まずは歌からはじめよう。なんらかの感受性をもって歌を読んだことのある人であれば、すでに言葉に固有の力を知っている。歌の言葉が表現するのは、歌人、読者、主題が相互に応答しあう領域における調和である。歌を書いたことのある人であれば、もしくは学問的な実践としてではなく、真心をもって心ある歌を書いたことのある人であれば、歌人が書くのは、感情、出来事、物ではなく、むしろ世界のすべてのコンテクストであることを知っている。その際、歌人は言葉を通じてそのものを表現しているのだ。歌はなにかについて[﹅4]のものではない。それは、歌人、言葉、物を含むすべてのコンテクストの自己表現であり、ひそかな暗示である。
こうした経験が想定できるとすれば、そうした驚くべきときがいかにして到来するのかを問うことができるだろう。距離を取った知識や経験主義を前提にすると、いかにして歌が可能かは十分には説明できない。歌がある以上、世界がわたしたちの外にずっとあるということは不可能だからだ。世界は、外的で、価値中立的で、感情を欠いた見方から見られるべきものではない。合理主義もまったく役に立たない。歌がある以上、世界は単に数学的・論理的に区別される法則の集合ではないからだ。世界は、心のない考えで測られるべきではない。経験主義も合理主義も、外的な関係から世界を見ることを主張する。それらはどちらも、知を第3のものに変えてしまう。つまり、2つの独立したリアリティーである世界と自己を関係のなかに置くという、関係づける性質とするのだ。
それとは対照的に、歌は内的な関係性にあるリアリティーを明らかにする。世界とわたしたちは分離できない。分離してしまえば、少なくとも、なにかを失う。世界なしに、わたしたちはわたしたちではないし、わたしたちなしに、世界は世界ではない。前半の命題は十分に明らかである。世界なしに、わたしたちは存在することもできない。しかし、後半の命題は、なぜ真なのだろうか。
感じることのできる種として、人間は自然の自己表現において重要な役割を果たしている。ここで強調されているのは、感じることであって、合理性ではないことに注意しよう。合理性は人間性を定義する特徴ではない。わたしたちの人間性を定義するものは、感受性・情動・反応といった、触わり、触わられる能力なのだ。あらゆる動物は、それぞれのやり方で感じて反応しているが、人間だけが「もののあわれ」を詩的で共同的なやり方で感じることができる。鷲は森や滝の上を高く飛ぶことができるが、人間だけはわざわざ恐れを感じるためだけにその森に入って、アンセル・アダムズのように、その恐れを写真に表現して他の人と共有することもある。蜂は桜の花から花へと飛ぶことができるが、人間だけが花びらの儚い美しさを感じて、詩に表現したり、ただ涙したりできる。わたしたちのいない世界は、同じものではないのだろう。わたしたちなしでは、世界はその一部を失ってしまうかもしれない。それは、世界が展開してきた意味にとって内的な何かなのだ。わたしたちなしでは、世界はもはや創造的で詩的に表現的ではなくなるかもしれない。世界はその舌を失うだけではなく、その心をも失うのだろう。(トマス・カスリス『日本哲学小史』、394~395頁)
(小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、94~96; 中島隆博「先人とともに哲学する――トマス・カスリス『日本哲学小史』」)
七時起床。ポルノフラフィティのオリジナル・バージョンか、それともものんくるのカバー・バージョンだったかは忘れてしまったが、"アポロ"が夢のなかで流れていた覚えがある。その夢から断ち切られるようにして、少々籠ったアラームの音の闖入によって目を覚ました。携帯電話をクラッチバッグに収めておいたのだ。起き上がって机に寄り、バッグから携帯を取り出してアラームを消した。そうすると目論見通り、ベッドにふたたび戻らずに済み、まだ眠い目を細めながら上階へ行った。両親に挨拶してから洗面所で顔を洗う。そうして冷蔵庫からモヤシの炒め物を取り出して電子レンジへ突っ込む。その他、食事は米とゆで卵である。予定されていた防災訓練は雨でグラウンドが使えないということで中止になったらしい。父親は携帯でその旨電話連絡をしており、家の電話にも連絡が掛かってきて、母親が受けていた。こちらは食事を終えると抗鬱剤を飲み、皿を洗って下階へ戻った。
コンピューターを点け、七時半から日記を書きはじめた。BGMにはものんくる『RELOADING CITY』を流した。このアルバムのなかでは、二曲目の"夕立"が一番好きかもしれない。歌詞においては「温かい雨が 突然降り出し/夏の銀河系の 音を奪った」の一節のうち、「夏の銀河系」という語のイメージが美しく、またちょっと固い漢語を含ませることで独特の感触を与える言葉選びになっているように思われる。音楽の流れるなか、前日の記事をちびちびと書き進めていき、途中、"アポロ"に触発されてポルノグラフィティのライブ動画をyoutubeで眺めた。"アポロ"がデビューシングルというのはなかなか凄いのではないか。ポルノグラフィティはメジャー・シーンのJ-POPのなかではわりあいましと言うか、結構凝っている方かもしれない。転調が得意なようだ。ものんくるのあとはFISHMANS『Oh! Mountain』を繋げて、九時まで日記を綴った。
それで服を着替えた。抽象画めいた絵柄のTシャツと、オレンジに近い煉瓦色のズボンである。歯ブラシを咥えて上に行くと、母親がもう行くの、と言う。仏間に入って靴下の入っている籠を見るが、カバー・ソックスがない。母親に訊くと、片方のみでもう片方がどこかに行ってしまったと言う。洗濯機のあたりに落ちていないかと言うので、洗面所に入り、歯磨きしながらしゃがみこんであたりを探すけれど、見当たらない。一旦口を濯ぎに行って、戻ってきてから長い靴下を履いてみるが、九分丈のズボンに合わせるとやはりあまり見栄えが良くなかった。次に短めの、踝くらいまでの黒の靴下を試してみると、こちらの方がまだましなようだった。仕方なく、これで行こうと決め、カバー・ソックスに関しては、また買ってこようかと口にした。夏用のシャツももう一枚くらい欲しいところなのだ。それで、立川の家で飯を頂いたあと、服屋にでも行こうかと思っていると、家を出る間際になって母親があったと声を上げた。洗濯物を吊るしているベランダ近くの一角に落ちていたようだ。それで靴下をカバー・ソックスに履き替えて、出発した。母親は頻りにカーディガンを持って行ったらと勧めてみせたが、どうせ蒸し暑くなるのだろうからと払った。
雨が薄く降っていたので黒傘をもって出た。ほかの荷物は携帯と財布と本の入ったクラッチバッグである。弱い雨だから傘を差さずとも大丈夫だろうと思って道を行ったところが、身体に当たってくるものが思いのほかに冷たかったので傘をひらいた。公営住宅の前に参院選のためのポスター掲示板が設けられていた。鵯が鳴き声をあげながら飛び立って梢のなかに突っ込んでいく。坂道に入ると、濡れそぼった葉っぱがたくさん散らばり、道を埋めてところどころで盛り上がっている。砕かれた大きめの木屑も散乱していて、これはおそらく一昨日の激しい雨にやられたものだろうと思われた。出口が近くなった頃、ふたたび二羽の鵯が姿を現した。間近く、すぐそこの枝葉の合間と電線の上にとまっていた。もっとよく、じっくりと姿を見せてほしいのだけれど、近づくと飛び立ち、去ってしまうのだった。
駅のホームに着くと、携帯を取り出してメモを始めた。じきに電車到着のアナウンスが掛かって、傘を差さずに屋根の下から出たところが、やはり思いのほかに細かく広い雨が斜めにしとしとと降りつける。携帯の画面が濡れて見えなくなったので一旦仕舞って、傘をひらいた。そうして電車に乗り、扉際に立つと、すぐ左の席の端に髭の結構豊かな外国人の父親が赤ん坊を抱き上げ、壁の広告に差し向けて遊ばせていた。赤ん坊に向けて何とか呟いていたが、英語ではなかったように思う。あとから思い返してみると何となくユダヤ系らしいような顔に思えたのだったが――しかし、ユダヤ系特有の顔貌というのはあるのか?――まさかイスラエル出身でヘブライ語を話していた、ということもないだろう。赤ん坊は時折り声を上げており、可愛らしかった。笑いかけて手を振ってやり、赤子がこちらに向けて手を伸ばしてきた時にはその指にちょっと触れてやった。父親は特に何も反応をしなかった。こういう時、相手が日本語の通じない――であろうと思われる――外国人だからといって物怖じせずにコミュニケーションを仕掛け、very cuteの一言でも言ってやれば――英語話者でなかったとしても、そのくらいの言葉はおそらく相手もわかっただろう――良いのだろうが、こちらは人見知りである。
青梅に着くと乗換え、ホームを行き、先頭の方へ移動する。二号車の三人掛けの位置に就き、入線してきた東京行きに乗り込むと、南側の三人掛けに腰を下ろした。向かいには男児と、坊主頭にハンチング帽を載せた男性の親子が座りに来た。子供は眼鏡を掛けており、見た目は大人しそうだけれど、その実なかなか活発な様子で、笑いながら身体を動かし、ゲームをやっていた。父親はじきにバイク雑誌を読みはじめた。こちらは携帯を取り出してメモを始める。
日曜日の午前にしては電車は結構混み合った。向かいの子供は拝島を過ぎたあたりからだったろうか、父親に、貸して! 貸して! と何かを渡すように頻りに言って騒いでいた。何を貸してもらいたかったのかは不明である。携帯だろうか? 昭島かそのあたりでは、こちらの目前に両親と男女の子供一人ずつの親子連れが乗ってきた。その家族が、最初は日本語で会話していたのだが、そのうちに母親が息子の方に英語で話しかけ、息子も流暢な英語で答えていた。母親は、日本語を使っちゃ駄目、英語で、みたいなことを何度か言っていたようにも思う。バイリンガルに育てようという教育方針なのだろうか。娘の方は男児よりもさらに小さい幼子だったが、何か気に入らないことがあって母親と衝突したのか、むくれるような表情をしており、母親はそんな彼女、自分の腰ほどまでしか背丈がない娘を見下ろしながら、さほど強い調子ではないが、叱るようにしていた。英語でなされた発言のなかでは、最後の方で、電車が揺れたのだったろうか、you have to stand carefully、と言っていたのを覚えている。
立川で降車した。三・四番線のホームである。人々が一斉に階段口へ向かうのをやり過ごして、白い壁を背にして立ち、携帯で引き続きメモを取った。右側には同じように壁に寄って携帯を弄っている人が一人いた。ちょっと経つと道具を仕舞って階段へ行き、上がると人群れの一員となって改札を抜け、南口へ向かった。人々のなかを歩いていると、グランデュオの入口横に、何のイベントなのだろうか、何やら花笠を被った集団が集まっていた。綺羅びやかだが、少々安っぽい光り方の笠でもあった。駅舎を出て高架歩廊の上に出ると、雨はもうほとんど降っていなかった。BIG ISSUEを売っている男性に視線を送りながら過ぎ、右折して歩廊の上を歩き、階段を下りて下の道を踏んだ。西の方面へ通りを行くのだが、階段を下りたところの角にある、八百屋と言うか、野菜やフルーツを売っているのだけれど、あれはドラッグストアだっただろうか? 以前はストアがあったのだけれど、今はなくなっていたかもしれない、この時も果物も売っていなかったかもしれない、記憶が曖昧である。いずれにせよそこの角で、電動の車椅子が横から来て、角を折れて道の先に進んで行った。左右に緩くうねる軌跡を描きながら歩行者を巧みに避けて進んでいく後ろ姿を見つつ、こちらもそのあとから歩いていく。車椅子の人は首を斜めに傾けていた。何の病気だろうか、半身不随か何かなのだろうか? 不明だが、彼は歩道の途中で停まり、横を向いて段になっている箇所を前にした。最初は横になることで歩行者を避けたのかと思ったのだが、彼の近くを通る人がいなくなってもそのままでいた。近づいていくと、段の向こう、彼の向きから見て正面、こちらから見て右方にはドトール・コーヒーがあった。入店したくても段を上がれなくて困っているのだろうか、喫茶店の店員が気づくのを待っているのだろうかと思い、段を上がるのを手伝おうかとも迷ったのだが、彼の目的が本当のところわからなかったし、車椅子も重そうで一人で持ち上げるのが困難そうだったので、結局素通りした。
それから通りを向かいへ渡り、先の車椅子の人を気にかけて後ろを振り返りながら――しかし位置の関係でその姿は見えなかったのだが――進み、雑居ビルに入っている様々な店の看板を通りすがりに眺めつつ行く。角で左折し、交差点に出ると横断歩道で止まって、しばらく待ってから渡り、さらに進んでコンビニに入った。自分が飲むための飲み物を買っていくつもりだった。ほか、ポテトチップスでも買って食後に皆で食えば良かろうと思っていた。それで籠を取ってドリンクの棚に寄り、並んだ品物のなかから濃いカルピスを選んだ。それからポテトチップスの棚の前に行き、うすしお味で厚切りの大きめの袋を一つと、リッチコンソメか何か――いや、コンソメではなかったか、バター醤油か何か、もう一回り小さい袋のものをもう一つ籠に入れ、会計へ向かった。相手は若い女性店員だった。もしかすると高校生くらいだったかもしれない。四九四円を五百円玉一枚で支払った。レシートはご利用ですかと訊くのではいと答え、受け取り、ありがとうございますと礼を言うと、その時になって初めて相手はやや上目遣いになってこちらの顔に視線を送ってきた。
退店し、細道に入ってちょっと進み、A家へ到着した。昨日聞いた通り、隣の敷地が暗褐色の土の更地になっていて、その上にシートが載せられているのだが、そのシートは乱れ、めくれていた。インターフォンを鳴らすとKが出てきて、こちらの姿を見るなり何故か笑いだしたので、こちらも笑いで応じた。なかに入れてもらい、ご無沙汰、と言うと、今雨降っていないのと訊かれ、そこで雨、と反芻したところで自分が傘を持っていないことに気づき、コンビニに忘れてきたことに思い至った。それでその旨告げて、取りに行ってくるわと言い、クラッチバッグとコンビニの品物はKに渡して道を引き返した。まさかこの短時間に盗まれてやしないだろうなと思いながら行くと、きちんと傘立ての角の部分に黒傘が収まっていたので、掴み、持ってふたたびA家へ歩いた。Kは家の前に出ていた。買い出し組が今もう近くまで来ているのだと言う。買って来られた荷物を運び入れるために待機しているのだった。じきに、YとYさんの乗った車がやって来て、門の前に横付けした。そこから門の内側、駐車スペースに入れなければならないのだが、裏の細道のわりにさすが立川と言うべきか、車や人の通りが多くてなかなか入庫に移れずにいた。ちょっと経ってからようやくバックで入れはじめたのだが、中途半端なところで停まったかと思うと、車はふたたび外に出て走り去ってしまった。何してんの、とKは思わず漏らし、行っちゃったよと呆れたように言った。どうも入れる角度がうまく行かなくて半端になってしまったところに車がやって来て、何度もハンドルを切って入れ直している余裕がなくなったので、一旦場を離れて一周して帰ってくるつもりらしかった。Kは前日飲み会だったと言う。それで二日酔いで、ちょっと具合が悪そうにしゃがんで呻きを漏らしたりしていた。一週間前に二度と酒は飲まないって誓ったのに、と言うので、短い誓いだったなと笑った――それでいてKは、あとにはまたビールなりチューハイなりをぐびぐび飲んでいたのだ。Yちゃんも二日酔いで死んでいるとのこと。何でも昨日、我が家から帰ったあと、K子姉さんの「襲撃」があって、そこでまた飲んだのだと言う。K子姉さんというのはあとで聞いたところによると、Yちゃんの父親、Yさん――こちらからすると「立川のお爺さん」だ――の末の妹で、Yちゃんからするとだから叔母に当たる人らしい。
そういうしているうちに車がふたたびやって来た。今度は慎重な様子できちんと入庫されて、そして荷物を運び入れる段になった。降りてきたYさんにこちらは、今日はどうも、昨日の今日ですみませんと告げ、Yが渡す品物を受け取り、家のなかに入って廊下を通り、居間のテーブルや台所の流し台の上に、カップ麺やら〆鯖やら何やらを置いていった。それから戻ると、もう荷物はないとのことだったので、居間に入って炬燵テーブルの周りに腰を下ろした。
テーブルの上に雑多に置かれた袋のなかには、刺身や寿司などがあった。そのほか、食事には揚げ物や枝豆なども出されて、豪勢な会食となった。寿司と刺身は、前日も話に出たのだが、「角上魚類」という店で買ったらしく、ここの魚屋がなかなか質が良いのだと言う。実際、あとで食った刺身も寿司も美味かったので、図々しく招かれた立場のくせにばくばくと貪ってしまった――刺身はさすがに、昨日の「K」の方が味に深みがあって美味かったようだが。「角上魚類」は日曜の午前九時半かそこらだったのに、もう店内が相当に混み合っていたと言う。頼めば目の前ですぐに刺身用に魚を捌いてくれたり、三枚におろしてくれたりするらしかったが、人が多かったのでパックの品物を買ってきたという話だった。
じきにYちゃんもやって来て、段々と食卓に品物が準備され、最後に二階に籠っていたK子も下りてきて、食事が始まった。祝いの名目は、六月に誕生日があるYさんとKの祝福、それにYちゃんに対する父の日の祝いも兼ねているとのことだった。最初の一杯はチューハイでも飲んでみたらとYさんが言うので、Yに注いでもらい、こちらはそれをまず飲んだ。ほとんどジュースと変わらないわけで、まあ薬を飲んでいるからと言ってどうにかなるわけでもないだろうと口にしたが、案に違わず体調には何の変化も表れなかった。二杯目以降はこちらが自分で買ってきたカルピスを飲んだ。そうして刺身やら寿司やら揚げ物やらを、先ほども書いた通り次から次へとばくばくと貪り食っていき、大層満腹になって満足した。
会合は一一時頃始まって、四時半前までこちらは居座った。一二時だったか一時だったか、Yは仕事で使うスタンプを買いに行くと言って出かけていった。残った我々は、ものを食い、ポテトチップスやらジャーキーやらのつまみも食いながら、色々な話をした。覚えているのは大概、こちらとKとYちゃんのあいだで交わされた比較的真面目な話で、その他の他愛ない雑談のようなものは大方忘れてしまった。
Kは予備校で進学アドバイザーと言うのかプランナーとでも言うのか、授業を直接教えるのではなく、生徒たちの進路相談に乗るような立場として働いている。まずはそのKの仕事のなかで起こったとある出来事の話から始めよう。今の若者は――粗雑な「最近の若者」論に過ぎないが――ストレス耐性があまりついていない、傷つくということに慣れていない、というような話のなかだった。Kは東大に進学したいという立場の生徒たちを担当しているのだが、そのなかで一人の男の子が、同じクラスの女子生徒に、「私のこと、つけてるでしょ」といったような言いがかりをつけられ、それで男子は深く傷つき、教室に行くのが怖くなって授業に出席できなくなってしまったのだと言う。男子生徒は今は別の校舎に幸いまったく同じ授業を受けられるコースがあったので、そちらの方に通っていると言うのだが、そうした事件を取り上げてKは、今の子供は実に傷つきやすいという見解を示してみせた。こちらも、先にも書いたように曖昧で粗雑な印象に過ぎないが、現代の社会というのは、皆傷つくことを過度に恐れていると言うか、心が傷つくような機会を出来るだけ排除しようとしているような印象がある、しかし人間とは傷ついて成長していくものなのだ、と述べた――それに対してYちゃんは、その通り、と深く頷いた。他者とのあいだで傷つき傷つけられるという形で始まり、学べるコミュニケーションというものがあるわけだ、勿論、取り返しのつかないような傷を与え、あるいは受けるということは避けなければならないけれど、そもそも齟齬というものが人間関係の本質なのであって、それをあまりにも排除しようとすることは不可能で不健全であり、耐性のない人間を育てることになってしまう。平たく言えば、小さな傷は子供の頃から多少なりとも受けておいた方が良いし、恥はたくさん搔いておいたほうが良いということだとそのようなことを述べた。
それとも関連するのだけれど、他者体験が大事だという話もした。自分と価値観や考え方の違う他者とのあいだで交流を繋げることで人間の世界というものは広がっていく。ここで言う他者とは人間のみならず、書物だとか自然だとか、色々な事物や体験をも含むものだ。ところが今の社会の人々というのは、他者を自分の内に迎え入れることを拒み、極端に言えば恐れているようにも見える。電車内でも見ればそれは一見して明らかで、電車のなかでは誰もがイヤフォンを耳に挿し入れ、目はスマートフォンの小さな画面に釘付けにしている。皆、自分の世界に引き籠ってそこに安住しているわけで、だからある種、「一億総引きこもり化」とでも言うような社会が到来しつつあるのかもしれない。そのような存在様式の何が問題なのかというと、そこからは「偶然」が排除されてしまうということである。他者との遭遇というのは偶然による。様々な物事との偶然の出会いによって自分の価値観が揺さぶられたり、新たな思考を得たりして、人間の世界とは拡張されていくものなのだ。自分の好みによって選別され、そのなかで完結した世界にあっては、そうした偶然が作用する機会が奪われてしまう、というわけだ。
さらにそれとも関連する話だと思うが、教育の使命の一つとは、この世界が途方もなく広く、そのなかで我々一人一人の存在などというものは、実質上無に等しいほどにちっぽけなものなのだということを、僅かばかりでも実感させることにあるのではないか、ということも述べた。例えばよく、連立方程式など学んだところで将来何の役にも立たないではないかという生徒たちの疑問があると思う。しかしそうではないのだ、とこちらは言った。勉強というのはそういうものではない、役に立つ、役に立たないという基準で考えている時点で、お前は既にこの社会の悪しき慣習に巻き込まれてしまっているぞということだ、とこちらは口にし、教科書に載っている知識や情報というのは、それだけ単体でどこかから不意にやって来たものでは当然なくて、その裏には我々一人の生、一世代の人間の生ではとても及ばないような長い知の歴史があるのだと言った。連立方程式にしろ、数学の定理にせよ、何らかの知識が我々に伝えられるまでには、途方もなく大きな歴史がその背後になければならなかったのであり、我々など当然及びもつかない過去の様々な天才たちがとてつもない努力を重ねた結果として、今その知識が我々に伝えられているわけなのだ。そうした大きな歴史の前では、即時的に役に立つか立たないかなどという疑問は非常に貧しく、それこそ無に等しいようなものなのであって、そうした世界の途方もない膨大さ、それに比した我々のちっぽけさというものを、断片的にであっても実感させるということが、教育という営みの重要な役割の一つであるだろう。この世界に対する自分の卑小さ、無価値を思い知るというのは、ニヒリズムに陥るということではないのか? その通りである。しかし、ニヒリズムに陥った先、その底から逆説的・逆流的に、自分という極小の存在の無価値に比したこの甚大な世界の価値というものが見えてくるのであって、さらにはそうした微小な自分でさえもこの世界のひとひらとして、巨大な世界とどこかで確実に繋がった存在であるということが実感されてくるだろう。そうした認識をまず得ることなしには、学問やら芸術やら表現やらということは始まらないようにこちらは思う。蓮實重彦の言葉を借りれば、「ニヒリズムを知らない人に何か意味のあることが書けるはずもない」のだ。
東京オリンピックの話もした。こちらは東京オリンピックというものには特段の関心を置いてはいないのだが、A家ではおそらく彼らがスポーツが好きだということも大いに寄与して、結構ホットなトピックになっているようだった。そのなかで、Kはどちらかと言えば賛成、K子はどちらかと言えば反対の立場にあるらしい。Kは大学生だった頃から、東京五輪をやるならば素晴らしいものにしてほしいと熱を込めて言っていたと言い、チケットもいくつも応募したのだが、それは全部外れてしまったのだと言う。彼が五輪に対して考える思いというのは、勿論手続き上の不透明さとか予算の見積もりの甘さとかの問題は多々あるものの、どうせやるのだったらやはり凄いものに仕上げなければいけない、日本という国が豊かな国なのだということを世界に示さなければならない、というものらしかった。例えば前回のブラジルのリオ五輪を考えてみると、リオの街というのは、五輪会場から数キロ行けばもうスラムだよ、と彼は言った。選手村の環境も悪いし、消防士たちが給料を払われなくて、五輪などやっている場合じゃないという反対運動もあった。しかし日本はそうではない、そんなに金を持っていない人でもチケットを買えるし、さらに安全で綺麗で、安心して皆でスポーツを楽しむことが出来る。そうした環境を通じて、豊かであるというのはこういうことなのだ、ということを世界に示さなければならない、本当の豊かさとはこういうものなのだと世界に示して、それで世界の人々が感動したり、自分の国もああいう風にならなければと思ってくれれば、それは成功ではないか、そういう五輪を目指さなければならない、という考えがKのものだった。
今読んでいる本として、畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』をKとYちゃんに見せもした。六〇万の人間がソ連軍に捕まえられて、そのうちの一割くらいが死んでいるのだと話し、石原吉郎が経験した「ストルイピンカ」での体験エピソードも紹介した。「ストルイピンカ」というのは収容者を輸送する貨車のことで、そこに囚人たちは構わず詰め込まれる。排泄を出来るのは二四時間に一回で、当然なかには我慢しきれずにその場で排泄してしまう人間が出てくるわけだが、そうした人はほかの人々からぼこぼこにされたあと、素手で自分の汚物を始末させられる。そうした環境が輸送のあいだずっと続くわけだが、長い時間のなかでトイレ用の樽に溜まった汚物がついに溢れて床に零れ出す時がやって来た。石原はその汚物で汚れたパンを食い、そうした床に寝転がって眠ったと、そうした壮絶なエピソードを紹介し、本物の地獄だよこれはと言った。Yちゃんがそれに対して、でもSは、そういう本を読んで、今の自分は幸せだなあと思うわけでしょ、と言うので、いや、幸せだと思うかどうかはわからないが、こうしたことをやはり知っておかなければならない、知って、考えなければならないとは思うし、なるべく多くの人が知った方が良いとも思う、と答えた。
そのほか、死刑制度の是非についてや、マスメディアの人々の感情を無益に煽り立てるような報道の仕方がKは嫌いだというような話もあったのだが、ちょっと文章を書くのに疲れてきたので、それに関しては割愛する。四時半前になってトイレに行って放尿してきてから、じゃあそろそろ帰りますと皆に告げた。Yちゃんは帰るの、何で、と言うのでこちらは、え、家があるから、と薄笑いを浮かべた。Yさんは、明日皆仕事だからね、長居させられなくて悪いけれど、と言うのだが、一〇時半から四時半まで六時間もいたのだから、充分長居した方だろう。どうも皆、こちらが夜まで留まって夕飯を一緒に食うつもりでいたような雰囲気だったが、しかし前日の日記もまだまだ終わっていなかったし、今日は帰ろうというわけで、居間の入口に立って今日は有難うございましたと礼を言い、戸口に行った。雨がまた少々降り出していた。KとK子も戸口まで来てくれ、Yさんは傘を差して外に出て、門の外側までついてきたので、有難うございましたとふたたび礼を言い、三人に手を振って別れた。
書店に寄って帰ろうと思っていた。傘を差して道を行き、交差点で横断歩道を渡り右折して、朝来たのとは別のルートを取った。高架歩廊に続くエスカレーターを上り、アレアレアの前あたりまで来たところで、便意が高まっているのに気づいた。高島屋に着くまで耐えられないということはあるまいなとちょっと危惧を感じつつも、まあ大丈夫だろうと緩く落として、歩廊の上を行った。駅舎に入ると下水のような臭いが微かに感じられたのだが、これはやはり、人々の靴によって濡れて汚れた床が立てる臭いなのだろうか。人群れのなかを通過していき、北側広場に出ると通路を行って歩道橋を渡り、高島屋に入館した。フロアマップを見るとちょうど今いる二階にトイレがあるようだったので、奥に進んでいき、COACHの店舗の横を入ってトイレに行った。広々とした個室に入って排便し、高島屋でもやはり安っぽいトイレット・ペーパーで念入りに三回尻の穴を拭いておき、外に出て手を洗った。ハンカチで手を拭きながらトイレを抜け、エスカレーターに乗って六階まで行き、淳久堂に入店した。まず、詩の棚を見に行った。個人詩集を端から順番に見分していく。松本圭二コレクションを買おうかと思っていたのだが、並んだコレクションのなかで、既に持っているものがどれなのか記憶が曖昧だった。それで被って買ってしまうことを避けるために、今回は見送ることにして、次に海外文学を見に行った。最近は詩に強い興味が湧いているので、ここでも詩の区画を見て、冨岡悦子『パウル・ツェランと石原吉郎』を発見した。前々からちょっと気になっていた著作だが、石原吉郎に以前よりもさらに強い関心を持っている現在、ますます読みたくなっているものだったので、これを買うことにした。その一冊を持って今度は思想の棚に向かった。新作を中心に見分し、しかし気になったものはどれも、今のレベルで買っても難しくて太刀打ちできなさそうなものばかりなので、やはり松本圭二を買おうかなどと思いながら書架のあいだを抜けようと歩いていると、レベッカ・ソルニット・東辻賢治郎訳『迷うことについて』という著作の、表紙を見せて置かれていたのが目に留まった。レベッカ・ソルニットは、『ウォークス 歩くことの精神史』が出た時から名前を記憶していた作家である。『迷うことについて』のなかを覗いてみると、哲学的エッセイというような感じで、直感的に面白そうだと思ったので、これも買うことにした。さらに、その近くに、レス・バック/有元健訳『耳を傾ける技術』という著作も発見されて、これも数年前に新宿の紀伊國屋書店で見つけてから欲しいと思っていたものなので、これもまとめて買ってしまうことに決意した。それで三冊を持って会計に行った。対応してくれた店員は、軽い斜視のようだった。ビニール袋を取り出したので、あ、紙の袋でお願いできますかと頼んだ。紙袋の方が電車内で足もとに置きやすいと思ったからである。そうして九九三六円を支払い、礼を言いながら品物を受け取って、エスカレーターに乗って店をあとにした。
帰りは来た時と別のルートを取ることにして、退館すると右折してオリオン書房やHMVの入っている建物の前を通り過ぎ、モノレール駅の下を通り抜けて行った。そうして駅に至り、改札を抜けると、一番線の青梅行きがもう発車間際である。どうせ混んでいるだろうからと後発に乗ることに決めて、ゆるゆると急がず歩いていき、電車が発車したあとの一番線に下りた。ベンチに寄ると、その端に男女が座っており、男性の方が女性に身を寄せてその顔に手を触れさせており、いちゃついていた。こちらは彼らとは反対側の端に座り、携帯電話を取り出してこの日のことを綴りはじめた。そうしてそのうちに電車が来ると乗り込み、七人掛けの端に就いて、偉そうに脚を組みながら引き続き携帯を操作した。青梅に着くまでの道中で、特段に印象深いことはなかったと思う。青梅に着いて降りると、奥多摩行きまでは結構時間があったが、待合室の壁を背にして立ったままふたたび携帯で日記を書いていたため、退屈はしなかった。やって来た電車に乗ると三人掛けに腰掛けた。向かいには高校生らしき男性がやって来たのだが、この高校生が髪を七対三くらいに分けて撫でつけたような髪型で、本人もこだわっているらしく時折り携帯を鏡として用いながら整えていた。こちらは、なかなかダンディではないかと密かに好感を持った。
そうして発車し、最寄り駅に着くと駅舎を抜けて横断歩道を渡った。木の間の坂道を下りていき、平らな道に出ると、路傍の暗がりのなかから何やらノイズを撒き散らしている虫の声が飛び出していた。あれは蟬の一種なのだろうか? 夏の先触れのような無愛想な音だが、それを聞きながら歩き、残りの帰路をたどって帰った。
帰宅すると自室に帰り、服を着替えたあと、まださほど腹が減っていなかったのでインターネットを回って時間を潰した。それから八時に至ると、三〇分ほど前日の日記を綴り――この時のBGMはFISHMANS『Oh! Mountain』だったと思う――そうして食事に行った。食事のメイン・メニューは鮭と焼いた鰤だった。それをおかずに米を食っていると父親が、このあいだ医者に行ったんだろうと話しかけてきた。それでどうだったのかと問われたので、こちらとしてはさっさと減薬したいのだが、薬は当面今のままで維持していくことになったと伝えた。さらに父親は、今の状態はどうなのか、もっとこうなりたいとか、何か不安や不満のようなものはないのかと訊くので、不満はないと答え、ただやはり病前の方が思考の密度が高かったような気がするので、もっとものをよく考えられるようになりたいと言ったが、日記の文章を見る限りむしろ病前よりも詳細に書けていると思うから、そうした面ではかえってよく記憶を思い出せるようになっているのかもしれない。
その他、Mさんのことを両親に説明して紹介したり、この日A家で話したことを、Kがなかなかよくものを考えているよと言って紹介したりしたのだが、細かなことは省く。しばらく父親と話を交わしてから、皿を洗って入浴に行った。出てくるとオロナミンCを氷を入れたコップに注ぎ、それをちびちびと飲みながらふたたび父親と言葉を交わし、彼の職場の話などを聞いた。お父さんの職場の新人はどうなのかと訊くと、やっぱり弱っちいよと言いながらも、今年の営業の新人たちは結構元気がいいなと彼は答えた。こちらの職場に来る新人も、また同僚も、昨日も書いた通り何となく大人しいと言うか、威勢の良いタイプが全然いない印象なのだが、父親の方も今入ってくる若者というのは何だか比較的頼りない、「弱っちい」人が多いというような印象を抱いているようだった。「最近の若者」論に粗雑に陥ることは避けたいけれど、やはり何となく、生徒など見ていても、他者とコミュニケーションを取るのが苦手そうな人が多いように思われる。
その後、一一時を幾分過ぎた頃だっただろうか、父親がテレビを消して立ち上がったのでそれを機にこちらも立ちあがり、下階に移った。それでインターネットを回るか何かしたあと、零時過ぎから日記を書きはじめた。BGMに選んだのはBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 2)と、The Ornette Coleman Trio『At The Golden Circle Stockholm, Vol.1』。一時半まで掛かって前日、六月二九日の記事を仕上げ、ブログに投稿した。そうして二時前から読書、畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』を読みはじめたが、いくらも読まないうちに意識を失ったらしかった。その後何時になって正気を取り戻したのかは覚えていない。従って、就寝時間もわからない。
・作文
7:32 - 9:00 = 1時間28分
20:01 - 20:33 = 32分
24:06 - 25:31 = 1時間25分
計: 3時間25分
・読書
25:53 - ? = ?
- 畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』: 118 - 126
・睡眠
2:00 - 7:00 = 5時間
・音楽