あみださん ゆるしてくれ
人間はいつだって戦うんだ
ただし ああ ああ
一人で戦うとコッケイで
大勢で戦うと悲しいだけだ
(『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、329; 「あみだのいる風景」; 「その他」)*
生きているときのあなたは
どうでもよかった ぼくらには……
だれと出逢おうと別れようと
絶望しようと満腹しようと
ほんとにどうでもよかったんだ
ところが今のこの慕わしさは
なぜだろう この衛生的な世紀では
人はもしかしたら自殺によってのみ
わかりあえるのかもしれないね
(331~332; 「裁きのあと」; 「その他」)*
こうしてわれわれは
おもむろに夢と死とに馴染み
それほど劇的でもない雨の朝
やさしい気持をとりもどすために
もっぱら死人のことを考えよう
生きているわれわれを思えば
申し分なく狂暴にもなれるのだ
(334~335; 「悼む唄」; 「その他」)*
われわれでなければ
われわれのこどもが……
でなければ孫と孫とが……
その通り われわれは貝のぬけがらや
死んだことばを背負っているから駄目だ
底の泥までわかりあえるのは
まだどこにもいない者だけだろう
かれらを探せ 風景をうらがえして
(371~372; 「十一のデッサン」; 「6 国際交流」; 「その他」)
結構面白い夢を見たはずなのだが、面白い夢を見た、という感触だけが残って詳細は何もかも失われてしまった。何かホラーチックなものだったような気がしないでもない。八時のアラームで覚醒。ベッドから抜け出し、鳴り響く携帯の音を止めると、ふたたびベッドに戻ってしまった。しかし二度寝には陥らない。布団を被りはしたものの、目をなるべく閉じないようにして、カーテンを開けた先の窓の白さを目にして意識の安定を図る。そうしてちょっとしてからふたたび起き上がり、上階へ。母親に挨拶。父親は洗面所で顔を洗ったり、少ない髪を整えたりしている。こちらは冷蔵庫から前夜の残り物を取り出した――醤油ご飯、ゴーヤの炒め物にサラダである。ご飯と炒め物をそれぞれ温め、サラダと炒め物は父親の分も皿によそってやり、そうして卓へ。食事。新聞を読みつつ。京都アニメーション放火の続報など。あとは書評欄。そんなに際立って興味を惹かれた本はない。食べ終わると抗鬱剤を服用し、食器を洗って下階へ。部屋に入り、コンピューターを点け、八時四八分から日記を書き出した。ここまで書いて九時直前。最近は文体が楽なように楽なように流れていて、わりと良い感じである。来たる訪露ではどうせ毎日日記を書く時間もさして取れないのだろうから、楽なようにするすると書ける方策を身につけておくべきだろう。一筆書きだ。庄野潤三を目指す。
前日の記事を投稿。そうして九時半前から読書。ベッドで。ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』。三〇分。九時五五分まで。それからちょっと目を閉じていると、いつの間にか一〇時一五分に至っていたので慌てて起きた。電車は一〇時半である。服は既に着替えてあったのだったか? いや、多分急いで着替えたのだろう。オレンジ掛かった煉瓦色のズボンと、上は濃青のフレンチ・リネンのシャツ。リュックサックに財布や携帯などを準備して、上階へ。仏間に入って右足の絆創膏を新しいものに取り替えた。それから便所に行って用を足して出発。雨は降っていない。西へ。拡散する蟬の声。濡れ痕の残った坂を上っていく。急ぎ足で。息を切らしながら。そうして駅に着くと、ちょうど電車がやって来るところだった。ホームには何やら、スポーツ姿らしき装いの一団があって、人目を憚らずに上半身の裸を晒して服を着替えていた。汗を搔いたのだろうか。到着した電車に乗り、扉際に就いて手帳を見る。青梅に着くと向かいに乗り換え、発車がまもなくだったのですぐに乗り、揺れる電車のなかで車両を辿って一番前の車両まで行った。それで着席。今日の行きは手帳を眺めるのではなく、持ってきたヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』を読むことにした。
それで新宿まで一時間といったところだが、そのあいだ特段に目立ったことはなかったと思う。何かあったか? 特に印象が残っていない。新宿にちょうど着く頃になって本は読み終わった。訳者あとがきまで。それで手帳に読書時間を記録し、新宿で降車。人混みを回避して、ホームを辿り、階段を上がる。南口方面へ。改札抜けて、都営大江戸線の方へ進む。群衆のなかの一員と化して。通路を辿っていき、改札くぐって、さらに深く地底へと進んでいく。ホームに着くとちょうど電車が来ているところだったので乗り込む。外国人女性三人の一団が、乗るかどうか迷いながらも結局最終的に乗ってきた。どうもこの都営大江戸線が正しい電車なのかどうかわからないらしい。見ていると、なかの一人、年嵩の人、これは二人の娘の母親という関係だったのだろうか? その年嵩の眼鏡を掛けた婦人から、Would you speak in English? と尋ねられた。speak inとinをつけて言っていたように聞こえたのだが、もしかするとinはなかったかもしれない。wouldを使っていたのは確かだと思う。丁寧である。しかし、最初こちらは苦笑しながら、no、と答えてしまった。すると彼女たちはがっかりしたように黙った。婦人はじきに席に座りに行って、娘だろうか、二人の若い女性の方がこちらの近くに残ったので、しばらくしてから彼女らに、Where do you want to go? と尋ねた。するとパンフレットと言うか地図を取り出しながら彼女らは、浅草寺、と言う。浅草か、と思った。それで、扉の上に記された路線図を眺めて、浅草の位置を確認し、苦笑しながら、It's wrong、と知らせた。wrong train? と言うので、wrong trainと復唱すると、女性の一人が、地図とスマートフォンに記された路線図を差し出して、上野に行きたいのだと行った。上野を経由して浅草に行くらしいのだが、そうなると多分山の手が一番わかりやすいのではないかとこちらは考えて、と言うかほかのルートを知らなかっただけなのだが、それでYou should return to Shinjuku and take the Yamanote Lineと言った。その頃、席に座った婦人の方も、wrong train? wrong train? とこちらの三人に向けて訊いてきたので、wrong train、と笑いながら答えてやった。それで、ちょうどその時、国立競技場前だったか、そのような名前の駅に着いたところだったので、女性が差し出した地図を指差して、We're hereと言うと、彼女らは向かいのホームに来た電車を示して、that train? と言いながら、こちらの返答も待たずに出ていってしまった。若い女性のもう一人の方が、出ていく時に、こちらに向けて、Excuse meとか何とか言い残していった。それをこちらは為す術もなく見送ったのだが、あとで考えたところでは、ここで一緒に降りてもう少し詳しくルートの説明をしてあげるべきだったと思う。それどころか、何だったら新宿までついて戻ってやって、山の手線まで案内してあげても良かったとすら思う。勿論、その場合、一二時に六本木という待ち合わせには遅れることになったわけだが、そちらの方が日記的にも体験的にも面白いことになっただろうなと思ったのだ。状況判断を失敗した。彼女らはきちんと浅草に着けただろうか? と思いを馳せながら路線図を見ていると、青山三丁目で乗り換えれば銀座線か何かで一本で上野まで行けるようだったが――と言うか、これは昨日Nさんが上野から辿ったルートの逆ではないか! ――それに気づいたのは女性たちが去ったあとだったし、気づいていたとしてもそれを説明している時間はなかっただろう。ともかく、あの時一緒に降りておくべきだった、その方が圧倒的に面白いことになっていたに違いないとその点ばかりが悔やまれる。
ともかく、六本木に着いて、七番出口へ向かった。階段を上がっていき、地上へ。NさんとYさんはまだ来ていなかった。路傍の柵に凭れながらしばらく手帳を読みつつ待っていると、Nさんがやって来た。今日の装いは、黒っぽい、落着いた色と柄のワンピースで、彼女は昨日はつけていなかった眼鏡を掛けていた。こちらが取り出している手帳を見て彼女は驚いたような反応を見せた。細かい字でびっしり――と言うほどでもないが――文言が書き記してあるのに印象を受けたのだと思う。写経みたいな感じですか、と言うので、そうではなく、本を読んでいて気になった部分を断片的に写しているだけだと言った。Yさんと連絡がつかないと彼女は言った。彼は一〇時頃からもう既に六本木に着いていたらしいのだが、その後、連絡が途絶えてしまったのだと言う。それでどうしましょうか、まあ最悪美術館で合流すれば良いのでは、とか言いながらひとまず待っていたのだが、するとまもなくYさんは、エスカレーターを上がって駅から現れたので、問題なかった。スター・バックスにずっといたらしい。
それで美術館に向けて歩き出した。横断歩道を渡って、ファミリー・マートの前を過ぎ、右折して、ちょっと進んだところから斜めに伸びる細道に入った。ここをまっすぐ行けば、すぐ美術館がありますよと言いながら歩いていると、高年の男性からすみません、と話しかけられた。はい、と言って立ち止まると、国立新美術館は、と訊かれるので、ここを行けばすぐ見えてきますよと道の先を示して答えた。それで、今日は道を訊かれるなと漏らして、行きの電車のなかで出会った外国人たちについて二人に話しながら、通りを辿った。美術館に着くと、外でチケット販売をしているのだが、それはウィーン・モダン展のチケットのみで、我々の目当てであるクリスチャン・ボルタンスキー展は展示室入口でチケットを販売しているとのことだったので、なかに入った。すると、YさんもNさんも来た覚えがあると言った。Nさんは、お姉さんが書道をやっていて、その展覧会か何かについてきたことがあるのだと言う。Yさんは何と言っていたか忘れてしまった。エスカレーターを上って二階に上がり、展示室Eへ。入口でチケットを購入し、作品リストを貰ってなかへ。何やら暗がりから、獣の喘ぎ声のような音声が漏れ出てきているので、一体何があるんだと言いながら、最初の室に入ってみると、暗がりのなかでビデオが流されていた。ビデオは二種類あって、それが連続して繰り返し流されていた。一つ目は、作品リストによると「咳をする男」というタイトルの映像作品で、囚人を思わせるような男、あれは頭と顔に包帯を巻いていたのだろうか? よく見えなかったのでわからないが、薄暗いような一室に座っている男が、ひたすら苦しそうに咳き込み、血を吐いているのだった。自ら吐いた血によって、太腿のあたりなどはびちゃびちゃに汚れていた。彼が血を吐く様子が、周囲から視点を変えて、近く遠く、ひたすらに映し出される。生々しく、衝撃的な映像で、人によっては気持ち悪くなるのではないか。こちらも見ながら、気分が悪くなりはしないかとちょっと危惧された。もう一つの映像は、確かスーツか何か、あるいはタキシード的なものを着ていたと思うのだが、その男が、一人の男が、仮面を被っているのだが、その男が女性の人形を色んな角度から色んな部位を舐め回している映像で、タイトルはそのまま、「なめる男」である。まあエロティックと言えばエロティック。パンフレットというか作品リストの説明の文言には、「どこか秘密めいた幻想的な儀式を思わせる」と記されている。儀式的と言えばまあそうなのかもしれない。男は映像の冒頭では、画面前景を這いながら画面内に現れていたと思う。そういう動き方にしても、仮面を付された顔にしても、人外のものを連想させなくもない。人形も生命を持たない人外のものであるわけで、人外の存在と人外の存在の一種の交合? よくわからないが。これらの二つの映像は、「咳」と「舐めること」のひたすらな反復によって特徴づけられている。
それらを見たあと、次の室に。ここは写真。壁に無数の写真がパネル状に並べられていたり、ボードに、色々な写真をジグソーパズルのように組み合わせて展示されていたり。全部白黒である。そして、これはのちの部屋で見た「モニュメント」とか、「保存室」というような作品についても同様だが、基本的に「顔」というものが強調されている。解像度は全体的にさほど良くはない。鮮明とは言えない、曖昧に映し出された顔。「顔」概念と言えば、こちらは良くも知らないが、レヴィナスの用いていたものだと思うので、そのあたり結びつけて読み解くことももしかしたら不可能ではないのかもしれないが、こちらには勿論そんな能力はないし、そもそもレヴィナスなど一冊も読んだことがない。一通り写真を見終わったあと、Yさんが、何だか幽霊の写真みたいだねと呟いた。そうした印象を持つのは順当なことだろう。顔は皆薄白く曖昧に映っているし、部屋自体は薄暗いし、最初の「咳をする男」の映像からしても、「死」というイメージ、観念が観客の脳裏に刻まれるのは不可避だろう。「死」となると、そうするとそこから、いかにもありきたりな物語的想像力によって、「鎮魂」とか「追悼」の意味素を導き出してしまうのだけれど、そこまで言ってしまって良いものか。のちの部屋にあった「モニュメント」などの作品は、ホロコーストの犠牲者とも結びついているらしいし――「間接的に結びついてる」としかパンフレットには書かれていないので、どういう意味で「結びついている」のかよくわからないのだが。ホロコーストの犠牲者の写真を用いているというわけではないのだろうか? まあともかく、そうしたこともあるらしいし、より直接的に「鎮魂」の意味合いを読み取ってしまいたくもなるのだけれど、全部見終わってショップに行って、ボルタンスキーのインタビュー本みたいなものをちょっとぱらぱらめくって見たところでは、彼は、直接これらの作品について述べていた部分ではなかったと思うのだが、「哀悼」とかの意味合いではまったくない、もっと広い意味合いを込めている、みたいなことを言っていたので、死者に対する「鎮魂」「追悼」の意味ばかりを強調するのは、文脈を少々狭く固定化しすぎることになるのかもしれない。
しかし、「死」が大きなテーマになっていることは確かだ。写真が展示されていた室の端には、「影」という作品があって、それは、小窓からもう一室を覗く形のもので、その室のなかには、紐で吊るされたいくつもの人形にライトが当てられており、扇風機の風でもって絶えず揺らされ続けるその影が大きく拡大されて室の三方の壁に映し出されている、そういう趣向のものだったのだが、小さな人形のなかには骸骨とか、ハングド・マンと言うか、なすすべもなく吊るされているようなポーズの人間とか、そういったものが含まれていたので、これはやはり首吊り自殺とか、首吊り形とかそういったものを連想させるし、骸骨なんてもろに、と言うかあからさますぎるくらいに直接的な「死」の象徴だろう。ただ、その人形はある種子供が作ったような結構何と言うか……何と言えば良いのだろうか、粗雑? ではないのだけれど、何と言うか素朴な作りと言うか、そんなようなもので、「死」の厳粛さと言うよりは、一種コミカルな印象をも与えるような形状にはなっていた。気味が悪いと言えば気味が悪いのだけれど、面白いと言えば面白い、つまりちょっと笑ってしまうようなユーモラスな雰囲気もないではなくて、そのあたり、直接鉄器に死を表象すると言うよりは、それを皮肉っているような、突き放しているような部分もないではなかったのかもしれない。
この室と、次の室を仕切る扉には無数の紐で出来たカーテンと言うか暖簾と言うか、そんなようなもので仕切られていて、そこに大きな顔の映像が投影されているのだった。この顔もまた白い。これは、その時には知らなかったのだが、あとでパンフレットを見たところによると、あとでと言うか今しがた見たのだが、ここに映し出されていた顔はボルタンスキー自身の「7歳から65歳までのイメージ」だったのだと言う。それは気づかなかったがしかし、この趣向はなかなかこちらには気に入られたものである。その仕切りがある部屋の壁には、無数に、天井の際までずっと、いくつもの鏡が貼られていて、ただしその鏡は黒くなっており、あれは何なのだろうか、塗りつぶされていたのだろうか? よくわからないが、そういう黒い種類の鏡で、それを覗くと、自分の姿はほとんど輪郭しか映らない黒い影と化す。はっきりと映るのはその仕切りに投影されている顔のイメージのみという趣向で、人影はまさしく影、となるのだ。何と言うか、ここでは、自分自身やほかの観客の人々も一種死者となったような感じを受けないでもないと言うか、そのなかで幽霊じみた白い顔のイメージだけがぼんやり、ではあるけれどはっきりと、浮かび上がっているというそうした空間になっていて、これはなかなか面白かった。
順番に書いていくのも面倒臭いし、そんなに細かく覚えてはいないので、諸々省略して行くと、次に覚えているのは「モニュメント」とか「保存室」と名づけられた作品群で、何と説明すれば良いのだろうか? 何かこうパネルのようなもので作られた長方形だとか、山型だとかの上部に、やはり薄白い顔の写真、顔が一面に映された写真が飾られている、掲げられている、そういったもので、その周りには電球が配されていて、ぼんやり顔が浮かび上がる、そんな感じだ。何と言うか、山型の作品などは特に、「祀り上げられている」というような印象を受けるもので、これらは全部はそうではなかったのかもしれないが、大概、この顔というのは子供の写真、子供の顔の写真だったようだ。「保存室」とか「聖遺物箱」とか第されているもう一種の一連の作品も同様で、これはただし土台がパネルではなくて、何か箱のようなものの積み上げになっていて、これはパンフレットによると、ブリキ缶なのだと言う。どれも共通して錆びており、かなり古びたような風合いのものだった。これらの作品では先にも述べたけれど、モノクロの写真の、白い子供の顔が拡大されて映し出されて祀り上げられるようになっており、その顔の解像度はあまり高くなく、ぼんやりとしていて、それはまさしく死者を写しているような感じであり、画像の曖昧さは幽霊としての存在を思わせると言うか、死者の主体の不確かさと言うか、存在の曖昧さと言うか、記憶の不鮮明さと言うか、まあ何だかそういったようなことを思わせられるような趣向になっていると思う。「保存室」は先にも述べたように、「ホロコーストによる死者たちと間接的に結びついている」と言うのだが、一体どういった意味で結びついているのだろうか? やはり「鎮魂」なのだろうか? 作品に用いられているブリキ缶は「骨壷を連想させる」ともパンフレットは書いているが。子供たちの「顔」しか映し出されておらず、「身体」の部分がまったく表示されていないというのも、ポイントなのだろうか。「顔」こそがやはり人間存在の固有性というものを担保している、とでも言うような――まあよくわからない。そんなことを思わされるような気はしないでもない。
あと印象に残っているのは「ぼた山」だろうか。これは「たくさんの黒い服が積みあげられた山で、もはやその一枚一枚を見分けることは難しい。まるで人間の思い出が全て失われ、一体となっているかのようだ。個々人の個性は消え去り、不定形なかたまりだけが残されている」とパンフレットには説明書きされているもので、まあそういうことなのだろうと言わざるを得ないが、何しろこれは大きかった。この大きな塊、山、が室の中央にどでんと鎮座しており、これもまあやはりおそらくはホロコーストの犠牲者を表象するような類の作品にはなっているのだろう。無名性のなかで無数に死んでいったユダヤ人たち。黒。影。無名性というところから行くと、石原吉郎が言っていたジェノサイドの恐ろしさ、という点も連想的に思い浮かぶ。つまりジェノサイドの恐ろしさというのは、一時に大量の人間が殺されるということではなくて、そのなかに一人一人の死がないということが恐ろしいのだと。人間はその死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだが、ジェノサイドにおいてはそうした単独性、固有性は完全に消去されてしまうというわけで、そうしたジェノサイドの恐ろしさを表現した作品だとも、この「ぼた山」がそうだともまあ言って言えなくはないのではないか――そういう文脈で、人間の固有性を担保するものというのが、やはり、石原吉郎の文脈ではそれは最終的に人間の個性と言うか単独性を担保するものとして残るのは「名前」、「姓名」だったわけだけれど、ボルタンスキーの文脈ではそれはやはり「顔」なのだと、そう読んでみることも出来るのかもしれない。
それで、その「ぼた山」の周りには、木の台に着せられた裾の長いこれも黒いコートに、音声再生機が仕込まれた作品がいくつも並べられていて、これは時折り声を発している。再生機から女性や男性の静かな声が発せられるのだが、これは「発言する」という作品群で、そこで発せられる声というのは問いかけで、「ねえ、怖かった?」とか、「聞かせて、あっという間だった?」とか、「ねえ、君は一人だったの?」とかいうような質問が絶えず発せられているのだが、これは「死」について訊いているのだと言う。「ぼた山」によって表象されている死者に対して尋ねていたとも見られるのではないか。それと同じ室だったと思うが、その端のほうには、「アニミタス(白)」という映像作品が展示されており、これは巨大なスクリーンの前に丸めた紙が無数に敷き詰められているその向こうのスクリーンには、カナダで撮られた映像らしいのだが、真っ白な、どこまでも真っ白い雪原のなか、何か細い棒のようなものに取り付けられた風鈴の映像で、風に揺らされてその風鈴がなる、繊細に金属的な音が室内に絶えず響き渡っているのだった。この作品の前には座って眺めている人も結構いた。瞑想的な、アンビエントな作品と言えるのではないか。それと似たようなものとして、もう一つ、インスタレーションとして、「ミステリオス」と題されたものがあり、これは三つの巨大スクリーンに映し出された三つの映像からなっていて、左の画面には鯨の骨が海岸に横たえられたと言うか敷かれたもの、真ん中の画面は、何かよくわからないのだがボルタンスキーが作ったらしいラッパ状の設置された機具がやはり海岸に岩ばった海岸に映し出されているもので、よくわからないのだが、「ボルタンスキーはラッパ状のオブジェを用い、クジラからの反応を期待してコミュニケーションを試みている」とパンフレットには記されている。室内には何か軋むような、金属的と言って良いのだろうか――金属的というのとはちょっと違うかもしれないが、巨大ロボットが関節を動かす時の音とでも言おうか、まあそんなようなイメージの、軋むような音が響いていて、これもよくわからなかったのだが、これがそのラッパ状オブジェから発せられる音で、それによってボルタンスキーは鯨と何か交信しようとしたということなのかもしれない。右の画面は海の映像である。茫漠と広がる海、そして水平線、そしてその上に空、というシンプルな映像で、時折り、あれは鯨の動きなのだろうか、わからないが、時折り海面が波立つだけで、これは杉本博司の写真を思わせるもの、あの意味の零度を実現したかのような海の写真を思わせるようなシンプルなものだったが、あとでショップで展覧会の図録を覗いてみると、その杉本博司とボルタンスキーの対談も収録されていた。
この日の日記を書きはじめて二時間が経っているが、まだ半分も終わっていない! ひいひい言いながら書いている。ボルタンスキー展であと記憶に残っているのは、最後の部屋の、また写真なのだけれど、最後の部屋には子供の顔の写真がまた配されていて、ただ今度は、その写真は布地に印刷されたのか投影されたのかよくわからないが、そういうもので、布地がベースになっていて、その布地に穴がたくさん開けられているのだ。それは「死に至る病に屈し、あるいは、そうした病にむしばまれつつあるかのようである」とパンフレットには文言が記されているが、まあそういう印象は拭い難い、禁じ得ないもので、特にその穴の様子が一種皮膚病に見えるような写真もあって、天然痘とかを思わせないでもない。諸々の展示の一番最初には、電球で作られた「DEPART」の文字が壁に掲げられて、取り付けられて皓々と照っていて、最後の室の前の入口の上部には、同様に電球によって「来世」との文字が取り付けられて照っていた。ちなみにこの「来世」の前で、それをバックにしながらポーズを決めて写真を撮っている若い女性がいた。それはともかく、「出発」から始まって、一種の「死」の世界というようなものをくぐってきて、「来世」、つまりは次の生に生まれ変わって終わる、というような物語的な趣向を持っているわけなのだけれど、それならば最後は生き生きと「生」を感じさせるような展示で終わった方が収まりが良いと言うか、まあありきたりではあるけれど、物語的な結構として収まるような気がするのだが、むしろそこで、さらに強く「死」を思わせるような、子どもたちの顔を破損させた作品でもって終わるというところがまあなんというか印象的ではあったかもしれない。「咳をする男」の死にかけの様子から始まって、皮膚病に侵されたような子どもたちのイメージでもって終わるという始まりと終わりになっていた。
その後、ショップを見物。こちらとYさんは何も買わず。Nさんはポストカードか何か買っていたようだ。そうして退出し、一階のカフェで休憩することに。ちょうど空いた席があったので、そこに就く。まずこちらが一人席に残って、二人がものを買いに行く。Yさんはチョコレートのケーキと何か飲み物、ジンジャーエールだったか? それに、Nさんは小さなマフィン一つと何か飲み物。テーブルは何だか濡れていた。よく絞っていない布巾で拭かれたらしい。それでハンカチでもって水気を多少拭っておいた。足もとにも濡れ痕があって、誰か何か零したのだろうか。ともかくその後、こちらがものを買いに行く。五〇〇円もするくせに大した量のないハムとレタスか何かのサンドを持ってレジに行き、ほか、アイスココアを注文する。アイスココアも四六〇円だか確かそのくらいしたはずだ。高い! 席に戻って、その時点で二時過ぎだったはずだ。まあ三時くらいまでゆっくりしようということになり、思いの外に結構時間が余ったけれど、どうしようかとなった。話し合って、六本木ヒルズに行ってみるかということに決定。ここではほかにどんなことを話したのか全然覚えていない。ボルタンスキー展の話は全然しなかった。Nさんの名字のイニシャルがFだということは明らかになった。イニシャルがFでこちらと同じなので、それじゃあ、Fですね、F、とこちらの名字を言って――彼らはもうこちらの本名は知っている――笑った。ちなみにNさんの下の名前はSさんと言うらしい。Nさんは途中でトイレに立った。戻ってくると眼鏡を外していて、鏡を見たら、Yさんの言った通り、何かマッドサイエンティストみたいに見えたので外しましたと笑った。それに対してこちらは、全然そんなことないのに、似合ってますよと言うと、それじゃあやっぱりつけますと彼女は眼鏡を目元に戻した。彼女の唇は赤く、時折り口紅を取り出して塗り直していた。彼女の高校生時代のことを話したのもこの時だっただろうか? 彼女は高校時代、不安が強くて、人見知りでもあり、クラスメイトが自分のことを嫌っているのではないかという思いに苛まれて、一時期学校に行けなくなった頃もあったのだと言う。こちらも精神疾患を抱えている身であるし、Yさんも同様で、メンタル的に危うい人間ばかりではないか! Nさんは、前日、飛行機で東京に着いてYさんと会う前にも、外部の人間と初めて会うことがちょっと怖くなったと言うか、それで不安になって、手が震えたりしていたのだと言う。実際にYさんに会う頃には落着いていたらしいが。こちらと会う時はさほど緊張しなかったと言った。何故だ。やはり日記を読んでくださっているので、大まかな人となりがわかっていたからだろうか。実際、この日記を毎日読んでくれている人は、家族よりも友人の誰よりもこちらのことをよく知っている人間となっているはずである。
瞑想の話をしたのも美術館でのことだったかもしれない。それとも、あとで日比谷公園の松本楼に行った時のことだったかもしれない。まあどちらでも良い。記録が出来ればどちらでも良いのだが、瞑想によって精神安定の効果はあったのかと訊かれたので、それはありましたねと答えた。まあ瞑想はもう体をなしていないと言うか、今やっても変性意識に入れないので無意味なのだが、とそのあたりのことも話した。瞑想をすると、以前は繭に包まれているような心地良さに浸ることが出来たのだが、今はもうそうした状態に入れないのだと。ただ、瞑想を長年習慣として続けたことで、苛々は確かにしなくなったと告げた。よく言われることではあるが、怒りと自分を切り離せると言うか、そういう傾向が強まる。自分の感情自体を相対化して俯瞰して眺めることが出来るようになると言うか、それが行き過ぎると離人症みたいになるし、そうでなくてもある種それは感情の生々しさが薄れるということでもあって、まあある面ではつまらないことなのかもしれないけれど、ただ嫌な感情に振り回されることが少なくなったのは確かではある。嫌な感情が湧いたとしてもちょっと時間が経てばすぐに落ち着くことが出来る。前日も、一時間半くらいこちらは上野で待たされてしまったわけだが、そのあいだもまったく苛々などしなかった。待つのは得意である。Nさんは遅れたことでこちらが怒っていないか、ブチ切れていないかちょっと心配していたようだったが、全然大丈夫でしたよ、瞑想で修業を積んだので、とこちらは笑って答えた。
今覚えているのはそのくらいの話で、細かく書くのも面倒臭いのでさっさと次に行こう。三時を過ぎたところで美術館をあとにした。六本木ヒルズへ。ひとまず駅まで戻ることに。それで来た細道を戻るのだが、Yさんが、我々二人は歩くのが遅いと文句を言う。彼は結構歩くのが速くて、その点、前日からNさんも指摘していた。こちらはそれに対して、まあゆっくりだらだら行きましょうよ、人間やはり余裕が大事ですからねと執り成したのだが、Nさんがヒールのやや高くなっている靴を履いていたし、あまり速く歩いては彼女が大変で疲れてしまうだろうとの配慮からだった。女性はよく、ハイヒールの靴を履けるものだと思う。常に爪先立ちしているような感じになるのでしょう? 凄く大変じゃないですかね? 滅茶苦茶疲れそうなイメージがあるのだが。それでゆっくり細道を戻り、駅の七番出口の付近に着き、路傍の地図を確認する。すると、左手にまっすぐ進んでいき、大きな交差点で右折すれば六本木ヒルズだということがわかったので、そちらの方へ。交差点に着くと、Yさんが書店を発見する。それでちょっと寄ってみようということに。ブック・ファーストという店だった。品揃えはそこそこ。立川のオリオン書房や淳久堂書店の方が豊富である。そう考えると立川という街はやはり素晴らしい、書店という点ではかなり、相当に頑張っている街である。こちらは詩集の棚を見ていた。すると二人がやって来た。それから海外文学の棚に。ジョイス・マンスールという詩人の存在を初めて知った。この人はほかにどこの書店でも見かけたことのない名前だった。シュルレアリスム系の人らしい。
見ているうちに四時を過ぎたので、そろそろ行こうとなって店を出た。それで道をまっすぐ行くと、森ビルが見えていたのでそちらの方にまっすぐ行くと、じきにそれらしき区画へ。「にゃんこゲリオン」という、あれは何なのかよくわからないのだが、「にゃんこ」って一体何だ、何故それとエヴァンゲリオンがコラボレーションしているのかわからないのだが、それが大きく記された広告などが見えてくる。そこにTULLY'S COFFEEがあった。Yさんが飲み物を買いたいと言うので、こちらとNさんは二人で店の区画の脇で待った。この時、Nさんに、Fさんは結婚願望とかないんですかというような質問をされたと思う。願望もあまりないし、まあ出来ないでしょうとこちらは答えた。読み書きを続けるということがこちらの人生における最大目的、特に日記を死ぬまで書き続けるというそれが人生の目的の最大のものなので、それが出来る環境を保つとなると、やはり正社員として一日の大半を労働に費やすという生活はしていられない、どうしてもアルバイト、フリーターということになってしまう。病気のこともあるし、性分から言っても自分は多分フルタイムで働けるような人種ではないだろう。それなので、経済的にもパートナーを養えるはずもないし、と言うか現状、二九にもなって両親に未だ家に置いてもらって養われている身であるし、それで結婚など到底出来ないし、まあしたいという欲望もない。と言うかまず女性と付き合ったことがないので――男性ともないが――結婚以前にまずは恋人を見つけろという話である。恋人もまあそんなに欲しいという気持ちもないし、現状、恋人がいないでも何も困っていないと言うか、何も生活に不足を感じていないが。ただ、恋人、いわゆる世間一般的な「恋人」の観念に囚われず、生をともにしていくパートナーみたいな存在は欲しいような気はしないでもない。それはただ、いわゆる恋人ではないのだから、こちらは同性愛者ではないけれど、ことによると女性でなくてもまあ良いのではないだろうか。Nさんは結婚は、と訊き返すと、私は恋人が出来ないだろうなって思います、誰にも好かれないだろうと思っていますという何故か自己評価の低い返答があった。そんなことはないと思うのだが。実際、今まで恋人がいたこともあるはずであるし。ただ、これはあとで松本楼で聞いた話だけれど、彼女は友達などから言わせると「男を見る目がない」女性だと言われているらしくて、以前付き合っていた人も酷い虚言癖だったのだと言う。
そんなような話をしているうちにYさんが帰ってきた。彼は昨日TULLY'Sで飲んだのと同じ品物をまた頼んでいた。それで六本木ヒルズへ。階段を上がって広場のような区画へ。六本木ヒルズに来たのは、蜘蛛のオブジェを見るという目的が一つにはあったのだが、その巨大な蜘蛛のオブジェは広場に入ってすぐそこにあった。それで、その前で三人で記念写真を撮影した。Nさんが携帯を掲げ、こちらと並び、Yさんは二人の後ろ、真ん中のあいだに入るようにして並んで撮影。あとでNさんに送ってもらった写真を見てみると、彼女は片手でピースをしてちょっと唇も柔らかくしているのに、そしてYさんも手を掲げてちょっと笑み風になっているのに、こちらは無表情でぼんやりしたような顔になっていた。
それから、どうするかとなって、一旦森ビルに入ってみた。フロアマップと言うか地図のようなものを見ると、森美術館と一緒に展望台があるようだったので、展望台に行ってみようかということになった。それで出て、歩く。ちょっと進むともうすぐそこに森美術館及び展望台の入口があった。そこでこちらは、尿意が溜まっていたので、トイレに行きたいと口にした。すぐそこに建物の入口があって、そのなかにトイレがあるようだったので、それではと入り、便所に行った。Yさんもトイレに来た。展望台のあと、どこに行くかと言うので、もう日比谷に行ってしまって良いんじゃないですかとこちらは答えた。Nさんの観るライブの会場が日比谷公園の野外音楽堂だったのだ。そうして室を出て、やはりトイレに行っていたNさんをちょっと待ってから建物を出、展望台へ。エレベーターを待って上り、出ると、しかし、大量の人々が列を成していた。塩田千春展は四〇分待ちだということだったのだが、森美術館の展示を見るのではなくて展望台に行くのにも、並ばなければならないようだったので、それではもうここはパスして日比谷に行っちゃいましょうということになり、エレベーターで二階に戻って、来た道を戻って六本木ヒルズを抜けた。
ちょっと行くとすぐそこに東京メトロ日比谷線の六本木駅への入口があったので、乗る。乗るではなかった、入る。それで改札抜けて、ホームに降り、電車に乗る。日比谷までは三駅くらいで、すぐそこだった。降りる。ホームをちょっと移動して、案内の看板を見る。先日、『響け! ユーフォニアム』の音楽を聞きに日比谷公園に来たもので、その時、日比谷公園のすぐ横の出口を使ったのだが、それが何番出口だったか覚えていなかったのだが、一四番出口が一番公園に近いことが判明した。それで階段、と言うかエスカレーター上っていき、改札を抜けて、長々しい通路を歩く。Yさんが先に行く。こちらとNさんは歩調を合わせてあとから。そうして階段上り、日比谷公園のすぐ横に出る。公園内へ。看板見て、野外音楽堂の位置を確認して、そちらの方に。公園内では蟬がよく鳴いていた。今夏初めて聞くものだが、ミンミンゼミの声も耳にした。何だったら自然の多い我が家の周辺よりも、都会の真ん中のくせによく蟬が厚く鳴いていた。それで音楽堂の近くまで行くと、Nさんはグッズを見に行くと言う。それで残りの二人はその場で待機することに。近くの石段にこちらは腰掛け、Yさんと話している。周りにいる人間たちは皆スマートフォンを弄っていて、あれは『ポケモンGO』をやっているんじゃないですかとか言っていると、一人の画面を覗いたらしいYさんが、正解、と言った。『ポケモンGO』のブームというのはもうすっかり下火になったものだと思っていたのだが、そうでもないのかもしれない、皆まだ結構やっているのかもしれない。まあスマートフォンを持っていないこちらには関係ないし、持っていたとしても自分はやらないと思うが。Nさんはすぐに戻ってきた。ああそれで書き忘れていたけれど、書き忘れていたよな? と思うのだけれど、Nさんが今日見るバンドというのは相対性理論だと言った。名前は聞いたことがあるのだが、こちらは彼らの音源は一度も聞いたことがない。やくしまるえつこという名前のみは知っている。Nさんが、歩いているあいだ、Fさんはあまり好きじゃないかも、みたいなことを言うので、よく聞くのはジャズですよね、と言うので、でもポップスやロックも聞きますよとこちらは答えた。かなりポップなバンドらしい。でも、ものんくるみたいな感じではないのだろうか? ものんくるはちょっと違うか。
Nさんはすぐ戻ってきた。イラストの描かれた手提げの袋を買っていた。それで、ライブが始まるまでどうしましょうかということになり、先ほど歩いている時にこちらが喫茶店みたいな建物を見かけていたから、あっちの方に店っぽいのがありましたよと言って、そこに行ってみることになった。それで道を戻り、背の低い草むらのなかにひらかれた細道を通り、行ってみると、これが松本楼という建物だった。あとでメニューを見たところでは、高村光太郎の名前があったので、彼がよく通っていた店なのかもしれない、何となくそんな話を聞いたことがあるような気もしないでもない。松本楼には高級なレストランと、それよりも廉価な方のレストラン・カフェみたいな店舗が入っているようで、我々は勿論カフェの方を選んだ。入って三人と告げ、ソファ席に通される。こちらはソファへ。Nさんはこちらの隣。Yさんは向かいの椅子の席へ。こちらとYさんは自家製ジンジャーエールというのを頼み、Nさんはレモンスカッシュを頼んでいた。この自家製ジンジャーエールが七〇〇円もする代物なのだが、自家製感は確かにあった。生姜の味がかなり濃くて辛めで、なかに、あれも生姜のものなのだろうか、何か粒のようなものも混ざっていた。こちらはゆっくり飲んだ。
そうしてふたたび会話。店に入ったのは多分五時半頃だったか? それから七時を過ぎるまでくっちゃべっていた。さて、その内容なのだが、ここまでで既に三時間、一万七〇〇〇字も書いたし、結構疲れたので一旦ここで休ませてもらうことにする。ベッドに横たわって本でも読もうと思う。そのあとは夕食のためのカレーでも作らなければならないので、ふたたび文を書くのは夜になって夕食と風呂を終えてからのことになるだろう。
最初に何の話をしたかなど、まったく覚えていない。Nさんに、FISHMANSを凄く聞いていますよねと言われた時があった。聞いていると言うよりは、BGM的にただ流しているだけなのだが。音楽を聞くというのも、以前よりも消費的な態度になってしまっている。あまり集中して耳を寄せるということがない。それはやはり残念なことなのだろう。飽きたりしないんですかとNさんは続けたが、こちらは、飽きるとか飽きないとかの問題ではなくなってきているような気がする、とりあえず一日の最初にFISHMANSを流すか、というような習慣になってきていると答えた。Nさんはジャズは聞かないんですっけと訊くと、ジャズは全然知らないとの返答があり、お勧め何かありますかと言うので、Bill Evans、と口にして、定番中の定番中の定番くらい定番ですけどねと言って笑った。その場でNさんは、サブスクリプションのサービスをひらいてアルバムを検索しはじめた。例えばどれが良いのかと訊かれて画面を見ると、なかに、『Sunday At The Village Vanguard』があったので、これとか、と指差して、"All Of You"とか"Alice In Wonderland"とか良いですよと紹介した。と言ってもこちらがいつも聞いているのはライブをそのままの順番で収録したコンプリート音源なので、『Waltz For Debby』や『Sunday At The Village Vanguard』の編集された順序ではもう長いこと聞いていないけれど。しかし今考えると、一九六一年のBill Evans Trioのライブ音源をジャズを聞いたことのない人間に勧めるのはあまりよろしくなかったかもしれない、と言うのもこちらの考えでは、あのライブは大名盤で入門盤としてもしばしば挙げられているけれど、初心者にそんなに優しくない音楽であるようにも思えるからだ。Evansは良い、Evansのピアノはとにかく綺麗なので、まあ大方誰が聞いても悪くは思わないだろう。しかし問題はScott LaFaroである。LaFaroは端的に言って馬鹿と言うか頭がおかしいので、彼のプレイはあまり初心者には親切ではないだろうと思う。まあEvansの優美さだけでも聞けるというのがあの盤の利点でもあるのだが、それよりはしかし、Miles Davisのマラソン・セッションあたりを勧めたほうが入門としては入りやすいのではないかと今更ながら思う。
Nさんは今一九歳である。とすると、こちらとは一〇年の時間のひらきがあるわけか、と改めて口にした時間もあった。こちらももう三〇歳、三〇歳と言われるとだいぶおっさんになったなあと思うが、実感としては全然そんな感じはしない、というような話もした。Yさんが自分自身について、あまり精神は歳を取っていないというようなことを言った時だったと思う。大学時代とか高校時代とかが最近と感じるかと訊かれたので、全然そうは感じない、と言うか自分の場合は文章を書きはじめる前とあととで全然別人になったと思うので、文章を書きはじめるより前の過去というのは別世界のようなものだ、そこに自分の場合は歴史の区切りがあると述べた。文章を書きはじめたのは大学を出た二〇一三年の一月のことである。それよりも以前の大きな歴史的区切りとなるような事件というと当然東日本大震災があるわけだけれど、その時点でこちらは二一歳である。確かあの時は、まだ休学中だったのではないか? それとももう三年生を始めていた年だろうか? 二〇〇八年四月に大学に入学して、二年過ごしたあと、二〇一〇年の五月から一年間休学したわけだから、二〇一一年の三月は復学直前といったところか。あの日はこちらは福生にいた。あの地震の瞬間に自分がどこにいたかを、揺れを体感した人間は皆多分覚えているだろうということはやはり凄いことではないかと思うが、こちらは福生駅前のドトール・コーヒーにいて、高校の同級生のY田と会っていた。何で会っていたのだったか? その点はわからないが、外出して他人と会うことが出来ていたという点からも、自分の回復ぶりが窺われるだろう。あの日はその後、電車が停まってしまったのでYの家まで歩いていって、そこから車で送ってもらい、帰宅難民になることはなかった。そうした幸運も手伝ってか、自分としてはあの震災によってそこまで実存を揺るがされるほどの衝撃は受けなかったというのが正直なところなのだが、あの時点で既に文章を書きはじめていたら話は多少違っていただろうと思う。文学的な知見も政治的な知見も、今も大してあるわけではないけれど、あの時点では端的に言ってゼロだったのだ。
それで、何の話だったか? 年齢の話か。Yさんが、Nちゃんもそろそろ二〇だけれど、Fくんは二〇歳の時は何してた、と訊くので、その頃はパニック障害に苦しんでいましたねとこちらは笑った。外に出れなくなったりしたんですかとNさんが訊くので、僕は幸いそこまで酷くはなかったけれど、それでもピークの時は近所を散歩するだけでも緊張していましたねと告げた。それからパニック障害の症状について多少の説明をした。パニック障害というのは別名不安障害なので、とにかく理由もなく不安になってしまうということを理解しておけば基本はオーケーである。そうしてその不安がピークに達すると、発作が起こる。発作の症状は人それぞれだが、息が出来ないようになったり、吐き気のような感覚に襲われたり、動悸が激しく高まって発汗したり、死ぬのではないかという恐怖に襲われたりといったものである。前にも書いたことがあるが、普通の人が一生のうちに味わうであろう緊張のうちの、その最大のものを遥かに越えたものだと思う。パニック障害というのは、そうした普通の人が一生のうちで一番緊張した、というような体験、その状態よりも強い緊張や不安が常時続くようなものだと思っていただければ、この病気になったことのない人間でもわかりやすいのではないか。それだから発作は発作で勿論しんどいけれど、発作に至らなくても常時の不安によって心身は蝕まれ、かなり疲弊する。最初は発作の起きる場所、不安の惹起されるシチュエーションも限定されているのだが、病気が進んで酷くなってくると、要はいつどこにいても発作が起こってもおかしくない、という思考になるので、環境を限定せずに常に緊張し、不安を常に抱えて生きることになる。つまりは、存在そのものが不安と結合されるというか、端的に言って存在=不安、というような等式が成立することになる。それだからこちらも、一番最初に発作が起こったのは電車のなかだったので、初めのうちは不安になるのは主に電車内だったが、じきにどんな場所でも不安を催すようになってきて、例えばコンビニとかスーパーとかで買い物をしているような時でも発作が起きそうになったこともあったと述べた。あとは大学の講義やテストだ。講義とかテストとかいうああいう、要するに「公的な場所」のようなものは、パニック障害患者にとってはなかなかの、相当の試練である。
Nさんに進路はどうするんですかと訊いた時もあった。彼女は今大学で、ウェブデザインのようなことを学んでいるので、そちらの方面に進めたらと思っているらしかった。ただ、地元福岡で就職するか、東京などに出ていくかということはまだ決めていないらしい。東京に出たい気持ちはないんですかと訊くと、展覧会とかライブとかが観やすいのでそういう気持ちはなくもないが、家賃も高いだろうし、東京で暮らしていくほど自分に生活力があるかどうか、自信がないとのことだった。
結婚の話もふたたびした。NさんがYさんに結婚願望はと訊くと、Yさんは、いや、不幸にしちゃうからねと答えたので、こちらも乗っかって、そうそう、相手を不幸にする自信ならありますと笑った。Nさんは先ほども書いた通り、何故か自分は誰にも好かれないのではないかという心理を抱えているらしく、結婚も出来ないだろうと思っているらしかった。それに対してYさんは、Nちゃんは幸せな結婚をするような気がするけどね、と言っていた。こちらは、パトロンが欲しいと最近たびたび言っていることをここでも改めて表明し、僕の日記に惚れ込んで、活動を支えてくれるような人がいたら結婚してもいいですけどねと最悪なことを口にして笑った。ヒモじゃないですかとNさんが言うので、それにも笑った。しかし彼女曰く、ヒモになるにも才能が必要なのだと言う。相手に依存して、困らせても良心の呵責をまったく覚えないような最低な人間でないといけないらしい。Fさんはそんな感じはしないのでと彼女は言った。
そのほか、政治の話も多少はした。Nさんの友人にはやはり選挙の投票に行かない人が結構いるらしく――彼女自身は投票に行った――そういう友人たちに対して、投票に行ってほしいという気持ちはないでもないのだけれど、興味もない人に対して促したり説得したりするのは難しい、それで関係がこじれてしまっても、というようなことを言うので、まあそれはそうだろうなあと受けた。今回の参院選も投票率はだいぶ低かったようで、正確な情報を見ていないけれど、半分を切ったのだったか? まあ二〇一六年にイギリスがEUを脱退するかどうかの国民投票をした時だって投票率は七割でしかなかったので、その時こちらは、あれだけの大きな事柄でも三割もの人間が投票しないのかと驚いたものだったが、もう民主主義とはそういうものにしかならないのかもしれない。こちらは、とりあえず現状に不満を感じていなければ与党に投票すれば良いし、何かしら自分の生活に不満や問題があって現状を変えてほしいのだったら野党に投票すれば良い、そのくらい気軽に考えて良いと思いますけどね、と言っておいた。
Yさんがじきに、薬の時間だと言って、テーブル上に飲むべき薬をたくさんばら撒いた。かなりたくさん種類はあった。エビリファイとジェイゾロフトはこちらが飲んでいるのと同じものである――こちらの場合は、ジェネリックにしているので、名前はアリピプラゾールとセルトラリンとなっているが。そのほか、ルーランやデパケン、あと何だったか、リボリトールというやつだったか? 頓服用のやつだけれど、それなどがあった。Yさん自身も、今の服薬は多すぎるのかもしれないと思っているらしかった。医科歯科大から地元横浜のクリニックに変えた時に、一気に増やされたのだと言う。疑わしい医者なのではないか。と言うか、ジェイゾロフトとルーラン、デパケンあたりは効用が被ってはいないだろうか? Yさんは多分医者を変えたほうが良いのではないか、とこちらは無責任に思うのだが、彼自身ももしかしたらそう思っているのかもしれない。ともかく、段々減らしていけたほうが良いですよね、とこちらは口にして、僕もさっさと減薬したいんですけどねと漏らした。
ああそう、Nさんの過去の恋人の話を聞いたのもこの時である。彼女には三月くらいまで付き合っていた人がいたらしいのだが、先にも書いた通り、その人が虚言癖で、さらには鬱病のような病状も抱えていたらしく、精神的にも危ういようなタイプの人だったみたいで、それを友達に話すと、男を見る目がないと言われてしまったのだと言う。彼女の好みのタイプを聞いてみると、まずは痩せている人、という返答があった。と言うよりは、がっちりしている人が苦手なのだと言うのだが、それは、彼女の自己分析によると、父親に対する恐怖感のようなものから来ているのではないかとのことだった。彼女の父君も結構しっかりしていて背も高いらしい。ほか、自分の思想がない人は駄目だ、というようなことを彼女は言っていた。はっきりとした考えを持っていないと駄目なのだろうか。そんなNさんはYさんに対して、Yさんはすぐ誰でも好きになりそうですよね、みたいなことを言ったのでこちらは笑った。Yさんは綺麗な人が好きでしょ、あと胸の大きい人とかと言うので、そこでも笑った。でも、綺麗な人は僕も好きですよそりゃ、とこちらは執り成したあと、しかし綺麗でなければいけないかというとそうとは限らないかもしれないなと独りごちるようにさらに続けた。外見よりも、この歳になってくるとやはり、一緒にいて楽かどうかみたいなことが重要になってくるのではないかと話した。ここでこちらは、結婚や恋愛はともかくとしても、パートナー的な相手は欲しいような気がすると述べ、世間一般の恋人の観念に囚われず、人間として「良い関係」を築き、生をともにしていけるような相手は欲しいかもしれないと話した。
まあ大体話としてはそんなものだろう。七時を迎えたあたりでNさんがそろそろライブに行くということになり、店をあとにすることにした。Yさんがまとめて払ってくれると言うので、こちらはジンジャーエールの代金七〇〇円を彼に渡し、Nさんと一緒に先に外に出た。Nさんは、Fさんとももうお別れですね、悲しいです――寂しいです、だったか?――と言った。またお会いできたら良いですねとこちらは受けて、出てきたYさんと一緒に、Nさんをライブ会場の近くまで見送りに行くことにした。道を辿って、野外音楽堂の近くまで来ると向かい合い、有難うございましたと互いに礼を言った。手を差し出して握手を求めると、Nさんは両手で包み込むようにこちらの右手を握ってくれた。詩集、大切に読みますねと言うので、是非読んでくださいとこちらは受け、それじゃあ、と去っていくNさんに向けて、ライブ、楽しんでくださいと掛けて見送った。彼女の姿が見えなくなるまでその場で見送り、それからYさんと公園の出口に向かった。有楽町駅まで歩いていこうということになっていた。前回日比谷公園に来たときも、有楽町駅まで歩いたのだが、道をさほど正確に覚えているわけではなかった。ただ線路沿いを歩いていったことは覚えていたので、線路が見つかれば何とかなるだろうと思っていたところ、公園を出ると大きな通りの向こうに電車が通る高架線路が早速見えたので、あそこまで出て左折すれば良いと思いますと言った。それで歩き、何やら馬鹿でかい劇場の建物の横などを通り、線路沿いに出て左折し、飲み屋やラーメン屋やらのあるなかを歩いていった。こちらは腹が結構減っていた。それでYさんに、Yさん、腹減っていないですかと訊いて、何か食って行きましょうかと提案した。歩いているうちに、有楽町電気ビルという名前だったと思うけれど、レストランの色々入っているビルが見つかった。レストラン一覧が記されたその看板の前で止まり、Yさんと話し合った。彼はあまり腹が減っていないのかわからないが、あまり正式な飯は食べたくないようだったので、カフェの方が良いかと思い、ドトール・コーヒーがあるのでそこに行きましょうかと口にした。それで階段を下って地下に入り、ドトール・コーヒーの店舗に行ったのだが、この店が何と既に閉まっていた。まだ七時である。こんな都会で七時に閉まるなどあり得るのかと思ったが、仕方ない、外に出て、ふたたび道に戻って進んでいると、今度もまた有楽町ビルとかいう、やはりレストランなどの食い物屋が色々入っているビルが発見され、そこにはサンマルク・カフェがあるようだったので、ここに行こうと相成った。それでビルに入り、地下に下り、サンマルク・カフェに入って、こちらはサンドウィッチとオレンジジュースを注文し、Yさんはチョコクロワッサンのみを頼んでいた。それで店に奥の隅の席に就いてそれぞれものを食べ、飲んだ。ここでどんな話をしたのかは全然覚えていない。恋愛感情は今はあるでしょう、と尋ねられたので、誰に? と返すと、塾の生徒とか、と言うので、それはないですよと笑った。そう言えば、過去の唯一の恋愛体験、恋愛体験と言っても付き合ったわけではなく一方的に恋慕していたというだけの話だが、女性を好きになった体験として、Tのことを二人にこの日多少話したのだったが、それはもう書くのが面倒臭い。それでものを食い、飲み終えて店をあとにすると地上に上がり、有楽町駅に向かった。
改札をくぐり、ホームに上がって、山手線に乗った。Yさんは一駅あとの新橋で降りると言う。それで新橋に着くと、握手を交わして、またそのうちに会いましょうと言い合って別れた。こちらはその後、手帳を眺めていた。途中で席が空いたので座ったが、大崎だったか? 乗っている電車が大崎までで停まるもので、回送になってしまうものだったので、そこで降りて向かいの番線に並んだ。それでやって来た山手線にふたたび乗り、この時立っていたのか座っていたのか――いや、確か立っていたはずだ。立ちながら手帳を眺めた。それで新宿で乗り換え。東南口や南口に繋がっている区画に上がっていき、一二番線に降りて、前日と同様一号車の位置へ。ちょうど青梅行きがあった。乗り、手帳。さすがに結構脚が疲れていた。それで座りたいと思っていると、三鷹あたりだったか、一席空いていながら、その前に男性が立っているのだけれど座らずに空いている席が見つかったので、そこに入った。それで手帳。手帳! 手帳! とにかく手帳を読み続ける。青梅まで座れたので良かった。携帯で日記を書いても良かったのだけれど、結局書いたところでそれを修正しながらパソコンに写してまた書くのに結局また時間が掛かるわけだし、今日の分は記憶に頼って書くかというわけで日記は携帯では書かずに手帳を眺めたのだった。
路程の最後の方ではちょっと微睡んでいた。青梅に着いて出ると雨が降っていたので、小走りになってホームを駆け、屋根の下へ。奥多摩行きは既に来ていた。乗ってまた手帳。そうして最寄り。最寄りに着く頃には雨は止んでいた。帰路を辿る。帰路に特段に印象深いことはなかったと思う。帰り着くと靴を脱ぎ、靴下も脱いで洗面所の籠に入れておき、自室へ。服を脱ぐ。コンピューターを点ける。Twitterをちょっと覗き、開票速報をちょっと見てから風呂へ。入浴。出てくると室に戻って、今日は文を書く気力がなかったので、コンピューター前でだらだらする。開票速報また見たり、Twitterを眺めたり。それで零時を越えるとベッドに移って本を読みはじめる。何を次に読もうかと思ったのだが、本棚に積んである本たちを見て、小説を何か読もうと思っていたのだが、というのも最近小説を全然読んでいなかったからなのだが、それで河出文庫のジャン・ジュネ/生田耕作『葬儀』に決めた。そうしてベッドに横たわって読んでいたのだが、三頁くらいしか読まないうちに意識を失ったようだった。気づくと四時。そのまま就床。ああ長かった。
・作文
8:48 - 8:54 = 6分
・読書
9:25 - 9:55 = 30分
10:35 - 11:24 = 49分
24:18 - ? = ?
計: 1時間19分+?
・睡眠
2:40 - 8:00 = 5時間20分
・音楽
なし。