2019/5/19, Sun.

 六時半のアラームで起床。睡眠時間は三時間半。用事があればこのように起きることは出来る。上階に行き、両親に挨拶。それから台所に入り、卵とハムを焼くことに。フライパンに油を垂らし、その上からハムを四枚も落として、さらに卵を二つ割る。それをしばらく加熱してから丼の米の上に取り出し、そのほか母親が用意してくれたレタスとトマトの生サラダを持って卓へ。牡蠣醤油というものを使って黄身と米を絡めながら食べる。サラダにはマヨネーズ。早々と食事を終えると抗鬱剤ほかを服用し、食器を洗って仏間に入り、真っ赤な靴下を履いた。それから寝間着の下をその場で脱いでしまい、パンツと肌着の姿になって下階に帰ると、すぐに着替えてしまった。真っ黒なズボンに、上はボタンの色が一つずつ違っていてカラフルな白シャツ、羽織りはグレンチェックのブルゾンである。それで寝間着の上も持って上階に上がって洗面所に置いておき、ついでに洗面台の前に立って整髪スプレーを後頭部に吹きかけ、櫛付きのドライヤーで頭を整えた。そうして下階に戻ると、七時を越えてから日記を書きはじめた。前日の記事、この日の記事とスムーズに進めて、七時四〇分である。八時半には出なければならない。今日は調布の薔薇園を見に行くのだ。
 出かけるまでにまだ多少猶予があったので、七時四五分から読書を始めた。ジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』である。「アラビー」の篇の最中、四九頁に「寐ても寤[さめ]ても」とあって、この表記は初めて見た、ちょっと凄いのではないか。八時一五分頃まで読むと中断し、身支度を整えて上階に行った。尻のポケットにBrooks Brothersのハンカチを収め、母親に行ってくると告げて出発する。
 最寄り駅までの道中で覚えていることは、平らな道を歩いているあいだ、南の方角、つまり左方から早くも高く昇りはじめている太陽の光が射して、顔の横に当たっていたこと、坂道に入る前に鶯の鳴き声があたりの木々から立っていたこと、坂道の左右には竹秋を迎えた竹の薄色の葉が多数落ちて重なっており、道を縁取るように、あるいは外縁から路上を侵食するようになっていたこと、そのくらいである。駅に着くとともに電車がやって来たので、一段飛ばしの大股で階段を上がったのではなかったか。しかし電車はすぐには発車せず、二、三分猶予があったので、ホームに下りると急がず一号車まで移動してそこに乗った。青梅駅までのあいだは手帳を眺めた。青梅駅に着くと乗り換え電車はすぐに発車だったので、向かいの車両にさっさと乗り移り、そこから車両を移って三号車まで行き、三人掛けに腰を下ろした。そうして立川までの道中はジョイスを読書である。道中、特段に興味深いことはなかったと思う。
 立川に着くと、周りの人々が速やかに降りていくなか、こちらは少々車内に留まって、階段口に人々がいなくなった頃合いを見計らって降車した。階段を上りはじめると、向こうの三番線に東京行きが入線してくるらしき気配が伝わってくる。上って、三・四番線ホームに下りて行ったが、三番線の東京行きはもう発車するところだったので乗るのは諦めて、向かいの四番線の方に進んだ。電車は九時三一分発だったと思う。まもなくやって来たのでそれに乗りこみ、席の端を取って引き続き書見をし、発車してからも本に視線を落として、国分寺に着くと中央特快に乗り換えた。それで扉際に立って扉に凭れ掛かりながら本を読み、三鷹に着くと降りた。時刻は九時五〇分にも至っていなかったように思う。一〇時一五分のバスに間に合うようにバス停に集合だったので、かなり余裕があった。
 エスカレーターを上り、駅舎内の通路を進んでいき、改札を抜けると、券売機のある区画の端にATMがあるのを発見したので、そこで五万円を下ろした。財布内に五〇〇〇円くらいしかなくなっていたのだ。それから南口へ出て、前日にGoogle Mapを使って確認しておいたバス乗り場、三番の方へ歩いていく。歩道橋を渡ってそこから下の道路に下りればすぐそこ、三番乗り場の前には二番乗り場があるのだが、そこに高齢者を中心とする人々がバスを待って大挙し、ずらりと長い列を作っていた。それも我々と同じくどうやら神代植物公園に向かう人々らしかった。三番乗り場に到着し、時刻表を見て一〇時一五分のバスがきちんとあることを確認すると、手近の赤い躑躅の植込みを縁取る低い段に腰掛けて読書をしながらほかの二人が来るのを待った。ジョイスを読んでいるあいだに、二番乗り場と三番乗り場にそれぞれバスは一つか二つずつくらいやって来て、高齢者たちがどちらに乗るか迷って二つの乗り場のあいだをうろうろ移動したりしていた。神代植物公園のホームページには三番乗り場からのバスに乗るように案内されていたのだが、二番乗り場のバスも神代植物公園前に停まるようだった。どちらに乗っても行けるのだ。
 そのうちにT谷がやってきて、こちらのすぐ前に止まって手を振ったので、見上げて、おう、と言った。T谷は茶色の髪を切っていた。格好は半袖のシャツと言うかトレーナーと言うかに、真っ黒のズボン。こちらも真っ黒のズボンで、この日はKくんも同じように黒一色のズボンだったので、三人のボトムスの装いが被ることになってしまった。T谷は、あれは何バッグと言えば良いのか、褐色の、身体に斜めに掛けるようなバッグを持っていて、軽装だった。そして二人でMUさんを待つのだが、彼女はなかなかやって来なかった。列に並ぶのはMUさんが来てからにすることにして、並んでいた列から外れ、こちらは手近の、あれも何と言うのか柵と言うのか、それとも車止めの類なのか、駅前なんかによくある銀色の、アーチ状を描いたそのなかに一本横に棒に渡されて全体としてアルファベットのAを低くし、横に広げて丸くしたような形の柵のようなものがあると思うけれど、子供の頃によくやったようにそれの上に腰掛け、足を横棒の上に乗せながら待った。T谷は二番乗り場の時刻表を見に行っていた。一〇時一八分発があると言うので、三番乗り場の一五分発に間に合わなかったらそれに乗れば良いだろうとなった。そしてMUさんは、やはりなかなかやって来なくて、これは次のバスに乗るようかと思ったのだが、何とかギリギリで間に合って、三番乗り場に停まってもう発車間近だったバスに乗ることができた。ICカードを機械にタッチして、バスのなかはほとんど満員で奥には進めなかったので、前の扉付近に三人で立ち尽くす。MUさんの背丈はこちらの胸のあたりまでしかなかった。T谷も男性にしては背が低い方なので、それよりも僅かに高いくらいで、こちらは二人をちょっと見下ろすような形になった。MUさんの装いはスカートに、上のインナーはよく見なかったが、羽織りはあれはビーズと言うのか何と言うのか、極々小さな真珠を模したような細かな白い粒があしらわれたカーディガンのようなものだった。道中は適当に話をする。アニメを最近は全然見ていないという話からMUさんが『宝石の国』の名前を出して、漫画の方は持っているとこちらが言うと、T谷から意外だとの反応があった。
 それで神代植物公園着。こちらが降車ボタンを押すと、その時バスの前部のモニターに表示されていたのは調布総合体育館前か何かで、間違えて一つ前で押してしまったのではないかと判明して、まあそれでも良いか、一つ前からゆっくり歩いて行くかと三人は合意したのだったが、結局着いてみるとそこが神代植物公園前だった。モニターの表示が切り替わるのが遅れていたのだろうか? よくわからない。ともかく高齢者たちとともにバスを降りて、公園の正門前に行くと、チケット売り場にずらりと、うねる巨大な蛇の体のようにして人々が並んで列を成していた。もうこれで一五分くらい使いそうな勢いではないかと言いながら後ろに就いたのだったが、チケットを買うだけなので結構速やかに列は進んで行ってそこまで待ちはしなかった。チケットは五〇〇円だった。自動券売機でそれを買い、もぎってもらって入園した。T田、T、Kくんの三人は先に来ていて、薔薇園のガイドを受けているのだった。ガイドは一〇時半には終わる予定だったのだが、バスにいるあいだに、Kくんから、「園長が延長」という洒落のメッセージが届いていた。それでとりあえずは合流するために薔薇園の方に向かってみるかというわけで歩き出した。公園は広く、その内には薔薇園以外にも、藤園や芍薬園、ダリア園、梅園など様々な植物の園が設けられているようだった。
 しかしメインはやはり何と言っても薔薇園のようで、ここは園内のなかでも最も広いスペースを充てられていた。着いてみると、地平の果てに青々と濃い樹木が壁のように立って敷地を縁取っているなか――これらの樹木は、ビルなどの姿を隠す役目を果たしているらしかった――見渡す限り色とりどりの、黄色、白、赤、ピンク、オレンジ、紫などの、薔薇、薔薇、薔薇である。敷地の奥の方には、屋根のあるスペースが設けられていて、そこに人だかりが見えたのであのなかに三人はいるのではないかと推測し、そちらに向かってみることにした。その途中、薔薇の植えられているなかに入り込み、あたりの色々な種類の花を眺めながら進んだ。一見して薔薇には見えない、薔薇と言って我々がイメージするものとは違う、ハナミズキのような、花弁が幾枚も重なって襞を成しているのではなくて、一段になっているそういう種類の薔薇もあった。「マチルダ」という品種の薔薇が、フリルのようにひらひらとした感じで、なかなか良いなと思った。そのようにして薔薇に目をやっていると、いつの間にかT田、T、Kくんの三人が近くに現れていた。声を掛けていたと言うのだが、まったく気づかなかった、薔薇に夢中になっていたと答えた。T田はシンプルなチェック柄の白シャツに、苔のような緑色のズボン、バッグは手持ちの、深い焦茶色のもので、フォーマルにも使えそうなタイプのものだった。Kくんの装いは青いストライプ入りの白シャツに、先にも記したように真っ黒なズボン、バッグはリュックサック。Tは花柄の、オレンジと言うかピンクと言うかその中間の色のようなワンピース――ファスナーで前を開閉するタイプのもの――の上に何か軽い羽織りをしていたと思うのだがよく思い出せない。彼女はこちらの予想通り、日傘を差していた。
 合流すると、敷地の奥の屋根のあるスペース、そのあたりで音楽の演奏がまもなく始まると言うので、そちらに移った。その脇には車両タイプの売店があり、薔薇ソフトなるものを四〇〇円で売っていたので、皆で食べてみることにした。こちらはそれに加えて、飲み物として「いろはす」を一五〇円で買ったのだが、一五〇円もするわりに出てきたのは三四〇ミリリットルしかない、やや小さなペットボトルであった。それで、観客の人々が集まっているその脇で、段に腰掛けながら薔薇ソフトを舐め、食べる。確かに薔薇の香りと言うか、植物のような風味があって、結構美味いものだった。ここでこちらは、隣に座ったT田に、借りていたクラシックのCDを返してしまった。Leopold Stokowskiのチャイコフスキー交響曲第五番をわりと聞いた、と言った。T田は第二楽章が素晴らしいと言っていたが、俺はどちらかと言うと第一楽章の方が好きかもしれないと。そんなことを話しているうちに、音楽の演奏が始まった。ジャズだった。最初の一曲は薔薇園にちなんでというわけだろう、"The Days Of Wine And Roses"だったので、酒バラだ、と呟き、T田やTにも、これは"酒とバラの日々"っていう曲だよと教えた。トイレから戻ってきたKくんも、こちらと顔を合わせるなり、酒とバラの日々、と言ったので、彼もそこそこジャズ・スタンダードを知っているらしい。二曲目は"Someday My Prince Will Come"、編成は、人々の集団の裏側にいたので演者の姿が見えなかったのだが、ピアノとテナー・サックスとベースのトリオか、あるいはベースはいなかったかもしれない、サックスとピアノのデュオだったかもしれない。ベースソロを一度もやっていた記憶がないので、多分後者だったのではないか。三曲目は"Lotus Blossom"。この曲が始まったあたりで我々は動き出していて、薔薇園を見ながらガイドで学んだことを説明しようということになっていて、通路を歩いていたのだが、"Lotus Blossom"だとこちらが言うと、T谷が、クラシックならわかるのだが、ジャズを聞いてすぐに曲がわかる人って、何かキモい、と口にして、並んでいたT田とこちらは笑い、こちらは何がキモいんだよと応じた。こちらからしてみればクラシックの方がわからないのだが、クラシック好きが曲を聞いてこれは誰の交響曲第何番だとか判別するのとまあ同じことだろう。四曲目はわからなかった、何か聞き覚えがあるような気はしたのだが、深淵な感じのするゆったりとしたバラードだった、と書いたところで思い出したのだが、Billy Strayhorn作曲の一曲にそんなようなものがあったような気がしてきた。何という曲か思い出せなかったのだが、今調べたところ、"Chelsea Bridge"で、多分これだったと思う。サックスが泣き声のような調子でこのメロディを吹いていたような覚えがある。それで五曲目は"Take The 'A' Train"だったので、Billy Strayhornの曲が"Lotus Blossom", "Chelsea Bridge", "Take The 'A' Train"と三曲も取り上げられたことになる。"Take The 'A' Train"が遠くで始まったあたりでは我々は既に薔薇園の内部にいて、Tのいくらか覚束ないような説明を聞いていたのだったが、彼女が話してくれたことは全然覚えていない。品種改良された薔薇のもとになった薔薇というのは九種類しかないというのを聞いて、それに対してこちらは、要するにイスラエルユダヤ人の起源となる部族が一二部族あったみたいなそんなことだろうとよくわからない例えを返したのだったが、そのくらいのことしか覚えていない。T田があとになってくれた手もとのパンフレットをもとに見かけた薔薇の名前を列挙しておくと、リリベット、ピエール・ドゥ・ロンサール――これはフランスの一六世紀の詩人であるロンサールから来た名前だろう――、ロサ・ギガンテア(これはTが、ギガンテア、強そう、と小学生のような可愛らしい感想を洩らしていた白い花で、花びらの先が尖ったようになっていて、それを見てこちらは、海の生物のようだなと言った)、ダマスク・ローズ(ダマスク織りというのがあったと思うが、ダマスクというのはどこのことなのだろうか。トルコだろうかシリアだろうか。ダマスクスがあったのは確かシリアだっただろうか?)、ブルボン・クイーン(言うまでもなくフランス・ブルボン王朝から来ている名だろう)、シャポー・ド・ナポレオン、アンリ・マルタン、アンヌ・マリー・ド・モンラヴェルラ・フランスマリア・カラス(これはかなり大きな赤い花で、存在感・重量感抜群であり、美しかったのだが、これに出会った際には、これは確かオペラ歌手の名前だったはずだとTに言った――続けて、Freddie Mercuryがファンだった人のはずだとも)、アイスバーグ、オルレアン・ローズ、ノイバラ、モッコウバラ、かがやき、ブルー・ムーン(これはブルーと言うよりは薄紫色の薔薇で、「ブルー系」の香りというものがあるらしかったが、ほかの薔薇の香りとの違いはこちらにはよくわからなかった)、そのくらいだろうか。あと、「殿堂入り」の薔薇の区画の端に、黄色を仄かにはらんだ薔薇で、さすがに殿堂入りだけあってこちらのような素人にもその美しさがわかるな、というようなものがあったのだけれど、名前を忘れてしまった。
 一二時頃になって一度、薔薇園を離れて通路を辿り、原っぱの方に行った。その途中、売店で、Tは揚げ餅を、Kくんはチップスターをそれぞれ買って食っていた。子供たちが遊び回っている原っぱの中央あたりには、実に背の高い芒らしき植物の塊があって、KくんとTはそれに向けて並びながら走って行ったその後ろ姿を見てT谷が、青春してるな、と口にした。芒は三メートルから四メートルほどはあったようだ。
 原っぱから薔薇園でふたたび戻る。それでまた見て回る。この時、「殿堂入り」の薔薇たちや、マリア・カラスなどを目にした。敷地の端にはベンチが並んでおり、その後ろには蔦性だったか蔓性だったか、そうした種類の薔薇が壁のようになって展示されていた。そのなかのベンチの一つに皆で腰掛けて写真を撮ったあと、さらに回り続けたが、途中で疲労したKくんが芝生に座り込み、仰向けに寝転がった。彼を置いてほかの面子は近くをさらに見て回ったが、そのうちにこちらとT谷も芝生に座りこんだ。T田とMUさんは、KくんとTのカップルの写真を撮りに行った。T田が前から迫る一方、背後から気づかれずに近づいてシャッター・チャンスを狙う。それから皆合流して、Tが何かアプリ関連でスマートフォンの操作をしているあいだに、後ろでほかの連中は雑談を交わした。時刻は一時頃で、腹が非常に減っていた。食事をどうするかと話す。深大寺と言えば蕎麦で評判の高いところである。それでT谷が、店の場所をスマートフォンで検索した。さらにT田が取り出した地図を見てみると、この植物公園には正門以外に深大寺門というのがあって、そこから出れば早いようだった。玉乃屋という評価の高い店が近くにあるらしい。それで、Tの用事が終わり、通りすがりの人に六人揃った写真を撮ってもらったあと、出発した。
 薔薇園敷地の端から雑木林のあいだに入り、通路に沿っていくあいだ、こちらはTと並んで話をした。こちらの復帰した塾の話をする。国語を教えるのが難しい、生徒は授業記録用のノートをそれぞれ持っており、それに問題の解き方や知識などを書かせるのだが、国語はなかなか何を書かせたら良いのか難しいと話す。そういう場合どうするの、と訊かれて、このあいだの授業では……と話しはじめようとしたところで、Tが、ちょっと待って! と声を上げた。深大寺門の前で、スタンプを発見したのだった。円形の大きなスタンプで、Tは用紙にそれを押したのだが、インクの量や力が足りなくて絵柄がほとんど映らず、薄くなってしまった。そこでKくんが彼氏らしく任せろと言って二度目を試みたが、彼がインクをたっぷりつけて力強く押しても、やはりところどころかすれて映った。
 それで深大寺門を出るとすぐそこに玉乃屋があったのだが、やはり評判が良いだけあるのか混み合っており、待っている人々が結構な数あった。それでどうするか、ここでほかの店を探すか、三鷹に行くか、Kくん宅に行くかなどいくつか案が出たあと、やはりこの周辺で蕎麦を食おうということになった。それで玉乃屋は待ちそうだったので避けて、道を行き、いくつかの店を通り過ぎたあと、青木屋という店が見つかって、ここに入れそうだったのでここにしようかとなった。入店。店内は酒場のような騒がしさで、婦人店員の声がかまびすしい。座敷に上がってもらえますかとの少々ぞんざいな、大きな声音に従い、店の奥に進んで、靴を脱いで座敷に踏み入った。脱いだ靴はビニール袋に入れて手もとに持つように、白い袋が用意されてあった。それで靴を持ってなかに入ると、ちょうど前客が去るテーブルがあったので、そこに入った。声の大きな、ベテラン格らしい婦人店員が、水気を完全に絞りきれていない布巾でテーブルを拭いてくれ、卓上には水玉がいくらか残った。こちらは天麩羅を食いたかったので、天盛り蕎麦にしようと決めた。実のところ、店側もそれを頼んでくれることを期待しているらしく、周囲の壁に貼られた紙はほとんどすべて、天盛り一一五〇円と記されたものだったので、天盛り推しすぎでしょ、などと皆は言って笑った。それでこちらと同じくほかの四人も天盛りを注文し、T田だけが暖かい鰊蕎麦を頼んだ。お手拭きの類が出てこなかったので、皆はトイレに行って手を洗っていたようだが、こちらは面倒臭いので意に介さなかった。店員の様子はいかにも忙しそうで、余裕が全然なく、とても落ち着いた雰囲気とは言えなかった。
 そのうちに蕎麦がやってきたので食べたのだが、不味くはない。しかし際立って美味いかと言えばそういうわけでもなく、天麩羅など普通に美味いけれど、あくまで「普通に美味い」のレベルで、果たして一一五〇円を払う価値があったのかどうかはわからない。蕎麦の風味のようなものを感じられなかったのだが、しかしそれはこちらの舌の問題なのかもしれず、あるいは評判の高い玉乃屋など行けばもっとよくわかるのだろうか。まあともかくも食事を済ませて、このあとどうしようかとなって、結構歩くけれど一応付近に喫茶店があるらしいのでそこに行こうかと固まった。それで退店。高齢の男性に一一五〇円を払って外に出て、歩き出した。道中のことはあまりよく覚えていない。蕎麦屋がやたらとあった。結構暑く、汗も搔いた。深大寺を離れ、大きな通りに出て結構行くと、件の喫茶店があったのだが、どうも六人入れるスペースがないようだった。それで、もう一軒の方に行ってみるかと言ってまたしばらく陽射しの下を歩いたのだったが、こちらはもう品物がほとんどないとのことで、やはり三鷹に行こうか、Kくんの宅に行こうかと相成った。それでバス停に移動したところが、三鷹行きのバスがちょうど来たところだったものの、並んでいる人々が多すぎて入れなかった。それでもう一つ別のバス停に移動し、そこでは吉祥寺駅行きがまもなくやってくるようだったので、吉祥寺に行くのも良いではないかと方針を変えて、それに乗り込んだ。こちらはTと隣り合って席に座った。それで話を交わす。貸した音源を聞いたかと訊くと、まだGretchen Parlatoしか聞いていないとのことだった。あの人は何をやっているのかわからないね、と言うので、わからない、わからない、と笑って答えた。
 こちらのすぐ目の前に、高齢の女性が乗ってきたので、その腕に触れてこちらに注意を引き、座りますか、と訊いたのだったが、婦人はちょっと迷ったあと、笑って、いいですと答えた。それでこちらはそのまま椅子の恩恵を受けたのだったが、婦人は頑張って震えるようになりながら踏ん張ってバスの揺れに耐えているし、やはり替わってあげたほうが良いのではないかとも思ったのだったが、結局その後、声は掛けなかった。婦人としては、満員の車内で、動くスペースがあまりないなかで、こちらの席と居場所を変わるのも難儀だし、彼女一人座っても、連れのもう一人の婦人と離れてしまって話が出来ないという判断があったのだろうと推測する。Tはカナダに行ったことがあるのだが、彼の地ではバスなどで高齢者が乗ってくると、若い者が立って席を譲るのが当然のことのように行われていたと話した。オーストラリアなどでもそうらしい。それで、日本の方が冷たいのかなと訊くと、そうだと思うとの返答があった。
 そのうちに、Tのお兄さんの話になった。彼は統合失調症患者で、現在作業所やコミュニティに通っているものの、まだ正式な就職は出来ていないところらしい。それでお兄さんを見ていると、やはり自分が病気だからということで色々と諦めてしまっている部分がある、とTは言う。それだから、こちらが事もなく一歩踏み出して仕事に復帰したのを見ると、凄いと思ったと言うので、しかしこちらもお兄さんの気持ちはわからないでもない、何しろ労働しなくていいということは楽なものだから、と答えた。お兄さんは先にも述べたように色々と諦めてしまうことがあって、例えば恋愛などもそのうちの一つで、自分は結婚は出来ないだろうと言っているらしいのだが、そうしたことも諦めなくても良いのではないかとTとしては思っているらしい。そのほか、お兄さんはやはりいくらか自分に甘いようなところが、Tの目から見ているとあるらしく、自己を客観視できていない部分があると言う。彼女からしてみると、お兄さんに生き甲斐のようなもの、何か打ち込めるものがないという点が、おそらく一番の懸念であるようだった。お兄さんはゲームやアニメが好きらしいのだが、それは打ち込んでいると言うよりは、どちらかと言えばやはり現実逃避的な側面が強いらしかった――彼女の観察によれば。ただ、それで声優の勉強を一時期していたらしく、そうしたことをするのは良いと思う、それで仮に声優になれようがなれまいが、自分の興味関心に従ってそうした勉強をしたという経験は何かに活きるのではないかと思う、というようなことをTは言った。そうした話を受けてこちらは、お兄さんにも、人間としてよく生きるっていうのがどういうことなのか、是非考えてもらいたいねと、ちょっと偉そうなことを言ってしまったのだが、Tは、いや本当にそう、そこが根本なんだよなあと受けた。
 そのほか、彼女がコンサルタントの仕事を始めたという話もあった。学校の非常勤講師はあと一年は続けなくてはならないらしく、それと同時並行してやっているので最近はかなり忙しいらしい。コンサルタントと言ってどのようなことをやっているのかと訊くと、家族問題を抱えている女性に助言をするようなことをしているとか何とか。Tも、先に記したようにお兄さんのことなどで、家族に関しては結構難儀してきた人間だから、同じような境遇の女性の力になりたいとそういうわけなのだろう。今のところは、一人、担当する女性クライアントが出来たところだと言った。
 そのような話をしているうちに吉祥寺駅に着いたので、降車。バスの運転手は、いかつい大きなサングラスを掛けた男性だったのだが、Tが降りる時に挨拶をしたら穏やかに会釈を返してくれたらしい。そうして吉祥寺駅前で溜まって、どうしようかと話した。Kくんの宅に行くというのも良かったのだが、吉祥寺の町中の喫茶店に行くのでも良い。それでこちらが、このあいだ行かなかった「武蔵野文庫」というところに行くのはどうかと提案した。先日は「多奈加亭」という店に行ったのだったが、そのすぐ隣に「武蔵野文庫」という趣深そうな店もあって、こちらはちょっと興味を引かれていたのだ。それでKくんとTが先導して歩き出し、件の店に向かった。道中はT田と並んでいくらか話をした。例の人との文通はどうなっているのだと訊くと、まだ続いていると言う。一一月からだからもう半年ほども続いているわけで、なかなか大したものである。書く内容には相変わらず苦戦しているらしかったが。とにかく続けるということが大事だから、そのようにして、手紙という形ではあっても、時間を共有したという経験は、目に見えるような明確なものに繋がらなくとも、何かになるとは思うと告げると、T田もそうであってほしいと言った。
 それで店に着いたのだが、やはり六人入るスペースはなく、入るのだったらテーブルが分かれてしまうという話だった。それで長々とたくさん歩いて来たけれど結局、Kくんの家に行くかということになって、道を引き返したのだが、その途中で、カラオケに入るのはどうかと誰かが提案した。こちらにもお伺いが来たので、いいんじゃないかと答えて、近くのカラオケ「まねきねこ」に入ることとなった。ビルに入り、エレベーターで二階に上がって入店。ドリンクバー付きのサービスにして――しかしこちらは一杯のカルピスしか飲まなかった――個室へ。皆が飲み物を取りに行ったり、トイレに行ったりしているあいだ、こちらはFISHMANS "いかれたBABY"をもう歌いはじめてしまった。そのほか、cero "Orphans"、小沢健二 "いちょう並木のセレナーデ"、"流星ビバップ"、the pillows "ストレンジカメレオン"、FISHMANS "なんてったの"などを歌った。ほかの面子が歌っていた曲は省略。ただ一つ書いておくと、MUさんが栗コーダーカルテットUAがコラボレーションした"Popo Loouise"という曲を歌っていて、ちょっと面白かった。MUさんの声も、音程はやや不安定だったが、高音部の声質など結構透き通っていた。
 それで、四時から七時まで三時間カラオケ・ボックスには入っていたのだが、六時を過ぎて後半は、Tが皆に話したいことがあるということで、モニターの音を消して、話をする一幕となった。帰り道で、「(……)」のことは書かないでほしいとTに頼まれたのだったが、しかしどこまで「書かないでくれ」なのか細かいところがわからない。とは言え、この時カラオケで話されたことも、結構デリケートな性質の話だし、「(……)」の成り立ちにも深く関連する事柄だろうから、ここは書くだけで公開はしないことにする。(……)
 (……)
 そのような話がなされたあと、七時を迎えて退出となった。会計をして――自動精算機で、こちらが皆の分をまとめて会計し、皆からそれぞれ二〇〇〇円ずつを受け取った――退店。食事をどこにするかといったところで、ちょうど一階上にサイゼリヤがあったので、そこにするかと相成った。それでエレベーターで一階上がり、紙に名前を書いて、しばらく待ってから入店。テーブル席に通される。こちらが注文したのは柔らかチキンのサラダとシーフード・グラタン。その後チョリソーも。ほかの面子の食事は面倒臭いので省略。食後、こちらがT田に、最近興味深かったことはあるかと尋ねて、T田が百合もいいなと思った、などと答えて皆が笑う一幕もあり、その後こちらに話が振られて仕事のことを話したり、T田と『響け! ユーフォニアム』の映画のなかで同性愛的な感情の繊細が描写が良かったと話したり、T谷が何やら話していたりということもあったのだが、それらすべて面倒臭いので細かいことは省略する。九時半頃になって退店。エレベーターで下ってビルの外に出て、駅までの道を行く。駅に入るとKくん、TとMUさんは総武線のホームへ。こちらとT田とT谷は中央線のホームに上がり、方向の違うT谷とは別れ、T田と二人で立川行きに乗った。電車のなかでは、音源を聞かせてもらった。"N"にT田がアレンジを施したもので、アンビエント風味にしたかったらしいが、聞いてみるとそれがよくわかった。思いの外に、電子的なアレンジが嵌まるかもしれない曲だと思った。それで、思い切り電子的な方向に振り切ってもいいかもしれないなとコメントし、James Blakeのことを思い出したので、参考になるかもしれないとT田にその名前を教えておいた。その他の話は省略。
 立川に着き、T田と別れると一番線ホームへ。青梅行きに乗り、扉際に立って、 ジェイムズ・ジョイス柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』を読む。青梅駅に着いて降りると引き続き読書をしながら待ち、やって来た奥多摩行き一一時一一分発に乗車。最寄り駅までのあいだも本を読む。降りると、満月が明るく南の空の高みに掛かっている。駅舎を抜けて坂道に入ると、あれがシリウスだろうか、満月の左下に一つ輝いている星があって、貼りつけられたようでもあり、火花を弾きながら停止した線香花火を思わせるようでもあり、宙に糸で浮かんで静止する蜘蛛を思わせるようでもあった。
 帰宅。帰宅後のことは面倒なので省略する。風呂に入って休んだあと、YさんとMYさんと通話をいくらかして二時半頃就床した。


・作文
 7:09 - 7:40 = 31分

・読書
 7:45 - 8:13 = 28分
 8:52 - 9:47 = 55分
 22:23 - 23:13 = 50分
 計: 2時間13分

・睡眠
 3:00 - 6:30 = 3時間30分

・音楽
 なし。