2019/8/7, Wed.

 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。
 大人たちがそう言うのを聞いて、少女のトエはそうかそうかと思っただけだったが、火は確かに燃え難くなっていた。まったく燃えないという訳ではないのだが、とにかくしんねりと燃え難い。すでに春で、暖房の火を使う場面はなかった。喫煙する祖母が奥の間で舌打ちするのを聞くことはあったものの、少女のトエにとってたちまち不自由が生じたのは煮炊きの場だった。七輪で火を熾すにも場所を選ぶ必要があり、高い場所で試みたり、低い場所に移動してみたり、また日により時刻によって火の燃え難さには明らかな違いがあるらしく、まったく難儀なことではあった。狭い台所では空気が足りないとでもいうかのようだったので、トエは外の物干し場まで七輪を持ち出してみることがあった。下流に向けてどうどうと動いていく川の気配を全身で感じながら火箸を使っていると、いつものことだがまるで舟の艫[とも]に座っているようだと思う。中洲の最南端に細く突き出たこの場所は、少しの増水でも真っ先に水没してしまう場所であるから、物干し場の構造は何度も濁水に浸かった挙句の傷み放題、床板は波打ち、七輪とトエのかるい重さにも耐え難いようだった。
 背後には階段状になってごたごたとバラックが積み重なり、その頭上に橋げたがある。家と家の隙間がなく、足場のような板を渡して道がわりにひとが使う、それらの住居をバラックと呼ぶことをトエは知っている。対照的に趣があるのは横に渡った石橋で、やなぎの欄干に石灯籠、このところ少し暗くなった気がしなくもない丸ガラスの街灯が並び、川面に枝葉の影のそよぎを落とす――京橋桜橋小橋なかけう[﹅4]橋、微妙に紛らわしい名の橋ばしが中洲の多いこのあたりに集中しているが、路面電車が通っているのはこの柳小橋だ。通過の振動とともに轟々と音がする、その通過はゆっくりで、夜にはわずかばかりの火花がぱっと架線に纏わるのが見える。石切り場の事故があっても電気はまだ生きている。大人たちはそう言うのだったが、それでもトエの擦る燐寸はへし折れるばかりでなかなか熱を持たず、多めの焚きつけを使って騙しだまし熾した炭火はどう見ても火力に乏しかった。冬の寒風にも逆らう凛乎とした勢いはどこへ行ってしまったというのか、欠片ほどもなく、小鍋のべか[﹅2]や小芋はぐじぐじと泡のたつ生煮えになった。
 (山尾悠子『飛ぶ孔雀』文藝春秋、二〇一八年、7~8)


 あまりよく眠れなかったが問題はない。両親は替わる替わる、といったような感じで鼾を立てて眠っていた。五時に達すると母親が起きだした。トイレに行って、歯も磨いていたらしい。戻ってくると、カーテンをめくって外の明け具合を確認している。そこでこちらも起き上がって、部屋の明かりを点け、目が痒いと言って目を擦った。母親はシャワーを浴びると言った。危ないよと掛けると何で、と返されるので、答えあぐねていると、血圧が、と訊くので、そうだと言った。母親は外に泊まった時は朝にシャワーを浴びるのが習いなのだと言う。だって勿体ないじゃん、と言うが、その論理はいまいちよくわからない。こちらは寝床を離れて、部屋の隅に畳んで置いてあった服を取り上げ、昨日と同じ格好になったあと、テーブルに就いてコンピューターを起動させた。Twitterを覗くと、「#好きです韓国」というタグと、「#嫌いです韓国」というタグとが双方ともトレンドに入っていて、苦々しく思った。まるで小学生の争いのようではないか。国民のあいだの分断が加速するばかりだ。それから早速、日記を書きはじめ、前日の記事をさっと仕上げてこの日の分もここまで書くと、五時半を過ぎている。先ほど五時半に達したところで父親の携帯が音を立てたが、当の父親は呻き声を上げながらそれを止めると、ふたたび眠ってしまったようだ。
 それからこちらはTwitterなど眺めて過ごした。シャワーを浴び終えた母親は化粧をし、六時近くになると父親も起きてきた。こちらと同様昨日と同じ格好――ピンク色の線が入った格子模様のシャツと、灰色のスラックス――に着替えた父親は、車の鍵がないと言って探しだした。もしかして車のなかに置いてきたのだろうか、車の鍵を閉めないままで来てしまったのだろうかと言うのに、母親は不安気な声を出したが、こちらは何ということもなく受けて、それでは見に行ってみれば良いと言った。それで見に行き、そのついでに食事も済ませてくるかとなったところで、そのあたりにないのかとこちらがキャリーバッグを指差し、父親が一応その外側の口を引き開けて調べてみると、そこに見事にあったので良かった良かったとなって問題は解決した。それで食事へ。部屋を抜け、カーペットの敷かれて整然とした雰囲気の廊下を通ってエレベーターへ。一階に下りて、昨日と同じダイニングレストラン「SERENA」に入る。入り口に立っているのは今日は高年の男性で、慇懃で丁寧な物腰であり、声もふくよかで、年嵩ではあるがいかにも紳士らしい。その紳士に朝食のチケットを渡してなかに入った。朝食はバイキング形式である。盆と皿を取って、サラダやパンやソーセージなどを取り分けていく。サラダはレタスと水菜に薄白いオニオンにミニトマトを二つ、パンはクロワッサン二つに饅頭のような丸いミルクロールを一つ、揚げ物はソーセージ三本に唐揚げ二つ、それにフライドポテトを少量取った。そうして一旦席に行き、品物を置いておくと、飲み物を取りに行った。グレープフルーツジュースを選んだ。それで食事。さしたる会話もなく、母親が時折り話を漏らすのみで、それぞれ黙々と食べる。フロアには真っ赤なポロシャツとチェック柄のハーフパンツを履いた中国人らしき集団が集まって食事を取っていたのだが、あれは何の一団だったのだろうか。そのなかに一人、物凄く脚の長い女性がいた。女性陣はポロシャツを着ているのでウエストの形がよくわかるのだが、どの女性も酷く腰が細く窄まっていた。食事を終えたあとは一旦室に戻って出る準備をし、シャトルバスに乗りに行くわけだが、バスは乗れたら八時五分のものに乗ろうという話だった。それで食事を終え、食器類はテーブルにそのまま残して退出。出口で先ほどの高年の紳士に、有難うございましたと礼を言うと、あちらも礼を返してきて、良い一日を、と付け加えてくれた。それから、母親がコンビニに寄りたいと言うので、ホテル内に併設されているローソンへ。アイスがあって、ちょっと食いたい気はしたが、満腹だったので控えた。バスのなかで気持ち悪くなるかもしれないという恐れもあったのだ。それでロシアに持っていくためのハイチュウやらグミやらを購入し、部屋に戻った。葡萄味の「ピュレグミ」をつまみながら日記をここまで書き足して、七時二二分である。
 排便。七時半頃には既に部屋を出て出発した。エレベーターで一階まで下り、ロビーへ。女性スタッフがすぐさま近づいてきて声を掛け、荷物を預かってくれる。大きなスーツケースを独力で持ち上げ、台車の上に載せてしまう。ほかの荷物も。それから、よろしければあちらで掛けてお待ちくださいと手近のテーブルを示されたのでそちらへ移動。卓の真ん中の溝に、円筒型の容器に入ったドライフラワーが飾られていた。なかには普通の明るい色の花のほかに松ぼっくりなど。こちらは例によって手帳を読みながら過ごす。そのうちに八時五分のバスが来ましたと声が掛かったので、席を立って外へ。バスに乗り込む。父親と並んで腰掛け、母親は一つ前の席へ。陽射しが窓から射しこんでおり、そのなかに埃が浮遊しているのが白く際立って見え、こちらの左手首につけられている時計の表面が光を反射して、バスの天井に小さな光点が生まれ、こちらが手帳を持ちながら手を動かすのに応じて高スピードで移動するのだった。車内には外国人の二人連れが見られた――勿論、ほかにももっといたかもしれない。メデューサのような髪型の白髪の婦人と、彼女より幾分若いように見えたが配偶者なのだろうか、男性一人だった。
 バスはじきに発車した。快晴のなかを走っていき、すぐに第二ターミナルに到着。降りて荷物を回収し、空港内へ入った。Qと記された手荷物預かり所に並ぶ。列が進むのを待っているあいだは例によって手帳をひらき、立ったままメモを取り、それが終わると記してある文言を読みながら無沙汰を紛らわした。あたりには野球の海外遠征に向かうらしい子供らの姿。結構待って、じきに番がやって来た。相手をしてくれた職員は、一人だけ黒い装いだったので、主任か何か、ベテラン級の人だったのではないか。荷物を預ける。一番大きなスーツケースと、こちらの衣服が入ったキャリーバッグも預けてしまうことにした。手続きはすぐ終わり、搭乗チケットを受け取ってフロアの奥へ。母親がトイレに行く。トイレに入る間際、そのすぐ外にあったゴミ箱に彼女は持っていたペットボトルを捨てるが、ゴミ箱からはペットボトルが溢れていて、そのなかに無理やり挿すような感じだった。こちらと父親が立ち尽くして母親を待っているあいだにも、続々と捨てに来る人がいて、もう入らないので口の外側に置かなければならないくらいである。そのうちに清掃員がやって来た。短髪。無表情、あるいはつまらなそうな表情をしていて、愛想はあまり良くなさそうだ。ペットボトルを一個、あるいは二個ずつ掴んで巨大なビニール袋に入れていく、ゴミ箱に素手を突っこんで。
 じきに母親が戻ってきた。すると父親が、店がたくさんあるから何か見るかと言って歩き出し、エスカレーターを上って四階に行くことになった(バスから降りてそのまま入ってきたのだが、今までいたフロアは既に三階だった)。エスカレーターを上がってすぐのところに書店があった。改造社書店という名前だったと思う。入店して回ってみたが、大方どうでも良いような本ばかりである。『日本国紀』が平積みされていた。目ぼしいのはアルフレート・デーブリーンの『運命の旅』くらいである。むしろほかの本のラインナップのなかで海外文学のなかから何故このような本だけピックアップして売られているのか不可思議である。母親は迷いながら、ロシアの観光案内本を買っていた。一四〇〇円。父親も何か買っていたようだ。店を出て、ちょっと周辺を回ると、プレス・バター・サンドの店などがある。しかし、特に用もないので、もうなかに入っちゃうかと父親が口にし、エスカレーターを下りて出発口に行った。荷物検査である。水色に緑が少々混ざったような色の古びたケースが台の上にたくさん並び、人々がそこに自らの荷物を入れて検査に送っている。こちらもその後ろにつき、何の説明もされなかったので良くもわからなかったのだが、周囲の挙動を見てリュックサックをケースのなかに入れる。もう一つの小さな黒のELLE PETITEのバッグもリュックサックのなかから出して別の籠に入れ、ポケットのなかのものを尻のハンカチ以外すべて出した。さらにコンピューターもリュックサックから出して見えるようにしておき、そうしてゲートへ。くぐり、係員の指示に従って両手を挙げてゆっくりと一回転した。その後、女性職員に背と胸を触られ、検査される――物凄く汗を搔いていてTシャツの背がじっとりと濡れていたので、職員は手が冷たかっただろうと思う。それで検査はOK。進み、荷物を受け取ってあたりを見回すと父親が少し離れたところで手を挙げていたのでそちらへ。合流し、次は顔認証である。パスポートの写真の頁をひらいて機械の上に置くと、自動で読み取って顔を認証してくれるのだ。それで問題なく通過。スタンプは省略するのだと言う。
 搭乗ゲートは六八番である。向かう途中に書店がふたたびあり、父親は、内田康夫の本がないかどうか見てくると言ってなかに入っていった。それで何か買っていたよう。通路で待ち、戻ってくると先へ進んでいく。動く歩道に何度も乗っては降り、長々しい通路をひたすらに歩いていく。母親が、飛行機に乗る前から疲れちゃうねと言っていたがその通りである。そうして六八番ゲート付近へ。席に就いた。あたりにはマラソンを映しているテレビと、無機質な席の列と、アイスの自販機のみ。飲み物の自販機すらない。それで父親は道を戻って水を買いに行った。こちらと母親は並んで待ち、こちらは手帳にメモを取っていた。時刻は九時半を回ったあたりだった。出発予定時刻は一〇時五五分である――元々一〇時四五分だったのだが、機体の点検か何かで一〇分遅れたのだった。父親が戻ってきたあと、両親は途中で、大窓の向こうに広がる滑走路に面した別の席へと移っていった。こちらは一人、黙々とメモを取り続けて、そうして一〇時二五分。
 その後は手帳を読んでいた。そうして一〇時四〇分頃から搭乗手続きが始まる。ビジネスクラスの人が先で、エコノミークラスの人はさらに五〇番以降の座席の人が先で、我々は二五番の席なので最後のグループだった。番が来ると席を立ち、パスポートと搭乗券をスタッフに渡す。最初の女性スタッフはパスポートと券を見比べてチェックし、次のスタッフは券を機械に読み込ませていた。そうして赤いカーペットの敷かれた通路を辿って飛行機内へ。こちらは二五Fの席である。父親はDで母親はE、機内中央の四席並んだ列の左から三人連続だった。こちらの右隣には四〇代くらいだろうか、黒い装いの婦人。目の前の座席の裏にはテレビが設えられている。それでフライトマップが見られたので、弄ってモスクワまでの航路を確認したりしているうちに、飛行機は動き出した。発着の飛行機が多くて離陸許可を待つのにやや時間が掛かると言い、実際に離陸したのは一一時半頃だった。こちらはやはり何となく吐き気のような感覚が兆していると言うか、あれはやはり緊張していたということなのだろうか。母親は冗談めかしたようにして、無事に飛び立ちますようにと手を合わせて祈っていた。がたがた揺れて、重力が上方から身体に乗ってくる感覚があり、無事に離陸出来た。こちらはその後、テレビを操作してオーディオプログラムを探った。ジャズを選んでどんな音源が入っているのか見てみたところ、これが予想外になかなか質の良いものが揃っていた。John Coltraneの『My Favorite Things』は古典的名作なので入っているのはまあわかる。しかし、Joshua Redman Quartet『Come What May』とか、Chick Corea Akoustic Band『Live』とか、Brad Mehldau『Finding Gabriel』などが入っているのは率直に言って驚かされる。ほか、Hakuei Kim & Xavier何とかいう人がやった『Conversations In Paris』や、Snarky Puppy『Immigrance』、『Blue Note Covers』などといった音源も収録されていた。なかなかに攻めたラインナップで、五〇年代六〇年代のモダンジャズばかり聞いている人にとってはある種拠り所のないような品目なのではないか。こちらからすると勿論大歓迎で、JAL、なかなかやるなという具合である。上に記したような音源は、大体ここ一、二年ぐらいのあいだに発売された作品ではないのか? 最新のジャズを積極的に取り入れているわけだ。
 それで最初は、『Blue Note Covers』というコンピレーションを聞いた。Michel Camiloの"The Sidewinder"とか、山中千尋がカバーした"Don't Know Why"とかが収録されているアルバムである。Blue Note All-Stars『Our Point Of View』に入っている長尺の"Witch Hunt"も収録されていた。なかでも、最終曲の黒田卓也 "Think Twice"という音源が格好良く、これはのちほど入っている音源を調べてみなければなるまいと思われた。書き忘れていたが、最初のうちは各席に備え付けのヘッドフォンを使っていたのだが、それだとあまりうまく聞こえないし、トランペットの音などがんがん周りに漏れていたので、途中で自分のイヤフォンに変えた。これは耳に深く挿し込むカナル型なので、音漏れもしないし、空を飛ぶ機内の騒音のなかでもよく聞き取れる。
 そのうちにキャビンアテンダントが飲み物を聞きにやって来たので、スプライトを頼んだ。隣の婦人はこの時点で既に、何故かほかの客に先んじて食事を取っていた。しかもそれが見たところ、全部フルーツだったようなのだが、これはどういうことだったのだろう。ベジタリアンの人か何かで、特殊な配慮を必要としていたために、先に食事が提供されたということなのだろうか? 実際その後、我々が食事を取る時間帯にはこの人は食事を取っていなかったので、先のフルーツが昼食替わりだったようなのだ。ちなみにデザートのアイスは普通に食べていた。わからない。食事の時間まではこちらはひたすら音楽を聞いていた。目を閉じて集中して聞く時間も多く取ったが、やはりそうした時間は良いものである。食事はメインディッシュがネギ塩鶏の三色丼と彩り野菜のドライカレーから選ぶ仕様で、こちらは前者を選び、母親が後者のドライカレーを選んで、互いにほんの少量ずつ分け合った。サイドディッシュは夏野菜揚げ浸し翡翠餡にかぼちゃとレーズンのサラダだった。デザートはタルトシトロンオランジュという、何なのかよくわからないがとりあえずタルトらしきもの。そのデザートに加えて、ハーゲンダッツのバニラ味がさらなるデザートとして配られた。味は全体的にまあまあ。所詮は機内食である。こちらは食事を取っているあいだも何となく心持ちがあまり良くなく、ことによると吐くかもしれないという危惧を抱えて、エチケット袋の口を予め切っておいたほうが良いかなどと考えていたのだが、食べ終わってみるとむしろ心持ちは落ち着いた。
 食事を終えてトレイを回収してもらったあと、コンピューターを取り出し、引き出し式テーブルの上に載せて――勿論食事もこのテーブルを使って取ったのだ――日記を書きはじめた。それが二時前だった。一〇分ほど書いたところで尿意が高まってきたので、一旦コンピューターを閉じ、左隣の母親にちょっと持っていてと渡して――スペースが狭いので、そうしないと動けないのだ!――右隣で映画を見ていた婦人に、すみません、いいですかと声を掛けて通路に出させてもらった。そうしてすぐ背後の便所に向かったのだが、トイレは使用中だった。それでそのあたりに立ち尽くしたまま待っていると、キャビンアテンダントの女性たちがひっきりなしに行き来して、こちらの傍も通るので邪魔にならないようにたびたび移動したり身を引いたりした。トイレはなかなか開かなかった。結構待って、ようやく出てきた主は、老人だった。そのあとに入ると便器の奥にトイレットペーパーが残っていたので、一度流した――流すと言うか、吸い込ませたと言った方が正確だろうか。飛行機のトイレというものは凄い勢いで排泄物を吸い込んでいくものである。それで便器の上に腰掛け、排尿及び排便し、トイレットペーパーできちんと尻の穴を拭いてから立ち上がり、ズボンを履きながらセンサーに手を翳して自分の身体から出た汚物やペーパーをまとめて吸い込んでもらった。そうして出て、自席に戻り、引き続き打鍵。音楽はChick Corea Akoustic Band『Live』を経由して、Joshua Redman Quartet『Come What May』に繋げている。現在時刻は日本時間でおよそ午後三時、目的地までの飛行時間は残り五時間四四分となっている。
 その後はひたすら読書。Joshua Redman QuartetのあとはJohn Coltrane『My Favorite Things』を聞いたが、音楽を聞いていると――聴覚を埋められた閉鎖空間にいると――何だか眠気が兆してきて、目を瞑って前屈みになり、うとうととした時間もあった。タイトル曲におけるColtraneのソプラノはやはり改めて耳にしてみても凄い。『My Favorite Things』の録音は一九六〇年、Miles Davisのいわゆるマラソンセッションは一九五六年なので、そのあいだに四年の歳月しかない。John Coltraneはこの僅かな期間で完全な別人と化した。人間は、音楽家というものは僅か四年間でここまで変われるのかという思いを禁じ得ない。
 途中で音楽を聞くのを止めて、聴覚を雑音に晒しながらルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』を読んだが、その方が眠気が湧いてこないようだった。ヘスの記述ぶりは編者の序文において、「大量ガス虐殺に関する彼の描写はすべて、それにまったく加担していない観察者のそれである」(39)という評価を得ているが、ガス虐殺についての描写のみならず、彼の記述は全般的にすべてを俯瞰しているかのような趣がある。そこにはナチスへの忠誠も、翻って人類史上未曾有の大犯罪に関与したという事実への反省のようなものも、双方とも感じ取れないのだ。ある意味中立的と言うか、自ら実行したはずの行いに寄与したという責任感が見えず、例えば囚人の類型についての考察など、確かに収容所を運営していたヘスでなければわからないことなのだろうが、ほとんど外部から招かれた部外者のような淡々とした観察のトーンを帯びている。この冷徹とも言うべき自分自身への距離の取り方は何なのだろう。
 到着の一時間か二時間かそのくらい前に、サンドウィッチとフルーツの軽食が配られた。この時も隣の婦人はほかの人々に先んじて、やはりフルーツの食事を配布されていた。サンドウィッチは二種。ハムと卵のものとチキンのもので、どちらも仄かに温かかった。フルーツはキウイ、林檎、西瓜がそれぞれ一切れずつ。こちらは三杯目のスプライトを飲み物に頂いた。
 そうして到着二〇分前くらいまで本を読み続けて、その後は本を閉じて着陸を待ったのだが、待ち時間が手持ち無沙汰だったので結局、テレビを操作して電子書籍の漫画を間歇的に読んだりしていた。それでドモジェドヴォ空港に着陸。時刻はロシア時間で丁度三時頃。着陸時にはさすがに機体が結構揺れて、甲高い軋み音のような響きが背後から聞こえた。それで無事着陸成功し、しばらく徐行と言うか、ゆっくり滑走路上を移動して停止。シートベルトのランプが解けると皆一斉に立ち上がって頭上から荷物を取り出しはじめる。こちらはそんなに急がなくても良かろうとゆったりと脚を組んで手帳を眺めていたが、父親が早々に荷物を取り出して、行く気配を見せたので追随して通路に出た。リュックサックを背負い、キャリーバッグを持ちながら通路を行っているあいだ、下りて来ていた収納スペースの蓋にしたたか頭を打ちつけた。痛え、と呻きながら、両親に笑われつつ通路を辿り、出口を抜ける。空港と飛行機のあいだの歩廊をキャリーバッグを引きながら渡り、空港に入る。階段下りてしばらく行くと便所があったので、寄ることに。便所はやや混んでいた。個室二つ。順番を待って室に入り、小用を足す。水は壁に取り付けられたレバーのようなものを押すと流れるタイプだった。便所の壁には風で手を乾かす機械らしきものが設置されていると思いきや、それは風を送るものではなくて、手を翳すと紙が自動的に出てくるものだった。しかしこちらは紙を使わず、ハンカチで手を拭きながら出て、待っていた父親と合流。母親もトイレに行っていたので彼女を待つ。待っているあいだ、近くには大学生らしき男女の集団――全部で一〇人か一二人くらいか――が集まっていた。あとで母親に聞いたところによると、彼女はトイレで行き合ったその集団のなかの一人に素性を訊いたところ、上智大学の学生だと言っていたと言う。母親が戻ってくると通路を進み、入国チェックの区画へ。列で待っているあいだ、例によって手帳を取り出してメモを取っていると、六〇代くらいの外国人の男性が、Can you speak English? と話しかけてきた。一度聞き返し、ちょっと迷ってから、a little、と答えると、こちらの手帳の文字に目を留めたらしい男性は、mandarinがどうのこうのとか言ってきた。mandarinというのは漢字のことだったかなと覚束ない記憶を思い起こしたのだが、そうではなくて、北京官話のことだった。Chineseかと訊いてきたので、Japaneseだと答え返した。娘の配偶者だったか、息子の配偶者だったかが中国人で、みたいなことを言っていたと思う。漢字は自分にとってso complicatedだと言っていた。どれくらいのcharactersがあるのかと訊いてくるので、I don't knowと端的に答え、数えたこともないやと受けた。それからこちらは、平仮名って知っている? と問うたが、相手は平仮名は知らないようだったので、手帳に「あいうえお」と書き、これが平仮名だと示した。この平仮名だったら、fifty charactersあると答えると、simplified、と返ったので、そうだと答え、平仮名を理解してくれたと思ったのだったが、あとから考えると、simplifiedというのは簡体字のことを言っていたのではないか。そうだとしたら間違った受け答えをしてしまったわけだが、時既に遅し。手帳の文字を指しながらこちらは、It is my diaryと紹介した。すると相手は、自分もdiaryをつけているけれど、君のもののほうがbetterだねと言ってきたので、笑いでこちらは受ける。そのあたりで一旦やりとりは終わって、礼を言い合ったあと、男性はスマートフォンを眺めはじめたが、こちらはちょっと経ってから、Where will you go in Russia? と尋ねた。すると何らかの返答があったのだけれど、地名が聞き取れなかった。と言うか明らかにこちらの知らない固有地名だった。それでんん? と反応すると、シベリア鉄道、みたいな言葉が聞こえた。こちらはモスクワで、兄に会いに行くのだと告げると、モスクワは巨大でwonderfulな街だ、しかし東京の方がよりbigで素晴らしい、みたいな返答があり、だけれどso busyだけどね、と言うので笑って同意を返した。
 やり取りはそんな感じで終了。そうしてじきに列が尽き、我々三人の審査の番がやって来た。一番先に窓口に行った父親は、ロシア語で何か訊かれていたが、当然何を訊かれているのかは何もわからない。適当にJapanとかsightseeingとか答えていた。二番目に母親が行った窓口は女性が相手だった。さらにこちらが次に行った窓口は、若い男性が相手で、この男が粋がっている若造というような雰囲気の人間で、愛想はまったくなかった。こちらがパスポートを渡した当初は何やらにやついていたし、その後は無愛想な表情でこちらを睨みつけてきたと言うか、それは勿論パスポートの顔写真と実際の顔を見比べるためではあったのだろうが、端的に言ってガンを飛ばして来たので、こちらも真正面から怖じずに視線を返してやった。相手が発言したのはこちらの下の名前だけで、それに対してこちらもYes、と答えたのみだった。それで何やら相手はパスポートの頁をめくってたらたらと検査していた。拡大鏡のようなものも使って調べていたようなのだが、何となく挙動と言うか勤務態度のようなものがだらだらとしているような雰囲気があった。そのうちに機械から二枚繋がった紙が印刷されて出てきた。入国カードである。このようなものに署名をするのだということは事前に聞き及んでいた。相手は無言で、その用紙の署名欄を指差してきたので、頷き返し、手元のボールペンで二枚に署名をした。そうしてそれを差し返すと、相手はパスポートに用紙を挟んで切り離したのだが、その時の切り離し方は思いの外に丁寧と言うか、乱雑ではなかった。それで入国審査は終了。有難うと言い残してこちらはゲートをくぐり、両親と合流して預けていた荷物を受け取りに行った。荷物を回収すると出口へ。ロビーヘ。出ていくとすぐ近くに兄の姿があった。近寄って行くと、我々三人と順番に握手を交わしながら、兄はようこそと言ったので、こちらは有難うと返して手を握った。兄の傍には誰だかわからないロシア人の姿があり、その男性も我々と順番に握手を交わした。こちらは兄の友人なのかと思ったり、母親は兄の会社の人なのかと思ったりしていたのだが、訊けばこの人は定額タクシーの運転手なのだと言う。それで彼について歩いていき、途中で父親が便所に寄ってからふたたび歩き出し、空港の外に出て、ロシア人たちとすれ違いながらだだっ広い駐車場を辿っていく。母親は、車までの道のりが長いねと漏らして苦笑していた。長々しい道のりを辿ってようやくタクシーに辿り着いた。タクシーはバン型だった。荷物をトランクに積み込み、乗車。バンの後部座席は席が向かい合うタイプだった。発車。タクシーはフロントガラスに罅が入っていた。流れていた音楽はあまりセンスの良いものではない。何か半端なロックといった感じのもの。しかしこれはどうやらラジオを流していたらしい。
 運転は荒い。しかしどうやらロシアではそれが普通のようだ。ガンガンスピードを出して隙あらば周りの車を抜かそうとし、ウィンカーも出さずにバンバン車線変更していく。ほかの車もどんどん割り込んで入ってくる。それで母親はたびたび、怖いよ、怖いよと漏らしていた。こちらは車というものがやはり苦手で、酔って、軽い吐き気を催していた。このままではやばいのではないかと思い、兄の家に着くまで耐えられるように祈っていたのだが、途中で胃のなかから空気が上がってくるような感覚があって、要するに軽い噫のようなものを出すとそれでだいぶ楽になった。道中、何とかスタジアムというものが見えた時があって、その傍のドーム的な建物はモスクワ大学だと言う。兄によれば、スターリン・ゴシックという建築様式らしい。そのほか、こちらは現代ロシアで最近人気の作家というのは誰なのかと訊いてみたが、兄はそこまで文学に造詣が深いわけでもないので、あまり知らないようだった。それでも、トルストイの孫娘が活躍しているという話があったり、そのほか、ヴィクトル・ペレーヴィンやリュドミラ・ウリツカヤの名前が挙がったりした。わざわざ訊かなかったが、多分ソローキンは兄は知らないだろう。ロシアの男性は大柄でふくよかな体型の人が多いが、こちらの正面に座っていた兄の身体をまじまじと見ると、その点彼もなかなか負けておらず、恰幅が良くてロシア人めいた貫禄が出てきたのではないかとちょっと思った。
 それで兄のアパートに到着。空港からは一時間か一時間半かそのくらい掛かったはうだ。入口のゲートをくぐる際、警備員が出てきて、兄はロシア語で何とか言っていた。あとで聞いたところによると、徒歩で買い物に出る際の行き帰りなどもいちいちこの警備員にゲートを開けてもらわないといけないと言う。そのようにして安全対策がなされているわけだ。アパートは全部で一三階建てのようだ。兄の部屋はそのうちの一一階と言うか、一階がグラウンド・フロアーとして数えられているので、日本式で言うと一二階ということになる。アパートの玄関のすぐ前まで車をつけてもらって降車した。運転手がトランクから荷物を下ろしてくれるのだが、その際の手つきは乱暴ではなく丁重なものだった。それで両親とこちらは一人ずつ順番に、運転手と握手を交わして礼を言う。母親はその際に、日本から持ってきた――ホテルのコンビニで買った――「ハイチュウ」の桃味二つを渡して、ジャパニーズ・チューイング・キャンディー、と言っていた。母親のこうした物怖じしないところと言うか、人懐っこさのような部分は素直に美点だと思う。
 アパートに入ると、入口には高年の男性が座っていた。その横を通り過ぎてなかに入ると、そこにも一人、腹の大きな男性がカウンターの向こうに控えている。あとで聞くと前者は警備員のようなもの、後者はレセプションで、交代で二四時間ずっとこうした人たちが控えているのだと言う。エレベーターに乗る前には、そのあたりに設えられたソファに女性が二人座っていて、母親は先の男性たちにもこの女性たちにもこんにちは、と日本語で挨拶をしていたが、この女性たちは掃除婦だということだった。そうしてエレベーターに乗って、一一階で降り、部屋の扉を開けると、T子さんが出迎えてくれた。Mちゃんは今、眠っているらしかった。入ったところで靴を脱ぎ、T子さんが用意してくれていたスリッパに履き替える。部屋は広く、室がいくつもあった。キッチンダイニングみたいな室、リビング的な室――ここにはMちゃんの玩具が色々と用意されていた――、トイレが一つに、もう一つトイレ付き洗面所兼バスルーム、それに兄夫婦の寝室と、来客用の寝室に、倉庫みたいな室、といった感じだ。来客用の寝室にはベッドが二つあり、もう一つ、布団が敷かれていた。洗面所で手を洗ってからキッチンダイニングに集った。T子さんが麦茶を用意してくれたので頂く。それに、「きのこの山」にそっくりなチョコレート菓子と、紅白の蕪のチップス。冷蔵庫がどうも動作していないとT子さんは兄に言った。なかの電灯が点いていないのだと言う。それで兄が冷蔵庫を少しずつじりじりと前に引出し、コンセントの差し口を替えてみると、無事復旧したようだった。そのほか、のちには寝室の明かりが点かないという事態があって、点検員か何かの男性――腹が物凄く大きく、前に突き出していた――がやって来る時間もあったのだが、最終的にはよくわからないがこれもうまく復活したようだった。
 麦茶を囲みながら雑談を交わす。このあと、ユースホステルのような施設に行って、外国人登録を済ませなければならないということだった。ロシアでは外国人滞在者はそういう登録をしなければならないらしいのだが、登録だけそのホステルにしておいて、実際には兄の家に滞在するという方式を取るということだった。おそらく法的にグレーなやり方なのだと思うが、どうも皆そういうことをしているらしい。それでじきに出発することに。もう一度靴を履いて、扉をくぐり、エレベーターに乗って下階へ。アパートの外に出て、通用口のような脇の扉を越えるとそこに兄がアプリで呼んだタクシーが来ていた。乗車。運転手は若い男性だった。発車。音楽は先の人の車と同じような感じで、まあ言ってしまえば大したセンスではない。半端なロックみたいなもの。ジャズなど掛けるタクシー運転手はいないのだろうか? 
 それで一五分かそこら走って、件のユースホステルに到着。なかに入り、兄が受付にチェックインがどうのこうのと告げると、別室に案内された。そこでパスポートを見せて登録をするのだということらしい。空港の入国審査の際と同じように、ガラスの張られた向こうにいる女性職員に入国カードの挟まったパスポートを差し出す。女性職員は常に怪訝そうな顔と言うか困ったような顔をしている人だった。それで兄と彼女が何とかやりとりを交わしていたのだが、どうも相手には渋っているような雰囲気があった。大丈夫なのだろうかと思っていたが、結局登録はやってもらえることになったらしい。渋っていたのは、以前も同じように登録だけ行って別のところに滞在していたケースがあったのだが、その際に当局から指導が入って金を払い戻したことがあるので、自分の一存では決められないとのことらしかった。それで女性は電話を取って上役のような人のもとに連絡を入れたのだが、無事許可が出たらしい。そうして、ソファに座って待っていてくださいとのことらしかったので、革張りの真っ黒なソファに就いて女性がキーボードをカタカタとやって何かデータを入力し終えるのを待った。女性の発言は勿論何一つわからないわけだが、「ダーク」だか「ダンク」というような発音の言葉をやり取りのなかで何回か漏らしていたのが耳に残った。あと、「ニェット」みたいな言葉も聞こえたが、これは多分Noの意味合いだろう。室内で女性が作業を終えるのを待っているあいだは、ホステルに泊まっているほかの客だろう、小さな子供連れの父親が室に入ってきたので、子供に向けて手を振ってやったが、見慣れぬ外国人を怪しいと思ったのか、芳しい反応はなかった。そのほか、明らかにヘヴィメタル愛好者であることがわかる格好の男も入ってきた。裸の上半身に黒い革のベストに禿頭という出で立ちで、ほとんどRob Halfordそのままの格好で、メタラーでなければハードゲイだとしか思われない。
 それで結構長い時間を待ったが、最終的にパスポートは返却された。翌日の一二時以降に登録書類か何かが出来るということだった。その際は我々三人の帯同は必要ではなく、兄だけが取りに来ることが出来るらしい。兄は翌日仕事なので、半日勤務したあと取りに行くかどうしようか、という感じのようだった。それで退出。ホステルから出ると、近くの車からまさしくヘヴィメタルが大きな音声で流れ出ていて、近くには、視力が悪いので定かに捉えられなかったが、メイクをして、悪魔的な雰囲気の長髪や長装をした男だか女だか遠目にはわからない人が立っていたので、あいつら絶対さっきの男の仲間だろ、となった。兄はアプリでふたたびタクシーを呼んだ。雨が降りはじめていた。冷たい雨粒に打たれながらちょっと待っていると黄色いタクシーがやって来て、今度の運転手は若い女性だった。乗り込む。音楽はやはり大したものではない。車内にはケースに飴が大量に入れられていて、これは多分サービスで自由に取って食っていいのだと思うが、頂かなかった。兄は途中で、女性に音楽の音量を下げるように頼んで、どこかに電話していた。仕事関係の通話のようだった。
 それでアパートに戻り、スパシーバと礼を言って降り、ふたたび建物内に入ってエレベーターに乗り、部屋に戻った。Mちゃんが起きていた。彼女と遊んでいるあいだに夕食の準備が出来たので、キッチンダイニングに集まって卓を囲んだ。こちらは飲み物はコーラを頂き、父親や兄はビールをたくさん、何種類も飲んでいた。T子さんはビールを飲まないと言って、と言うのは最近新たに懐妊したからだと言うので、おめでとうございますと皆で祝いの言葉を掛けた。そろそろ五か月だと言う。子供は男の子らしい。以前はロシアで生むのは環境的に厳しそうだと物怖じしていたT子さんだが、いざ病院に行ってみると医師が非常に丁寧で信頼の出来る人で安心したとのこと。検査も日本よりむしろ発展しているような感じで、血液検査をするだけで子供の性別やら遺伝的な欠陥があるかどうかやらがかなりの高精度でわかるのだという話だった。遺伝的欠陥については、九九. 九九九パーセントくらいない、との診断が下ったらしかった。
 食事は鯖の半身を丸ごと焼いたものと、ブロッコリーなどの野菜が一皿。ほか、ズッキーニをシーチキンで和えたサラダに、「毛皮を着た鰊」という奇っ怪な名前の、色も紫めいてやや奇っ怪な料理。これは鰊とジャガイモやらビーツやらを層にして作った料理らしい。そうして汁物はかきたま汁。これがなかなか美味くて、おかわりをしたかったのだが、遠慮して言い出さないでいるうちに、こちらはMちゃんと遊びに別室に行ってしまって、そのあいだに食膳が片付けられてしまったのだった。野菜には日本から持ってこられた牛角のチョレギドレッシングが掛けられた。
 それでこちらは、食事中に喋ることが少ないものだから、一人黙々と食ってさっさと食べ終わってしまい、そのあとはMちゃんの相手をして別室にいた。玩具のたくさんある居間のような室である。そこでMちゃんと玩具を使ったりして遊んだ。Mちゃんは色々な言葉をよく喋る。適当に喋っているのではなくて、明らかに意味を理解して口に出しているようだ。例えば、アンパンマンのパズルがあるのだけれど、これは誰、と言ってそれぞれのキャラクターを指差すと、バイキンマン、とかどきんちゃん、とか正しく答えるし、水を含んだ刷毛で塗ると色が浮かび上がる紙というものもあるのだが、それで出てきた色を指差して、これは何色、と訊いても、紫、とか青、赤、とかやはり正しく答えていた。彼女のおかっぱ頭をたびたび撫でながら、Mちゃんの口にする言葉にそれぞれ反応してお話しをしながらひととき過ごした。
 そのうちにふたたび食卓に戻って、こちらはMちゃんにヨーグルトを食べさせた。そうしてMちゃんとT子さんは風呂に行った。そのあいだは何をしていたのか覚えていない――と書いて思い出したが、母親が洗い物をしていたのだった。洗い物はちょっと泡を使って洗ったあとに、キッチンの棚の下部に設えられている食洗機に食器を収めて自動で洗うという方式が取られているのだが、母親がトイレに行ったあいだに父親と既に軽い洗いを終えた食器を食洗機に収めていった。そのうちに二人が風呂から出てきたので、ふたたびMちゃんと遊んだりした。Mちゃんには、新たな玩具が両親からプレゼントされた。お子様ランチを模したもので、スプーンをランチのところどころに設けられている開口部に挿し込んで引っ張ると、スプーンの上に食べ物が現れる、という趣向のものだ。それを「メルちゃん」というMちゃんお気に入りの人形に食べさせる真似をして遊ぶものなのだが――食べ物は押すとふたたびかちっと音を立ててスプーンの内部に戻って消えてしまうので、人形の口元に押しつければあたかも人形がものを食べたかのように見えるという代物だ――Mちゃんはこれにど嵌まりしてしまい、何度も何度も繰り返し遊んでいたので、永遠に遊べそうだなとこちらは言って笑った。
 そのうちにこちらは寝室に移って日記を書き出した。父親と母親に先にシャワーを浴びてもらい、そのあいだロシア時間で一〇時前から三〇分ほど書き物をしたのち、こちらもシャワーを浴びにいった。浴槽は半円形といった感じで、シャワーを浴びるには充分な広さである。カーテンを閉ざし、しゃがみこんで熱い湯を浴び、頭と身体を洗って上がった。使わせてもらったバスタオルとフェイスタオルは、T子さんがどんどん入れてくださいと言っていたので、洗い物用の籠のなかに遠慮せずに入れておいた。それで寝室に戻って、一一時前からふたたび書き物。両親はもう眠くなっていて先にベッドに伏して眠りはじめていた。枕元の明かりが一つ点いたなかで一時間ほど書き物を進めて、零時前に至ったところでこちらも眠ることにした。布団に仰向けになり、手帳とペンを取って目を瞑り、この日のことが思い出されるとそれを断片的にメモに取るということを繰り返していたのだが、じきに意識を失った。


・作文
 5:21 - 5:34 = 13分
 7:08 - 7:22 = 14分
 13:52 - 14:04 = 12分
 14:13 - 14:57 = 44分
 (ロシア時間)21:57 - 22:27 = 30分
 (ロシア時間)22:55 - 23:50 = 55分
 計: 2時間48分

・読書
 15:00 - 20:08 = 5時間8分

・睡眠
 0:30 - 5:00 = 4時間30分

・音楽
 なし。