2019/9/8, Sun.

 なぜ「姿勢」や「位置」をはじめとする言葉が石原の作品においてそのような自己主張を果たすことができたのか。それは、それらの言葉が、そしてそれらの言葉のみが、石原という詩人の体験を忠実に記憶している主体にほかならなかったからだ、と考えることができる。そして、シベリアから帰国した直後の石原がなによりも詩作に没頭しえたのは、当時の石原にとって詩という表現のみがこの記憶としての言葉を解放しうる実践形式であったからだと見なすことができる。いわば言葉がその記憶を自律的・実践的に保持しているあいだ、石原自らはその記憶から理論的に守られていることができたのである。「条件」「納得」「事実」といったそっけないタイトルを付された石原の代表作は、このような記憶としての言葉[﹅8]の、ほとんど無意識的(非意図的)な内在的展開――もっと言えばアレゴリー的展開――にほかならなかったのであって、他のどこにもましてそこにこそ、シベリアの記憶は唯一無二の形で保存されていたのである。
 以下では石原の詩を読み解く際に、漢字・漢語の内在的アレゴリー的展開という受けとめかたを、私は何度も繰り返すことになる。その際の「アレゴリー」の意味は通常とは異なるので、簡単にここで解説しておく必要があるだろう。
 通常アレゴリーは概念を具象的に描いたものを意味している。たとえば、騎士の姿が「徳」のアレゴリー(寓意)であったり、乙女の姿が「清純」のアレゴリーであったりする。それにたいして、一七世紀のバロック悲劇を読み解くなかで、アレゴリーにそれとは異なった意味の次元を開いてみせたのが、ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンだった。ベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』のなかで、君臨する王様のシンボルとしての正午の太陽が日没へと向かうことによってその王様の没落のアレゴリー[﹅8]となるような事態を捉えた。それは通常、私たちがメタファーという言葉で理解したり、もっと日常的な用語では「連想」という言葉で理解したりしている内容に近い。重要なのは、その意味のめざしている方向が、こちらのコントロールの範囲を超えていて、むしろイメージが、言葉が、一種自律的に展開してゆく、ということである。
 平たく言うと、「位置」「条件」「納得」「事実」など、石原の詩の代表作は漢字・漢語から生じる連想によって綴られている、というのが私の理解である。そこにあえてベンヤミンの用いている意味での「アレゴリー」という言葉を組み込んでいるのは、その連想から生じるさらなる言葉やイメージを一種の謎として追いかけてゆく感覚を込めたいからである。(……)
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、36~38)


 一〇時三五分起床。例によって暑く、汗を搔いていたので一〇時頃扇風機を点けて、風を浴びながら段々と覚醒を確かなものにしていった。起き上がるとコンピューターに寄ってTwitterSkypeを確認し、それから上階へ。台所で換気扇のカバーを洗っている母親に挨拶。洗面所で顔を洗い、台所に出ると冷蔵庫からガーリック・ライスと前夜の汁物を取り出し、それぞれ加熱する。そうして卓へ。新聞を瞥見しながらものを食べると抗鬱薬を飲み、食器を洗ってから焼きそばを作りはじめた。資源回収に出張っている父親がそろそろ帰ってくるだろうから昼食に作ってくれとの要望があったのだ。キャベツや玉ねぎ、ピーマンに人参を切り分け、フライパンで炒めはじめる。しばらくすると麺も投入し、水を掛けながら加熱して、最後にソースを入れて完成させると、先ほどものを食べたばかりだが、追加で自ら作った焼きそばも食べることにした。それで皿によそり、さらに先ほどは知らなかったがサラダがあると言うので、ハムと生の胡瓜にトマトを合わせたそれも持って卓に就き、ふたたび食事を取った。食べ終えると食器をまた洗い、それから風呂も洗って、そうして下階へ、正午過ぎから日記を書きはじめた。九月二日の分である。『Art Pepper Meets The Rhythm Section』とともに一時間ほど綴ってようやく完成させるとインターネット上に投稿し、それからこの日の記事もここまで短く適当に書いて、一時半である。あとは九月三日の分を仕上げれば、残りの数日分は大体もう記してあるのでどうにかなるだろう。しかし身体が疲れた。こごっている。
 一時四三分まで日記を記したあと、読書をしようということでベッドに移り、牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』を読みはじめたのだが、いつものことでいくらもしないうちに意識が弱くなった。結果、四時前まで二時間ほど惰眠を貪ることになった。覚醒するとふたたび読書に取り掛かりはじめ、一時間ほど読んだあと、五時を目前にして上階に行った。唐揚げを作ろうと母親は言った。それで台所に入って手を洗い、二つの大きな鶏胸肉をパックから取り出して細かく切り分けていき、ボウルに入れた。全部切ってしまうとボウルに入った鶏肉に竜田揚げの粉を振り掛けて、箸を使って搔き混ぜた。そうしてフライパンに油を注いで火に掛け、しばらく待ってから菜箸を油のなかに入れてみると、泡が弾けたのでそろそろ良かろうと判断し、肉の一片を投入した。それからいくつか揚げて行ったが、母親が揚げられたものを見てもう少し揚げた方が良いんじゃないのと言い、実際一つを取って二つに切ってみても、なかに赤味がまだ残っていたので、もう少し時間を掛けて揚げないと駄目なのだなと判断した。それで結構時間が掛かりそうで、肉が揚がるのを待っているあいだも手持ち無沙汰だったので、自室から手帳を持ってきてそれを読みながら作業を続けた。こちらがフライパンの前に待機しているあいだ、母親は横の調理台で厚揚げを用意したり、多分サラダを作ったりしていたかと思う。すべて揚げ終わる頃にはちょうど六時頃になっており、居間に出ると母親が見ていた『笑点』が終わるところだった。こちらは下階に下りて、九月三日の日記を書きはじめ、一時間余り打鍵して七時を四分の一超えると食事を取りに行った。
 食事は唐揚げをおかずにして米を食べた。テレビは最初、ニュースを映しており、翌日関東に上陸するらしい台風について盛んに伝えていたが、そのうちに七時半に至って『ダーウィンが来た!』が始まった。今回取り上げられていたのは、何とかいう緑色のインコが東京の都心部で大量発生しているという話題だった。それに目を向けながらものを食べ、食器を洗うとすぐに風呂に行ったのだったと思う。入浴中の記憶は特別に残っていない。出てくるとパンツ一丁で下階に戻り、自室に入ると扇風機とエアコンを点けて室内を冷やし、汗を止めようと試みた。八時一七分から読書をしたと日課の記録に記されているのだが、この時は多分、(……)さんのブログを読んだのだったと思う。そうしてその後、日記を綴りはじめ、一〇時四〇分まで掛かってようやく九月三日や四日の記事を仕上げることが出来、これで概ね溜まっていた負債を返済することが出来た。しかしやはり時日が経つと会話のなかの細かなやりとりなど忘れてしまうものだ。九月三日、四日の記事は本当はもう少し詳しく書けたように思うのだが、その日のうちかせいぜい翌日くらいまでに書かなければどうしても記憶は失われてしまう。ともあれ一応完成はしたので安堵し、たくさん文を綴って疲労もしたのでこの日の日記の続きを記すのは翌日の自分に任せることにして、九月三日から七日までの日記を一つずつ、ブログに投稿し、さらにTwitterにもそのたび通知を流し、最後にnoteにも発表した。投稿する際には人名などを検閲してイニシャルに変えるので、それだけで結構な時間が掛かった。その後、一一時四〇分過ぎからまた読書時間が記録されているが、これはプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の書抜きをしたのだろう。それが終わると零時も過ぎており、浅田彰田中康夫の対談、「憂国呆談 season 2 volume 111」(https://sotokoto-online.jp/460)を読み、さらに木村草太「【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――「多矛盾系」としての集団的自衛権」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2014102200009.html)も読んであっという間に一時二〇分を迎えた。そうしてコンピューターをシャットダウンし、ベッドに移って牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』に取り掛かったが、多分二時に達した頃にはまた意識を曖昧にしていたのではないか。三時一〇分頃になって就床した。


・作文
 12:07 - 13:01 = 54分
 13:21 - 13:43 = 22分
 18:09 - 19:15 = 1時間6分
 20:46 - 22:42 = 1時間56分
 計: 4時間18分

・読書
 15:55 - 16:50 = 55分
 20:17 - 20:33 = 16分
 23:42 - 24:12 = 30分
 24:14 - 25:20 = 1時間6分
 25:24 - 27:08 = 1時間44分
 計: 4時間31分

・睡眠
 3:00 - 10:35 = 7時間35分

・音楽