小林 それはまさにそのとおりなので、「感覚的」と言ったときに、一番大きな誤解は、われわれが常に、もちろんいろんなものを知覚し、感覚しているんだけれども、その感覚が、多くの場合は習慣によって統御されているわけです、かならずね。感覚はすでにつくられてしまっているというか。アートの、芸術の力が必要なのは、まさに、つくり上げられた、鎧のように出来上がってどうしようもない、この人間の癖となっている、癖の塊である感覚にひびを入れるためですよね。そこにひびを入れることで、はじめて、もう1回、世界との直接的なコンタクトが、なんらかの仕方で生まれてくる。それがない限りは、この感覚をそのまま延長すればいいなんてことはけっしてない。それは禅の修行だってそうで、あらゆるものは全部そこを目指しているわけじゃないですか。
(小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、43)*
このテクストは、題名が示す通りに、「声」と「字」と「実相」のあいだの関係、それぞれの意味(「義」)を論じている。いや、論じるというより、断定的に規定している。論理(ロゴス)を追って進んでいく、という態度ではなく、一挙に、「これはこうである」と真理が開示されるというスタイル。哲学というよりは、やはり覚者による確信に満ちた断言です。それは、もちろん、真言密教と呼ばれる神秘をベースにする教えを開く宗教者としての空海の全身全霊の経験によって裏打ちされているのです(……)
(60; 小林康夫「複合言語としての日本語」)*
人は誰でも〈ことば〉する。そのように、この世界とは、絶対者が〈ことば〉することによってある、というわけです。これは、キリスト教的な「創造」ではなく、「説法」です。創造者ではなく、説法者。そのアスペクトの違いは重要ですが、しかし構造は似通っています。物理的には途方もない無限の差がありながら、そこでは人間と世界とが、鏡のように、向かいあっていると言ったらいいでしょうか。わたし流の言い方になりますが、これこそが密教の秘密[﹅2]にほかなりません。だが、注意しなければならないのは、若かりし空海が虚空蔵求聞持法の修行中に経験したあの有名な「谷響きを惜しまず、明星来影す」という経験、すなわち大地が限りなく響き震動し、「明星」がみずからにとびこんでくる、そのように世界が直接、語りかけ[﹅4]てくるという経験があってはじめて、世界と私のあいだにほんとうの「向かいあい」の関係が生まれるということ。それこそ空海の出発点でありました。
(61~62; 小林康夫「複合言語としての日本語」)
九時頃から覚醒してはいたのだが、例によって身体を起こすことが出来ず、布団を剝いで長々と寝そべって、正午まで床に留まってしまった。窓の外では父親が午前中から勤勉に畑仕事をやっており、起きた頃には耕運機の駆動音が響いていた。正午に至ると起き上がり、上階に行った。食べ物は特になかったので、一つ残っていたレトルトのカレーを食うことにして、フライパンに水を汲み、そこにもうパウチを投入しておいて火に掛けた。そうして洗面所に入って櫛付きのドライヤーで髪を整えるとともに、浴室にゴム靴で踏み入って風呂を洗った。洗って出てくるともう湯は沸いていて、パウチは充分に温まったようだったので取り出し、鋏を使って口を切り、大皿によそった米の上にカレーを掛けた。そうして卓に就き、新聞を瞥見しながら食事を取ったが、このレトルトカレーは味に全然深みがなくて大して美味くない――まあ、レトルトのカレーに「深み」などというものを求める方が間違っているのかもしれないが――。カレーを食べるとすぐに皿を洗い、そうして下階に戻ってコンピューターを点けた。FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだすとともに、「記憶」記事の音読であるが、これもなかなか面倒臭い、こんなことをいちいちやっていないで、Mさんと同じスタンスで、忘れてしまう知識は忘れるに任せてしまえば良いのではないかという気もする。しかしともかく三〇分ほど音読をして、一九六〇年の六月二三日に改正安保法の成立だの、六二年一〇月にキューバ危機だの、六五年二月七日――祖母の命日と同じ日付だ――から米軍による北爆が始まるだのといった事柄を確認すると、日記を記しはじめた。音楽はFISHMANSのあとはOmer Avital『Qantar』に繋げて、一時間半以上掛かって現在時刻に記述を追いつけることが出来た。今日も三時半には家を出るようなので、二時四〇分に至っている現在、あまり猶予がない。やはりもう少し早く起きなければ余裕を持って作業が出来ないものだ。
名前の検閲を施したり、Amazonへのリンクを作ったりしながら前日の記事をブログに投稿すると、それだけで一〇分か一五分ほど掛かって、時刻は既に三時直前に至っていた。上階へ行くと母親は料理教室から帰ってきてソファに就き、タブレットを弄っていた。その母親が料理教室で作ってきたものが入っているパックを冷蔵庫から取り出し、卓に就いた。あれは何と言うのだろうか、ワカメや何かを肉で巻いて梅の風味で味付けしたような料理を頂いた。そのほかにも何か一品二品、軽いものを食った覚えがあるのだが、それが何だったのかは忘れてしまった。品物の残ったパックはふたたび閉ざして冷蔵庫のなかに入れておき、使った食器をさっと洗うと下階に帰って、ワイシャツとスラックスの姿に着替えた。今日のスラックスは紺色の、細身のものである。そうして歯を磨き、荷物を用意して上階に上がると、母親に行ってくると告げて玄関に出た。靴を履き、扉を開けて踏み出して道に出る。時刻は三時二〇分頃だった。
陽射しがあり、家を出てすぐの時点で既になかなかに暑かった。坂道を上っていくあいだ、路傍の木々に風が通ってさらさらと鳴りを立てるが、暑気を和らげるほどではない。坂を上りきって平ら道に出た頃には、早くも肌は汗を帯びていたはずだ。街道との交差路で、いつもは表に出るのだが、今日はたまには違う道行きを取るかというわけで右に折れ、裏道を進んだ。遮られることのない陽射しに打たれながら家々の合間を通っていき、ガードレールの向こうの林に接した道に出て、中学校の脇の長い下り坂を下っていく。ガードレールの向こうでは緑の葉っぱが大層厚く繁茂しており、頭上にも天蓋となって掛かっていて、坂道は途中から日蔭に覆われており、そのなかにいて風も通ればなかなか涼しかったが、坂を下りればまたすぐに陽射しのなかに出ることになった。背中や腰のあたりにぴったりと温もりがついてくる。
グラウンドでは小学生の子供たちが大きな声を上げながら野球の真似事を行っていた。こちらの目の前では姉弟らしく、小さな弟を背後に乗せた女児が自転車を乗り回していて、その横を過ぎながら、こういうシーンもことによれば映画になりうるのだろうなと思った。Blankey Jet City "僕の心を取り戻すために"を頭のなかに再生しながら裏道を行き、元市民会館の施設からまっすぐ南に下った坂の途中に出た。車の来ない隙をついてそこを横切り、ふたたび裏通りに入って小公園を過ぎれば交差路の角に駄菓子屋がある。こちらも幼少の時分には遊びの途中に立ち寄ったことのある店で、過ぎたあとから子供らが何人か薄暗い店内に入っていくのが窺えたので、まだやっているのかと驚いた。それからちょっと進んで、紫陽花の咲き誇った角を左折し、坂を上って駅前に出れば職場はすぐそこである。駅前の並びもシャッターが閉まっていたり、テナントを募集している空き店舗があったりして、寂れた町だとの感を禁じ得ない。
職場に着いて座席表を見ると、今日は数学が当たっている。数学は苦手なので、早めに来て予習する時間を設けることが出来て良かったと思った。それで荷物をロッカーに仕舞うとタブレットを取り、今日当たる生徒の記録を確認したあとワークを持ってきて、因数分解による二次方程式の解き方だったり、平方根の章のまとめだったりを確認していたのだが、結果から言うとこの努力はあまり役立つことはなかった。数学がこのあたりで良いだろうというところまで達したあとは、国語も当たっていたので、「論語」やその他の文章を予習で読んでおき、問題も確認しておいた。
一時限目は(……)さん(中三・数学)と、(……)(中一・数学)が相手だった。(……)さんは初顔合わせ。中一の方は問題ないのだが、問題は中三生の数学で、ワークをやるのだったらまだ良かったのだけれど、(……)さんは学校で入手したテストの過去問を持ってきており、ワークではなくてそれを扱うことになったので、こちらにも一見してはわからないような問題がいくつも出てきたのだった。それで答えを借りながら解説する次第になってしまったので、こちらの講師としての数学的能力に不信を抱かせるようなことにあるいはなってしまったかもしれない。しかし一応彼女がわからなかった問題は、答えを参照しながらではあるけれど解説し、納得を導き出せたようだったので、その点は問題なかっただろう。ノートもそこそこ書かせることが出来た。(……)の方もノートは充実させられたのだが、彼は文字式への代入や正負の計算でミスしているような有様なので、テストは不安だと言わざるを得ない。
二時限目は(……)くん(中一・英語)と(……)くん(中三・国語)が相手。(……)くんはこれで当たるのは三度目だったと思う。単語チェックテストの結果を見るとあまり奮わないと言うか、中一レベルの簡単な単語でもスペルミスが多くて大丈夫だろうかという気になるのだが、授業本篇はなかなか良いペースで進められたと思う。今日扱ったのはDo you play ~?などの形や、What do you ~?の構文。そして最後にWhere is ~? の形を説明し、いくつか文を練習させて終いとなったのだが、ノートはかなり充実させることが出来て良い感じである。やはり一対二の方が圧倒的に細かなところまで指導が行き届く。(……)くんの方は、多分彼は同僚である(……)先生の弟なのではないかと思う――別にそのことについて尋ねたりはしなかったが。ややクールな感じのする少年で、マスクをつけて時折り咳き込んでいたので、風邪を引いていたのかもしれない。授業では「論語」と評論文を一つ扱い、「論語」の方は教科書を持ってきて質問しながら現代語訳を逐一確認した。「温故知新」の意味や、「学ぶ」と「思う」の違いについてなど解説。問題は全体的によく出来ていて、ミスしたのは漢字くらいのものだったので、後半、ワークの問題を扱い終えてしまってやることがなくなったあとは、漢字を練習してもらった。ノートには「論語」の言葉の意味をいくつか書いてもらい、そこそこ充実させることが出来た。
そうして授業を終え、七時四〇分頃退勤。駅に入って既に停まっていた奥多摩行きの最後尾に乗り込み、手帳をポケットから取り出して、ちょっと反り曲がったそれをまっすぐに伸ばしながら腰掛けて、発車までのあいだ記してある情報を復習した。発車は遅れていた。中央線で遅延があったらしく、それが波及して青梅線の方もいくらか遅れが発生し、向かいの一番線にやって来る接続電車の到着が遅くなっていたのだ。それで七分ほど遅れて奥多摩行きは出発し、最寄り駅に着くとこちらは降りて、羽虫が飛び交うなか通路を抜けて駅前の坂道に入った。街灯の光を受けて白く硬質な覆いを掛けられた葉叢のなかを下っていく。
そうして帰宅すると、今日は父親も休みだったので既に炬燵テーブルに就いて酒を飲みながら食事を取っているところだった。水を二杯ほど飲み、ワイシャツを脱いで丸めて洗面所に置いておくと、下階に下りて自室に入り、ハーフ・パンツ姿に着替えた。そうして食事を取りに上階へ引き返す。夕食のメニューは小さなジャガイモを丸のままハムと一緒に炒めた料理や、紫玉ねぎの味噌汁だった。テレビは『ハートネットTV』を映しており、闘病中の林家こん平の様子が紹介され、声帯をやっているらしくうまく声が出なくてざらざらの不明瞭な発声になってしまい、車椅子にも乗っているのだが、そうした状況でも高座復帰を目指して頑張っている姿に父親などは感激して涙を催していたようだった。そんな父親の横でこちらと母親は、味噌汁に入れて煮た紫玉ねぎが何故かぶよぶよの食感になってしまっていたので、何だかあまり美味くないねなどと言い合っていた。母親の推測では、紫玉ねぎというのは普通の玉ねぎと違って、生でないといけないのではないかということ。
食後、入浴。出てくるとさっさと下階に戻り、まもなく九時過ぎから書抜きを始めた。Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introductionに、東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』である。書抜きに一時間半を費やして一〇時台後半に入ると、インターネット記事を読んだ。富柏村「香港の若者たちは何を守ろうとしているのか」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019061400003.html)と、山森亮「フィンランド政府が2年間ベーシックインカム給付をして分かったこと」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64706)である。香港の若者の力というのは凄いものである。先頃の逃亡犯条例改正に対する抗議に当たっては幅広い年齢層を包含してあれだけの人数を動員することに成功したわけであるし、二〇一二年の愛国教育への抗議活動でも、中心を担ったのは一六歳の若者だったと言う。日本に来て香港人への支援を呼びかけた運動の中心的メンバー周庭氏もまだ若干二二歳程度だっただろう。香港では今、そうした一九九〇年――こちらの誕生年だ――以降の生まれの若者たちが台頭してきていると言う。
インターネット記事を読んだあとは、久しぶりに短歌を作った。現代詩文庫の『石原吉郎詩集』をひらいて、適当に連想的に言葉を並べていって、以下の四つを作った。
盗賊と兵士と母と火を囲み酒を交わそう夜は祝福
葬式の読経のなかでふと気づく千年前にも聞いた唄だと
一〇〇年後のフランツ・カフカになりたくて手紙を書くけどフェリーツェがいない
迷宮の亡霊になって夜もすがらどの部屋に行けば成仏できる
それから途中で、短歌ではなくて詩をまた書いてみようと作業を移行して、言葉を練っているうちに、「君がさみしくないように」というフレーズを思いついた。これは、Hさんが昔やっていたブログのタイトルが確か「僕が寂しくないように」だったと思うのだが、多分そこが元ネタということになるのだろう。それで、このフレーズからインスピレーションを膨らませて、七音を基調としたリズムで、ストレートなラブソングのような詩を書いてみようと考え、結構時間が掛かって出来た時にはもう一時も近くなっていたように思うが、以下のような詩が完成した。ちょっとセンチメンタルになりすぎたような気もするが、非常に簡単な言葉で作られた明快な歌になったと思う。途中の「普通の会話を愛している」は、言うまでもないが、cero "大停電の夜に"が元ネタである。
君がさみしくないように
君がさみしくないように
手紙を書こう 真夜中二時に
今日 僕が何を見たのかなんて
君は関心ないだろうけど僕がさみしくないように
手紙を書いて 朝の六時に
今日 君は何を見るんだろうね
僕の心は興味でいっぱい君がさみしくなる前に
電話をしよう 星空の下で
普通の会話を愛しているよ
泣きたくなるんだ 声聞くだけで僕がさみしくなる前に
電話をしてね 朝陽のなかで
普通の会話を愛してほしい
泣かないでくれ 声を聞かせて君がさみしくなったなら
約束しよう 会いに行くって
僕の代わりはいくらでもいる
だけど歌うよ ただ君のため僕がさみしくなったなら
約束なんて 取っ払ってさ
君の代わりはひとりもいない
だからさよなら また会う日まで
その後、一時一〇分から細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』を読み出した。外では時鳥の鋭角な鳴き声がたびたび響いていた。三〇分読むと一旦中断して上階に行き、戸棚からカップラーメン――ちゃんぽん味のもの――を取り出し、湯を注いで、熱い容器を取り落とさないように注意して自室に運んできた。それでコンピューター前に就きながら麺を啜り、スープも飲み干してしまうと、また上階に行って、今度は白米でおにぎりを一つ作った。それも自室に持ち帰ってコンピューター前で食ったあと、二時一七分からふたたび書見に入った。石原吉郎が帰国した一九五三年頃は日本共産党が「戦後革命」――この語は初めて目にするものだった――を目指して武装闘争路線をぎりぎり維持していた段階だと言う。確かに、五二年の五月一日にはまだいわゆる「血のメーデー事件」など起こっている時期だったのだ。帰国した石原ら「シベリア帰り」の人々が「アカ」ではないかと疑われ、迫害を受けた背景にはそうした世情があったのだ。
読んでいるうちに意識を失ったようで、気づくと時刻は四時を過ぎており、もう眠ろうと急いで明かりを消すと、カーテンが既に薄く明るんでいた。寝床での記憶はないので、眠りに苦労はしなかったらしい。
・作文
12:55 - 14:40 = 1時間45分
・読書
12:29 - 12:55 = 26分
21:09 - 22:37 = 1時間28分
22:39 - 23:35 = 56分
25:10 - 25:40 = 30分
26:17 - 28:14 = 1時間57分
計: 5時間17分
- 「記憶1」: 10 - 15
- Michael Stanislawski, Zionism: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2017、書抜き
- 東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、書抜き
- 富柏村「香港の若者たちは何を守ろうとしているのか」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019061400003.html)
- 山森亮「フィンランド政府が2年間ベーシックインカム給付をして分かったこと」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64706)
- 細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』: 230 - 266
・睡眠
3:30 - 12:00 = 8時間30分
・音楽