2019/7/6, Sat.

 (……)みずからの問いを練り上げていくなかで、丸山はなにを考えようとしたのでしょうか。文中にある「現実の事態に対する政治的決断[﹅5]」という言葉に注目してみましょう。カール・シュミットをよく読んでいた丸山ですから、例外状態における主権者の決断という考えがここには響いていることでしょう。とはいえ、危機を克服するためになんでもかんでも決断すればよいというわけではありません。やみくもでヒロイックな決断が当時の日本をどのようなひどい結末に導いていくのかを、若き丸山は敏感に感じ取っていたはずです。必要なことは、決断を下すべき「現実の事態」を正しく理解することです。では、どうすれば「現実の事態」を正しく理解することができるのでしょうか。丸山はそれを「新たな主体化を経験する」ことに求めました。すなわち、自然的秩序観に閉じこもって、物事がおのずと展開していくとして現実を見るのではなく、「ペルゾーン」という人格が主体的に現実に介入し、その「作為」によって現実を変更することがなければ、「現実の事態」は見えてこないと考えたのです。そして、このような「新たな主体化」という現実への関与こそ、丸山が「政治的」という言葉で考えようとしたことなのです。
 (小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、197~198; 中島隆博「「自然」ではなく「作為」を――丸山眞男「近世日本政治思想史における「自然」と「作為」」)

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 だが、この作品は、小説としては、なかなか奇妙な、特異なものです。舞台前景の主要登場人物は2人、「先生」と呼ばれる年配の人と若い「私」で、ストーリー(物語)というなら、「私」が「先生」と出会っておつきあいをし、その果てに自死へと向かおうとする「先生」から「私」に遺書が届く、というだけです。すなわち、作品の要は、2人の登場人物の行動の交差にあるのではなく、一方から他方へ「こころ」の「秘密」、あるいは「こころという秘密[﹅8]」が手紙として伝えられるということに尽きます。
 しかし、言うまでもなく、それはまた、「小説」の定義でもあります。登場人物の行動を語るだけなら、物語です。しかし、近代になって生まれた「小説」は、それだけではなく、どのような方法によるにしても、人物の内面の「こころ」つまり心理を描くのでなければならない。もちろん、人間はいつの時代にも「こころ」をもつのであり、物語にもさまざまな「こころ」の描写が出てきますが、しかし世界の具体性と人間の心理の具体性が、等しく微妙なバランスにおいて表象されるのは、まさに「近代」の衝動だと言っていいはずです。
 (253~254; 小林康夫「近代の衝撃を受け止めた〈こころ〉――夏目漱石『こころ』」)



 
 昨晩、何時から眠っていたのかはっきりしないが、この午前の起床は一一時二〇分といつもながらの寝坊になった。上階に行くと母親はどこに出かけたのか姿が見えない。便所に行き放尿してから、洗面所に入って櫛付きのドライヤーで伸びた髪を梳かし、寝癖を抑えた。卵を焼いて食おうと思っていたのだが冷蔵庫を覗くと卵は一つもない。代わりに前日に調理した――と言っても電子レンジで数分加熱しただけだが――鮭があったのでそれを取り出し、電子レンジに入れて一分弱温め、一方で白米をよそって卓に就いた。新聞の一面を見ると、参院選に関する世論調査で政党別支持率を訊いたところ、自民党がやはり一位で三五パーセントかそこら、それに対して野党第一党立憲民主党への支持は一〇パーセント程度でしかないと言う。こちらは政治的な知見は全然ないけれど、一応どちらかと言えばリベラル寄りな志向を持っているので立憲民主党に投票しようかと思っているけれど、勝利は覚束ないようだ。大して美味くもない鮭をおかずに米を食い、抗鬱剤を飲んで食器を洗うと風呂場に行った。湯は結構残っていたが洗うことにして栓を抜き、水が流れ出していくあいだは浴槽の外に留まって、その上に身体を乗り出し手摺を掴みながらブラシを操った。湯がすべてなくなると浴槽のなかに入って、背を大きく丸めてごしごしと壁を擦り、全面磨き終わると外に出て、シャワーで洗剤を流して仕事は完了である。蓋と栓を元に戻しておくとゴム靴を脱いで浴室を出て、居間から階段を下りて自室に戻った。コンピューターを点け、中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』を読みながら各ソフトの準備が整うのを待ち、Twitterを覗いたあとにEvernoteで前日の記録を付け、この日の記事も作成した。今日も休日で余裕があるので日記よりも先に本を読むことにして、FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなかでベッドに乗り、身体に薄布団を掛けたなか、中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』を読んでいく。最後に残っていた一篇を読み終え読了すると、次には谷川俊太郎『詩を書くということ 日常と宇宙と』を読みはじめた。その頃には音楽はWynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』に移行させていたと思う。ところどころメモを取りながら読み進めていくのだが、そのメモを記す手帳は、今まで使っていたMDノートが尽きたため、先日新しく購入しておいたオレンジ色のカバーのEDiTに移っていた。無意味であるものを詩に書くことで意味以前の世界の触感、存在そのもののリアリティみたいなものを感じさせる、というのが詩という表現形式の一つの効能であると谷川俊太郎は言っているのだが、おそらくそれは詩に限らず、すべての芸術に共通する役割なのだろうと思う。こちらの言葉に換言すれば、それは、人間的な意味の領域を超えたこの世界の途方もない豊穣さをいくらかなりと垣間見せるということだ。我々の存在を常に取り巻いているけれど日常性に埋没して見えなくなっているこの世の凄まじさのようなものを僅かばかり、断片的にであってもどうにかして写し取ること。それを垣間見せることによって感動を与え、身体的・精神的な感覚や、引いては存在そのものとしての人間の変容を誘発すること。それが芸術という営みに与えられた使命の少なくとも一つではないか。
 一時四四分まで読書を進め、谷川俊太郎『詩を書くということ』を一気に読了してしまうと、手帳に読書時間を記録して立ち上がった。廊下に出て洗面所に行き、歯磨き粉をちょっと付着させた歯ブラシを口に突っ込んでしゃこしゃこと動かしながら階段を上ると、母親はテーブルに就いて食事を取ったあとだった。どこに行っていたのかともごもごとした口調で尋ねると、どこにも行っていない、寝ていたのだという返答があった。肩が痛くて休んでいたと言う。それで、ファン・ヒーターを元祖父母の部屋に運んでくれと示すので、歯ブラシを口に突っ込んだまま、四角い機械の両側を持って仏間を通ってその奥の部屋に運び入れた。それから階段を下って洗面所の鏡の前でしばらく歯ブラシを持った手を動かし、口を濯ぐと自室に戻って、日記を記しはじめた。Wynton Marsalisの音楽が終えると、静かになった部屋の内に、外の空間の遠く外縁部から、時鳥の鋭角的な鳴き声が伝わってきた。前日の記事を手短に仕上げ、この日の記事をここまで記すと、時刻は二時四五分に至っている。
 腹が減っていたので、何かものを食べるために上階に上がった。母親に何かあるのかと尋ねると、前日にも食ったものだが、トマトソースを利用したピラフだかドリアだか、そのような料理が半分残っていると言うので、それを冷蔵庫から取り出して電子レンジに収め、二分三〇分の加熱を設定した。加熱を待っているあいだ、また加熱が終わってドリアを食べているあいだは新聞をひらいて、橋本五郎のコラムを読んでいたと思うのだが、集中はしていなかったようで、その内容はちっとも頭に残っていない。江藤淳の生涯を描いた大部の評伝について触れられていたこと、吉本隆明の顔写真が載っていたことは覚えているが、そのくらいである。買い物に行こうと母親は言った。こちらは面倒臭く、自宅に残って本を読んでいたいような気分だったけれど、しかしたまには買い物も手伝うものだろうというわけで、下階に戻るとハーフ・パンツを脱いで服を着替えた。上は久しぶりに着るものだが、エディ・バウアーのチェック柄の半袖のシャツ――去年の誕生日だったかにT子さんから頂いたもの――、そうして下は真っ黒なパンツである。そうしてクラッチバッグに財布や携帯や手帳やFISHMANS『ORANGE』のCDを入れて上がると、仏間に入って短めの、黒っぽく地味な色の靴下を履いた。それから母親が支度をするのをちょっと待ってから玄関を抜けた。扉の鍵を閉めて家の前に下りてくと、向かいの家には車が停まっており、O.Sさんが来ているようだ。母親が出した車の助手席に乗り、シートベルトを締めるとFISHMANS『ORANGE』のディスクをCDプレイヤーに挿入した。
 "気分"を時折り口ずさんでいると母親が、これは何、と訊いてくる。FISHMANSだと答えると、もう一つ、気怠いやつがあるでしょと言う。ceroのことかと思ったがそうではないと言って、やる気ないように歌っているの、と言うので、だからそれはFISHMANSのことだろうと受けた。民家の前で草取りをしている老人の姿を見て、草取ってるよ、と母親に告げると、本当だね、という返答があった。元市民会館前の三叉路で右折し、坂を下りていくと、千ヶ瀬に入る角のところにある寺の駐車場の敷地でも、老人たちが集まって柔らかい土を掘り返しながら草を取っていた。高齢者事業団かな、と母親は言った。さらに坂を下っていき、途中にあるコンビニの駐車場に入った。母親が何か、通販で買った衣服の支払いをするためである。車中に残っているあいだ、こちらは手帳を取り出して眺めたのだが、その前、車を離れてコンビニの入口へ向かっていく母親の、ガウチョパンツを履いた後ろ姿に視線を送りながら、あの母親もいつか死ぬ時が来るんだなあと思った。だからと言って、特に悲しみや虚しさや感傷や感謝の念を覚えたというわけではないが、来たるべきことがいつかやって来るという事実そのものを冷静に思ったのだった。手帳を見やっているうちに、母親はまもなく戻ってきた。そうしてふたたび発車して、買い物は川向こう、友田のスーパー「オザム」に行くことにして、一路東へ向かい、河辺方面へと続く坂道の前で右に折れ、橋を渡った。川向こうの道路をさらに東へ向かい、駐車場の広いコンビニの前を過ぎて、「オザム」の駐車場に入った。降りてスーパーの入口に入り、カートを引き出して籠を乗せた。母親は手近にあったティッシュやトイレット・ペーパー、キッチン・ペーパーを見分して、カートの下段に乗せていった。それから入店し、店内を順々に回った。こちらが自分の食べたいものとして籠に入れたのは、ポテトチップスの大袋二つくらいである。そのほかは大方、母親のあとについて回ったが、あっという間に籠はいっぱいになり、母親が持っていたもう一つの籠にも様々な野菜類が入れられた。そうして会計へ。母親が一万円札で金を支払っているあいだ、こちらは品物の収められた籠を整理台に運んでビニール袋に物々を詰めていたので、代金がいくらだったのか見ていないけれど、多分六〇〇〇円くらいには達していたのではないか。支払いを終えた母親も整理台に合流し、荷物をまとめると出口に向かった。その途中、母親が一人の老婆に行き当たって何とか話していたのだが、どうもカートが店の入口にないので譲ってほしいと言われているらしかった。それで母親は、今すぐに行ってくるからね、と言って急いで場を離れ、そのあとに続くこちらも老婆と顔を見合わせて無言でうんうん頷きながら通り過ぎ、店外に出て車に戻った。荷物を後部座席に収めたあと、母親は急いでカートを老人に届けに行った。そうして戻ってくると乗り込んで出発、母親が髪染めを買わねばならないと言い、こちらも新しいシャンプーがほしかったので、隣のドラッグストア「welpark」に寄ることになった。道路に出るとすぐ傍の駐車場にふたたび入って車を停め、降車して入店し、籠を持った。入口付近の棚からシャンプーを見繕い、「デ・オウ」というやつを選んだ。シャンプーに特にこだわりはないが、並んでいるなかで一番安そうなのがこれだったのだ――あまりよく見分しなかったので、もしかしたらほかにも安い品があったかもしれないが。それから母親と共に店内を回って行った。豆腐が一パック三八円で売っているのを見て、余りにも安すぎるものだから、これパチもんじゃねえの、などと言いながらも二パック籠に収めた。そのほか、アイスやインスタントの味噌汁なども籠に入れて会計に行き、母親に支払ってもらい、こちらは店員が品物を収めてくれたビニール袋を二つ、受け取った。中年の男性店員は作業中、ずっと下を俯いていた。人と目を合わせるのが苦手な性分なのだろうか。礼を言って退店し、車に戻ると買ったアイス、「ジャイアント・コーン」を袋のなかから取り出し、助手席に乗って走っているあいだに食った。チョコレート味のアイスは早くも溶け出していて、包装紙に溶けたアイスが粘りつくのに苦慮して手を少々汚したが、食べ終わると薄いビニール袋のなかにゴミとなった包装紙を入れて始末した。
 そうして帰路に就いたのだが、道中、特段に印象深いことはなかったと思う。橋を渡って川のこちら側に戻り、元市民会館前の坂を駆け上って西へ向かい、家に着くと荷物を玄関に運び込んだ。袋は全部で五つほどあった。運び込んだ荷物を今度は一つずつ取り上げて、冷蔵庫や戸棚に品物を収めていき、それが終わると自室に帰った。時刻は五時直前だった。Radiohead『Kid A』が流れるなか、読書を始めた。読み出したのは、谷川俊太郎/尾崎真理子『詩人なんて呼ばれて』である。三六頁には、谷川俊太郎の父、哲学者徹三のエッセイを引きながら、西田幾多郎の言う「純粋経験」について、「「私」が消えている状態」、「自分が無になる感覚」と簡潔な説明が施されている。一般的に言ってそれは、いわゆる主客合一の瞬間と言えるのではないかと思うが、こうした体験としてこちらが思い起こすのは、二〇一五年一一月一五日に我が身に訪れた恍惚とした心境である。

 駅に向かってまたゆったりと歩いているあいだ、後方から陽が射して、先導するかのように自身の影が長く路上に伸び、家先に取りつけられた鏡が光り、明るさを混ぜこまれた丘の木々は薄緑色になった。風邪を引いて微熱があるときのように身体がふわふわとして、時間の流れが緩やかになったかのようだった。駅のホームに立ったころには太陽はますます露出して、濡れたホームのアスファルトには空間に穴をあけるかのような白さが撒き散らされ、その氷めいた輝きは目を眩ませた。Radiohead『The Bends』の厚い音を聞きながら呆けたようにしていた。するといつの間にか、空間の隅々まで明るい琥珀色が注ぎこまれて、あたりは一挙に時間が逆流して過去になったかのように色を変えていた。梅の木にはスズメが何匹も集まって枝を震えさせ、そのせいで秋色の葉っぱが一枚また一枚と雫のように落ちた。視界を泡のように漂う虫、木々や草むらの色の震え、川の流れのように刻一刻と変わる光の濃淡、どこを見つめるでもなく、視覚そのものを撫でていくこの世界の最小の動きを取りこんでいると、あっという間に時間が過ぎた。自分がいなくなったかのような瞬間がそのなかにあった。しかし同時に、自分のなかに深く入りこんでいるような感じもした。没我とは、自己を没することではなく、自己に没することで自己を忘れることではないのか? 一年のうちに数回は、そんな風に風景が非現実的な色合いに染め抜かれる時間が訪れるものだ。世界の呼吸が身近に感じられ、体内に流しこまれるその吐息が淡雪めいて心の平原にゆっくりと落ち、わずかな染みを残しては溶けていくような、そんな時間だ。

 自己と世界が完全に一体化したような充足感に包まれたこのような時間を、「愛」の瞬間と呼んでも良いのだろう。実際、三二頁には『善の研究』から、「我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである」という西田の言葉が引かれている。こうした境地をまた、「自由」の瞬間と名指してみても良いのかもしれない。自己という存在の拘束からの束の間の解放。そこでこちらに思い起こされるのは、『日本を解き放つ』で述べられていた小林康夫の言葉である。以下に引こう。

 小林 そのときはじめて歌い舞えるんですよ。そこでこそ、人間は「解き放たれる」。だって人間はこの時間と空間のなかに制約されて存在している。人間はそれぞれ遺伝子的に、あるいは歴史的に、あるいは社会的に決定されてしまっている。存在の拘束とは、わたしがいま、人類のこの歴史的時点において、日本という社会のなかに拘束され、68歳、このように存在しているという、けっして超えられない制約ですよね。この根源的存在は、どんな富を得ようが、名誉を得ようが、愛されようが、どうやっても変えられないじゃないですか。わたしは「自由」という言葉を使いましたけれど、その「自由」とは、もう少しお金があればこれこれができるというような「自由」ではなくて、わたしというこの最大の乗り越え不可能な制約を解除するということ。不可能な自由。そう、この世に制約そのものとして存在しているこの存在を、その存在条件をまったく変えることなくそれが無化される瞬間があるということなんです。それがここで言う「歌うことであり舞うこと」であって、そのときにはすでに「天地」以外の秩序はない。もはや人間的な秩序はない。その瞬間だけですよ。もちろん、別になにも変わらないんですよ、なにひとつ変わらない。ただ無意味に一瞬わたしの「からだ」が動いたというだけなんだけど。意味もなく、なにもない。なにもないんだけれど、一瞬風が吹いたみたいに、そこに自由な運動があるわけです。
 (小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、193~194)

 上に引いた時の感覚は、西田の記述とぴったり相応しているように思われるが、惜しむらくはこのような官能の瞬間が今のこの身には一向に訪れなくなってしまったということだ。それは、瞑想において変性意識に入れなくなったという事実と軌を一にしているように思われる。瞑想によっても上記の心境に近い官能性の快さを得ることは時に不可能ではなかったのだが、昨年に病気の渦中に入り込んで以来、そうした意識の変容はまったく起こらなくなってしまった。おそらくは官能や恍惚を司る脳内物質の組成に何らかの変化があったものだろうと推測している。上のような心的感覚をさらに追究していけば、もっと豊かな世界を見ることが出来、もっと面白い文章が書けたかもしれないと思うと、返す返すも残念なことである。
 六時を越えると食事の支度をするために上階に行った。母親はまだ準備を始めておらず、ソファに就いてタブレットを弄るか何かしていた。ピーマンを洗って切ってくれと言うので、ピーマンが八個入った袋から五個を取り出し、流水に晒したあと、一個ずつ半分に切り、種を取り除いていった。それをさらに細切りに刻んだあと、フライパンに胡麻油を引いて炒めはじめた。加熱する横から母親が、粉の出汁や鰹節や醤油を加えていく。それでピーマンの炒め物が一品完成すると、次に肉巻きを作ろうということで母親は人参を櫛形に切り出した。こちらはその横で何もせずにぼうっと突っ立ち、鍋の湯が沸くと切られた人参とインゲン豆をそれぞれの鍋で茹でた。それらを茹で終わって笊に取り上げると、こちらは台所を離れて居間に行き、アイロン掛けを始めた。ハンカチやエプロンの皺を伸ばすと、それで仕事は終いとして階段を下りて自室に帰り、ふたたび谷川俊太郎/尾崎真理子『詩人なんて呼ばれて』を読みはじめた。三〇分ほど読んで七時を越えると、食事を取るために上階に上がった。階段を上がっていくとその上に寝間着姿の父親が見えたので、おかえりと声を掛け、台所に入って膳を用意しはじめた。レトルトのカレーを食うつもりでいたが、肉巻きもあったので、それをおかずにしてカレー以外にも米を食おうということで、肉巻きとピーマンの炒め物を一皿に盛り、白米を椀に半分ほどよそった。そのほか、紫玉ねぎや大根や水菜を細かく刻んだスライス・サラダと、ジャガイモの味噌汁をよそって卓に行き、レトルトカレーが鍋のなかで温まるまでのあいだ、椅子に座って食べはじめた。テレビはニュースを映していたと思うが、集中して目を向けたわけではないので、内容はほとんど覚えていない。ただ、参院選公示を受けて各党の党首が演説をする様子が映し出されたが、野党の党首の演説に比べて、安倍首相のそれが一番取り上げられた時間が長く、内容としてもわりあい具体的な発言の部分をピックアップしているような気がした。野党党首の発言は、曖昧な精神論や抽象的なスローガンの部分が多く切り取られているような印象を受けたのだ。
 ものをある程度食べると台所に移り、大皿によそった米の上にレトルトのカレーを掛けた。そうして卓に戻ってそれも食べ、サラダには山葵のドレッシングを掛けて貪り、すべて平らげると抗鬱剤を服用して食器を洗った。風呂は父親が入っている最中だったので、一旦自室に戻ることにした。それで玄関の収納棚から買ってきたポテトチップスの大袋を早速取り出し、母親用に卓の上に敷いたティッシュの上にいくらか取り分けておき、残りの袋を持って下階に下った。そうしてコンピューター前でチップスをぱりぱりと食いながら、MさんのブログとSさんのブログを読んだ。Sさんの真骨頂というのは、「歩く人」としての彼の観察眼、散策をしているあいだに目にした風景の描写などにあるのではないかという気がした。「歩く人」という語からこちらに思い出されるのは、やはりローベルト・ヴァルザーと、それに後藤明生の二者だが、だからと言って彼らの文章がSさんのそれに似ていると言いたいわけではない。
 三〇分ほどそれぞれのブログを読んで八時を越えると、日記を記しはじめた。八時半を越えたところで一旦中断し、入浴に向かった。階段を上がっていくと、早くも酒に酔いだしたのか、父親がテレビに向かって何とかかんとか呟いているのが聞こえた。居間に上がると母親はそれに反応を示さず、テーブルの椅子に就いてタブレットを持ち、その画面に向けて顔を俯かせていたが、あるいはあれは眠くなっていたのかもしれない。こちらは便所に行って排便したのち、下着を持って洗面所に行き、浴室に足を踏み入れた。湯のなかに浸かって目を閉じると、雨で増水した沢の、絶え間なく続く拡散性の響きが窓いっぱいに広がった。そのなかに、雨が何か物に滴る打音も混じっていたので、今また降雨の最中でもあるらしかった。両腕を浴槽の縁に乗せて目を瞑り、じっと静止しているとあっという間に時間が経った。一〇分か一五分くらいはその姿勢のままでいたのではないかと思う。それから洗い場に上がって頭と身体を洗うと浴室を出た。身体を拭き、髪を乾かして出てくると、母親が夕張メロンソーダを飲むかと訊くので、頂くことにして、母親のコップにいくらか足したあと、ペットボトルを持って下階に下りた。そうしてSkypeを見ると、通話が始まっていたのでパンツ一丁の格好のまま、映像が映らないように注意しながら参加した。すると、複数人で会話していると思っていたのだが、実際にはYさんしかいなかった。誰か来るのを待っていたのだと言う。
 それから一時間弱、会話を交わしたのだが、例によって連想によって展開する雑多な内容で、詳しく書くのは面倒臭いので控えよう。Yさんが今、コレット『牝猫』を読んでいるところだということは記しておく。そのほか、彼の紹介で、野中ユリという美術家の名を知ったということもあった。澁澤龍彦の本の装画などを手掛けていた人らしい。一〇時を過ぎると、そろそろ僕は日記を書きますよというわけで通話を離脱し、インターネットを閲覧しながらポテトチップスを食べてしまったあと、一〇時半直前から日記を書きはじめた。BGMとして流したのはHank Mobley『Soul Station』である。開始からおよそ一時間掛けて、この現在地点に追いついた。
 それから書抜きを行った。東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』と、細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』の二つである。それぞれ二箇所及び三箇所を速やかに書き写した。後者から書き抜いた一箇所ではエスペラント語の活動について略述されているが、「元来エスペラントの運動を満たしていたものはインターナショナリズムの精神にもとづく国際平和主義であって、日本では大杉栄や長谷川テルらがその体現者だった」と言う。左翼運動と親和性を持っていたということで、それは「日本プロレタリア・エスペランチスト同盟」という団体名にも表されている。書抜きを終えて零時を過ぎると、ベッドに移って読書に入った。谷川俊太郎/尾崎真理子『詩人なんて呼ばれて』である。七八頁では谷川は、「言語以前、意味以前の、一種の実体」、すなわち「存在に触れるような言葉」で詩を書きたかったと述懐しており、その主題はまた、「人間がまったく先入観とか知識とか、もしかしたら言語もなしに一人で地球上に立った時の感情」だとも述べている。それが「二十億光年の孤独」というわけだろうか。八七頁では彼は、ジョン・キーツを引き合いに出して「ネガティブ・ケイパビリティ」という詩人の特性について語っている。詩人はどんな対象のなかにも浸透していき、それと同化して詩に書き表すことが出来る。この世の事物はすべてそれぞれの個性を持っており、それぞれに詩的であるのだけれど、詩人という種族だけはそのような個性を何も持たない、従って彼らは最も非詩的な存在であり、個性的な自我を持たないが故に詩を書くことが出来るのだと、そういう考え方らしかった。
 二時過ぎまで読んだところで書見を切りとして眠ることにした。その前に便所に行って尿を排出し、洗面所で水を飲んで戻ってくると、明かりを落として床に横たわった。事前の予想通り、眠りは遠かった。ことによれば一時間ほどでまた起き上がってしまおうと考えていたのだが、じきに一応眠りのなかに入ったらしく、気がつくと四時台を迎えていたような覚えが残っている。それからうまく眠れたようだ。


・作文
 14:09 - 14:45 = 36分
 20:12 - 20:34 = 22分
 22:27 - 23:26 = 59分
 計: 1時間57分

・読書
 12:08 - 13:44 = 1時間36分
 16:58 - 18:04 = 1時間6分
 18:41 - 19:09 = 28分
 19:35 - 20:05 = 30分
 23:30 - 23:55 = 25分
 24:12 - 26:08 = 1時間56分
 計: 6時間1分

・睡眠
 ? - 11:20 = ?

・音楽