2019/6/5, Wed.

 もう十年以上前にもなるだろうか、ある夜遅く、テレビのニュース番組に、天野祐吉が出ていた。キャスターは筑紫哲也だったように思う。イランだかイラクだかの話をしていて、筑紫が「そこでけが人が」と言ったとき、天野が小声で「毛蟹?」と言った。筑紫は「いえ、けが人です」と答え、ああそう、という感じで、そのまま話は進んでいった。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、12)


 八時のアラームで起床することに成功。睡眠時間は六時間。上階に行き、食事を取っている母親におはようと挨拶。食事はくるみパンにゆで卵、前夜の茸料理の残り。NHK朝の連続テレビドラマにちらちら目をやりながらものを食べ、抗鬱剤を服用すると食器を洗った。母親はYさんの宅にもう一度線香をあげに行ってくると言う。こちらも来るように誘われたが遠慮して、下階に下りると、日記を書かなければならないはずが気力が全然湧かなかったので読書をすることにして、九時過ぎからルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を読みはじめた。しかし、眠気に苛まれてほとんど読むことが出来ないままに気づけば正午を越えていた。帰ってきた母親が呼ぶので身体を起こして行ってみると、焼きそばを作ろうということだった。それで台所に入って手を洗い、くたびれたキャベツの残りや、小さな人参や、玉ねぎなどを切り分けていった。朝の炒め物も加えてそれらを炒めたあと、麺を投入し、木べらで搔き混ぜながら加熱して、ソースを振り掛ける。そうして完成、こちらはそれから食べるよりも先に風呂を洗った。そのあいだに母親が大皿に焼きそばをよそっておいてくれたので、それを持って卓に就き、食事を取った。食事を取り終えると下階に戻り、一時一五分からふたたび読書を始めたのだが、先の時よりはましにしても、やはり眠気に苛まれてたびたび意識を危うくし、三時半まで読んだところで横になって休みに入った。外では母親が草を取っているなかでのこの体たらくである。充分休んだあと、そろそろ日記を書きはじめなければということで四時二〇分からコンピューターの前に就き、FISHMANS『Oh! Mountain』とともにようやく日記を綴りはじめた。五時前になって母親が呼ぶので音楽を小さくして聞き返すと、洗濯物を入れてくれとのことだったので部屋を抜けた。母親は草取りに疲労困憊したらしく、階段下の室でだらりと横になっていた。こちらは階段を上がってベランダに出て、吊るされていたものを取り込むと自室に帰って、引き続き日記を綴った。そうして現在五時一六分である。
 母親が米を磨いでくれと言っていたが、六時になってからで良いでしょうと緩く答えて、ふたたびベッドに乗って読書をした。ルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』を三〇分ほど読んで六時を目前にした頃、そろそろ始めるかというわけで上階に行き、台所に入って笊のなかに用意されていた米を磨ぎはじめた。流水に晒しながらじゃりじゃりと擦り洗ったあと、笊を振って水気を切ると、すぐに炊飯器の釜に収めて炊けるようにセットした。それから水の沸いたフライパンに小松菜を放り込み、一方で味噌汁にするためにモヤシも小鍋に投入した。小松菜が茹で上がったあとは同じフライパンに水を汲み直し、味噌汁に入れるための油揚げを油抜きし、その一方で水菜でいっぱいになった洗い桶のその上から人参と玉ねぎをスライサーで下ろした。そのほか、鮪の切り身をソテーにする。オリーブオイルを引いたフライパンにニンニクを落とし、その上から鮪を三枚敷いて、蓋をして熱したあと、茹でた小松菜を一部加えて、すき焼きのたれで味をつけた。それで食事の支度は終了、僅か一五分ほどで短く済ませることが出来た。そうしてこちらは自室に帰ると、ふたたび書見を始めた。青く暮れた空を背景に、南の宙に浮かんだ雲が仄かな赤紫色を帯びていた。七時に至ると食事を取るために部屋を出た。その頃には父親も帰ってきており、階段を上がっていくと既に寝間着に着替えて風呂に入る前の姿があった。ニュースは福岡で起こった高齢者による車の運転事故を伝えており、両親は二人ともそれに目を向けて何とか言っていた。先ほど拵えた料理たちをこちらはそれぞれ皿に用意し、卓に就いて速やかに食事を取った。母親は、早く食べたいけれどこれも見たい、などと笑って、タブレットでメルカリか何かを閲覧している様子だった。食事を終えたこちらは抗鬱剤を飲み――早くもっと減薬したい――食器乾燥機のなかを片付けてから使った皿を洗い、そうして風呂に行った。どうにも疲労感の抜けない身体を湯のなかに沈めてしばらく休み、上がってくるとパンツ一丁の格好で自室に戻った。そうしてふたたび読書である。いや違った、風呂に入る前にも一旦自室に下りて、読書をしたのだった。七時半から八時半直前まで一時間弱、ピランデッロの小説を追ったのだったが、BGMとして流していたHerbert von Karajan & Wiener Philharmoniker『Dvorak: Symphonien No.8 & No.9』に耳を向けているうちに、最後の方では軽く意識を失っていたようだった。それで入浴を済ませてきてからふたたび書見に励み、九時四〇分頃になってルイジ・ピランデッロ白崎容子・尾河直哉訳『ピランデッロ短編集 カオス・シチリア物語』は読み終えた。全体的にユーモラスな色合いが目立って、なかなか悪くない短編集だったが、しかしこちらの思考や感覚を強く駆動させる瞬間に出会うことは出来なかった。もっとそのような瞬間に遭遇し、感じたこと考えたことを文章化していきたいものである。本を読み終えたあとはコンピューターの前に就き、Martha Argerich And Friends『Live From The Lugano Festival 2011』をヘッドフォンで聞きながら、小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』の書抜きを行った。武満徹の文言などを書き抜いたあと、Twitterを少々眺めたのち、日記を書きはじめたのが一〇時五一分、そこから二〇分弱で現在時刻に追いついた。
 それから、「なぜ組織をゼロから再構築しなければならなかったのか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【後編】」(https://finders.me/articles.php?id=859)を読む。前日に読んだ前編からの引用を日記にし忘れていたので、今日の分と合わせてここに引いておく。

学問ではエビデンスを追求しなければいけないし、社会に出てきたと思ったら、こんどは「これは絶対に正義です」「断固許すことはできません」みたいな話しかしない。何だかなって。やっぱり僕は、基本的には哲学や思想って人の頭を柔らかくするものだと思うんですよね。人々が日常生活で緊張している中で、哲学書思想書を読んで「こういう考え方もあるんだ」「少し気が楽になったぞ」と思うのが基本的な機能。なのに現実はすごく遠く離れているんですよ。僕はそれが本当におかしいと思っているんですよね。

だからそういう点でも僕は、さっき「哲学は役立たない」と言ったけど本当にそうだと思っていて、やっぱりビジネスのために通勤時間を使って哲学入門書を読むのは使い方として間違っているんですよ。哲学書は、読んだら「そもそも通勤なんてしないでいいのでは?」と思ってしまうようなものであって、読み終わったあと学びを使ってバリバリ働いたりするようなものではないんですよ。そういう点でも哲学とか思想の役割が誤解されている。

東:無制限にする必要はないけど、とりあえず3時間にするのがいいですよ。僕の今までの経験から言うと、人は2時間までは何も大事なことはしゃべらないですね。特に初対面の人との場合、その人が今まで言ってきたことの繰り返しみたいなことしかしゃべらない。でも2時間経つと、登壇者も疲れてくるんですよ。だんだんどうでもよくなってくる。ここから先が大事で、そうすると変なことを言うようになるんですよ。「こんなことを言ってきましたけど、ぶっちゃけ全部どうでもいいんですよね」みたいになるんです。その地点に到達して、初めて面白い話が引き出せる。

 そうして次に、九螺ささら『ゆめのほとり鳥』を読みはじめた。書肆侃侃房から出ている「新鋭短歌」シリーズの一冊で、確か以前に「偽日記」でも言及されていた覚えがある。読みはじめたは良いのだが、短歌を読んでいると自分でも作歌したいという思いが募ってくるもので、それだから一〇分少々で読書は切り上げてコンピューターに寄り、手近にあった『岩田宏詩集成』をひらいて短歌を作りはじめた。この時作ったのは、以下の五つである。

 神話よりむごい男さこの俺は孤島のような背中をしてる
 夢の縁の砂地に足を埋[うず]めつつ根のない樹として星の雨を待つ
 陽炎を吸い込みうねるあなたの髪は炎天下にて蛍を宿す
 耳たぶを掴んでひねりあっかんべすれば暑さも和らぐはずさ
 空腹を抱えて眠り目覚めれば雨垂れの音が銀河色して

 四つめの一首は、Twitterに上三つの短歌を投稿したらDKさんから「俺とあんたで何ができるよこの6月の蒸し暑い夜に」というリプライが送られてきたので、それに対して返歌のような形ですぐさま拵えたものである。Twitterに投稿するのと同時に、Skypeのチャット上にも投稿して、Aさんからお褒めの言葉を頂いていた。最後の歌をその場で作ってすぐに投稿すると、Aさんが、「え、それ、即興ですか?」と訊いてきた。即興と言うか、今作ったのだと答えると、称賛の言葉を頂けて、どこかに応募してみたらとの提案があったので、ひとまず千首作れたら考えますと応じた。
 それから今日は通話しましょうかと提案し、コンピューターを持って隣室に移動した。ギターを弄りながら待っているとAさんが発信してくれたので、それに乗って「通話に参加」ボタンを押した。最初はAさんしかいなかったが、すぐにYさんがやって来て三人グループとなり、そののちにBさんやDさん、Eさんなども参加した。初めのうちはこちらがギター演奏を披露して、と言っても曲など出来ないから適当にブルース風のフレーズを弾くだけのものなのだが、それで皆の心を和ませた(?)。
 一時頃になるとAさんは、明日が早いからと言って去っていった。それからDさんに今何を読んでいるのかと訊くと、ハリー・マシューズの『シガレット』という作品だと言う。書店で見かけたような覚えのある名前だったが、訊いてみると、「ウリポ」に参加していたアメリカ人作家なのだということだった。それはなかなか面白そうだなと思っていると、パズルのような小説で、一読しただけではやはり理解しきれない、もう一度読まないと、との言があった。それからこちらは何を読んでいるのかと聞き返されたので、今日、ピランデッロの『カオス・シチリア物語』というのを読み終えて、先ほど九螺ささら『夢のほとり鳥』という歌集を読みはじめたところだと応じた。
 それからどういう理路を辿ったのだったか、話題が「百合」のことになった時間があった。Bさん曰く、百合とレズビアンは似て非なるものだと言う。ゲイとBLの違いのようなものか、イメージの理想化が介在しているかどうかか、などと話し、そもそも女性の同性愛が「百合」という言葉で表象されるのはどういった由来なのかという疑問が持ち上がった。それで例によってウィキペディアに頼ると、男性の同性愛を示す「薔薇族」の対義語として、「百合族」という語が考案されたと書かれてあった。百合の花を選んだことに関しては、元々日本では美しい女性を百合に喩えることがしばしばあったことに加えて、真っ赤な薔薇との対比で白百合のイメージが取り上げられたのではないかという説があるらしい。「百合」的な作品の日本における起源としては、Yさんがたびたび紹介していた、吉屋信子花物語』という作品が最初のものらしく書かれていた。
 百合の話をしている最中に、MRさんが短い時間だがチャットで参加した。Bさんが彼女に、女子はわりと女子同士でいちゃつくことが好きではないかと問いを投げかけたところ、MRさんは、いちゃつくことの安心感というものがあるのかもしれないと答え、それを受けてYさんが、百合というのは母性愛の交換なのだろうかと説を提出した。それにはなるほど、と思わされた。Bさんも、その視点は鋭い、近いものがあるかもしれないと評価していた。
 その後、Eさんが短く参加した時間もあって、そのあいだにYさんが彼に、Eは何語を喋るの、どれだけの言語を喋るのと問いかけると、まず彼は皆が知っているようなものとしては、フランス語、英語、ドイツ語、日本語などだと答えた。皆が知らないようなものだと、驚いたことに、セネガルのある村でしか使われていないような非常にローカルな言語を喋ることが出来るのだと言う。旅行に行った際に学んだらしい。そのほか、カメルーンの言葉もいくつか喋れると言うので、この人は本当に言語的に多彩な人間だなと思った。
 その後、DさんやEさんが去り、こちらとYさんとBさんの三人だけになった。Bさんは大学の課題として古典の語釈を書いたレジュメを作っているらしかったが、そのデータを別のパソコンに移すことが出来ない、印刷も出来ないとトラブルに見舞われて嘆いていた。こちらとYさんが色々提案してみたのだが、解決に至らず、じきに三時を迎えたので通話は終了し、自室に戻りつつチャットでのやり取りに移行した。助っ人として沙耶さんが呼ばれたところで、こちらはもう寝ると呟き、もう嫌だ、死にたいと嘆いているBさんに対して、「Bさん、強く生きるんだ……」との応援メッセージを送っておき、それでコンピューターをスリープ状態にした。そうして明かりを落として、すぐに就床した。三時一〇分頃だった。


・作文
 16:20 - 16:51 = 31分
 16:54 - 17:16 = 22分
 22:51 - 23:08 = 17分
 計: 1時間10分

・読書
 9:08 - 12:25 = (2時間半引いて)47分
 13:15 - 15:29 = (1時間半引いて)44分
 17:27 - 17:54 = 27分
 18:25 - 19:02 = 37分
 19:30 - 20:27 = 57分
 20:58 - 21:38 = 40分
 21:45 - 22:31 = 46分
 23:09 - 23:23 = 14分
 23:28 - 23:40 = 12分
 計: 5時間24分

・睡眠
 2:00 - 8:00 = 6時間

・音楽