2019/8/18, Sun.

 にんげんの耳の高さに
 その耳を据え
 肩の高さにその肩を据えた
 鉄と無花果がしたたる空間で
 林立する空壺の口もとまでが
 彼をかぎっている夜の深さだ
 名づけうる暗黒が彼に
 兵士のように
 すぐれた姿勢をあたえた
 夕暮れから夜明けまで
 皿は適確にくばられて行き
 夜はおもおもしく
 盛られつづける
 酒が盛られるにせよ
 血が盛られるにせよ
 そこで盛られるのは
 彼自身でなければならぬ
 雄牛の背のような
 偉大な静寂のなかで
 彼はうずくまり
 また立ちあがり
 たしかな四隅へ火の釘を打った
 ひとつの釘へは
 笞を懸け
 ひとつの釘へは
 祈りを懸け
 ひとつの釘へは
 みずからを懸け
 ひとつの釘へは
 最後の時刻を懸け
 椅子と食卓があるだけの夜を
 世界が耐えるのにまかせた
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、13~14; 「Gethsemane」; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 何度も覚めてはいるのだが、起床を掴み取ることが出来ず、一二時二五分まで相変わらずの寝坊をした。起き上がって上階に行くと、テレビは『のど自慢』を映しており、父親はソファに座って薄笑みを浮かべながらそれを見ていて、母親は洗濯物を何か処理しているようでベランダにいた。呻き声を上げていると、父親がおはようと言ってくるのでおはようと返し、便所に行った。放尿してきてから台所に入ると、焜炉に置かれた鍋には野菜のスープが拵えられている。また、カレーもあると言うので冷蔵庫からフライパンを取り出した。一杯ずつ温めてと母親が言うので、フライパンを火に掛けるのではなく、大皿によそった米の上に冷たいカレーをよそい掛けて電子レンジに入れた。そのあいだに円筒形の容器に入って冷やされた水をコップとともに卓に持っていき、野菜スープも温めてよそってきて、食事を始めた。カレーは二分半温めただけでは充分に熱を持たなかったので、もう一分加熱時間をプラスしておき、スープを食っていると加熱の終わったカレーを母親がカウンター上に出してくれたので受け取る。そうして水を飲みながらそれを食べるあいだ、新聞を瞥見した。斜め読みしかしていないのだが、細谷雄一が現今の日韓関係に関して、感情的になるのではなく冷徹で現実的な計算を、と呼びかける記事があった。またこちらも斜め読みしかしていないが、キャンプ瑞慶覧の一部が返還される見通しだという報告が二面にあった。真面目に詳細に読む気も起こらず、瞥見程度で済ませて、食事を終えて抗鬱薬を忘れずに服用しておくと、台所に移って母親や父親の使ったものもまとめて皿洗いをした。それから風呂も洗う。洗剤がもうほとんどなくなってしまったが、詰め替えるのが面倒なので横着して、レバーを引きまくって残り少ない洗剤の泡を絞り出すようにしながら浴槽を擦った。
 それから下階に下りて自室に戻ると、Brad Mehldau『Live In Tokyo』の流れるなか、だらだらとした時間を過ごした。日記を書かなければならないのだが、その気力が湧かなかった。それで、鬼気迫るかのようで非常に素晴らしい"From This Moment On"の途中からベッドに移り、読書をしながら身体を休めて気力を養おうとしたのだが、ベッドに就くと目を閉ざしてしまい、音楽に耳が行って一向に書見が始まらなかった。"Alfie"、"Monk's Dream"と聞いて、"Paranoid Android"の序盤まで聞いた記憶はあるのだが、その頃には姿勢が崩れて臥位になっており、事の当然として意識を失ったようである。散発的に目覚めつつ、身体に薄布団を絡めながら五時過ぎまで眠ったあと、五時二二分になるとようやく意識を定かなものにして読書を始めた。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。

 さあ、ピコロ、注意してくれ、耳を澄まし、頭を働かせてくれ、きみに分かってほしいんだ。

  きみたちは自分の生の根源を思え。
  けだもののごとく生きるのではなく、
  徳と知を求めるため、生をうけたのだ。

 私もこれを初めて聞いたような気がした。ラッパの響き、神の声のようだった。一瞬、自分がだれか、どこにいるのか、忘れてしまった。
 ピコロは繰り返してくれるよう言う。ピコロ、きみは何といいやつだ。そうすれば私が喜ぶと気づいたのだ。いや、それだけではないかもしれない。味気ない訳と、おざなりで平凡な解釈にもかかわらず、彼はおそらく言いたいことを汲みとったのだ。自分に関係があることを、苦しむ人間のすべてに関係があることを、特に私たちにはそうなのを、感じとったのだ。肩にスープの横木をのせながら、こうしたことを話しあっている、今の私たち二人に関係があることを。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、145)

 「オデュッセウスの歌」という章からの一節である。レーヴィは仲間の一員とともにスープを運ぶために一キロ離れた配給所まで歩いていく途中だ。そこに着いたら、五十キロの大鍋に角材を二本渡して、協力してかついで道を戻らなければならない。その途中、「ピコロ」の任務――書記を兼ねた使い走りの小僧――を担っているジャンという囚人仲間に、レーヴィはダンテの『神曲』について講釈をする。そのうちのハイライトと目されるのが上の引用の場面だろう。
 「この有名な三行句は、著者と友人のピコロにとって、恐ろしいほど現実的な意味を持った」とレーヴィは註で付記している。ダンテが遥か時空の彼方に書きつけた詩句が、六〇〇年もの時間の厚みを越えて、現代の極限的な状況のなかで痛々しいまでのリアリティを持ってレーヴィたちのもとに迫ってくるさまは感動的である。これらの言葉が記憶の底から思い出され、二人のあいだに共有されたからと言って、別に状況が何か変わるわけではない。事態は何一つ良くなってなどいない。レーヴィたちはいまだ地獄の深淵に囚われたままである。それでも、文学という人類の遺産が、強制収容所という絶望的な環境のなかでも人と人を結びつけることが出来たということ、そのように機能する[﹅4]ことが出来たということ、そしてそれがレーヴィの手によって今に伝えられているという事実には、何かしら人の心を打つものが含まれているように思われる。極端な話、ここでレーヴィは、ほんの一瞬のあいだではあっても、「救われた」のではないだろうか。彼は一瞬間だけではあるが、「自分がだれか、どこにいるのか、忘れて」しまい、収容所のことも忘れ、自分が囚われの身であることも忘れ、忘我の境地に至っている。それは勿論、たった一瞬しか続かないのだが、しかしここにはもしかすると人間の「自由」というものが生じているのかもしれない。強制収容所という凄惨で暴力がすべてを支配する状況のなかで、もし人の精神の「自由」などという高貴な概念が実現されるとしたら、それはこうした本当に短い束の間の形でしかあり得ないのかもしれないが、しかしレーヴィの記述は、それが微かではあっても確かに生じ得るものだという一つの証言を、生き生きと伝えてくれているのではないだろうか。そしてその一瞬の体験は、その後のレーヴィのなかに確固として残り、おそらくは彼が収容所を生き延びていく上での一抹の支えとなっただろう。レーヴィがこの場面を記憶し、のちになって具体的に書き記し、文学作品という形に仕立てて我々に伝えてくれたという事実こそが、それを証明しているように思われるのだ。
 六時ちょうどまで書見を続けてから、上階に上がった。何かやってくれるの、とソファに座っていた母親が言うので、ああ、と肯定する。母親はまた、これ、すごく美味しいと言って、ロシアから買ってきた菓子をこちらに示してみせる。チョコクリームの織り交ぜられた濃い焦茶色のロールケーキである。もっと甘ったるいかと思ったら、思いの外にほろ苦くて美味しいと言う。食べるかと訊くので肯定の返事を送り、母親が一切れ切ってくれたのを口に入れ、食べてから乾燥機のなかの食器を片付けた。それから、茄子と豚肉の炒め物を作ることにした。長茄子の五つ入った袋を冷蔵庫から取り出し、開封してそのうち三つを調理台の上に取り出す。洗い桶には綺麗な水を溜めておいて、茄子を切り分けるとそのなかに放り込んでいく。三本を切り終えたあと、冷蔵庫から今度は豚肉を取り出して、左手で掴み持ち上げて牛乳パックの上に置いた。そうして左手で肉を押さえながら切り分けると、手指に肉の脂と臭いが付着したので、泡石鹸を用いて手を洗っておき、それからフライパンを火に掛けてオリーブオイルを垂らした。続いてチューブのニンニクをほんの少しだけ落とし、それがぱちぱちと音を立てて跳ねるなか、笊に上げておいた茄子を投入した。つまみを横に引き火を最強に設定して加熱していく。茄子でいっぱいに満たされたフライパンからは、油と水分が反発し合って立てる土砂降りの雨のような音が響き、そのなかに時々ぱちぱちと火が燃えるような音が混じる。しばらく熱して茄子が焼けてきた頃、豚肉も投入してしまい、菜箸で搔き混ぜながらちょっと火を加えて、肉の色が大方変わったところで砂糖を振り掛けた。さらに醤油を回し掛け入れて、火をふたたび最強に設定し、液体を絡めながら揮発させる。そうして完成、あとはやってくれと言い残して下階に戻ろうとしたところが、オクラを茹でてくれと注文が入ったので、小鍋に水を汲んで火に掛けた。それで一旦、ゴミ箱を持って――書き忘れたが、上階に上がって来る時に燃えるゴミの箱を持ってきて、中身を上階のゴミと合流させておいた――室に戻り、手帳を持ってきて、それを眺めながら湧いた湯にオクラを投入した。タイマーで三分間を測り、手帳に目を落としながら火を調整して茹で上がるのを待ったが、三分経たないうちに母親がもう良いと言うので鍋を持ち上げて、熱湯とオクラを笊に開けた。それで仕事は終了、自室に戻ってくるとようやく日記を書き出した。BGMとしてはBrad Mehldau『Live In Tokyo』を、"Paranoid Android"からふたたび流しだした。今日の記事を先に認めたのだが、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』についての感想を――あの程度のものなのに――書くのに結構時間が掛かって、現在時刻に追いつけないまま切りがついた頃には、八時直前になっていた。
 食事を取るために部屋を出た。上がっていくと母親は既にものを食べ終わっており、彼女の前には空になった皿が並んでいた。こちらは台所に入って茄子と豚肉の炒め物を皿に取ると、電子レンジに入れた。そのほか米をよそり、オクラと漬け物を合わせて入れた小鉢や、野菜スープの椀も運び、電子レンジのなかの炒め物も持ってきて卓に就いた。炒め物をおかずにして白米を口に入れていく。テレビは『ポツンと一軒家』を流しており、今日の舞台は山梨県の七面山という山の上の宿坊だった。麓から二時間だか三時間だか掛けて山を登っていったその先の、標高一二五〇メートルかそこらの高所に、九四歳になる老婆が娘と一緒に住んでいるのだった。この山の寺の住職だった旦那に嫁いで、その人が亡くなった数十年前からは、坊守の役目を引き継いでこなしてきたとのことだった。半年に一度は病院に行くために山を自ら歩いて下りると言う。この七面山の寺は結構有名な寺院らしくて、年間四万人が峻厳な山を登って訪れると言い、この母娘はそうした参拝客に飲み物を売ったり、その世話をしたりする仕事をしているのだった。
 こういうところにも人の暮らしというものがあるのだなあと結構興味深く感じられて、食事を終えてからもソファに就いて番組を追っていたのだが、参拝客に売る飲み物の類や生活用品などはどのようにして運搬しているのか気になるところである。答えはリフトだった。大きなリフトが麓から通っていて、それに載せて品々の入った段ボール箱が届けられるのだが、このリフトは麓の発着所でしか操作できないため、今は老婆に代わって運搬の任を担っている六八歳の娘さんが、リフトの中継所から無線機で下と連絡を取り合って、うまいタイミングで停止させてもらうのだった。山には霧が掛かっており、リフトが上ってくるさまなど白濁した空気に紛れてとても見えないのだが、何故かこの娘さんは、今もう一〇メートル付近に来ていると思いますなどとその動向をぴたりと言い当て、すると本当にまもなく霧のなかからリフトの影が姿を現して出てくるのだった。リフトから箱を下ろすと、一つ六キロほどあるというそれらの箱をいくつか、背負子を使って背に載せて宿坊まで運んでいかなければならない。合わせて二〇キロかそこらの荷物を負って山道を行く難事だが、娘さんはさしたる困難でもないように、事も無げに重い箱を背負って足取りも滑らかに下りていくのだった。
 番組を見終わったあと食器を洗い、そのまま風呂に入った。窓の外からは虫の音が響いていたが、昨日の深夜に帰ってきた時に聞いた夜蟬の声はそのなかになかった。湯のなかで姿勢を水平に近くして頭を浴槽の縁に預け、身体をぴくりとも動かさずに温かな湯の安楽に静止させながら、プリーモ・レーヴィのことを考えたり、昨晩の後輩らとの飲み会での会話を散漫に思い返したりした。そうして出てくると、背や胸から汗を吹き出させながらパンツ一丁で自室に戻り、エアコンと扇風機を点けてしばらく涼むと、Brad Mehldau『After Bach』とともに日記を記しはじめた。ここまで綴って午後一〇時を越えている。
 引き続き、前日の記事を綴り、一一時を回ったところで疲れたので中断した。書けたのは居酒屋に行く手前の場面、西分の交番前で待ち合わせをしているところまでだった。残りは翌日の自分に任せることにして、その後の時間はBorodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』とともにだらだらと過ごした。そうして一時四〇分になってようやくベッドに移って読書を始めた。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。
 レーヴィは収容所の悪魔的な環境のなかで、ロレンツォという一人の善良な民間人労働者と巡り合う。彼はレーヴィに対して好意を示し、パンの残りを持ってきてくれたり、肌着を提供してくれたりした。そうした善意にロレンツォは何の見返りも求めなかった。

 (……)同じような仲間が何千といた中で、私が試練に耐えられた原因は、その究明に何か意味があるのだとしたら、それはロレンツォのおかげだと言っておこう。今日私が生きているのは、本当にロレンツォのおかげなのだ。物質的な援助だけではない。彼が存在することが、つまり気どらず淡々と好意を示してくれた彼の態度が、外にはまだ正しい世界があり、純粋で、完全で、堕落せず、野獣化せず、憎しみと恐怖に無縁な人や物があることを、いつも思い出させてくれたからだ。それは何か、はっきり定義するのは難しいのだが、いつか善を実現できるのではないか、そのためには生き抜かなければ、という遠い予感のようなものだった。
 この本に登場する人物たちは人間ではない。彼らの人間性は、他人から受け、被った害の下に埋もれている。さもなくば彼ら自身が埋めてしまったのだ。意地悪く愚劣なSSから、カポー、政治犯、刑事犯、大名士、小名士をへて、普通の奴隷の囚人[ヘフトリング]に至るまで、ドイツ人が作り出した狂気の位階に属するものはすべて、逆説的だが、同じ内面破壊を受けているという点で一致していた。
 だがロレンツォは人間だった。彼の人間性には汚れがなく、純粋で、この否認の世界の外に留まっていた。ロレンツォのおかげで、私は自分が人間であるのを忘れなかったのだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、157)

 代償を要求しない善行を実現するのは難しい。外の世界[﹅4]でもそうなのだから、収容所においてはなおさらそうであり、それは途方もなく困難なこととなるに違いない。そこではごく少量のパンを分けるといったような「ささいな」、「つまらない」行為でさえも、ほとんど英雄的な輝きを帯びるように見える。実際、ロレンツォの行動は少なくとも、プリーモ・レーヴィという一人の人間の精神[﹅2]を、その人格を救ったのだ。「ロレンツォのおかげで、私は自分が人間であるのを忘れなかったのだ」。ラーゲルという場所において彼の行いはおそらく、ほとんど「聖なる」という修飾語を付して語られるに相応しいものだろう。
 「この本に登場する人物たちは人間ではない」という文章に註を付して、レーヴィは、「ラーゲルは否定の世界で、人間性を、つまり人間の尊厳を抹殺する。それは犠牲者だけでなく、抑圧者の側でも同じだ」と言っている。それは確実なことだろう。そして、被害者だけではなく加害者の側もまた、内面を破壊され、人間性を損なわれているのだというレーヴィの指摘は啓発的である。しかしそれにしては、レーヴィがほかの囚人たちを描くその記述は、非常に具体的で生き生きとしており、実に人間的[﹅3]なのだ。例えば、エリアス・リンジンという囚人の個性的な[﹅4]描写を見てみよう。

 エリアスの働きぶりを見ると、めんくらってしまう。ポーランド人やドイツ人の監督[マイスター]たちも時々立ち止まって、エリアスの働きぶりを感心しながら眺めている。彼には不可能なことは何一つないように見える。私たちだったらセメント一袋がやっとなのに、エリアスは二つ、三つ、四つと持ち、どうするのか、うまくバランスをとって、ずんぐりした短い足でとことこと歩き、重さに顔をしかめながらも、笑い、ののしり、叫び、息もつかずに歌う。まるで青銅の肺を持っているようだ。また木底の靴をはいているのに、猿のように足場によじ登って、空中に突き出た横板の上をあぶなげなく走る。煉瓦は六つ、頭にのせて、うまく均衡を保って運ぶ。鉄板のきれはしでスプーンを、鋼鉄のくずでナイフを作れる。どんなところでも乾いた紙や木が石炭を見つけ出し、雨が降っていてもすぐに火がつけられる。仕立て屋、大工、靴直し、床屋の職をはたせる。信じられないほど遠くまで唾を飛ばせる。なかなか良いバスの声で、聞いたこともない、ポーランド語やイディッシュ語の歌を歌う。六リットル、八リットル、いや十リットルのスープを飲んでも、吐いたり、下痢したりせずに、すぐに仕事に取りかかれる。肩甲骨の間に大きなこぶを出し、体を曲げて猿のまねをし、訳の分からないことをわめき散らしながらバラック中を回って、収容所の権力者たちを楽しませる。私は彼が頭一つ背の高いポーランド人と喧嘩したのを見たことがある。頭突きを胃に見舞って、一撃で倒してしまったのだ。力強く、正確で、カタパルトから発射されたかのようだった。彼が休んだり、じっと静かにしているのは見たことがない。病気になったり、怪我したりしたのも知らない。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、120~121)

 このエリアスという囚人の動くさまは、ほとんどガルシア=マルケスの小説にでも出てきそうな出鱈目な躍動感を湛えている。彼は収容所という地獄の環境には似つかわしくないくらい、逞しい生命力に溢れた存在なのだ。もう一人、「溺れるものと救われるもの」と題された同じ章で言及されている、アンリという男に関する文章を引いてみよう。

 イギリス人から来る物品の取り引きはアンリの独占だ。ここまでは組織を作ることだ。だが彼がイギリス人に食いこむ手段は同情なのだ。アンリの体つきや顔だちは繊細で、ソドマの描いた聖セバスティアヌスのように、かすかに倒錯的なところがある。瞳は黒くうるみ、まだひげはなく、動作には生来のしどけない優雅さがある(それでも必要な時には猫のように駆け、跳ぶことができる。彼の胃の消化力はエリアスにわずかに及ばないほどのものだ)。こうした自然のたまものをアンリは十分にこころえていて、実験装置を操る科学者のように、冷たい手つきで利用する。その結果たるや驚くべきものだ。実質的には一つの発見だ。同情とは反省を経ない本能的な感情だから、うまく吹きこめば、私たちに命令を下す野獣たちの未開な心にも根づく、ということをアンリは発見した。何の理由もないのに私たちを遠慮会釈なく殴り、倒れたら踏みつけるようなあの連中の心にも根づくのだ。彼はこの発見が実際にもたらす大きな利益を見逃さずに、その上に個人的産業を築き上げた。
 (125)

 ここで取り上げられている囚人たちは、収容所を生き延びた選ばれた者たち、「救われるもの」の側に属することが出来た人間たちだ。その事実は、彼らが最良の存在だったということをいささかも証明しない。彼らは適応した者たちである。そして、最良の者たちは適応できず、死に追いやられていったのだ。後年、まさしく上の引用を含む章と同じ表題を持つ著作のなかで、レーヴィはその点を明確に断言している。「最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった」(プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、91~92)。
 そのなかでもエリアスは「最も適応した人間」だった。彼やアンリといった男たちは、外の世界[﹅4]においてははみ出しものとなるべき個性を持っている。「もしエリアスが自由を得たら、牢獄か、精神病院か、いずれにせよ人間社会の外縁に押しこまれることだろう」とレーヴィも認めている。しかし、彼らが褒められるべき人間ではないということを認めた上で、こういう言葉を使って良いものか自信がないのだが、レーヴィが描く彼らの肖像は実に魅力的[﹅3]なものだと言いたくなる。端的に言って、レーヴィの文章は、強制収容所というこの上なく非人間的な状況を描いていながらも、同時に、ここにも確かに人間がいるのだ[﹅14]、という実感を与えるものとなっているのだ。それを文学による人間性の救出、と大仰に言い表しても良いのだとしたら、レーヴィの作品は一つの「救済の文学」として成立しているものなのかもしれない。
 それを可能にしたのは、レーヴィが個人的に持っていたある一つの性質である。「偶然が自分の前に運んで来た人間たちに、決して無関心な態度を取らないという習慣」(『溺れるものと救われるもの』、162)を彼は備えており、そうした好奇心は彼の生の一部を確かに「生き生きとさせるのに貢献していた」(163)と言う。「アウシュヴィッツが私の前に広げてみせた見本帳は、豊かで、多彩で、奇妙であった」。彼は殺伐とした地獄の底の不毛な領域に落とされても、人間存在に対する関心を失わなかったのだ。「ラーゲルは大学であった。それは私たちに、周囲を眺め、人間を評価することを教えてくれた」とさえ彼は言う。
 そうしたレーヴィの人間に対する健康な[﹅3]、生命的な[﹅4]関心の結実を、今我々は読んでいる。彼の文章は常に具体的で、通り一遍でないとともに文脈にぴたりと合った比喩で装飾され、新たな視点を教えてくれるような知見や洞察を含み、堅実な緊密さに溢れている。またもこういう言葉を使っても良いものかわからないのだが、『これが人間か』は一篇のテクストとして、単純に、「面白い」のだ。それは、強制収容所という、我々がいつまでも語り伝えていくべき極限的に凄惨な環境を証言する一つの記録でありながら、同時に確かに、文章というものの力に満ち満ちた魅力的な文学作品でもある。逆説的なことだが、おそらくその「面白さ」は、我々がラーゲルを記憶し続けることの助けとなるだろう。レーヴィの筆致に、恨みや憎しみや告発といった後ろ向きの、どろどろとした感情がまったく感じられないのも特筆するべき点である。彼の文章は、地獄の底を目撃してきた者のそれとしては、ほとんど奇跡的と言いたいような明澄さを湛えているように思われる。
 三時五分まで読書を進めたあと、就床した。


・作文
 18:44 - 19:57 = 1時間13分
 21:39 - 23:04 = 1時間25分
 計: 2時間38分

・読書
 17:22 - 18:00 = 38分
 25:39 - 27:05 = 1時間26分
 計: 2時間4分

・睡眠
 4:00 - 12:25 = 8時間25分

・音楽

  • Brad Mehldau『Live In Tokyo』
  • Brad Mehldau『After Bach』
  • Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』