2019/6/28, Fri.

 漢字と仮名の二重性は、日本文化にとっては本質的な問題です。たとえばそれは、『古今集』の「序」が、

やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける

とはじまる「仮名序」(紀貫之)と、

夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也
それ、和歌は、その根を心地に託[つ]け、その花を詞林[しりん]に発くものなり

 とはじまる「真名序」(紀淑望[きのよしもち])の二重になっているところに端的に現れています。そして、「真名序」のほうは、すぐに中国の古典『詩経』の理論を借りて、和歌の「義」を「風・賦・比・興・雅・頌[しょう]」の6つに分類している。もちろん、「仮名序」も同じく六種の分類をするのですが、それは「そへ歌」、「かぞへ歌」、「なずらへ歌」、「たとへ歌」、「ただこと歌」、「いはひ歌」となって、それぞれ実例が挙げられています。
 いずれにせよ、ここでは、和歌を日本文化の正統性(英語で言えば、legitimacyですね)の基体として建立するために、中国の論理を借り[﹅2]ながら、それを日本に固有の歴史性のなかに基礎づけ直すという試みがなされています。「字」の理論を借りて[﹅3]、「歌」という「声」の文化の正統化をはかっているのです。(……)わたしのほうは、日本文化の正統性の建立が、一方では中国からの「字」を「藉[か]り」、それを「仮名」へ翻訳する作業、他方では、神話的な起源の「名」に最終根拠を求める作業という二重性において行われていることに焦点をあてたい。というのも、このパターンは、現代にいたるまで綿々と踏襲されているからです。
 すなわち、「外」から「字」として入ってくる真理あるいはロゴス。しかし、「内」なる「人の心」は、それに侵されることなく、「声」として、つまり「歌」として、みずからの神話的な歴史的正統性を保持し続けるという二重性。
 (小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、72~74; 小林康夫「複合言語としての日本語」)

     *

 小林 『声字実相義』のなかで、サンスクリット文法の複合語の説明がえんえんと出てくるところ は、現代のわれわれからすると、別におもしろくもない。注釈者もあまりそこのことは書いていないように思うのですが、こここそが、空海にとっての論理の「鍵」だったんだなあ、と思ったわけですね。なにしろその複合語のつくり方で、顕教密教の世界理解がわかれるわけですから。簡単に言えば、「実相は本質的に翻訳不能であり、それを簡単に言葉で埋めてはいけない」という真理隔絶の立場は、あくまでも顕教的な、大乗仏教的な浅い解にすぎない、と。それに対して、空海密教的立場では、「声」、「字」、「実相」は同格か、あるいはきわめて近接している「隣近釈[りんごんしゃく]」と理解しなければならないというわけです。「声字は即実相である」と言っているわけではないけれども、それこそ、「即身成仏」という論理とまったく同じです。つまり、直接に「身口意、即、仏」の論理につながっていくわけですね。しかも、3部作の最後の『吽字義』でも「吽」という1字のなかに、4つぐらいの言葉が一緒になっていますと言っているので、結局、空海はこの3部作の全部を、いわば複合語の論理に依拠して書いているんですね。すごい飛躍。なんという過激。わたしは、ここでは、空海をとても偉い弘法大師としてではなく、若いときの求聞持法の経験から出発して、こういう世界との向かいあい方を必死に理論化しようとしている知性として考えたいんですね。
 (82~83)


 寝床に伏しているあいだ、窓の外では時鳥が頻りに鳴き声を響かせていたのだが、夜明けが近づいて空気が明るみを取り戻すにつれて、その声が鶯のものへと替わっていった。四時二五分に起き上がり、インターネットを少々回ってから五時に入って日記を書きはじめた。BGMはSuchmos『THE ASHTRAY』ものんくる『RELOADING CITY』Omer Avital『Qantar』と移行。前日の記事は思いのほかに長くなって、と言うか書きぶりがわりあいに丁寧に、着実に落ち着いた歩みを進めるような具合になって時間が掛かり、あっという間に二時間と半時間ほどが経過して、現在は曇り空も明るくなった七時半である。
 Omer Avitalの音楽を聞きながら、前日の記事をブログに投稿した。例によって名前の検閲とAmazonへのリンク作成にちまちまと時間を掛けた。上階に行く頃には八時近くになっていたのではないか。ベランダで洗濯物を干していた母親に挨拶し、台所に入ると、カレーの残りを利用して作られたドリアのような料理があったので、それを頂くことにした。そのほか、サラダとゼリーの朝食である。ものを食っていると、墓に行くということを言われた。翌日が祖父の一三回忌で法要を行うので、その前にいくらか掃除をしておこうというわけだ。面倒臭かったが了承し、一〇時頃に出かけることになった。ものを食い終わると食器を洗って下階に下り、八時一二分から鈴木正枝『そこに月があったということに』を読みはじめたが、やはりほとんど一睡もしていないために今更遅れ馳せの眠気が湧いてきて、ベッドでクッションに凭れながらいつか目を閉じ、しばらく意識を失って微睡んでいた。そうしているとあっという間に九時四五分に達してしまったので、風呂を洗おうと上階に行くと、お湯が多いみたいと母親が言うので、今日は洗わなくても良いかと定めて洗濯機に繋がったポンプのみ水のなかから取り出してバケツに入れておいた。そうして階段を引き返し、室に入ると服を着替えた。赤褐色に白に灰色の図形が組み合わさって幾何学的な模様を描いたTシャツに、下は明るいオレンジの色味の強い煉瓦色のズボンである。そうしてリュックサックにコンピューターや本や、財布やお薬手帳や年金の支払い書などを用意した。墓参りに行ったあと、医者に行ってさらにそのまま図書館に寄って本を借り、夕刻か夜まで日記を書いたり書抜きをしたりするつもりだったのだ。それで上階に行くとこちらの格好を見た母親が、派手だよ、上は白の方が良いよと言うのだが意に介さずに仏間に入ってカバー・ソックスで足を覆った。そうしてまもなく母親の支度も整うと、出発である。
 玄関を抜けると隣の家のガレージのなかに、Tさんのおばさんが佇んでいた。椅子だか手押し車だかに腰を下ろして、何をするでもなくじっと休んでいるらしいその姿を見て、ああやってもう一〇〇歳にも近いこの人は何を見ているのだろうな、世界は彼女にとってどのように映っているのだろうなと思った。母親が大きな声で、Tさんに話しかけた。こちらも同時に手を振ってやると、老婆はぶんぶんと片手を振り返してくれて、なかなか可愛らしいものである。母親がそのうちに、おばさん、ジャガイモはある、と訊いて、おばさんの宅でもジャガイモは育てているという返答があったのだが、それに構わず母親はジャガイモをあげるよと言って屋内に一旦戻って行った。こちらは一人立っていると、いつものように、背が高いねえとTさんは掛けてくる。どのくらいあるの、と訊くので、一七五、といくらか声を張って――Tさんはさすがに寄る年波でいくらか耳は遠いのだ――答えて、近づいていった。おばさんは、あっそろしい[﹅6]――驚きを表すこの言葉は祖母もよく使っていた――と受けて、続けて、いい男だ、といつものように褒めてくれ、いい人がめっかる[﹅4]よ――と彼女は「見つかる」を発語する――いや、もういるんだろうけれど、と言うので、いやいや、と笑った。九八にもなればもはやこれ以上老いるも何もないのかもしれないが、しかし近くで見るとやはり、数年前よりも目元や顔つきなどがさらに老いてきているような気がしないでもなかった。おそらく彼女も遠からず、この世を去ることになる。少なくとも、彼女によってこちらの死が目撃されるよりも、こちらが彼女の死を目撃する可能性の方が高いだろう。ここにもまた、「来るよりほかに仕方のない時間が/やってくるということの/なんというみごとさ」(石原吉郎「夜の招待」)が確実にあるのだ。死、それは確かに「みごと」というほかない時間の訪れかもしれない。
 今日は暑いねえとか、おばさん今は何をやってるのとか、今日は墓参りに行くんだ、Iさん――祖父のこと――の命日がもう近いから、などと話しているうちに母親が戻ってきて、ビニール袋に入ったジャガイモと缶コーヒーを渡した。おばさんはいつものように、頻りに恐縮してみせた。母親がそれから甲高い声でいくらか話しかけたあと、Tさんと別れて我々は車に乗った。そうして出発したが、車内はエアコンを利かせていても蒸し暑く、汗が湧いてこちらの身体からも――おそらく腋の下からだろうか――いくらかその匂いが漂い出しているようだった。
 まず、青梅図書館に寄ってもらう必要があった。河辺駅前にある市中央図書館ではなく、青梅駅付近にある分館の方である。わざわざそちらに立ち寄るのは、柴崎聰編『石原吉郎セレクション』という石原の散文を集めた岩波現代文庫の著作を借りたかったからだが、それは中央図書館には入っておらず、分館の方にしか所蔵されていないのだった。市街地を通り抜けて行き、細道に曲がって踏切りに差し掛かったあたりで、向かいから来る老婆を見て母親が、Oさんだと口にした。O.H子さんだと言う。踏切りを渡ると母親はこちらの座っている助手席、つまり車体の左側の窓を開けて、老婆に声を掛けた。相手は寸刻、声を掛けてきたのが誰だかわからないような顔をしていたが、じきに顔と知識を同定したようだった。それからいくらか言葉を交わして老婆と別れたあとに――母親と老婆が話しているあいだ、こちらは黙って頻りに会釈を繰り返していた――Oさんとは誰かと訊くと、昔近所に住んでいた人だと言う。坂の途中にOという苗字の、今は空き家になっている家があることはこちらも知っていたので、その人かと確認するとそうだと言う。お嫁さんと一緒に住んでいて、こちらの方に越したのだと母親は言い、それだとやっぱり気を遣うよねえなどと漏らしていた。図書館の駐車場に乗り込んで、こちらは車から降りて館内に入り、カウンターの向こうの職員にこんにちはと挨拶をしながら図書室に入って、『石原吉郎セレクション』の在り処を探した。途中で哲学の区画を瞥見してみると、千葉雅也の対談集、『思弁的実在論と現代』が並びに見られた。このような田舎の図書館の、しかも小規模で寂れたような分館でも、こうした本を読んで哲学者を志す子供があるいは現れるかもしれない。図書館というものは地域の資産として非常に大切なものである。数年に一度しか読まれない本でも、と言うかそういう本こそを所蔵し、置いておくべきなのだ。実際、この分館に並んでいる本のなかでも、マルセル・プルースト/鈴木道彦訳の『失われた時を求めて』の水色のハードカバー全一三巻は、この数年ではおそらくほとんどこちら一人しか読んでいないだろうと推測される。それでもやはり、このフランス文学の金字塔を読破しようとするこちらという人間が現れたわけだから、すぐ手に取れるように書架に並べておいてくれてあるのは非常に有り難い。こうしたあり方が図書館という施設の本義だろうと思われるものだ。
 文庫の棚から『石原吉郎セレクション』を見つけると、ページをめくり目を落としながら図書室を抜け、カウンターに近寄ってお願いしますと差し出した。貸出手続きをしてもらって本を受け取り、有り難うございましたと礼を言って館をあとにすると、母親の待つ車に戻って、次に向かうのは墓である。街道をしばらく東へ走り、交差点から坂を下りて寺に入ると車を降りた。車の屋根はちょうど、梅の木の伸び下りた枝先に接するところだった。墓地に入り――入口の左右に置かれている地蔵に母親はいつもきちんと手を合わせてから過ぎる――水場で桶に井戸水を用意し、箒と塵取りも持って我が家の墓所に向かった。着くとこちらは箒でもってあたりの落葉や植物の屑を掃除した。掃除しているあいだ、たびたび薄色の小さな団子虫が出現し、地面をじりじりと這ったり、箒の一掃を受けて丸まりながら塵取りへと飛んでいったりする姿があどけないようで何とはなしに面白かった。こちらが掃除をしているあいだ、母親は花受けを水で洗ったり、墓石を拭いたりしていたようだ。そうしてじきにこちらが線香にライターで火を点けて用意し、母親と半分ずつ分け合って供えると、手を合わせたこちらは金がたくさん貰えますように、と声に出して呟いた。それから母親は、持ってきた缶コーヒーを開けて二口三口くらい飲み、飲みかけのそれを墓石の台の上に置いて供えた。さらに二人で米を盛っておき、そうして墓参は完了、桶に余った水を捨て、母親があたりをまたちょっと掃き掃除してから墓所をあとにした。水場に戻ると、ゴミを整理していたのだろうか、ちょうど寺の住職の夫人――こちらの同級生の母親でもある――の姿があったので、こんにちはと挨拶し、明日、一三回忌なのでよろしくお願いしますと母親が言うのに合わせてこちらもよろしくお願いしますと頭を下げた。夫人は、今日は暑いですねえと言いながら去って行った。それから手押しポンプを操作して二人それぞれ手を洗い、手を拭くと、車に戻った。戻る途中、敷地の端、墓地との境の壁の際には萼紫陽花や普通の紫陽花がたくさん咲き群れていた。
 母親はトイレを借りてくると言うので、こちらは一人車内で手帳を眺めながら待ち、母親が戻ってくると出発、次に向かうはNクリニックである。道中のことは特別印象に残っていない。大方はいつも通り、母親が何かしらを喋りかけ、こちらはそれに対してきちんとした応答もしないで黙りがちにぼんやりと聞いていたはずだ。河辺駅前を過ぎ、裏通りに入ってNクリニックの駐車場に入ってもらったところで降りた。医者の用事が済んだあと、「ステーキのどん」ででも昼食を一緒に取ろうという話になっていた。それで、終わったら連絡してくれと言うので了承し、ビルに入ってエレベーターを使わず――このビルのエレベーターを使ったことはほとんど一回もないと思う――階段を上り、診察室に入った。先客は四、五人いた。カウンターに近寄り、こんにちはと挨拶するとともに、リュックサックから財布を取り出し、その財布のなかからさらに診察券と保険証を取って受付職員に渡した。まもなく返却された保険証を受け取って、長椅子の端、入口から一番近い位置に就いて、先ほど借りたばかりの『石原吉郎セレクション』を読みはじめた。待ち時間はさほど長くは感じられなかった。呼ばれたのは一一時五〇分の頃合いで、室に入ったのが何時だったか確認していないが、おそらくは二〇分から三〇分程度待ったのではないか。呼ばれると鷹揚な足取りでかつかつと室を横切り、軽くノックをしてから診察室の扉を開けた。医師は入ってくるこちらの様子を注視していた。革張りの椅子を引いて掛けると、先生は開口一番、こちらの私服を見て、今日はお休みですかと問うたので、そうだと肯定した。続けて、仕事はどうですか、との問い。まあ、忙しくやっている、と言って良いのでしょうか。集中は出来ていますか。問題なく働けています。仕事以外にはどんな生活をしていますかとの問いが続いたので、仕事以外ですか、と少々顔を綻ばせ、まあ変わらず、日記を書いたり……と言うと、書いていますか、文章を書くエネルギーもありますね、と先生は受ける。新しいことだと、最近は短歌を作ったり、詩を書いたりなどしています、とも明かした。先生はちょっと目をひらいて、ほうほう、それはそれはというような反応を示した。それに続けて、短歌は以前から作っていたのかというような質問が来たので、一月あたりにもいくらか作っていたが、先月くらいからまた作りはじめたのだと答えた。結社やグループに属しているわけでは、と問うのには、そういうわけではない、ただ自分だけでやっているような感じで、と笑って応じた。早稲田大学――こちらは早稲田の出身である――は短歌サークルが盛んですよねと先生は言うので、そうなんですかと受けると、俵万智なんかも早稲田ですね、との言があったので、ふたたび、そうなんですかと応じた。こちらは大学時代はただの不真面目で青臭い、ありがちな実存の悩みを抱えた青年でしかなく、勉学や文化活動に励むことがなかったので、大学で学んだことなどほとんどないし――大学で辛うじて得た財産とも呼ぶべきものは、今に渡っても続いているAくんやKくんとの関係くらいのものである――愛校心というものも微塵も持ち合わせていないので、出身大学の事情には通じていない。しかし、大学時代は僕は文学は読んでいなかったですからね、卒業してからですから、と落とした。
 薬は当面は変えず、ゆっくりとやっていこうということだった。こちらとしてはさっさと減薬の度合いを増して行きたいのだが、文句は言わずに了承し、有難うございますと頭を下げて椅子から立ち上がった。入口に近寄るといつもは振り返り、失礼しますとふたたび礼をしてから退出するのだが、この日は何故か、そのように二回目の礼をするのを忘れてしまい、無言でそのまま扉を開けて退室した。席に戻るとふたたび『石原吉郎セレクション』の頁に目を落とし、会計に呼ばれると一四三〇円を支払った。受付の女性職員にも、どうも、有難うございましたと礼を言って席に戻り、リュックサックに領収書を畳んで入れ、処方箋は手に持って待合室をあとにして、足音のやたらと響く階段を下った。ビルの外に出ると隣接する薬局に入って、局員に処方箋とお薬手帳を渡し、三六番の番号札を受け取って席に就くと、携帯を取り出して母親にメールを送っておき、そうしてからふたたび『石原吉郎セレクション』の文字を追った。じきに呼ばれたのでカウンターに寄って局員とやり取りをした。やり取りの最後に、前回医者に来てから四週間以上経っていたのだろう、薬が足りなくなったりはしませんでしたかと疑問が投げかけられた。実のところ、飲むのを忘れてしまったり、面倒臭くて飲まなかったりしたことが何回かあったために、四週間よりも間隔が開いてしまったのだったが、夜に出かけた時などに飲まなかったことがありまして、と濁した。飲まなかった日も体調に問題はなかったですかと訊かれたので、大丈夫だったと答えたのだが、これは実際その通りで、多分自分は少なくとも一日一回に減らしても離脱症状が出たり、体調が急激に変わったりすることはなく、問題ないのではないかと思っているのだが、しかしやはり油断は禁物であるから慎重に、時間を掛けて行くべきところではあるだろう。そうして一九九〇円を支払って、お大事にとの言葉を受けて薬局をあとにした。
 母親は既に駐車場にやって来ていた。車に乗り込み、荷物が多くなって借りる本を入れるスペースがなくなるのが嫌だったので、これ持って帰っておいてくれる、と母親に薬の袋を渡した。母親は、そうだね、と言って大人しく受け取った。そうして出発、「ステーキのどん」に向かって表通りを東へ走った。レストランに着いて車から降りると、数台先の車のボンネットから地面に雀が一羽飛び下りた。さらに飛び立って空間の低みをゆるやかな弧を描いて横切っていくその軌跡を眺めてから、先に行った母親のあとに続いて歩き出し、入店した。母親が用紙に名前を記入したが、待つ時間はほとんどなく、まもなく呼ばれて席に案内された。店内は全席禁煙であるらしかった。テーブルにはランチメニューが用意されていたので、そのなかからこちらは牛ロース切り落とし一五〇グラムを選ぶことにした。母親は大根おろしがあるのが良いと言って、和風ハンバーグに決め、さらにサイドメニューの小さなサラダとドリンクバーを一人で頼んでいた。品物が来るまでのあいだ、こちらは手帳を出してそこに記された文字を眺めていると、スープバーに立っていた母親がこちらの分もスープをよそって持ってきてくれた。岩塩とレモンのスープだと言った。なかには葱が少々混ざっていた。それから母親が話す由無し事を聞き流しながら手帳を見やっていたのだが、さほど待つこともなく品物が届いたので、食べはじめた。ライスのおかわりは自由である。それなので途中で店員を呼んで、平らげた皿を差し出し、ライスを、と頼むと、中年の女性店員は大盛りにしましょうかと好意を見せてくれたのだが、いや、普通でとこちらは受けた。食事を終えると、ハンバーグを平らげた母親は苦しい、と言いながらも、何かコーヒーでも飲みたいと言ってドリンクバーに立ち、抹茶ラテとやらを持ってきて啜りはじめた。パフェも食べようかなどと言ってもいたのだが、こちらが良いと遠慮するのを受けて、また彼女自身も満腹だったのだろう、その案は自然と流れて、母親はそのうちに小さながま口から小銭や細かく折り畳んだ千円札を取り出して、会計の用意を始めた。その後、トイレに行った母親を待っているあいだ、こちらはやはり手帳を眺めて英単語などを確認していたのだが、通路を挟んで向かいのテーブルを片付ける女性店員の姿が目に留まり、こうした仕事もまったく大変なものだなあ、こちらになどは絶対に出来る気がしないとその様子を眺めていると、こちらの視線に気づいたのだろうか女性店員は振り返って、会釈をしてきたので、こちらも会釈を返した。何か申し訳なさそうに、恐縮したように相貌を崩す類の人だった。
 母親が戻ってくると、カウンターで会計をする彼女を残してこちらは先に外に出て、車の横に立って相変わらず手帳に目を落とし、英単語とその意味を頭のなかでぶつぶつと呟いた。母親がやって来ると車に乗り込み、あとは図書館近くで下ろしてもらうだけである。と思ったが、大通りを走っていると母親が、ドラッグストアに寄っても良いかと言うので了承した。こちらは降りず、窓ガラスを開け放った車のなかで手帳を読みながら待ち、買い物を終えた母親が戻ってくるとふたたび出発、西へ戻って、河辺駅前で降ろしてもらった。そうして横断歩道を渡り、エスカレーターに乗って両側の手摺にそれぞれ手を置きながら上って行き、駅舎内の通路を通って北側に出た。高架歩廊を渡って図書館に入ると、カウンターでCD三つを返却し、それからCDの新着棚を見分した。Joshua Redmanの新譜――Ron Miles、Scott Colley、Brian Bladeといった豪華な面々がサポートである――らしきものがあったり、R+R+NOWとかいう名前だったか、Robert GlasperやらDerrick Hodgeやら誰やらが集ったスーパー・グループの類の作品があったが、今日はまだ音源を借りる時ではないと判断して、上階に上がった。新着図書を瞥見してから、書架のあいだを抜けて空席に至り、リュックサックを机上に置いておくと便所に行った。一番奥の、壁際の個室に入ったのは壁の上部に窓があって、そこから明るみが僅かながら射し込むからである。そうして糞を垂れ、安物のトイレット・ペーパーで尻の穴を念入りに拭いておくと出て手を洗い、ハンカチで手を拭きながらフロアを横切り、ティーンズ・コーナーの書架の前に至った。岩波ジュニア新書を見分したのは、畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』を借りるためだった。背表紙の並びに指を向けて横に滑らせていき、該当書籍を発見すると手に取って、今度は詩の区画に行った。谷川俊太郎の詩集も借りたかったのだが、あまり借りても荷物が多くなって大変なので、今回は谷川の詩集そのものではなく、彼が詩について語っているインタビュー本の方を借りることにして、『詩を書くということ 日常と宇宙と』と、尾崎真理子が聞き取りをした『詩人なんて呼ばれて』を手もとに確保した。さらに並びのなかから、新・日本現代詩文庫の『曽根ヨシ詩集』を取ったのは、この文庫に石原吉郎が解説文を寄せているからである。最後にもう一つ、岡本啓『グラフィティ』という比較的新しい詩集も手もとに保持した。これは数年前に一度読んだことがあって、なかなか良かったような印象が残っているので、もう一度読んでみようと思ったのだった。それで計五冊を貸出手続きし、席に戻ってくると、コンピューターを取り出して起動させ、Evernoteを準備して日記に取り掛かった。それが二時過ぎで、現在はそこから一時間半が経過して三時四〇分に至っている。外は陽射しが生まれて道の上が白く明るんでおり、今しがた大窓の遮光幕が下ろされたところである。
 日記を現在時刻に追いつかせると、書抜きを始めた。まず、谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』である。本をコンピューターの左に置き、谷川俊太郎『詩人なんて呼ばれて』で頁を押さえてひらいたままにして、文言を写していった。昨日紹介したものも含めて、こちらが良いと思った詩句を下に引いておこう。まずは表題作の第七章――あるいは第七部、か?――昨日も行分けの代わりに括弧とスラッシュを使って一部引用したが、前半部分を追加して改めて掲げると、次のようなものである。「絶望」が「真綿」という柔らかく不定形なものに託して、「希望」が「鉛」という硬質ではっきりとした形を持った金属に託して語られているその対比はしっかりしているし、概念的な「釣り合い」の図式を示したあとに比喩を用いてそれを「猿と人間でいっぱいの」「日曜日の動物園」という具体的な事物に移行させる手つきはやはり流石のものだと言うべきだろう。

 葉書を書くよ
 葉書には元気ですなどと書いてあるが
 正確に言うとちょっと違うんだな
 元気じゃないと書くのも不正確で
 真相はつまりその中間
 言いかえれば普通なんだがそれが曲者さ
 普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と
 鉛みたいな希望の微量とが釣合ってる状態で
 たとえば日曜日の動物園に似てるんだ
 猿と人間でいっぱいの
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、20~21; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「7」)

 次に、同じく表題作の第九部。「つつじ」に関する突然の話題転換とその後の回収が印象的である。「咲いてやがってね」という突き放すような、投げやりなような口調で提示されているのも良い。

 題なんかどうだっていいよ
 詩に題をつけるなんて俗物根性だな
 ぼくはもちろん俗物だけど
 今は題をつける暇なんかないよ

 題をつけるならすべてとつけるさ
 でなけりゃこんなところだ今のところとか
 庭につつじが咲いてやがってね
 これは考えなしに満開だからきれいなのさ
 だからってつつじって題もないだろう
 (24~25; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「9」)

 続いて、「干潟にて」という詩だが、これは素晴らしいと思う。「干潟にて」と題しておきながら、「干潟」を細かく描写するのではなく、詩そのもの、詩を書きつつある自分自身に対する皮肉げな視線が趣旨となっているのだが、それが後半の連で美しく解決されている。全行を引いておきたい。

 干潟はどこまでもつづいていて
 その先に海は見えない
 二行目までは書けるのだが
 そのあと詩はきりのないルフランになって
 言葉でほぐすことのできるような
 柔いものは何もないと分ったから
 ぼくは木片を鋸で切り
 螺子を板にねじこんで棚を吊った
 これは事実だよ
 比喩はもう何の役にも立たないんだ
 世界はあんまりバラバラだから
 子どもの頃メドゥーサの話を読んで
 とてもこわかったのを覚えているが
 とっくに石になった今では
 もうこわいものは何もない
 どうだい比喩なんてこんなものさ

 水鳥の鳴声が聞える
 あれは歌?
 それとも信号?
 或いは情報?
 実はそのどれでもないひびきなんだよ
 束の間空へひろがってやがて消える
 それは事実さ
 一度きりで二度と起らぬ事実なんだ
 それだけだ今ぼくが美しいと思うのは
 (52~54; 「干潟にて」全篇)

 ほかにも色々と気に入った詩句はあるけれど、ひとまずこのくらいにしておこう。全体としては、何だかんだ言ってもやはり流石に日本で一番著名な詩人だけはあると言わざるを得ない。気が利いていながらなおかつ単なる言葉遊びに堕さず、ある種の真実を穿つようなフレーズがたくさん散りばめられている詩集で、言葉は平易であり、またリズミカルで「歌」の感触が濃厚に香るものだった。
 谷川俊太郎の詩集の書抜きを終えると、今度は東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』の方に取り組みはじめた。元々は書抜きに邁進して夜まで図書館に留まるつもりだったのだが――そのために電源コードをも持ってきて机上に設けられているコンセントに繋ぎ、電力を確保していたのだったが――実際のところ、そこまでの気力が身中に満ちていなかったので、四箇所を写したところで終いとし、帰ることにした。時刻は五時直前だった。シャットダウンさせたコンピューターをリュックサックに仕舞い、年金の支払い用紙と財布を手に持って席を離れ、書架のあいだを抜けると階段に向かった。下階に下り、賑やかな男子高校生の四人連れとすれ違いながら出口に向かって、退館すると高架歩廊から階段を下りてコンビニに入った。所定の位置に並んでまもなく三つあるレジ・カウンターのうちの一番左の区画が空いたので、そこに行き、男性店員に支払い書を差し出した。一万円札二枚と一〇円硬貨一つで支払いを済ませ、礼を言って店をあとにすると、ちょうど青梅行きがやって来たところなのだろう、駅から多くの人々が吐き出されてくるその流れに逆行して駅舎に進み、エスカレーターに乗って階を上った。電車の時刻表が記された掲示板を見れば、つい先ほど出ていった青梅行きが奥多摩行きへの接続電車で、間が悪かった。しかし手帳があるから待ち時間は苦にならない。改札をくぐってエスカレーターを下り、ホームに踏み入ると先頭の方のベンチに行って座り、手帳を取り出してMichael Stanislawski, Zionism関連の知識をチェックした。一九七七年の六月二〇日にメナヘム・ベギンが首相職に就いたとか、一九七八年九月一八日にいわゆるキャンプ・デーヴィッド合意が結ばれたとか、それを受けて翌七九年の三月二六日に、イスラエルとエジプトのあいだで正式な平和条約が締結されたとか、そういった事柄である。頭のなかで事項をぶつぶつと呟いて記憶に収めているうちに時間は過ぎて、五時一四分発の青梅行きがやって来たので乗り込んだ。席に就くと同様に英単語の確認などを進め、青梅に着いてからもすぐには降りず、しばらく席に座ったまま手帳を眺め、折り返して立川方面へと発車する兆候が見えたところで電車を降りた。ホームを歩き、奥多摩行きの最後尾の位置に立って電車が来るのを待ち、入線してきた車両に乗るとふたたび席に腰を下ろして手帳に目を落とした。そうしてじきに発車、最寄り駅に着くと立ちあがり、扉の前に立ったが、すると外に見えるホームの路面が濡れているようだった。降りてみれば、空は曇っていながらも比較的明るい白なのだが、雨が落ちはじめていた。粒の大きめな降雨を受けながらホームを歩き、駅舎を抜け、横断歩道を渡って木の間の坂道に入ると、表通りの車の響きが遠ざかって、途端に雨音が――雨粒が葉に当たって弾ける音が――あたりに浮かび上がりはじめた。路面に濡れ痕が出来ている箇所――すなわち頭上の葉叢から雫が滴ってくる場所――は避けて通り、下りて行き、坂の出口間際に至ると、雨音は沢の響きに紛れていった。出口付近には薄黄色に枯れた葉っぱが散乱しており、道の両側を埋めて縁取るとともに、路上を点々と彩っていた。平らな道に出るとふたたび雨に打たれねばならなかったが、さほどの雨量でもなかったので、急がず慌てず鷹揚に歩いて帰宅した。
 家にたどり着き、なかに入ると母親に挨拶し、汗だくのTシャツを脱いで上半身裸になって、洗面所の籠にシャツは入れておいて下階に下りた。コンピューターをリュックサックから取り出して机上に据え直し、ズボンを脱いでハーフ・パンツ姿になったのち、六時一五分から鈴木正枝『そこに月があったということに』を読みはじめた。手帳に思いついた感想をメモしながら一時間ほど読んで、七時を越えると食事を取るために上階に行った。メニューは煮込みうどんに餃子、米にサラダである。テレビはどうでも良い番組だったのでほとんど目を向けず、新聞夕刊の一面からG20関連の記事を読みながらものを食った。食事を終えた頃合いになって、雨が激しく降りはじめた。抗鬱剤を服用し、食器を洗ってから浴室に踏み入った頃にちょうど盛りだして、窓の外に分厚い壁が立ったような巨大な雨の響きに取り囲まれながら湯に浸かり、汗や垢を流して出てくると、パンツ一丁の姿で下階に戻った。少々コンピューターを閲覧してから、cero『Obscure Ride』を流しはじめ、曲を歌いながらベッドの上で手の爪を切った。雨は変わらず激しく降り続いていたが、そのおかげで幾分涼しくなったようだった。そうして八時半過ぎからふたたび鈴木正枝『そこに月があったということに』を読みはじめ、途中で意識を消失させながら読み進めて一〇時四〇分過ぎになって読了した。
 三九頁、「別れ」の一篇に至って、この詩集のなかでは初めて「怒り」の感情が登場する。「怒り」の激しさは、詩集前半の静謐なトーン、この書き手の穏やかな筆致には少々そぐわないようにも思われるのだが、ここでは「決して衰え」ず、「痛いほど胸の中で熱い」という、かなり大きな「怒り」が表明されている。また、この一つ前の「転位してゆく想い」(34~36)という作品では、「頭の中で何度も殺した人を/いっそこの朝/もう一度殺してみようか」と不穏な思考が語られている。
 この詩集の話者は、一見穏やかに静まり落ち着いているようでありながら、その実なかなか豊かな感情の機微を持ち合わせている。「春の暮れ方」(42~44)という一篇では、話者は「ゆうじん」によって「いきなり背後から覚えのあるやり方でたたかれて」、思わず「涙がこぼれそうに」なっている。それは懐かしさなのか、悲しみなのか、喜びなのか、ここでの感情の内実はあまりはっきりしないものの、それでもこの箇所は、話者の感じやすさ、感情的繊細さを証しているように思われる。話者は様々な情動の種を拾い上げ、感情の断片を各所に配置し、詩句のなかに織り込んでいる。しかしそれはあくまで抑制されたトーンを湛えたものであり、先の「痛いほど胸の中で熱い」「怒り」にしても、その言葉自身の意味内容ほどに激しく直情的な感じはしない。話者の感情はどこか稀釈されているかのようで、淡い色の薄膜に包まれたような色合いを帯びているのだが、そうしたニュアンスを実現しているのが、平易な言葉で一行ずつ着実に、なだらかに連ねられたその筆致である。それはあたかも、ゆるやかにうねりながら流れていく細い小川のようだ。
 そうした感情的表現のなかでも、特にこの話者が重視しているのは、昨日も指摘したように「追慕」の情だろう。「陽が落ちて」(26~28)という作品のなかでは、話者は暗い「部屋の奥深くひとり沈んでいったM」に思いを寄せながら、「忘れない」と力強い決意を表明している。「自分のちからで/持ちきれないほどの淋しさだけを持って」暗い部屋に「沈んでいったM」――やはりこの人もまた、この世を去った存在なのだろうか。ここで直接、「忘れない」と強い調子で断言されているのは、「気づかれなかったという現実が/何年も物言わずに溜まっていくということ」だが、「Mよ」と呼びかけられているからにはこの思いは「M」に差し向けられているものであり、それはおそらく、「闇に次第に重くなっていった」部屋の暗がりに「沈んでいったM」を「忘れない」ことでもあるだろう。ここにはふたたび「追慕」の情めいたものが滲み出ているように思われるが、この想起は「忘れない」との断言によって、前のものよりも幾分固く、厳粛な調子になっている。
 「雨とおばさん」(46~48)の一篇は、これまでの諸篇とは少々毛色が違うように感じられる。小さな童話のようなささやかな物語性とユーモアのある作品で、ここでは話者は自らの感情を作品に盛り込むのではなく、「家と畑の区別がつかなく」なり、「この町と隣町との境が消えてしまう」ほどに巨大な雨にも負けず本を読み続ける「おばさん」の姿に共感を寄せながら、ユーモラスな小噺を語るような姿勢に終始している。主人公を名指す「おばさん」という語の軽い調子、くだけた感じが、仄かなユーモアの感触の底にあって基盤をなしているようだ。そのほか特に、「ずるずると芋蔓のように引き出された雨脚」といった比喩や、「じんじんじんじんと降り続く雨のなか/じんじんじんじんとおばさんは本を読む」といった擬態語を使った対句表現にユーモラスな軽妙さがはらまれているように思われる。続く「アラと」(50~52)の篇も軽快なユーモアがみなぎっている作品で、これには最後に「落ち」までついている。
 「帰り道」の一篇はこちらがこの詩集のなかで最も気に入ったと思われる作品である。「彼女」の闘病とその後の死、それに対する話者の別れの情を描いた切なく、かつ儚い篇で、意味としても難解な部分はなくわかりやすく端正にまとまっている。少々長くなるが、まずは全行を以下に引いておきたい。

 真っ先にカートに入れたのはグレープフルーツ
 これがなくちゃ辛すぎると言っていた彼女の嗄れた声
 耳奥にこびりついている
 果肉はいらない
 皮を半分に切って顔に当て
 その強い柑橘の香りでどうにか防いでいたのだ
 大部屋の一日三回の食事の臭いに
 襲ってくる容赦ない吐き気を

 死ぬまではもう口からは食べられません、だって。
 へえー、それなら死んだら食べられるってこと?
 クスリとふたりで首をすくめた
 ベッドの上と下
 涙が同時に頬を伝う

 今日はピーマンだってブロッコリーだって
 買ってやる
 ブリの切り身だって私が食べさせてやる
 牛乳もゼリーもヨーグルトも

 もうすべて終わった
 棺の中の切れ長な瞼は半眼だった
 くちびるだけはまだふっくらとして
 白い耳と細いのどと

 はち切れそうな食料品のビニール袋を
 ふたつ作る
 しっかりと口を縛って両腕に掛けた
 喪服の袖口が皺くちゃになっても直せない
 さっきからこちらをじっと見ているレジの若い子に
 さようなら と
 はっきり声に出して大きく言う
 (鈴木正枝『そこに月があったということに』書肆子午線、二〇一六年、54~56; 「帰り道」全篇)

 一見して明らかだと思うが、再三指摘してきた死者への「追慕」の主題がここではより直接的・意識的に描かれている。しかし、そこに死の持つ生々しい悲惨さはあまり匂わず、病室でのワンシーンでは「ふたり」は死をネタにしたブラック・ジョークに「クスリと」笑っているくらいだ――同時に涙を流してもいるけれど――。棺に収められた死者の姿も描写されているが、そこに死体の放つ圧倒的な物質性は描写対象として取り上げられておらず、「くちびるだけはまだふっくらとして/白い耳と細いのどと」を晒している死者の様子は、ある種「清らか」とでも言いたいような静謐な相貌に収まっているように思う。「死ぬまではもう口からは食べられません」と告げられていた「彼女」に、「今日はピーマンだってブロッコリーだって/買ってやる/ブリの切り身だって私が食べさせてやる/牛乳もゼリーもヨーグルトも」と言葉を贈る話者の気持ちは切なく痛ましいが、しかしここでもやはり、感情は大々的に押し出されるのではなく、控えめな香りを滲ませるに留まっている。この抑えられた仄かさ、明るい「透明感」とまでは行かない、言わば「半透明」の淡さこそが、この詩集を特徴づける主要なニュアンスの一つかもしれない。
 詩集を読み終えたあとも、しばらくクッションに凭れつつ意識の曖昧な時間が続き、零時を半刻越えてからようやく起き上がって日記に取り掛かった。Jacqueline du Pre & Daniel Barenboim『Beethoven: The Five Cello Sonatas』をBGMに流しながらここまで打鍵を進めると、時刻は既に二時に至っている。明日は一一時から法要なので、遅くとも九時頃には起きたいところだ。
 それから畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』を新たに読み出し、一時間ほど読み進めて三時一〇分を過ぎると切りとして、明かりを落として就寝した。眠りはすぐにやって来たようだ。


・作文
 5:04 - 7:29 = 2時間25分
 14:09 - 15:41 = 1時間32分
 24:35 - 26:02 = 1時間27分
 計: 5時間24分

・読書
 8:12 - 9:45 = 1時間33分
 15:42 - 16:57 = 1時間15分
 18:15 - 19:13 = 58分
 20:37 - 22:44 = 2時間7分
 26:20 - 27:13 = 53分
 計: 6時間46分

・睡眠
 3:25 - 4:25 = 1時間

・音楽