2019/5/7, Tue.

 九時のアラームで起きるも布団に舞い戻ってしまい、一一時まで朝寝坊。携帯電話の持続する振動の音で床を抜け出すことができた。電話は母親からで、雨が降ってきたので洗濯物を入れてくれとのことだった。外は無色の曇り色だった。上階に行き、寝間着をジャージに着替えてから洗濯物を取り込み、台所に行って冷蔵庫から昨晩の汁物の鍋を取りだし、火に掛けた。一方で海老フライを一本、電子レンジで加熱し、ゆで卵とともに卓に運んで一人で食事を始めた。黙々とものを食べ終えると薬を飲み、台所に行って食器を洗った。気温が低く、寒さを少々感じたので、久しぶりに温かい茶でも飲むかというわけで、急須と湯呑みを用意し、一杯湯呑みに注いだあと、もう二杯分ほどの湯を急須のなかに入れて、両手にそれぞれ持って下階に下りた。まもなくYさんからチャット上でメッセージが届いたので、茶を飲みながらやりとりを交わした。彼はThe Valerie Projectという音楽が好きだと言ってリンクを貼ったので、Youtubeのそれを流しつつ、Yさんとのやりとりを終えたあとはのりしお味のポテトチップスをつまんだ。すべて食べ終えてしまうと手を拭いて、それからAくんへメールを返信した。昨日、『族長の秋 他六篇』の感想を書いたから是非とも読んでくれとのメールを送って、それに対する返信が入っていたのだ。長々と綴って一二時半前になって、そこから日記を書き出した。音楽は、The Valerie Projectが終わると例によってFISHMANS『Oh! Mountain』を流した。そうしてここまで綴って一時四〇分となっている。
 書き忘れていたが途中、母親が帰ってきた気配があったので顔を見せに上階に行った。その際ついでに風呂を洗ってしまおうと浴室に入ったが、湯が結構残っていたので母親に伺いを立てると、じゃあ洗わなくて良いやとなったので洗濯機に繋がったポンプのみ湯のなかから抜いておいて浴室を抜け、母親の買ってきたおにぎり三種のうちツナのものを貰って下階に下り、即座に貪り食ったのだった。
 前日の記事をブログに投稿すると、上階に行った。両親はそれぞれ、母親が炬燵テーブルで、父親は卓に向かって何かの書類を前にして、静かに書き物をしていた。文字を見やすくするためだろう、居間の天井の電灯が点けられていた。こちらは炬燵テーブルの上に乗せてあった書類をどかし、そこにアイロン台を置いてアイロンを掛けはじめた。シャツ二枚とエプロン一枚を処理すると、下階に戻り、二時二〇分から金原ひとみ『アッシュベイビー』を読みはじめた。読みはじめたと言っても最初のうちは手帳に昨晩読んだ箇所までの感想や分析を綴っており、そうしているといつの間にか四〇分ほどが経って三時を越えていた。
 この小説の第一の特徴は性描写の、ほとんど物質的と言いたいような、石のように乾いた即物性、散文性だろう。その描写方法は外面的な行為の記述ばかりで、そこに性の喜び、官能の甘やかな愉悦はまったく香り立たない。性行為の主体は一応絶頂に達してはいるのだが、それはただ「イッた」と端的に書かれるだけで、そこにあるはずの「気持ち良さ」については何も言及されない。主人公であるアヤは、自慰のあとの「余韻」を味わうこともしないのだ。彼女は合コンで出会った「モコ」と直後にその場で行為に及ぶほどに性に奔放な人間だが、その積極性とは裏腹に、彼女自身の語りによる記述は淡白そのもので、まるで彼女にとって性行為は気の進まない義務であるような、あるいはただただ退屈な単なる習慣に過ぎないかのような印象を受ける。
 アヤは暴力性を内にはらんだ女性である。冒頭からして、登校中の小学生を「ガキ」と呼び、「奴」と言い換え、「そいつら」という代名詞で名指し、そのような粗野な言葉遣いで苛立ちを示している。さらに彼女は苛立ちのあまり、「「殺すぞ」とすごみたい」「母親を見つけだして奴らの目の前で子供を虐殺してやりたくなる」と危険な衝動を語っている。この暴力性の発露、度を越えた過剰な苛立ちと――むしろ憎悪と呼びたいほどの――嫌悪はいささか異常とも言えるもので、実際彼女自身も「私みたいな異常者」と自称しているくらいだ。
 冒頭の二〇頁のうちで、彼女が「殺人」についての思念を頭に浮かべる箇所がもう一つある。それは一九頁であり、そこで彼女は、「恐ろしいほどに互いを知り合っている女たち」を見ていると、「いつかどちらかがどちらかを刺し殺してしまいそうな気がする」と表明している(しかし、殺人の手段は数あるなかで、何故、「刺殺」なのか?)。「あまりにも他人を知ってしまった時、人は死ぬか殺すかの二択になってしまうのではないかと、思う」というのが彼女の人間観だ。一方では自らの殺意の衝動であり、一方では殺人に至りかねない(と彼女には思われる)人間関係への恐怖だが、序盤の僅かな記述のうちに、いささか突拍子もないようにも感じられる「殺人」の観念を二度も脳内に思い浮かべているというのは、彼女にとってこうした過激な思考が身近で、日常的なものであることを示すものではないか。事前情報によって先取りすると、彼女はのちに、愛する男に「殺されたい」と願うようになるらしいが、そうした「異常な」、一線を越えた欲望は、このような形で物語の序盤から準備されているのだろう。
 そのような感想を手帳に書き綴ったあと、ベッドの上で身体に布団を掛けながら続きを読んだ。外では雨が棕櫚の木の上にぽつぽつと降り注いでいた。アヤは外面的な女性なのかもしれない。彼女が「村野さん」に出会って第一に見留めたのもその手の「美しさ」だった。そうした性質がアヤにあるとするならば、それは性描写の表層性とも通ずるものかもしれない。四時過ぎまで読書を続けたあと――BGMとしてBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)を流していた――音楽をBob Dylan『Live 1975: The Rolling Thunder Revue Concert』に繋げて、日記を書きはじめた。四時半現在、空はまだ濁っているものの、大気中には潮垂れた光が漂って、近所の家の外壁の黄色っぽいクリーム色が少々明るくなっている。
 Nさんへのダイレクト・メッセージの返信を綴ると、時刻はほぼ五時に至った。食事の支度をするために上階に行った。母親はいつものごとく、炬燵に入ってタブレットを操作し、覗き込んでいた。菜っ葉を茹でてくれと言うので台所に入ってフライパンに水を汲み、火に掛けたあと、食器乾燥機のなかの食器を戸棚やカウンターの上に片付けると、下階に戻って手帳を取ってきた。それを眺めながら湯が沸くのを待った。何もせずにただ漫然と待っていると待ち時間は長く、焦れったく感じられるのに、手帳に書かれたことを読んでいると時間は短くいくらも読めず、あっという間に湯は沸いて菜っ葉を投入することになった。箸で搔き混ぜていると、薄緑色の小さな芋虫が箸先に引っ掛かった。母親に言うと大袈裟な嫌気を示してうるさそうなので何も言わずに流し台の排水口に捨てておき、ちょっと経つと野良坊菜を笊に茹でこぼし、ボウルのなかで水に浸した。それから、肉と玉ねぎの炒め物を作ることにした。大きく丸々と太った玉ねぎを一つ取り、皮を剝いて細切りにした。それから三枚の平べったいロース肉をそれぞれ三等分して、生の肉を触れた手を洗うとフライパンにオリーブ・オイルを引き、チューブのニンニクを落とした。加熱しているあいだにパックに置いた肉の上に生姜をすり下ろし、まず玉ねぎをフライパンに投入した。フライパンを振りながらしばらく炒めて、まだやや固いかとも思われる程度のところで一旦丼に取りだした。それからふたたびオリーブ・オイルを垂らし、改めて肉を敷いた。蓋をしながら加熱していき、待っているあいだは手帳を見ながら時間を過ごして、両面に多少焦げ目がついて丁度良く焼けると、取りだしておいた玉ねぎを上からばらばらと掛けて全体を埋めた。そうしてあと少し熱して完成、残りのサラダなどはやってくれと母親に頼んで下階に下りると、YさんのSkypeグループにまたもや新しい人が増えていたので挨拶のメッセージを投稿しておいた。それからベッドに乗って読書を始めた。川の周辺の林の木々の上に、萎れていく太陽の光と蔭との境界線が作られていた。六時半前になると、南の空の低みにはゼニアオイ色に染まった雲が揺蕩い、その上方には上部の表面を茜色に燃やした雲が浮かんでいた。五分少々経ってからふたたび窓の外を眺めると、ゼニアオイ色が上空へと浮かび上がって、茜色は既に見られなくなっていた。
 金原ひとみ『アッシュベイビー』。村野の基本的な属性は無関心と冷淡さである。彼はキャバクラの接待の場でも周囲で馬鹿騒ぎする上司たちを「見下したような目」をしており、アヤの見るところ、その場にある物事の「全てを軽蔑している」。店にいるあいだ、ほかに見せる表情と言えばせいぜい「爽やかな作り笑顔」くらいで、その心の内は見えない。また、彼はほとんど完全に受動的な人間であり、常に成り行き任せに物事を受け止めているようだ。アヤとホテルに行くのも、彼自身の欲望に基づく行動をしているのではなく、「村野さんと寝たいんです」という彼女の望みに答えただけである。アヤが何故、この無表情な男にそこまで惹かれ、執着するのか、その具体的な内実は掘り下げて記されてはおらず、少々不可解に思えるのだが、その点は彼女自身も、「どうして私はこんなつまらない男に惹かれてしまうんだろう」と述懐している。
 アヤが出会った最初の瞬間からほとんど一目惚れ的に惹かれるのは、村野の手の「完璧なフォルム」、その美しさであり、煙草を口元へ運ぶその「優雅な動き」は、「水草をついばむ白鳥」に喩えられている。のちには彼が好みの男である理由として、「手に血管浮き出てるし、何より指細いし、長いし」とも述べられており、アヤはいわゆる「手フェチ」の女性であるようだ。外面的な――それも、確かに整ってもいるらしい「顔」よりも、周縁的な体部品である「手」という――部分から始まるアヤの恋情は、しかし、村野の内側に入りこんでそのなかを見通すことはできず、表面に留まらざるを得ない。村野が何にも関心がないように見え、その内面性を露わに示すことのない男だからである。アヤは村野が「どんな表情でイクのかとか、どんな表情で責めるのかとか」を妄想し、「表情」という外面を通して彼の内面性に到達したいと欲望するのだが、八六頁まで読んだところでは、彼女を待っているのはそつのない冷血漢の鉄面皮のみである。むしろ、その謎めいた見通せなさ、つかみどころのなさにこそ、彼女は惹かれているのだろうか? ただし、彼がその鉄壁の外面性を崩す瞬間が一箇所あり、そこで浮かべられた「嫌味のない微笑み」に、アヤは当然のことながら、「胸を高鳴らせ、涙を流しそうなほど感動」することにもなるのだが。
 七時まで読書を続け、そのあと日記を書き足してから食事を取るために上階に行った。母親の手によって、炒め物以外にサラダやアンチョビ・スープが拵えられていた。それらをそれぞれ用意して卓に運び、炒め物に焼き肉のたれを掛け、玉ねぎや豚肉をおかずにしながら米を咀嚼した。テレビは何を映していたのか覚えていない。ものを食べ終わると薬を飲んで食器を洗い、風呂に行こうというところで八時に至って歌唱番組が始まり、デーモン小暮閣下氷川きよしという異色の組み合わせが中島みゆきの"時代"を歌いはじめた。それをちょっとだけ見やってから下着と寝間着を持って風呂に行き、入浴を済ませてくると即座に下階に帰った。Bob DylanMTV Unplugged』をこの時流したのだったと思う。そうして、Iさんから頂いた小説を読んだ。短いものだったので、三〇分か四〇分ほどですぐに読み終えた。あまり一般の小説に見られないような固い語を時折り効果的に混ぜたしっかりとした文体の佳作だった。読み終えるとすぐにそのままの勢いで、短い感想を綴った。

 深々と雪の降りしきる音だけが響く無音の風景のような静謐と、死の「白い」空気感がまざまざと、手に触れるように感じられる優れた小品でした。その空気の質感が抽象的な雰囲気だけに留まっているのではなくて、具体的で確かな筆力によって支えられているのが如実に感得できます。例えば僕には、「線香の煙によってか、そこには薄紫の面紗が掛かっており、濃密な死の香りが、冬の澄んだ空気に馴致された彼の鼻を刺激した」という一文に見られる感覚の転換や、「雪国では、一面の銀の雪原に太陽が反照し、烙印さながらにかえってその白肌を灼く」のなかの「烙印さながらに」という一節などが印象的でした。物語としても整然と、行儀良く見事にまとまっていると思います。
 「廃市」と言うと、福永武彦が同名の小説を書いていたなと思い出されますが――まだ読んだことはありませんが――、白秋もそのような言葉を使っているんですかね? この作品では街の描写は直接的にはなされていませんが、全篇に立ち籠めているまさしく「白い」、そして「昏い」雰囲気のおかげで、「雪の廃市」のやりきれないような、囚牢的な閉鎖性が文章の余白に香り立ってくるように思われました。
 その他、ほかの小説では見かけないような語彙が散見されることも特徴だと思います。「霏々として」などという表現はまったく初めて目にするものでした。ほかにも、「頽爛」、「奔騰」、「冷艶」といった固めの語が、透徹された記述に相応しく要所で効果的に用いられているのも特筆するべきでしょう。このあたりの語彙の使い方はこちらとしても勉強になるものでした。
 全体として、非常に短い掌篇ではありますが、文体にせよ構成にせよ密に整っており、短さが瑕疵にならず読み応えのある、きらりと光る佳品だったと思います。若干二〇歳でこのようなものが書けるとは、羨ましい実力です。ありがとうございました。

 そうして九時半から、ベッドに移ってふたたび金原ひとみ『アッシュベイビー』を読みはじめた。四〇分ほど読んで一〇時を過ぎると、そろそろSkypeで通話が始まるだろうかとベッドを抜け出し、コンピューターに寄った。H.Sさんが友人であるY味さんという方を連れてきていた。その方に挨拶をしておき、一〇時半が近くなるとこちらが通話ボタンを押して電話を始めたのだったが、Yさんしか応答しなかったので、一度切ることになった。それからしばらく誰も発言しない時間が続いたあいだ、こちらはYさんが紹介してくれた、福岡伸一をゲストに迎えたピーター・バラカンのラジオを聞いていた。聞いていると一一時に近くなったところで通話が掛かってきたので応答した。参加したのはYさんとAさんとこちらの三人だった。Yさんはもうベッドに臥せていたようで黙りがちで、ほとんど喋らなかったので、実質Aさんと二人きりのような形だった。彼はさらに、途中から本当に眠りはじめてその寝息が通話空間のなかに入ってきていたので、こちらが彼を通話のなかから「追放」してしまい、本当にAさんと二人きりで話すことになった。一一時前に始めて一時過ぎまで二時間二〇分ほどぶっ通しで話し続けていたことになる。
 Aさんは兵庫県に住んでおり、大阪の大学の二回生だと言った。何か部活をやっていましたかと訊かれて、高校生の頃から軽音楽部でバンドをやっていたと答えると、彼女も同じだと言う。のちには塾講師のアルバイトをしていることも明かされて、こちらもフリーターとして塾でアルバイトをしていたので、何だか結構共通点が多いなと笑い合った。彼女は大学でもバンドをやっていたのだが、部費が高かったり忙しかったりで今は休部中なのだと言った。彼女が好きな音楽はクラシックだったり電子音楽だったり民族音楽だったりして、バンドで簡単にできるような曲ではないこともあって、自分の好きな曲を演ずることはできないが、歌うのが好きなのでボーカルで参加していたのだと話した。椎名林檎東京事変のカバーなどをやっていたらしい。それで、こちらも大学時代にやっていたものなので、懐かしいなと応じた。こちらがやっていた曲として、"林檎の唄"を挙げると、彼女はわかるようだった。そのほか、記憶が曖昧だったが、"水槽"みたいな名前の曲がなかったかと口に出して探っているうちに、"水槽"ではなくて"浴室"だったと思い出し、それも口にすると、Aさんは、結構やりづらい雰囲気の曲をやりますねと答えた。
 音楽に関することでは、ジャズの話も少々――と言っても本当にほんの少しだったが――あった。Aさんはジャズは音楽としては大好きだが、特に詳しいわけではないらしい。定番中の定番ですけれど、と言いながら、僕はBill Evansの一番有名なライブ音源、『Waltz For Debby』というのが大好きで、毎日流していますと紹介した――本当のところ流しているのは『Waltz For Debby』や『Sunday At The Village Vanguard』の盤ではなく、一九六一年六月二五日のライブを編集せずに実際のままの順番で収録した『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』なのだけれど。
 文学の話にも当然なった。Aさんはホラー・ミステリー・SF・ファンタジーと非常に幅広く読んでいて、純文学系統のものにも手を出しているようだった。小学校三年生くらいからの活字中毒であるらしく、小学生の頃などは一日二〇冊くらい一気に読むこともあったと言うので驚いた。よほど読むのが速いのだろう――本人は特に速読をしている意識はなく、普通に読んでいるつもりらしかったが。そんな読書家である彼女の一番のフェイヴァリットは皆川博子である。皆川という作家はこちらは名前だけ知っていて、まだ一冊も読んだことはないのだが、もう八九歳なのだと言うので驚いた。八九歳でよく小説を書くものだ! 耳などもうほとんど聞こえないらしいと言うが、それでも出版記念か何かで肉を食うパーティーなどひらいているらしく、それを聞いてこちらは、やはり肉なんでしょうね、瀬戸内寂聴もステーキ食べるって言ってましたもん、と応じ、以前Mさんと話したことだが、長生きする人間というのはやっぱりとにかく胃が丈夫なんでしょうねと漏らした。Aさんも胃だけは丈夫だと言ったが、身体は弱いと言う。それはつまり、風邪を引きやすいとか、とこちらは訊いたのだがそうではなくて、紫外線アレルギーやハウスダスト・アレルギーなどを持っているのだということだった。
 ガルシア=マルケスでは『エレンディラ』が一番好きかもしれないとAさんは昨日、チャットで発言していた。それを取り上げて、『エレンディラ』のどんなところが好きですかと訊くと、一言で言えばやっぱり非常に幻想的なところ、という返答があった。こちらは『族長の秋』が一番好きで、先日読んだ回でもう七回くらい読んでいると明かした。Aさんも『百年の孤独』など読んだらしいが、『族長の秋』の方はまだ当たった時期がいくらか幼い頃だったので、途中で読むのを中断したということだった。
 『族長の秋』についてどんなところが魅力なのか、ということを「プレゼン」してくれと求められたので、ええー、と困惑の素振りを見せながらも説明した。『族長の秋』という小説はとにかく時空の移動が高速で、どんどんと流れていく、しかもそこで語られる事象が『百年の孤独』のように過去から未来への単線的な時間に乗っているのではなく、時系列が滅茶苦茶に乱されている、だから読んでいると、自分が今どこにいるのかわからなくなって、本当に時空の大きな流れの渦に、奔流にただ巻き込まれ、飲み込まれているような感じなのだと、概ねそのようなことを述べた。するとAさんは、わかります、やっぱり私も読んでいて、自分今どこにいるんやろ、みたいな、そういう風になる作品が好きですと応じた。
 『族長の秋』は七回も読んでいるものだから、今回は色々なことに気づくことができて、感想を結構書けたと話すと、どんなことを書いたのか「プレゼン」してくださいとふたたび要求されたので、マルケスの「列挙」の技法について述べた。ガルシア=マルケスという作家は具体的な事物を並列的に「並べる」ことの多い作家である。そして、そこで並べられる事物というのは概ねどれも長い修飾が付されて、非常に個性的な、唯一無二と言っても良いような具体性を付与されている。そのような記述を読んでいると、マルケスの世界というのは、河原に大きな石がごろごろと転がっているように、非常に多彩で豊かな「物」が溢れんばかりに詰まっている世界なのだなとそのような感じを受けるのだ、と大体そんなことを語った。これにもAさんは納得してくれたようだった。Aさん自身は本を非常にたくさん読んでいるけれど、感想を書いたりアウトプットをしたりするのは苦手なようで、Twitterで呟くことなんかも大体あらすじにプラスして「良かった」「素晴らしかった」みたいな発言になってしまうと言い、そのあたり悔しいと言うか、多少忸怩たるものがあるようだった。
 マルケスが好きだったら、ホセ・ドノソもお勧めだと彼女は言った。『夜のみだらな鳥』の作家で、『族長の秋』の訳者でもある鼓直が訳していることもあって、この作品も前々からずっと読みたいとは思っているものである。さらにAさんは、マルケスは幻想的と言っても、かなりオーソドックスな幻想性と言うか、きちんとしているような気がするけれど、もっと滅茶苦茶な小説は読んだことがありますかと訊いてきた。特にこちらは思い当たらなかったので、どんなものですかと訊くと、ソローキンの名が挙がったので、それで、ああ、ソローキン! と受けた。ウラジーミル・ソローキンも、名前はよく聞いており、ずっと読みたいと思っている作家である。Aさんによると、とにかく空っぽで滅茶苦茶で凄いらしい。その「空っぽ」という言葉を受けてこちらが思い出したのは勿論、我が敬愛するローベルト・ヴァルザーのことで、ヴァルザーというスイス出身の作家がいて、僕は結構好きでTwitterのアイコンとヘッダーに彼の写真を据えているくらいなんですよと紹介した。とにかくすかすかと言うか、空っぽな駄弁という感じです。ヴァルザーは生涯売れない作家生活を続けたあと、後半生の二〇年くらいかな、精神病院に入ってそこでずっと過ごすんですね、それで、病院のなかで物凄く小さい――と笑いながら――、ほとんど解読できないような文字で滅茶苦茶な小説を綴ったりしてたんです、と紹介した。例の「ミクログラム」の話である。するとAさんは、芸術家の方は何だかやっぱり、精神を病む人が多いですよね、やっぱり感受性が鋭すぎてそうなるんでしょうかと受けた。
 精神病の文脈になったので、こうした話をしたのは本当は一番終盤、通話を終える直前だったが、こちらの精神疾患についての話も書いておこう。もともとパニック障害というものを持っていて、それが何故だかわからないが変質して昨年は鬱病のようになっていた、それで仕事も休んで今現在はニートの身だが、そろそろ復帰する予定であると話した。Aさんはパニック障害について詳しいことを知らなかったようなので、こちらの発病の経緯と病気の症状についても説明した。こちらが最初の発作を迎えたのは大学時代、電車のなかでのことだった。突然息ができないようになり、激しい動悸がしはじめて、吐き気とは少々違うものの何かを吐くのではないかという感覚が生まれたのだが、発作に至るきっかけのようなものはなく、本当に突然やってきたので、「脳の誤作動」のようなもの、本当に「脳がバグった」みたいなことなのだと説明した。それで当然、ひとまず電車からは降り、ホームから階段を上がってトイレの個室に駆け込んだ。そこで三〇分ほど休んだわけだけれど、休んでも特に状態がよくなるわけではない。それでも帰らなければいけないので――その日は大学時代に属していたサークルのバンド練習があって出かけていたのだが、無論、とても練習に向かえるような状態ではなかった――意を決してトイレから抜け出し、ホームに下りたのだが、時刻は夕刻、ちょうど通勤や通学の帰りの人々が電車には大挙して詰まって満員を構成しており、それを見た瞬間に、これは駄目だな、これは死ぬなと思った。絶望という言葉にこれほど相応しい状況もなかなかない。それでこちらはどうしたかと言うと、電車には乗れないので、駅から出て、歩いて帰ることを選んだのだ。と言っても、自宅からは何駅も離れた場所で、徒歩で自宅まで辿り着けるものでもない。それで結局、三駅か四駅分くらいは歩いたが、と言うか固有地名を出すと降りたのは拝島で、そこから確か小作まで歩いたのだったが、そこで力尽きて、諦めて、ともかく乗ってしまおう、と電車に乗ったが、そのあいだも心臓は激しく動悸を売っているし、息も止まりそうな具合で、這々の体で何とか自宅に辿り着いたのだ。馬鹿げたことに、精神疾患という発想がその時はまだこちらの内にまったくなかったので、帰ると風邪を引いたのだろう、それで体調が悪かったのだろうと思って床に臥して眠った。それで翌日だったか数日後だったか、近間の内科に行って話をし、検査をしてもらったところ、外から見て特に悪いところは見受けられない、だから精神的なものではないかと医者に言われて、それで初めて自分が精神疾患というものに冒されたことを知り、インターネットで検索してパニック障害というものがあることを知ったのだ。
 パニック障害が困難なのは発作が起こるということも勿論あるが、厄介なのは予期不安及び広場恐怖である。一度電車内で発作が起こったものだから、ふたたび電車に乗るのが怖くなる、それで、予期不安と言うのだけれど、乗る前から物凄く緊張するし、乗ったあとも不安に苛まれて、それがピークに達すると発作に至るのだと説明した。そしてさらに厄介なのは、発作を恐れるあまり、いつどんな時でも「今、発作が起こったらどうしよう」という考えが頭から離れなくなる。だから常に緊張が続き、気の休まる瞬間がまったくなくなるのだ。そうしたものだから、自分はまだしも軽いほうでそのようなことはなかったが、重い人だと自分の部屋から出ることもできなくなるでしょうねと話した。
 そしてこうした病気の原因と言うのは、勿論、緊張しやすいとか、人目が気になるとか、神経質であるとか、そのような精神的・性格的な要素も幾分関わってはいるだろうが、根本的なところはやはり脳の誤作動のようなものなのだと告げた。そのあたり、Aさんにはなかった見方のようで――もっとも彼女の周りにも精神的に危うい人は結構いるようで、彼女自身はそのような人々の相談を受けやすいタイプだと言い、例えば自殺願望のある友人を一晩中引き止めたりすることもあったと言うので、結構な修羅場をくぐってきたようですねとこちらは受けた――じゃあ誰にでも起こり得るものなんですねと驚きながら言ったのだが、まあ極論するとそういうことになる。特に神経質などの性格的要因がない、精神疾患になりそうもないような明るく屈託のない人間でも、脳が何かの拍子に「バグって」パニック障害なり何なりを発病するということは、あり得ないことではない。そこから鬱病の話も少々したのだが、これもこちらの感覚では、外的なストレスなどは原因で発症したというよりは、やはり何か脳が誤作動を起こしたものだったように思われる。つまりは外因性と内因性というものがあって、とこちらは口にして、自分の病気は多分内因性のものだったと思う、そして極端な話、外に原因がない内因性の疾患というのは、ストレスがゼロの状態でも発症しうるのだと述べた。
 そのような話をしたのが会話の最後だった。一時になったら寝ましょうとその少し前に言っておいたのだったが、そうした話をしているうちに一時は過ぎていた。時間を巻き戻して、そのほかに話した話題、文学のそれに戻ると、Iさんの小説を今日読んだんですよ、という話もこちらは投げかけた。AさんはIさんとはまだ話したことがないようだったが、夢野久作中井英夫が好きなあの方だなというのは認識していた。まだ二〇歳なのに研究発表などもしていて、それに留まらず自分で小説も書いている、しかもその小説が――こちらの見るところでは――確かな筆力に支えられたものである、実に大したものだと話した。それでIさんの小説を、「雪の廃市」の物語で、祖母が死んで主人公が故郷である「雪の廃市」に帰るところから始まるのだけれど、全篇を通じて雪や死の静謐な空気感が満ち満ちていて佳品だったと紹介すると、それは是非読んでみたいですねという反応があったので、通話を終了したあと、Aさんの個別のチャット画面にファイルを送っておいた。
 そのほかAさんは日本の近代文学なども結構読むようで、先日は川端康成の短篇を授業で読んでレポートを書いたと言っていたと思う。こちらは日本の作家だと梶井基次郎が好きだと名前を挙げ、今生きている作家だと、もう八二歳くらいになると思うが、古井由吉がやはり一番凄いという感じですねと話した。どこが魅力かと尋ねられたので、歳が押し詰まっているということもあるけれど、やはり非常に切り詰まった文体で書かれる描写だろうかと話し、文体が凄いので、古井由吉が書いていれば内容はともかくわりと何でも面白いみたいなところはありますねと言うと、Aさんは、私も文体で読むんですよ、物語の内容とかより、文体が好みかどうかというところが肝心なところだと述べた。だから文体が気に入らないと読めないと言うのだが、文体が駄目な作家って誰かいましたかと尋ねると、誉田哲也などの名前が上がったが、この人は確かエンターテインメント方面の人だったと思う。Aさんが日本の近代作家で一番好きなのは泉鏡花だと言い、そのあたりやはり怪奇・幻想文学界隈の人なのだ。しかし彼女は今はマザー・グースの研究書を読んでいると言った。
 自分の来し方、すなわち、大学を出てから文学に出会って、最初は筒井康隆の『文学部唯野教授』を読んで、じきに『族長の秋』に出会って底のない文学という沼にさらに引きずり込まれて――というようなことも話したのだったが、このあたりのことは先日も書いたのでここでは繰り返さずにその日の記述に譲ろう。一時を過ぎたところで、色々と聞いてもらってありがとうございましたと礼を言い、通話を終えた。それからチャットで、「ありがとうございました! またお話ししましょう」とメッセージを送っておき、Aさんの個別のチャット画面の方にIさんの小説のデータも送っておいてコンピューターをシャットダウンし、床に就いた。金原ひとみ『アッシュベイビー』を読み進めようかとも思っていたのだが、何となく今日はもう読書は良いか、それよりも早く眠ろうという気分になっていたので、一時一五分には明かりを消して布団に潜り込んだのだった。しかしそれから寝付くまでには結構時間が掛かって、加えて、翌朝は眠りこけて床を正式に離れるのはぴったり一二時間後、午後一時一五分になる体たらくを晒してしまうのだったが。


・作文
 12:28 - 13:43 = 1時間15分
 16:11 - 16:30 = 19分
 19:04 - 19:32 = 28分
 計: 2時間2分

・読書
 14:21 - 16:08 = 1時間47分
 17:49 - 19:03 = 1時間14分
 20:26 - 21:10 = 44分
 21:29 - 22:07 = 38分
 計: 4時間23分

  • 金原ひとみ『アッシュベイビー』: 29 - 111
  • 水原杏一朗「供花」

・睡眠
 3:00 - 11:00 = 8時間

・音楽