2019/8/5, Mon.

 村上(……)今日のわれわれの科学の源流を遡ったときに、十七世紀が直接的なオリジンになっている。従来の図式からいえばそれで済むわけですが、今日それで済まなくなってきているのは、これもごく単純な話になりますけど、十七世紀に生きていた連中というのは、それじゃいまわれわれがイメージとして描く合理主義とか、あるいは自然科学的な立場とかいったようなものと、本当につながっていたのか、という問を立てたときに、そうしたイメージは、われわれが十七世紀に対して投げかけた一種のファントムにすぎないのではないか、という考え方が出てきた。じゃあ、そこにあるのは何かというと、理性と情念、しかもまさにおっしゃったように理性と情念が単に正反対のものとして拮抗し合ってるんじゃなくて、むしろそれがアマルガムというか、適当なことばがないんですけれども、とにかく決して二つのものではなくて、むしろひとつのものだ。
 中村 よじれていますね。
 村上 よじれてる。その認識というのが自然科学の歴史を遡る場合にも非常に重要なことになってきたわけです。たとえばニュートンを考えた場合に、ニュートンは典型的な十七世紀の人間の一人かもしれないけれども、最近、ニュートンについて〈スケプティカル・アルケミスト?〉というタイトルの論文を書いた人もいるわけです。これはもちろん『スケプティカル・ケミスト』という、例のロバート・ボイルの著作のもじりなわけですね。ボイルも十七世紀ですけれども、こういうことはイギリスでも、いままであんまり言われてこなかった。ニュートンの恥部みたいなものとして、目をつぶられてきたんだけど、実はニュートンは三十代以後はほとんどアルケミーや神学に対しての関心ばかりなんですね。これは今日のわれわれからみれば、非常に非合理な話だと思われるわけですが、そこにあるのは、実をいうと、中世的な、あるいは中世末期からルネサンス期あたりの、たとえば薔薇十字団とか、ロバート・フラッドとか、それからフアン・フェルモント――やっぱりこれも一種の、普通では神秘主義的な科学者のなかに入れられている、つまりほんとうの意味での近代科学者じゃないけれども――そういう連中の考えていた、今日からみれば神秘主義で片づけられるような、そういうものが実は近代の初期の自然科学的な仕事に組み込まれていることを示している。決してそれはニュートンのなかで分離していたとか、非合理なものと合理的なものとが二つパラレルにあったということではなく、むしろそれがニュートンのなかでアマルガメーションを起こしているということ自体のほうが十七世紀の特徴をよく現しているのではないか。(……)
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、196~197; 渡辺守章中村雄二郎村上陽一郎「十七世紀の風景」)

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 蓮實 正直いって、われわれがフランスへ行く場合、見たくないものは見まいと決意しない限り、これは気ちがいになるほかはないといった情況が間違いなくありますよね。日本にもそのようなことはあると思うけれども、やはりフランスの場合には、皮膚の色とか、顔つきとか、言葉とか服装とかとにかくシニフィアンとして違っちゃってる連中が、しかも違ってることであからさまな差別を耐えている連中ってのがたくさんいる。つまりフランス人の革命騒ぎからも排除されてしまう外国人の未組織労働者たちですね。その人たちがなにをやってるかというと、ゴミ掃除とか、地下の下水でネズミ取りをやってひどい生活しながら場末に住んでいる。何しろ政府が外国人労働者の入国制限を発表するとすかさずラジオがわれわれフランス人もとうとうゴミ掃除というひどい仕事を始めねばなりませんといった解説を流す国ですから。ところでそうした人たちというのはフランスで生活している限り見まいと思ったって見えてきちゃう。それをみんなは見ないつもりでいるのか、それとも見ざるをえないものを見ないでいられる神経のずぶとさを身につけて、それがいまや習慣化しちゃってるということがあるのかもしれないが、実際そうでもしない限り、まともな人間なら耐えきれない何かがあるわけですね。フランスで生活するにはとにかく残酷さか鈍感さのどちらかを選ばねばとてもやってけないって気が最近パリに行くたびにするわけです。
 ところで、いまのドイツ政府のやり方に関しては残酷さの方が一致して選ばれたという感じが強かった。最初に出たジャーナリズムの反応というのは、左翼系の一部の新聞をのぞいた一般紙をとってみると、ドイツはよくやったといってその断乎たる姿勢を手離しで称賛していたし、それからフランス政府もそれを助けた、これはヨーロッパの一体性の勝利であるということが非常に強調された……。
 豊崎 ハーグのときフランスができなかったことをよくやったという意味じゃ、そこに相通ずるものがありますね。
 蓮實 少くともヴィクトワール(勝利)ということばがあらゆる新聞の一面トップに全部出てきて、文明と野蛮の戦争が勝利したという雰囲気にみちていました。また一体性という点にしてもシュミット首相の決断をドイツ政府の閣僚はユナニミテとして(全員一致で)認めたし、ドイツ国民は与党も野党もユナニミテで支持しているし、われわれもフランスも政府から国民までユナニムであるという、そのユナニミテということが非常に強調されてました。よく考えてみればドイツは全員一致でシュライヤー氏を犠牲にしてしまったのだからずいぶん怖しいことをやったなと思う人がいるはずなのに――事実そうした反応は少しずつ出てはきましたが、ユナニミテとヴィクトワールという言葉ばかりがずっと前面に出てきていたと思います。その前にフランスで小さなハイジャック事件があって、これはまさにフーコー的な主題だと思うけれども、ずっと親に虐げられてきた四十男、そいつはたしか父親を殺しちゃったやつなんですが、なんか自分の政治的な発言をしたいからテレビを呼んでこいというので、パリのオルリー空港でハイジャックをやって、これがあっさり捕まっちゃったときの翌日ですね、街を歩いてて「気狂いは殺せ」というのがほとんどすべての人の言ってることで、いささか怖しくなりました。やっぱり気狂いは殺さなくちゃいけないと。だからフーコーがなにを言おうが、――フーコーに影響されて、そういう人たちに対する関心を高めたなんて人はまずいないと思うけれども、にもかかわらずフーコーのやってることと全く反対のファシスト的な自己保存の体制がかなりの人によって共有されてると思うんですね。
 それはもともとそうだといえばそうなんですけれども、いわゆるフランスの中華思想みたいなものが、いまあるひとつの神話的な域に達しつつあるような気がする。これはジャン=ピエール・ファーユが『全体主義的言語』という重要な著作の中で非常によく分析していることだと思うけれども、フランスの中華思想とひと口にいってもそれはある力がフランスという中心から世界に向かって波及してゆくといった中心の概念ではなく周囲を外敵に包囲された幽閉状況としての中心概念が問題なのだ。彼がよく使うキー・ワードというかその小説の主題にもなったりしている比喩として、フランスという六辺形の内部の精神状態というのは、たえずトロイヤ的な立場だというのがありますね。いつも周りから攻められて包囲されている。だから、フランスの国はヘクトールの子供フランシオンが建国したとする神話が周期的に文学の主題として姿をみせる。そうした視点にたつとここ数十年間というもの、一九三九年から五〇年代の末まで、フランスは主に国外でドンドンパチパチやってて、だいたい植民地戦争のあと始末でみんな敗けてしまったけれども、少くともそれは外に向かっていく時代だった。ド・ゴールがそのあとを継いでもフランスの栄光というので、なんとなく視線が外に向いていたので、いまやド・ゴールも死に、国外のドンドンパチパチもコンコルドに代表されている偉大なるフランスという大時代的な政策も終ったとなると、やはり内側の退却が静かに始まって包囲してくるものに対して自分を守ろうとする力が、すごく陰惨な形で出てきてるような気がする。それは十九世紀の後半、コミューヌが崩壊した後に一度見られた現象だと思うんですが、それを特徴づける一つの符牒は一種の「フランス論」の流行ですね。現在のフランスのベスト・セラーの上位は、だいたいフランス人による「フランス論」によって占められている。ぼくとしてはどうしても危険な兆候だと思いますが〈新哲学派〉の登場もそうした傾向の一つとして存在しているように感じられてなりません。
 (291~294; 渡辺守章豊崎光一+蓮實重彦「猿とデリディエンヌ」)


 一〇時四〇分起床。汗の感触。起き上がってコンピューターを点け、Twitterやメールをチェックしたあと――H.Mさんから半年越しでメールの返信が届いているのに、前日気づいていた――上階に行った。母親は仕事で不在。素麺があると書き置きにあったので冷蔵庫を覗き、南瓜の煮物とプラスチック・パックに入った素麺を取り出した。南瓜を電子レンジに入れて温めているあいだに便所に行って放尿し、戻ってくると麺つゆを用意した。椀に注いだつゆのなかに冷凍庫に刻まれて保存されていた葱を少々入れて溶かし、そうして卓に行った。新聞は一面で、米テキサス州エルパソで起こった銃乱射事件を伝えている。二〇人が死亡したと言い、犯人は白人至上主義的な思想を持った人物のようで――二一歳と書いてあったと思う――ヘイトクライムの疑いが強いとのことだった。また、同日、オハイオ州でもやはり銃乱射事件が起こり、こちらは九人が死亡、犯人も射殺されて動機は解明されていないと言う。頁をめくって国際面からもテキサス州の事件の記事を読みながらものを食べ、食べ終えると台所に移って、冷蔵庫で冷やされた水をコップに注いだ。外からは、鶯の鳴き声が頻々と響いていた。八月になっても鳴いているとはなかなか長いもので、鳴きぶりも堂に入っていると言うか、闊達かつ旺盛なようだった。汲んだ水を一杯飲むともう一杯注ぎ、それでもって抗鬱薬を服用してから皿を洗った。そうして風呂も洗うと自室に下りてきて、Evernoteを起動させ、前日の読書時間の記録や支出の計算などをしたあと、FISHMANS『Oh! Mountain』とともに日記を書きはじめた。一一時四五分だった。そこから一時間強、前日の記事を綴って一時に達したが、Mさんとの通話の記述が一向に終わらなさそうだったので、途中でこちらに移って、先にこの日の日記をここまで書いた。今日は労働は三時から、従って二時半頃の電車で行かなければならないので、猶予があまりないのだ。
 その後も前日の記事を書き足して、一時四七分に至ったところでそろそろ支度をしなければ危ないなというわけで書き物を中断した。上階へ。食事を取ったのだが、何を食ったのだったか? 素麺が少々残っていたのでそれを食べたのだ。そのほか、やはり残り物のゴーヤ・チャンプルーと、棒々鶏の素で味付けされたサラダ。外は快晴、大気に光が通って山の緑が鮮やかであり、川沿いの木々が風に左右に揺らいでいるのが視認された。ものを食べて食器を洗うと、ベランダに吊るされていた洗濯物を室内に取り込んだ。本当はさらに取り込んだものをいくらか畳んでおきたかったのだが、既に二時を過ぎていて時間的猶予がなさそうだったので取り込んだだけで放置し、下階へ戻った。歯磨きをしたあと、ワイシャツとスラックスの姿に着替える。そうして便所で糞を垂れるともう出発の時間である。クラッチバッグに財布や携帯や手帳を入れて上階へ行き、ハンカチを引出しから取って後ろのポケットに収めると、玄関を抜けた。隣家の百日紅は直立した枝の上端に、まだまだ重そうに紅色の花を膨らませている。西へ向かって歩いていく。日向に出ると熱線がじりじりと肌に触れてくるが、数日前のような重みが感じられず、風も通ってわりあい爽やかな陽気のように思われた。坂道に入ると、ここでも風が道の縁を埋める木々をざわめかせている。路面に宿った木洩れ陽が足もとで震えているのを踏みながら上っていき、出口間際でふたたび日向に出ると、ここでは先ほどと違って陽射しがやはり重く、厚く感じられた。辟易しながら横断歩道を渡り、駅舎に入ってホームに渡ると、屋根の下に入って手帳を取り出した。ハンカチもポケットから取り出して、首筋を拭きながら手帳を読んだ。風が西から東へと、あるいは東から西へと緩やかに走った。
 アナウンスが入ると手帳を持ったままホームの先に行き、入線してきた電車に乗り込んだ。電車内は結構混み合っていた。こちらの乗った口の周囲には若者が四人くらい集まっていた。それで扉際は取れなかったので車両の奥の方に入って、引き続き手帳を読みながら電車が青梅に到着するのを待った。着くと降り、ホームの対岸に雪崩れていく人々をやり過ごしながら階段に向かい、通路を辿って改札を抜けると熱線に目を細めながら職場に行った。入ってデスクに就いている室長に挨拶すると、(……)さんが八月八日付で教室を去るということを告げられたが、本人から聞きましたと答えた。本来はお盆明け、八月一九日までということだったらしいのだが、室長やマネージャーがさっさと新天地に赴任するように働きかけたのだ、というようなことを言っていた。
 それで準備をして、授業。一コマ目は(……)さん(小学生だが学年は忘れた――五年か六年だろうか?・国算)に、(……)さん(高三・英語)。前者は初顔合わせ。この子は、特別支援学級の生徒なのだと言う。と言うことは多分、多少の知的障害があるということなのだろう。実際、今日の算数は、宿題に出ていた単位の計算がわからなかったと言うので、そこを扱っただけで終わってしまったのだが、一キログラムが千グラムであるということ、これを踏まえて、それでは三キログラムは? などと問うても、なかなかすぐに答えが出てこない。完全に理解できていないわけではないと思うのだが、しっかり理解できているとも思われない。しかし最後の方では、四〇六〇グラムをすぐに四キロ六〇グラムと変換できたりもして、どれくらい理解しているのか良くわからない。出来るところと出来ないところの差が激しいような印象である。国語の方は漢字だった。こちらは特段の問題はないだろう。(……)先生が当たっている時には、すぐに先生、先生、と講師を呼んでばかりいるような印象があったのだが、今日はこちらがもう一人に当たっているあいだも静かに待っていて、性急に呼ばれるようなことは一度もなかった。(……)さんに結構密着してやっていたので、(……)さんの指導の方はやや薄めになってしまった。今日やったのは前置詞の箇所。byとuntilの使い分けなどについてノートには記入してもらった。
 二コマ目は(……)さん(高二・英語)、(……)さん(高二・英語)、(……)くん(中三・英語)。(……)さんは自ら進めてくれ、ノートも自発的に記入してくれるのでやりやすい生徒である。多少放っておいても問題ない。彼女のやるペースに合わせて、時折り解説をしたり、質問を受け付けたりした。(……)さんも、最初Next Stageの問題の解説をしている時から、こちらが何も言わなくともノートに表現を記録してくれて、何だか意欲的だなと思った。そんなに意欲のある子だっただろうか? 今日扱ったのは受動態で、その後はmade ofとmade fromの違いなどについてメモしてもらったのだが、最初はこの二種の表現の区別を逆に書いていた。指摘すると、いくらか戸惑っていたようだが、最終的には多分理解出来たのではないか。(……)くんは何だかいつも疲れているようなイメージ。今日は疑問詞の箇所を扱ったが、ミスはほとんどなく、あっても細かいもののみで出来に文句はない。それなのでノートにはbe afraid ofの表現をメモしたのみとなった。
 三コマ目は二コマ目から引き続き(……)さんと、(……)くん(小六・社会)、(……)さん(中三・社会)。(……)さんは先ほど述べたように自分からどんどん進めてくれるし、ほか二人も真面目なのでやりやすかった。(……)くんは運輸や貿易などについて扱い、(……)さんは関東・東北・北海道について。二人ともノートを充実させることが出来、(……)さんは復習も一頁行うことが出来た。
 それで終業。机の掃除などをしてからタイムカードを押し、ロッカーからバッグを持って退勤した。駅舎に入り、例によって自販機に寄り、一三〇円で二八〇ミリリットルのコカ・コーラを買ってベンチに就いた。それほど暑気がもやもやと蒸さないような印象だった。あるいは身体が暑さに慣れてきたのだろうか。コーラを飲みながら手帳を読み、飲み干したボトルを捨てたあとも引き続き手帳を繰って、奥多摩行きが来ると乗車し、席に就いて手もとに目を落とし続けた。
 最寄り駅で降りると、西空の低みに薄雲に包まれた月が、夜闇のなかにうっすらと浮かんでいて、巨人の親指で空に押しつけられた曇りのように映った。カメムシのぶんぶん飛んでいる階段通路を抜けて、横断歩道を渡り、坂道に入りながらふたたび夜空を見上げると、晴れている箇所では星が一つ、明々と灯っており、月は今度は殻に包まれた卵のように見えた。昨晩のMさんとの会話などを思い出しながら、林から蟬の声が散発的にギイギイ響いてくる家路を辿った。帰宅するとワイシャツを脱いで洗面所に入れておき、下階に戻ると着替えて食事を取りに行った。品目はトマトソースとズッキーニを絡めたラタトゥイユめいた料理に、素麺のサラダ。それぞれを皿に盛って卓に行き、食事を取ると皿を洗った。食事を終える頃には母親が風呂から出てきたのだと思う。こちらも続いて入浴し、出てくるとソファに就いて涼みながらひとときテレビを眺めた。コシノミチコの友人である酒造会社経営者のとある婦人が、イギリスにある元貴族の館を購入したとか何とか紹介されていた。二〇億円だとか言う。その人はさらにロンドンにも高層マンションを借りていて、その家賃が月二〇〇万円とのことだった。いかにも得々とした様子で、こちらなどには想像も出来ないような別世界の人間の暮らしだが、それだけの金があるのだから、こういう人たちがもっと貧困層に対する支援などをしてくれれば、世の中もう少しは良くなるだろうになあと思われた――もう既に支援しているのかもしれないが。テレビをちょっと見たあと、下階に下り、一〇時前から日記を書き出した。Alex Sipiagin Quintet『Steppin' Zone』とともに前日の日記を書き進めて、一時間掛けてようやく完成させることが出来た。累計で二万字ほどになったようである。それからこの日の記事も本来ならば早めに書きたかったのだが、既に長い記事を一つ拵えたためになかなか気力が足りなかったので、Twitterを眺めたり、LINE上でやりとりをしたりした。それで零時になったところでベッドに移り、ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読みはじめたが、いつものようにまもなく意識を消失した。正気に戻ると既に三時台だったと思う。そのまま就寝した。


・作文
 11:44 - 13:47 = 2時間3分
 21:51 - 22:53 = 1時間2分
 計: 3時間5分

・読書
 24:00 - ? = ?

・睡眠
 3:20 - 10:40 = 7時間20分

・音楽