カスリスはこの2人の対照のために、より具体的な例を挙げています。それが「雨が降っている」という命題です。この命題は、論理実証主義者であれば、英語で「It is raining」といおうが、ドイツ語で「Es regnet」といおうが、論理的には同値となり、それ以上でも以下でもありません。ところが、宣長的な考えを取れば、結婚式の日に娘が母親に「雨が降っている」という場合と、日照りが続いているなかで久しぶりに雨を見た農民が「雨が降っている」という場合では、まったく意味が違うということになります(『日本哲学小史』、383頁)。
つまり、徂徠が言語とリアリティーの関係を、インテグリティーの指向性に基づいて、指示として見るのに対し(referentialist)、宣長はそれを、インティマシーの指向性に基づいて、表現としてみる(expressionist)と解釈しているのです(同上)。
(小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、106; 中島隆博「先人とともに哲学する――トマス・カスリス『日本哲学小史』」)*
空海の思いとは、ある人をいかにして知るのか[﹅13]となにか似たような仕方で、リアリティーを知ることであった。それを、その人について[﹅4]知ること(その人について読んだり聞いたりすることから派生するもの)と混同してはならない。真にその人を知ることには、なにかわかちあうインティマシーが含まれている。他人を知るとは、その人の世界の内側にいるということ、その人と触れあい重なりあうということである。こうして、他人があなた自身の生の一部となるのだ。他者を対象化するよりもむしろ、他者となにかをわかちあうことなのだ。
対象を知ることにおいてさえ、離れた形式での知と関与する形式の知の違いがありうる。たとえば、熟練した職人はその道具や材料について知っているだけではない。それらとともに働くことで、インティミットに知っているのだ。自分の仕事の範例となる師に就いて、技術をつくり上げるのだ。こうしたプロセスを経て、木彫り職人は、それぞれの木やノミの特徴を理解するようになる。関与し、体感する知に基づいて、木とともに[﹅3]働くことで、木やノミそして職人の手や心が調和した全体となり、関与というひとつの動作となる。
(111; 中島隆博「先人とともに哲学する――トマス・カスリス『日本哲学小史』」)
一時四〇分まで阿呆のような寝坊をした。身体を起こし、上階に上ると、両親は仕事で不在である。台所にはジャガイモと野菜を入れた皿があったので、それを電子レンジで少々温め、白米をよそった。卓に就くと、新聞一面から米朝首脳会談の報を読みつつものを食べる。すぐに食べ終えると抗鬱剤を飲んでおき、食器を洗って洗面所に入った。後頭部がいくらか膨らんだ髪の毛を櫛付きのドライヤーで梳かして整えておき、それから風呂場に入って浴槽を洗った。そうして下階に戻ると、コンピューターを点けて準備し、二時半前から日記を書きはじめた。それから五時一〇分まで、途中Twitterを眺めたり、YさんとSkype上でやりとりしたりしながら、文章を綴り続けた。前日の記事は一万字強、綴ることが出来た。BGMに流したのはFISHMANS『Oh! Mountain』に、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard』と、ものんくる『RELOADING CITY』である。
五時一〇分に達すると、食事を取るために上階に行った。冷蔵庫のなかに小さなジャガイモを炒めた料理があるのを知っていたので、それを取り出して電子レンジに突っ込んだ。白米をよそり、卓に運んで、電子レンジが駆動しているあいだ、南窓の前に立って腕を円形に回す体操をしたり、また両腕を背後で組んで引き伸ばしたりして身体をほぐした。そうして食事、新聞を瞥見しながらジャガイモとともに米を食い、食器を洗うと下階に戻ってきた。引き続き日記を書かなければいけないのだが、長時間椅子に座って身体が疲れていたので少々労ることにして、ベッドに乗り、クッションに凭れて畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』を読みはじめた。それが五時二二分だった。そこから四〇分、左膝で右の脛を揉みほぐしながら読み続けて、六時を回ったところで読了した。コンピューターに寄り、読了記録を付けておくと、それからふたたびものんくる『RELOADING CITY』を流して、服を仕事着に着替えた。そうして、"夕立"が流れるなかで歯磨きをして、曲が終わるとともに口を濯いでくると、戻って日記を書きはじめた。前日分ではなくてこの日のことをここまで記すと六時半直前である。
六時四七分まで前日の記事を書くと、出勤することにした。財布と携帯を入れたクラッチバッグを持って上階に行き、玄関を一旦抜けると、ポストに寄って夕刊と郵便物を取っておき、玄関内の台の上に置いた。そうして出発、雨は非常に細かい霧雨だった。坂道に入った直後に右方の川の方を見通せば、水面の上や川の縁の林の周囲は白く濁って霞んでいる。濡れた葉っぱを踏んで水っぽい足音を立てながら坂を上っていき、平らな道を進んで街道に出た。雨は幽かで、傘の上に落ちる音も立たないくらいではあるのだが、直線的に落ちるのではなく、軽くふわりと宙に漂って拡散する種類の降り方で、だから傘を差していてもその下から横に浮かんでシャツやスラックスに触れてくるので、あまり傘をひらいている意味がなかった。街道を行く頃にはシャツやスラックスの表面がじっとりと、布地が汗を搔いたかのように濡れていたと思う。皓々と光を放射状に広げている白やオレンジ色の車の丸い瞳を眺めながら進んでいく。
その他、道中のことで印象に残っていることは特にないようだ。裏通りに入った直後、丘と空の境あたりに白い霧が朦々と湧いているのを見た覚えがあるくらいで、ほかに事物の具体性を感知することはなかったらしい。それでは何を感覚あるいは思考していたのだろうか? "アポロ"のメロディが繰り返し、頭のなかに回帰してきたような気はする。そのほか何か散漫な物思いをしながら歩いていたと思うが、その内容は既に忘却の彼方に去ってしまった。
職場に着くと入口の前で傘をばさばさと何回もひらいては閉じ、付着した水滴を弾き飛ばして、それからなかに入った。今日から夏期講習、テキストや授業の進め方が少々変わる。今日当たった相手は、(……)くん(中三・社会)、(……)さん(中三・国語)、(……)くん(中三・国語)だった。国語に当たっていたので、準備の時間で夏期講習用テキストの扱う部分の文章を出来るだけ読んでおいた。そうして授業だが、国語はやはり解説をするのも、ノートに事柄を書かせるのもなかなか難しい。国語に関しては身につけるべき知識といったようなものがあまりないから、指示語の問題の解き方などを書かせることにどうしてもなってしまうが、そういった一般的なことを書いても、結局問題を解くなかで実践できなければ意味がないのだ。本文分析や要約のような、内容に即したもっと具体的な事柄を実践させたいのだが、なかなかそれも難しい。一応本文に即して段落ごとに大事な部分はどこだと思いますかと聞いたりして、本文の理解の促進を図りはしたものの、果たしてそれで効果が出るのかどうか心許ないところではある。(……)くんの社会は地理の最初の単元からだが、特に問題はなかっただろう。進みも良く、二単元進行することが出来た。
授業は一五分前くらいから終了に入っていき、余裕を持って終わることが出来た。お蔭で授業後、入口の傍に立って帰っていく生徒の近くで見送ることも出来た。それから(……)さんに記録を見てもらい、国語の扱い方がやはりなかなか難しいですねと話をしたあと、退勤した。駅に入って奥多摩行きに乗り、席に腰掛けて、今日は手帳を持ってくるのを忘れたので目を閉じ、何をするでもなく発車を待った。そうして最寄り駅に着くと降り、駅舎を抜けて、細かな霧雨の降るなか坂道に入った。一応傘を差しながら帰路を辿り、帰り着いて居間に入ると、台所に立っていた父親がはい、おかえりと声を掛けてきたので、はい、と受けた。母親は風呂に入っていた。ワイシャツを脱いで洗面所の籠のなかに入れておき、下階に戻るとハーフ・パンツ姿に着替えて、食事を取るためにすぐに上階に引き返した。夕食は、マカロニの炒め物に胡瓜や大根などを細かくおろしたなかに鶏肉が混ざったサラダなど。食事を取りはじめてまもなく、『逆転人生』という番組が始まって、石坂産業という産業廃棄物処理業者のサクセス・ストーリーが語られるのを、食事が終わっても最後まで眺めてしまったのだが、細かく書く気力が今ないので詳細は省略する。父親はこの業者の物語を既に知っていたようで、焼却を行わないすべてリサイクルをする施設を新しく作ったのだとか、端々で内容を先取りして解説を差し挟んでいた。酒を飲んだらしく、口数は多くて、サクセス・ストーリーにも感激して少々涙を催してもいたかもしれない。物語を見終わったあとは入浴に行き、出てくると自室に戻って、日記を綴り、まもなく前日の記事を仕上げてブログに投稿した。そののち、『はっぴいえんど』をヘッドフォンで聞きながら、亀井俊介編『対訳 ディキンソン詩集 ――アメリカ詩人選(3)――』の書抜きをして、零時を越えた。そうして零時二〇分から柴崎聰編『石原吉郎セレクション』を読みはじめたのだが、例によって眠気に刺されて途中で意識を失い、気づくと三時二〇分を迎える間際だったので、明かりを消してそのまま就床した。
・作文
14:26 - 17:10 = 2時間44分
18:16 - 18:47 = 31分
23:07 - 23:13 = 6分
計: 3時間21分
・読書
17:22 - 18:02 = 40分
23:47 - 24:14 = 27分
24:21 - 27:17 = (2時間引いて)56分
計: 2時間3分
- 畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』: 126 - 193(読了)
- 亀井俊介編『対訳 ディキンソン詩集 ――アメリカ詩人選(3)――』岩波文庫、一九九八年、書抜き
- 柴崎聰編『石原吉郎セレクション』: 3 - 20
・睡眠
? - 13:40 = ?
・音楽