2019/8/4, Sun.

 ところでそのデリダが〈エクリチュールの学〉として構想する〈グラマトロジー〉、それは単に文字言語としてエクリチュール復権させようとするものではないが、しかし差し当たり、〈生きた音声言語[パロール]〉によって〈死んだ言葉〉として排除され、単なる〈補完物〉、しかも危険な[﹅3]補完物に過ぎないと貶められてきた〈文字言語〉が、何故、どのようにしてそのような抑圧を蒙ってきたか、その系譜学を企てようとするものだ。彼が〈現前性[プレザンス]の形而上学〉と呼ぶプラトン以来の西洋世界の〈知〉の根底を成すものの形成とその君臨の地平のなかで、デリダが掘り起こし読み直すテクストは、まずはルソーの『言語起源論』であり、プラトンの『パイドロス』であり、更にはニーチェの『悲劇の誕生』のテクスト圏、フロイト精神分析の言説、あるいはアルトーの〈残酷演劇〉の要請であった。ルソーの『言語起源論』における始原的言語への幻想と、文字言語の断罪とは、それが拠って立つ基盤もろとも、読み直されるのであるし、ニーチェにおけるディオニュソス的言語の体験、フロイトにおける〈夢〉という〈エクリチュールの舞台〉の発見と読解作業、そして、アルトーにおける音声=分節言語の廃絶と、〈生きた象形文字〉の実現とは、いずれもこの〈エクリチュール〉と呼ばれる怪しげな、危険な影=分身との関係で論じられていた。
 このような音声=分節言語の君臨を、デリダは〈音声 - ロゴス - 中心主義〉と呼び、その〈存在 - 神 - 学[オント・テオ・ロジー]〉の構造を暴くわけだが、その際に、西洋世界にあっては歴史的に言って、演劇の場が、このような構造の規範的な顕揚の場であっただけに、それは同時に、このような存在 - 神 - 学的構造関係を超克する企てにおいて、ほとんど特権的な闘いの場と見做され得るのであった。特にこの点は、アルトー論において尖鋭化される。アルトーが拒否したのは、まさに、舞台の外に、それを超えて、作者の言葉として書かれ、舞台上に君臨する言葉だったが、それはさながら天地創造の神の言葉が被造物に対して持つのと同じ関係に立つと考えられたのだ。デリダは主として〈分節化=ずれの発生〉に対する反抗として、ルソーの言説もアルトーの主張も読み直そうとする。しかし、アルトーが分節言語である限りの音声言語を拒否して、純粋に空間的な言語を要求し、肉体の深層から発する「叫び」によって演戯体を「生きた象形文字」に変容させようとしたのは、時間的に先行しかつ超越する存在=始原の拒否であり、従ってその帰結として時間の目的論的神学構造をも拒絶することであり、〈時間〉という神学的圧制者から自由になるための戦略でもあった。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、176~178; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 ハムレットの夜、または空間と演戯」)

     *

 しかし、この〈空間の君臨〉も、単なる文芸批評や哲学の任意的・偶発的選択に基づくものではない。デリダの『グラマトロジーについて』の出発点が、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』第二十八章「文字の教授」の批判的読解であったことは、この際思い出しておいてよいことだろう。如何にもレヴィ=ストロース自身、自らの「構造的人類学」を確立するに当たって、マルクス主義に代表される〈歴史の呪物崇拝〉を排し、〈時間〉の暴政から〈知〉を解き放とうとしたのであるから。優れて音楽的想像力の持ち主でもあるレヴィ=ストロースにとって、直線的な、しかも普遍的に通用すべき発展段階説に基づく史観――それは進歩的イデオロギーの部品であろうとなかろうと、いずれにせよ西洋近代が作り上げた「進化論」の文明版には違いなかった――から、自己の研究領域を切り離し、自立させることが急務だったのである。
 それは、地球上の空間の意味の変化とも深い関わりがあるだろう。もはや地球上の諸文明に進化論的上下関係はなく、すべては等価であるとする一つの倫理を彼は自らに課した。言いかえれば、それらの文明を担う諸空間もまた等価なのであった。この〈空間〉の復権が、西洋型文明の植民地支配の、少くともその十九世紀型支配の終焉と重なっていたことは恐らく偶然ではない。と同時に、すでに垣間見たように、〈空間〉の幻惑は、ヘーゲル的時間の神学構造の拒否と表裏一体をなす。そこには革命の挫折や幻滅から来る目的論的時間の神話の崩壊が、さし当たりは重なっているように思える。フーコーも「権力の目」のなかで強調しているように、〈空間の問題〉が西洋社会において、歴史的・政治的問題として立ち現われるのには長い時間を要したし、そのような空間の軽視には、哲学の言説の偏向が大いに与って力があった。十八世紀末に、政治的テクノロジーと物理学を中心とする自然科学の実践が空間を自己の領域とするや、哲学から「世界を、宇宙[コスモス]を、有限あるいは無限の空間を論じる権利」が奪われて、哲学は〈時間〉についての問題意識のなかに追い込まれることになったと言うのである。カント以来、ヘーゲルにとっても、ベルクソンにとっても、ハイデッガーにとっても、哲学者が思考すべきものは〈時間〉であって〈空間〉ではなかったのだ。そこから、相関的に、空間についての蔑視が生まれる。フーコーの証言によれば、十年前に「空間の政治学」を語ったところ、空間に固執するのは大いに反動的だと非難されたと言う。(……)
 (178~180; 「幕間狂言 脱構築風狂問答 ハムレットの夜、または空間と演戯」)


 一二時まで寝坊。扇風機の風を浴びながらごろごろと床に横たわり続けた。起きていき、母親に挨拶。食事は炒飯。その他、前日の茄子の味噌汁の残りや茄子焼きの残りやサラダなど。冷蔵庫のなかで冷やされた水を、氷を入れたコップにたびたび注いで飲む。食べ終えて抗鬱剤を服用すると台所で皿を洗い、それから風呂も洗った。そうして下階へ。エアコンを点け、コンピューターを起動させ、インターネットを少々覗いたあと、日記を書きはじめると一時五分だった。そこから一時間ほどで前日分を仕上げ、この日の記事もここまで。BGMはAlex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』。
 前日の記事をインターネット上に投稿すると、腰が疲れていたのでベッドに寝転んだ。そのまま本を読むでもなく、完全に眠りに落ちるでもなく、エアコンの風で冷やされた快適な室内で、薄布団にくるまって何もせずにだらだらと休み続けた。そして三時半頃になってようやく起き上がり、歯磨きをしながらMさんのブログを読んだ。合間に服を着替え――モザイク調の絵がプリントされた白いTシャツと、ガンクラブ・チェックのズボン――二日分記事を読んで三時五〇分を過ぎると、コンピューターをシャットダウンして、リュックサックを肩に掛けて部屋を出た。上階に行っても母親の姿はなかった。それで階段を下り、両親の寝室に入ると、そこに布団を支度している母親がいたので、どうするのかと訊いた。自分も出かけようかな、というようなことをちょっと漏らしていたのだ。しかし、やはり行くのは止めたと言うので、それでは出かけてくると告げて室を抜け、電車の時間までまだだいぶ余裕があったが早めに出ることにした。道を西へ行くあいだ、林からは数種の蟬の合唱が拡散し、降り注いでくる。通りを行っていると道脇の、すぐ傍の、緑の枝葉を織りなしている木々からもカナカナの鳴き声が近く立って、その姿を捉えようと視線を向けて目を凝らしたが見つからなかった。道の上では日蔭がもうだいぶ多くなって日向を駆逐しているが、それでも明るみのなかに入れば熱線が重い。坂に入ると、光を受けて鮮やかな緑に明るんでいる木々の天蓋がそのまま蟬の声と化したようにアブラゼミの鳴き声が頭上や四囲に広がった。そのなかから時折り、ミンミンゼミの声が波打ち、鈴を細かく振り鳴らすような蜩の鳴きも飛び出してくる。坂道を上りきって横断歩道に出ると西陽が激しく、視界は眩しく、渡って駅の階段を上るあいだも、まだまだ高くて丘に接するまで間のある太陽が斜めに光を降らせて、日の盛りを過ぎてもかえって旺盛なような熱気を肌にもたらした。ホームに入ればベンチは西陽に浸されているので座る気にはならず、その後ろの蔭のなかに立って、手帳を取り出した。肘の内側に出来た汗疹が汗に触れられてぴりぴりとした。暑いとは言ってもしかし、Tシャツ一枚の軽装でもあり、風も吹き、陽が傾いて空気に籠った熱もいくらかましになっているようで、汗の搔き方は普段出勤時にワイシャツを着込んでいる時よりは苛烈でなかった。それでも背面の下部など隙間なく濡れるので、Tシャツを引き上げてハンカチを当てて水気を拭う。
 電車到着のアナウンスが入ると、リュックサックは肩当ての片方のみ掛け、手帳を持ったまま陽射しのなかを歩いてホームの先に行った。乗り込むと、電車内は山に行ってきた人々で混み合っていたものの、満員というほどではない。扉際を陣取って、扉に対して正面から向かい合うのではなく、横を向いて左に体重を預け、手帳の文言を読み続けた。青梅に着くと降りて、一斉になだれ出てはホームの対岸に向かっていく人々のあいだを通り抜け、ホームの先頭の方へと向かった。乗り換えの立川行きはまだ着いていなかったので、陽射しのなかには出ず、屋根の端の日蔭で止まり、手帳を眺めながら電車が来るのを待ってから、乗り込んで二号車の三人掛けに腰を下ろした。そうして河辺まで手元に目を落とし続ける。
 降車すると、横の壁に設えられた北海道旅行の広告を横目で眺めながらエスカレーターを上り、改札を抜けて歩廊に出た。眼下を見下ろすと、コンビニ前のベンチがあった場所にはカラー・コーンが置かれており、それが囲んでいる木の幹に紙が貼られてあって、ベンチは撤去しましたというような文字が悪い視力でも辛うじて認められた。紙はもう一種か二種貼られていたが、そちらに書いてある文字は細かくて視認出来なかった。事情は知れないが、何となく、ここで素性のあまりよろしくなさそうな男たちがたびたび酒盛りをしていたのに苦情が入ったのではないかという気がする。酒盛りと言うほどに大規模で騒がしいものでもなかったのだが、得体の知れないような感じの高年の男たちが――時折り女性も混ざっていたと思うが――昼間からよく集まって、ビール缶を手にしているのが見かけられたのだ。周りに明確な迷惑を掛けていたわけでもあるまいし、もしその程度のことでベンチが撤去されてしまったのだとしたら、こちらも時たま使っていたものでもあるし、勿体なく思うとともに、こうした小さな事例にも現代社会に蔓延する不寛容の空気が表れているように思わないでもないが、当の男たちはベンチが撤去されてもへっちゃらというわけか、コンビニの横の道の端に地べたにそのまま座り込んで集まっている姿がこの時も見られたのだった。
 図書館に入るとカウンターに行き、本を三冊差し出して、一冊は返却で、二冊はもう一度借りたいと申し出た。再度借りることにしたのは、ヤン=ヴェルナー・ミュラーポピュリズムとは何か』と、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』である。前者は書抜きが終わっておらず、後者はまったく手をつけていないのだが、返却期限が訪露中の時日に当たっていたので、一度返却するために図書館までやって来たのだった。それで三冊を返却手続きしてもらい、そのうち二冊はふたたび受け取ってカウンターを離れ、CDの棚を見に行った。新着の区画に目当てのR+R=NOW『Collagically Speaking』があったのですぐさま手に取った。それからジャズの区画に移って見分すると、Brad Mehldau『After Bach』も見つかったので、これも借りないわけには行かない。そうして最後の三枚目を何にしようか、はっきりと惹きつけられる候補を見つけられずに迷っていたところで、最後にJohn Scofieldの『Combo 66』を発見した。Gerald ClaytonにVicente Archer、そしてScofieldとは長い付き合いになるが、
Bill Stewartがドラムを叩いているとなればやはり借りないわけには行かない。それで三枚が決まって、上階に行き、新着図書を眺めたあと、文庫本の区画へ向かってフロアを長く横切った。借りようと思っていたのは講談社学術文庫ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』で、これは八月二五日に控えている読書会の課題書なのだ。以前所在を確認しておいたので難なく見つけ、三枚と三冊を持って自動貸出機に寄り、手続きを済ませるとさっさと帰ることにした。退館して歩廊を渡り、改札を抜けてエスカレーターを下りた。今度は左の壁に設えられているのは、山梨の広告だった。ホームに下りると一号車の端の位置に立ち、自販機に裏から寄り掛かりながら手帳をひらき、文言を読んでいると、車椅子の人が電車を降りる際にホームと車両とのあいだに渡される補助板を持った駅員がやって来た。それで邪魔になるまいと、電車がやって来ると乗り場の場所を一つずらして二号車の一番前の口に寄った。ここではベビーカーを伴った女性が降りようとしていて、慎重にそれを持ち上げて前の車輪をホームに下ろしてから押し手を持って後部も持ち上げて降りていくのを眺めていたのだが、そのあとから乗車してから、手伝ってあげれば良かったかと思った。青梅までのあいだは確か立っていたのではなかったか。
 降りるとホームを移動して屋根の下に入り、自販機に寄って例によって二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買った。そうしてベンチに就いて手帳をひらきながら飲みだすと、隣の女性がキャリーバッグを伴った白人の婦人に、何かを訊かれており、女性は狼狽したようになっていた。それからしばらくして、奥多摩行きがやって来ると、コーラをゆっくり飲んでいるこちらの元にも婦人はやって来て、奥多摩行きの電車を指しながら、ミタケ? ミタケ? と訊くので、Yesと答えた。すると婦人は電車に乗り込んでいき、こちらもコーラを飲み干してそれをダストボックスに捨ててから、遅れて乗り込み、婦人と同じ七人掛けの端に就いた。話しかけようかどうしようか迷っていた。御嶽に行きたいらしいが、きちんと正しい駅で降りられるだろうか、目的地までの行き方はわかっているのだろうかと心配を抱いた。相手も結構な歳の婦人なのだし――四〇代か五〇歳くらいではなかっただろうか――子供ではないのだから、そんな心配はいらなかったのだろうけれど、こちらはもし相手が誰にも尋ねられずに困っているようだったら何か手伝えることはないだろうかと思いつつも、英語でのコミュニケーションにまったく自信がないから、話しかける踏ん切りを付けられずにいた。じきに電車は発車した。さっさと席を立って相手の傍に移動し、Excuse me, can I help you? と尋ねれば良かったのだろうが、丁度こちらの向かいには女児と母親の二人連れが座っていて、自意識過剰にも彼女らの存在が気になった。それで話しかけられないままに最寄り駅に着いてしまったのだが、こちらはそこで降りず、何と電車のドアが閉まるまで動かずに静止して席を離れなかったのだ。婦人が御嶽できちんと降りられるかどうか、話しかけるかどうかは別にしても、見届けようと思ったのだ。それでそのようなにわかストーカーじみた振舞いに出て、手帳も読まずに婦人の方を時折り窺いながら電車に揺られた。彼女は地図やパンフレットの類を取り出して眺めたり、身体を横にして窓の外の森深い風景に目をやったりしていた。軍畑で向かいの席に就いていた母子が降りていった。それで車内にはこちらの挙動に視線を向けるような人もいなくなったので、婦人の方に手を振ってこちらに気づかせ、Can I help you? とようやく尋ねた。大丈夫だと彼女は答えた。Where do you want to go? と既に答えを知っているはずの質問を向けると、当然Mitake、と返る。What do you see in Mitake? と続ければ、Shrine、との返答があった。山の上にある御嶽神社である。御嶽山など、明治神宮やら伊勢神宮やらと比べると、日本全国的には全然有名でない神社のはずだが、こういう外国の人は一体どうやってその存在を知るのだろう? How did you know、と尋ねてみれば良かった。それで、Do you know how to go? と訊けば、Yesと返り、bus、と続くので、OK、と言って右手の親指を挙げ、笑みを浮かべた。それでやりとりは一度終わったが、しばらくすると婦人が何かこちらに声を掛けてきた。繰り返している言葉をよく聞くと、bears, bearsと言っているのがわかったので、bears、と受けて笑った。外の青々とした広大な深い森が、まるで熊が出そうだと言うのだろう。それでThere are many bearsと言うと婦人は怖がるような素振りを見せた。And... deer? と続けると、婦人は、Ah, deer, nice、と言った。そのあたりで御嶽に到着したので、こちらと婦人は別々の扉口から降りた。丁度向かいに青梅行きが停まっていたのでこちらはそちらへ向かいながら、婦人に手を振った。彼女はGoodbye、とか何とか言いながら――距離があって正確に聞こえなかったが――手を振り返してくれた。それでこちらは登山の帰りの客で席の埋まっている青梅行きに乗り込み、扉際で手帳をひらき、婦人とのやりとりのことを考えながら文字を追った。それにしても、御嶽の方など近くに住んでいても普段まったく行かないけれど、改めて見てみると山がとても近く、緑も青々として鮮やかに美しかったものだ。住んでいる場所から僅か二〇分か三〇分程度でこうした深い自然の真っ只中に入っていくことが出来るというのは、都会人には得られない一つの資産なのかもしれない。
 最寄り駅で降りて駅舎を抜け、カナカナの鳴きしきるなか坂道を下っていき、平らな道を家まで帰った。Hさんの旦那さんが家の外に出ていたが、この人は無愛想で、こちらから挨拶を掛けてもまるで不機嫌であるようなぶすっとした返答しか返さないので、この時は声を掛けなかった。自宅の玄関は開け放たれており、鍵を使う必要はなかった。入っていくと母親はソファに就いてタブレットを弄っていた。台所には天麩羅が揚げられていた。ゴーヤの種を天麩羅として揚げたのだと言った。こちらはカバー・ソックスを脱ぐと洗面所の籠のなかに入れておき、自室に帰ってエアコンを点けた。Tシャツは脱がず、ズボンだけ脱いでハーフ・パンツに着替えると、TwitterでMさんのメッセージに返答した。先ほど、今日の夜に通話しませんかと誘っておいたのだ。夜は深夜出勤の父親が隣で寝ているから通話しづらい、零時以降だったら良いが、と言うので、こちらはいつも三時頃まで起きているので大丈夫であると送り返しておいた。それから上階に上がって、訪露のための荷物をキャリー・バッグに入れはじめた。と言って、こちらの荷物となるのは大方衣服くらいのものである。三セット程度持っていけば充分だろうというわけで、自室からシャツやズボンを運んできて、折り畳み、バッグのなかに詰めていった。そのほか肌着・下着の類だが、肌着のシャツが何故か仏間のタンスのなかに見つからなかった。パンツは新しいものを二枚下ろすことにしたが、母親が、水にくぐらせておいた方が良いと言うので、洗ってもらうことにして洗面所にネットに包んで置いておいた。そうして新しい歯ブラシをバッグに入った衣服の上に放り投げておき、それで大方荷物は完成した。あとほかに何が要るのだろうか? 旅行などほとんどしたことがないので、勝手がわからない。まあ着るものさえあればどうにかなるだろうというわけで払って、下階に戻り、日記を書きはじめた。Mさんとの通話は、零時半から始めることになった。FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなか、四〇分ほど打鍵して、七時半前になったところで食事を取りに行った。天麩羅とゴーヤ・チャンプルーを電子レンジで温め、南瓜の煮物を小皿によそった。台所にはサラダの支度が成されていたが、材料がまだ混ぜられていなかった。それなので、トマトに鶏肉、胡瓜に玉ねぎ――書き忘れていたが、先ほど荷物を作ったあとに台所で紫玉ねぎをスライスしておいたのだった――をボウルのなかに入れて、菜箸で混ぜた。味付けは、と訊くと、棒々鶏の素があるからそれでと言うので、冷蔵庫から素を取り出し、細長い袋の口を切って中身を押し出し、菜箸で上に下に野菜を搔き混ぜた。そうして出来たものを大皿に盛り、白米をよそって卓に行った。テレビは『モヤモヤさまぁ~ず』。ハワイを訪れているらしい。本物の斧を投げて的に刺して競うゲームなどが行われるのを眺める。食事を終えると薬を服用し、食器を洗って、便所に行って糞を垂れてから風呂に入った。綺麗な一番風呂の熱い湯に浸かり、しばらく経つと出てきて、台所で冷たい水を一杯飲むと、エアコンの掛かった居間で汗を涼めた。そうして自室に下りてくると、ふたたび日記を書き出して、ここまで書き足して九時前である。
 それから詩を書こうと試みた。現代詩文庫の『大岡信詩集』をひらき、なかの詩篇を瞥見しながら詩句を作ろうとしたのだが、結局自分の場合は幻想域に高々と飛翔する詩的想像力みたいなものは持ち合わせていないし、日常的な貧しい経験に基づいたものを作るほかはないのかもしれない。三〇分ほど掛かって出来たのが以下の詩篇である。

 駅の階段に
 斜めに射しかかる西陽の
 その粘っこい光が細胞の隙間に浸透していくのが
 憤ろしくはないか

 夜の道でカナカナが
 木々の合間からたった一匹で
 鈴を激しく振り鳴らすようにわめき出すのが
 悲しくはないか

 ベッドルームから革命を
 なんて九〇年代イギリスのバンドは歌ったけれど
 二〇一九年 時代も変わって 僕らの若者は
 寛容と不寛容
 自由と不自由
 誠実と不実の
 戦いの狭間でどちらにもつけず
 アニメを見ながらポテトチップスを貪るばかりさ

 ああ 森には熊がいるだろうし
 その隣には鹿がいるかもしれない
 鹿は熊に喰われずに隣り合って共存できるのだろうか
 アウシュヴィッツ収容所跡の
 門のアーチの上には
 「労働は人を自由にする」という文字が
 未だ残されているのだと言う

 「ガス室があろうとなかろうと、俺たちの人生に何の影響があるんだい?」

 駅の階段に
 斜めに射しかかる西陽の
 その粘っこい光が細胞の隙間に浸透していくのが
 寂しくはないか

 夜の道でカナカナが
 木々の合間からたった一匹で
 鈴を激しく振り鳴らすようにわめき出すのが
 恐ろしくはないか

 それから冷たい水を飲むために上階に行ったところ、ロシアの兄夫婦からビデオ通話が掛かってきていて、タブレットの画面に映ったMちゃんの姿を前に両親が話していた。そこにこちらも加わり、しばらくMちゃんの様子を眺めた。どこか行きたい場所はあるかと言うので、特にないが強いて言うなら美術館だろうかと曖昧に答えると、モスクワにはトレチャコフ美術館というものがあるという返答があった。それはロシア国内の美術品を主に集めたものらしく、今しがたウィキペディア記事を見てみたところ、カンディンスキーの絵画など収められているようなのでそれはちょっと見てみたい。ほか、プーシキン美術館というものもあると言い、こちらはロシアだけではなくてヨーロッパの絵画が様々収蔵されているとのことだった。
 通話を終えると一〇時頃だったと思う。水を飲んでから自室に戻り、aiko『暁のラブレター』の流れるなか、ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』の書抜きを行った。ポピュリストは「真の人民」という観念的で擬制的な存在に依拠し、それを代表すると主張する。「人民」概念はカール・シュミットによって理論化されたものらしいが、ハンス・ケルゼンといったシュミットの敵対者はそれに反対し、諸党派を超越した統一的な人民の意志などというものはそもそも認識不可能なのだと主張した。ルソーの「一般意志」の概念とも関わってくる話だろうか。
 書抜きに切りを付けると一一時直前だった。音楽を今日借りてきたばかりのR+R=NOW『Collagically Speaking』に替えて、ベッドに移り、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読みはじめた。フォークナー全集はひとまず打ち切りとしたのだ。最近は何だか、小説に向かう気分があまり湧かず、それよりはエッセイや教養書の類に関心が向かっているようだ。この本は読書会の課題書となっているものだが、ここから始めてアウシュヴィッツホロコーストに関連する文献をとりわけいくつか読みたいと思っている。先日『溺れるものと救われるもの』を読んだプリーモ・レーヴィの、『これが人間か』という作――『アウシュヴィッツは終わらない』というタイトルで発刊されていたものの、改訂完全版――も図書館で借りてきているし、所有しているなかでは栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』というミネルヴァ書房の本もある。そのほか、余裕があればアーレントの『エルサレムアイヒマン』に、岩波現代文庫から出ている『アイヒマン調書』も読んでみたいと思っている。『アウシュヴィッツ収容所』はひとまず編者の序文を読んだが、この時点で結構興味深かった。まず、ルドルフ・ヘスと表記されるナチスの高官が二人いることを初めて知った。一人はこの手記を綴ったアウシュヴィッツ収容所元所長のRudolf Höss。それにもう一人、ナチスで総統代理を務めたRudolf Hessという人物がいるのだった。序文によれば、この手記に描かれている収容所長ルドルフ・ヘスの姿は、「すべてに平均的で、まったく悪意はなく、反対に秩序を好み、責任感があり、動物を愛し、自然に愛着を持ち、それなりに「内面的な」天分があり、それどころか「道徳的にまったく非難の余地のない」一人の人間」(33)なのだと言う。要するに、ナチス体制下でなければ、大虐殺などという史上未曾有の犯罪に手を染めることもなく、特に糾弾されるようなことはなかったであろう一般的な小市民の姿というわけだ。「普通の人間」こそがあのような、ほとんど我々の思考と想像力を超越したかに思える凶悪犯罪を唯々諾々と実行したということに、ナチス体制の恐ろしさと凄まじさがあるわけだが、この点はプリーモ・レーヴィも『溺れるものと救われるもの』の末尾で強調していた。彼によれば、アウシュヴィッツの獄吏やSSの人間は、「素質的には私たちと同じような人間だった」(242)。「彼らは普通の人間で、頭脳的にも、その意地悪さも普通だった」と言う。ナチスの教えを狂信的に信じている人間は僅かで、「多くは無関心か、罰を恐れているか、出世をしたいか、あまりにも従順であった」。ただし彼らは「悪い教育」を受けていた、とレーヴィは指摘する。それと照応するように、教育という点に関してはヘスの文書の序文においても言及されている。「彼らは、無批判に服従するよう教育を受け、批判精神も想像力もなく、何十万という人間の「抹殺・粛正」こそが民族と祖国のための職務だと、誠心誠意自らそう信じ、あるいは信じ込まされたのである」(37)。
 ヘスの文書は、「理想主義や責任感から熱心にことにあたった人間と、(……)生来残忍で、他の人の善意をその悪魔のような手仕事で損なった人間を、カテゴリー的に区別することをもはや許さない」(33)。ここに我々を当惑させ、狼狽させる事実があるだろう。ヘスの手記や、プリーモ・レーヴィの報告が示しているのは、ホロコーストの被害者と加害者のあいだに、一見して判別できるような明々白々な境界線がどうやらなかったらしいということなのだ。こうした考察からは、ドイツとソ連で国は違えど、同じく強制収容所の生活を体験した石原吉郎の思想が連想される。彼もまた、人間が単に一面的に被害者であるのではなく、被害者であると同時に加害者でもあるような、人間がそのあいだを瞬時に入れ替わり、入り乱れるような極限的な状況を目撃してきたのだった。
 序文を読み終え、メモを取っているうちに零時二五分に達したので読書を切り上げ、コンピューターや電源コードを持って隣の兄の部屋に移動した。Mさんと通話をするためだが、自室で話していると両親の寝室まで声が届いて眠りを妨げてしまいかねないので、距離の遠くなる隣室に移ったのだった。ベッドの上に乗り、壁のコンセントに電源コードを接続する。そうしてコンピューターを前に手帳を読みながらMさんがSkypeにやって来るのを待った。零時四〇分になったところで、「おる?」と来たので、「お待ちしておりました」と返すと、着信があったので応答した。元気か、とまず訊かれたので、まあ体調は良いですよと答えると、そうみたいやねと笑いが返った。最初のうちに、Hさんの話をしたはずだ。彼と会っているかと言うので、会っていない、以前ダイレクト・メッセージでやりとりをしたがと言って、五月の末日に交わされたその文言を少々読み上げた。小説や文学に関しては自分はもう「門外漢」ですが、と言っていると伝えると、門外漢って、とMさんは笑った。Hさんはそのメッセージでは、小説や読み書きにもう興味が向かなくなってしまったようなことを言っていたのだが、まあ彼も今までも何回かそういうことがあったし、またそのうち戻ってくるんちゃうのというのがMさんの見立てだった。
 それから、最近こちらが読んだなかで一番印象深かったものは何かと訊かれたので、考えながら、やはり石原吉郎だろうかと答えた。詩もそうだが、散文もやはり良い、また、細見和之という人の書いた評伝も面白かったと紹介した。石原吉郎と言うと、覚えていることが一つあるとMさんは言った。日本人を代表してソ連において戦争責任を――まさしくその肉体をもって――果たしてきたと自負していたところが、日本に帰国するとそうした考えが受け入れられることはなく、反対に「アカ」のシンパではないかと疑われて新たな迫害を受けたという苦境のエピソードがそれだが、まったく同じようなことが、Mさんが小説の資料として読んだ戦争証言の本でも語られていたのだと言う。そこからさらに、最近はプリーモ・レーヴィなども読んだとこちらは言って、ホロコーストなどの「シリアスな」話になった。レーヴィはどうやったと訊かれたので、面白かった、と言って良いのかわからないが、興味深くはあったと答え、先日の日記にも書いたことだが、ナチス体制の目的の一つというのは、「敵」であるユダヤ人に対して最大限の苦痛を与えることにあったというレーヴィの指摘を紹介した。彼らはただ単に死ぬのではなく、極限的に苦しみながら死ななければならなかったのだ。何なんだろうと言うか、よくもまあ、あのような体制がこの世に存在できたなっていう感じですよとこちらが漏らすと、Mさんは沈痛そうなトーンの相槌を打った。
 さらに、ルドルフ・ヘスアウシュヴィッツ収容所』という本を今日から読みはじめたところだと話した。アウシュヴィッツの元所長が書いた手記なのだと紹介すると、加害者側ってことや、とMさんは受けた。どう、と訊かれるので、まだ序文を読んだだけだが、やはり凄そうですよと答える。ホロコーストに関しては、Mさんが語ってくれた一つの非常に強烈なエピソードも是非とも記しておかなければならないだろう。彼はそれを、佐々木中のエッセイか何かで知ったのだと言うが、アウシュヴィッツにいた床屋の話である。彼はガス室送りになる前の囚人の髪を切る仕事をしていた。彼の方は今自分が髪を切っている囚人たちが、このあと殺されるのだということをわかっているが、囚人の方はそれを知らずにいる。ちなみにこうして切られた髪というのは、ドイツの企業に買い取られて製品の材料になったという事実も先日の日記に記しておいた通りだが、ある時、その床屋の下に、自分の妻と娘がやって来た。しかしどうしようもない。これから自分の妻子が殺されるのだということをわかっていても、助けることは出来ない。そこで、床屋が彼女らに対して出来たことというのは、通常の囚人相手には三〇秒で髪を切っていたところ、四五秒を掛けてやることだけだったという話だ。思い出したが、これはクロード・ランズマンの『ショアー』のなかに語られている証言の一つであるらしい。それを佐々木中が引いているのをMさんは読んだのだった。やばいよな、と彼は漏らした。言葉もないとはこのことで、とてつもないと言うほかない、凄まじいエピソードである。
 ホロコーストの話から、中国のウイグルでも似たような状況になっているらしいという話題に移ったので、収容所に入れられて「思想教育」「職業教育」をされているっていう話ですね、一〇〇万人とか言うじゃないですかとこちらは受けた。香港の件にしてもそうだけれど、学生たちは――Mさんは中国の大学で日本語教師をしており、今は夏休みで帰国中である――どこまで知ってるんやろ、と思うねと彼は言った。でも、Oさんは香港の件については呟いていたみたいじゃないですか、と彼の日記経由の情報を差し向けると、そう、でも彼女も日本語で書いていて、仄めかすような文面やったし、やっぱり中国語で直接は書けないってことやろなとMさん。
 日本もますます胡散臭いと言うかきな臭いと言うか、妙で嫌らしいような雰囲気になってきている。中国にいると学生たちが日本のニュースをたびたび知らせてくれると言うのだが、京都アニメーションの事件には勿論驚いたし、その後には吉本の件とジャニーズの件が重なって、アニメ業界・お笑い業界・アイドル業界のすべてで大きな事件が起こっているやん、となったと。それに今は、あいちトリエンナーレの件でしょうとこちらが受けると、今の日韓関係の悪化も残念だとMさんは言った。彼の仕事の関連から言っても、日本語教師という職は政治的な両国の関係によって一気に需要がなくなる可能性がある。日韓関係と同様に、日中関係も何がきっかけで途端に悪化するかわからないから、日本語教師という職も不安定と言えば不安定だという話もあった。
 そうした話をしているところで、我々、今日は何だか凄く「シリアスな」話をしていますねとこちらは笑ってちょっと気を抜いた。君が最近そういうものを読んでいるからねとMさんも笑って受ける。ここでそうした「シリアスな」話や本の話から離れた話題を記録しておこう。一つには、年齢の話があった。Mさんは三四歳である。三四という年齢の数字を改めて考え直してみると、相当なものだという風に感じるのだと言う。不謹慎だがと断りながら、京都アニメーション事件の報を読んでいた際に、そう実感したと彼は話した。被害者の氏名と年齢が先日公表されたわけだが、その一覧を見ている時に、二〇代だったら若い女の子とか、三〇何歳だったらおじさん、おばさん、などと無意識のうちに、数字を目にした瞬間瞬時に分類している自分がいた、そこに丁度三四歳という被害者の人がいて、それも即座におじさん(あるいはおばさん)と判断したのだったが、直後に、三四歳って自分もそうではないか! と気づいたのだと言う。Fくんは今度三〇、と訊くのでそうだと肯定する。二〇代っていうとまだ若い感じがするな、とMさんは言う。こちらももう三〇歳かと考えると、だいぶ歳を取ったなあという気持ちになるものだが、Mさん自身は三〇の大台に乗った時にはさほどの印象も受けなかったのだと言う。しかしそれから四年経って三四という数字を目の前にすると、もうおっさんやん! という感慨を禁じ得ないらしい。いや、まだまだ若いでしょとこちらは執り成したが、服装など、自分は全然年相応でないんではないかという気がする、柄物のシャツなんか着ていると、これ一〇代後半の格好じゃないかと思ったりすると言うので、似合っていれば良いんですよ似合っていれば、とこちらは再度執り成した。
 授業準備の話もあった。Fくんは授業準備どれくらいやってると言うので、事前に早めに教室に行って予習をするくらいだと答える。それで何とかなるんや、まあもう長いもんなあ。Mさんも早くそれくらいに仕事に慣れたいと言った。今は授業準備に結構時間を掛け、力を入れているのが日記を読んでも観察される。Mさんの生徒は幸せ者である。来期は三年生のクラスで閲読という長文読解と、新聞を読む授業を同時に担当するらしいのだが、その二つが似通った授業になってしまいそうなところに頭を悩ましていると言った。閲読は教科書に沿って――その教科書というのが、全然面白くもないような文章ばかり揃っている類の代物らしいが――行うつもりだが、新聞を読む授業の方は、題目は脇に置いておいてひたすら自由にやってやろうかなと考えていると言うが、その自由なやり方というのがうまく思いつかないらしかった。今日一つ考えついたと言って説明してくれたのは、音楽の簡単な批評文を生徒に読ませて、その後実際にその音楽を聞かせるという方式で、それは良いじゃないですかとこちらは受けたのだったが、その場合、学生たちにもわかるような難易度の批評文を探すのが難しく、面倒だと言う。ブルー・ノートの昔のライナー・ノーツなどどうですかとこちらは提案したが、どうだろう、元々英語で書かれているものだから、それを訳したものを読ませるということになってしまうし、ジャズはあまり受けないかもしれない。
 また、「本屋さん計画」はどうなったのかと訊かれた時もあった。病気になる以前に、塾講師の職を離れて古本屋でアルバイトさせてもらおうかと思っていた時期があったのだが、今は全然それについては考えなくなったとこちらは答えた。他人の店でアルバイトするならばともかく、自分には自ら店主となって一個の店を運営するような才覚はないと思うのだ。面白そうなのにとMさんは言ったが、こちらはすげなく払った。そこから繋がったのだったか忘れたが、中国では書店が増えてきているという話があった。セレクトショップみたいな感じでしょう、と言うと、そうそう、結局キュレーターになっていくんよな、それかカフェも併設して半コミュニティみたいな感じに、とMさんは言って、それが健全なあり方だと思うと述べた。それから、昔は一つの書店が小さな出版社を兼ねているようなところも結構あった、そこから大手では出せないようなものを発刊したりもしていた、これからまたそういう風な形態が生まれてくるのではないかと彼は見通しを述べた。その例として、横田創の名前が挙がった。Mさんが以前日記に引いていたのをこちらもちょっと読んだことがあるが、結構面白そうな作家で、その人の二〇一八年に出た『落としもの』という本は、大手ではなくて全然名前の知られていないような小さなところから出ていたのだと言うので、ウィキペディア記事を探ってみると、確かに「書肆汽水域」という名前のところから出版されているらしかった。Mさんも、パトロンを見つけられればとこちらが向けると、まあでも、今俺もう飯食えて書けてるからね、と言い、昔に比べると早く出版に漕ぎ着けなくては、自分の文章を金にしなくてはという焦燥感のようなものは全然なくなったと話した。まあそうは言ってもやはり、この時代に何かを発表するとなると、自分を宣伝するような媒体が何かしら必要なんですよとこちらは言い、結局Twitterでフォローをしまくればそれで良いんですよと提案したが、Mさんはそのあたりやはり面倒臭いらしかった。こちらも、今フォローは三三〇〇ほど、フォロワーは一二〇〇くらいいるけれど、結局そのうちこちらのツイートやこの長々しい日記を読んでくれている人がどれだけいるのかと言うと、ほんの僅かであると認めざるを得ないだろう。そんな自分が、Twitterでもっと自己宣伝をしていかないと、などと言っても説得力がないのかもしれないが――とは言え、多く読まれなくとも、たった一人の熱心な読者を生み出せればそれで良いのかもしれない。Mさんの日記に対してこちらという人間がいた、と言うか生まれてしまったように、こちらの日記も、それを深く楽しんでくれる読者が一人生産されればそれで良いのかもしれない。とは言っても、やはり金は欲しいものである。noteで記事が売れたという話もして、投げ銭システムについて説明した。今はまだ微々たるものではあるが、これが五年、一〇年と続けばまた違ってくるのではないか。
 最近こちらは小説を全然読めていない。先日はジュネの『葬儀』を読みだしたけれどすぐに中断してしまったし、フォークナー全集の『八月の光』も同様だ。『八月の光』はMさんも読んだことがあるらしかったが、読書歴の本当に初期の頃だからもうほとんど何も覚えていないと言った。そこから横滑りして、ジョン・スタインベック怒りの葡萄』の話が出てきた。Mさんはその作品も読んだことがあるらしいのだが、それがRPGのようでなかなか面白かったのだと言う。アメリカ内を放浪しながら農園などで働く、おそらく季節労働者と呼ばれるような人々の生活を描いたものらしいのだが、色々な人々がパーティーに加わっては離脱していくその感じが、RPGゲームのようだったと言うのだ。『怒りの葡萄』をRPGとして読んだ人間は自分以外にいないだろうとMさんは述べたのだが、主人公の弟だか兄だかが、わりと重要だと思われたキャラクターなのにどうでも良いような理由でもって突如として一団を去っていく、その合理的な物語の筋から外れたような意想外の感が残っているのだと言う。そういう時に、人生を感じさせるよなと彼は言うので、こちらは、夏目漱石の『坑夫』にもそんなような趣向がありましたねと受けた。こちらが『坑夫』を読んだのも大概昔なのでもう正確には覚えていないのだが、鉱山に向かって旅をする主人公の道連れとして、赤毛布(これで確か「赤ゲット」と読んだはずだ)と呼ばれる少年だか男だかがひととき仲間に加わって、いつの間にかまたいなくなっている、という筋があったはずなのだ。しかも、夏目漱石はそこで、Mさんと同じような、こうした一夜の夢のような儚い一時の共連れの存在こそがよくある物語めいておらず、人生を感じさせるというようなことを述べていたと思う。それからしばらく、『坑夫』の話をして、Evernoteに記録されてある書抜き文を参照して一部読み上げたりもした。読んだのは次の箇所である。

 ……自分は暗い所へ行かなければならないと思っていた。だから茶店の方へ逆戻りをし始めると自分の目的とは反対の見当に取って返す事になる。暗い所から一歩[ひとあし]立ち退いた意味になる。所がこの立退が何となく嬉しかった。その後色々経験をして見たが、こんな矛盾は到る所に転がっている。決して自分ばかりじゃあるまいと思う。近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分った様な事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏[まとま]ったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古ずる位纏まらない物体だ。然し自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人[ひと]も自分同様締りのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れない。それでは失礼に当る。
 (夏目漱石『坑夫』岩波文庫、一九四三年第一刷、二〇一四年改版第一刷、14)

 自分は自分の生活中尤も色彩の多い当時の冒険を暇さえあれば考え出して見る癖がある。考え出す度に、昔の自分の事だから、遠慮なく厳密なる解剖の刀を揮って、縦横十文字に自分の心緒[しんしょ]を切りさいなんで見るが、その結果はいつも千遍一律で、要するに分らないとなる。昔しだから忘れちまったんだなどと云っては不可[いけ]ない。この位切実な経験は自分の生涯中に二度とありゃしない。二十[はたち]以下の無分別から出た無茶だから、その筋道が入り乱れて要領を得んのだと評してはなお不可ない。経験の当時こそ入り乱れて滅多矢鱈に盲動するが、その盲動に立ち至るまでの経過は、落ち着いた今日の頭脳の批判を待たなければとても分らないものだ。この鉱山行だって、昔の夢の今日だから、この位人に解る様に書く事が出来る。色気がなくなったから、あらいざらい書き立てる勇気があると云うばかりじゃない。その時の自分を今の眼の前に引擦[ひきず]り出して、根掘り葉掘り研究する余裕がなければ、たといこれ程にだって到底書けるものじゃない。俗人はその時その場合に書いた経験が一番正しいと思うが、大間違である。刻下の事況と云うものは、転瞬の客気[かっき]に駆られて、飛んでもない誤謬を伝え勝ちのものである。自分の鉱山行などもその時そのままの心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、気取った、偽りの多いものが出来上ったろう。到底、こうやって人の前へ御覧下さいと出された義理じゃない。
 (55~56)

 読んでいただければわかると思うが、小説や日記などの文章を書くという営み、その際の自己に対する距離感という点に夏目漱石は小説内で批評的な視線を向けているのだ。『草枕』にも同じような箇所がありましたよねとこちらは述べた。と言ってこちらは『草枕』を読んだことがないのだが、主人公の画家が、初めから終わりまで物語を順々に読んでいくのではなく、頁を出鱈目にひらいて偶然当たった箇所をランダムに読む、という読書方法を実践していて、宿の女性とそれについて問答めいたやりとりを交わす、という場面があるのを聞き及んではいる。この場合は読むという行為に関して、漱石は作者の設定した筋を従順に追う読み方とは別の読書の実践方法を提起しているわけだ。さらに『坑夫』は、これも曖昧な記憶だが、後半で意識の流れめいたことをちょっとやっていた覚えがあると言うか、心理の解剖を結構な密度でやっていたような覚えがあるので、それについても触れた。Mさんは夏目漱石はほとんどすべての作品を読んでいるらしいが、『坑夫』はまだ読んだことがないのだと言った。なかなか興味深い作品だと思う。数年ぶりにまた読み返してみても良いかもしれない。
 そのほか、どういったきっかけからだったか忘れたが、大江健三郎の話にもなった。村上春樹村上龍のダブル村上が対談している本があるらしいのだが、その対談のなかで二人とも大江健三郎を高く評価していたということだった。大江健三郎もこちらがまだ一冊も読んだことのない作家の一人である。文体が読みにくいということはよく聞くが、Mさんもやはり同じことを言っていて、ただその読みにくさ、ある種のうねうねするような感覚というのは、クロード・シモンなどのような技巧的なそれではなくて、おそらくは大江の「生理」に基づくものだろうということだった。彼はまた、ほとんど自分の過去作の引用とそれに対する考察・註釈のみで作品を作ってしまう、というようなこともやっているらしく、そう聞くと非常に面白そうである。それを聞いてそう言えば、と思い出したのは(……)先生のことで、先日職場で話した際に彼は大江健三郎は嫌いですと断言していたのだったが、その理由が、過去の作品を読まないとわからないような書き方をしていて不親切だということだったので、あれはそういうことだったのかと納得が行った。
 そのほか通話の後半は、こちらがここ三か月くらいのあいだに読んだ小説の紹介などをした。ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』や、金原ひとみ『アッシュベイビー』、岸政彦『ビニール傘』、山尾悠子『飛ぶ孔雀』などである。こうして名前を挙げてみてもすべてそれぞれに特徴の違う作品たちであり、この作品はあんな感じだった、あそこが良かったという感慨がそれぞれに滲んでくるものだが、そう考えるとやはり小説というものは非常に豊かで多様な営みだという感じがする。このなかで一つ目だったものを挙げるとしたら、それは山尾悠子『飛ぶ孔雀』だろうか。これは小説世界の秩序がどう織り成されているのかまったく掴めないような作品で、戸惑いをもたらされる読書というものを久しぶりにしたような気がしたものだった。
 それからMさんが最近読んでいるものの話にもなった。彼は最近は千葉雅也『アメリカ紀行』などを読んでいることが日記に記されてあったので、どうでしたかと尋ねると、まあバルトの『遇景』なんかにちょっと近い感じはあるなということだった。相当に力を抜いて書いているのがよくわかる、と。Mさんも異国で教師生活をするなかで千葉雅也が書いているのと同じような体験を味わったこともあって、結構「共感」したという話だった。Mさんが良いと思ったエピソードの一つには、次のようなものがあると言う。ホテルのベランダかどこかに花が植えられているのだが、その花が異国のものなので名前や種類は勿論わからない、しかしそれが何らかの季節の象徴であるということだけはわかる、というものだ。そのエピソードはしかも、ホテルの部屋で水道か何かが壊れていて、スタッフを読んで直してもらおうとしてレバーを捻ったところ、そのレバーが折れてしまって二人で大笑いした、という何でもないような挿話の直後に書かれているもので、その連なり方が良かった、小説っぽいなと感じさせたということだった。
 千葉雅也に関しては、彼が博士論文を執筆しているあたりから見かけていたのだとMさんは言う。一〇年ほど前の話だが、当時京都に住んでいたMさんは、京都造形大学で催される舞台芸術などのイベントにたびたび足を運んでいた。ある時、ダムタイプの公演があって行ったところ、トーク・イベントが同時に開催されていたのだろう、演壇にいた浅田彰が、客席にいる二人の観客に向けてコメントを求めた時間があって、そのうちの一人がモブノリオであり、もう一人が千葉雅也だったのだと言う。当時、千葉雅也などという名前はまだ全然知られていなかったので、Mさんも当然、あれは誰だ、となった。しかも、立ち上がったのはガチガチのギャル男だったわけである。そのギャル男が、ドゥルーズの概念などを使ってばーっと喋りだしたものだから、Mさんも面食らって、何だこのギャル男! となり、帰ったあとにインターネットで早速検索して、千葉雅也のTwitterに辿り着いたという話だった。
 Mさんはまた、最近日記上で、中島隆博『『荘子』―鶏となって時を告げよ』という本が欲しいと漏らしていた。中島隆博と言えば、小林康夫との共著『日本を解き放つ』を読んで以来、こちらが最近その名を追っている学者で、上記のような著作が刊行されていることは知らなかったのだが、Mさんに、中島の名前をどこで知ったのかと尋ねたところ、それも千葉雅也関連で知ったのだという答えがあった。と言うのも、彼は千葉の師匠筋に当たるらしい。それで、千葉雅也について検索していた時に、どこかしらで名前が引っ掛かったのだと言う。上の著作もその頃から読みたいと思っていたものなのだが、ずっと忘れたままに過ごしていたところ、今回千葉の『動きすぎてはいけない』を読んでみるとそのなかで中島が言及されていて、そう言えばあれも読みたかったのだと思い出したのだということだった。
 それからまた、書き忘れていたが、音楽の話もほんの少しだけ知った。最近何かいいのあったけと訊くので、今日ちょうどRobert Glasperの新しいバンドの音源を借りてきて先ほど流したが、結構格好良かったと告げた。R+R=NOWという、何を意味しているのかよくわからない名前のバンドである。Robert Glasper Experimentの延長線上みたいな感じだと紹介すると、Mさんは、それなら俺、好きかもしれんなと言った。彼は確か、『Black Radio』のなかに入っている"Smells Like Teen Spirit"のカバーに一時期嵌まっていたはずである。あの曲の再構成と演奏は確かに素晴らしい。そのほか最近聞いているものとして、こちらはWynton Marsalisの名前を挙げた。Septetのライブ音源、『Selections From The Village Vanguard Box (1990-94)』を結構良く流しているのだが、それはまあわりとジャズジャズしているジャズだと話した。MさんはMarsalisの名前を知らなかったので、九〇年代以降に出てきて活躍したトランペッターなのだと紹介した。七〇年代あたりからフュージョンがブームになって、ジャズの方にもエレクトリック化の波というものが押し寄せ、純粋なアコースティック・ジャズは一時期下火になる。しかし、その後九〇年代あたりになるとふたたび純ジャズが復活してくるのだが、その際に潮流の一翼を担ったのがWynton Marsalisなのだと、正確な歴史的理解かどうか不安だが、そのように話した。確か、新伝統派、とか呼ぶのだったか? このあたりはSさんの方が百倍くらい詳しいと思うのだが、多分Joshua RedmanとかBrad Mehldauあたりも、そうしたアコースティック・ジャズ復権の流れのなかで役割を果たしたプレイヤーということになるのだと思う。
 終盤ではMさんがこの日既に読み終わったと言うマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』の話をした。マーク・フィッシャーという人は、以前から本屋で表紙を見せて置かれているのを見かけていたのでこちらも名前は知っていたのだったが、聞けばニック・ランド周辺の人間なのだと言う。ただし、ニック・ランドが資本主義の流れをそのまま肯定し――いわゆる「加速主義」と呼ばれる考え方だろう――反民主主義的な思考を形成しているのに対し、マーク・フィッシャーは「左」をあくまでも少々引きずっていると言うか、反資本主義的なところがあると言う。元々は自分で運営していたブログの記事が広く読まれるようになって火が点いた人らしく、優れた才能というのは本当にたくさんいるのだなと思われた。ドゥルーズ=ガタリジジェクの名前なども頻繁に出してくるのだが、それだけではなく、大衆的な映画作品なども考察に絡めてくる、ただしそこまでならばハイカルチャーサブカルチャーのどちらにも目を配った幅広い批評文ということでわりとよくあるものだけれど、マーク・フィッシャーはさらに、教師としての自分の経験も考察の材料として加えてきて、その三位一体のような形で繰り出される思考が非常に面白かったと言う。自分の力で理解できるか覚束ないが、そう言われると読んでみたくなるものである。マーク・フィッシャーはしかし、鬱病を患ってもいた人のようで、もう数年前に自殺してこの世にはいないのだということだった。
 そのような話をしているうちに三時に達し、Mさんが腹が減ったから何か食物を探しに行くと言ったので、通話を終えることになった。有難うございました、おやすみなさいと挨拶して通話を切ると、Twitterなどを少々眺めてから、コンピューターを持って自室に戻った。そうして消灯して、扇風機を掛け、寝床に寝そべった。枕元には携帯と手帳を置いてあった。眠りを待つあいだに、先ほどMさんと話した話題の断片が思い出されるたびに、目を開けて、携帯の弱い明かりを点けてその薄い光のなかで手帳に短いメモを取った。それを繰り返しているうちに思い出される話題も尽きてきて、じきに眠りに就いたようである。


・作文
 13:05 - 14:12 = 1時間7分
 18:47 - 19:26 = 39分
 20:13 - 20:54 = 41分
 計: 2時間27分

・読書
 15:38 - 15:52 = 14分
 20:55 - 21:04 = 9分
 22:05 - 22:56 = 51分
 22:58 - 24:25 = 1時間27分
 計: 2時間41分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-07-28「懐かしいという感情の下品さを知らないおまえと話したくない」; 2019-07-29「留守番をしている雨はでたらめに神が打った句読点である」
  • 「at-oyr」: 2019-06-27「夢の中で」; 2019-06-28「晩餐」; 2019-06-29「思春期」; 2019-06-30「ヘテロトピア」
  • ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、書抜き
  • ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』: 3 - 52

・睡眠
 2:30 - 12:00 = 9時間30分

・音楽

  • Alex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』
  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • aiko『暁のラブレター』
  • R+R=NOW『Collagically Speaking』