十年ほど前に那覇で乗ったタクシーの運転手のおっちゃんは、私は奄美の人間で、沖縄は合いません、と話していた。本土の人間からすると、どっちも似たようなものだと思いがちなのだが、実は奄美と沖縄とはかなり複雑な関係にある。
そのおっちゃんは、戦時中に朝鮮半島で生まれた。両親が奄美出身だった。小さいころに太平洋戦争が終わったのだが、彼がいた地域は「北朝鮮」となり、「朝鮮人たちからひどい扱いを受けた」という。朝鮮戦争が始まるころにようやく日本に引き揚げ、奄美に帰ってきた。彼にとっては、「はじめて見る故郷」だった奄美だが、わずか数ヵ月のうちに、当時は米軍政下で同じ「琉球」だった沖縄本島へ出稼ぎへ。その当時の那覇は、経済成長のまっただ中で、仕事がたくさんあったという。
しかし、沖縄へ出稼ぎに来た直後、一九五二年に、奄美は沖縄より先に日本へ返還されてしまう。そのまま沖縄に残った「日本人」としての彼は、軍政下の沖縄で「外国人」として扱われてしまう。そのときから、いろいろあったのだと思う。沖縄の復帰後も、ずっと那覇に住んでいる。
そのおっちゃんは、朝鮮で生まれ、人生のほとんどの時間を沖縄で過ごしている。奄美で過ごしたのは、わうか数ヵ月しかない。
運転しているあいだ、おっちゃんは、何度も何度も、「私は奄美の人間ですから、沖縄は肌に合いません」と繰り返していた。
奄美にいた数ヵ月以外は、七十年ものあいだ、ずっと「よそもの」として暮らしてきたのだろう。
(岸政彦『断片的なものの社会学』朝日出版社、二〇一五年、88~89)
夢を見た。一つは小中の同級生であるAと帰路をともにして自宅近くの道を歩いているもの。市営住宅に帰っていく彼と別れたあと、現実にも存在する道を辿って、家々のあいだの細道を上ろうとすると、その脇に猫が何匹もいた。生まれたばかりの赤子の猫が数匹いて、そちらに向けて手を伸ばしてあやしているあいだに目が覚めた。もう一つはギャルじみた女性とディープ・キスをするエロティックな夢。興奮という感じはあまりなかったと思うが、幸福な夢ではあったと思う。キスをして舌を絡み合わせているあいだに、射精したような覚えがあるのだが、起きてから股間をまさぐってみても特に濡れてはいなかったので、あれは夢のなかだけのことだったらしい。一〇時二〇分頃起床した。
上階に行くと炊飯器が稼働しており、あと一一分で炊けると表示されている。訊けば、穴子飯を作ったのだと言う。白米の方が鶏肉のおかずと一緒に食えるので良かったが、ともかく炊けるまでのあいだに前日の記録を付けたりするかというわけで一旦自室に帰り、コンピューターを起動させて六月九日の記事をひらき、日課の記録を記した。それからこの日の記事も作ったあと、早速日記を書きはじめて、一〇分で前日分を仕上げてここまで綴った。現在は一一時を目前としている。
ブログやTwitterに前日の記事を投稿したあと、食事を取りに上階に行った。冷蔵庫から味噌汁の鍋を取り出して火に掛け、同時にケンタッキー・フライド・チキンの残りも取って皿に置き、電子レンジに突っ込む。穴子飯をよそりながら味噌汁の加熱具合を確認し、搔き混ぜながら熱して椀に盛るとそれぞれ卓に運んだ。テレビはニュースを映していた。塩気のある鶏肉を賞味し、甘やかな白菜の味がよく出ている味噌汁を飲んで、食事を終えると抗鬱剤を服用した。それから台所に行って皿を洗ったあと、洗面所に入り、櫛付きのドライヤーで頭の全体を軽く梳かし、さらに整髪ウォーターを後頭部に吹きつけたあと同様にドライヤーを操って寝癖を直した。それから電動髭剃りで口の周りを綺麗にしたあと、小さな鋏でもみあげの毛をちょっと切り、身支度を終えるとそのまま浴室にも入って、風呂を洗ってしまうことにした。洗剤がなくなっていたので、詰替え用のパックの封を切り、小さな注ぎ口をボトルの開口部に差し込んで液体洗剤を押し出していく。空になったパックは浴槽の縁の端に置いておき、新たな洗剤を吹きつけて風呂桶をブラシで擦り洗った。そうして出てくると下階に戻り、Blankey Jet Cityの数曲――"僕の心を取り戻すために"、"ロメオ"、"ガソリンの揺れ方"――を流して下手くそに歌ったあと、引き続きBlankey Jet Cityの『LIVE!!!』を流しながら読書ノートへのメモを始めたのが正午を回ったところだった。コンピューターを閉じてその上にノートを載せ、左手には渡辺守章『フーコーの声――思考の風景』をひらいて文言を記録していく。外では雨が変わらず降り続いていた。時折り歌を口ずさみながら記録を続け、一時間強行って切りがつくと手帳に時間を記録しておき、歯磨きをした。音楽もちょうど終わったのでFISHMANS『Oh! Mountain』を流しだし、葬式に向けて衣服を着替えた。白いワイシャツを身につけ、真っ黒なスラックスも履き――こちらはウエストの太さが調節できるタイプで、直さなくてもサイズを緩くすれば丁度良く入ったので良かった――、上階に行って黒のネクタイを締めていると母親がやって来て、こちらのシャツが随分大きくて弛みが寄ってしまうと指摘する。さらに加えて、こちらは何故かそうではないと思いこんでいて気づかなかったのだが、着ていたこのシャツがボタンダウンであることが明らかになり、それでは駄目だと相成った。それで代わりのシャツを探したのだが、情けないことに礼服用に着られる真っ白なワイシャツの一枚もこちらは持ち合わせていない。仕方なく父親に借りることにして母親とともに両親の衣装部屋に向かい、そこに吊るされたたくさんのワイシャツのなかから袋に包まれた一枚を選び取って上階に上がり、洗面所で歯磨きをしていた父親にこれを借りても良いかと了承を取った。それで居間の南窓に寄り、そぼ降る雨の風景を眺めながら改めてそのシャツを身につけ、鏡の前に移ってネクタイを締めた。そうして下階に戻るとジャケットも羽織ってしまい、コンピューターの前に立ったままの姿勢で日記を書きはじめた。音楽が"ひこうき"に差し掛かってまもなく、こちらを呼ぶ声が聞こえた気がしたので、音楽を止めて呼んだ、と上階に向かって声を送ると、父親がそろそろ行くよと答える。はいと応じて日記の作成を中断し、一時五八分を記録しておいて、財布と携帯、それに山尾悠子『飛ぶ孔雀』の入ったクラッチバッグを持って上階へ行った。父親は先に外に出て行って車の準備をした。あとからこちらも玄関へ行き、靴べらを使って靴を履くと、上がり框に座りこんで艶出しスポンジで靴の表面を撫で磨いた。そうして大きな黒傘をひらき、柔らかな針のように降る雨のなか外へ出て車に寄り、荷物を後部座席に置いてから助手席に乗った。傘が大きいために座席とダッシュボードのあいだのスペースに収めるのに苦慮し、シートやスラックスにたくさん水滴をつけてしまった。父親がタオルを寄越してくれたのでそれで拭く。そうして母親がやって来ると、Y子さんが乗るからとバッグもこちらに寄越されたので受け取り、足もとに置いておく。そうしてじきに発車した。
市街を抜けていくあいだ、ラジオでは算盤の話がなされていた。算盤経験者は暗算の際に頭のなかに玉が思い浮かんでそれが動くとかそういった話である。こちらも小学生の時分算盤を習っており、自分もそうだなと思っていると、Nの踏切りに差し掛かったあたりで父親が、お前も浮かぶかと訊いてきたので肯定を返した。はっきり浮かぶのと続いた言には、ぼんやり浮かぶと答えた。その後、ラジオには一〇桁もの暗算が出来るという算盤マスターの女性が登場していた。その人は話しながらその場で即興で、何十何万何々足す何十何万何々足す……と数桁の数字を四つ五つ並べて問題を拵え、しかもそれを言うのと同時に計算もしていて、口にし終えた時には正しい答えがもう出ている、というような感じだった。
小作駅に到着。マクドナルドの前のガードレールの外側に停まってしばらく待っていると、Y子さんが駅の階段を下りてやって来たので、窓を開けて呼びかけた。傘を差さずに屋根のない空間をやって来るので、濡れさせてしまって、という意味合いを込めて、笑みを浮かべながらすみませんと続けて口にした。後部座席に乗った彼女は、Sくん、しばらくですと言うので、どうもと振り向いて挨拶し、先日はお墓参りにありがとうございましたと礼を述べた。こうして今日Y.Hさんの通夜に出てきたことも、偉いとかありがとうとか言われるので、とんでもない、と恐縮して受けた。そのあとY子さんは父親にも呼びかけて礼を言い、それに応じて父親の方もとんでもない、とこちらと同じ答え方をしていた。話は初め、ありがちなことで天気のこと、しとしとと降り籠めているこの日の雨のことから始まって、母親が、この雨のなか家の近くで電気屋が高所作業用のクレーンを使って電線の配線を取り替えるか何なのかわからないが何か作業をやっていたと感心したことを話し、そのうちにY子さんの家に来る植木屋の話に移った。そう、高所作業は危ないという所感から、うちに来る植木屋ももう二、三度、高いところから落ちて怪我をしているのよ、という話題に移行したのだった。その植木屋が朝の早い人で、午前六時にはもうやって来る、それに対応するために五時にはもう起きていなければならない、しかもそんなに朝早くから作業をするとうるさいでしょう、だから近所から苦情が入ったことがあって、もう少し遅くしてもらった方がいいって言われたの、でもやっぱりそうやって朝早くから来てくれるのを断れないでしょう、などをいった話が展開された。Y子さんはよく喋る婦人である。
そうこうしているうちにSホールへ到着した。建物の脇、側面入口の傍で父親以外の三人は降りて、父親は車を駐車場に入れに行った。自動ドアを一つ入った中途半端なスペースで父親を待っていると、Y.Tさんがやって来たのでこの度はご愁傷様ですと皆で挨拶をした。そのあとから奥さんと娘さんもやって来たのでふたたび挨拶をして、それからしばらく父親を待ったあと、なかに入った。エレベーターに乗って三階に上がり、控え室に入ったところ、なかは知らない人間ばかりである。のちにY子さんや母親に教えてもらって把握した親族関係をここで一遍に記しておくと、まず故人Y.Hさんの息子が喪主のTさん。その奥さんはJ子さんという茶髪の方で、この人は母親もY子さんもあまり付き合いがなかったらしく、名前を訊いても詳らかにしなかったので、あとで母親が控え室での待ち時間のあいだに名前を尋ねて、それでJ子という名が判明した。その夫婦の娘が小学六年生のJちゃん、この子は最初Y子さんに話しかけられてもあまりうまく対応しないと言うか、顔を伏せて黙り気味にしていて、引っ込み思案な子なのかと思ったのだが、あとの待ち時間のあいだにはもう少し活発そうな様子を見せていた。次に、Hさんのもう一人の子供、Tさんの妹であるMさんがいた。この人の旦那さんがBさんと言って、沖縄出身のアメリカ人とのハーフで、大層恰幅のある大男であった。その息子が中学三年生のBくん(父親と同じ発音の名前である)、この子も線が細めで顔はにきび面で、父親の大柄さとは対照的に決して社交的とは言えなさそうな雰囲気だった(のちに納棺式の際には、母親から順番を促されても躊躇するような様子を見せていた)。それがHさんの息子娘の家族、次にHさんの妹が二人いて、上の方の妹がS.Nさんという方で、この人は話によるともういくらか頭が呆けているらしかった。もう一人の、下の方の妹がK.Kさんという人で、この人は頭の方はまだ大丈夫なのだが、耳がだいぶ遠くて、人の発言がよく聞こえないようで、何かを言われた際にはたびたび、うん? と言って顔を傾け差し出す素振りを見せていた。そのKさんの娘さんがIさんという人で、宇治に嫁いだと言う。母親のKさんの方もどこかそちらの方に嫁いだ人なのだろうか、この二人は京都弁――なのだろうか、ともかく関西の言葉で話し合っていた。そのほか、こちら、こちらの両親、I.Y子さんという顔ぶれなので、全部で一三人だろうか。
控え室のなかに入って挨拶し、座布団の一席に座りこんで、父親が、すみませんけど脚を崩させてもらいますと言って胡座を搔いたのに倣ってこちらも胡座に構え、色と味の薄い緑茶を飲んでいるとお呼びが掛かった。三時五分前だった。控え室を出て、一同でエレベーターへ乗り、あれは何階だったのだろうか、二階にはそれらしき部屋はなかったように思うから、一階だったのだろうか? ともかく、多分下階に下りて行き、順番に遺体の置かれた小部屋のなかに入った。革靴を手で掴んで脱ぎ、皆の靴と並べて置いておき、室に入ると、入った口から見て部屋の右奥に遺体が寝かされ、その周囲に男性と女性のスタッフが一人ずつ控えていた。部屋の左側には座布団と椅子が用意されていて、こちらはそのなかの中列に就いた。椅子はこちらの両親やY子さんや、腹が大きすぎて正座が出来ないのだろう、Bさんが利用していた。
納棺式はまず末期の水を唇に付加することから始まった。喪主から順番に、先に髪か毛か何かついた筆のような棒で、遺体の唇を湿らせていくのだ。BさんやY子さんは、遺体に近寄った際、良い顔だとか何とか声を掛けていた。こちらは無言で、しかし作業の初めと終わりに丁寧に合掌して哀悼の念を示した。次に湯灌である。こちらの祖父だか祖母だかの時は――あれはどっちだっただろうか?――家まで業者がやって来て、大きな風呂桶のような容れ物に遺体を入れてシャワーでじゃぶじゃぶ洗ったものだが、ここで行われたのは簡易的なものだった。女性スタッフが顔にクリームを泡立てつけて髭を剃り化粧を施しているあいだに、ふたたび順番で一人ずつ、タオルを使って手と足を拭いていくのだった。Y子さんやHさんの妹たちは泣いており、母親も涙声になっていた。このあたりの女性陣の感じやすさと言うか、泣くべきところでは素直に安々と泣き、そのあとは打って変わってけろりとしているという変わり身の速さは、何と言うか凄いものだと思う。父親はお疲れ様でしたと声を掛けていた。そのように皆が手足を拭いているあいだ、こちらは情けなくも正座を続けるのが苦しくなって、膝立ちになって頭を前の列の人々の後ろから出し、泡を塗られ髭を剃られる遺体の顔を眺めたりしていたのだが、Bさんも立ち上がっていた時間があった。こちらの父親も立ったり座ったりで、こちらもそれに倣って一時立ち上がって部屋の隅に控えていた時間もあった。その後、死出の旅の道具を身につけさせる段に。足袋と脚絆、あとは忘れた。腕にも何かつけていたと思う。化粧は一度完成した時点で、Mさんが、もっと色が黒かったと言い、もう少し明るくというリクエストがなされたので、さらに赤味が足され、すると皆良い顔になったと満足したようだった。それから棺を囲み、遺体の下に敷かれたシーツを皆で持ち、故人を持ち上げて納棺。その後ドライアイスなどが入れられたあと、ふたたび棺を囲んで最後の別れとなった。掛け布団を皆で掛ける。こちらも手を出して布団の端を掴み、掛けてあげ、裾を丸めて遺体をくるむようにした。そうして衣服が入れられる。緑と赤のチェックのシャツが出てきたので、洒落てますねとTさんに声を掛けたが、でもあの人はね、これじゃないんだ、なんて言うんだよきっと、などと言っていた。シャツのあとはスラックスを遺体の上に置き、さらに帽子と眼鏡が加えられた。眼鏡は火葬出来ないので、直前に取り除くまで入れておくとのことだった。
それで納棺式は終了した。退室していく一同のあとに残ってこちらは遺体に近寄り、その顔をまじまじと眺めた。するとY子さんが、顔見たことある、と訊いてきたので、勿論、と答える。おばさんと一緒に何度も我が家を訪れていたのだ。お小遣いもらったりもしたもんね、とこちらは覚えていないが母親がそう言う。遺体の顔は安らかそうで悪くないものだったと思う。最後に退室し、靴べらを使って革靴を履いたあと、一度棚の上に置きかけたのだが、男性スタッフがあとに残っていることに気づき、使いますかと尋ねかけた。相手は恐縮したようにいえいえ、と答えたので、すいませんと薄笑みを浮かべながら棚の上に道具を置いた。
ふたたびエレベーターに乗って三階へ上がると、控え室の入口前で、Bさん、母親、Y子さんの三人の立ち話が始まり、こちらも何となくそこに加わって大方黙って話を聞いた。Bさんは沖縄出身のハーフらしく、携帯電話で写真を見せてもらった父君はおそらくアメリカの軍人だったのではないか。沖縄の話が話題に上がった。先般Bさんが沖縄を訪れた時に残念だったのは、海が汚くなっていた、自分の知っている海ではなくなっていたことだと言う。それに続けて、埋立てはいただけないと彼は口にした。辺野古基地建設の問題だろう。あれは元の場所で大丈夫なんですよ、と彼は言った。そう言う根拠は不明確だったが、あの周りは――彼は一度も「辺野古」とも「普天間」とも「名護」とも「宜野湾」とも口にしなかった――山みたいになっていて、大丈夫なんですよとよくわからないことを言っていた。それに、その場に住んでいる人は飛行機の騒音などもう慣れているのだとも主張して、自分も子供の頃から頭の上絵を飛行機が飛んでいたから何でもない、横田に来て周りの人が基地がうるさいと言っているので、沖縄の方がもっとうるさかったと驚いたくらいだ、と話した。反対運動でうるさいのは地元民ではなくて周りの人なんですよね、とも言っていたけれど、果たしてどうだろうか? 普通に普天間の周辺、その近くに住んでいて騒音被害に苦しんでいたり、頭上から何かが落ちてくるのではないかという不安を抱えながら暮らしている人だって大勢いるのではないだろうか? そういう人たちの言い分だってあるだろう。話を聞く限り、彼は辺野古に新基地を建設する必要はないという立場らしいが、彼の場合それが同時に普天間の固定化をも意味しているわけで、それはこちらは賛同できない、何しろ普天間基地というのは聞くところでは、米軍の安全基準に基づくと基準違反となるような類の危険な基地で、その周辺は本来はクリアゾーンと言って公共施設や病院などを造ってはいけないような地帯になっているはずだと言うのだから。かと言って辺野古が代替案として充分なものかと言うとそうではなさそうに見えるわけで、少なくとも現行の計画では滑走路が短すぎて――一八〇〇メートルとか一六〇〇メートルとか言っていたと思う、ちなみに普天間の滑走路は二六〇〇メートルほどだったはずだ――緊急時の任務の使い物にならないという話を聞いたことがある。例の、「サンドコンパクションパイル工法」とかいう例の地盤工事、七〇メートルだか九〇メートルだかの砂の杭を六万本だか七万本だか打ち込まなければならないというのも途方もない手間が掛かるだろう。そういう問題もあるから、工期や費用における国の試算と県の試算は大きく食い違っていて、国の方では五年で二四〇〇億円の工費で造れるという見込みだったはずが、県の試算によればそんな数字はとんでもない、一三年間及び二兆五五〇〇億円掛かると見込まれているらしい。普天間が駄目なら辺野古しかない、あるいは辺野古が駄目なら普天間で良いという二者択一の思考硬直を打破し、普天間でも辺野古でもない第三の選択肢を――本土移転も含めて――考えなければならないはずだと思うのだが、現今の状況はそういう流れにはまったくなっていない。そもそも、沖縄の海兵隊駐留に戦略的必然性はないという指摘も一部でなされている(「「戦略的必要性ない」 在沖海兵隊に元米軍高官言及 90年代分析 日本の経費負担好都合」(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-852864.html))。沖縄に海兵隊が駐留しているのは、例えばそれがカリフォルニアに駐留する場合よりも経費が格段に安くなるためだと言うのだ。在沖海兵隊の「抑止力」は機能しないのかという疑問も上がるのだが、この記事で紹介されているローレンス・ウィルカーソンという専門家の発言によると、「仮に朝鮮半島で有事が起きた際でも在沖海兵隊の派遣は「戦闘が終わってからしか現地に到着しないだろう。60万人の韓国軍にとって微少な追加でしかなく、戦略的理由はない」」ということらしい。この主張がどこまで正確で的を射たものなのか、知識のないこちらには判断がつかないけれど、こういう意見もあるという一点は頭に留めておくべきことだろう。
話がだいぶ逸れた。横田の話からオスプレイのことに話題が及んで、Bさんはあれは確かにうるさい、と言った。事故の多さに関しても、パイロットの友人に訊いてみたのだが、オスプレイという垂直離着陸機はベテランの飛行機のパイロットでも運転出来ない、ヘリコプターの方のパイロットでも難しい、あの機体専用の技術を身につけなければならないという話だったと言う。そんな話をしているうちに、じきに控え室から人々が出てきて式場の方に向かいはじめた。そこで立ち話は解散となり、式場に入って順番に一人ずつ線香を上げていくことになった。こちらは線香を上げ終えたあと、手前の焼香台に置かれていた小さな遺影写真を近寄って見つめたが、顔に皺を寄せて口をきっとへの字にしているものだったので、厳しいようですねと言って笑った。するとY子さんと母親も同意して、もっとにこやかな、良い写真がありそうなものだと文句をつけはじめた。そこから女性同士の立ち話が始まって、こちらもしばらく聞いていたのだが、じきに式場の外に出ると、そこでも父親がスタッフと雑談を交わしていた。今は会社で葬儀の知らせが回ってきても、全部、家族葬だから参列はお控えくださいとかそういうのばかりですよ、といったような話だ。それからちょっとすると女性二人も式場から出てきた。時刻は四時前、六時の通夜式開始までまだかなりの時間が余っている。そのあいだの時間、どうしていようかと来る前にも言い合っていたのだが、ひとまず二階にラウンジがあると言うので、そこに行ってみることになった。
それでエレベーターで移動したのだが、ラウンジなどと言ってもフロアの隅に丸テーブルの席がいくつか用意されているだけのものである。コーヒーを提供するスタンドも一応あるようなのだが、この時は「CLOSED」の札が掲げられて閉まっていた。喫煙所のなかに自動販売機があるようだったので、こちらは財布を持ってそこに行き、オレンジジュースを一本買った。それで席へ戻ると、母親とY子さんは温かいものが飲みたいと言うのだが、もう一度自販機を見に行くと温かい飲み物は一つもない。それで控え室に戻るかどうするかと言いながら、しばらく話した。話していたのは例によって女性二人が中心で、その話題も、控え室で出された茶が随分と薄かったなどと文句をつけるものである――勿論それほど険のある顔つきで話し合っていたわけではなく、にこやかに笑いながらの愚痴のようなものだったが。それでやはり控え室に行ってお茶でも貰おうということになったのだが、その前に親族関係がわからないからとY子さんや母親に尋ね、簡易な図を手帳にメモした。そうしてからふたたびエレベーターに戻って控え室へ。テーブルの端に就き、オレンジジュースを飲んでいると、母親がMさんに向けてこちらを、うちの次男ですと急に紹介するので、慌ててかしこまり、この度はと挨拶をした。まもなく一度家に帰った――犬に餌をやる時間なのだということだった――Bさんらが買ってきたのだろうか、茶菓子が届き、コーヒーも用意された。こちらはジュースがあったので、Y子さんにコーヒーを譲り、それから雑談が成された。こちらの右方で母親やY子さん、Mさんらが話している一方で、こちらから卓を挟んで向かいでは京都の母娘が二人で、関西人らしく勢いとテンポの良い話しぶりで談笑していた。関西特有のイントネーションや歯切れの良さ。
じきに、今これは一人になって日記を書くチャンスなのではないかと気がついた。それで缶ジュースを飲み干し、一人密かに控え室を抜けた。階段を下り、フロアを横切って喫煙所に入り、缶を捨てておいてから誰もいない静寂のなか一人で席に就き、携帯にひたすらメモを取った。現在時に追いつかせるためには、四時過ぎから始めて五時半前まで掛かった。五時半には控え室に戻ろうと思っていたので丁度良かった。便意と尿意を感じていたのでその前にトイレに行き、個室に入って腸と膀胱のなかを軽くした。それから階段を上がって控え室に戻ると、Y子さんが、Sくん、どこに行っていたのと訊いてきたので、ちょっと下でゆっくりしていましたと笑った。それからまたしばらく雑談をしたあと――と言ってもこちらは大方黙っていたわけだが、こういう時、Y子さんや母親が何も言わなくとも自分から喋ってくれるのには安心すると言うか、彼女らがいて良かったなという気になる――六時が近づいたので皆控え室を出た。受付のところにいた父親がこちらを招く素振りを見せたので近づいていくと、手伝ってくれと。了承する。それで父親が芳名カードと香典を合わせて受け取り、こちらはそれを受けて香典とカードに番号を振っていき対応させ、中身を確認して金額をカードに記録する役目を仰せつかった。しばらく袋をひらいては戻し、カード上にペンを走らせる。そうして六時になって開式。
僧侶が経を読んでいるあいだのことは特に覚えていないと言うか、動きはほとんどなかった。坊主の声と、木魚ではなくてあれは何と言うのだろうか、僧侶の左側に置かれた大きな鐘のような道具があると思うが、それが時折り鳴らされる響きとが式場に渡るなか、こちらは父親と並んで受付台の後ろに立ち尽くし、ぼんやり前を向き、視力の悪くいくらかぼやけた視界で式場のなかの様子、僧侶や参列者らの背を眺めていた。記念写真って良いよね、大勢の人が全員同じ一つの方向を向くことなんて記念写真くらいしかないもんね、という言葉を誰かが残していたと思うが、葬式の際に僧侶が経を読んでいるあいだという時間も、参列者は皆ぼんやりと前を向いてじっと時が過ぎるのを待つほかないのではないか。式が始まってからやって来た人々が三人いた。女性二人に男性一人だったが、この人たちの続柄はよくわからない、ただあきる野市に住んでいる人たちだったようではある。彼女らが差し出したカードをこちらと父親が受け取り、こちらはふたたび椅子に座って、カードと香典袋に番号を振り、金額を記入した。それから焼香の時間がやって来た。木魚をぽんぽん叩きながらの読経のなか、参列者全員が終えたあと、我々のうちからまず父親が焼香に行き、入れ替わりにこちらが式場に踏み入った。こういう場では少々勿体ぶったような振る舞いを取ったほうが様になるものである――と別に心底からそう思っているわけではないが、礼服を着ているからか自然と鷹揚な感じの歩調身振りになって、左右の参列者にゆっくりと礼をした。焼香をしたあと、前方の遺影に視線を合わせ――目が悪いのでぼんやりとしか見えないのだが――手を合わせて故人の冥福を祈った。そうしてふたたび左右に鷹揚に礼をして、式場を抜け、受付台の背後へ戻った。それからしばらくすると読経が終わり、僧侶の法話――と言って良いのか?――である。書き忘れていたが、焼香の前にTさんによって喪主の挨拶もあった。本日はお足元が悪いなかご参列くださりありがとうございますとの定型句が導入されたあと、父は八年間癌と闘って、その果てについに力尽きたような具合だったのですが、私は父は病に勝ったと思いたいですというようなことが語られ、さらに残された遺族もこれから仲良く助け合っていきたいと思うのでよろしくお願いしますと短く終わり、最後に一言だけ、と付け足されて、親父、お疲れ様でした、ゆっくり休んでくださいと述べられた。それで僧侶の話なのだが、この喪主挨拶の、病と買ったという言葉を引いて、まさにその通りだと思うし、また最後にゆっくり休んでくださいと述べられたことも引かれ、このような素直な心、こうした言葉が直截に心の底から出てくるという心の有り様が信仰というものではないかと思いますと坊主は述べた。それから結構長く彼は話していたのだが、要約すると、故人の死、病と闘い抜いたその生き様を受けて我々も、生きているなかでのささやかなことを幸せと感じられるような心持ちを涵養していきたいものだ、例えば毎日ご飯が食べられる、蛇口を捻ればすぐに水が出てくる、そういったことは本当は当たり前のことではないのだ、そういった当然になっていることに今一度目を向けて、感謝の心を育んでいきたいものだ、というようなことが述べられた。実にわかりやすい物語である。しかしなかなか人間、そうした心持ちに達するのは難しいだろう。理屈としては勿論彼の言っていることはわかるのだが、それを心の底から実感として骨身に染みて理解できるかと言うと、大抵の人には難しいのではないか。せいぜいそのような一瞬がごくたまに訪れるといった程度のことで、まあその程度でも良いのかもしれないが、ともあれ本当に生の一瞬一瞬に対する感謝の気持ちを抱きながら生きるというような心持ちに達することが出来れば、それはあるいは幸福の究極形なのかもしれない。マインドフルネスとか、慈悲の瞑想とかはわりとそうした方向性を目指しているものなのではないか。
それから戒名について述べられたが、これは「(……)」というものだった。大きく安らかな川のように欠けることのない全き状態を久しく保つ、というような意味合いだろうか。僧侶の法話――ではないか――が終わって退出していったあと――一同は司会の指示に従って合掌でそれを送った――通夜式はこれで終わりとなった。それから会食だが、皆すぐに隣の会食室には移らず、棺の周りに集まって何だかんだと話をしていた。そこにこちらと父親も加わっていくと、Tさんが父親に礼を言ったあと、こちらにも受付をしてくれてありがとうとの礼を述べて頭を下げてきたので、礼を返してとんでもない、と応じた。
それから会食。テーブルは円形のものが四卓あり、そのうち三卓にそれぞれの家庭と言うかグループで分かれて座った。我々のテーブルはこちらと両親とK.MSさん(書くのを忘れていたが彼は納棺には来ず、通夜から参列した。こちらとの間柄は、何という続柄になるのだろうか、祖父の妹の息子さんである)とY子さんである。こちらから見て右方に父親、向かいにMSさん、こちらの左隣は母親で、その向こうのMSさんの右隣がY子さんという配置だった。食事は寿司に天麩羅に煮物。こちらはここでもオレンジジュースを頂き、左右の両親にそれぞれビールとノンアルコールビールを注いであげたのを皮切りに、途中で席を立ってY子さんにもオレンジジュースを注いであげたり、煮物を全員分よそってあげたりと、多少のまめまめしさを発揮した。そうして寿司を中心にたらふく食った。途中、まだいくつか貫が残っているにもかかわらず、スタッフによって新しい寿司が届けられて古い膳は下げられてしまったので――天麩羅も同様――それを見た母親は、ちょうどテーブルを回ってお酌をしに来たTさんに、まだあるのに替えちゃうんだねと不満そうな、勿体なさそうな口振りで言っていた。それを受けてTさんが言ったことには、どれだけの人が来るのかわからないから三〇人分を用意してもらったのだと言う。その場にいたのはせいぜい一五人というところだったので、倍の量である。それだからなるべく若い人に詰め込んでいってもらいたいと言いながら、こちらにオレンジジュースの酌をしてくるので、いや、どうですかねと笑い、ありがとうございますと礼を言った。
そのうちにあきる野市の親戚が帰途に向かう様子を見せたので、母親が挨拶をして関係をちょっと訊いていたようだ。そのほか僧侶が退出する時にはこちらも立って、ありがとうございましたと礼をした。そうしてしばらくして、七時四〇分を過ぎたあたりだっただろうか、我々も帰るということになったので――その前に、会食中の話の内容をまったく書いていなかったが、大した話はなされていない。ただ父親が、ここで飲み食いしてもまた帰ってからどうせ呑むんだよと不満そうに言うのに対して、外で呑む酒とうちで呑む酒は違うんだ、外だとやはり落着いて呑んだり食ったり出来ない、だから家に帰ったあと一人で穏やかに、ちょっとだけ呑みたいという気持ちになるんだ、というような持論を展開していたのがやや印象に残っている。酒飲みの主張である。
それで我々も帰ろうということになり、ほかのテーブルに挨拶をしに行った。そうして退出。こちらはY子さんとともにトイレに。歩いている途中、彼女が、Sくんは姿勢が良くて、礼なんかもちゃんとしててと言ってくれたので、Y子さんはいつもそうやって褒めてくれて、と笑って返した。それで便所に入って排尿し、手を洗い、備え付けのペーパーで水気を拭って父親のもとへ戻ると、女性二人を待ってからエレベーターで下階に下りた。MSさんは先に傘を取りに行って、そこの一階で待っていた。それで建物側面の出口、入ってきた時と同じ場所から外に出て、母親が車を取りに行っているあいだ――父親が酒を呑んだので、帰りは母親が運転する役目だった――ほかの四人は軒下で雨を避けながらひととき待った。この時も多少話されて、会食中にも話していたが、MSさんはどうやら数学が好きなようで、そちらの方面の専門書など多少買っているらしい。文学なら多少はわかるのだが、数学となるとこちらは完全な門外漢である。
それでそのうちに母親が車を回してきて、こちらは助手席に、父親、MSさん、Y子さんが後部座席に詰めて乗った。帰りの道中での会話は特に覚えていないし、大したことが話されていたわけではない。Y子さんをまず小作駅まで送っていき、それから帰路へ。MSさんは以前は学校の教師を勤めていたと思っていたのだが、この時の話しぶりでは塾の先生だったような様子だった。わからない、両方やっていたのかもしれない。仕事を辞めたのは四二歳かそこらだったと言い、それから今まで何で生計を立てているのかは不明である。何か株だかインターネット・ビジネスの類だかやっているらしいということを母親に聞いたことはある。さあそして、帰路の車内でのことは省略して、と言うか特に印象深いことがなかったのだが、我が家の近くに来ると、一旦家の前を通り過ぎて、MSさんの住む公営住宅の傍まで行った。街灯の少ない暗い坂の途中で車は停まった。MSさんが降りていく間際に、今日はSくんの顔を見られて幸せな気持ちになりました、などと言い残していったが、そんなに大した顔はしていない。その後、自宅の方に回っていって帰宅。駐車場に入れず家の前に横向きに停まったので、父親、次いでこちらと降りていき、こちらはまだ少々降っている雨に濡れながらポストから新聞を取り出し、鍵を持っていない父親に代わって玄関を解錠した。そうしてなかに入り、居間に向かって明かりを点け、三方の窓のカーテンを閉めていった。そうして下階へ。自室に入るとコンピューターを点け、親戚の法事だったのでまた日記が長くなるとツイートし、それから服を着替えた。ワイシャツを上階に持って行ったあと、自室に戻り、日記を書かなければならないのはわかっていたもののそうする気力が湧かずにしばらく何をするか立ち迷っていたが、結局日記を書くしかないのだと観念して文章をコンピューターに打ち込みはじめた。それが九時直前である。BGMはThe Police『Synchronicity』。四〇分ほど書いたところで父親が風呂を出たらしく、天井が鳴ったので書き物を中断して上階に行った。そうして入浴。湯のなかに身体を沈めて疲れを癒やし、出てくるとすぐにまた自室に戻って、ちょっとだらだらしたあと一〇時半からふたたび日記に取り掛かった。The Police『Outlandos d'Amour』を背景に零時過ぎまで。その途中、一一時半頃、喉が渇いたので何か飲もうと上階に行った。すると父親はやはりあれからまた酒を呑んだらしく、テレビのニュースを見ながらぶつぶつと独り言を呟いている。母親は仏間で昔の写真を探っていた。こちらは玄関の戸棚を探ってオロナミンCを一本取り出し――多分先日父親が山梨に行った際に祖母から貰ってきたものだろう――コップに氷を入れてそこに鈍い金色の液体を注いだ。そうして飲み物が冷えるのを待つあいだに仏間に入って、母親の掘り出してきた写真を眺める。誰だかわからない親族の結婚式の写真が多かった。そうして居間に出てオロナミンCを飲み干すと下階に戻り、ふたたび打鍵を進めたのち、零時を回ったあとは渡辺守章『フーコーの声――思考の風景』のメモを取った。BGMはRadiohead『Radiohead Rocks Germany 2001』。一時間ほど読書ノートに文言を書き込んで、それからさらに書抜きでもしようかなと思っていたのだが、歯を磨いているあいだに何となく短歌を作る方向に心が向いて、口を濯いできてからも作歌して以下の七つを拵えた。
溺死者を引き上げ悼み灰にして崖の上から海に還せよ
滑らかな歯ぎしり立てて宙返りくるるくるると舌に血の味
サーカスの子熊が遊ぶ玉の上銀河は回る地球を乗せて
革命が今晩頭上を通過する一杯呑んで遠雷を待とう
青空は魚平等死の定めすべての比喩を吸い込む調べ
強さとか悲しさだとか言うけれど食べられないそれが詩の運命[さだめ]
大海はあらゆる比喩の終着点そこから先は頁の外さ
そうして二時に至ったので就床したのだが、眠気がやってくる気配がまったくなかった。それなので四〇分ほど輾転反側したあと、また日記を書くかと起き上がってしまった。
・作文
10:44 - 10:54 = 10分
13:42 - 13:58 = 16分
20:57 - 21:35 = 38分
22:28 - 24:06 = 1時間38分
計: 2時間42分
・読書
12:05 - 13:14 = 1時間9分
24:08 - 25:19 = 1時間11分
計: 2時間20分
・睡眠
1:30 - 10:20 = 8時間50分
・音楽
- Blankey Jet City『LIVE!!!』
- FISHMANS『Oh! Mountain』
- The Police『Synchronicity』
- The Police『Outlandos d'Amour』
- Radiohead『Radiohead Rocks Germany 2001』