2019/8/21, Wed.

 右手をまわしても
 左手をまわしても
 とどかぬ背後の一点に
 よるひるの見さかい知らぬげに
 あかあかもえつづける
 カンテラのような
 きみをふりむくことももう
 できないのか
 ふりむくことはできないのか
 なんという
 愚鈍な時刻のめぐりあわせが
 ここまでおれを
 せり出したのだ
 風は蜜蜂をまじえて
 かわいた手のひらをわたり
 五月は おれを除いた
 どこの地上をおとずれるというのだ
 ああ 騎士は五月に
 帰るというのか
 墓は五月に
 燃えるというのか
 耐えきれぬ心のどこで
 華麗な食卓が割れるというのか
 皿よ 耐えるな
 あざやかに地におちて
 みじんとなれ青い安全灯
 ああ 五月
 猫背の神様に背をたたかれて
 朝はやくとおくへ行く
 おれの旗手よ
 (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年、27~28; 「五月のわかれ 死んだ男に」全篇; 『サンチョ・パンサの帰郷』)


 一時半まで怠惰な寝坊。身体が重かった。床に留まりすぎてかえって疲れたような感じがあった。上階へ行ってもすぐに食事の用意に取り掛かれず、ソファに就いてテレビを見ている母親の横に座ってしばらく休んだ。食事は煮込み蕎麦とピザだと言う。ちょっとしてから立ち上がり、台所に入って蕎麦の入った鍋を火に掛け、アルミホイルに乗った二切れのピザはオーブン・トースターに入れて加熱した。先に蕎麦を丼に注ぎ込んで、卓に行って食っていると、ピザを早く出さないと焦げちゃうんじゃない、と母親が注意を促してきたので、それでふたたび台所に行き、オーブン・トースターを開けた。ピザはちょうど良く、こんがりと焼けていた。それを卓に持ってきて食し、蕎麦の汁も最後まで飲んでしまうと、抗鬱薬を服用し、食器を洗った。そうして風呂場に行ったが、残り湯が多かったので今日は風呂を洗わないことにして、洗面所を出るとその旨母親に告げた。彼女は録画したものだろうベビー・シッターのテレビドラマを見ていた。隣に座ってこちらもちょっとだけそれを見たあと、適当なところで下階に下りた。
 コンピューターを点けてTwitterを眺めたり、Evernoteをひらいて記事を作成したりしたものの、日記に取り掛かる気力が湧かなかった。絶望的にやる気がなかった。長くだらだらと寝床に留まり続けたために、肉体の重さや気怠さを引きずっているようだった。それで身体が気力が湧いてくるまでベッドに寝ながら本を読むことにした。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。それで三時間、五時四五分までごろごろしながら書見したのだが、そのあいだ半分くらいは本を置いて目を閉じていたと思う。途中、四時半に、携帯電話が震えた。振動が三回で止まらないので電話だとわかり、とするとNだなと推測した。重い身体を落として携帯を取ってみると果たしてそうだったので、着信を受けた。前日、今日が急遽休みになったのでその旨送っておいたのだったが、そのメールは先ほど見たところだと言う。昨日のうちに気づいていれば今日会えたのだが、と彼は悔やんでいた。ロシアへ行ってきたんだってと言うので、充実した一週間だったと答え、お前も沖縄へ行ったって、と訊いた。二泊三日で恋人と行ってきたと言う。前回こちらに会った日には、その恋人とは違う女性を夜連れ込むとか話していたのだったが、それ以来はもうほかの女性と遊ぶ不義理は働いていないと彼は笑った。
 電話を終えるとまたベッドに寝転がって書見を続け、六時を過ぎたあたりで上階に行った。食事の支度をしなければと思ったのだったが、既に母親がすべて終わらせてしまっていた。それでソファに就いている彼女の横にまた座り、夕方の情報番組を眺めた。初島という、首都圏から最も近いという離島の見所を紹介していた。それからしばらくするとまた自室に帰った。日記を書かなければならないのだったが、驚くほどにやる気が出ず、未だにコンピューターの前に就いて長時間文字を打ち込むための気力が身に宿っていなかった。まだ肉体が重さを引きずっていたのだ。それでまたなすすべもなくベッドに寝転んだのだったが、そのまま何もしないのではなくてせめて本は読もうというわけで、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を取り上げた。そうしてふたたび読書を始めたのだったが、結局また三〇分ほどは意識を失っていたと思う。八時直前に書見を止めてからも、だらだらと寝床に転がり続け、扇風機を風を浴びながら何をするでもなく休み、八時半を過ぎてからようやく起き上がり、上階に行った。その頃には母親は既に風呂を済ませて寝間着を纏い、頭にタオルを巻きながら卓に就いてタブレットを弄っており、帰宅した父親が風呂からまもなく出るところだった。こちらは台所に入って、鰆か何かの煮魚を皿に取って電子レンジへ、それから豚汁を椀によそり、こちらも電子レンジに入れると、そのほかポテトサラダを小皿に盛った。そうこうしているあいだに父親がパンツ一丁で洗面所から出てきたので、お帰りと告げた。そうして白米とともに料理を卓に運び、ものを食べはじめた。母親は、魚がパサパサしてあまり美味しくなかったという言葉を残して下階に下っていった。煮魚を千切りながら米と一緒に咀嚼したが、確かに彼女の言う通りあまりぱっとしない、漫然としたような味だった。しかし、大根などの野菜が色々と入って味噌の色の濃い豚汁の方はなかなか美味かった。それでものを食べ終えたあと、おかわりをすることにした。食器を台所に運び、椀にもう一杯豚汁をよそって電子レンジで温めているあいだにほかの皿――母親が放置していったものも含む――は洗ってしまった。温まったものをレンジから出して運びながら、父親に、豚汁は食わないのかと尋ねると、一杯だけよそっておいてくれとの返答があったので、そのようにしてこちらも電子レンジで温めてから父親のもとに持っていった。それで豚汁の鍋は冷蔵庫のなかに入れておいた。そうして椅子に座り、豚汁をもう一杯食すと、抗鬱薬を服用して、椀と箸を洗い、二切れほどフライパンに残っていた魚を小皿に取り分けて、ラップを掛けて冷蔵庫のなかに入れておいた。
 時刻は既に九時過ぎ、夜のニュースが始まって、日韓関係の悪化によって韓国人観光客が激減しているという状況が伝えられていた。それをちょっと眺めてからこちらは入浴に行った。くるり "ワンダーフォーゲル" を軽く口ずさんだりしながら湯に浸かって、出てくるとパンツ一丁で下階に戻り、カボスのジュースを飲んでからようやく、まったくようやくのことだが日記に取り組みはじめた。先にこの日の記事をここまで綴って一〇時半前、音楽はFISHMANS『空中キャンプ』を久しぶりに流した。これから前日の記事を書かねばならないが、これも前日中はあまり書けていなかったので綴ることが多いし、引き換え記憶は薄れつつあるので面倒臭い。
 一一時まで書けて前日の記事を綴った。最後の方はもう面倒臭くなったので適当に省略してしまった。それから一時間ほどインターネットを閲覧してだらだらしたあと、手帳にメモを取りはじめた。ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』と、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』である。その後、一時過ぎから栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』を読み出し、二時半前まで読んで就床した。読書中は手帳ではなくてやや大きめの読書ノートに気になった部分を引いたり、思ったことを書きつけたりしながら読んだ。手帳と読書ノートの関係、それぞれの使い方のシステムとして未だ確かなものを決定的に確立出来ていないのだが、書見中は読書ノートの方に引用や思いつきや調査事項など、すべて情報を集約して記すようにして、手帳にはそのなかから繰り返し読み返したい情報のみを厳選してのちに写す、といった方式が良いかもしれない。

 ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』。収容所で逃亡者が出ると、「隊員たちは、しばしば、一六時間から二〇時間も、立ちつくしていなければならなかった」(199)と言う。そのあいだは抑留者たちもずっと立ちっぱなしでいなければならない。プリーモ・レーヴィも、脱走者が発覚した場合の点呼の苦しみについては、『溺れるものと救われるもの』のなかで報告している。それは通常時でも最低一時間は掛かり、場合によっては二時間も三時間も続く酷薄なもので、さらに「脱走の疑いがあった場合は、二十四時間以上も続いた」(131)と言う。寒さの厳しい時期には、それは「労働以上にひどい拷問」となった。こうした長時間の点呼による肉体的・精神的苦痛は、「優越する人種が劣等人種を従属させるか、抹殺するという、推定された権利の展開であった」(132)とレーヴィは解釈している。
 ナチ・イデオロギーへの堅固な忠誠心を誇るヘスでも、心中、己の任務に対して疑念を抱く瞬間がなかったわけではない。「いったい、われわれは、こんなことをする必要があるのだろうか。何十万という女子供が虐殺されねばならぬ必要があるのだろうか」(307)という疑問を、ヘスは「心の奥底で数知れぬほど」抱いた、と言う。また、戦争の帰趨に関しても、自分たちは結局のところ勝利出来ないのではないかという正当な疑いを彼は抱いていた。
 しかし、そうした疑念は自分には許されなかった[﹅7]のだとヘスは反論する。「許される」という言葉を執拗なほどに繰り返し用いているのが肝要な点だろう。「ユダヤ人大量虐殺が必要であったか否か、それについて、私はいかなる判断も許されなかった[﹅7]」(290)。虐殺の必要性に関する疑念も、彼には「告白することを許されなかった[﹅7]」(307)。そして、「最後の勝利を疑うことは、私には許されていなかった[﹅9]」(342)。ヘスは、上層部から仮借なく下されてくる命令の正当性を、何百万人ものユダヤ人虐殺の正しさを、そして戦争の最終的な勝利を、「信じねばならなかった」。たとえ「健全な理性」がそれとは反対のことを明白に告げていたとしても、である。ここでヘスは、自分の「信念」が理性的・合理的な判断とは真っ向から逆行していたことを自らはっきりと認めている。ヘスにとって総統の指示を疑うことは、自らの理性に照らし合わせて正しいかどうかではなく、彼の忠実さや義務感から見て許されるか許されないかの問題なのだ。そこにおいて批評精神を伴う「健全な理性」は完全に放棄され、彼の総統への、そしてナチ・イデオロギーに対する忠誠心は宗教的な色合いを帯び、教祖の言うことを粛々と遵守する狂信者のそれに接近する。虐殺の命令を拒否し得たのではないか、という弾劾に対するヘスの反論の言葉からもそのことが証されるだろう。「総統の名における、彼[ヒムラー]の原則的命令は、聖なるものだったのだ。それにたいしては、いかなる考慮、いかなる説明、いかなる解釈の余地もなかった」。ヘスの態度が、聖典の言葉に一切の「解釈」を加えず、一字一句を文字通りにそのまま受け取ろうとする宗教的原理主義者のそれとほとんど同じであることが見て取られるだろう。彼のなかには宗教的な心性が確固として存在しているのだ。従って、「エホバの御下」に参ることが出来るとして、熱狂的な態度で死刑を肯定する聖書研究会員の死に様に、ヘスが強い印象を受けているのも頷けるところだ。「まったく晴ればれとした表情で、目は天を仰ぎ、手は祈りのために組んで、おごそかに彼らは死んでいった。この死のさまを見た者はすべて感動し、処刑を指揮した者たちでさえも、はげしく心をうたれた」(180)と彼は回想している。ヒムラーやアイケは、聖書研究会員のこうした死をも恐れぬ信仰の不動性を取り上げ、アドルフ・ヒトラーへの忠誠を誓うSS隊員も積極的に見習うべきものだとたびたび称賛した、と言う(184)。自らの心が総統とその理想に捧げられていたことを淡々と、しかしおそらくその底では熱を込めて断言するヘスの陳述からすると、彼は、ヒムラーたちが求めた意味での忠実なSS隊員のほとんど理想的な「成功例」だったと言えるのではないだろうか。
 ユダヤ人大量虐殺の正当性を心の内では疑ったというヘスだが、この手記のなかでは、「現在、私は、ユダヤ人虐殺は誤り、全くの誤りだったと考える」(368)と断言している。アウシュヴィッツ収容所の元責任者が、人類史上最大級の悪魔的な犯罪が「誤り」だったと明確に認めているのは一つの大きな事柄ではあるだろう。しかし、それは道徳的な観点からの「反省」の言では決してないのだ。ヘスが上記の判断を下すに当たっての根拠となる部分を見てみると、そのことははっきりする。「それは、反ユダヤ主義に何の利益にもならぬどころか、逆に、ユダヤ人はそれで彼らの終極目標により近づくことになってしまった」(369)と彼は嘆くのだ。ここにあるのは、イデオロギー的「利益」の観点からの冷徹で戦略的な判断に過ぎず、ヘスにとって虐殺は人の道を外れた「過ち」だったのではなくて、単なる正誤の問題として見た時の「誤り」でしかなかったのだ。自らの責任を誠実に認め、悔悟し、謝罪する言葉はそこにはない。


・作文
 21:41 - 23:00 = 1時間19分

・読書
 14:45 - 17:45 = (1時間30分引いて)1時間30分
 18:51 - 19:58 = (30分引いて)37分
 24:14 - 24:57 = 43分
 25:03 - 26:24 = 1時間21分
 計: 4時間11分

・睡眠
 5:05 - 13:30 = 8時間25分

・音楽

  • FISHMANS『空中キャンプ』
  • FLY『Year Of The Snake』