2019/6/27, Thu.

 では、人はどのように存在しているのか。これは仏教の伝統的な考え方からすれば、「身口意」ということになる。「からだ・ことば・こころ」と言っておきましょうか。この3つの次元における「業」(カルマですね)が、地上的人間存在の核であるということになって、これを「三業」、「三毒」と言う。この「身口意」の三元図式を、空海は、そのまま世界の「説法者」である大日如来に反転的に適用する。だから、いまわれわれが読もうとしている声字実相義の冒頭でもすぐに「身密」、「口密」、「意密」の「三密」が言及されるわけです。つまり、「声字実相」とは、世界を〈ことば〉する大日如来の「身・口・意」にほかならない、という関係構造がそこにはある。
 (小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、62; 小林康夫「複合言語としての日本語」)

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 複合語は、「名」が指示する「体」がそれぞれどのような関係にあるのかを具体的に提示することなく、関係をいわば捨象して、一挙に、「名」を併置してしまいます。そして、その全体が「一」なる「word」であるようにまとめてしまう。あるいは、逆に、「一」とみなされているものを、いくつかに分けて併置し、それをまた一挙に統合するというオペレーションでもある。空海は、両方向にわたって、このオペレーションの天才です。かれのテクストはこの論理的オペレーションによって貫かれている。
 ついでですが、「声字実相義」に続く「吽字義」においても、「吽」という「字」について、それは、「阿」・「訶[か]」・「汗[う]」・「麼[ま]」の4「字」から成り立っていると論じるのが眼目になっています。しかし、それは、この4「字」が「吽」の単なる要素[﹅2]だというのではない。すでに見てきたところからもわかるように、「複合語の論理」は、「部分と全体」、「要素と全体」のような関係にも適用はできるが、それを超えて、まったく次元が異なるもののあいだの関係にまで適用されることにこそ、真の働きがある。ここでは詳しく展開することはできませんが、究極的にはそれは、「即」の論理とでも呼ぶことができる超論理へと向かっていきます。そもそも次元が異なるのだから、「同」とか「近」、「隣」とか言えない。けれども、次元の異なりを超えて「即」が起こる、ということになる。その「即」こそ、「即身成仏」の「即」であり、かの「色即是空」(般若心経)の「即是」であり、さらにはそれは、現代に近いところでは、鈴木大拙の「即非の論理」にもつながっていくように思われます。
 (69~70; 小林康夫「複合言語としての日本語」)


 例によって一二時まで糞寝坊の体たらくである。上階に行くと、台所の調理台の上に乗せられた皿のなかにはカレーが入っていた。そのほか、玉ねぎやパプリカなどを細かく下ろした生サラダ。大皿に米をよそって、皿に入ったカレーをそちらの大皿の方に移して米の上に掛け、電子レンジで一分加熱した。そうして卓に就いて食事。洗濯物を仕舞っていた母親に雨が降るのかと訊けば、夕方から降るらしいと言う。新聞の予報を見てみても確かに雨のマークが記されている。その母親は、まもなく「K」の仕事に出かけるところだった。こちらは台所で皿を洗うと、浴室に入って風呂を洗う。出ると洗面所には、ピンク色のポロシャツを着た母親が立っていたので、その脇を通り抜けて下階に帰った。そうしてコンピューターを起動させ、FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだしてEvernoteで前日の記録を付け、この日の記事も作成すると日記を書きはじめたのが一二時四七分である。そこから一時間二〇分を日記に費やした。BGMはFISHMANSのあと、Suchmos『THE ASHTRAY』に移行した。今日の労働は元々一時限だけだったはずなのだが、先ほど連絡が来て、一時限は事務手伝い、もう一時限は授業ということになった。
 前日の記事をブログに投稿し、Twitterに通知を流すとともにnoteの方にも発表した。そうして、冒頭に戻って繰り返されたSuchmos『THE ASHTRAY』が流れるなか、ベッドに移って細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』を読みはじめた。最近は、一つの音楽作品の真価を見極め評価を確定させるには、やはり最低でも一〇回くらいは流してみないとわからないのではないかというわけで、同じ作品を何度も繰り返し流すようにしている。今のところ八回ほど再生したSuchmos『THE ASHTRAY』に関して言えば、"FRUITS"のレイド・バックしたブルージーなニュアンスや、"FUNNY GOLD"の綺羅びやかさなど、サウンドに新機軸を盛り込もうとしている向きが見えないでもないのだが、やはり『THE KIDS』などと比べると全体的に各曲の威力が弱いように思われる。CMなどに起用されてこのアルバムのなかでは比較的キャッチーな部類に属する冒頭の"808"と二曲目"VOLT-AGE"に関しても、後者は全体的に軽快さを志向すると言うよりはもったりとした重めの調子を旨としているし、前者はボーカル・メロディはともかくとしても中盤以降の展開など少々漫然としていて冗長ではないか。また、"踊る 理愛[りあい]"や、サビの、"拙い 興 苦悩"といった抽象的・概念的な体言の並べ方が、幾分舌足らずで、うまく嵌まっていないようにも感じられる――前者の「理愛」など、まるでいわゆる「キラキラネーム」の一つのようではないか!
 空は曇っており、雨が降るとも囁かれているにもかかわらず、厚く掛かった雲の下で大気に湿気が籠って実に蒸し暑い午後だった。細見和之は石原の一連のシベリア・エッセイには「他者」が欠如しており、そこに観察されるのは石原自身の「黙想的な論理」ばかりだといくらか批判的に指摘している。しかし、そうした石原の文章中にも時に、彼特有の日常/非日常、連帯/孤独、加害/被害といった対立関係の図式が影を潜める瞬間が存在する。細見が挙げているのはエッセイ「沈黙するための言葉」中の「孤独」を超えた「寂寥」について語られた一節と、「望郷と海」において「風は完璧に私を比喩とした」と石原が逆説的に断言している箇所だが、これらの記述においては石原が「自己への固執から解き放たれる、忘我の瞬間のようなもの」が感じ取れると細見は指摘するのである。そこでの石原の言葉は先に挙げたような対立図式の論理を超越しており、端的に言って彼自身の「思想」から離れた彼方にあって、「黙想的な論理の暴力」はそこでは消失している。そしてそういう瞬間にこそ、細見は、「石原のシベリアとはここだ[﹅12]」という感触を受け取るのだと、思わず漏らすのだ。これは丁寧で優れた読解のように思われる。
 三時半を過ぎたところで読書を中断し、上階に行った。冷蔵庫のなかを覗くと廉価なピザがあったので、それを食うことにした。しかしその前に、アイロン掛けを済ませてしまおうというわけで炬燵テーブルの端にアイロン台を置き、アイロンのスイッチを入れると、道具が熱を持つまでのあいだ、屈伸をしたり開脚をしたりして下半身をほぐして待った。そうしてアイロンがかちりと音を立てて準備完了を知らせると、父親のシャツ一枚に高熱の器具を当てて皺を伸ばしていった。終えるとアイロンのスイッチを切り、台を元の場所、居間の隅の方に戻しておき、照り焼きチキンのピザを用意することにした。大きなビニールのパッケージに入ったそれを冷蔵庫から取り出し、鋏で半分に切り分け、さらにその半分を三つに切り分けると、オーブン・トースターに仕込んだアルミホイルの上に乗せてつまみを回した。ピザが焼けるのを待っているあいだは、下階から細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』を持ってきて、卓に就いて読んでいた。ピザが焼けるとアルミホイルごと大皿に取り出して卓に戻り、手が汚れないように注意して箸を使って食べる傍ら、引き続き書物の文章を追った。三切れ食べてしまうと同じようにもう半分も三つに切り分けて焼き、しばらく待ってからそれも食した。扇風機を点けており、絶えず風がこちらの身体に触れていたが、それでも蒸し暑い午後四時だった。
 そうして下階に戻るとワイシャツとスラックス姿に服を着替えて、四時半前からSuchmos『THE ASHTRAY』をふたたび流し、日記を書き出して三〇分、現在ちょうど五時のチャイムが鳴り響いている。
 クラッチバッグを持って上階に上がると、仏間に入って黒い靴下を履いた。それから便所に入って膀胱を軽くし、そうして出発である。一旦玄関を抜けて階段を下り、ポストに近寄ってなかから夕刊を取ると、玄関内に戻り、台の上に新聞を置いておいてからふたたび外に出て、扉の鍵を閉めた。雨の予兆とも思えるような風が通り、林の木々が鳴っていたが、蒸し暑さを散らしてくれるほどではなく、黒傘とクラッチバッグを持って玄関を出た時点から肌は汗を帯びていたと思う。坂道を上って行き、路上に散らばった細かな葉っぱを踏みつけて繊維をかさかさ鳴らしていると、目の前、道の真ん中に一匹の鴉が現れていた。こちらが近づく前に鴉は地を離れ、一旦ガードレールの上に着地すると、そこからもう一度飛び上がって、まっすぐに、あるいはことによると幾分下降気味の軌跡を宙に描いたかと思うと、空中で羽ばたきを重ねて上昇し、近くの家屋根の上に止まった。羽ばたきの調子を変えたようにも見えなかったのに、突然滑らかに、空中でもう一度跳ねるように上昇したその動きに、鳥とは凄いものだなと思った。
 三ツ辻に至ると今日も行商の八百屋が来ており、T田さんの奥さんや名も知らぬ老婆に老人といつもの面子が集まっていた。会釈をしてこんにちはと挨拶すると、こちらの持っている黒傘を指して、あれはT田さんが言ったのだったかそれとも八百屋の旦那だったか、ともかくどちらかが今日は傘を持っているねということを口にした。それに対して傘を持ち上げて答え、傘を持っていなかった先日はどうだったかと訊かれるのに、大丈夫だったんですよ、教室にいるあいだに雨は過ぎてしまったようで、というようなことを答えた。ちょっと立ち話をしたあと、今日は早めにそれじゃあどうも、行ってきますと口にし、ふたたび会釈をした。T田さんは気をつけてねと言ってくれるので、ありがとうございますと頭を下げて場を離れながら、何だかんだでまだあのように、井戸端会議でもないけれど、近所同士のコミュニケーションの場が残っている地域なのだなと思った。
 街道に出て北側に通りを渡り、服の裏に汗を帯びながら車道の脇を進んでいく。老人ホームの窓は、今日は大方カーテンが掛けられていて、なかが見えるのは端の一角だけだった。その前を通り、角を曲がって裏通りに入ると、到るところで紫陽花が膨らんでいる。原因は知れないが身体の力が抜けており、ゆったりとした気分で、自然と鷹揚な足取りになった。白猫は今日は姿が見えなかった。青梅坂に差し掛かるちょっと前から、路傍の木々の梢を揺らす風の音を聞くようになっていた。村上春樹のデビュー作、『風の歌を聴け』の名前を思い出したりなどもしたが、この作品は読んだことがない――それどころか村上春樹の作自体も一冊も読んだことがない。風の音を聞きながら道を行っていると、その響きに触れて、極々幽かなものではあるけれど、官能の感覚のようなものが身中に生じた。鬱病に陥って以来、絶えてなかったことである。勿論かつて、「具体性の震え」と読んでいた特権的な瞬間のような、垂直的な強さを持つものではなかったが、身内が弱く擽られるような久しぶりの感覚にゆるやかな気分になりながら道を進んだ。元市民会館を過ぎると、空に鳶が一羽、現れた。先ほどの鴉とは違って、ほとんど羽ばたくこともせずに翼を緩く調整しながら、白い空をゆっくりと滑空し横切っていった。駅前に繋がる裏道に入る頃には、鳶の姿は丘の上空でほとんど視認できないほど小さく、薄くなっていた。
 道脇の小さな社に改めて目を向けて、萼紫陽花が敷地のあちこちにたくさん咲いているのに視線を留めながら過ぎた。駅前に出る角のところで、ラーメン屋の壁を前にして高校生の男女が並んで喋っていたが、近づいていくとそのうちの男子の方が(……)であることが判明した。何度か視線を送ってみたが、彼はこちらに気づいているのかいないのか、おそらく気づいているけれど、彼女なのだろうか女子と一緒にいるところを目撃されたことの気恥ずかしさからだろうか、視線をあさっての方向に向けて素知らぬ振りをしていたので、こちらもそれに合わせて、ちょっと笑いそうになりながら挨拶をせずに過ぎた。
 そうして職場に到着した。上では一時限が事務仕事、もう一時限が授業になったと書いたが、歩いているうちに追加のメールが入っていて、二時限とも授業をするということになっていた。ただし、一時限目は相手が一人なので、授業を進める傍らやはり事務仕事をこなしてもらうということだった。了承して奥のロッカーに荷物を入れ、準備をし、大正デモクラシーあたりの歴史を復習したり――第一次護憲運動の内実をあまり詳しく知らないので、のちのちウィキペディア記事でも読むように手帳にその語をメモしておいた――高校生用の英語の教材の、今日扱いそうな箇所を確認したりして時間を過ごした。
 一時限目の相手は、(……)さん(中三・社会)だった。同時に進める事務仕事は、一つは生徒たちのテスト結果の用紙が、それぞれ二枚あるのを教室保管用と生徒に渡す用とに分けて折り畳むことだった。これはすぐに終えた。もう一つの仕事は、手配り用の広告の作成で、長方形の薄いビニール袋に折り畳まれたチラシと消しゴム一つをひたすらに入れていくというものだった。チラシは期間中に入会すれば英語の授業四回分を無料でプレゼントするというようなキャンペーンの広告だった。その紙に月謝についても記されているのを見たのだが、中三生で週一回の授業ならば月一四〇〇〇円ほどとあった。一回の授業で三五〇〇円の計算となる。そのうち、こちらのコマ給は一九〇〇円ほどである。まあ今更そんなに真面目な気持ちも湧かないが、月額一四〇〇〇円なり週二回で二八〇〇〇円なりが我々の仕事に対して支払われているのだということを思うと、なるべくそれに見合った質の高い授業をしたいとは考えるし、生徒たちにももう少し金の重みというものを知って真面目になってほしいものだと要求したくなる。
 それはともかく、授業の方はと言えば、(……)さんは社会が苦手なようで、なかなか問題をスムーズに進められず、解説を見ながら解いているのだが、空欄が多かった。今日扱ったのは第一次世界大戦付近の事柄なのだが、そもそもここは前回扱った単元で、こちらの考えていた予定としては、宿題をやってきてもらうことでこの単元は終わらせ、今日は大正デモクラシーの方の単元に入るつもりだったのだが、真面目そうな雰囲気のわりに彼女は宿題をやってきていなかったのだ。それで宿題だった箇所から扱ったのだけれど、基本的な一問一答の並んでいるそこの問題にも苦戦しているという有様だったのだ。それなので、途中からはこちらが手伝って、解説をしながら正答を発見できるように導いていった。この日は道を歩いているあいだの鷹揚な気分のままに仕事をしたいという気持ちがあって、しかしやはり働いているうちにそうした気分は去っていってしまったようなのだが、いくらかそれの残滓があって説明の口調がいつもよりゆっくりと、丁寧なものになっていたと思う。そういうわけでゆっくりと説明をしながら、時折り質問を投げかけてみて知識が頭に入ったかどうか確認してみるのだが、やはりあまり覚えは良くないようだった。それでも一次大戦が一九一四年から一八年であること、その途中の一九一七年にロシア革命が起こること、ロシア革命社会主義という思想に基づいた革命であったこと、社会主義というのは人民の平等を目指す思想であること、革命の結果ソ連邦という新たな国家が作られたこと、などについては理解し、記憶できたのではないかと思う。そのほか、地図を使ってイギリス・フランス・ドイツ・イタリアの場所を確認し、同定できるようにした。また、アドバイスとしては、一九一九年にパリ講和会議ベルサイユ条約や、ワイマール憲法、それに中国と朝鮮でのいわゆる反日運動――三・一独立運動と五・四運動である――などが重なっているので、まとめて覚えてしまえると良いねということを話した。ノートはわりあいに充実させることが出来たが、果たしてテストでどれだけ正答出来るか、心配なところではある。
 一時限目の授業の途中で、(……)くんがやって来た。彼は数学をやりたかったようなのだが、室長が話して英語をやるように強制し、その担当がこちらに回ってきた。彼は以前勤めていた時に、中三生として指導していた生徒である。それでお久しぶりですと挨拶し、学校で扱っている単元を訊いた結果、あまり記憶がはっきりしていなかったが、塾の文法教材を使って動名詞をやってみることになった。彼はおそらく英語の授業は今は取っていないのだと思う。今回の授業は元々数学だったところを、誰か講師が来れなくなったか何かで別日に振り替える予定なのだが、(……)くんがやって来たところにこちらの授業が一人相手で余裕があったので、ちょっと英語の実力を見てやってほしいというようなことだった。それで動名詞の文法事項を解説したあとに問題を解かせてみたのだが、基本の問題にしても発展の問題にしても、ミスは一頁で三問程度で、なかなかよく出来ると言うべき結果だった。室長としては、あまり出来ない事実に直面してもらって危機感を持ってほしかったのかもしれないが、そうは行かなかったということになる。しかし彼は中三生の頃も結構出来る方だったので、まあ順当な結果だと言うべきだろう。
 二時限目は(……)さん(高一・英語)に(……)(中二・英語)が相手。(……)さんという生徒は初顔合わせだった。やたらと騒がしい女子生徒と一緒にいるところをしばしば目撃していたので、あまり真面目ではない生徒なのかなと思っていたのだが、さにあらず、結構きちんとやる子で、問題を解かせたあとに文をピックアップして練習するよう指示したのだが、一文につき一〇回も繰り返して書く練習をしていた。かなり頭に入ったのではないだろうか。今日扱ったのは不定詞、そのなかの判断の根拠を示す用法や、完了形や否定形などである。今まであまり勉強してこなかったのだろうか、基礎力はあまりないようなのだが、地の理解力はそれほど悪くないように思われた。
 (……)の方も、いつものことで遅れては来たものの、室長たちが言っているほどやる気がないわけではないと言うか、授業自体は比較的真面目にこなしていたと思う。わからない単語なども自分から訊いてくるし、こちらが傍らに控えていたことが大きかったかもしれないが――その証拠に、こちらが自分の作業のために別席に下がるとペンを置いて休憩していたようだ――問題も地道に解き進めていた。前回当たった時には、あまりに話が通じなくて発達障害の類を疑ったのだったが、それはどうも眠気が甚だしかったということのようで、杞憂だったらしく、今日の授業はわりあいスムーズに進められた。扱ったのはifの用法。注意するのは未来の事柄でも現在時制で表すというルールくらいで、さほど難しい箇所ではないと思う。ノートには文を二つと意味のわからなかった単語をいくつか書いてもらった。
 それで授業は終い、入口付近で生徒たちの見送りをしたあと、(……)さんに授業記録をチェックしてもらって、退勤した。奥多摩行きの発車まで二分ほどしかなかったので、駅に入ると小走りに通路を行ったのだが、電車は今日もまた遅れていた。例によって中央線の遅延の影響で、向かいのホームに来る接続電車が遅れているので、その波及を受けて奥多摩行きの発車も少々遅らせざるを得ないという事情だった。電車に乗ると席に就き、手帳を取り出して、書かれている事柄を復習した。日本の在留外国人は二〇一八年末で二七三万人を数えるとか、一九九三年の九月一三日にパレスチナ暫定自治政府原則宣言(The Declaration of Principles on Interim Self-Government Arrangements)、いわゆるオスロ合意が結ばれた――あの有名な、ホワイトハウスにて、二人のあいだに立って両手を広げたビル・クリントンを中央に、イツハク・ラビンとヤーセル・アラファトが握手をした瞬間のことである――だとかそういったことである。それで最寄り駅に着くと電車を降り、細かな羽虫が飛び交っているなか、通路を抜けて、横断歩道を渡ると自販機に寄って一五〇円を挿入し、コカ・コーラ・ゼロを一本買った。それをクラッチバッグに入れて坂道を下って帰路を行った。
 帰ってきて居間に入ると冷蔵庫にコカ・コーラ・ゼロを仕舞い、台所でスラックスからシャツの裾を出し、ボタンを外して脱いで丸めると洗面所の籠のなかに突っ込んでおいた。そうして下階に戻り、肌着とハーフ・パンツの軽い格好に服を着替えると食事を取るために上階に引き返した。夕食はカレーにサラダ、ほか小松菜である。台所の皿に入っていたカレーを、大皿によそった米の上にスプーンで移し、電子レンジに突っ込んで二分間の加熱を設定した。そのあいだにサラダや小松菜、コカ・コーラ・ゼロとコップを卓に運び、食事を始めた。父親はソファに就いて歯磨きをしながらテレビに目をやっていた。そのテレビは『クローズアップ現代+』を映しており、今日取り上げられているのは留学生の教育環境の問題だった。日本福祉大学という固有名詞が挙がっていたが、日本に来た留学生にきちんとした日本語教育を施さず、単なる金づるとして食い物にしているという話だった。背景には国が設定した留学生三〇万人計画というものがあるらしく、それは留学生らに正確な日本語能力を身につけてもらって高度な技能を持った人材を確保しようというものらしいのだが、理念だけが先走って実際には上のようにただ設けたいだけの教育組織に悪用されているということだ。留学生は週に二八時間以上は働いていけないと定められていると言うのだが、現実には生活費や学費のために労働に追われて、きちんと勉学に邁進することが出来ない学生も相当数いるらしかった。そんななかで先進的な施策として、北海道は東川町という町の試みが紹介されていた。介護学校に留学してくる学生に、二年間で五六〇万円もの返済不要の奨学金を支給し、勉強に専念してもらうという政策である。卒業後五年間は、道内の指定された施設で働くということを条件に、そうした優遇措置が受けられるとのことだった。
 カレーを貪るように食いながらそのような番組の内容を眺め、食器を洗うとまもなく母親が風呂から上がったので、入れ替わりに入浴した。そうして出てくるとパンツ一丁で下階に戻り、自室に入ってコンピューターを前にした。LINE上に前日作った詩、「きみがさみしくないように」を投稿してメンバーに読んでくれと言ってあったのだが、それに対してTやT田から返信が来ていた。どちらの返信も好評を述べたもので、Tなどは仕事中に見たところメロディが頭のなかに「降ってきて」、忘れないように急いで無人の家庭科室で――彼女は中学校か高校だかの家庭科の講師をしている――四行分だけ録音したとのことだった。それに対して礼を述べ、再返信をしておき、そうして一一時半前から『石原吉郎詩集』の書抜きを始めた。BGMとして流したのはSuchmos『THE ASHTRAY』、その後はcero『WORLD RECORD』に移行させた。「Gethsemane」という詩は、例によって詩全体の意味=シニフィエはよくわからない、難解と言うべき作品だが、全体に湛えられたその重々しさ――まさしく、「夕暮れから夜明けまで/皿は適確にくばられて行き/夜はおもおもしく/盛られつづける」という一節が含まれている――、厳粛さが印象的な作である。また、「葬式列車」はやはり石原の代表作と目されているだけあって総合的なまとまりが非常に良いように思われる。これは全行を引いた。そのほか、「風と結婚式」という作の前半をTwitterの方に投稿しておいた。下に引くが、「死は こののちにも/ぼくらをおもい/つづけるだろう」というフレーズが鮮烈である。「結婚式」という明るく幸福な出来事を歌った詩のはずなのに、付き纏う「死」への思い――と言うかむしろ、「死」からの[﹅3]思い――にせよ、「厳粛」さを「忘れてはいけない」と強く言い放つ禁欲的な姿勢にせよ、いかにも作者の生真面目さが表出されているように感じられる。

 ぼくらは 高原から
 ぼくらの夏へ帰って来たが
 死は こののちにも
 ぼくらをおもい
 つづけるだろう
 ぼくらは 風に
 自由だったが
 儀式はこののちにも
 ぼくらにまとい
 つづけるだろう
 忘れてはいけないのだ
 どこかで ぼくらが
 厳粛だったことを
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、43; 「風と結婚式」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)

 さらには、「来るよりほかに仕方のない時間が/やってくるということの/なんというみごとさ」という一節――実にありきたりで凡庸な思考ではあるが、自分はこの一節からやはり、肉親や己自身の「死」というものを思わざるを得ない――が実に印象的な「夜の招待」も、石原の詩的想像力が伸びやかに展開し横溢した素晴らしい作品だと思われるので、これに関しては全行を引いておきたい。この作は、『現代詩手帖』の前身である『文章倶楽部』に初めて載せられた石原の事実上のデビュー作であり、それに見事に目をつけ多数の投稿作品のなかから「特選」に選び出したのは、鮎川信夫と当時若干二二歳の谷川俊太郎である。

 窓のそとで ぴすとるが鳴って
 かあてんへいっぺんに
 火がつけられて
 まちかまえた時間が やってくる
 夜だ 連隊のように
 せろふあんでふち取って――
 ふらんす
 すぺいんと和ぼくせよ
 獅子はおのおの
 尻尾[しりお]をなめよ
 私は にわかに寛大になり
 もはやだれでもなくなった人と
 手をとりあって
 おうようなおとなの時間を
 その手のあいだに かこみとる
 ああ 動物園には
 ちゃんと象がいるだろうよ
 そのそばには
 また象がいるだろうよ
 来るよりほかに仕方のない時間が
 やってくるということの
 なんというみごとさ
 切られた食卓の花にも
 受粉のいとなみをゆるすがいい
 もはやどれだけの時が
 よみがえらずに
 のこっていよう
 夜はまきかえされ
 椅子がゆさぶられ
 かあどの旗がひきおろされ
 手のなかでくれよんが溶けて
 朝が 約束をしにやってくる
 (51~52; 「夜の招待」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)

 『いちまいの上衣のうた』に収録された「オズワルドの葬儀」も、石原にしては比較的わかりやすい――その分概念的に整い過ぎているのかもしれないが――優れた作だと思われる。全行を下に引くが、ところで直木賞受賞作品『蜜蜂と遠雷』を綴った恩田陸は、まさかこの詩の「遠雷と蜜蜂のおとずれへ向けて」という一句を読んでいたのだろうか、それとも二つの語の一致は単なる偶然なのだろうか。

 死んだというその事実から
 不用意に重量を
 取り除くな
 独裁者の栄光とその死にも
 われらはそのように
 立会ったのだ
 旗に掩われた独裁者の生涯は
 独裁者の死と
 いささかもかかわらぬ
 遠雷と蜜蜂のおとずれへ向けて
 ひとつの柩をかたむけるとき
 死んだという事実のほか
 どのような挿話も想起するな
 犯罪と不幸の記憶から
 われらがしっかりと
 立ち去るために
 ただその男を正確に埋葬し
 死んだという事実だけを
 いっぽんの樹のように
 育てるのだ
 (57~58; 「オズワルドの葬儀 ローズ・ビル墓地でのリー・オズワルドの葬儀は二〇分で終った」全篇; 『いちまいの上衣のうた』)

 『石原吉郎詩集』からの書抜きを終えたあと、cero『WORLD RECORD』が終わるまでのあいだ、詩を書くことにした。前夜、「君がさみしくないように」と並行して、仮題「僕は詩になる」という詩のアイディアを練っていたのだが、それをもう少し細かく詰めたのだ。しかしまだ完成してはいないので、ここに発表することは出来ない。なるべく透明感の充満するような詩にしたいと思っているのだが、瑞々しい透明感のある詩ということでこちらが思い出すのは、文学に触れはじめてまだまもない頃に読んだ征矢泰子のことであって、それだから二〇一三年の『征矢泰子詩集』からの書抜きを参照してインスピレーションを求めた。
 その後、一時前から書見、細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』を読みはじめて、まもなく読了した。非常に面白く、丁寧に書かれた優れた伝記かつ評論の労作だった。石原吉郎論というものをもっとたくさん読みたくなった。それから、さらに詩作品を読みたい気分だったので、谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』を読みはじめた。印象的な詩句を手帳に書き取りながら読み進めて、一時間かそこらしか掛からなかったのではないかと思うが、一気に読了した。表題作の三章――「小田実に」と付されている――の冒頭、「総理大臣ひとりを責めたって無駄さ/彼は象徴にすらなれやしない/きみの大阪弁は永遠だけど/総理大臣はすぐ代る」といったフレーズなど、流石のキャッチーな皮肉ぶりだし、七章の中核を成している「普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と/鉛みたいな希望の微量とが釣合ってる状態で/たとえば日曜日の動物園に似てるんだ/猿と人間でいっぱいの」などもやはり見事なアフォリズムだと思われる。谷川俊太郎の作品もたくさん読んでみたいので、今日(六月二八日)図書館に行っていくらか借りてこようと思っている。
 それからさらに、鈴木正枝『そこに月があったということに』という詩集を続けて読み出した。四篇目、「去りゆくもの」で「私」と喫茶店でたびたび会っていた「K」――「僕たちという言い方をとうとうしなかった」「K」――は死んだと告げられる。また、冒頭の「隠し事」では、「遠い町の傾いた空家」に「かつて生きていた人の代わりに」一本の木が立っている。「あのひと」と名指されるその人は、「木」と重ね合わされ、「愛おしさ」の情を差し向けられる相手のようだ。次に続く「一輪」においては、「真っ赤な蕾」を切り取り、「テーブルのコップにさした人」は「すでに/この家にはいない」。この人も、「家」のみならず、もはやこの世にもいないのかもしれない。だとすると、この詩集の諸篇には、既に生を去ってしまった――そしておそらくは話者の大切な――人へ向けられた感情が織り込まれているようだ。しかしそれは「追悼」と言うほどの仰々しい身振りではない。詩句は優しげに、簡明な言葉で書き記されており、そこにあるのは静かで穏やかな「追慕」とでも呼ぶべき感情であるように思われる。路傍の木々をさらさらと弱く鳴らす柔らかな微風のような静謐さ、それがこの詩集の基調となるトーンの一つではないか。
 「谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』を読んでいる。詩というものが面白くて徹夜してしまいそうな雰囲気だ」とTwitterには呟いたのだったが、さすがにいくらか寝なければ良くないだろうというわけで、三時二五分に読書を切り上げて明かりを消した。格好は未だパンツ一丁のままだった。寝られないだろうという予感はあった。蒸し暑い寝床で輾転反側しながらこの日の記憶を一つ一つ振り返っていたのだが、やはり眠りは一向に寄ってこようとしなかった。次第にカーテンが明るみ、空は夜を越える間際の青から白へと着実に色を変じていったが、それでも今日のことを想起し終わるまでは臥位になっていようと決めて、たびたび脱線していく思考の動きに遮られながら記憶を跡づけていった。そうして床に就いてからちょうど一時間が経った頃、現在時刻まで覚えていることを追いかけ終わり、もう起きてしまうことにして、身体を起こして明かりを点けた。


・作文
 12:47 - 14:08 = 1時間21分
 16:24 - 17:00 = 36分
 計: 1時間57分

・読書
 14:31 - 15:36 = 1時間5分
 23:23 - 24:18 = 55分
 24:52 - 27:25 = 2時間33分
 計: 4時間33分

・睡眠
 4:15 - 12:00 = 7時間45分

・音楽