この「反省」という「こころ」の構造、これは、人間であれば、すなわち(動物とは異なって)(自然)言語によって構造化された「こころ」という意味では、人間に普遍的な構造であるとも言えるのですが、しかし同時に、その構造を極限化し、他のあらゆる「こころ」がそこから派生する根源的な構造として打ち立てたのが、「西欧」の「近代」であったとも言えるかもしれません。つまり、(「西欧」という)あるローカルな文化において、いくつもある構造のなかからひとつが選び出され、それが特権化され、根底化され、普遍化されたということ。これは、「西欧近代」がどのように誕生したのか、という重大な問題になるので、ここでは詳しく検討することはできないのですが、わたしの考えでは、この「誕生」を可能にしたひとつの機構が「告白」。つまりキリスト教の実践のなかで保持されてきた自己の罪を「神」に、つまりは絶対的な「他者」に告白し、懺悔するという言語行為ではなかったか、と思うのです。もし「西欧」文化のマクロ・パースペクティヴを考えるとするなら、その形成の軸のひとつは「告白」の文化にあったかもしれない。いくつか参照点を挙げておくだけにとどめますが、このような視点から、たちどころにアウグスティヌスの『告白録』、ジャン=ジャック・ルソーの『告白』をあげることができますし、さらには、デカルトの『方法叙説』もまたある種の「告白」のエクリチュールと見なすこともできるかもしれません。その延長線上に、カントやニーチェの哲学、さらにはフロイトの精神分析(それは、ある意味では、無意識という「告白が不可能な記憶」の「告白」と考えることができるでしょう)をそこに置くこともできるかもしれません。「告白」は「西欧」文化のもっとも深い基層のひとつなのです。
(小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、268~269; 小林康夫「近代の衝撃を受け止めた〈こころ〉――夏目漱石『こころ』」)*
さて、その上で、もう一度、西欧の反省的自己意識の原点である「告白」に戻って考えてみましょう。当然のことながら、「告白」を成立させている最大のモーメントは、「神」です。全知である「神」、その絶対的な「一」なる他者に対して私がみずからを反省的に「告白」するわけです。ここにおいては、反省的な自己と絶対的な「一」なる他者(大文字の「他者」とでも言いましょうか?)とが、不可能な[﹅4](というのは「絶対的なもの」との「関係」などそれ自体矛盾しているからなのですが「対」になっているわけです。西欧文化を極限にまで追いつめてみると、かならずこの「不可能な対関係」に出会います。(……)
(270; 小林康夫「近代の衝撃を受け止めた〈こころ〉――夏目漱石『こころ』」)
七時台から覚醒しはじめて、七時四〇分に起床することが出来た。用事があれば――今日はAくんとNさんとの会合である――アラームを仕掛けなくとも自ずと起きられるものだ。上階に行き、母親に挨拶して、洗面所に入って櫛付きのドライヤーで髪を梳かすとともに顔を洗った。食事は前日の肉巻きの残りに稲荷寿司を二つ、それにキャベツの生サラダの残りにジャガイモの味噌汁である。稲荷寿司を作ったのは、今日、Y.Tさんが来るから――うちで既に使っていない盆提灯を取りに来るということだった――それを振舞おうということだったのだが、一〇〇円ショップの安い品なので大した味ではなく、そのことを告げると母親は出さないほうが良いかなと懐疑的になっていた。ものを食って抗鬱剤を飲み、食器を洗う頃にはテレビでは『小さな旅』が始まっていた。幼馴染だという高校生の男女が出てきて、生まれてからずっと一緒だから、一緒にいるのが普通みたいな感じになっちゃった、と述べているのを見て、素敵な関係ではないかと思った。思春期に異性に対して抱く気恥ずかしさの情にも負けずに一緒にいる男女の幼馴染というのは珍しいのではないだろうか。
父親は雨のなか、自治会の仕事で坂道の掃き掃除をするとのことだった。それからポテトチップス(コンソメパンチ味)を持ってこちらは下階に下り、自室に入ってコンピューターを点けると、ポテトチップスを食いながらTwitterを閲覧したりした。ある程度食べると洗濯挟みで袋の口を閉じ、上階に持っていっておき、上に来たついでに風呂を洗った。そうしてふたたび己が塒に帰ってくると、FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだして八時半過ぎから日記を書きはじめた。三〇分ほどで前日の記事を仕舞えるとともにこの日の日記も記した。
ブログに前日の記事を投稿したあと、九時半過ぎから書見に入った。谷川俊太郎/尾崎真理子『詩人なんて呼ばれて』である。Wynton Marsalis Septet『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』の流れるなか、一時間一五分のあいだ読み進めた。この本の歴史記述の部分、また谷川俊太郎のインタビューのなかには現代詩の錚々たる面々の名前が登場するが、それらを読んでいると詩の世界も本当に深く広いものだなあという感慨に打たれるものだ。音楽が終わるとともに書見を中断すると、上階から話し声が聞こえてきたので、どうやらもうTさんは来ているらしいなと判断した。それでハーフ・パンツを脱ぎ、服を街着に着替えた。上はフレンチ・リネンの真っ青なシャツに、下はオレンジっぽい煉瓦色の九分丈のズボンである。その格好で部屋を出て、階段を上がっていくと、テーブルの向こう側に座っていたTさんがどうも、このあいだは有難うございましたと畏まって丁重な挨拶をしてきたので、こちらも合わせて頭を下げ、先日はお世話になりました、有難うございましたと言った。それから便所に行って用を足し、一旦下階に戻って荷物を支度した。この一か月強のあいだに読んだ本を今日もAくんたちに紹介しようというわけで集めたのだが、到底リュックサックには入り切らない量になってしまったので、UNITED ARROWSの深緑の不織布を使うことにして、そのなかに本を二列にして収めた。リュックサックのなかには今日の課題書である『石原吉郎詩集』と亀井俊介編『対訳 ディキンソン詩集 ――アメリカ詩人選(3)――』に、これも紹介しようと思って『岩田宏詩集』と、今読んでいる『詩人なんて呼ばれて』を入れた。そうして袋とリュックサックを持って上階に上がると、両親とTさんは仏間に移って、父親が盆提灯を組み立てていた。ハンカチを取って尻のポケットに入れてからそちらに合流し、盆提灯が青い光を帯びながら回るのを皆で眺めた。Tさんは何故か随分と畏まって、仏間にいるあいだずっと正座で通していたので、足を崩してくださいよと言いたくなったくらいだ。年齢を訊くと五四歳だと言う。何となくもっと若いと思っていたのだが、父親と七歳くらいしか変わらないのだ。盆提灯はしばらく稼働させられたあと、父親の手によって解体され、段ボール箱のなかに戻された。それをさらに、運びにくかろうと母親が持ってきた紐で縛ってそれで盆提灯の受け渡し手続きは完了した。Tさんに、今日はお子さんはどうされているんですかと訊くと、留守番、という返事があった。さらに、今の子供ってのは何をして遊ぶんですかねと尋ねると、ゲームをやっているよという言が返った。「スイッチ」というのを夢中になってやっていると言う。これはおそらく、「NINTENDO SWITCH」のことだろう。こちらも名前くらいは聞いたことがある。そのほかタブレットで調べ物をしたりして、一人できゃっきゃきゃっきゃと笑っているとのことだった。
父親とTさんはテーブルに戻り、母親は台所に立って飲み物や食べ物を用意しはじめた。こちらは電車に丁度良い時間が来るまでやることもないので、最初はソファに座っていたのだが、そのうちに立って母親の用意したモヤシの和え物や鮪の佃煮のようなものをテーブルに運んだ。そうしているうちに時間が来たのでリュックサックを背負って本の入った袋を持ち、それじゃあ行ってくると両親に告げ、Tさんには、ゆっくりしていってください、失礼しますと述べて玄関に向かった。扉を開けると、空は白くても明るめだが、雨はまだ降っていた。それで黒傘をひらき、道に出て最寄り駅に向かって西方向に歩いていった。坂道の入口には泥と雨に塗れた落葉がたくさん散らばって無残な姿を晒していた。息を少々切らしながら坂道を上っていき、横断歩道を渡って階段通路に入ると傘を閉じた。ホームに渡っている途中、後ろに誰かの気配があるのを感じ、視界の端に僅かに見えたその姿がK.Mさんではないかと思われたので、振り向いて相手が角を曲がってくるのを待つと、果たしてその通りだったので、どうも、こんにちはと挨拶した。相手は、確かに太ったなあと口にした。後ろ姿でもわかると言うので、後ろ姿でわかりますかと受けた。Mさんは血液検査の数値が良くなくて、毎日走っているのだと言う。痛風の薬をずっと、何十年か飲んでいたが、今はもう飲まなくなっているというようなことも言っていた。そのような雑談を交わしているうちに電車がやって来たので乗り込み、Mさんと並びながらまたしばらく話を交わし、青梅駅に着いて降りるとMさんはすぐ正面の車両に乗り換えたので、電車の外から、じゃあ僕は前の方に行くんでと指を指して方向を示し、どうも、失礼しますと言って別れた。そうしてホームの端を歩いていき、二号車の三人掛けに入った。そうしていつも通り、手帳を取り出して読む。
道中、目立った出来事はなかった。電車のなかには赤ん坊の発する声が響いていた。そのほか、こちらの近くに乗ってきた母親と子二人のうち、小さい方の男児が、座りたい、座りたいとやたらに口にしていた。立川に着くちょっと前から手帳を仕舞って目を閉じ休み、着いてからも人々が階段の周りから捌けていくのを待つあいだ目を閉じていた。それで階段口に人の姿がなくなったのを見計らって車両を降り、階段を上って改札を抜けた。雨はまだ降っているらしく、通路の先にひらいた広場には傘を差している人々の姿が見られた。広場に出ると屋根を辿って歩いていき、屋根のなくなる下りエスカレーターの直前に来て傘をひらいた。そうしてエスカレーターに乗って下の道に下り、群衆のなかゆるゆると歩いていって交差点に至った。雨は傾きながら直線的に降りつけていた。歩いている時よりも立ち止まっている時の方がむしろ、斜めに降る雨粒が傘の下に入り込んでくるようだった。後ろに立っているのは若者たちの男女連れで、昼食に何を食べるか相談しているらしく、男の一人が妙に大きな声で、俺、何でもいいよ、何でもいいよと繰り返していた。信号が変わって横断歩道を北に向けて渡ると、ディスクユニオンの在所のビルの入口のところで立ち止まり、傘を畳んでばさばさと水気を弾き、踵から脱げていた右側のカバー・ソックスを直した。それで階段を上ってディスクユニオンに入店すると、真っ先に邦楽のなかのFISHMANSの棚に向かって、『Corduroy's Mood』を買うことにした。四曲入りのミニ・アルバムのくせに一〇八〇円と高いが、このなかに入っている"むらさきの空から"を先日Twitterでお勧めされたのだ。『Corduroy's Mood』のなかに同曲が入っていることを知り、それなら前々からディスクユニオン立川店で見かけていた作品だからと買いにやって来たのだった。そのほかにジャズの区画も見分することにして、店の奥へと進んで行った。そうして新着の区画から、棚の前にしゃがみこんでじっくりと一枚一枚調べはじめ、おそらく四〇分かそこらジャズの区画の周りを徘徊した。目に留まって陳列のなかから取り分けたのはFranck Amsallem『Out A Day』、Conrad Herwig『Another Kind Of Blue: The Latin Side Of Miles Davis』、Chris Potter Quartet『International Jazz Festival Bern 2017』の三枚である。Franck Amsallemは、Tim Riesと組みScott ColleyとBill Stewartをリズムに据えた『Regards』が好盤で名前を覚えていた。『Out A Day』はベースがGary Peacock、ドラムは『Regards』と同じくBill Stewartとこれも威力のある二人なので、六八〇円と安いこともあって買うことにしたのだ。Conrad HerwigのMiles Davisカバー作品は、Blue Noteでのライブ録音だという事実が惹かれたポイントとして大きい。面子もHerwigに始まっていつもの相方Brian Lynchに、Paquito D'Rivera、Dave Valentin、Robby Ameen、Richie Floresとラテンジャズ界隈の錚々たるメンバーが集まっている。これも五八〇円で安かったので購入に踏み切った次第だ。Chris Potter Quartetのライブ音源は目玉だろう。これは正規の作品ではないプライベート盤で、音質もそこまで良いわけではないと思うが、PotterにDavid Virelles、Joe MartinにNasheet Waitsという面子で最新のライブが聞けるとあってはやはり手を出さないわけにはいかない。値段も七八〇円と良心的だった。そのほか、Wayne Escofferyの『Live At Firehouse 12』も一〇〇〇円ほどで売っていて目をつけていたのだが、吟味の結果この作品は今回は見送ることにした。その他Brad Mehldauの新譜らしきものや旧譜数作、Mark Guilianaのやはり最新作らしきものなども発見したが、それらは値段がそこそこしたので同じく見送った。ジャズの区画を見終えたあとは、一瞬クラシックの棚の前に立って視線を巡らせたが、ジャズと違って知識がないためにどれを買えば良いのか皆目見当がつかないため、すぐに離れて、ジャズの区画の向かい、ロック・ポップスの棚を眺めた。Led Zeppelinの欄が目についた。三枚組のライブ作品、『How The West Was Won』が八八〇円であったので、この伝説的なライブ音源はやはり聞いておかねばならないだろうと心を決めた。Led Zeppelinのライブ音源では『The Song Remains The Same』しか聞いたことがなかったのだ(再結成後の『Celebration Day』は除く)。そういうわけで『How The West Was Won』も手もとに加えて、会計に行った。前に一人会計をしていた人のあとに並び、自分の番が来るとディスク五枚を差し出した。それぞれ割引が掛かって、全部で三三四六円だった。金を支払うとCDの入った黒いビニール袋や傘や本の入った不織布の袋や財布などを一手に持つことになって少々焦り、場を離れ際に片方の肩に掛けていたリュックサックがずり落ちてしまった。それで手近の邦楽の棚のあいだに入って財布をリュックサックに仕舞い、CDも同じくリュックサックに収めて、体勢を立て直して傘と本の袋を持って退店した。
雨は未だ降り続いていた。交差点に出るとちょうど信号が変わったところだった。それで広い通りを渡り、フロム中武の前を通り過ぎて左折し、Cafe Veloceの横を通ってルノアールのあるビルに向かった。傘を畳んでばさばさいわせながら裏口から入り、傘を縛って小さくすると階段を上がり、ルノアールに入店した。出てきた女性店員に三人だと告げると、待ち合わせですかと訊かれたのではいと肯定した。煙草は吸われますかと続くのにはいやと否定を返し、手前の禁煙席のお好きなところにどうぞと言われたので、入口から見て左方の四人掛けの席を取った。壁を背にして並ぶ二つの椅子の片方に傘を掛け、リュックサックを置き、本の入った袋は足もとに置いてもう片方の椅子に座った。この店に来ると必ず見かける、もうだいぶベテランだろう中年の男性店員が水とおしぼりを運んできた。ご注文がお決まりの頃、伺いますと言うのではいと受けたが、実のところ注文は既にコーラに決めていた。メニューを見てみても心は変わらなかった。リュックサックから携帯を取り出すと、Aくんからのメールが入っていた。今日もよろしくとの挨拶のあとに、遅刻してこちらを三〇分程度待たせる夢を見て跳ね起きたと記されていた。既に喫茶店にいる、入って左方の席を取ったと送り返しておき、それからコンピューターを机上に取り出して日記を書きはじめた。近くの席には赤ん坊を抱いた若い夫婦と、同じ年頃に見える一人の男性が就いており、彼らは何やら保険の話か何かしていたようだった。保険の説明をしているらしき男性の方は、しかし背広でなく、カジュアルな私服だったので、元々夫婦の知人あるいは友人なのかもしれない。打鍵をしているあいだに、先ほどの男性店員が近くにやって来た機会を捕まえて、コーラを注文した。品物はすぐに出てきた。薄緑色の瓶に入った液体をグラスに注ぎ、レモンを少々絞ってストローで啜った。炭酸の感触が喉を浸した。その後も時々暗黒色の炭酸飲料を啜りながら打鍵を進めていると、現在時に追いつかないうち、二時直前になってAくんがやって来た。挨拶し、作文時間をEvernoteに記録して作業を打ち切り、リュックサックから今日の課題書を取り出した。現代詩文庫の『石原吉郎詩集』と、岩波文庫の亀井俊介編『対訳 ディキンソン詩集 ――アメリカ詩人選(3)――』である。まもなくNさんもやって来た。彼女は椅子に座りながら、太腿のあたりを痛いと言ってさすっていた。この午前から熱心なことでサッカーの試合をやって来たのだが、そこでボールを当てられたのだと言う。
Aくんはカフェゼリー・アンド・ココア・フロート、Nさんはレモンスカッシュを注文していた。それから今日の課題書についての話が、前置きも何もなく緩やかに、漫然と始まった。Aくんはまだ「肉親へあてた手紙」の前までしか読んでいないと言った。「肉親へあてた手紙」はなかなか良い文書である、あとでしっかり読んだ方が良いとこちらはお勧めして、のちには最後の方に良いことが書かれていると言って、人間のあいだの真の連帯というのはそれぞれの人の孤独を尊重することによって始まる、というようなことを述べた部分に言及した。収録された詩篇のなかでは、やはり「葬式列車」がわかりやすくまとまっているとこちらは言い、二人もその点では一致した。この詩はどうしてもシベリアで石原が置かれた境遇、「ストルイピンカ」と呼ばれる貨車に詰め込まれた時の惨状を連想させてしまうものだが、本人の言によると、石原自身はこの詩を書いた時にはシベリアのことは念頭になかったらしいと、そうした証言を紹介した。石原吉郎の詩はやはり難解だったという点で三人とも一致した。特に、『サンチョ・パンサの帰郷』の始めの方に収録されている「位置」「条件」「納得」「事実」といった二字の漢語をタイトルとした作品群は非常に抽象的で詩全体の意味=シニフィエは端的に言って不明である。それぞれの詩が何について書いているのか、具体的に読み解ける人間はおそらく――作者の石原自身も含めて――この世に一人もいないだろうということで、その点はプロフェッショナルの詩人であり批評家でもある細見和之も認めていたと、『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』を取り出して告げた。細見の考えでは、これらの詩篇は「位置」や「条件」といった二字の漢語から連想的に、内在的にイメージや論理が展開され、その他の語句を引き寄せたものだと言い、その底には無意識のうちに石原のシベリア体験が伏流していて、言わばこれらの言語自体がシベリア体験の記憶の主体なのだと彼は述べていたのだが、理屈として言っていることはわからないではないものの、腑に落として納得――石原吉郎的語彙である――するのはなかなか難しい。とりわけ、これらの抽象的な詩篇が内容として非常に抽象的でありながら、その最終的なシニフィエとしてはやはりシベリアの体験を指し示しているとの論旨は、わかるようなわからないような、という感じだった。端的に言って、石原吉郎の伝記的体験の事実を知らなければ、「位置」やら「条件」やら読んでもシベリア体験ということには思いが及ばないように思われるのだ――ただし、これらの詩篇にはどれも凝縮されたような緊張感、重々しい厳粛さのようなものが漂っているから、ただならない雰囲気は感じ取れるかもしれないが――。
当時若干二二歳の谷川俊太郎と鮎川信夫が石原吉郎の才能を見出したのだというエピソードも紹介した。谷川関連で言うと、彼が言っていたこととして、存在のリアリティのようなものを詩に書いて感じさせたいというような発言があったとも紹介した。それはこちらの言葉に引き寄せて言ってしまうと、到底言語など追いつくはずのないこの世界の途方もない豊かさを垣間見せるというようなことなのではないかと先日日記に書いたりTwitterに呟いたりした言をここでも繰り返し、それはおそらく詩だけでなく芸術全般の効能でもあり、また教育というものの重要な役割の一つなのではないかと、立川のA家で語ったことを繰り返した。
エミリー・ディキンソンに関しては平易な言葉で書かれているからわりあいにわかりやすかったという点で皆一致した。彼女の特徴として、死があるから生がある、苦しみのさなかに輝く生の幸福を見つめようとする、といったような傾向があるが、それを取り上げてAくんは、石原吉郎にも同じような向きを感じたと述べた。シベリア体験という過酷極まりない状況を通過してきたからこそ、見えるものがあるというわけだ。実際、石原吉郎は、自分にとっての「自由」というものはシベリアにしかない、より正確に言えばシベリアの強制収容所にしか存在しない、ということを語っていた。そうした極限状況でこそ人間の尊厳のようなものが際立って輝くということもあるのだろうなとこちらは受けた。それに関連して、鹿野武一という人間のことを紹介した。石原吉郎がそのエッセイのなかで半ば伝説化・英雄化した人物だが、「あなたが人間であるなら、私は人間ではない。私が人間であるなら、あなたは人間でない」という、例の伝説的な言葉を発した人物なのだと言って、「ペシミストの勇気について」というエッセイで書かれているが、彼は囚人たちが隊列を組まされる時など、必ず自分を犠牲にするようにして自ら外側の列に並んだのだと説明した。どういうことかと言うと、ロシアの囚人は移動の際に五列の隊列を作らされるわけだが、その列からちょっと外れただけで射殺される危険性がある。故意の行動でなく、凍った地面に足をちょっと滑らせて位置がずれただけでも即時に殺される可能性があるわけで、そんな状況では列から外れる危険性の大きい外側には誰も並びたがらない。だから囚人たちは相争って我がちに内側の列に並ぼうとし、互いに押しのけ合う。そのような状況では被害者と加害者の立場が一瞬ごとに目まぐるしく入れ替わるわけだが、鹿野武一はいつも決まって自分から外側の列を選んだと言うのだ。同様に、彼はほかの人間たちはやりたがらない仕事を進んで引き受けたりもしていたのだが、そうした彼の姿勢から石原は次のような思想を解釈し、引き出す。鹿野武一は決して自らを被害者の立場に置いてそこに居直り、安息することがなく、むしろ自らを加害者の位置において自覚し、それに応じて自己処罰を下していたと言うのだ。極限状況においてもそのような人間が存在しているという事実に石原は強く感銘を受けたらしく、戦後のノートのなかには、「彼の追憶によって、僕のシベリヤの記憶はかろうじて救われている」と書きつけ、「このような人間が戦後の荒涼たるシベリヤの風景と、日本人の心の中を通って行ったということだけで、それらの一切の悲惨が救われていると感ずる」とまで述べているのだ。
その後、良かった詩をそれぞれ挙げてみようということで、こちらは石原吉郎ではやはり「葬式列車」のまとまりが良いと思うと言った。また、石原のデビュー作である「夜の招待」も好きな詩である。詩的想像力の飛躍が素晴らしいということを知ったかぶって言ったのだが、実際、途中の、「ああ 動物園には/ちゃんと象がいるだろうよ/そのそばには/また象がいるだろうよ」という一節は、それまでの文脈から完全に飛んでいて、動物園のイメージの突然の闖入といった感があるのだが、それでいて意味やリズムの流れのなかに嵌まっていて素晴らしい。そしてそのあとに、こちらがよく日記にも引いている、「来るよりほかに仕方のない時間が/やってくるということの/なんというみごとさ」というフレーズが据えられている。ここを取り上げて、こちらはどうしても死のこと、自分の死や肉親などの死のことを考えてしまうのだと言った。
Nさんは、「白い駅で」という詩が好きだと言った。「そこで終るのが/おれであって/いいはずはない」などとというフレーズが男らしくて格好良いと言うので、こちらも、この詩はちょっと雄々しいようだね、英雄的な男の像と言うか、と受けた。さらにこちらは、「オズワルドの葬儀」という詩も結構わかりやすく、かつ重量感があって良いと思ったと述べた。「死んだというその事実から/不用意に重量を/取り除くな」、「ひとつの柩をかたむけるとき/死んだという事実のほか/どのような挿話も想起するな/犯罪と不幸の記憶から/われらがしっかりと立ち去るために/ただその男を正確に埋葬し/死んだという事実だけを/いっぽんの樹のように/育てるのだ」というわけだが、これは要するに死に対して余計な意味付けをするな、死を物語化するなということだろう。死は死というそれだけの事実としてその重みを受け取るべきだというわけで、この詩に表れている思想を、エッセイ「確認されない死のなかで」のなかの言葉と照応させることも出来ると思われる。曰く、「死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側(……)からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもない(……)」。
エミリー・ディキンソンでは、こちらが良いと思ったのは、「わたしは誰でもない人! あなたは誰?」という作品が挙げられる。「まっぴらね――誰かである――なんてこと!」という一節にはいくらかの共感を覚えるものだ。編者による註では、「Somebody(誰かである人、ひとかどの人)は、逆に、名声を求めて、自由な生き方を見失ってしまっている」と読んでいて、そのように名誉心や虚栄心の拒絶を示したとするのが穏当な読みだろうが、こちらは自分の関心に引きつけて少々存在論的な読み方を披露した。ほとんど小林康夫の受け売りなのだが、つまり、我々は誰かである=自分であるということからどうあがいても逃れることが出来ない。自分ではない何者かに仮に変化することが出来たとしても、そこでもまた新たな自分というものに直面せざるを得ない。我々は自分という主体であること、存在の根源的な拘束そのものから解放されることはまずないのだが、"I'm Nobody!"とか、"How dreary ― to be ― Somebody!"という宣言は、そうした存在の重力からの解放を希求しているようにも思えると、こちらの関心に無理やり引きつけて読んだのだった。Nobody、誰でもないということ、自分自身ですらないということがもし実現するとしたら、それはおそらくほんの束の間のことに違いないのだが、そうした「自由」の一瞬がこの世には時に存在するものなのかもしれない――それを西田幾多郎の言う「純粋経験」と重ね合わせて考えてもおそらくそう間違ってはいないのではないか。要は主客合一、忘我、没我の瞬間ということで、こちらの経験のなかでそれに思い当たるのは先日の記事にも引いた二〇一五年一一月一五日の恍惚体験である。それに類する体験は、文章を書きはじめて世界の具体性に着目するようになって以来、何度か味わってきているが、最も印象に残っているのはこの二〇一五年秋の経験である。
その後、大体話が尽きると、こちらは足もとの袋から持ってきた本を取り出して紹介した。細見和之の石原吉郎の伝記及び批評や、柴崎聰編『石原吉郎セレクション』、畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』などは石原吉郎の話をしているあいだに既に出していたが、その他の本、例えば『世界の語り方1』及び『2』や、中島隆博・石井剛編著『ことばを紡ぐための哲学 東大駒場・現代思想講義』などを取り出して紹介したのだった。本を差し出しながら、哲学なんてものを学びたいと思ってこうやって読んでいるけれど、と呟いた。一向に賢くなっている気がしないんだよなあ。NさんとAくんはそれを受けて笑う。もっと深くものを考えられるようになりたいんだけど、と言うとAくんは、具体的にはどういうことについて考えたいのかと訊いてきた。具体的に何についてというのはあまり挙がってこないが、この世界全般、物事全般についてより深く考え、より深く理解できるようになりたいのだ。しかし強いて挙げるとしたら例えば、先ほども言ったホロコーストについてとか――それまでにシベリア抑留の話から展開してホロコーストの話題が出ていたのだ――それについてはより知って、何でそういうことが起きたのか考えていかなくてはならないと思う、と述べた。
そうして時刻は四時半頃に達しただろうか? 次回の課題書をどうするかという話になった。少しでもFの考えを深められるようなものを、とAくんが言うので、そんなのはいいよ、とこちらは笑った。でも、例えばホロコースト関連で行くなら、ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』など読んでみたいなとこちらは言った。そのほか、講談社学術文庫にもルドルフ・ヘスの『アウシュヴィッツ収容所』という本があったはずだと述べ、それで本屋に行ってみようということになった。Aくんはトイレに行きたいから先に会計を済ませると言って伝票を持って立ち上がった。こちらやNさんもそれに追随して荷物を持って立ちあがり、レジカウンターの前に並んだ。個別会計である。こちらはコーラの分、六一〇円――高い!――を支払い、店の外に出てトイレに行った二人を待った。Aくんはトイレから出てくると、何やら堂々とした調子の早歩きでこちらのもとまでやって来たので、颯爽と来たね、と笑った。待たせてはいけないと思って、と彼は言う。それから雑談をしながらNさんが戻ってくるのを待って、彼女が合流すると歩き出した。ビルの外に出ると、雨はまだ降っていた。駅前に差し掛かる頃、ふと思い出して、そう言えば今日、立川に安倍晋三が来る、と二人に告げた。前日の読売新聞の広告で知ったのだ。丸川珠代っているでしょう、あの人の応援演説に来るらしいと言った。風が強く、傘に圧力が掛かり、雨は斜めに鋭い角度を描いて身体に降り掛かってくるので、傘が意味を成さないようだった。この角度! 角度! と言いながらこちらは進み、途中で、これは差していても無駄だなと諦めて傘を閉じた。そうしてLUMINEの地階入口の前を過ぎ、エスカレーターに乗って高架歩廊に上がり、広場に入ると安倍晋三サボーターの姿がないかと探したが、まだそれらしき姿は見えなかった。雨を受けながら通路を歩いていき、歩道橋を渡って高島屋へ。入館する頃にはちょっと政治の話になっていて、良い政策を述べている党があっても、本当に現実的にそれが実行出来るのかと考えると懐疑的になってしまう人が多いんだろうねとAくんは言った。こちらも、共産党など富裕層に課税して四兆円の財源を作り出すと言っているけれど、本当にそれが出来たら良いと思うけどねと受けてエスカレーターに乗った。しかし一応、「なんちゃってリベラル」として、やはり野党側に投票するほかないだろうとは思う。読売新聞の世論調査で今回の参院選に向けた各政党の支持を見たが、自民党は三六パーセント、立憲民主党はそれに対して僅か一〇パーセントで、やはり今回も与党が勝ちそうだとの見通しも紹介した。まあまだこれから何かがあって変わるかもしれないけれど、いずれにせよ、与野党の勢力のバランスが悪いとは言わざるを得ない――それだけ野党が頼りないと思われていることの証左でもあるのだろうが。
そんな話をしているうちに書店に踏み入り、まず『エルサレムのアイヒマン』を見に行った。以前から読んでみたいとは思っているのだが――『全体主義の起源』全三巻も――四四〇〇円なのでおいそれと手は出せない。Aくんも値段を見て、これは高いなあと驚いたようだった。しかし四五〇〇円程度ならまあそこそこだな、という感覚にこちらはもうなってしまっている。欲しい本を見ると六〇〇〇円だとか七〇〇〇円だとかしていることも珍しくはないからだ。その次に、ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』を見るために文庫の区画の方へ移動した。文庫の区画は配置が少々変わっていた。以前講談社学術文庫が並べられていた壁際の、角の一角には河出文庫が来ており、講談社学術はその隣になっていた。講談社文芸文庫は以前は壁際にあったのだけれど、今は通路の棚の方に移っていた。それでルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』を見分したのだが、手に取ってめくっていたAくんは、これは非常に興味深いと思いますと言った。それでも一応、ほかに小説なども見てくると言って、彼は岩波文庫の方に行った。Nさんはそのあたりを何やらぶらぶらとうろついていたようだ。こちらも岩波文庫の方を見て、まったく面白そうな本ばかりあるなあと呟いた。Aくんは、小説はいくつか読みたいものはあるが、それは自分で読むと言った。それで『アウシュヴィッツ収容所』で次回の課題書はいいのではないかという空気になったところで、こちらが岩波現代文庫の棚から、『アイヒマン調書――ホロコーストを可能にした男』という著作を見つけたので、Aくんに、こんなものがあったと差し出した。これはいずれ読まねばならんなと言いながらこちらもぱらぱらと頁をめくったが、勿論編集されては本当に調書そのものといった感じで、アイヒマンと裁判官などの会話が克明に記されているものだった。その後、話し合って、と言うかこちらはどの本でも良かったのでAくんの意見を聞いて、ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』を読むのが良いのではないかと決まった。戻ってきたNさんにもその旨告げて、Aくんが同書を買いに行っているあいだしばらく待って、そうして食事に行こうということになった。グランデュオにとんかつの店があって、Aくんはとんかつを食べたいらしかったのでとりあえずそこに行ってみることになった。レストランフラオにはほかにも色々と店があるから、実際行ってみてそこで決めれば良いという話だ。それでエスカレーターに乗って下っていき、二階から外に出た。雨は引き続き降っていたが、風は多少ましになっていたようだ。歩道橋を渡り、通路を行きながらAくんは、とんかつという料理は安牌で、今までこれは不味いというとんかつを食ったことがないと語っていた。それに対してNさんは、やや懐疑的な姿勢を見せていた。このようにして二人が緩く対立することは結構ある。広場が近づいてくると、演説の声が聞こえてきた。時刻は五時半を過ぎた頃だったと思う。安倍晋三サポーターが集まっているかなと言って進んでいくと、さすがに元環境大臣の選挙活動だけあってスタッフの数が多かった。オレンジ色の、あれは合羽だったのだろうか、それとも制服みたいなものだったのだろうか、ともかくオレンジ色の装いをしたスタッフが多数並んで、パンフレットを配っていたので、一応受け取っておくことにして手を差し出した。広場に出ると、まだ人はさほど集まっていなかったが、なかには日の丸の小旗を掲げた人々も何人かいた。そのなかに、人を見た目で判断して恐縮だが、明らかに政治などには興味がないだろうというような若者、黒い肌のギャルとそれに応じた装いの男性がいて、彼らも日の丸を掲げていたので、あの人たちも安倍晋三サポーターなのだろうかと疑問に思った。
駅舎内通路を通ってグランデュオに行き、四階か五階くらいまで直結した長いエスカレーターに乗った。乗っているあいだは高所恐怖症が少々湧いて身体が震え、手摺を掴んでいても緊張感が高まるくらいで、Aくんの話に相槌を打ちながら、このエスカレーターが早く終わってほしいと願っていた。下を見ることは出来なかった。くらくらと来そうな気がしたからだ。長いエスカレーターが終わると、残りのエスカレーターは一階ずつの短いものになったので気持ちは落着いた。それで七階だか八階のレストラン・フロアに着き、店舗一覧の表示版を見た。こちらはハンバーグが食いたい気がして、その店を指差した。ともかく実際に見てみようということですぐ傍にあったハンバーグ店の入口に行ってメニューを眺めた。二組の客が待っていた。値段はそこそこといった感じだった。それから、とんかつ屋の方も見に行ってみようというわけでフロアを歩き、その店の入口に近寄り、ここでもメニューを眺めたあと、Aくんに意見を求めると、やはりとんかつ屋が良いのではないかとのことだった。とんかつを食いたいというだけでなく、店が比較的空いていて落着いた雰囲気だということも判断材料だった。それでとんかつ屋「かつくら」に入り、束の間待ったあと四人掛けのテーブル席に通された。こちらは喫茶店と同様一方の二席を一人で占領し、片方の席に傘を掛け、本の入った袋を置いた。リュックサックは足もとに置いた。左側の席に座ったこちらの向かいにはAくん、その隣にNさんが就いた。メニューを見て、こちらは鰹のたたきとヒレカツ膳に決めた。Aくんは普通のロースカツの一二〇グラムだかに夜の膳セットという、麦ご飯と味噌汁がついてくるセットを頼んだ。Nさんが頼んでいたあれは何だったのか、こちらは忘れてしまった。まだ食事が来ていない頃から始まったと思うが、Aくんが何の拍子にか、中学受験時代の塾通いの話を始めた。一日一〇時間かそこら、勉強していたと言う。小学生でそれはおかしいよとNさんは驚いて口にした。こちらも小学生にそれでは相当にきついだろうなあと思ったが、Aくんも、人生で一番死にたかったのはあの時期だと認めた。彼の言っていた塾の優秀な方の生徒は、開成高校に行ったり、その後東京大学に行ったりしているらしかった。中学受験というのは確固とした自我が芽生える前の段階にあるから、自分の目的意識がないなかでハードな勉強をするのが本当に辛かったと言う。よくグレなかったね、とこちらが訊くと、それでもサボるとかいう発想はそれ自体が浮かばなかった、疑問を持たずに親の敷いたレールの上に唯々諾々と従っていたという返答があった。辛かったは辛かったが、あの経験があっての自分だから、二度と体験したくはないけれど無駄な経験ではなかったと思うと言う。こちらにおけるパニック障害のようなものかもしれない。こちらはその話を受けて、大学受験の時の自分のモチベーションというのは頭が良くなりたいということだったと述べた。だから今と本質的には変わっていないんだと笑う。しかし、大学受験の勉強などしたところで、頭が良くなるはずがないのだと言うと、Aくんは、でも基礎的な知識の基盤が出来るという意味では無駄ではないと答えるので、まあ無駄ではなかったとは落とした。
そのうちに食事がやって来て食いはじめたのだが、こちらは鰹のたたきからつまみはじめて早々とカツをおかずに米を平らげてしまい、おかわりは自由であるにもかかわらずそれを頼まなかった。書き忘れていたが、膳のなかで一番最初に運ばれてきたのは胡麻の入った小さな擂り鉢で、これを自分の好きなだけ擂ってそこにソースを混ぜてカツにつける、というようなシステムだった。ご飯のなくなったあと、Nさんに、おかわりはいいんですかと訊かれたが、いや大丈夫と答えてカツをキャベツと一緒に頬張り、山盛りのキャベツもその後平らげ、味噌汁も飲んで完食した。二人に比べて、あまり口をひらかずに黙ったままそそくさと食っているからだろう、随分と早く食べ終わってしまった。その後はAくんの話を聞き、それに相槌を打ちながら過ごしたが、どんなことが話されていたのかは覚えていない。二番目に食べ終わったのはNさんで、Aくんが最後だった。Nさんが食べ終わった時点でAくんは、まだカツも残していたし、山盛りのキャベツの千切りにはまったく手をつけていなかったと思う。彼は自他ともに認めるほど、ものを食べるのが遅いらしかった。それにはやはり食べているあいだによく喋るということが寄与しているだろう。
日記や詩の話をちょっとしたのを思い出した。Aくんはこちらの日記を折に触れて読んでくれているらしく、例えば食べたものを細かく書いているところなどに感銘を受けたらしかった。いやでもそんなに詳しく書いていないけどね、面倒臭くなって簡単に済ませてしまうことが多いけどねと言うと、Aくんは、自分などはしかしその日の食卓に何が出たか、覚えていられないと言う。日記を書いていて気づかされるのは、自分は自分が食べたものをよくも見ていないということだ、じっくりと視線を送って観察するということがない、だから例えばサラダに何が入っていたかなど思い出せないことがある、と言うと、Nさんは、それはいい気づき、と受けた。小説は書けないだろうが、詩はもしかしたらこの先も書き続けることが出来るかもしれない、ということも話した。谷川俊太郎も言っていたけれど、詩というのは短いからまだしも書けるような気がするのだ。小説というのは何しろ長く、冗長で、情報量が多い。それほどの量の情報を頭のなかから引き出し、うまく組み立てて作品として仕上げるような想像力がこちらにはないのだと述べた。詩は五月の終盤に生まれて始めて書いたのだが、それを受けてAくんは、むしろ意外だった、もっと以前から書いているものかと思っていたと言った。今のところ作った詩は大体一晩も掛けずにさっと作ってしまっているから、もう少し言葉を練って、推敲を重ねて長い時間を掛けた詩を作りたいねとこちらは言った。
食後、温かい茶を三人分貰った。そのうちにAくんはトイレに行った。と言うか、こちらがトイレに立ったその直後に彼もトイレに立ったらしいのだが、戻ってきて彼がいないのを見て、あれ、行き会わなかったよと言うとNさんは笑った。戻ってきたAくんに訊くと、トイレに立っているこちらの背後をすり抜けるようにして移動していたらしい。それで気づかなかったのだ。そのAくんが戻ってくるのには、かなり長い時間が掛かった。そんなに腹が痛いのだろうか、まさかどこかで倒れてやしないだろうなとこちらは不吉な発想が思い浮かんで、口にも出したのだが、戻ってきた彼に訊くと、自分の前に入っていた人が一向に出なかったのだと言う。それでAくんが戻ってくるあいだはNさんと二人で、彼女の仕事の話などを聞いたりした。彼女は広告会社で働いている。今は忙しい時期らしくて、この席にいるあいだも仕事関係のメールがスマートフォンに届き、彼女は渋いような顔をしながらそれに返信をしていたところだった。繁忙期と暇な時期というのがやはりあるらしく、複数あるプロジェクトの終了がちょうど同じ時期に重なると暇になる、昨年などはそれで暇な時期は三時でもう上がってしまったりとか、わざわざ時間を費やすために、昼食を電車に乗って遠くまで取りに行ったりしていたと彼女は話した。こちらの塾の話もちょっとした。日曜日は塾自体が休みで、土曜日も呼ばれないことが多い――と言うかシフトにバツ印をつけている――。個別指導だと、それぞれの生徒でやっているところが違いますよねと訊くので、そうだと肯定した。それをそれぞれに把握しておかないといけないので大変と言えば大変だが、まあもう慣れた。同僚との交流はあるかと尋ねられて、それがあまりない、うちの教室は何と言うか色があって、全体的に大人しい人が多いのだと答えた。大学生のわりに威勢の良い若者が全然いない、それに生徒の手前、あまり雑談ばかりぺらぺら喋っていても決まりが悪いのだが、それにしてももう少し交流はしたいと述べ、だってこのあいだ教室会議があったんだけれど、俺が一番喋っているくらいだもんね、この俺が、と言ってNさんを笑わせた。生徒の方も実に大人しい子供ばかりであると言い、今の若い人は基本的に静かなのかな、あまり威勢の良いやつを見ないね、まあ最近の若者は、と言い出したらもう終わりなのかもしれないけれど、と笑った。そのような印象を受けはするが、いずれ身の回りの狭い範囲の例を元にした印象に過ぎないので、無闇な一般化は出来ないだろう。威勢の良い若者だっているところにはたくさんいるに違いない。世代論というものには一抹の居心地の悪さを感じないこともない。それにしても、我が教室の講師連の大人しさと言うか、一種のクールさみたいなものは人が変わっても昔から全体としてはあまり変化がないのだが、このカラーは何なのだろう? どういった要素がそれを引き起こしているのか知れないが、あるいは職場では皆ある種猫を被っていると言うか、それ用の大人しい人格として振る舞っているということなのだろうか。
そんな話をしているうちにAくんが戻ってきた。喫茶店に行こうぜとこちらは口にしたのだが、Nさんは帰路につくとのことだった。Aくんも今日はちょっとやることがあるからと言って申し訳なさそうにしてみせるので、それでは帰ろうということになり、荷物をまとめて席を立った。個別会計。こちらは一七八〇円、かなりリッチな食事となった。Aくんも、彼は一八〇〇円かそこら払っていたと思うが、このくらいの価格は彼にしてはかなり高い食事の部類に入るらしい。それに対してNさんは、結構友人同士で高めの店に食事に行っているらしかった。会計を済ませて外に出ると、下りのエスカレーターに乗った。腹を満たして副交感神経が働いたためだろうか、今度は特に恐怖感は覚えなかった。順番に階を下りていき、一階に辿り着いて、フロアの途中から直接駅内に通じる改札を抜けた。その時には中国の話をしていた。銅鑼湾書店事件のことを紹介していたのだが、関係者が当局に拉致されて取り調べを受け、あるいは「教化」の類を施されたのかもしれないと言うと、Nさんの方が、ええ、と反応してみせた。改札を抜けたところで向かい合い、有難うございましたと礼をしあって――Nさんは随分と深く背を折り曲げて頭を下げた――また次回、と言って別れた。次回の会合は八月一七日の土曜日である。それでこちらは一番線のホームに向かった。視力がめっきり落ちて遠くにある電光掲示板の表示がぼやけて発車時間が読み取れないのには閉口した。一番線に降りるとまもなく電車がやって来た。帰り道は携帯電話でこの日の日記を綴ろうかと思っていたのだが、取り出してみると電池残量が少なかったので、手帳を読むことにした。手帳を読んでいると、こちらの隣には身体の大きな男女が乗ってきた。酒を飲んできたらしい。発車して電車が運転しているあいだ、彼らはメロコアがどうとか、ハードコアパンクがどうとか、下北沢出身の何とかいうバンドがどうとか、音楽関連の話をしていた。彼らは拝島かそのあたりで降りていったと思う。こちらは手帳を読みつつ、目を閉じてそこに記してある文言を頭のなかで弄ぶ、というようなことをしていたのだが、目を閉じて電車に揺られていると、眠るわけではないがちょっと眠気が湧いて意識が幽かに曖昧になってきて、そうすると思考は逸れていって、何やら意味をなさない語句の連なりが脳裏に浮かんでくるのあった。それで、これを記録できれば一つのナンセンス詩、本当に意味の全然ない詩作品になるのではないかと発想した。題は安直だが、「宇宙人の言葉」とでもすれば良いだろう、と思ったのだが、結局記録出来ていないので書けないし、それに同じような試みはほかに誰かがもうやっているような気もする。半醒半睡のような状態というのは、よく言われることだがインスピレーションが湧きやすい。瞑想中の変性意識状態と同じようなことで、頭の箍がちょっと緩くなって、思考の連結や観念連合が自由になるのだろう。半醒半睡の状態で頭のなかに何やら詩句めいた言葉の流れが生じるということは今まで何度も体験してきた。それを意図的に引き起こせればこちらも詩人になれるのだが。
青梅駅に着く前に席を立ち、車両を移ってから降りると、向かいに既に来ていて発車を待つばかりだった奥多摩行きに乗った。扉際に就いて、目を閉じながら揺れ、最寄り駅に着くと、まだ雨が降っていたので傘をひらいた。屋根の下に入っても傘を閉じず、肩に軸を乗せて後方に傾け、くるくる回しながら階段通路を上がっていった。駅舎を出てから家に着くまでのあいだで特段に印象深いことはない。
帰り着くと九時頃だった。自室に帰還し、荷物をリュックサックのなかから取り出して、コンピューターを机上に据えておくと服を脱いだ。そうして入浴へ。上がって来ると部屋に戻って、一〇時直前から本を読みはじめた。谷川俊太郎/尾崎真理子『詩人なんて呼ばれて』である。三〇分ほど読んだのち、他人のブログを回って文章を読み、それから今日買ってきたCDをインポートしつつ、早速その情報をEvernoteに記録してしまった。それで時刻は一一時半を過ぎ、FISHMANS『Corduroy's Mood』を聞きながら日記を書きはじめた。一時間一〇分のあいだ打鍵したのち、インターネットをだらだら回って、一時四〇分過ぎからベッドに移ってふたたび書見に入った。三時を回る頃合いまで本を読み進めると眠ることにして、部屋の入口脇のスイッチを押して明かりを消した。それで暗闇のなか枕の上に腰を下ろし、一〇分余り瞑想めいて目を閉じじっと静止する時間を取った。そのあと寝転がって布団を被り、いつの間にか寝ついていた。
・作文
8:34 - 9:03 = 29分
13:27 - 13:56 = 29分
23:38 - 24:49 = 1時間11分
計: 2時間9分
・読書
9:35 - 10:50 = 1時間15分
21:55 - 22:27 = 32分
22:27 - 22:57 = 30分
25:43 - 27:05 = 1時間22分
計: 3時間39分
- 谷川俊太郎/尾崎真理子『詩人なんて呼ばれて』: 136 - 280
- 「彼方より」: 2019-07-07「この間読んだ本」
- 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-03「動物の群れが血となり駆け巡る怒りではない悲しみの比喩」; 2019-07-04「ヤドカリが怯えて引っ込むその度におまえは笑うおまえは笑う」
- 「at-oyr」: 2019-06-02「校舎」; 2019-06-03「壊れた」; 2019-06-04「習慣」
・睡眠
2:10 - 7:40 = 5時間30分
・音楽