2019/6/9, Sun.

 だが、世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。断片的な語りの一つひとつを読むことは苦痛ですらあるが、その「厖大さ」にいつも圧倒される。
 私はこれらの厖大な語りを、民衆の文学だとか、真の大衆文化だと言って称揚したいのではない。そういう金持ちの遊びは「屋根裏[アチック]」でやっていればよい。ただ、人びとの断片的な人生の、顔文字や絵文字を多用した、断片的な語りがあるだけである。文化的価値観を転倒させてそこに芸術的価値を見出すことはできない。
 そして、だからこそ、この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に厖大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、38~39)


 一二時半まで床に留まる。糞寝坊ここに極まるといった感じ。高校の同級生であるHが出てくる夢を見て、結構面白かった覚えがあるのだが、詳細は砂がさらさらと手から零れていくように既に失われてなくなった。上階へ。母親はポーランド料理の講座に行っているとかで不在である。冷蔵庫を覗くと鍋が二つ入っている。一つは味噌汁、一つは煮物の鍋で、どちらとも前夜の残りである。それらをそれぞれ取り出して温め、皿によそると、ゆで卵一つとともに卓に運んだ。新聞を読みながらものを食べる。尖閣諸島の接続水域に中国公船が侵入し続けているとの由。五八日間連続とか書いてあっただろうか。領海への侵入も起こっており、五月中には四度あったと言う。そのほか、ドナルド・トランプが三月だったかにイスラエルの主権を承認する宣言を出したゴラン高原の状況を伝える記事を国際面から読んだ。トランプ大統領の承認を受けてイスラエル政府は、入植を拡大し、イスラエル人人口を現在の一〇倍にまで増やす計画を発表したと言う。やりたい放題である。それらの記事を読みながら食事を取ったあと、コップに水を一杯汲んできて抗鬱剤を服用し、それから皿を洗った。そうしてそのまま浴室に行き、便意を我慢しながら浴槽を擦り洗ったのち、便所に行って腸のなかを軽くした。そして下階に戻る。コンピューターを点け、前日の記録を付けるとFISHMANS『Oh! Mountain』とともにすぐに日記に取り掛かって、ここまで一〇分少々で記すと一時二四分である。
 前日の記事をインターネット上に投稿したのち、一時四五分からベッドに移り、薄布団を身体に掛けながら読書を始めた。久しぶりにMichael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionを読んだ。例によって英単語を調べ、調べたものは手帳にメモしと忙しく手に持つものを入れ替えながら、一時間書見を進めた。外国語の文を読むというのはやはり結構気力を使うもので、日本語の文章だったらわりあいどれだけでも読めるけれども、英語を読んでいると段々と疲労してきて、せいぜい五頁くらいしか集中力が続かない。情けない話である。こんなことでは翻訳など夢のまた夢だ。しかし地道に一歩一歩やっていくほかはない。二時四五分になったところで読書を中断した。その頃にはまだ両親は帰ってきていなかった。小腹が空いたのでカップうどんでも食べるかというわけで上階に行き、玄関の戸棚から「赤いきつね」を取り出し、卓の端に置いて蓋を剝き、粉末スープと唐辛子の小袋を開けてなかに振りかけたあと、電気ポットから湯を注いだ。包装ビニールや小袋のゴミはきちんと台所のゴミ箱に始末しておき、湯の注がれて重くなった容器を慎重に持って自室に帰った。Bill Evasn Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 3)が室内には掛かっており、そのなかから"All Of You (take 3)"が流れていたので麺が柔らかくなるまでのあいだそれを聞き、五分間が経つとインターネットを閲覧しながらカップ麺を食った。食べている途中に両親が帰ってきたのだったと思う。スープまですべて飲み干してゴミ箱に容器を捨てておくと、上階に行った。父親は山梨の実家へ、母親は料理教室に行っていたのだが、どうやらほとんど同じタイミングで帰ってきたようだった。母親が帰りにガストで買ってきたピザがあると言うので、残っていた二切れを有り難く頂き、それからアイロン掛けに入った。母親のシャツ、自分の青いフレンチ・リネンのシャツ、エプロン二枚などを掛けていくあいだ、母親は玄関の方で長々と電話をしていた。相手はI.Y子さんらしく、話題は翌日に迫っているYさんの法事のことだ。T.Mさんという祖父の妹がいる。このたびYさんという祖父の妹のうちのもう一人が亡くなり、そのあとを追うようにして先日その夫の方も亡くなったのだが、おじさんの方が亡くなったということをこのT.Mさんに知らせるかどうか、という点で話し合いが持たれているようだった。こちらとしては極々普通に知らせるべきだと思うもので――Tさんが死ぬまで隠しておくわけでもあるまいし、あとになって自分だけ知らされていなかったと彼女が知ったらどう思うだろうか? しかしそれで言ったら、もう一人の祖父の姉妹、Kさんという人には、うちの祖母が死んだということは息子さんの意向で未だに知らされていないのだった。これも釈然としない話だ――父親も人が死ぬというのは大変なことだからやはり知らせた方が良いのではないかという意見を持っているらしく、母親にそのように忠告していたようで、アイロン掛けが終わってこちらが新聞を読んでいるあいだも続けて長々と通話をしていた母親も、結局その方針に意思を固めたようだった。それで玄関から戻ってきた母親に、携帯を指し示して、Yさんの息子さん(Tとかいう名前だったと思う。両親からは「Tちゃん」と呼ばれている)から電話が掛かってきていたよと伝えると、その場で母親は電話し、やっぱりTさんにも伝えた方がいいんじゃないかということを話していた。その電話を聞き終えるとこちらは下階に下りた。時刻は四時直前だった。『Bob Dylan』を流しだすとともに、九螺ささら『ゆめのほとり鳥』から読書ノートに短歌を引いて感想を記した。感想など記せないと思っていてもいざ書きはじめれば結構――大した内容の文ではないけれど――書けることがあって、三つの歌に感想を付しているとそれだけでもう一時間ほどが経って五時を越えた。

 貫かれ脳がバターになってゆく来世のじぶんがぬるく波立つ
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、54)

 ペニンシュラ、半島または愛されてもう戻れない女の体
 (57)

 一日じゅうふりこを眺めつづけたらこれと似た恍惚になるでしょう
 (58)

 一首目の前半は比較的直截な表現で性交時のとろけるような快楽を表している。後半の「来世のじぶん」が勘所だろう。来世の自分、すなわち今の自分が死んで生まれ変わったあとの自分にまで性交の波動が伝わり、感覚が波及していくのだ。それは遡行的に、今世の自分、今現在の自分にも前世の自分から伝達されるものがあるのではないかということを意識させる。輪廻転生があり得るとしても、何がしか前世の自分がなければ今世の自分は存在しないし、今世の自分がなければ来世の自分も存在しない。反対に、来世があるならば今世が、そしてさらに遡って前世が存在することになる。言うまでもなく、この生まれ変わりの系列は過去・未来の両方面においてほとんど無限に、時空の端まで拡張されて繋がっていくことが出来る。この一首を単に性交の快感の大きさを比喩的に言い表したものとして読んではならないだろう。「世界」と「存在」を超えて広がり、振動し、伝達されていくものがあるという広大無辺のダイナミズムこそが重要なのだ。
 二首目の「愛されてもう戻れない」という文言からは処女膜の喪失が連想される。「女の体」は一度「愛されて」しまえば、不可逆の身体的・物体的変容を被るわけだが、それにしてもその身体がなぜ「半島」に喩えられるのか。細くて丸みを帯びた女体の形は確かに、あるいは「半島」を思わせるかもしれない。ところで「半島」とは、海に向かって「突き出したもの」である。そして、「突き出したもの」と言えば、男性のペニスもまたそうではないだろうか。ここにおいて「半島」の形象を媒介として、「女の体」を貫き変容させる男根と、男根を受け入れ変容させられる女体とが重ね合わされ、一致することになる(ついでに言えば、「ペニス」と「ペニンシュラ」とは音の面でも類似している)。女体が男根を飲み込み、肉体全体でペニスを感じ、男と一体化する時のエロス、これを言語形式及び意味の位相においても実現しているのがこの一首ではないだろうか。
 三首目は、この一首だけでは「恍惚」の内実は明らかでないものの、恋人との性愛関係を主題とした前後の歌の文脈からすると、やはりこの「恍惚」とは性行為のそれではないかと思わされる。そうすると、「ふりこ」の止むことのない行きつ戻りつの半円運動とは、セックスの際の寄せては返す快感の波の運動を暗示したもののようにも思われてくる。この一首の話者はそれを「見る」ことで、あたかも実際にセックスを体験しているかのような「恍惚」を味わうことを想像している。そこにおいて話者は、「見る」ことの働きを介しておそらくほとんど「ふりこ」の運動と一体化した存在と化し、視覚から快楽を吸い込む[﹅4]主体となるだろう。
 感想を書き終えたあと、食事の支度をするために上階に上がった。父親がケンタッキー・フライド・チキンを買ってきてくれたし、母親の作ってきた料理もあるし、煮物や生サラダなども余っているので、ほとんど作り足す必要はなさそうだった。えんどう豆を茹でてくれと母親が言うので、BGMとしてFISHMANS『ORANGE』が流れるなか、豆の筋を一つ一つ根気良く取り除いていき、除いたものは笊に入れておいて、それらを流水で洗うと湯の沸いたフライパンに投入した。それから、味噌汁を作るために白菜と小葱を切り分けた。切り終える頃には豆が茹だっていたので笊に上げておき、もう一方の焜炉に掛けた鍋に白菜と葱を投入した。台所をうろうろしたり、音楽に合わせて身体を揺さぶったり、小さな声で曲を口ずさんだり、脚を左右に大きくひらいて股関節をほぐしたりしながら野菜が煮えるのを待ち、途中で台所に入ってきた母親に頼まれて紫玉ねぎの皮を剝いたあと、鍋に白味噌を溶かし入れた。それだけでは味が薄いので醤油も少量だけ加えておき、そうして完成、焜炉の火と換気扇を停めて、あとは頼むと母親に告げて下階に戻った。そうして五時四四分から、Bob Dylan『Live 1975: The Rolling Thunder Revue Concert』とともに日記を書きはじめ、ここまで綴ると六時半が目前となっている。
 上記の感想をTwitterに流したあと、ふたたび九螺ささら『ゆめのほとり鳥』のメモを始めた。閉じたコンピューターの上に読書ノートを載せ、左方に書籍を置いて手帳にメモした頁を参照しながら詩句を写し、感想を付していく。ある程度の分量の感想がまとまったのは以下の二首。

 人体は熱製造所にて刻刻と発熱しながら愛しつづける
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、63)

 「たたむ」とは宗教であるTシャツも折りたたまれて偶像になる
 (81)

 一首目は、「わたしと名付けしこの熱は今朝もキツネ色のトーストを欲しがり」という別の一首を連想させる。この作家の目には「わたし」という主体の存在も「人体」というその容れ物もともに、「熱」という物理的現象に還元されてしまう。それはまるで、サーモグラフィーによって映し出された世界を見ているかのようだ。しかしこの「熱」は人間的な「意味」を剥奪された荒涼たる物質の世界にのみ属しているわけではなく、人間の生の根源とも言うべき「欲望」と結びついている。「人体」の一首は愛欲と、「わたし」の歌は食欲と、である。人間から実存の重みを剝ぎ取って化学的作用として観察する冷静な目と、それでもそこから零れ落ちてくる人間臭さ、散文的な非人間性と血の通った人間性との絡み合いがこれらの歌の要だろう。
 二首目の、「「たたむ」とは宗教である」という一節の内実はよくわからないが、これが個人的に、この歌集のなかで最も鮮烈に感じる印象的な一首かもしれない。それはまさしく、意味の内実が明らかでない謎めいたアフォリズムの形を取っていることで、思考に引っかかりを与えるからではないか。ところで、「宗教」につきものの人間的行為と言えば、やはり「いのる」ことだろう。ここではあるいは、「たたむ」ことと「いのる」ことが重ね合わされているのだろうか? 例えば洗濯物を「たたむ」という、手順の定まった単純作業を行っているときの無心さというのは、「いのる」際の心の静寂に似ているかもしれない、などと戯れに思ってみたくもなる。有名な言葉だが、カフカは「祈りの一形式としての書くこと」という一節を残した。「いのる」ことは何かの無心な「行為」のなかにこそ宿るのかもしれない。
 そのほかいくつかの歌を読書ノートに引いておき、そうするともう七時半を過ぎていたので食事を取りに上階に行った。味噌汁やケンタッキー・フライド・チキンをそれぞれ温め、そのほか白米や紫玉ねぎとえんどう豆のサラダや前日の煮物の残りをテーブルに運ぶ。母親はもう大方食事を終えてタブレットを眺めており、父親はビールを既に二缶か三缶空けながら、NHKの『ダーウィンが来た!』が映し出すライオンの群れの様子を眺めていた。こちらは時折りテレビの方に目を向けながら、鶏肉をおかずにして白米を食い、煮物をつまみ、白菜の甘みのよく出た味噌汁を啜って、最後にキューピーの「すりおろしオニオンドレッシング」を掛けたサラダを平らげた。そうしながら、明日の法事のことが話題に出るので、俺も線香を上げに行っておけば良かったな、と呟くと、それなら明日の通夜にお前も出ればと母親が言った。土壇場で人数を増やしてしまって大丈夫かと訊いたのだが、明日の通夜は人数が固定的に決まっているものではないから問題ないだろうとの返答があった。実際参加するかどうかはこちらの一存に任されているわけだが、今のところ、一応参列するつもりでいる。そのような話をしながら食事を終え、八時に至るとNHK大河ドラマ『いだてん』が始まったが、母親がこれ見るの、と不満そうな口振りで父親に尋ねた。父親の方は意外にも、ほかのでもいいよと緩く答えて、それで『ポツンと一軒家』に番組は移った。日曜日は大河ドラマを毎週見ているものだと思っていたのだが、最近はそうでもないと言う。『ポツンと一軒家』を少々眺めてから立ち上がり、台所に行って食器を洗った。網状の布で食器を擦っていると、横に父親が盆を持ってやって来て、もう食事を終えたのかと思いきやそうではなくて、鶏肉を温めたり、サラダをおかわりしたりしてからこちらの足もとから酒を取り出し、それも用意してまた炬燵テーブルへと戻っていった。こちらは皿を洗ったあと、風呂に入ろうと下着を取り上げると、肌着のシャツがもうだいぶくたびれていたので、その旨母親に告げると新品のシャツがあると言う。それで、「a. v. v HOMME」というメーカーのそれを受け取り、洗面所に入って服を脱ぐと浴室に入った。風呂のなかでは雨が林の木々を鳴らす音を聞いたくらいで特段のことはない――いや、そのほか、口笛を適当に吹いていたらCarlos Santanaの"Europe"のメロディに偶然繋がって、久しぶりにSantanaという固有名詞を思い出した、ということもあった。出てくるとこの日はわりと涼しいので、ハーフ・パンツに新品の肌着のシャツもきちんと着込み、下階に戻って日記を書き出した。Bob Dylan『The Freewheelin' Bob Dylan』を背景にここまで綴って九時半直前である。やはり日記だ。とにかく日記。何よりも日記。それしか自分の生にはない。
 それからMさんのブログ。三日分。その後、『岩田宏詩集成』の書抜きを三〇分で終える。一〇時半からさらに、九螺ささら『ゆめのほとり鳥』の書抜き。手帳や読書ノートにメモした歌たちを、今度はEvernoteの方に打ち込んで記録していく。短歌は文が短いので数があってもすぐに終えた。そうしてまた残った数首を読書ノートにメモし、感想を付す。

 夜の中に薔薇は薔薇のまま香ってる人は死んでも見えないだけだ
 (九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、107)

 ふさふさの群青色が流れてく空は一頭のさみしい馬
 (124)

 一首目。夜闇に紛れて花が見えなくとも「薔薇」が芳香を漂わせるように、死んだ人も見えないだけで別の存在の仕方をしているのかもしれない。「見えないだけだ」という強い確信を伴った断言の形が印象的だ。「見えないだけかも」といった風にあやふやにせず、力強く言い切っている。この一首には死後の生や、別様の存在の仕方、別の位相の世界への志向が含まれているが、「薔薇」の花の香りからそうした存在論的問題にまで一挙にひらいていくその飛躍が鮮やかで見事である。
 二首目。青空の色を「ふさふさ」という擬態語を用いて表す発想は稀有のものだろう。しかし、下の句で出現する一頭の「馬」のイメージによって、その形容が調和的に回収されてしまうのが勿体ないようでもある。この擬態語がわかりやすく「馬」と対応せず、それのみで独立して出てきたとしたら、より鮮烈で、言語の手触り、その物質性が屹立していたのではないかとも思うのだ。だが、この調和こそがこの歌の美点だと捉える向きも当然あろう。ともかく、その点を措いても、「空」を「さみしい馬」に喩える想像力は特筆物だろう。あるいはここで言われている「空」は、真っ青にひらいたそれではなく、多数の雲に囲まれ切り取られた「空」の一部で、その形が「ふさふさ」とした馬の毛のように見えたのかもしれない。しかし、そのように現実的な可能性を考えると、どうもつまらなくなってくるようだ。ここではただこの一首に書かれてあることのレベルで、「空」が「一頭のさみしい馬」であるという、この巧みで詩情香る等置を味わえば良いのだろう。
 そのようなことを読書ノートに綴り、それから今しがたメモしたばかりの歌たちもEvernoteの方に引いておいて、時刻は零時前。Bobo Stenson / Anders Jormin / Paul Motian『Goodbye』を背景に日記を書いて零時を回った。書抜きやメモをしているあいだはBob Dylanの音源をいくつか続けて流していたのだが、アルバムによって彼の声がまったく違うのに今更ながら驚いた。
 それから読書を始めるまでのあいだに四〇分ほどの空白の時間が差し挟まっている。この時間で何をしていたのか? Twitterに感想を流していたのは確かである。そのほか同じくTwitterでDさんとやり取りをして、ゆらゆら帝国の音源などを紹介してもらい、それを聞いた時間もあった。そうして零時四〇分ほどになるとコンピューターを閉ざし、ベッドに移って、山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読みはじめた。一時半前まで読んで、明かりを落として就寝。頭痛があって、入眠するまでには少々苦戦した記憶がある。


・作文
 13:12 - 13:24 = 12分
 17:44 - 18:26 = 42分
 20:55 - 21:28 = 33分
 23:49 - 24:03 = 14分
 計: 1時間41分

・読書
 13:45 - 14:45 = 1時間
 15:57 - 17:08 = 1時間11分
 18:39 - 19:37 = 58分
 21:33 - 21:53 = 20分
 21:55 - 22:25 = 30分
 22:30 - 23:45 = 1時間15分
 24:42 - 25:28 = 46分
 計: 6時間

  • Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction: 95 - 100
  • 九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、メモ
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-05-31「戦場で倒れた兵の下敷きになって潰れた虫だっている」; 2019-06-01「運び屋の消息載せた新聞を紙飛行機にして飛ばす朝」; 2019-06-02「雲海を束ねて太刀とする子らにいましばらくは付き合うつもり」
  • 岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、書抜き
  • 九螺ささら『ゆめのほとり鳥』書肆侃侃房、二〇一八年、書抜き
  • 山尾悠子『飛ぶ孔雀』: 24 - 38

・睡眠
 2:30 - 12:30 = 10時間

・音楽