2019/8/12, Mon.

 小林 ビッグバンが起きたとして、その時点からこの宇宙では、時間が一方向的に流れ始めるわけですよね。これはエントロピーですよね。エントロピーが増大していくというのは一方向性の規則で、なおかつこれは、奇妙なことに、プランク定数という不連続性の値をとりますよね。わたしは素人なりに、それを非常にポエティックな想像力で考えてしまうのですが、量子力学的世界というのは、なんとなく時間以前の世界という感じがするんです。つまり、時間があって何かが生まれるんじゃなくて、時間そのものが生まれるという……。
 中島 時間未生の世界ですね。
 小林 そう、時間未生の世界みたいなもの、時間も空間もないところから、時間や空間が生まれるという方向に、今の自然科学の最先端の理論は行きつつあるのではないか。でも、奇妙なことに、そのような構造というか、出来事のあり方は、さっきのゲーデルと意識の問題じゃないけれども、実はわれわれの意識の構造みたいなものとどこかでつながるのではないか。だから極言すれば、「われわれは、毎瞬間に、じつは時間をつくっているんだよ」といきたいんですよね。
 尾藤 それはそうだと思う。わたしは記憶のメカニズムを研究していますけれども、記憶というのは、何かいったん覚えたものが安定的に残っているというイメージが、つい最近まであったんですけれども、今は絶えず書き換えている、上書きしていると考えているんですね。上書きしているので、何が本当に最初だったかということは、もう忘れちゃっている。そうしないと十分な情報量を確保できないし、後になってから、あれは必要ないということがわかったら、もう必要ないので切り捨てるべきなんです。
 中島 まさにそれはデカルトの連続的創造と同じ構造じゃないですか。
 小林 連続的創造ですね。だから、連続的創造という概念を世界に当てはめるのではなく、われわれが連続的創造であるという方向に考える。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、51~52; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 小林 尾藤さんの話で衝撃を受けたのは、多体問題を考えているということですね。
 尾藤 そうです。
 小林 一体じゃなくて多体で考えなければ、意識も心もわかりませんよと。
 尾藤 そういうふうに、実験屋としては今考えています。
 中島 それはめちゃめちゃ面白いです。
 合原 それは僕も同感です。一人しか人間がいなかったら、こんなふうに心とか意識が発達したかという問題なんですよ。周りに集団があるからこそ発達してきたと思うんです。集団があってこそのわたしなんだと。だから、そういう生活の仕方を人類というのは見つけて、そういう環境で育つ。脳というのは脳だけで存在するんじゃなくて、体とも相互作用するし、環境とも相互作用するし、環境の最たるものが他者なんですよね。その中で初めて存在するので、集団という存在がやっぱり大きかったんだと思います。
 (55; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)

     *

 中島 (……)小林先生がおっしゃった、広い意味でのモラルに、想像力はどういう形で効いてくるんでしょう。
 小林 それはとても難しい問題だけれども、わたしが勝手に思っていることを混線的に言ってしまえば、最終的には世界と自分が一つであるというところに行くと思う。つまり想像力の究極は「梵我一如」というインド的な言い方でもいいのですが、そういうところに向かっていくと思いますね。それが、もっとも根源的なモラル。それを「神」と呼ぶ必要もないし、いや、何と呼んでもいいのですけれども、自分が世界の中にいるのではなくて、世界と自分がどこかで通底しているという感覚を持つことが、今露呈してきている、近代的なものの限界を乗り越える一つのモラルの方向だろうと思います。
 (59; 合原一幸・尾藤晴彦・小林康夫・横山禎徳・中島隆博「心の語り方」)


 八時五〇分起床。洗面所に行き顔を洗うとともに、寝癖直しウォーターを後頭部に吹きかけ、手櫛で髪を押さえた。それから居間にいたMちゃんとひととき戯れたあと、食事の時間である。メニューはここのところ毎朝出ているサラダ――様々な種類の菜っ葉と胡瓜とトマト――にブロッコリー、パン二種――濃い褐色の黒パンと、もう少し薄い色のもの――、それにゆで卵を頂いた。苺味のヨーグルトは例によって母親と半分ずつ食べ、飲み物はオレンジジュースを頂いた。黒パンを食べているとキッチンダイニングを離れていたMちゃんが戻ってきて、こちらの近くにとてとてとやって来て、音楽出来た、と嬉しそうに言った。それからこちらの手を取って、音楽、音楽、と言いながら寝室に連れて行こうとする。それに応じて手を繋いで寝室まで行くと、先ほど点けたコンピューターから音楽が流れ出していた。先ほど一度、MちゃんがYoutube、と言うので、Youtubeceroの音源のMVを流して途中で止めていたのだったが、それを自分でもう一度再生させたらしかった。それでMちゃん、音楽出来たね、凄いねと褒めてあげて、またひととき戯れた。その後も、ダイニングの食卓に戻っても、たびたびMちゃんが部屋を出て寝室に向かうので、こちらもそれについていって、そのたびに音楽を流したり、一緒に遊んだりした。Mちゃんは嬉しそうに笑いながらこちらの寝床にうつぶせになって身を伏せた。Mちゃんはまた、部屋の隅にひらいたまま置かれていた父親のスーツケースの車輪に目をつけて、車輪をくるくると回したり、左右に動かしたり、ぱんぱん、だんだん、と言いながら叩いたりして遊んでいた。そうやって戯れているあいだに、食卓では食事が終わり、片付けが始まっていた。今日はそういうわけで皿洗いは出来ず、代わりに母親がやってT子さんが食器を食洗機に入れていた。
 食事を終えたあとは寝室に行って、日記を書かなければならないのだが、気力が湧かずに寝床に転がってしまった。そのまま布団を被ってしばらく休んだ。そのあいだMちゃんも寝室に入ってきて、両親と戯れているようだった。こちらがようやく起き上がると、既に正午前だった。Mちゃんは母親の傍らでベッドに乗り、昨日のサーカスの写真を見せてもらっていた。写真を見せてもらい終わっても、繰り返し、ピエロ、ピエロはと言ってもう一度写真を見せるようにせがむのだった。彼女が言うピエロというのは、サーカスの舞台を包んでいた幕に描かれていた大きな顔の絵で、一種ひょっとこのように口を窄ませているのだが、Mちゃんは前夜はどうやらそれが怖かったらしく、サーカスの観客席に入ると泣いてしまって、舞台を見ようとしなかったのだった。その絵の写真を見せるとMちゃんはそのたびに、怖かったね、と呟き、何で怖かったんだろう、と自問するのだった。いや、面白いことに、本当にそのように発語しているのだ。何で怖かったんだろう、ということは、今はもう怖くないということなのだろうか。そのうちにMちゃんは、そのピエロのひょっとこ口を真似して口を突き出しはじめて、両親やこちらを笑わせてくれた。彼女はまたコンピューターで日記を書いているこちらの下にやってきて、かちっ、かちっ、と言う。これはマウスのクリックのことを言っているのだ。それで、マウスのポインターYoutubeの動画の再生ボタンのところに合わせてこちらがマウスを固定し、Mちゃんにクリックさせて、動画を止めたりもう一度再生させたりして遊んだ。日記をここまで書くと一二時半である。
 それから八月一〇日付の記事を書き足した。そうしているあいだにT子さんが炒飯と麻婆豆腐、それに野菜スープを拵えてくれた。それを食べてから近くの巨大ショッピングモールに出かけようということになった。そうしてキッチンダイニングの食卓に集まる。部屋には炒飯の良い匂いが漂っており、中華屋の匂いがすると皆口々に言い合った。炒飯はそれぞれセルフで取りたいだけよそるということで、兄が最初に調理台の上のフライパンに寄って米を皿に盛った。その次にこちらがよそることになったが、兄が遠慮なくたくさんよそってしまい、炒飯の量が思いの外に少なくなっていたので、こちらは欲望を控えて少なめによそった。そうしてあとは母親が三人の分をそれぞれ盛りつけ、そうして食事が始まった。麻婆豆腐も大きな容器に入れられて食卓の真ん中に置かれたので、母親が全員の分を椀に取り分けて行った。そのほか、薄色の野菜スープがT子さんの手によって皆に配られた。こちらは飲み物にはコカ・コーラ・ゼロを飲ませてもらった。T子さんは簡単なものだ、適当に作っただけだと謙遜したが、どの料理も美味だった。Mちゃんは炒飯に入っていた海老だけ食べると椅子から降りて、またどこかに行ってしまったので、こちらはそのあとを追った。そうして寝室でまたマウスをクリックさせて遊んだり、その隣にある兄の寝室に入ってベッドに寝転び、布団を被ったMちゃんの傍らに寄り添ったりした。兄の寝室には二〇〇一年に発刊された群像社版のゴーゴリ『検察官』が置かれてあったので、少々なかを覗いた。そのうちに、Mちゃんとこちらを呼ぶ声が聞こえたので、Mちゃんの手を引いて食卓に戻り、こちらのために残されてあったサクランボを頂いた。Mちゃんは炒飯を一口食べるとまた部屋を出て行ってしまった。そういう具合でほかの部屋と食卓を何度も繰り返し行き来して時間を費やしたのだが、最後にはこちらがスプーンを持ってMちゃんを椅子に座らせ、炒飯をすべて食べさせた。
 その後もMちゃんと戯れ――この家にいるあいだ、自分は彼女と遊んでばかりいるが――一方でこちらは服を着替えた。フレンチ・リネンの真っ青なシャツと、ガンクラブ・チェックのズボンである。そうして二時四〇分からこの日の記事を書き足しはじめて、現在はもう三時に至っている。
 その後、ショッピングモールに行くために外出した。前日と同じく、T子さんとMちゃんは遅れて合流するということだった。エレベーターで地下階まで下りて、だだっ広い駐車場を歩き、扉と通路をいくつか越えてかなり移動したあと、ようやく兄の黒い車に辿り着いた。乗り込み、発車。地上に出て一〇分か一五分かそのくらい走り、アヴィアパルク(Aviapark)に到着。だだっ広い駐車場に車を入れ、降りて、建物のなかに入る。エスカレーターを上がって行って一階に出ると、Natura Sibericaの店舗の前で立ち止まってT子さんが来るのを待った。このNatura Sibericaという店は化粧品などを売っている店なのだが、そこに安いハンドクリームが売っているという話をT子さんから聞いており、それが土産に良いのではないかと両親は考えていたのだった。こちらも、女友達のために買っていくつもりでいた。それで待っていたのだが、なかなかT子さんがやって来ないので、あたりを少々うろついてみることになった。ZARAの店舗があり、なかを覗いた母親が、良さそうな臙脂色のジャケットがあったよと言うので、あとで寄ってみることになった。そのほか、Massimo Duttiや、Tommy Hilfigerや、Trussardi Jeansなどの店舗が近くにはあった。兄や両親は便所に行った。便所までの通路は非常に奥行きが長かった。そのあいだこちらはそのあたりで立ち尽くして待ち、通り過ぎる人々を眺めたりしていた。自転車に乗って通る者があったり、スケボーやキックボードに乗って通る者もあった。そうして、そろそろT子さんが来ると言うので元のNatura Sibericaの前に戻って、彼女と合流し、店に入った。入ると店員の女性が、サービスの茶を皆にそれぞれ注いでくれた。それでハンドクリームを見分。様々な種類のものがあったが、なかに最初に確認したもので、三〇〇円くらいのものがあったので、こちらはこれで良いかと目星をつけた。これはオブレピーハという植物を原料として作ったものらしく、マンゴーのような少々甘い匂いがした。父親もこの品を買うことにしたらしかった。そのほか、母親は、レジの横にあった一本一〇〇円くらいの小さなものをたくさん選んで購入していた。店内に陳列されている商品のなかには、「Tsunami」とか、「Shikotan Birch」という名前が付されたものがあり、それには「soul of kuril」という売り文句もつけられていた。どうやら北方領土や千島列島でこうしたものが生産されているらしい。
 会計。店員は会計時に、プレゼントだと言って何かのオイルを一本くれた。確か松のオイルと書かれていたのではなかったか。それから主にこちらの興味関心に基づいて、服を見分することになった。まずMassimo Duttiの店に入る。おそらく麻で作られたらしい白の、線の入ったジャケットがあって良かったのだが、着てみるとサイズが大きすぎた。遂にZARA。件の臙脂色のジャケットはぴったりのサイズもあったが、西洋人に合わせて作られているため、それでも袖のあたりが僅かに長い風には見えた。父親が一生に一度だから、記念だからと言って買いたいものがあれば買うように勧めてくるのだが、ZARAなら日本にもあるし、どうせならもっとモスクワでしか買えないような服を買いたいなあとこちらは迷って、ひとまず保留とした。そのほか、薄青いチェックのジャケットや、タータン・チェックの薄手の裾の長いコートのような商品もあってかなり格好良かったのだが、これらはちょうど一万ルーブルほどの値がつけられていた。一万七〇〇〇円といったところである。そのほか、良いと思う品はやはりどれも一万ルーブルはするようだった。
 ZARAの女物の方にも入った。母親に何か良い服がないかと思ってのことだったが、やはりどの品も基本的にもっと若い年代層を対象としており、還暦を迎えた母親に合いそうなものはあまり見つからなかった。それでも母親はいくつかシャツに目を付けていて、父親はここでも一生に一度だからなどと言って購入を促していたが、母親は決めきれず、まああとでまた戻ってきても良いのだから、という曖昧なスタンスに落着いた。しかし結局、このあと食器を見たりスーパーを見たりしているうちに思いの外に時間が経ってしまい、あとで戻ってくる機会はなかったのだ。
 それから、フロアを移動して、ポーランドの食器を取り扱っている小さなカウンター造りの店を見分した。青を基調にした彩色がどれも素晴らしい品々だった。赤い花の描かれた小さな皿を見せてもらった母親は、ちょっと重いと言って購入を躊躇っていたが、ここでも父親が、一生に一度なんだから、と言って頻りに購買を主張し、結局それに負けた形で最終的に三枚を買うことになった。ほか、小さなミルク入れとソーサー。チューリップめいた赤い花の描かれたハート型の器も取り出して見せてもらったのだが、こちらはそれなりに名のある作家が彩色したものらしく、その分高めになっており、三二〇〇円かそのくらいはするらしかった。
 それから大型スーパー「アシャン」に移動した。そこで鍋を見たり、タオルを見たり、ノートを見たり。その後に食料品のフロアに下りて、土産にする菓子類を見分した。ロシアに来て一日目だか二日目に買ったアリョンカのクッキーはここにはなかった。似たような商品ならたくさんあったのだが、やはりアリョンカのあれがパッケージも含めて良いのではないかというわけで、このあとにアリョンカショップに帰りに寄ってもらうことに決めた。そのほか、職場の室長のためには九種類のビスケットが入った詰め合わせの商品を、同僚たちのためにはレーズンのクッキーがたくさん入った品を選んだ。父親もクッキーを大量に籠に入れていた。T子さんは独自に、自分の買い物として、野菜やMちゃん用のパズルを取ってきていた。そのほか、クノールボルシチなどのスープの素を見たり、ポテトチップスの類を見たりしてから会計。スーパーのレジは、品物を台の上に全部出し、座った店員がそれらを一つずつ読み込ませて送ってくるのをその場でどんどん袋に入れていくという方式だった。兄から受け取って大きなものをこちらも袋に入れていき、商品の入った大袋二つが作られた。それで機械で精算をして外へ。
 荷物を運んで駐車場の近くまで来て、そこでタクシーに乗って帰るT子さんとは一旦別れた。我々は兄の車に戻り、乗って発車。時刻は確か既に七時頃だったのではなかったか。それでもモスクワは陽が落ちるのが遅いので、まだまだ明るく、空は水色だった。しばらく走って、モール「五番街」の地下に入る。車を降りて階段を上っていき、フロアに出ると、アリョンカショップに入った。先日Mちゃんにチョコレートをプレゼントしてくれたおじさんは見当たらなかった。こちらはクッキーを八袋、すぐに決めて籠に入れたのだが、母親が何を買うのかすぐに決められずぐずぐずしていて結構時間を使うことになった。結局彼女は紅茶や、量り売りのチョコレートなどを買っていた。また、父親によって小さな紙袋も何枚も購入された。土産物を贈る際にこれに入れれば良いだろうということらしい。
 それで帰宅。夕食は、ウズベキスタン料理の店で取ろうということになっていた。兄が電話して予約を入れ、しばらく経つとまた外出。エレベーターで一階まで下りていき、入口に座って詰めている守衛の男性に、また行ってきます、と日本語で告げながら通り過ぎた。もう顔も覚えられただろう。母親は、よく出かけるなと思うだろうねと漏らしていた。
 二台のタクシーに分乗して店へ。「黄金のブハラ」という名前の店で、建物表面は確かに黄金色の電飾で明るく飾られていた。店内は照明の周りにタイル状の飾りが貼られていたり、年代物風の戸棚が隅に置かれていたり、中近東風の内装で、掛かっている音楽もアラビア的な雰囲気を感じさせるものだった。この店でもMちゃんのためにすぐに子供用の椅子が持ってこられ、またのちには塗り絵も用意された。しかし塗り絵はすぐに放擲され、後半、MちゃんはiPadに熱中して大人しくしていた。
 注文されたのはまず、サラダ二種。一つは胡瓜と卵が麺のように細切りにされたもの、もう一つはトマトと玉ねぎのものだった。ほか、馬の肉や牛の干し肉や、大きなベーグルのようなパン。またラフマン――と言っていたと思うのだが、今インターネットで検索すると「ラグマン」という名前で出てくる――という麺料理。それが終わったあとにプロフとシャシリク。プロフというのは要するにピラフのことで、シェフが大皿とともに出てきてその場で米を混ぜ、胡瓜や紫玉ねぎやトマトやニンニクを添えて人数分、皿に用意してくれるのを給仕が配っていくのだった。このニンニクが、どうやってあのようにされたものなのか、非常に柔らかく、口に入れると溶けてしまうような具合だった。勿論、プロフそれ自体の味もスパイシーで美味かった。そして最後に出されたシャシリクというのは、グルジア料理を食った際にも頼んだもので、肉や野菜の串焼きのことである。これを二人前頼んだのだったが、三皿に分けてかなり多くの量が出てきて、その時点で既に結構腹いっぱいだった我々は頑張って食ったのだけれど、最終的に一皿はどうしても食えないということになって、持ち帰りを頼むことになった。シャシリクとして出てきた品々は、牛肉、レバー、つくねのような肉、鶏肉、トマトやズッキーニやパプリカなどの野菜である。
 給仕の青年は穏やかで慇懃な物腰であり、こちらがMちゃんの傍に立ってジュースを飲ませたりしていると、それを見て笑みを浮かべたりもしてくれた。食事中の会話は特段覚えていない。スイスの話があったのは一応メモにちょっと取ってある。スイスは物価がやたらと高いということだった。T子さんも何度かスイスで公演をしたことがあるのだが、その時のギャラは、こんなに貰っても良いのと思うほどに高いものだったと言う。確か、一晩で、それも主役では全然なくても、三〇万だか四〇万円くらい貰えたという話ではなかっただろうか。兄も、やはり永世中立国ということもあって、あそこはヨーロッパのなかでもちょっと雰囲気が違うような気がしたなと話していた。
 最後、シャシリクを食っている頃合いになると、帰国も翌日に迫って、何となくこの旅の終幕のような雰囲気が醸し出されはじめたと言うか、兄が総括のような言を漏らしはじめ、まあ大学に行かせてもらったこと、また留学をさせてもらったことなど感謝している、あそこでロシア語学科に進んでいなければ、まったく違った人生になっていただろうと思う、というようなことを述べた。しかし結局、どこが一番のきっかけだったかと考えてみると、兄が高校生の時だったか大学生の時だったか忘れたが――確かこちらが中学三年生の時だったような気がするので、そうなると兄は既に大学生だったことになる――Oを夏のあいだホームステイさせたことがその後の人生を決めたような気がする、そのあとロシアとは切っても切れない関係になったと続けて述べられた。まあともかく、ロシアという国もそれほど怖いところではない、楽しくやっていると兄はまとめ、それを父親などは満足気な様子で聞いていて、今回の旅に対する感謝の念を述べた。実に物語的な雰囲気が卓上には醸し出されつつあった。なるほどこれが家族の幸せ、というものなのだろうな、とそれに浸かりきっていない外部からの観察者の視点でこちらは思った。
 そうして一〇時過ぎに帰宅。帰りのタクシーにはまた半端な感じのダンスミュージックが掛かっていた。英語だった。アメリカの音楽というものも、結構入ってきているのかもしれない。月は満月に近く、大きなものだった。兄のアパートに着いて降りると、守衛の男性に会釈しながら入口を通り過ぎて、エレベーターに乗って室に帰った。Mちゃんは我々の寝室にやって来て、布団の上に寝転がったり跳ね回ったりして燥いでいた。風呂に行こうと何度も言っても聞かず、スーツケースの車輪で遊んだりしていた。しばらくしてようやくT子さんに引き渡すことに成功し、こちらは日記を綴った。その後のことは特に覚えていないし、特段のこともなかったはずだ。ただ、毎日美味い食事と洗濯の用をこなしてくれたT子さんには、感謝の一念のほかはないとここに明記しておく。


・作文
 11:54 - 12:44 = 50分
 12:53 - 13:29 = 36分
 14:41 - 14:59 = 18分
 23:30 - 24:15 = 45分
 24:44 - 25:26 = 42分
 計: 3時間11分

・読書
 なし。

・睡眠
 1:10 - 8:50 = 7時間40分

・音楽
 なし。