2019/6/8, Sat.

 この世界には、おそらく無数のダーガーがいて、そして、ダーガーと違って見出されることなく失われてしまった、同じように感情を揺さぶる作品が無数にあっただろう。もうひとりのダーガーが、いま私が住んでいるこの街にいるかもしれない。あなたの隣にいるかもしれない。いや、それはすでに失われてしまったのかもしれない。ダーガーの存在に関してもっとも胸を打たれるのは、ダーガーそのひとだけではなく、むしろ、別のダーガーが常にいたかもしれないという事実である。
 だがやはり、ここでもまた、もっとも胸を打つのは、ダーガーがそもそも「いなかったかもしれない」ということである。「見出されたダーガーの世界」では、ダーガー本人は自分の営みが報われたことを知らないが、私たちは知っている。「見出されなかったダーガーの世界」では、見出されたダーガーは存在しないが、そうした報われない存在が「いた」ということは、私たちは想像することはできる。だが、「ダーガーがいなかった世界」では、ダーガーがいたかどうか、彼のやってきたことが報われたかどうかを、「私たちですら知らない」。知られない、ということが、ロマンチックな語りやノスタルジックな語りの本質であるとするなら、もっともロマンチックでノスタルジックなのは、ヴィヴィアン・ガールズを制作した本人が見出されなかっただけではなく、彼が見出されなかったことを私たちすら知らない、という物語である(見出されたことを知らない、のではなく、見出されなかったことを知らない、ということ)。
 このようにして、私たちの隣のアパートに住んでいるあの老人は、おそらくただの老人であり、部屋のなかにはおよそ人の目をひくような芸術品が存在することは決してないだろう、ということになる。
 そして、それはとても「物語的」である。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、33~34)


 一二時二〇分までだらだらと糞寝坊。上階へ。母親に挨拶。食事はジャガイモとえんどう豆の炒め物に、前夜の味噌汁の残りに、胡瓜とトマトをマヨネーズで和えたサラダ。『メレンゲの気持ち』を見やりながらものを食ったあと、母親の分もまとめて皿を洗ってさっさと下階へ。前日の記録を付け、この日の記事も作成したあとに、コンピューターの動作速度を回復するために再起動を施した。そうしていつもだったら日記を書くところだが、何となく本を読みたい気持ちのほうが勝っていたので、一時ぴったりから渡辺守章フーコーの声――思考の風景』を読みはじめた。BGMはFISHMANS『Oh! Mountain』。中村雄二郎村上陽一郎と渡辺の鼎談を読み進め、蓮實重彦豊崎光一との鼎談にちょっと入ったところで中断。ちょうど音楽も終わる頃合いだった。そうして日記を書くかと思いきや、隣室に入ってギターをちょっと弄ったり、インターネットを閲覧したりして、書き物に取り組みはじめるには二時四七分を待った。Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)とともにそれから一時間二〇分ほど書き進めて、ようやく前日の記事を終えてここまで綴っている。
 日記に思いの外に時間が掛かり、前日の記事をブログに投稿し、noteの方についていたコメントに返信を拵えると、既に時刻は四時半を回っていた。その頃にはパソコン教室に出かけていた母親が既に帰ってきていただろうか。あるいはもう少しだけあとだったかもしれない。いずれにせよ、それからふたたび本をいくらか読み足したのち、五時に至って食事の支度をするために上階に行った。台所で包丁を操って何かを切っている音が下階にいても伝わってきていた。階段を上っていって何をやるのかと問えば、煮物を作ると言う。それで今は人参を切り、それを湯搔く段だった。おかずとしてはほかに、昼間のジャガイモとえんどう豆の炒め物がフライパンにいくらか残っていた。そのほか玉ねぎの味噌汁を作ろうと言うので、こちらは母親が皮を剝いた小さめの新玉ねぎを二つ切り分けた。その一方で母親は、小鍋にごま油を引いて人参、蒟蒻、牛蒡を炒めはじめた。そこに水を注いだあたりでもう一つの鍋の湯も沸いたのだったと思う。そちらには玉ねぎを投入し、こちらは立ち尽くしてそれが煮えるのを待っている一方で、母親はキャベツや人参をスライスして生サラダを拵えていた。粉の出汁と椎茸の粉を二つの鍋にそれぞれ振り入れ、玉ねぎが柔らかくなったところで味噌を溶き入れて汁物を完成させ、今日も父親は山梨に泊まって帰ってこないのであとは煮物が出来るのを待てば食事の支度は完了である。
 こちらはそのあと下階に下りてきて、五時半からふたたび書見に入った。BGMとして流したのは『Bob Dylan』、それにChris Potter Underground Orchestra『Imaginary Cities』である。Bob Dylanのデビュー・アルバムのワイルドな歌唱とギター・プレイは気に入られた。これは繰り返し聞きたい音源である。部屋に薄暗闇が差し込んで頁の上の文字が見づらくなる七時頃まで明かりを点けずに読書を続け、その後電灯を灯してまたほんの少し読み進めたあと、七時一二分で切って食事を取りに行った。米とおかずと汁物をそれぞれよそり、炒め物には醤油をちょっと垂らして味を濃くして、それと一緒に白米を咀嚼する。テレビは最初はニュースを流していたと思うが、じきに母親がどうでも良い番組に変えてしまった。ものを食べ終えると抗鬱剤を服用し、食器を洗って、風呂に入る前に一旦自室に帰った。そうしてMさんのブログを読むことにした。五月二八日から三〇日の分まで三日間の記事を読んだが、二九日の冒頭に掲げられていた立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』からの引用が面白く、啓発的でもあるように思われたので、ここに引かせてもらう。

 このように、フェティシズムを支える倒錯的固着は、誰もが次の項を予期できるほど一般化された既成のメトニミーに依存している。とすれば、私たちはそこから一歩進んで、こう指摘することもできる。連鎖を中断するとしないとにかかわらず、およそ既成のメトニミーに依存し、それをふりかざす態度は倒錯的である、と。ラカンは、倒錯者の振舞いがおうおうにして自己の欲望の特異な在り方を「証明する」(あるいは「見せつける」)性格をもつことを指摘している。その際に倒錯者が依拠するのが、しばしば「aならばb」というたぐいの既成のメトニミーであることは偶然ではない。翻って、今日の私たちの文化のなかに、この種のメトニミーがどれほど氾濫していることか。ある種の人格障害を見れば、必ずや過去に幼児虐待の経験があると信じて疑わぬ臨床家がいる。大事件を起こした個人の生育歴や内面には、その事件を説明する決定的な要因が存在していると決めてかかる言説もあとを絶たない。因果性(原因/結果の関係)は、ヒュームとカント以来、それを措定する主観の関与を抜きにしていかなる意味でも成り立たないと考えられてきたにもかかわらず、今日の一部の科学的言説が、客観性の名のもとに、それを直線的で機械的な刺激/反応図式に還元して憚らないのは驚くべきことだ。このように操作的に用いられるメトニミーは必ずしも因果関係だけとはかぎらないが、誇張されたメトニミーの有無を言わさぬ押しつけが、それ以外の論理や思考の可能性をことごとく圧殺する目的でなされることも稀ではない。世間ではもっぱら「反原発発言」としか受け止められなかった村上春樹カタルーニャでの美しいスピーチが、こうしたメトニミーが今日の社会でいかに暴力的に幅をきかせているかを告発したのは印象的だった――

まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね」「夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。〔…〕原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

村上が耐えがたく思っているのは、「原子力発電の停止→電力不足」という、完全な誤りとは言わないまでも、きわめて限定されたメトニミーを、あたかも動かしがたい「現実」であるかのようにふりかざす言説にほかならない。ラカンが指摘したように、メトニミーを成り立たせる二つの要素の繋がりは、厳密に言語のなかにしか存在しない。とすれば、そうした繋がりのひとつ(だけ)をあからさまに突出させて、それに「現実」の名を被せることは、村上が看破したように「論理のすり替え」以外の何ものでもない。もっとも、そうした「論理のすり替え」によって反原発派を黙らせようとする勢力を批判することが、村上のスピーチのテーマだったわけではない。村上の訴えの中心にあったのは、これらの「論理のすり替え」を「効率」のような安易な基準のために許してしまったところに、広島・長崎という大きな犠牲の上に成り立っていたはずの戦後の日本の倫理と規範が、福島の事故で一挙に崩壊してしまった理由があるということだった。「効率」という一元的な基準に二度と支配されない「新たな倫理と規範」を打ち建てなくてはならないと村上が訴えるのは、そのためだ。だが、私たちは、これらいっさいが村上にとってもっぱら「言語の問題」として捉えられていることを見逃してはならない。私たちの倫理や規範の崩壊は、なによりもまず、微妙な陰影や繊細な論理の上に成り立つ言論が、恥知らずなまでに凡庸で粗悪なレトリックによって威圧されることからはじまるのだ。その意味では、かくも果敢な村上の発言をただの「反原発」の一点に矮小化して伝えた我が国の多くの報道や、やはりその一点のみに賛否を集中させたインターネット上の議論は、村上が批判しているのと同じタイプの言論を垂れ流したにすぎない。マス・メディアを介していまや私たちを四方から取り囲んでいるように見えるそうした言論の多くは、ラカンがメトニミー型固着をそう呼んだのと同じ意味において「倒錯的」であると言わねばならない。
立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』)

 Mさんのブログを三日分読むと時刻は既に八時半ちょうどに達していた。部屋を出て入浴に行った。階段を上がると母親が、下着はそこに置いておいたと言うので、階段横の腰壁の上に置かれたものを取ってありがとうと口にし、洗面所に入った。風呂のなかでは、やはり自分には哲学やら思想やらの能力はないのだろうなということを考えていた。今、渡辺守章フーコーの声――思考の風景』を読んでいても、比較的軽い形で語られている鼎談においても、発言者がどういうことを言っているのか、どうしてそういうことになるのかわからないような部分が多々見られるのだ。どうも自分には難しい文章を読み解き、哲学的な概念をうまく掴み捉えるような方面の才覚はないように思われる。結局自分にある才能というのはただこうして毎日日記を書くことのそれのみなのだろうと今までに何度思ったか知れないことをまた思い、それ以上を求めるのは高望みなのかもしれないなどと考えた。そうして浸かっていた湯から上がって出てくると、母親に風呂を出たことを伝えてさっさと自室に帰り、Chris Potterの音楽を背景に日記を書きはじめた。九時前から始めて、二〇分弱で現在時刻に追いつかせることが出来た。
 それから『岩田宏詩集成』の書抜き。愚にもつかないような素朴なコメントを付しながら、四〇分ほど岩田宏の詩句を日記に写した。続いてさらに、九螺ささら『ゆめのほとり鳥』のなかから書き抜きしたい歌をまず手帳にメモ。それに三〇分強使ったあと、「第28回Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞記念対談 大竹昭子氏×九螺ささら氏」(https://dokushojin.com/article.html?i=4666)という記事を僅か四分でさっと読み終えた。そうしてベッドに移り、Michael Brecker『Pilgrimage』が流れるなか、ふたたび渡辺守章フーコーの声――思考の風景』の書見。残っていた二〇頁弱を読み終えてしまうと、コンピューター前の椅子に就いた。と言ってインターネットを見て回ったりしたわけではない。久しぶりに読書ノートをひらいて、そちらに九螺ささら『ゆめのほとり鳥』から先ほど手帳に写した歌のいくつかを引き、感想を付していったのだ。少し前まで書抜きをする前に読書ノートにメモを取っていたのだが、面倒臭くなって止めてしまったところ、しかし結局手帳に場を変えて同じようなことをやっているのだから、また読書ノートに書けば良いではないかと思ったのだった。手帳はそのコンパクトさを活かして、書抜き候補の頁や、読書中に思ったちょっとしたことなどをメモするのに使い、正式な記録は読書ノートに取る。そうしてさらに正式な記録はコンピューターを使ってEvernoteに打ち込む、という三段構えの方策でひとまずやってみるかと相成った。それで九螺ささらの短歌について、全然大したものではないがいくらか感想を綴ったので当該の歌とともに以下にも記録しておこう。

 鳥避けのCD揺れる銀河色 四億年前の記憶のごとく
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、9)

 エレベーター昇りきるとき重力はとうめいになる シリウスが近い
 (14)

 目玉焼きが真円になる春分は万物が平等になる一日[ひとひ]
 (36)

 一首目は、「銀河色」という色の形容が美しく、またこの語によって読者は宇宙的スケールにまでイメージを拡張していくことになる。「四億年前」という時間の指示も同様の働きを持っていて、人類がこの地球に誕生する以前の、ほとんど宇宙的な時間がここでは想像されている。「鳥避けのCD」というどこにでも見られる日常的な事物から、時間・空間両面において「宇宙」を連想させ、想像力を拡大していく規模の大きさが特筆するべき点だろう。
 二首目において主題化されている「重力」は元々透明で目に見えないものだが、ここではあえてその語を使うことによってエレベーターが「昇りきるとき」の浮遊感、常に身体に作用している重みがふっと消えた時の感覚をよく表しているように思われる。それはまさに「重力」がその実質を失い、「とうめい」になったかのような感覚だ。「とうめい」の語を漢字にせず平仮名にひらいているのもポイントだろう。また、結語の「シリウスが近い」では、ここでも「宇宙」への志向が見られる。空を越えて天体と同じ位相にまで浮かび上がっていきそうな浮遊感・上昇感というわけだろう。
 三首目。「真円」は欠けた箇所のない完全な形であり、それは「万物」の「平等」という完全性の観念の形象化と言っても良いだろう。目玉焼きが偶然、完璧な円になった時のささやかな喜びを想像的に増幅させて、このようなやや大仰とも思われる表現に仕立てたのだろうか。しかし、「春分」の語から連想される春を迎えた頃合いのうらうらとした暖かさのイメージも調和して、ユートピア的に浮き浮きするような春の一日をよく描き出しているように思われる。
 「鳥避け」の一首や「目玉焼き」の歌にも見られるように、この作家は、極々日常的で身近な事物や情景を、いくらか抽象的で大規模なイメージや観念と結び合わせることが得意なようだ。同じような趣向を持った歌には、例えば次のようなものがあるだろう。

 あくびした人から順に西方の浄土のような睡蓮になる
 (8)

 耳鼻科には絶滅種たちの鳴き声が標本のごと残響してる
 (21)

 日曜の歩行者天国から空へレジ袋天使が旅立ってゆく
 (24)

 ありきたりな評言ではあるが、これらの歌は、日常の見慣れた世界を「異化」し、その豊かさや重層性を浮き彫りにして見せてくれるという機能を果たしているだろう。
 その後、一時一四分から新しく山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読みはじめた。最初の断章、「柳小橋界隈」の雰囲気が魅力的で、この少女トエの物語の続きをもっと読みたいという気持ちにさせられるのだが、頁を先取りして確認してみたところ、彼女の物語が語られるのはこの冒頭の断章のみらしく、その点残念である。ほか、「しんねりと」(7)、「ぐじぐじと」(8)、「じれじれと」(12)、「やわやわとした」(16)といったように、珍しい擬音語・擬態語が使用されているのが印象的である。
 二時半前まで読んだところで書見を切り上げ、就床した。


・作文
 14:47 - 16:09 = 1時間22分
 20:54 - 21:12 = 18分
 24:33 - 24:54 = 21分
 計: 2時間1分

・読書
 13:00 - 14:10 = 1時間10分
 16:37 - 17:01 = 24分
 17:30 - 19:12 = 1時間42分
 19:45 - 20:30 = 45分
 21:12 - 21:50 = 38分
 21:55 - 22:29 = 34分
 22:31 - 22:35 = 4分
 22:39 - 24:32 = 1時間53分
 25:14 - 26:23 = 1時間9分
 計: 8時間19分

  • 渡辺守章フーコーの声――思考の風景』: 222 - 383(読了)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-05-28「文明が居心地悪いわたしらは大停電の夜に生まれた」; 2019-05-29「深海で星が降るのを待つ貝のようなあなたのくちびるがいま」; 2019-05-30「寝坊したおかげで今日はまだだれの訃報も目にしていないという」
  • 岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年
  • 九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、メモ
  • 「第28回Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞記念対談 大竹昭子氏×九螺ささら氏」(https://dokushojin.com/article.html?i=4666
  • 山尾悠子『飛ぶ孔雀』: 7 - 24

・睡眠
 4:00 - 12:20 = 8時間20分

・音楽