2019/8/9, Fri.

 科学の意義、テクノロジーとの関係の仕方、広がる格差、予想もつかないほどの政治状況の変化、超高齢化、医療化する社会、地球の持続可能性、復興する宗教、望ましい未来の社会等々の、差し迫った現実的な課題にどう立ち向かうのか。東大EMPはこうした課題解決の力を育むべく、最先端の自然科学や社会科学そして人文学の問いの立て方(プロブレマティーク)を、受講生とともに探求してきました。今日の学問は、何を答えるのかという以上に、どう問いを立てるのかが重要だという方法論的転回を経ていますが、その問を立てる力を、現実的なテーマに対する課題設定力に注ぎ込んだわけです。
 その際、東大EMPでは「本質を捉える」ことを重視しました。それは本質主義のように、何か都合のよいものを本質に立てて容易に物事を理解したこととする道では決してありません。「本質」とい概念それ自体がどのような歴史的・学問的文脈で構成されたのかまで問い直すことを要求するものです。それを「関与する知」だと呼んでもよいかもしれません。本質を真に捉えるためには、その物事に対して距離をとって眺めるだけでは不十分で、それらに関与するという、より積極的で反省的な知の態度が必要なのです。
 関与するためには適切な道具が必要です。その物事をさまざまな倍率で分析し、比較し、さらには感じとるための道具です。わたしたちはそれを「教養・智慧」と言ってみたり、「新しい常識」と言ってみたりしています。どちらにしても重要なことは、わたしたちが通常あまり疑うことなくそれを生きている常識、すなわち「自然的な見方」に抵抗し、物の見方を自然化するプロセスまで見通す道具です。その道具は、古来繰り返し問われてきた難問(心とは何か、存在とは何か、言語とは何か、倫理とは何か、等々)を新しく語り直すことによって、磨かれていきます。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、ⅰ~ⅱ; 「はじめに」)

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 中島 合原先生が考えられている複雑系数理科学は、複雑系としてより繊細なシステムを構想しうる力を有しています。その際、創発(emergency)という、システムのどこか外れたところにある出来事を考えなければならない、と論じられているわけですが、もしそうだとすれば、いったいそれは、いかなる心の語り方を発明しようとしているのでしょうか。
 (5~6; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

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 合原 それから二つ目として、まさに中島先生もおっしゃいましたが、脳の意識を考えようとしたときに、実はそれよりもはるかに広い無意識の世界が広がっている、ということです。われわれのイメージから言うと、無意識の広大な海の中に意識が氷山の一角みたいにちょこっと出ているという、そういうイメージなんです。その無意識の世界に、膨大な情報処理であったり、アクティビティであったり、そういうものがあるからこそ、脳は高次の能力を発揮できているんじゃないか。そういう実感を持っています。そういう立場で考えたときに、無意識をどう理解して、かつ、意識との関係をどう結わえつけるかという、その部分がこれからのもう一つの研究課題です。
 (9; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 深夜に目覚めつつ、七時四〇分に正式な覚醒。ちょっと身体を起こしてコンピューターを起動させ、Twitterを眺めたあと、ふたたび横になって休んでしまう。そうして九時を過ぎた。両親は起きてMちゃんの相手をしたりしていた。そろそろ食事らしいなという段になって起き上がって、洗面所で顔を洗い、キッチンダイニングの卓へ。食事は、パン三種――黒パン、オリーブの入ったパン、チーズの入ったパン――に、ハム、胡瓜やレタスやトマトのサラダなど。バナナとヨーグルトを母親と半分ずつ食べた。Mちゃんは食事中、椅子を動かして調理台の前に持って行った。それに上って台の上にあるスマートフォンを取ろうとしたらしいのだが、T子さんが先回りして回収すると、Mちゃんは途端に機嫌を損ねて泣き出し、床にべたりと伏せて顔を隠し、泣き声を上げるので、こちらはイスラーム教徒の五体投地のようではないかと笑った。こちらがMちゃんの近くに行って、Mちゃん、元気出して、と呼びかけているとMちゃんは立ち上がって、音楽、と言いながら室を抜け、我々の寝室へと向かっていった。それでこちらのコンピューターの傍に待機するので、音楽が聞きたいのだろうかと思って、Tuck & Pattiの音源を再生してあげたが、Mちゃんは音楽にはあまり興味を示さずにすぐに、バナナ食べようか、と言って戻っていった。Mちゃんが愚図りだすことはあと一回あったが、何が原因だったのかそちらは覚えていない。
 食後は母親が皿を洗う横で、食器を受け取って食洗機に収めていった。それから寝室に戻り、日記を書きはじめた。この日の分を先にここまで書いて一〇時半。前日の分はまだ地下鉄駅を抜けたところまでしか書けておらず、まだまだ先は長い。
 それから一二時まで前日の日記を書き綴ったが、まだ終わらない。一二時に達したところで疲労感に負けて寝床に寝そべった。兄は先日に手続きしたレジスレーション・カードを取りにホステルまで行っていた。その帰りに、シャウルマという料理を買ってくると言う。ケバブの仲間のような料理だと言う。それでこちらが休んでいると兄が帰ってきて、食事が始まる気配だったのでキッチンダイニングに向かった。食事はそのシャウルマというものが人数分、それぞれ一本ずつ用意されていた。薄めパン生地のなかに野菜や肉を詰めて巻いた円筒形のものである。正直、腹はそこまで減っていなかったのだが、これが結構大きなもので、食べきれるか不安になったものの、残しても別に問題はなかった。味は美味だった。しかし半分くらい食べたところで、もう満足ですとなったのだが、美味いので癖になるような感じで、それからも間を置きながら少しずつ食って、最終的に完食することが出来た。飲み物は麦茶と、食後にはT子さんがイヴァン・チャイというものを用意してくれた。以前彼女から頂いたルイボスティーにちょっと風味が似ていると母親は言ったが、確かにそうかもしれない。食べ終わった時点で一時が近くなっていた。今日はこのあと、三時頃からモスクワ川を船でクルーズする予定だった。それまでのあいだは、どこか教会でも見に行くか、それとも家でゆっくりしているかという感じだった。食後、こちらは母親が洗う食器をふたたび食洗機に入れていき、それが終わったあとは寝室に戻って日記をふたたび書きはじめた。記録によれば一時七分から書きはじめ、二六分まで綴ったあと、一旦中断して、四分後の三〇分からまた書きはじめているのだが、この四分のあいだは確か着替えをしていたのだと思う。その時間になるとそろそろ出かけようという話になっており、クルーズの前に救世主キリスト聖堂というものを見に行こうということだった。時刻は一時半、二時半から二時四五分くらいにはクルーズの場所に着いていなければならないのだが、そうなると一時間くらいしかないわけで、時間が少なくないか、余裕がないのではないかと兄に指摘したところ、聖堂まで行くのに車で二〇分ほど、それから三〇分ほど見物してから河に向かえば丁度良かろうということだった。しかし、いざアプリでタクシーを呼ぼうとすると、丁度渋滞が発生しているようで所要時間が四五分とか表示されたらしく、それなので結局、救世主キリスト聖堂は外して、直接河に向かうことになった。それでもう少し時間に猶予が生まれたので――二時頃に出れば良かったのだ――さらに日記を書き進め、家を出る直前の一時五六分に前日の記事を仕上げることが出来、投稿も済ませた。
 そうして出発。この時Mちゃんは確かまた激しく泣き、愚図っていたのだと思う。こちらの格好はモザイク柄のTシャツに、煉瓦色のズボン、そうしてグレン・チェックのブルゾンを上着として羽織った。エレベーターに乗って下階へ。外に出るとタクシーがもう来ており、一台の方にベビーカーを運んでいた兄がそれを載せに行く。そうしてそちらのタクシーにはMちゃん、T子さんと母親の女性陣が乗り、我々男性陣三人はもう一台の方のタクシーに乗り込んだ。このタクシーの運転手は短髪の男性だった。音楽はやはり毒にも薬にもならないような種類のダンス・ミュージック。しかしこれは運転手個人の趣味と言うよりは、掛けているラジオの問題なのだろう。モスクワ市内を車で走っていき、一五分か二〇分くらいだっただろうか、河の傍に到着する。スパスィーバと礼を言って降りると、丁度女性陣のタクシーも着いたところだった。合流し、河岸に下りると、船の前にはダウンジャケットを羽織って冬のような装いをした人々が並んでいる。その脇を通り抜け、別の船の入口に設けられたゲートをくぐり、入船。船室と言うか、テーブルがいくつも並んで飲み食いの出来るホールのようなだだっ広い室に入り、スタッフに席まで案内される。一番端の、デッキと言うか舳先の外の一画に出る扉がすぐ傍にある丸テーブルの席だった。それで各々腰掛ける。テーブルに掛けられた真っ白なクロスは舵のマークが入ったちょっと洒落たもので、それぞれの席の前には船の運行ルートを示した地図が置かれていた。一番から二二番まで番号が振られて、モスクワ市内の名所が地図上にピックアップされていた。
 飲み物を注文することに。こちらはコーラ、父親はグレープフルーツジュース、母親はココア、兄はカプチーノ、T子さんはレモネード、Mちゃんには林檎ジュースが注文された。そうして三時に至ると船が動き出した。モスクワ川を上流へ遡っていく。あいだ、兄がここは何々で、と河岸に見える様々な建物を説明してくれた。印象に残っているのはまずやはりトレチャコフ美術館で、そのうちの新館――現代美術の館――が見えて、建物の外面には替わる替わる絵が映し出されていた。セザンヌっぽいような静物画とか、マーク・ロスコみたいな抽象画っぽいやつなどである。そのほかクレムリンも見たし、馬鹿でかい、本当に巨大なピョートル大帝像も見えた。あと河の上空を渡るロープウェイなど。と言うか、本当に色々な施設や建物が見えた。途中で小雨のなか外に出たのだが、屋内にいるとやや暑かったものの、外に出ると風がやはり強くて、打ちつける雨粒も冷たくて、結構涼しかった。あるいは肌寒いくらいだった。河岸に見えるどの建物も巨大で四角四面で整然としているが、それは大半住居なのだと言う。巨大マンションが連なっているような感じだ。外ではMちゃんを抱えたT子さんと並んで、母親に写真を撮ってもらった。
 Kotelnicheskaya Embankment Buildingsという壮麗な建築物が見えたところで船は引き返した。我々のテーブルの周りにはいつの間にか、蛾のような虫が一匹姿を現していて、それをこちらが指差して文字通り指摘すると、兄は嫌そうに顔を少々顰めていた。テーブルに就いているあいだに交わした会話は、文学関連のことしか覚えていない。マヤコフスキーの話があった。母親が持っていたガイドブックにマヤコフスキー博物館について載っていて、マヤコフスキージョージア出身だと書かれていたので、それを話題にしたのだ。それから、『ズボンを履いた雲』という作品があると言うと、兄も大学時代にそれだけは読んだが――兄は東京外国語大学ロシア語科出身である――全然わからなかったと言う。こちらは、小笠原豊樹という翻訳家がいて――兄はこの名前は知っていた――、それが岩田宏という詩人と同一人物で、自分はこの岩田宏が好きなので、彼が訳したマヤコフスキー叢書の全一〇巻だか一五巻くらいもすべて買って揃えているのだと話した。すると兄は、驚いたようだった。ほか、ゴーゴリの話。『鼻』の名前が挙がる。また、『外套』も。『外套』も読んだけれど変な話だったなとこちらは漏らす。兄がそれに応じて、小役人が一生懸命仕立てた外套を、追い剝ぎか何かに奪われる話だろ、それでショック死してしまうんだけれど、死んでも死にきれず、化けて出るっていう、と。そうそう、とこちら。『鼻』に関しても、ある日朝起きたら自分の鼻がなくなっていた、と兄が冒頭の粗筋を説明し、こちらも続けて、それでその鼻が人間になっていることに気づくんだよなと補足した。その時、主人公が見た人間というのは何の変哲もない普通の人間で、何故主人公がその人間が自分の鼻だと気づいたのか、その根拠がまったく、何一つ書かれていなかった、その不合理な飛躍が面白かったとこちらは述べ、だからある種、この主人公は狂っているのかもしれないと読むことも可能かもしれないと言った。過去の書抜きから当該箇所を引いておこう。

 (……)不意に彼は或る家の入口の傍で棒立ちになって立ちすくんでしまった。じつに奇態な現象がまのあたりに起こったのである。一台の馬車が玄関前にとまって、扉[と]があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョーフの怖れと驚きとはそもいかばかりであったろう! 彼はじっとその場に立っているのも覚束なく感じたが、まるで熱病患者のようにブルブルふるえながらも、自分の鼻が馬車へ戻って来るまで、どうしても待っていようと決心した。二、三分たつと、はたして鼻は出て来た。彼は立襟のついた金の縫い取りをした礼服に鞣皮[なめしかわ]のズボンをはいて、腰には剣を吊っていた。羽毛[はね]のついた帽子から察すれば、彼は五等官の位にあるものと断定することができる。(……)
 (ゴーゴリ/平井肇訳『外套・鼻』岩波文庫、一九六五年改版(一九三八年初版)、69)

 そのほか、ソローキンの名前をここで出してみたのだったが、兄は多分知らないのではないかと思っていたところが、ああ、ウラジーミル・ソローキンね、という反応があったので驚いた。兄が彼の名前を知っているのは、ソローキンが東京外大で教えていたことがあるからだと言った。ソローキンがやばいという噂を聞いているとこちらは続けると、兄は、何か昔逮捕されたとか何とか、と受けた。それは初耳だった。さらには、ワシーリー・グロスマンっていうのは聞いたことある、と尋ねたが、さすがにそれは兄も知らなかった。と言ってこちらも特に詳しく知っているわけではなく、みすず書房から出ている『人生と運命』全三巻とか、『システィーナの聖母』――というタイトルだったと思うのだが――などの作品が以前からちょっと気になっているというだけなのだが。確かソ連時代の作家だったと思う。ソ連時代で言ったら、ソルジェニーツィンの名も一瞬挙がった。
 ゴーゴリに話を戻すと、『検察官』が一番面白いが、翻訳が古いものしかないと兄は言った。また、『死せる魂』も良いけれど、これも翻訳が古いと言ったので、いや、『死せる魂』は新訳が出ていたよとこちらは受ける。光文社古典新訳文庫かと訊くので、そうではなくてハードカバーだとこちらは答えた。こちらがそれを知っているのは、このハードカバー版『死せる魂』の新訳に金井美恵子がお勧めの帯文を寄せていたからである。
 ドストエフスキーの話も出た。と言ってこちらはドストエフスキーはまだ一冊も読んだことがないのだが――兄は、『罪と罰』が滅法面白かったと言った。新潮文庫の訳で読んだけれど、上巻はこんなに退屈かと思うようなものだったところが、下巻に入ってラスコーリニコフがどんどん狂っていく様がスリリングで貪るようにして読まされてしまったと言う。T子さんも読んだことがあるらしく、一気に読んだと言っていた。こちらは、そんな風に物語的に優れた小説だったのかと、少々意外な感を得た。『カラマーゾフの兄弟』も兄は亀山郁夫の新訳で読んだらしい。その兄が置いていった光文社古典新訳文庫の新訳はこちらの部屋にもあるのだが、ただ二巻か三巻だけがどうしても見つからなくて抜けていたと思う。ロシア文学の研究者も、兄の同年代の人が准教授になるくらいだが、新世代への交代があまり進んでいないと言うか、やはり代表となるような若手研究者というのはいないよなあ、というのが兄の評価だった。亀山郁夫を継ぐ者もあまり見当たらない。沼野さんとかが有名だよなとこちらは受けると、兄は、沼野先生はもう長老という感じだねと返した。
 Mちゃんは途中からまた泣き出していたが、そのうちにタブレットを与えられて、Youtubeの動画を眺めたり、ゲームのアプリで遊んだりして大人しくしていた。室内に流れていた音楽が突然変わって、ジャズ風に、ちょっと洒脱にアレンジした"Happy Birthday To You"が流れはじめた時があった。振り返って見てみれば、客のうちの一人の女性が誕生日だったらしく、店員がテーブルの周りに集まって、ケーキか何か運ばれてきて女性は祝われていた。彼女は感極まったのか泣いてすらいたのだが、T子さんが見るに、嬉し泣きと言うよりは、何か不幸なことがあって泣いたような感じだと言う。
 モスクワ川の途中で引き返した船は五時半に至って元の乗り場に到着した。その頃にもまだ雨が降っており、外に出ながら一行は傘を差したが、こちらと兄だけは差さずに――兄はベビーカーを運んでいた――いた。アプリでふたたびタクシーを二台読んで、今日夕食を取る予定のジョージア料理の店があるアルバート通りに行くことになった。河岸の隅で、ひらかれた折り畳み傘の下に身を寄せながら兄とT子さんが携帯電話でタクシーを呼び、上の通りに上がってまもなく、二台がやって来た。また男性陣と女性陣に分かれてそれぞれに乗車する。この時のタクシー運転手はどんな感じだったか覚えていないし、車内で掛かっていた音楽も覚えていないが、やはり半端なロックみたいなものだったのではないか。
 しばらく走って、アルバート通り近くのバス停の前に着いた。雨、と言うよりは風が非常に激しくなっていた。それでバス停の屋根の下に退避したのだが、それでも背後の隙間からひっきりなしに強風に押された雨粒が吹き込んでくるほどだった。ここでこちらは、風と、だだっ広い通りを滔々と流れる車の騒音のなかで、兄に、チェーホフの「学生」は読んだかと訊いた。兄は、その名前は当然知っていたが、読んではいないと思う、と答えたので、あれも結構良い物語だよと伝えておいた。しかし、その良さの内実を説明することはしなかった。鎖の端の震えが伝わって、もう一方の端が震えたのに触れた、みたいな比喩表現があったのを覚えているけれど――そして保坂和志が多分小説論のなかでそれを取り上げていたことも覚えているけれど――その他の事柄や前後の物語の文脈について詳しく記憶してはいなかったから、上手く説明が出来なかったのだ。そうこうしているうちに、女性陣を載せたタクシーもやって来たので、合流し、地下道に入った。Mちゃんはベビーカーに載せられて、ぐっすり眠っていた。地下通路の途中には、ヴァイオリンの演奏をしている中年くらいの男性がいた。素人にしては結構上手いように思われたが、細かなところのリズムや音程には甘さが見えた。地下道を通っていき、階段を上って、出口の前で雨が弱まるのを少々待とうということになって、しばらく待機した。我々の後ろにはやはりベビーカーを伴って幼児を連れた母親がおり、彼女が抱き上げた子供が泣き声を上げる時間があったので、どこの国でも、どんな人種でも母親の苦労は同じだなと思った。こちらや彼女が接していたガラス窓の向こうは、キオスクと言うか小規模なコンビニと言うか、そんなような店になっていて、アイスのケースなどがなかに見えた。我々の横を通行人が無数に流れ通っていく。どこからか煙草の匂いが漂ってきていた。
 しばらく待つと雨はほとんど止んだようだったので外に出て、もう少し歩いてアルバート通りに入った。この通りは歩行者天国である。通りの両側には四角四面の建物がまさしく軒を接するように隙間を開けずに連なっていて、長大な壁を成している。こういうのを、パサージュ、と言うのだろうか。
 書き忘れていたことを唐突にここに挿入してしまうが、船のなかでは母親に還暦祝いのプレゼントが贈呈されたのだった。それはスカーフで、母親が、何かちょっと寒いから首に布を巻こうかなと自分のスカーフを取り出した際に、スカーフという話題が出たから、とサプライズで渡されたのだった。灰色の、暖かそうなスカーフで、何が素材なのかはわからないが、柔らかな質感だった。
 アルバート通りに話を戻すと、観光客らしき人々が至る所にそぞろ歩いており、そのなかに何とか書いてある看板を背負い、あるいは身体の前にも掛けたサンドウィッチマンもたくさん立っていた。途中にプーシキンの若い頃の像があって、それは正装して妻と寄り添っている姿なのだが、その像の前では観光客が写真を撮っていた。詩人の像はもう一つ、何と言う詩人なのかわからないがあって、作家や芸術家のイメージにそぐうような、ちょっと顔を俯かせて陰鬱そうな雰囲気の像で、晴れている日などはその前で詩を朗読している人などが見られると言う。やはり西洋圏では、あるいは西洋圏に限らず異国はどこもそうかもしれないが、詩人という職業が確立していて、日本とはその地位も段違いなのだろう。通りの途中にはそのほか、何か馬のような着ぐるみを纏った人もうろついていて、これは子供を相手にした商売であるらしかった。スパイダーマンのような機械仕掛けの人形がいくつも匍匐前進している一帯もあり、これも子供を餌にして金を得ようという商売に違いなく、迂闊に近づくと売りつけられてしまうということだった。
 途中で母親の希望で土産物屋に入った。入口の扉が風で半分閉まってしまい、ベビーカーが入りにくくなっているところに店員が来て扉を開けてくれたのだが、その若い女性店員は中国人のような顔立ちだった。母親は入ってすぐのところにあった、あれはショットグラスと言うのだろうか、おそらくウォッカを煽るようの小さなグラスに目を付けた。それで、父親の分と揃いで二つ、買うことにして、籠に入れていた。店内の奥に進むと、マトリョーシカが無数に陳列されており、人形の顔は西洋風の風貌ばかりではなく、なかにはアラビア的と思われるような顔のものも見られた。また、ガラスケースのなかに、涼しげな美しい青で彩色されたグジェリ焼きのカップや皿も並べられていた。グジェリ焼きのカップは兄が以前、母親にプレゼントしてくれて、我が家にも二つくらい所蔵されている。母親はそれに合うような同じグジェリ焼きのスプーンが欲しいらしかったが、スプーン単体では売っていなかった。そこからもう少しガラスケースの前を移行していくと、今度は色とりどりの小さなペンダントトップがガラスケースのなかで壁にずらりと取り付けられているところがあって、母親はこれにも目をつけた。見分していると、先ほど入口で扉を開けてくれた女性店員が、Miss、と話しかけてきた。going to see? と言って、ガラスケースの扉を開けて、母親が指差した品を取り出してくれた。母親がカタカナ的な発音で、ハウマッチ? と訊くと、one thousand、という返答が返った。まあ二〇〇〇円しないといったところである。店員はほかにもお勧めのものをいくつか取り出してくれたが、母親は、どれも持ってみるとちょっと重すぎると言って、購入には至らなかった。店の奥の方では中国人らしき客が物凄く大きな声で店員と話をしていた。店員の方も流暢な中国語を使っていたらしいので、やはり店員が中国系の店だったらしい。我々はその後、会計。会計を担当した女性店員もアジア系の顔立ちで、英語を喋っていたが、会計したあとにはアリガト、と日本語で礼を言ってくれた。我々が日本人だということがわかったらしい。
 それで通りに戻ってふたたびちょっと歩いたところで、母親がもう一つ土産物屋を見つけて、そこに寄りたいと言う。それで両親とT子さんが店内を回っているあいだは、こちらとMちゃんの寝ているベビーカーを伴った兄は外で待っていた。遠くの店のテラスに何か火を燃やしているのが見えたので、あれは何か、などと話しながら待った。それからふたたび道を歩くのだが、さらに母親が、今度はレース編みの店を見つけた。これは空港で買ったガイドブックに載っていたものらしい。ガイドブックをひらき、兄に店の名前を確認してもらうと、確かにその通りで、レース編みのハンカチなどが安く買えるらしかったのでなかに入ってみることになった。母親は、ガイドブックに載っているのを見せようかなどと持ち前の天真さで言っていたが、兄はいいよ、と苦笑した。それで入店。「ヴィシフカ」という店である。ガラスケースのなかにハンカチなどが飾られているカウンターの向こうには、膨らんだ身体の、腹も胸も大きな高年の婦人が二人静かに、落ち着いた笑みを浮かべて控えていた。ハンカチで一番安いものは、一五〇ルーブルか二五〇ルーブルかそのくらいだったと思う。店にはほかに衣服や、エプロンも陳列されていた。母親はエプロンに目を留めて、可愛いと言って色々見分していた。白地の表面にロシア語の赤い文字が記されているもので、兄やT子さんによればそれは、「ロシアで一番良いおばさん」とか、「気立ての良い息子の嫁」みたいなことが書かれているらしかった。そのうち、後者の方の品を母親は買うことに決めた。加えて、カウンターのケースのなかに入っていたハンカチ――「C」というアルファベットと花か何かの刺繍が成されているもの――も購入が決定した。それで会計をして退店。
 そうしてもう寄るところはなく、ジョージア料理の店に向かった。これも偶然だが母親が空港で買ったガイドブックに載っている店で、「ゲナツヴァレ」という名前である。「田舎家風内装」とガイドブックには記されているが、少々薄暗いなかに、干し柿のような植物が置かれていたり、天井から緑色の葡萄が吊り下がっていたりした。入口を入って、階段は兄がベビーカーを抱えていき、しばらく進んでようやく店員のいるフロアへ。一旦席に案内されたが、聞けば席の近くのスペースで音楽の演奏があるらしく、うるさいかもしれないと言う。それで、個室もあるけれど、どうするかという話だった。眠っている子供がいたのでそのような配慮を見せてくれたのだろう。それでT子さんが個室を見に行き、彼女が戻ってくると、音楽は見聞きしたければ室から出て見ることも出来るわけだし、静かな個室に入ろうということに決まった。そうして個室へ。室の壁には静物画が一枚、掛かっていた。葡萄などの果物が描かれたもので、果物に付属している葉には黒と赤の翅をひらきかけた――あるいは閉じかけた――蝶が止まっていた。テーブルは六人掛けの、濃い暗褐色の広いものだった。こちらは例によってお誕生日席、室の一番奥の方に掛けた。そうして飲み物を頼んだあと――こちらはコカ・コーラで、三人はビール、T子さんはレモネードで、Mちゃんはまた林檎ジュースか何かだった――兄の主導で、ジョージア料理を色々と頼んだ。前菜は、ほうれん草などの野菜を三種類、ペースト状に仕立てた三色サラダが一つで、これは「プハリ」と言うらしい。もう一つは、チキンをたっぷりの胡麻マヨネーズのようなソースで和えた品である。そのほか、「ハチャプリ」という、チーズの乗ったピザのような料理に、「ハルチョー」という牛肉の煮込みスープ、そして「ヒンカリ」という水餃子のような小籠包のような料理が注文された。どれも美味かったが、こちらとしては一番美味かったのはハチャプリだろうか、チーズの味が濃厚で、塩気もよく利いていた。ハルチョーは一見すると辛そうな赤い色のスープだが、全然辛くはなく、何という味と言えば良いのだろうか、ありきたりな表現だがエスニックと言うのだろうか、今までに食べたことがないような味わいだった。ヒンカリは玉ねぎ型の包み料理で、ほとんど小籠包そのままである。これは玉ねぎ型の突起を持って逆にし、齧って食べるのだと言う。齧ると当然肉汁が漏れ出てくるわけだが、それを零さないように啜りながら食べるのが作法なのだということだった。
 食事中の会話は全然覚えていない。一つだけ覚えているのはこちらから兄に振った話題で、兄貴、髪の毛とかどう、とテーブルを挟んで向かいの兄に差し向けたのだった。どうとは、と聞き返されるので、いやつまり、生え際とかさ、と言って、この家系だからと父親の方を指し示す。兄は、生え際は別に退行していないが、やはり全体的に髪にボリュームがなくなっては来ると返答した。明確にいつからとか、きっかけがあるとかいうものでもなく、ただ歳を取ってくるといつの間にかそうなっていることに気づかされるとのことだった。我が家は父親も、母方の祖父も父方の祖父も髪が薄かったので、こちらもいずれはそうなる運命なのかもしれない。
 音楽は二、三曲やっては中断するということを繰り返していた。三回目に音楽が始まった時、演奏された曲がなかなか良いものだった。編成はギターとドラムとアコーディオン、哀感が滲むコード進行とメロディで、母親が口にしたのだが、"Besame Mucho"をちょっと思い出させるような感じだった。ロシアの音楽というものは、やはり何となく哀愁漂うものが多いと言うか、タクシーのなかで掛かっている半端なロックあるいはポップスも、どちらかと言えばそうした旋律のものが多かったような気がする。
 ジョージア料理を堪能したあと、Mちゃんが食べられるものということで、フライドポテトが追加注文された。Mちゃんは今日は泣き通しで、この夕食時もほとんどずっと激しく泣き声を上げており、タブレットの効果も虚しかったが、最後には何とか機嫌が直ったようで泣き止んでいた。兄は食後にコーヒーを頼んでいた。T子さんも、ティーの類を何か頼んでいたはずだ。それらを飲み終わると、会計。いくらだったのかは知らないが、チップの代わりとしてこの店はサービス料を向こうで決めて請求する方式で、それが一〇八〇ルーブルだった。これは父親が払ったのだったと思う。そうして退店。通りすがりに店員にスパスィーバ、と告げながら店を抜けた。
 アルバート通りは歩行者天国なので車は入って来られない。それなので近くの大通りまで出なければならなかった。それでそちらに歩いて移動。この時雨が降っていたのだったかどうだったか。記憶が鮮明でない。大通りに出ると、通りの向かいに並んでいるいくつかの高層ビルの表面が、あれはプロジェクトマッピングというものだろうか、虹色に装飾されていた。時間が経つに連れて下階から上層階まで連なっている色彩のグラデーションの構成が変わるそのマンション――だと思うのだが――を母親は写真に収めていた。男性陣と女性陣に分かれてタクシー二台にふたたび分乗。今度のタクシー運転手は帽子の下からややもじゃもじゃとカールした髪の覗いている男性だった。音楽はモスクワに来て初めてのことだが、なかなか良い選曲だった。と言って、これは運転手の趣味というわけではなく、モンテカルロ・ラジオというラジオ局の選曲である。最初の一曲は泥臭く濃密な、ブルージーでもありゴスペル風でもあるような音楽で、"Let my people go"というフレーズを繰り返しているのが耳に残った。何となくDr. Johnみたいだなと思ったあとに、独特の濁声に耳が行き当たって、これはもしやLouis Armstrongではないかと思ったのだったが、帰ってきたあとに調べてみるとやはりそうだった。二曲目はMilt Jackson "Bag's Groove"。このジャズスタンダードは勿論知っているものなので、テーマが始まった瞬間に曲がわかったが、曲だけでなくMilt Jacksonの音源だと同定出来たのは、ヴィブラフォンの演奏の特徴でわかったわけではなく、前部のモニターにアーティスト名と曲名が表示されていたからである。三曲目はSade "Smooth Operator"だった。これもこちらの知っている曲だ、しかもなかなかの佳曲だとあって、このタクシーは何だか良い曲ばかり流すぞと驚き、そう口にした。"Smooth Operator"に合わせて口笛を吹いていると、運転手が隣の兄に向かって何とか言った。曰く、兄の通訳の細かな部分は聞き取れなかったのだが、ロシアには夜口笛を吹くと縁起が悪いみたいな諺があるのだと言う。日本にも似たような諺があるなとこちらは受けて、それを兄が訳して伝えると、運転手は笑っていた。それ以降は口笛は控えた。次の曲はBillie Holiday "Summertime"だった。Milt Jacksonと言いBillie Holidayと言い、ロシアに来てから街中でジャズを耳にしたのはおそらくこれが初めてである。さらに次の曲はQueen "You Don't Fool Me"。タクシー運転手はその後、もう一度兄に話しかけてきた。曰く、ベンツなどもEUの規制だか規格変更だか何だかでアルミか何かを使うようになって耐久性が弱くなってしまったが、その点日本製の車はまだ大丈夫だ、日本がEUに加入していなくて良かった、と言うのだった。ロシアのタクシー運転手というのは、少なくとも今まで乗った車の人たちはあまり自ら話しかけて来なかったが、この男性はその点ちょっと違っていた。
 アパートに着くと、スパスィーバ、と言いながら降りて、部屋に戻った。その後のことはほとんど覚えていないし、大したこともなかったはずだ。一〇時二二分から一時間ほどと、零時五分から四三分間、日記を綴っている。また、「夜、日記の途中でMちゃんと戯れる」というメモが残されているが、これについてもあまりよく覚えていない。一時前に就床した。


・作文
 10:24 - 12:00 = 1時間36分
 13:07 - 13:26 = 19分
 13:30 - 13:56 = 26分
 22:22 - 23:25 = 1時間3分
 24:05 - 24:48 = 43分
 計: 4時間7分

・読書
 なし。

・睡眠
 1:00 - 7:40 = 6時間40分

・音楽