2019/7/27, Sat.

 (……)伝統的な歴史研究においては、出来事は本質的に顕在するものであって、歴史家の使命は、その背後に隠された原因あるいは意味を探求することにあった。それに対して、たとえばショーニュの研究では、同時代人にも見え、直接知覚できる出来事の下に、いわば歴史の泡とも言うべき出来事、同時代の人間には、知覚されなかったり、見えていなかった出来事が存在することを明らかにする。たとえば、セビリア港に一隻の船が入り、あるいは出ていくという出来事は、当時のセビリアの住民は完全に知っていた出来事である。しかしこの種の出来事の層の下には、より拡散した、別の型の出来事が認められ、それは、同時代人が正確に同じように知覚してはいなかったにせよ、ある程度は自覚していた出来事、たとえば価格の変動といったものであり、さらにその下には、所在をつきとめることが困難で、同時代人にはしばしば自覚されなかった別の出来事、たとえば経済曲線の変化や逆転といったものが見出される。しかも、このようなレベルの出来事は、たとえば、現在のように一国の経済に関する比較的厳密な統計を持っている経済学者ですら、完全に判定はできないものであるにもかかわらず、結局は深いところで世界の歴史を決定する出来事であることは、いまさら言うまでもない。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、23; 「フーコーの方法」)

     *

 清水 (……)たとえば『狂気の歴史』では狂気のことは何も書いてないっていうことがあるでしょう。
 渡辺 ヤスパースのように狂気の本質を問うことはしない、ということから始まる。
 清水 『狂気の歴史』という本は、ある時、理性の天下をつくるためにどのようにして非理性を排除したかという、その排除の仕方だけ書いているわけですよね。ある概念が成立するために、その周りにいかなる排除が起こり、いかなる輪郭が浮かび上がってきたかということだけを非常に明晰かつ精密に書いた。まあ「だけ」というのはすこし大げさかもしれないけれど、あの本には、十六世紀にいおいて〈メランコリー〉という語で何が考えられていたかは書いてあっても、そういうアプローチが現代まで続いているわけではない。「狂気の歴史」と題しながら、狂気それ自体の質が歴史的にどう変わったとか変わらないとか、狂気そのものについての研究や考察が歴史的にどういう展開を示しているかということはすこしも書いていない。それはすごく不思議なんですね。『狂気の歴史』が出た時、フーコーが狂気の復権を唱えたなんていう言葉がとびかったけど、そんなことは全然言っていない。
 (50~51; 渡辺守章清水徹フーコーの声」)


 九時半頃起床。上階へ。今日は両親とも在宅。しかし母親は夕方からEさんと会うらしいし、父親は父親で夜は会合。上がっていくと両親は洗面所にいた。こちらは便所に行って用を足し、その後、冷蔵庫からカレーを取り出して、冷たく固まったものを大皿の米の上に掛ける。そうして電子レンジに突っ込んで、四分間も加熱した。その他、豚肉の炒め物の残りと生サラダ。ものを食べ終えると、両親は買い物に行くと言う。それでもし雨が降ったら洗濯物を頼むと言うので了承。父親が食器を洗ってくれたので、こちらは風呂場に行って風呂桶を擦り洗った。シャワーで洗剤を流し、出てくると、父親は今度は台所に立って電気ポットを掃除していた。その後ろを通って下階へ。自室に入るとコンピューターを起動させ、前日の記事の記録を付ける。それからはてなブログにログインすると、新しい通知が生まれていた。何かと思えば、Nさんが東京紀行の二日目を書き、そこでこちらのブログのURLを貼ってくれたのだった。それで彼女の文章を読み、ついでに自分の二一日と二〇日の文章も読み返した。まあそれなりに面白く書けているのではないか。それからnoteにアクセスしてみると、通知のなかに、Kさんという方がサポートをしてくれたとあって、見れば、五〇〇円を寄付してくれたのだった。さらには二五日付の記事にも一〇〇円払ってくれていて、非常に有難い。感謝(驚)である。それでこの方にお礼のメッセージを送っておき、そうして日記を記しはじめたのが一一時一四分だった。それから一時間ほど、裸の上半身の肌に汗を帯びながら書き続けて、二六日付の記事が書き終わったところで上階に行った。両親は買い物から帰ってきており、食卓にはチェーン店の寿司などが用意されてあった。まだ腹が減っていなかったが、悪くなってしまうと言うので食べることにして、卓に就き、シーチキンの手巻き寿司を一つ食ったあと、握り寿司を摘んだ。そのほか、ワカメのふんだんに入ったスープと、同じく生ワカメの和え物。『メレンゲの気持ち』でデザイナーのコシノヒロコお好み焼きを作っているのを眺めながらものを食い、ふたたび父親が率先して食器を洗ってくれたのでそれに任せて下階に下りてくると、FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだして――ちなみに先ほど日記を書いているあいだは、同じくFISHMANSの『Chappie, Don't Cry』を掛けていた――日記。ここまで綴ってほぼ一時に至っている。
 それから、前日職場からコピーしてきた英語のプリントを勉強した。FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなか、閉じたコンピューターの上にプリントといらない紙を置き、受験勉強のように問題を解いていった。答えを見ないでもわりと解けたので、英語の文法などもう細部は全然忘れたつもりでいたけれど、自分、意外とやれるなと思った。二時前まで解き進め、職場からコピーしてきた分はすべて解き、確認して、それからMさんのブログを読みはじめた。この時点でもう、ブログを読みながら歯磨きをしていたと思う。続いてSさんのブログも三日分。それで二時一九分に達し、電車は三時三九分かそこらだったと思うが、その時刻が来るまで読書をすることにした。 プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』である。四〇分ほど読んで、三時を過ぎ、それから出勤の準備を始めたが、細かい手順など覚えていない。服を着替えた。バッグに荷物を入れた。それくらいで良いだろう。そうして上階に行くと、母親はエアコンの点いた居間で寛いでいた。まだ電車まで余裕はあったが、早めに出発。道中のことなど覚えていやしない。暑かったことは間違いない。空には雲が多くて、日蔭と日向の移り変わりが頻繁だった。坂を上っていき、駅へ。無人のホームに着くとベンチに腰掛けて手帳。ワイシャツと肌着の裏の肌が汗にまみれて、いくらかぞくぞくとする。座っているあいだにも日向が足もとまで押し寄せてくる。一五分かそのくらい待ったと思う。アナウンスが入ると立って、手帳を片手に持ったままホームの先へ。乗る。手帳。青梅着。降りて、通路を辿って駅を抜け、職場へ。
 今日は三時限。一コマ目は、(……)さん(中三・英語)、(……)さん(高三・英語)、(……)さん(高三・英語)。家で予習したのは(……)さんの範囲である。そのおかげで問題なく解説できた。(……)さんがこちらに見つからないように携帯を授業中弄っているのが少々いただけない。彼女は見つかっていないと思っているのかもしれないが、余裕でバレている。いちいち注意するのも面倒臭いので特に触れないスタンスだがこちらは、しかしそのせいで進みが悪くなるのは良くないことだ。今日も、本当は今日扱った比較の単元以外にもう一頁復習しようと思っていたのだが、進みが遅かったのでそれが出来なかった。なるべく彼女の傍に立つようにして携帯を弄るのを防ごうとしたが、ほかの生徒にも当たらなければならないので、完全に防ぐことが出来るわけではない。
 二コマ目は(……)さん(高三・現代文)と、(……)さん(小五・社会)。二人相手はやはりやりやすい。細かいところまで指導できるし、余裕もある。(……)さんはノートには要約の練習をしてもらった。(……)さんは社会の初回。今日は緯線・経線とか、北方領土とか、そんな感じの単元。ノートはたくさん書いてくれた。
 三コマ目は、本当は三人相手のはずだったのだが、欠席なり何なりで一対一になった。マンツーマンである。相手は(……)さん(中三・英語)。彼女もなかなか進みの遅い生徒だが、今日は一対一だったので、ほとんど常につきっきりで当たることが出来たので、助動詞の単元を一頁と、復習を一頁行うことが出来た。助動詞の単元は、一番簡単な問題の頁を一回一緒に解いたあと、直後にもう一度、自分一人のみで解かせてみたのだが、そうすると問題なく出来ていたので良かった。単語の質問などしていても、そこまで絶望的に覚えが悪いという感じでもないような気がする。ただ、基礎的な力がないのは間違いないのだが。彼女くらいの生徒だと、本当は一対一の家庭教師とかの方が合っているのだろうなとは思う。最低でも一対二の時に当たりたい。三人相手のなかに彼女が含まれているとなかなか厳しい授業になる。
 それで終業。室長は途中で帰って、残っているのは(……)くんと(……)先生のみ。それで、二人に、明日何かあるのと声を掛けた。二人ともないということだったので、それなら飯食いに行こうよと誘った。それで行くことに。駅前からほんの少し歩いたところに、地ビールの店があると言うので、そこに行くことに。それで三人で教室を出て、家に財布を取りに行く(……)くんを待って、(……)先生と二人で並んで話をした。バス停のベンチに座って。彼は今大学二年。工学系の学部らしい。プログラミングなんかをやっていると。(……)くんが戻ってくると、三人で歩き出し、店へ。ガラス張りになっていて、表から店内が丸見えの店で、だからこちらの母親などは入りづらいと言っていた。ということを話しながら歩いていき、入店。がらがらだった。ほかにいた客は一組、男女一人ずつのみ。二人はビールを頼み、こちらはジンジャーエール。そのほか、ソーセージの盛り合わせ、ミモザサラダ、チキンのトマトソース煮込み、ピザ、カツレツなど。最終的に会計は五一〇〇円だったのだが、これは多分あちらのミスで、二杯目の飲み物やカツレツの値段が含まれていない。レシートを今見てみても、カツレツの表示がない。こちら側としては得をしてしまったわけだが、申し訳ない感じでもあるけれど、もしかしたら店側がサービスをしてくれたのかもしれない。真相は不明である。
 それで、色々と話したのだけれど、一番面白かったのは(……)くんの報われない恋愛話だったのだが、今細かく書く気力がないので、省略する。彼は大学三年生。法哲学をやるゼミに入っていて、今読んでいるのは木田元『現代の哲学』とのこと。前日に職場で何か文庫本を読んでいたので、あれがそうかと訊くと、あれはそうではなくて、ドストエフスキーの『地下鉄の手記』だったとのこと。情報や知識を得るのは好きだが、読書自体は嫌いだとよくわからないことを言っていた。
 細かい話を書く気力がない! 面倒臭い! 零時に達したところで、その時点で客は我々しかいなかったわけだが、店側からすみませんが閉店の時間ですとの声が掛かった。腰の低い、中年くらいの女性だった。それで会計。先に書いたように五一〇〇円だったので、それじゃあ千円で、と二人に向かって一本指を立てて、千円札二枚を頂いた。それで会計を済ませ、長いあいだ有難うございましたと店員に声を掛けると、あちらは恐縮して、いえいえ、また来てください、みたいなことを言った。それで出て、二人と向かい合い、有難うございましたと挨拶する。(……)くんが、誘ってもいいですかと訊くので、良いですよと答え、別れた。そうして夜道を三〇分ほど歩いて帰宅。
 帰宅すると風呂に入り、入浴後は部屋で一時半から読書をしようと始めたのだが、例によっていつの間にか意識を失っていた。気づくと午前五時。就床。


・作文
 11:14 - 12:28 = 1時間14分
 12:48 - 12:58 = 10分
 計: 1時間24分

・読書
 13:55 - 14:19 = 24分
 14:25 - 15:08 = 43分
 25:31 - ? = ?
 計: 1時間7分+?

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-19「そしてその目をどこにやる打ち明けたあとの余白と神々しさと」; 2019-07-20「透明な個室の隅で君は泣く君はぶたれる君がはじまる」
  • 「at-oyr」: 2019-06-08「虚構と制作」; 2019-06-09「ネットワーク以前」; 2019-06-10「雨」
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』: 116 - 124

・睡眠
 4:30 - 9:30 = 5時間

・音楽