2019/8/16, Fri.

 しかし、この構造には、重大な問題がある。それは、――「バベル問題」と呼んでもいいのだが――人間の自然言語はひとつではない、ということ。われわれ人間には、たくさんの(しかしけっして無限ではない)異なった言語があり、それぞれの個別の人間は、そのうちのせいぜい一、二の言語のなかでしか生きていないということ。つまり、言語は、「人間」という普遍的な一般性に対しては開かれておらず、むしろ、そのなかの部分集合である、たとえば「部族」や「民族」などの共同体に対して共同性の場を開き、保証するものとしてある。「言語」は、はじめからたとえば「民族」という「存在」規定[﹅4]によって囲い込まれている。つまり、われわれが自然言語のなかで、「意味」と問う以上、その「意味」はけっして完全な普遍性を獲得することはできないのであって、「絶対」「真理」「普遍」などをどのように語ろうとも、それは、その個別の言語のなかで打ち立てられた「部分世界」にすぎないのだ。あらゆる宗教――(そして哲学もまた!)――は普遍性を標榜するが、しかしその「普遍性」は個別言語という限界のなかに封じ込まれている。その意味では、言語は、厳密に、不完全なのである。根源的に不完全であり、じつはそれゆえにこそ、言語こそが「民族」などの共同性を保証するということになる。言語の「不完全性定理」は、言語による「部分共同性の原理」と表裏一体なのだ。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方1 心と存在』東京大学出版会、二〇一八年、78~79; 小林康夫「「人間とはなにか?」という問い」)

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 存在は西洋哲学の核心的概念だと考えられてきた。そして、その強度に見合った概念を有さない東洋哲学は、異なる哲学もしくは哲学以前だとさえ考えられてきたのである。
 ところが、近代になると存在をめぐって新たな思考が登場してくる。その典型がマルティン・ハイデガーであり、存在論的差異すなわち存在者と存在を区別し、存在者をあらしめる場としての存在を際立たせた。しかし、それは中世以来考えられてきた存在としての神の別名にすぎないのではないか。ハイデガーカトリックへの傾倒を考えると、この疑問はあながち外れたものではない。しかし、重要なことは、創造主のような超 - 存在者として想定されるような神ではなく、人間のような存在者をあらしめる場としての存在に神を変換したことである。そして、それに伴って、人間を語る語り方もまた大きく変容し、「現存在」として特権的に存在への通路を有したものとされたのである。
 こうした存在の語り方の変容(人間の語り方の変容)に対して、ユダヤ人哲学者のエマニュエル・レヴィナスはきわめて厳しい批判を行い、ハイデガーのような存在論は、存在の全体主義であるとして、そこからの離脱を思考した。それは、存在から存在者への離脱であって、場としての存在ではなく、他者のためにある主体の擁護に向かうものであった。その際レヴィナスは、ラビに伝承されていたユダヤ教に発想の源泉を求め、タルムードを読解しながら、たとえば「神よりもトーラー(律法)を愛す」という言い方で、トーラーを現代的に再解釈したのである。
 (105~106; 中島隆博「存在の語り方」)

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 ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(Yuri Alekseyevich Gagarin, 1934-1968) 旧ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。1961年、世界初の有人宇宙飛行士としてボストーク1号に単身搭乗した。
 (114; 注3)


 二時前まで糞寝坊。相変わらず肉体の睡眠欲に打ち勝てない日々である。両親は二人とも仕事で、家のなかに人の気配はなかった。点けていた扇風機を切り、上階へ向かう。卓上には書き置きとともに、先日成田日航ホテルのコンビニで氷などを買った際に母親に貸した代金の分の金、一五〇〇円が置かれてあった。台所に入ると、冷蔵庫から小松菜とシチューの鍋を取り出し、大きな白い鍋を火に掛けているあいだに便所に行った。用を足して戻ってくると鍋のなかのシチューがぼこぼこと沸騰していたので、慌てて火を弱め、もうしばらく熱してから、鍋つかみの代わりに雑巾で手をカバーしつつ鍋を持ち上げ、底の深い大きめの椀にシチューを注ぎ込んだ。そうして卓へ。新聞の一面には戦没者追悼式の様子が伝えられている。それを斜め読みしながらものを食って、さらに薬を服用すると、食後の薬を飲んだばかりなのにその傍から細長い棒状の、コーラ味のチューイングキャンディーを食った。歯にくっついた滓を取り除いたあと、それから食器を片付け、そうして風呂場に行って浴槽を洗った。それで下階に下りてくると室にエアコンと扇風機を点けたが、部屋が冷えてくると腹も冷えてきたのだろうか、下腹部がいくらか痛くなって便意を催したので便所に行った。下痢は一応収まっていた。糞を垂れてから、個室内にトイレットペーパーの予備がなかったので、水を流して出ると上階の洗面所に行き、ペーパーを四つ持って戻り、それを個室内の収納のなかに入れておいてから部屋に戻った。そうして前日の記録を付けたり、LINE上のやりとりを見てメッセージを送っておいたりしてから、日記を書きはじめるともう三時前だった。
 四時半過ぎまで日記を認めているあいだ、同時にLINE上でメッセージのやりとりをしていた。T谷からどうやらデング熱に掛かったらしいという報告があった。とにかくゆっくり休んでくれ、そしてやばくなったら躊躇せずに救急車を呼ぶんだとの言を送っておいた。そうして日記を終え、五時に至ると読み物に入った。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。一時間強読んだところで、上階の床を叩く音がしたので、読書を中断して上がっていくと、うどんを茹でてくれとのことだったので台所に入った。冷蔵庫から三パック入りのうどんを取り出し、前日にシチューに使った白い平鍋を網状の布で洗って汚れを落とし、水を汲んで火に掛けた。湯が沸騰するのを待つあいだに洗い桶のなかの食器も片付けてしまい、桶には綺麗な水を溜めておく。そうしてうどんのビニール包装を鋏で切り開け、鍋の湯がぼこぼこと沸騰するとそのなかに三パックをいっぺんにまとめて投入した。菜箸でちょっと搔き混ぜて麺を崩してから、タイマーで三分を設定し、それから既に茹でられてあった小松菜を少しずつ掴み、絞って切断した。切ったものは細長いオレンジ色のスチームケースに入れておき、のちに胡麻油と胡麻と麺つゆで味付けを施した。うどんが茹であがると洗い桶のなかに開け、水を取り替えながら両手で麺を掴んで擦り合わせるように洗っていく。傍らで母親が冷蔵庫のなかで冷やされた水や氷を投入してくれた。そうして洗い終えたうどんを笊に上げておき、今度は小鍋に水と麺つゆを混ぜて用意して火に掛けると、玉ねぎを半分、切り分けて投入した。煮込みうどんにして食べるつもりだったのだ。玉ねぎが煮えているあいだに卵を椀に割り落として溶かしておき、鍋の方には味の素を振り落とし――粉出汁や椎茸の粉は切らしていた――麺も投下して、しばらく煮込むと出来たものをまとめて丼いっぱいに流し込んだ。そのまま持つと暑いし、ほとんど丼の上端まで中身が満たされているから零れそうだったので、珍しく料理を卓に運ぶのに盆を用いた。小松菜の胡麻和えと一緒にうどんを運び、そのほか炊飯器に僅かに残っていた最後の米を茶漬けで食うことにして椀に取り、茶漬けを振り掛けてポットから湯を満々と注いだ。そうして食事である。時刻は七時になる前だった。食べているうちに七時のニュースが始まって、昭和天皇の発言を記録した未公開資料が発見されたという知らせが報告された。田島道治と初代の宮内庁長官が「拝謁記」という形で、昭和天皇との会見録を大量に残していたということだった。そのなかで天皇は、先の戦争に対する痛切な悔恨や反省の念を述べているとのことである。何故もっと早く終戦のために介入しなかったのか、戦争を止める手立てはなかったのかという疑問を抱かれるのは当然あり得ることである、しかし当時は軍部の専横のため――天皇はこれを「下剋上」という言葉で表現していた――どうしようもなかったのだ、という天皇の発言が紹介されていた。また、天皇は何かの式典に際して「悔恨」の念をはっきりと表明することを強く要望したが、当時の首相だった吉田茂の反対で最終的にそれは実現しなかったと言う。コメントを求められた専門家の一人は、今回の資料は我々のような普段から研究をしている者の目から見ても第一級のものだと述べていた。
 食事を終えると抗鬱薬を服用して下階に戻り、七時半から日記を書きはじめた。そうして一時間のあいだ打鍵を続け、八月一二日の記事を完成させ、ようやくロシア旅行記を完結させることが出来た。八月一二日から一五日までの四日分の記事をまとめて投稿しておいてから、入浴に行った。風呂に入る前に洗面所で、ロシア旅行中のあいだ伸び放題に放置していた髭を剃ったが、顎髭が結構長くなっていたため、綺麗に剃るのが大変だった。それから風呂に入って汗と垢を流し、自室に戻ってくるとだらだらとした時間を過ごして、一〇時半前からふたたび読書に入った。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。次のような記述があった。

 凍った雪の上を、ぶかぶかの木靴をはいて、よろめきながら作業に向かう時、私たちは少し言葉を交わして、レスニクがポーランド人であることを知った。彼は二十年間パリに住んでいたのだが、ひどくへたくそなフランス語しか話せなかった。三十歳なのだが、私たちがみなそうであるように、十七歳とも五十歳とも見える。身の上話を語ってくれたのだが、今ではもう忘れてしまった。だが苦しく、つらい、感動的な物語だったのは確かだ。というのは、何百何千という私たちの話がみなそうだからだ。一つ一つは違っているが、みな驚くほど悲劇的な宿命に彩られている。私たちは、夜、交互に話をする。ノルウェーや、イタリアや、アルジェリアや、ウクライナでの出来事だ。みな聖書の物語のように簡潔で分かりにくい。だがこうした話が集まれば、新しい聖書の物語になるのではないだろうか?
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、80)

 「新しい聖書の物語」を作るという考えは魅力的な着想である。現代の新たな、途方もない規模で成された迫害による苦難と、かつての聖書の時代のユダヤ人の苦境とのあいだにレーヴィは連続性を見て取っている。そうした古い時代の歴史に繋がる「新しい聖書」の状況が生じたということに、束の間であっても慰めを得ることが出来たと彼は註において述べている。
 収容所においては人間の名前は剝奪され、それぞれの人間の個性は殺される。人は単なる番号としてしか認識されず、平均的で画一的な行動を常に保つように支配される。そこにあってレーヴィが出会った人物を個性豊かに、生き生きと描き出すことは、人間性の墓場から彼らを救出することであるだろう。それは還元すれば、統計に逆らうということでもある。アドルフ・アイヒマンが残したという言葉の一つとして、「百人の死は悲劇だが/百万人の死は統計だ」というものが知られている。自身ソ連の収容所に抑留され、「確認されない死のなかで」の劈頭にこの言葉をエピグラフとして引いた石原吉郎は、そのエッセイの冒頭で、ジェノサイドの恐ろしさとはそのなかに一人一人の死の固有性がないということだ、と指摘している。生においても死においても人間の固有性を回復し、個性が殲滅させられる不毛の領域から個人を救済すること。それこそがやはり文学という営みの務めの一つではないだろうか。
 三時直前まで本を読み、部屋を出ると洗面所に行って水を二杯飲んで、戻ってくるとスイッチを押して明かりを落として就床した。


・作文
 14:54 - 16:37 = 1時間43分
 19:28 - 20:27 = 59分
 計: 2時間42分

・読書
 17:00 - 18:14 = 1時間14分
 22:23 - 26:58 = (1時間引いて)3時間35分
 計: 4時間49分

・睡眠
 2:40 - 13:50 = 11時間10分

・音楽