松浦寿輝の新刊、『人外』が入っていた。それで書架のあいだを抜けて大窓際に。席は空いていて、容易に一席に入ることができた。リュックサックを置くとそのまま席を離れて、政治哲学のあたりをちょっと見たのち、フロアを横切って海外文学の方に行った。鼓直訳の作品は何かないかと思ってスペイン語文学の区画を見たのだったが、『族長の秋』と『百年の孤独』くらいしかなさそうだった。文庫の方を見ると、ボルヘスの『アレフ』と、『創造者』だったか、そんなような名前の作があったけれど、ボルヘスには今のところそこまでの強い興味は抱いていない。しかしいずれは読んでみても良いだろう。確認するだけして席に戻り、いよいよコンピューターを取り出して日記を書こうというところで、リュックサックのなかに入っている携帯が持続的に震えているのに気づいた。電話である。誰かと思って取り出せば母親の名があって、ひとまずテラスが遠いので着信を切ってみると、既に五件くらい着信が入っていて、メールもある。簡易留守メモを聞くと、鍵を持っていったままだろうと焦り困った声音が聞き取れて、それでとりあえず連絡しようとテラスの方に歩いている途中、ふたたび着信が入った。テラスに出ながらそれを受け、通話に出ると、車の鍵を持って行ってしまっているだろうと、やや激しい、困惑した調子で告げられる。こちらが鍵を持って出てしまったので車を再発進できなくなったということらしい。それで今いくと告げて切り、やれやれと思いながらフロアを横切って階段に行き、退館すると道に下りて、しかし急がず、走ることもせずに、ジャケットを広げる向かい風のなか、先ほど降りたその場所に停まっている車に向かった。着くと母親は、お父さんにも電話しちゃったと言う。鍵を渡し、たまに携帯見てねと言われるのに扉を閉め、そうして道を戻った。八百屋の行列は解消されており、繋がれていた犬も既にいなくなっていた。道を渡ってハナミズキの下を通り、階段を上がってふたたび入館、席に戻ると今度こそコンピューターを取り出し、ハンカチを尻のポケットから出してマウスとモニターの上を拭うと、起動スイッチを押した。コンピューターとEvernoteの準備が整うのを待つあいだ、手帳を眺めて過ごし、まもなく準備が整って、五時直前から日記を書き出した。そうして五〇分ほどでここまで綴った。あちこち行ったので一時間を越えるかと思ったが、そうでもなく、スムーズに書けたものだ。
その後七時過ぎまで、ハンナ・アーレント/ウルズラ・ルッツ編/佐藤和夫訳『政治とは何か』から手帳にメモ。九二頁の記述によれば、ローマにおける「レックス lex」というのは本来「持続的結合」を表しており、ここからさらに契約・条約という意味が生まれた。つまり、法律というものはそこにおいては、話し合いによって成立したものであり、議論のやり取りと深く結びついたものだったのだ。そしてこの言論による対話こそが、ギリシア・ローマの観念では、政治的なものすべての中心にあるものだった。
ところが九五頁にはまた、法律はその成立からしても本質からしても暴力的なところがあるとも述べられている。それは、(自然をも改変する暴力的な力という含意をおそらく持った)「制作」によって生み出されたものであり、「活動」によってではないと言われるのだ。これは矛盾ではないか――と思ったのだが、読み返してみると、この九五頁の記述は、ギリシア人のあいだでの法について説明している文脈のなかにあるものだった。そこにおいてはローマ人のあいだにおける法律概念とは異なって、法とは(おそらく単独の?)立法者が考え生み出すものであり、政治的な領域の前段階に位置し、それが定められたあとからその内部に政治的空間が成立するものだと言う。言わばそれは、所与として政治的領域の外部から押しつけられ、境界を定めるものだということだろう。ギリシアにおいては、法というものはポリスにおける主人であり、命令者でもあって、法への服従は息子の父親への服従あるいは主人と奴隷の関係に喩えられている。
対してローマにおける法律は、先住者と侵入者のあいだの契約から生まれた。これはつまり、ローマにおいては政治が外交として始まったということを意味する。反対にギリシア人にとって外交――自己のポリスの境界線を越えたところにある他のポリスとの関係――は強制と暴力の原理が支配する非政治的な領域だった。一〇三頁には、外交政治という概念、つまりは自分の民族や都市を越えたところに政治秩序があるという考え方はローマから生まれた、と同趣旨のことが繰り返されている。我々は法を、服従を求める掟として考えることに慣れているが、本来法律というものは話し合いから生じたのであって、我々が自由に「活動」――アーレントにおけるこの語は、人間が自由と平等を前提にして、身分や地位に左右されず、互いにかけがえのない存在として認め合うような共同行為という意味をはらんでいる――できる空間を契約によって生み出すものなのだ。
メモをしたのち、書抜きもしてしまおうかとも思ったのだが、もう時刻も遅いし、帰ることにした。荷物をまとめて席を立ち、政治哲学の区画をちょっと眺める。さらには人種問題などの著作も眺め――ここにレオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史』全五巻が並んでいる――それから哲学の区画に移動した。千葉雅也の『意味のない無意味』が棚に新しくお目見えしていた。そのほか面白そうな著作はいくらもあってよほど借りようかと思ったのだが、ひとまずは『族長の秋』を読むのだというわけで誘惑を払い、階段を下りて退館に向かった。外に出ると、手に持っていた神崎繁『内乱の政治哲学――忘却と制圧』をブックポストに入れ、歩廊に踏み出す。紅色のハナミズキが街灯の明かりを受けて鮮やかに色を撒いている。歩廊を渡って駅へ入り、掲示板の前で電車を確認すると、次に来る青梅行きがちょうど奥多摩行き接続のものだった。ホームに下りると風が冷たく、ベンチに座っている人も脚をばたばたと貧乏揺すりさせている。風を防ぐためにエレベーターの周囲の壁の蔭に隠れ、手帳を取り出して読み返した。そうして電車がやって来ると乗り、扉際に立って引き続き手帳に視線を落とす。青梅に着くとすぐ向かいの奥多摩行きに乗り換え、しばらく揺られて最寄り駅着、夜闇のなかでも青々と締まった桜の、もう緑一色に統一されている姿を見やりながら駅を抜けると、横断歩道周辺の足もとに白い花びらがしかし散っているのは遅れて咲いた八重桜のものである。渡って静寂の坂道に入り、寒風のなか帰路を辿った。
帰宅して母親に挨拶するとすぐに下階に戻り、コンピューターを机上に据えるとともに服をジャージに着替えた。そうして食事へ。米・メンチカツ・挽き肉の炒め物・キャベツの生サラダ・汁物である。あの八百屋、河辺の、あそこで水菜が一袋七円だったよなどと母親に話しつつものを食べ、食べ終えると薬を飲んで皿を洗ってすぐに風呂に行った。湯に浸かりはじめると同時に、家の外で父親の車が帰ってきた音がした。出て、食事を食べはじめるところの父親に挨拶し、「ジェーソン」で買ったポップコーンとカルピスを持って下階に帰った。Yさんとやり取りをしながら、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)とともにMさんのブログを読み出す。三日分を読んで最新記事に追いつき、それからハンナ・アーレント/ウルズラ・ルッツ編/佐藤和夫訳『政治とは何か』の書抜きをした。そうして時刻は一〇時。一〇時ぴったりから日記を書き出し、音楽はDominique Visse; Ensemble Clement Janequin『Janequin: Le Chant Des Oyseaulx』を通過してLeopold Stokowski: New Philharmonia Orchestra『Tchaikovsky: Symphony #5; Mussorgsky/Stokowski: Pictures At An Exhibition』を先ほど聞きはじめた現在は一〇時五五分である。やはりこのアルバムは冒頭、チャイコフスキーの第一楽章の、非常に大仰で雄々しく豪壮なメロディが好きかもしれない。
一一時半からベッドに移り、ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓直・木村榮一訳『族長の秋 他六篇』を読みはじめた。冒頭、「大きな翼のある、ひどく年取った男」。ペラーヨとエリセンダの家に現れた「天使」の効験に与ろうと、「カリブ海じゅうの不幸な重病人たち」が彼らの家を訪れてくる。そのなかに、「子供のときから心臓の動悸をかぞえ続けて、今では数のほうが不足しはじめた哀れな女」や、「星の動く音が苦になって眠れないジャマイカの男」などがいるのだが、このあたりの荒唐無稽な、しかし完全に非現実的とも言い切れないような絶妙な奇想が実にガルシア=マルケスらしい。「天使」という一見不思議な、超自然的な存在の出現よりも、こうした奇妙な病人の性質を語る、僅か一、二行に凝縮された記述の贅沢な使い方のほうにこそ、マルケスという作家の匂いを強く感じるものだ。
さて、その「天使」の方も、人間の理解を絶している否定しがたく超自然的な存在というわけではなく、翼という本来人間には存在しない体組織は備えているものの、地上のものとも天のものともつかないある意味で中途半端な生き物である。彼が行ったと見なされる「奇跡」も不完全なもので、盲人には視力を回復させる代わりに三本の歯を与える、といった類のものであり、本文中で述べられている通り、それらは「むしろ悪ふざけとしか思えない」。篇の後半ではそれまで何語ともわからなかった彼の話す言語が地の文において「古代ノルウェー語」であるとはっきり確定されており――ちなみに、この「天使」の素性を調査する教皇庁の書簡には、彼が「翼のあるノルウェー人に過ぎないのではないか」という疑惑が述べられているのだが、一体なぜノルウェーなのか?――また、彼は時折り、星空の下で「船乗りの歌」を歌う習慣があるらしい。そのように妙に人間臭さを持っているこの「天使」に対する民衆層――「無知な人びと」――の基本的な反応は、予想される通り、彼を見世物扱いにするというものである。そのおかげでペラーヨとエリセンダは多額の金を稼ぎ、家も新築することが出来たので、そうした意味ではこの「天使」は彼らに幸福をもたらす天の使いだったと言えなくもないのかもしれないが、見世物としても中途半端な彼は、民衆の娯楽的な関心の対象としてより完全な「怪物」――「表からも裏からも」調べてみてもいんちきであることが窺われない蜘蛛女――に劣っており、やがてお払い箱になってしまう。それでも家中の寝室に、台所にとうろつき回る「天使」に対して、エリセンダなどは、「なんの因果で、こんな天使だらけの地獄に住まなきゃならないのかしら」と「大きな声で喚い」てみせる始末であり、彼女は完全に彼を侮り、疎ましく思っているようだ。
そもそも彼女や人々はこの年取った男を「天使」として疑うことなく受け入れているようなのだが、その根拠となっているのは「生と死に関わりのあることならなんでも心得ている隣家の」「物知りの老婆」の、「これは、天使だよ」という無条件の断言のみである。遅々として進まない教皇庁の馬鹿馬鹿しい調査――何しろ、それは「囚人にへそがあるかないか」、「針の穴を何度もくぐることが可能か否か」といった類のものだ――にも関わらず、男が「天使」だと確定されたという結果は導き出されていない。お上の判断は下っていないのだ。翼を生やしているのだから人間としての法則を幾分外れた存在であることは間違いないが、先のようにその効験もとてもあらたかとは言えない半端なもので、超自然的な能力を備えているとも思われず、曖昧な生物なのである。従って、この篇のタイトルはあくまで「大きな翼のある、ひどく年取った男」でなくてはならず、そこに「天使」という言葉が入っていないのも頷けるところだろう。
この「天使」はその特徴として、「光」と結びついたところがあるらしく、その点は一応「天使」らしいと言うことが出来るかもしれない。彼はまず最初に、「真っ昼間だというのに乏しい光線」のなか、ペラーヨ宅の中庭に現れる。小屋に収められてからは、「広げた翼を太陽の光線で乾かして」おり、その身体には「我慢のならない日なた臭さ」が染みついている。さらに、衰弱してうわごとを呟くまでになっていた彼はしかし「春の光を浴びて元気を回復し」、一二月のある朝、「光のなかを滑」りながら羽ばたき、飛び立って去って行くのだった――もっともその羽ばたきは「見っともない」、「老いぼれた禿鷹のようなはらはらする」ものではあったが。
一時半前まで同書を読んで、就寝。
・作文
12:12 - 12:59 = 47分
16:55 - 17:44 = 49分
22:00 - 22:56 = 56分
計: 2時間32分
・読書
13:37 - 13:56 = 19分
20:55 - 21:56 = 1時間1分
23:30 - 25:22 = 1時間52分
計: 3時間12分
- 「記憶」: 127 - 138
- 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-04-24「服装の趣向を変える頻繁にあだ名をつけられるよりはやく」; 2019-04-25「通り魔の類型的な弁明にどんな立場で失望してる」; 2019-04-26「外国の詩集を燃やすたちのぼれ狼煙よ綴れ象形文字を」
- ハンナ・アーレント/ウルズラ・ルッツ編/佐藤和夫訳『政治とは何か』岩波書店、二〇〇四年、書抜き
- ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓直・木村榮一訳『族長の秋 他六篇』: 11 - 28
・睡眠
1:00 - 11:00 = 10時間
・音楽
- FISHMANS『Oh! Mountain』
- Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)
- Dominique Visse; Ensemble Clement Janequin『Janequin: Le Chant Des Oyseaulx』
- Leopold Stokowski: New Philharmonia Orchestra『Tchaikovsky: Symphony #5; Mussorgsky/Stokowski: Pictures At An Exhibition』