2019/8/10, Sat.

 尾藤 ある意味単純化して言うと、われわれの記憶の容量というのは限定されているわけです。それから時間も限定されている。起きている時間は限られていますので。そうすると、有限の経験の空間の中で、どういう情報を自分が生き延びるために貯蔵して、それを使うかということが問題です。そのときに、結論的にはほとんど捨てるわけです。必要なものしか覚えないし、必要なものしか理解しないという形でしか生物は生存できない。情報そのものよりも何が自分にとって大事かという、そういうノウハウをむしろ蓄積してきたわけです。それをアプリオリにどうやって獲得したのかというのはよくわかりません。しかしながら、系統発生からずっと連綿としてそういうことができるような仕組みに、少なくとも神経系はなっている。
 生まれてから限られた時間で、たかだか100億か1,000億個の神経細胞を使って、無限に近いような情報を処理していると見えるんだけれども、実は自分が生存するために必要な情報だけを厳密にソートしてセレクトしていくわけです。そのときに大事なポイントは、何が正しいかということです。何が予測可能で、何が予測可能じゃないかという、そこを神経細胞はものすごく詳しく分けた。そこで、予測可能なものというのは、あまり面白くないというか、あまりエネルギーを使わないんですね。予測可能じゃないものが起きた時に、ものすごくそのたびにエネルギーを使って、その情報を理解したり、情報処理をしたりして、それを記憶として覚えようとしているというふうに、今の脳科学では思える。
 そういった、非常にシンプルなパラダイムですべてが理解できるのかどうかはわかりません。創発ということが日常的に起きているというふうにおっしゃいましたけれども、常に不連続で新しいことが起きた、予測が必ずしもできないということを理解したときに、それをどう解釈するかを、脳は一つひとつのイベントとして見ていきます。そこは、コンピュータであらかじめプログラムが決まっていて、コードが決まっていて、あるいはすべてを規格化した情報として全部AIみたいに読み込むという、そういう手続きとは全く違う手続きで、情報を取り扱っていると言えると思うんです。
 横山 AIは美しいと感じますか?
 合原 今は感じないと思います。
 横山 感じないですよね。いつまで経っても感じないだろうと思うんです。だから、AIをずっと突き詰めていくと、できないことがすごく明確になってきて、その分野をどう扱うかという話になっていくのではないでしょうか。
 合原 そこは僕もそう思っていて、脳とAIの隙間はずっと残るんじゃないかと思っています。そこの部分が、まさに人間がAIを使いこなしながらこれからやっていくことになると思います。
 横山 その部分が明確になってくると、すごくテーマがはっきりしてくる。
 合原 そうですね。だからAIはどんどん進歩してもらっていいんです。それで逆に、脳にしかできないことが浮き彫りになってくるので、僕はウェルカムだと思っています。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、20~22; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 横山 ガザニガの『〈わたし〉はどこにあるのか』(邦訳、紀伊國屋書店、2014年)というのがありますよね。さっきの内的な時間というのは行ったり来たりできると。要するに、先に手を出しているのに、自分が意志をもってやったというふうに脳は調整してしまうわけです。だから、時間は一方向に流れていないかもしれない。少なくとも脳の「わたし」というところに関しては。
 尾藤 主観的にはそうなんですけれども、ヒトの脳のシグナルを測ると、確実にある行動が起こる7秒ぐらい前に、その行動を規定するシグナルというのが必ず見つかります。7秒かけて、それが自分の行動の予測にたがわず、やっていいことかどうかということを無意識に確認して、それで7秒後に意識下で行動するというふうになっているんです。
 横山 それを、自分の意志だと思うわけですね。
 (31~32; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 八時二〇分頃起床。両親が起き上がったのを機にこちらも寝床を離れて、歯ブラシを用意し、父親の歯磨き粉を借りて歯を磨きながら、Twitterを眺めたりなどした。しばらく歯を磨くと寝室を抜けて、便所兼洗面所に行って口を濯ぐとともに、ついでに用を足した。そうして戻ってきて、またインターネットをちょっと見たあと、八時五〇分から日記を書きはじめた。二〇分書いたところで、良かったら朝食をどうぞとT子さんから声が掛かったので、室を抜けてキッチンダイニングに集まった。朝食は茶色いパンに、菜っ葉やビーツやトマトなどのサラダにゆで卵など。パンにはチーズを乗せて食った。そのほか、バナナとヨーグルトを母親と半分ずつ。母親は、一つは多くて食べられないと言って、何でも半分ずつにしようとするのだ。飲み物はオレンジジュースと、T子さんが温かいハーブティーを淹れてくれた。食後にはさらに、母親が先日、近くのモールのアリョンカ・ショップで買った紅茶を淹れてみようということになって、それが用意された。こちらは母親の分をほんの少しだけ貰ったが、正直なところ別にそんなに美味いと感じるようなものではなかった。紅茶というものを飲みつけないので、舌がそれ用に整備されていないのだ。父親もそれは同じなようで、俺は別にそんなに、と漏らしていた。母親やT子さん、そして兄によると、カモミールの風味がかなり利いているらしかったが、こちらは勿論それもわからない。
 食後はこちらが皿洗いを駆って出て、食器を洗剤で洗っては調理台の上に置いていき、それをT子さんが食洗機に入れていく。それが終わるとこちらは寝室に一旦戻ったが、すぐにまた部屋を出て、Mちゃんを追いかけはじめた。居間で遊んでいたMちゃんは忙しくキッチンダイニングと居間とを行き来して、かあか、かあか、と言ってT子さんの方に寄っていく。T子さんはキッチンでコーヒーを作ったりしながらMちゃんの相手をしてやっていた。そのうちに居間に戻って、Mちゃんはジグソーパズルをやりはじめた。その脇でそれを見つめたり、Mちゃんの頭を撫ででやったり、しばらく戯れたり、あるいは小型のピアノをちょっと弄ったりしたあと、寝室に戻って日記を書きはじめたのが一一時過ぎだった。ここまで書いて一一時四〇分。今日はボリショイ劇場でバレエ『白鳥の湖』を見に行く予定だが、MちゃんとT子さんは留守番である。バレエのあとは、トレチャコフ美術館かプーシキン美術館に行こうというような話になっている。
 一二時一五分頃には出るという話だった。それでもう着替える。ボリショイ劇場に行くので、多少はフォーマルな格好をして行かねばというわけで、白い麻のシャツ――ボタンの色がそれぞれ違っていてカラフルである――に下はガンクラブ・チェックのズボン、そうして上からBANANA REPUBLICの落着いた水色のジャケットを羽織った。それからまた日記をほんの少々綴って、一二時を回ったところで中断。留守番のMちゃんに行ってくるねと手を振って出発。部屋を出る。エレベーターに乗り込み、下階へ。ロビーに出て歩いていき、アパート入口に座って待機している警備の男性に、片手を上げて会釈しながら通り過ぎる。そうして脇の門から出て、兄が呼んだタクシーに乗車。と言って、この時のタクシー運転手がどんな人だったかよく覚えていない。市内を一五分か二〇分くらい走ってボリショイ劇場のすぐ近くで降りた。そう、この日は雨が降っていて、しかも結構な降りだったのだ。それでスパスィーバ、と言ってタクシーを降りると、兄と両親は折り畳み傘を差していたが、こちらは面倒なので傘を手にせず、母親と父親のあいだで背を低くして、傘にちょっと入れてもらって俯きながら歩いた。大きな噴水のある広場を抜けて、劇場の入口へ。傘を仕舞ってから、劇場内へ。入口で兄が厳めしい顔の警備員にチケットを見せて、四人、通過する。なかではさらに、荷物検査があったので、ポケットのなかのものを出して台に置き、その横のゲートをくぐる。そうしてようやく入場出来た。ロビーを通り過ぎ、廊下に降りて、荷物を預ける。と言って預けるのは傘くらいしかないので、兄が列に並び、手続きをしているあいだ、我々三人は通路の端で立ち尽くして待つ。そうして手続きが済むと兄に先導されてホール内へ。入って最初の印象は天井が馬鹿高い、ということだった。それに応じて舞台の幕も物凄く高くから垂れ下がっている。席は前から七番目の列の中央付近に四人分。そこに就いて、開演までしばらく待っているあいだにあたりを眺めた。首を目一杯曲げて直上を見上げると、馬鹿高い天井の表面にはライム色を背景としながら、あれは美の女神たちだろうか、竪琴を持って各々に装った女性たちの絵が描かれている。天井が高く、また非常に広大なので、首を思い切り曲げても天井画その全容がすべては視界に入らなかった。ホールの両端には桟敷席が設けられ、全部で六階分積み重なっている。それぞれの階の壁面には、壮麗な金細工がびっしりと、埋め尽くすように設えられている。桟敷席の一番舞台に近い部分は、仕切りを設けられて特別な感じが出ており、どうやらあそこはVIP席らしい。舞台の幕の大きさは、四階分くらいあった。
 そのうちに一時を過ぎて、開演。最初はオーケストラの演奏のみ、演奏が盛り上がったところで幕が左右にひらき、森のなかで踊っている娘たちが登場する。ああ、演目を書き忘れていたが、今回観ることが出来たのは『白鳥の湖』である。席は前から七列目の真ん中あたりと、結構な好条件で観ることが出来た。椅子は赤いクッションが敷かれた密度の濃い褐色の木造りのものである。劇の粗筋は面倒臭いのでウィキペディア記事を引用しよう。

序奏
 オデットが花畑で花を摘んでいると悪魔ロットバルトが現れ白鳥に変えてしまう。

第1幕
王宮の前庭
 今日はジークフリート王子の21歳の誕生日。お城の前庭には王子の友人が集まり祝福の踊りを踊っている。そこへ王子の母が現われ、明日の王宮の舞踏会で花嫁を選ぶように言われる。まだ結婚したくない王子は物思いにふけり友人達と共に白鳥が住む湖へ狩りに向かう。

第2幕
静かな湖のほとり
 白鳥たちが泳いでいるところへ月の光が出ると、たちまち娘たちの姿に変わっていった。その中でひときわ美しいオデット姫に王子は惹きつけられる。彼女は夜だけ人間の姿に戻ることができ、この呪いを解くただ一つの方法は、まだ誰も愛したことのない男性に愛を誓ってもらうこと。それを知った王子は明日の舞踏会に来るようオデットに言う。

第3幕
王宮の舞踏会
 世界各国の踊りが繰り広げられているところへ、悪魔の娘オディールが現われる。王子は彼女を花嫁として選ぶが、それは悪魔が魔法を使ってオデットのように似せていた者であり、その様子を見ていたオデットは、王子の偽りを白鳥達に伝えるため湖へ走り去る。悪魔に騙されたことに気づいた王子は嘆き、急いでオデットのもとへ向かう。

第4幕
もとの湖のほとり
 破られた愛の誓いを嘆くオデットに王子は許しを請う。そこへ現われた悪魔に王子はかなわぬまでもと跳びかかった。激しい戦いの末、王子は悪魔を討ち破るが、白鳥たちの呪いは解けない。絶望した王子とオデットは湖に身を投げて来世で結ばれる。
メッセレル版以降、オデットの呪いが解けてハッピーエンドで終わる演出も出てきたが、原典とは異なる。

 序奏部分は省略されることが多いとウィキペディア記事には記されているが、この時の演出もそうで、第一幕の森のなかの広場らしき場面で皆が踊っているところから始まった。背景の遠くには城の塔が聳えているのが望まれる。
 娘たちや若い男たちが集団で実にしなやかな身体の動きを披露するわけだが、最初に気になったのはジャンプをした時の着地音である。明らかに意図的に演出として着地の際の足音をどん、と立てている瞬間もあったのだが、それ以外の場面では大体足音は最小限に抑えられていたと思う。しかし時折り、音楽が静まった際など、やはり足音がいくらか響き、こちらの耳にまで届いて来る瞬間があったのだが、あれはどれくらい静かに抑えられるものなのだろうか。そして、やはりそれもダンサーの力量を評価する際の一つの基準になるのだろうか。それで言うと素晴らしかったのは道化役の役者だった。道化の格好はオレンジっぽい色の、いくらかけばけばしいような衣装で、頭には左右に角のような突起がついていた。彼は役に相応しく、走る時など脚を膝から曲げて大袈裟に、ばたばたとした挙動で走るし、またジャンプをする回数も多かったと思うのだが、それでいて足音はちっとも立たないのだ。ジャンプも、劇中で最も高い跳躍を披露していたのはこの道化だったと思う。その生き生きとした肉体の躍動感は素晴らしく、正直なところ、主役の王子ジークフリートよりも注目されたくらいだ。第一幕はこの道化がメインに割り当てられた場面だったのだと思う。幕が閉まったあとも素早い動きで勢い良く隙間から出てきて、観客に投げキッスの挨拶をしたからだ。
 第二幕は月夜の湖が舞台である。例の、『白鳥の湖』のなかで一番有名なテーマの一つが途中で演奏されたが、思いの外にテンポの速い演じ方だった。第二幕に出演するのは、悪魔と王子以外はおしなべて真っ白な装いの娘たちである。短いスカートがある種の茸の傘のように平べったいものだった。日本の伝統的な編み笠のごとくである。この娘たちを演じる女性らは皆ほとんど背格好が同じで小柄であり、下世話な話だが胸の膨らみも、遠目に見た限りでは大方一定のように見えた。集団的な匿名性に埋没しながら、一つの群体としての舞踏を表現していたわけだ。そのなかで一人際立って現れるべきヒロインのオデットは、しかし、こちらの目が悪いせいかもしれないが、衣装もほかの娘たちと同じで、さほどの個性を光らせていたようには見えなかった。とは言え、王子に支えられて背中を大きく反らせる際の肉体の曲がり方など、しなやかであり、爪先立ちと摺り足を一瞬で移行・交代させながら舞台上を駆け回る演技の滑らかさはやはり見事なものだった。オデットの周囲を飾る娘たちは、完全に一糸乱れぬ、というわけには行かず、手の角度やその曲げ方、上げる速さやタイミングなどにはずれが見られた。これは、やはり北朝鮮マスゲームのように完璧な集団性を構築するのは至難の業でプロと言えどもこのくらいが限界だということなのか、それともより格の高いバレエ団ではもっと洗練された動きが見られるのだろうか。
 第二幕まで終わると一回休憩に入った。こちら以外の三人はトイレに行くと言ったが、こちらはメモを取りたかったので一人席に残った。そうして劇を見ながら気になった部分や抱いた印象を赤いボールペンで手帳に記録していく。そのうちに、ベルの音が遠くから鳴り響いた。開幕時もそうだったが、このベルが三度鳴ると開演なのだ。
 第三幕は舞踏会。色とりどりの目もあやな仮装に身を包んだ綺羅びやかな男女たちが替わる替わる登場して、各々に見せ場が用意されていた。第一幕から第二幕に掛けては、主人公たる王子の見せ場がその地位に比してあまりなかったような印象だったのだが、第三幕においては彼のソロの時間が設けられていた。同様に真っ黒な衣装を身につけたオディールのソロもあり、王子とオディールの二人での舞踊あるいは掛け合いも見られた。オディールとオデットは同じ一人の女性役者が演じているわけだ。彼女の柔らかな、縦方向へのまっすぐ垂直な開脚ぶりを見ていると、以前テレビで見かけたヨガの世界チャンピオンの女性のパフォーマンスのことが思い出された。その女性も、軟体生物のようにしてとても人間業とは思えない体勢を取っていたのだ。王子が後ろでオディールを支え、彼女の腰を掴んで高速で回す技も何度か見られた。このテクニックが披露されたのは第三幕のみで、第二幕のオデットとの組み踊りの際には見られなかったと思う。第三幕の終わりは、オディールがひたすら音楽に合わせて連続で回転し続ける形で終わりを告げたと思ったが、それほど長い回転が演じられたのはこの場面のみで、この演出の単調さは劇全体の絶え間ない動感のなかでちょっと違った感触を与えていたと思う。オデットとオディールの演じ分けをどのようにするかが見所だなと休憩中に兄が言っていたが、オデットとオディールが――同一人物が演じているにもかかわらず――舞台上で共存する瞬間が確か二回あった。舞台後方の鏡のなかに、囚われたようなオデットの姿が短時間、映し出されるという演出だった。彼女はおそらく白鳥としての形象や動きを表現するべく、両腕を柔らかに動かしてゆっくりと羽ばたかせるような姿勢を取っているのだが、あれは事前に録画した映像を再生しているということだったのか、それともあの時だけはオデットの姿をほかの女優が演じていたのだろうか。その点は不明である。そのほか第三幕で注目されたのはやはり道化で、ここでは彼は第一幕のオレンジっぽい装いから変わって、薄い青緑色めいた服を着ていたのだが、ふたたび劇中一の高いジャンプを披露していたりもして、彼の肉体の動き方がやはり役者のなかで随一だと思われた。
 第三幕と最終第四幕のあいだにふたたび休憩が入った。この時兄は、席を離れて舞台に近づき、オーケストラ・ピットを眺めていた。こちらは例によって休憩のあいだはメモを取っていた。そうして第四幕。ここはふたたび白鳥の湖が舞台となっている。冒頭、幕がひらくと舞台には霧が敷き詰められていて、それで身を低くしている白鳥役の娘たちの身体の下部は見えないくらいの濃さだった。この四幕が始まった際、周囲にいた中国人らが、写真は禁じられているはずにもかかわらずスマートフォンやカメラを掲げて撮影をしており、それを見た兄は、こういうところがまさに中国人だよなと苦笑していた。第四幕の一番有名なテーマの盛り上がりの瞬間には、空に雷が走り、演奏の最高潮の大音量とともに背景の砦のような建物が崩れ落ちる演出が見られて、これは少々大仰でキッチュ――俗悪――ではないかと思われた。しかし同時に、崩壊する砦の前で真っ黒な装束で翼を生やした悪魔がくるくると回って身を振り乱しているのを見ると、キッチュではあるけれどちょっと面白いと言うか、俗悪さが一周回って暗黒的なニュアンスを醸し出しているようにも感じられた。終幕は、悪魔に立ち向かう王子がその翼を片方もぎ取って、悪魔は倒れ伏し、王子の勝利でもって終わるというハッピー・エンドとして演出されていた。
 そうして終了。席を立ち、通路を辿っていくと、途中で兄が、写真を撮ろうと言うので、通路の真ん中で四人並んだ。兄はいわゆる「自撮り棒」を持ってきていたので、四人でいっぺんに撮ることが出来たのだ。壮麗な舞台を背景に写真を撮ったあと、ホールを出て、建物のなかをしばらく歩いてトイレに行った。しかし、どのようなトイレだったか八月一二日の――ロシア時間――零時三二分現在、もはや覚えていない。綺麗だったことは確かだと思う。トイレに行ったあとはクロークに預けた傘を取りに行き、その後、劇場のショップに寄った。しかし特に買うものもなかったので早々に退散し、外に出た。
 雨は止んでいた。広場に出て、ボリショイ劇場の豪壮な姿を背景に、ふたたびセルフィーで写真を撮った。それから、プーシキン美術館を見に行くことに。その前に何か軽く食べたいと母親が言うので、近くの通りに行くことに。それで劇場の横の道を歩く。途中で道端の車の周りに警備員らしき黒い制服の、屈強そうな男たちが集まっていた。そこを過ぎてしばらく行くとある通りに入った。その並びにPRIME CAFEという店があったので、そこに入った。兄によれば、このPRIME CAFEは最近ロシアで普及してきているチェーン店らしく、オーガニックな軽食を売りにしているカフェだと言う。それでスタンドのなかからそれぞれ食べ物を選んで買った。こちらはサーモンの挟まった小さなバーガー、母親はやはりサーモンとクリームチーズが織り込まれた巻き寿司、兄はサラダロールの類、父親の分は何だったか忘れた。飲み物もコーヒーやカフェラテなどがそれぞれ注文されたが、こちらは何も頼まなかった。また、母親が頼んだオレンジ風味のマフィンを皆で分け合って食べた。そうしてひととき飲み食いすると退店して、通りをふたたび行った。この通りは、カメルゲルスキー横町という通りらしく、モスクワ芸術座というのが有名だと言う。モスクワ芸術座というのはほかにもう一つ、ゴーリキーが誰かに関係したものが別の場所にあるらしいが、この通りにあるものはチェーホフに関連した方のもので、その近くにはチェーホフ像が立っていた。
 それで大通りに出てタクシーを呼んだ。プーシキン美術館に行くことになったのだった。この時乗ったタクシーの運転手からは洗っていない靴下のような臭いが漂っていた。音楽に関しては特に印象に残っていない。しばらく走ってプーシキン美術館ギャラリーの前に着いた。プーシキン美術館は巨大な本館もあるのだが、別館であるギャラリーは一九世紀から二〇世紀の欧米美術を所蔵しているということで、こちらはそちらに興味があったのだった。ただ、この日この期間はルイ・ヴィトン財団が集めたコレクションを展示する特別展が催されていて、所蔵品を展示する常設展のようなものがあるのかどうかわからなかった。結果から言うとそれはなくて、特別展の現代美術の作家たちの作品が三階分集められているだけで、規模もそれほど大きくはなかった。所蔵品にはピカソだとかマティスだとかセザンヌだとかがあるという話だったので、それが見られなかったのは残念である。
 ギャラリーの前には長大な列が作られていたので、その後ろに四人で並んだ。入口の前には警備員の老人がいて、頃合いを見て何人かずつなかに誘導しているのだった。それほど大きくはない建物だったので、そのように間を開けないと観客で室内がいっぱいになってしまうのだろう。警備員の老人は煙草を吸いながら、道案内などもこなしていた。それでしばらく並んで待ち――そのあいだは例によってこちらは手帳にメモを取っていた――遂に入館した。劇場と同じくここにもゲートが設けられていて、バッグの口をひらいて警備員に渡し、チェックしてもらったり、ポケットのなかの荷物も出して台にに置いたりしなければならないのだった。こちらは荷物はほとんど持っておらず、手ぶらで、手帳とパスポートをポケットに入れているくらいだった。そのうち手帳を警備員に差し出して示すと、Telephone、と言われたので、Telephone? と聞き返し、No、と答えて通過した。それからチケットを購入したのち、母親がトイレに行ってくると言うので三人は通路の途中で待機した。母親が戻ってくるまでには結構な時間が掛かった。おそらくトイレが混んでいたのだろう。そのあいだこちらは通路を行き交う異国人たちを眺めていたが、美術館という場所柄か、結構美男美女が多いような印象だった。
 そうして展示室の方へと進んでいく。展示室に入る前、階段の下のスペースには、ジャコメッティの「背の高い女」と、イヴ・何とかいう人の抽象画が展示されていたのだが、そこのスペースに入る前にも確かチケットを職員に渡し、機械に読み込んでもらって通る必要があったと思う。そこからさらに展示室に行くには階段の入口に立っている職員にチケットをもぎってもらわなければならなかった。時刻は六時だった。自分のペースで自由に見て回りたかったので、待ち合わせ場所と時間を決めて、分かれて回ろうと提案した。それで、チケットをもぎってくれた職員がいるあたりの階段の途中に、七時に集まるということになった。そうして家族と別れ、こちらはさっさと展示室に入って目ぼしい作品をチェックしていった。
 展示品はすべて現代美術で、近代と称される時代の作品は一つもなかったと思う。並んでいたのは、ジャコメッティゲルハルト・リヒタージャン=ミシェル・バスキアアンディ・ウォーホル、マーク・ブラッドフォード、ウォルフガング・ティルマンズ、クリスチャン・ボルタンスキーなどの作品である。
 一階の最初にあったジャコメッティの作品が展示されている室のなかでは、中央に飾られていた目玉らしい作よりも、壁際にガラスケースに入れられて置かれていた"Tête sur tige"という作の方が印象深かった。頭、と言うか生首が上向きに棒に刺されているもので、水面で餌を求める魚のように口をひらいている。顔の妙な細さが魚の印象を強めるのだが、それは断末魔の表情を記録したデスマスクのようでもあり、苦悶の色合いが強かった。
 次の室はゲルハルト・リヒターの作品が壁に大きく掛けられていた。絵画は三つあったのだが、そのなかでは"Gudrun"という作品が一番こちらには気に入られた。ごちゃごちゃと何層にも様々な色が重ねられているのだが、その一番表面では赤い絵の具がモザイク状に、あるいは鱗のような質感で散乱していて、その色とざらざらとした広がり方が苛烈な印象を与えるのだった。「烈」という字の相応しい作品である。キャンバスの左方、端には色の氾濫の向こうに澄み渡った水色も微かに垣間見えて、青空が底に敷かれているような想像もなされる。上端では暗雲めいた、墨のような黒さが湧いていて、右上の端から左方に向けて垂れ下がっているのだった。
 一階にはほか、ウォーホルの自画像がいくつも並べられていたり、クリスチャン・ボルタンスキーの映像作品が展示されていたりした。ボルタンスキーの映像は、暗い室のなかで流されていたが、どこか荒野のような場所に鈴をつけた棒が大量に立ち並んでおり、風を受けて鳴らされるその鈴のきらきらとした音色がひたすらに響き続けているという趣向のもので、これはNさんYさんと先日国立新美術館に行った際に見た、「アニミタス(白)」の違うバージョンである。しかしこちらとしては、「アニミタス(白)」の方が、どこまでも続く真っ白な雪原空間に神秘的で清冽な鈴の音が似つかわしく思われ、そちらの方が美しかったなと想起された。
 次に二階。入って最初の部屋には、初めて知る名前だったがマーク・ブラッドフォードという人の絵画が飾られていた。"OK, now we're cooking with gas"と、"Reports of the Rain"という作品である。ほかにももう一品か二品くらいあったかもしれないが、そちらについては印象が残っていない。前者、後者ともになかなか良い感触を得た。前者はチラシ広告のようなイラストあるいは漫画が下敷きとなっていて、それが濡れた新聞のような灰色に染まり、どのような手法で実現したものなのか、表面が損なわれたような質感になっていた。その上からさらに、ナイフで絵画表面を切り裂いたような傷が縦横斜めに無数に走り、葉脈の迷宮図を思わせる。その傷によって生まれた溝のなかにも、蛍光的・化学的な青の色が差し込まれていた。"Reports of the Rain"も同種の作品だが、これは白が地となっており、その上に縦横に青い筋が描かれて、横はともかく縦の線は確かに雨の軌跡を思わせるようでもある。前者の作品に比べると比較的整然としているが、しかし同時に荒々しくもあって、無数に引かれた縦横の筋は檻の柱のようでもあった。
 次の室にはWolfgang Tillmansという作家の写真が集められていた。この作家も初めて聞く名前だった。スニーカーを拡大して映したものや、人の足を大きく映したものなどがあったのだが、そのなかに"Einzelgänger"という、全面真っ赤な写真の作品があって、これがこの日見た作品のなかでこちらとしては一番良かった。全面を満たしている真っ赤な色は少々暗く、血液を思わせるような色合いで、そのなかにインクが水に混ざって流れているような黒い影が、もうほとんど枯れかけた植物の細い茎のように、あるいは菌糸の集合のように生えている。この偏差のない一様な暗赤色はどうも液体のような質感を持っていて、その点も血液を思わせ、血管のなかを拡大接写して見せているような印象を得る。さらにはそのなかに流れている黒い影も毛細血管を想起させるかのように張り巡らされていて、血管のなかを覗き込んだらさらにまた無数の枝分かれした血管に出会ったというような趣だった。
 そのほかには特別に印象深い作品もなかったので、残りの時間のことは書けない。三階まで一通り見て回ったあと、一階や二階に何度か戻り、先に記した作品の前に立って手帳に印象などをメモした。そうして約束の七時を待たず、六時四五分くらいに待ち合わせ場所の階段に行って家族と合流した。そうしてもう満足したので良いと言って、階段を下り、もぎりの職員に礼を言って過ぎ、出口に向かった。出ると七時頃だが、まだまだ空は明るい。モスクワは緯度が高いので日本と比べるとかなり遅い時間まで陽が落ちず、明るいままである。体感としてはおおよそ二時間くらいは日暮れが遅れる印象だ。まだ明るいので、プーシキン美術館のすぐ向かいにある救世主キリスト大聖堂も見ていこうということになって、そちらに移った。綺麗な白の威容を誇る巨大な聖堂である。最初は五時くらいでもう閉まっているだろうから外観のみ眺めていこうということだったのだが、聖堂前の広場に入ってみると、聖堂内に入っていく人の姿が見られて、まだ開いているらしいと判明したので、なかにも入っていくことになった。聖堂前の広場に入る門のあたりだったか、それともほかの入口だったか忘れたのだが、物乞いの女性が立っていて、筒のような容器を差し出して慈悲を求めていた。ロシアに来てから物乞いを見たのはこれが二回目くらいで、街中にも物乞いや浮浪者の姿は少ない印象である。今回と同様に兄が赴任しているあいだに招かれてベルギーに行った際には、もう少し多く見かけた気がする。
 聖堂内に入っていく女性たちのなかには、スカーフで頭を覆っている姿が多かった。それを見て兄が、敬虔な女性の信者はああやって髪を隠すのだと言う。我々は異国の異教徒なので許されると思うが、それを受けて母親も、ハンカチでも被った方が良いかなと言って、結局ピンクっぽい色のハンカチを三角頭巾のように頭につけていた。聖堂内に入るとまたもやゲートが用意されていて、そこをくぐって警備員の脇を過ぎ、フロアの奥へ。ドームの天井が馬鹿高く、目の悪いこちらには遠くてあまり解像度が高くないが、天井にはあれは何の場面だったのだろうか、神らしき人物の絵が描かれていた。この天井画については父親があとで、力があったなと漏らしていた。彼は、泣きながら出ていく女性信者も見たらしく、熱心な信者だったら本当に、何かを受け取るような感覚になるかもしれないなと感想を言っていた。祭壇では丁度、司祭が祈祷文を読み上げているところだった。祭壇には、あれは「イコノスタス」と言って日本語では「聖障」と訳されるものだと思うが、聖人か何かの絵が諸所に描かれた大きな建物様の壁が聳え立っていた。集まっている人々のなかには、司祭の言葉に合わせて十字を切る姿が多く見られた。細かいことはよくわからないが、十字の切り方は西方カトリックのそれとは多少違っているような気がした。司祭の祈祷は兄によれば、古代ロシア語のような古い時代のロシア語で読み上げられているらしかった。おそらくは聖書の文言ではないか。
 しばらくその場に佇んだあと、出ることにした。出る間際には司祭が同じフレーズを何度も何度もひたすら繰り返し唱えていたのだが、兄によるとそれは「主よ、御慈悲を」というような祈りを捧げていたらしい。ふたたびゲートをくぐり、警備員の脇を通って聖堂の外へ。聖堂の裏には橋があるらしく、そこからクレムリンの方が見えるのでそこで写真でも撮ろうとのことだった。それで兄の先導で馬鹿でかい聖堂の横を通り抜け、後ろ側へ。聖堂のそちら側の一帯は工事中で、補修作業のようなことが行われていた。その脇を過ぎて大橋の上へ。太陽が聖堂の向こうで落ちていくところだった。右方にはピョートル大帝の巨大な像と、トレチャコフ美術館の新館が見え、左方の彼方にはクレムリンの赤煉瓦色の外壁と、その向こうに玉ねぎ屋根の白い建造物が覗いた。兄がふたたびセルフィーを取り出して、スマートフォンを棒に嵌めて、四人並んで写真を撮った。スマートフォンと接続・連動したこの棒を使えば、わざわざ携帯画面に触れなくとも、手もとのスイッチを押して簡単にいわゆる「自撮り」写真が撮れるのだった。しかし、セルフィーでは所詮棒の長さが足りず、背景のクレムリンがあまり大きくは入らないので、結局離れた場所から誰かが撮影しなくてはならないことになった。それで替わる替わる撮影者が入れ替わってその他の三人が並ぶ写真を撮った。橋の上には観光客が無数にいて、皆同じように写真を撮っていた。
 それでそこから下の道に下りてタクシーを呼ぶことになった。橋の上をもと来た方に戻っていると、あれは何の鳥だったのだろうか、鳩だったのだろうか、無数の鳥の群れが背後で飛び立ち、頭上を越えてまだ暮れきっていない青空の上で蠢く点の集合と化した。階段を下って下の通りに入り、そこでタクシーを呼んだ。しばらく待つとやって来たので乗車。この時のタクシー運転手はわりと大柄のおじさんで、運転のあいだたびたびスマートフォンを弄り、LINEのようなメッセージアプリで文言を打ち込んでいたので、それを見て母親は、スマホ弄りながらやってるよと小さく漏らして不安がった。スーパーマーケットに寄って、何かサラダや惣菜の類を買っていこうという話になっていた。それで、訪露二日目にも行った場所だが、兄のアパート近くの、「五番街」というモールの前で下ろしてもらった。そうしてモール内に入り、スーパーへ。入店し、店内を回っているうちに、両親は菓子か何かを見に行って、こちらは兄と二人で惣菜を見に行った。春雨サラダと手羽先のような鶏肉が二種類選ばれた。カウンターの向こうにいる女性店員に欲しいものを指示して取ってもらうのだが、この女性店員の愛想が悪く、兄が言葉を投げかけても返答をせずに仏頂面で料理を取るのだった。それでも彼女も最後には、兄がスパスィーバ、と言うと何とか返答していた。
 そうしてスーパーから歩いて兄のアパートへ戻る。夕食時のことはよく覚えていないので省略しよう。夕食の途中だったか、夕食後だったか、Mちゃんとこちらの部屋でまた遊んだ時間があった。彼女は遮光カーテンの裏にたびたび隠れてしまい、こちらが、Mちゃん隠れちゃったの、Mちゃんどこ、などと呼びかけると、嬉しそうな顔をしながら幕をひらいて出てきて、こちらの寝床の上に破顔しながら滑り込むのだった。そのほか、例によってまた音楽? 音楽? と言うのに答えてceroの曲などを流したのだったが、すると彼女は、解読できない何かの言葉を発する。「~~は?」か「~~しよう?」と言っているように聞こえるのだが、「~~」の部分が「後ろ足」というような発音に聞こえて、全体としては「うしゃーしよー?」みたいな意味をなさない言葉に聞こえるのだった。意味はわからないのだが、それに応じてこちらが、後ろ足? とかうしゃーし? などと言うと、Mちゃんはそのたびに奇声を発して大喜びするのだった。
 その後、床に就く少し前に、父親と将来に関する話などをした。最初は日記に関して何か訊かれたのだったと思う。そこから、お前みたいなことをやっている人はほかにいるのかね、と訊くので、いない、Mさんというこちらの友人くらいだと答え、Mさんについて少々説明した。今は中国の大学で日本語教師をしているが、それまではアルバイトを転々として小説を書いていたことなどを紹介した。それでお前は将来どうするのかと訊かれるので、まあどうするという展望もなく、こちら自身もそれを訊きたいくらいだが、ともかく日記だけは死ぬまで書き続けたいと宣言した。父親は、まあ別に好きなようにやってくれて構わないけれど、と言ったので、有難い限りである。人生長いので、どのようになるかわからないが、ともかく文章だけはこれからも書き継いでいきたい。それが金になれば一番良いのだが、それもなかなか難しいだろう。同じように、パトロンを見つけるのが一番手っ取り早いのだが、それもやはり難しいだろう。とは言え、日記を金にしている先例というのはあると言って、fuzkueのAさんの『読書の日記』についても言及した。あのような形で出版して金に出来れば良いのかもしれないが、何と言うかこちらの日記はAさんのそれよりも人を選ぶと思うので、それも難しいだろう。
 一一時半過ぎにシャワーを浴びて就床した。


・作文
 8:50 - 9:10 = 20分
 11:08 - 11:39 = 31分
 11:52 - 12:02 = 10分
 22:10 - 23:23 = 1時間13分
 24:02 - 24:24 = 22分
 計: 2時間36分

・読書
 なし。

・睡眠
 0:50 - 8:20 = 7時間30分

・音楽
 なし。