小林 「自由」に憧れるのは、自分の存在という拘束性を解消したいという人間的な欲望の究極です。人間にとっての最終的な目標はなにかと言えば、わたし流の考え方だけれど、ただひとつ、自分が存在していることの重みを解消することです。ただ、これはあとで論じる漱石の『こころ』のテーマですけれど、解消するといって死んでしまう、自殺するという方向を目指すと、それはじつは全然解消にならなくて、ただ存在の引力により強く引きとどめられるだけだということははっきりしている。それこそ、近代の最大の誤解ですよね。つまり自分の意志によって存在の重力を解消できると思うという、これこそ近代の恐るべき迷妄なわけです。近代というのはこの「自殺」という間違った欲望に裏打ちされているんです。でもそれでは、ますます闇が深くなるばかり。それに比べると、彼女たち[川端康成「温泉宿」の女たち]は、そのような人間の根源的自由への希求からすらも自由なんですよ。近代的な人間がもっている「自由になりたい」というすごい拘束[﹅2]。わたし自身の人生もとても深くそれにとらわれていますよね。自分の重力の根源を訪ねて、それを解消したいという欲求。いまでは、自分に死を与えることでそこから逃れることができるだろうというような間違った近代的迷妄に陥ることはないんですけれど。でも、だからこそダンスが必要だというように論理化してみようかな。中島さんの挑発にのって、いままでけっして言ったことのないことを言ってるような気もしますが。
(小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、190~191)
直線的に鋭く落ちる激しい雨のなか、時折り覚醒を誘われながら眠り続けて、一〇時一五分に起床した。上階に行くと、両親は不在である。父親は仕事、母親も「K」の仕事で保護者会があるとか何とか言っていた。冷蔵庫のなかにフライがあるらしいので見ると、メンチカツやイカフライがあったのでそれを取り出し、皿に取り分けて電子レンジに突っ込んだ。そのほかにスープなどもあったが、火に掛けて準備するのが面倒臭いので放っておき、白米を椀によそって卓に就いた。新聞を瞥見しながら、ソースを掛けたフライをおかずに米を咀嚼し、食べ終わるとすぐに抗鬱剤を飲んで食器を洗った。それから風呂場に行ってゴム靴で浴室に踏み入り、浴槽の栓を抜いて残り湯を流しだすとともに蓋を持ち上げて洗い場の方に一旦取り除いた。洗濯機に繋がっているポンプも持ち上げて静止させ、管のなかに溜まった水を排出させたあと、洗面所のバケツに入れておく。そうしてブラシと洗剤を手に取って、水が引いたあとに浴槽のなかに入り込み、腰を曲げて壁を擦っていった。半分ほどひらいた窓の外には、雨で鈍い色に濡れ沈んだ路面が見えた。洗剤をシャワーで流して栓と蓋を元に戻し、浴室を出ると階段を下りて自室に帰った。コンピューターを起動させ、中島隆博・石井剛『ことばを紡ぐための哲学』をぱらぱらめくって覗きながら準備が整うのを待ち、Evernoteをひらくと前日の記事に日課の記録を付けた。それからこの日の記事も作成したあと、普段ならすぐに日記に取り掛かるところだが、今日は休日で余裕があるので先に読書をすることにした。そういうわけでベッドに移り、柴崎聰編『石原吉郎セレクション』を手に持ったのだが、まったくいつもいつも性懲りもないことだけれど身を包み込む眠気に襲われて、読書は散漫で中断しがちなものになった。微睡んでいるあいだにふたたび雨が降った。やはり直線的に落ちる雨で、窓をひらいていたのだけれど、木の窓枠が濡れたり、ベッドの上の布団が湿ったりすることはあまりなかったと思う。二時二〇分を越えると腹が減ったので食事を取るために部屋を抜け、上階に行った。母親は帰ってきていた。ふたたびフライと白米を用意し、先ほど食わなかった水菜や胡瓜などの生サラダも卓に並べた。テレビは録画されたものだが、『ガイアの夜明け』を映しており、障害者雇用を充実させようとする楽天の試みが紹介されていた。母親がこのような番組を見ているのは珍しいのではないか――もっとも、そこまで真面目に集中して見ていたわけでもないようだが――。保護者会がどうだったとか、帰りに中華屋に寄ってラーメンを食べてきた、美味かったなどと話す母親の語りを聞き流しながらものを食い、使った食器を洗っておくと下階に戻った。日記に取り掛かる気力が湧かず、ふたたびベッドに乗って薄布団を被り、クッションに凭れて読書を始めたのだが、またしても書見の途中で煙のような眠気が身中から湧いてきて、意識を曖昧に靄らせることになった。先の読書時間と同様、少なくとも一時間は微睡みのなかに放り込まれていたはずである。五時になると読書時間を記録して一旦書見を止めたのだが、すぐに起き上がることが出来ず、むしろ姿勢を水平に崩してしまい、眠るわけではないが目を瞑って休んでいるうちに気づけば六時を迎えていた。そこでようやく上階に行くと、食事の支度は母親がもう大方済ませてしまっており、フライパンには大きな鶏肉の塊がカレー風味のソテーにされていた。こちらはそれから胡瓜・人参・大根・玉ねぎを、器具を使って洗い桶のなかにスライスしていき、ほか茹で上がったインゲン豆を笊に取ったりしたが、そのくらいの僅かな仕事で支度は終了だった。うどんを茹でるのは母親に任せることにして、下階に下りてくると、ものんくる『RELOADING CITY』を流して日記を書きはじめたのが六時一七分だった。この日の記事を先に綴って、現在六時四〇分過ぎを迎えている。
その後、一時間ほど前日の記事を綴って完成させると、ブログに投稿してから食事を取りに行った。既に時刻は八時に達していたと思う。食事のメニューは米に煮込みうどん、チキンのソテーを何切れかと、先ほど拵えた生サラダである。テレビはどうでも良い番組だったのではないだろうか、記憶に残っていない。カレー風味の鶏肉にさらに醤油を垂らして塩気を加え、それをおかずに白米を食べた。食事を終えると抗鬱剤を胃に流し込み、食器を洗って入浴に行った。雨で増水した沢の拡散性の響きが窓の外から侵入してくるなかで湯に浸かり、洗い場に上がるとシャンプーを頭につけて、指の腹を使ってごしごしと頭皮を擦り洗った。それから洗剤を流して、身体の方にもシャワーを向けて汗を流すと風呂を上がり、パンツ一丁の格好で自室に帰った。そうして九時からふたたび書見、柴崎聰編『石原吉郎セレクション』は読み終え、新しく中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』を読み出した。身体的・言語的暴力やネグレクトなどの「虐待」を受ける状況下にある子供は、体調不良や疲労、空腹や渇き、便意といった生理的欲求を周りの大人に訴え出ることが出来ない。下手なことを訴えて親を煩わせたりその機嫌を損ねたりスレば、怒鳴られたり殴られたりという憂き目に合うからである。それらの不調や欲求を口には出さず我慢するような環境がずっと続くと、自分の具合の悪さを言葉で説明することが困難になり、最終的にはそうした身体感覚を持つことすらなくなってしまうと言う。そのことから理解されるのは、痛みや疲れ、生理的欲求のような、一見単純で原始的・動物的と思える感覚すらも、ある種の「学習」の結果として身につくということだ、とあり、これにはなるほどなあと思わされた。
一一時半直前まで文を読み、その後零時前から書抜きを始めた。東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』及び細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』である。一日二箇所ずつくらい書抜きが出来れば良いと思っている。それから、Mさんのブログを二日分読み、上階に行って夜食のカップヌードルを用意して、オレンジジュースの小さな缶と一緒に自室に持って帰ってきた。コンピューター前でものを飲み食いしたあと、一時半からふたたびベッドに移って読書を始めた。三時半前まで中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』を読んで就寝。
・作文
18:17 - 19:46 = 1時間29分
・読書
11:06 - 14:23 = (1時間引いて)2時間17分
14:48 - 17:00 = (1時間引いて)1時間12分
21:00 - 23:27 = 2時間27分
23:54 - 24:32 = 38分
24:35 - 24:51 = 16分
25:34 - 27:25 = 1時間51分
計: 8時間41分
- 柴崎聰編『石原吉郎セレクション』: 118 - 252(読了)
- 中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』: 4 - 60
- 東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、書抜き
- 細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、書抜き
- 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-06-27「この路地を折れた先に神がいると信じて折れた先のコンビニ」; 2019-06-28「様子見を兼ねた手先がやってくる井戸の底から沼の淵から」
・睡眠
4:20 - 10:15 = 5時間55分
・音楽