2019/9/23, Mon.

 ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死[﹅8]がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、3; 「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」)

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 栄養が失調して行く過程は、フランクルが指摘するとおり、栄養の絶対的な欠乏のもとで、文字どおり生命が自己の蛋白質を、さいげんもなく食いつぶして行く過程である。それが食いつくされたとき、彼は生きることをやめる。それは、単純に生きることをやめるのであって、死ぬというようなものではない。ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった。すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感は、その後ながく私の記憶にのこった。はかないというようなものではなかった。
 「これはもう、一人の人間の死ではない。」 私は、直感的にそう思った。
 (6~7; 「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」)

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 「これはもう、一人の人間の死ではない」と私が考えたとき、私にとっては、いつかは私が死ぬということだけがかろうじて確実なことであり、そのような認識によってしか、自分が生きていることの実感をとりもどすことができない状態にあったが、私の目の前で起った不確かな出来事は、私自身のこのひそかな反証を苦もなくおしつぶしてしまった。
 しかし、その衝撃にひきつづいてやって来た反省は、さらに悪いものであった。それは、自分自身の死の確かさによってしか確かめえないほどの、生の実感というものが、一体私にあっただろうかという疑問である。こういう動揺がはじまるときが、その人間にとって実質的な死のはじまりであることに、のちになって私は気づいた。この問いが、避けることのできないものであるならば、生への反省がはじまるやいなや、私たちの死は、実質的にはじまっているのかも知れないのだ。
 人間はある時刻を境に、生と死の間[あわい]を断ちおとされるのではなく、不断に生と死の領域のあいまいな入れかわりのなかにいる、というそのときの認識には、およそ一片の救いもなかったが、承認させられたという事実だけは、どうしようもないものとして私のなかに残った。
 (8; 「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」)


 例によって一一時四〇分まで寝坊に耽る。上階へ行くと台所に入っている母親が焼きそばを作ってくれと言うので了承し、洗面所に入って顔と手を洗った。それから台所の調理台の前で、古くなって表面が少々黒ずんだ人参の皮を剝き、千切りにすると続いて玉ねぎと白菜を切った。フライパンに油を引いてそれらを炒めはじめ、肉は電子レンジのなかで解凍された小片を投入し、野菜に火が通ると麺を三袋分加え、水を掛けて木べらでほぐし搔き混ぜる。麺がほぐれて柔らかくなると、粉末状のソースをこれも三袋分振り掛けて、全体に混ぜると完成、大皿に盛って卓に運んだ。そのほか、父親が前日の飲み会で同級生に貰ってきたと言う竹筒入りの高級な豆腐を母親が小鉢にそれぞれ取り分けてくれた。卓に就いてものを食っていると、ニュースは並び立つ屋根のことごとくにブルーシートの掛けられた千葉の漁村の風景を映す。台風の接近によって折角取りつけたシートが剝がれたり、風に舞って用をなさなかったりしているとのことだった。食事を終えると抗鬱薬を飲んで食器を洗い、さらに風呂も洗ってから下階に下りた。コンピューターを点けてTwitterにログインするとHさんからメッセージが届いており、二七日の件だがアルバイトの欠員により出勤しなくてはならなくなったとのことだったので、また連絡を下さいと返信しておき、LINEにもログインしてみるとUくんからもメッセージが届いており、「めちゃ最高」なお勧めのミックスをアップロードしたファイル転送システムへのURLが貼られていた。それを早速ダウンロードして流してみると、「めちゃ最高」と言うだけあって非常に御機嫌な音源だった。16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』というものである。それで早速、気持ちが良いですねと返信を送っておき、ついでに二七日金曜日夜の予定を訊いてみたのだが、やはり予定が空いていないとのことだった。続けてHMさんにもメッセージを送って訊いてみたところ、彼も予想通り仕事、最後にT田にも伺いを立ててみたが、彼も二七日は多分まだ大阪にいるのではないかという気がする。予約のキャンセルは勿論出来ると思うが、御年八六だかになるオマさんの姿と演奏はやはり見たいものなので、共連れの相手がつかまらなくとも一人で観に行こうかと今のところは思っている。二五日昼の大西順子も、間に合う時間に起きられれば一人で行くのも良かろう。
 そうして一二時四〇分から英語を読みはじめた。前日にも読んだCornel West and George Yancy, "Power Is Everywhere, but Love Is Supreme"(https://www.nytimes.com/2019/05/29/opinion/cornel-west-power-love.html)の続きである。これを読み終わると二〇分ほどが経っていて、英語のリーディングは一日三〇分が目安なのであと一〇分何かを読もうということで、GuardianのThe Long Readコラムの記事をいくらか探ったあと、"The Guardian view on Japan and South Korea: neither side will win"(https://www.theguardian.com/commentisfree/2019/sep/19/the-guardian-view-on-japan-and-south-korea-neither-side-will-win)を読んだ。The Long Readの記事たちも非常に充実していて興味深そうなものが多いが、"The Long Read"という表題の通り何しろ長い。今の自分の英語力ではなかなか太刀打ちできないように思われるので、今のところはひとまずNew York TimesのThe Stoneを中心として英語に触れる時間をなるべく毎日取ることが目標である。
 それで一時半まで英文を読んだあと、図書館に出かけることにして服を着替えた。外は基本的には曇りのようだが雲はさほど厚くなく、時折り薄陽も見えて明るめの中性的な天気である。空気も結構蒸し暑いようだったので、赤褐色を基調とした幾何学模様のTシャツ一枚を身につけ、下はオレンジ色のズボンを履いた。それで本やコンピューターをリュックサックにまとめて上階に行き、ソファに就いてタブレットか何か弄っている母親に図書館に行くと告げ、仏間に入ってカバー・ソックスを履いたあと居間の引出しからハンカチを取って、行ってくると残して出発した。父親もどこかに出掛けたようで車はなかった。
 道を歩いていると背後から車の走行音が近づいてきたので、脇に避けて停まり、軽自動車が追い抜いて行くのを見送る。どこかで見たことのある車だなと思っていたところ、少し先の地点でウィンカーを出して曲がるのが見えたので、ああ、Nさんの車かと思い当たった。もう八〇何歳かになっているはずだが、まだ車に乗っており、しかもその運転ぶりも先の様子を見ると結構スピードを出していたものだから、大丈夫だろうかと心配される。宅の前まで来るとちょうどNさんが車から降りてきたところで、こちらの姿を認めて会釈をしてきたので、こちらも礼を返した。そうして坂に入り、昨晩の雨の痕が路面に残って落ち葉は道の端でくすんだ色に沈んでいるなかを上がっていく。木の葉の天蓋が途切れると、足もとから斜めにこちらの影が路上に浮かぶこともあり、上りきって坂を抜け街道に突き当たっても淡く白っぽい光がアスファルトの上に敷かれていた。駅に入り、ホームに下り立つと自販機に寄って二八〇ミリリットルのコーラをSUICAで買い、ベンチに就いた。電車は二時一四分、この時は一時五〇分かそこらでまだまだ余裕があったので、手帳を取り出して読みながら時間を潰す。低気圧の近づいている証か、風が良く流れるが、汗もまた湧いており、首筋をハンカチで拭う。
 小泉純一郎政権期の出来事などを復習しているうちに、しばらく経つと電車到着のアナウンスが入ったので立ち上がってホームの先に行った。先頭車両に乗り込み、手帳を見ながら到着を待つ。青梅に着くと乗換え、ホームに降り立ち向かいの番線に移って先の方へと歩いていく。今日は一号車でも二号車の三人掛けでもなく、三号車の適当なところに座った。リュックサックを背から下ろさず前屈みに腰掛けて手帳に目を落とし、河辺まで待つ。河辺に着いて降りるとホームからエスカレーターを昇って改札を抜け、駅舎を出る。高架歩廊を渡っていると、山帰りらしき格好をした男性らが、こんな駅前に温泉があるんだねえ、などと呟いていた。図書館のビルの上層階に入っている「梅の湯」のことだが、こちらは行ったことがない。図書館に入るとカウンターに行き、五冊を取り出して、そのうち三冊はもう一度借りたいと申し出て、一度返却手続きをしてもらって再度受け取り、礼を言ってCDの新着を見に行ったが、特に目ぼしいものはなかったのですぐに離れて階段を上がり、新着図書を見分したあと書架のあいだに入った。それからまず外交の区画に向かって、木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』を発見し、借りることにして手に持った三冊に追加した。さらにイスラエルパレスチナ史の区画を見たり、ドイツ史の棚を見分したり、中公新書の並びを調べたりしたあと――芝健介『ホロコースト』が見当たらなかった――、フロアを横切って文学の方に行き、そこでもアウシュヴィッツホロコースト関連の文献を探ったが、結局決めきれないままに、やはり新書あたりの手軽なところから触れていくべきかということでフロアの反対側の端に戻ってふたたび中公新書の並びの前に立ち、迷った挙句に對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』を選び出した。それで貸出手続き、借りたのは先の二冊に加えて元々借りていた三冊、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』、イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』、花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュビッツの沈黙』を合わせて計五冊である。手続きを済ませると、本当は図書館で書き物をして行きたかったのだが、フロアを巡っているあいだに見たところでは席が空いておらず、大窓際のみならずテラス側の長テーブルも埋まっているような有様だったので、ひとまず向かいのビルに入ったイオン――以前は河辺TOKYUだったビルである――の喫茶店に行ってみることにした。それで退館したが、歩廊を渡っているあいだから、立川に行ってしまえば良いのではないかという考えが兆していた。と言うのも、このイオンの喫茶店には確か電源がなかったと思ったのだ。何のためにわざわざ出掛けてきたのかと言って、インターネットなどに浮気を出来ない環境に自分を持っていくことで長時間日記に取り組み、二一日の記事をなるべく完成に近づけることが目的だったのだから、電源を使って長時間いられなくては意味がない。そういうわけでひとまずイオンに入って喫茶店の様子を窺ってみたところ、席に空きはなかったがやはり電源はないようだったので立川に向かうことに決めてビルを出、歩廊を駅に向かって渡った。改札をくぐりエスカレーターでホームに下りて、先頭車両の位置まで行くと、ベンチに座った高年の女性と、黒髪の裾を少しだけ赤く染めた若い女性が話を交わしていて、何だか珍しいような組み合わせだなと思った。どういった知り合いなのだろうか? ベンチにはまた白人の男性二人も座っていて、英語で会話をしていた。こちらは立ったまま手帳を取り出して電車を待ち、入線してくると乗り込んで七人掛けの端に就いた。引き続き手帳を眺め、目を閉じて文言を頭のなかで反芻しながら立川に着くのを待っていると、昭島あたりで家族連れが乗ってきた。両親と三人の女児の一団である。女児のうち、おそらく一番年少の一人がこちらの隣に座ると、苺の香りの混ざってあどけない、乳臭いような匂いが鼻に届いた。その後女児たちは扉際に集まって吊り革にぶら下がって遊んだりと賑やかにしていて、こちらの隣には母親が就いていた。
 立川に着くと降りて階段を上る。駅通路に出ると精算機に向かい、SUICAに五〇〇〇円をチャージしてから財布を片手に掴んだまま改札を抜け、向かいの壁の隅に設えられたATMに寄って五万円を下ろした。そうしてやはり財布を右手に持ったまま人波のあいだを通り抜けて行く。LUMINEの前ではシュークリームを売っているスタンドが出ており、若い男性の売り子が鼻に掛かったような、甘えたような声で品物を売り込んでいた。北口広場に向かってさらに進んでいくと、駅舎出口の脇に立った托鉢僧が腰の横で振り鳴らす鈴の音が、煙の幕を割る風の一閃のようにして人々のざわめきを越えてくる。広場に出て通路を辿っていくと、銀色の手摺りの途中にありふれたチェック柄のシャツだかスカーフだかが巻きつけられており、風にひらひらと揺らいでいた。エスカレーターに乗って下の道に下りると、通りをそぞろ歩く人々のなかを抜けてPRONTOに入店した。店は混んでいる雰囲気だった。女声のレゲエが掛かっているなか階段を上がっていくと、カウンターにはほとんど空きがなく、テーブル席の方も埋まっていた。ひとまず左右を人に囲まれたカウンターの辛うじて空いていた一席にリュックサックを置き、下階に引き返してアイスココアのMサイズを注文した。三三〇円である。PRONTOのココアは値段のわりに結構美味いと思う。そうして品物を持って階段を上ると、テーブル席が一つ空いていたので、あとでカウンターに移れば良いかと――何故なら電源があるのはカウンターだけだからだ――判断してとりあえずそこのテーブルに入った。コンピューターを取り出し、ハンカチでモニターを拭いてからスイッチを押し、立ち上げるとEvernoteと起動させ、ココアを飲みながら早速今日の日記を書きはじめた。ここまで綴るとちょうど一時間ほどが経って、四時台も最後の四半期に入っている。
 それから七時一五分までぶっ続けで二一日の記事を書き綴り、最後まで仕上げることが出来た。終えるといい加減に空腹が極まっていたのでここで夕食を取っていくことにして、席を立ち上がり、厨房の方に行ってすみません、と声を掛け、応じた店員にメニューを頂きたいのですがと要求した。少々お待ち下さいと返されたので席に戻り、コンピューターをシャットダウンさせて仕舞うとまもなくメニューが届いたので、しばらく眺めて、ローストビーフとトマトソースのパスタを頼むことにした。それで階段を上がってきた店員に向かって手を挙げてすみませんと声を掛け、彼が手に機械を持って近づいてくると二品を注文した。食事が出てくるのを待っているあいだは、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を読んでいた。いくらも掛からずにローストビーフが届いたので、添えられているマッシュポテトと一緒に箸を操って口に運んだ。美味だった。あれは何の味なのだろう、多分山葵ではないと思うのだが、タレとともに仄かな辛味が舌を刺激して、それが程良いアクセントになっているのだった。ローストビーフを平らげてまた本を読んでいると失礼しますと言いながら店員がやって来て、パスタも届いたかと思いきやそうではなくて、トマトソースを切らしているのでパスタが作れないと言う。それで何かほかにご注文はと訊くので、あ、そうですかと言いながらメニューをひらき、ちょっと迷った挙句に、以前も食べたことのある海老とアボカドのバジルソースのパスタを代わりに頼んだ。それでまた本を読んでいたが、やはり短時間でパスタが届いたので新書を閉じ、フォークをくるくる回してパスタを巻きつけ、口に運んでいった。海老とアボカドも摘み、すべて食べ終わるとものを入れたばかりの腹を落着けることもせずに帰路に向かうことにして、席を立ち、厨房付近にいた店員にごちそうさまでしたと告げ、伝票を求めた。渡されたものを受け取って礼を言い、下階に下るとレジカウンターに伝票を差し出して、一四七〇円を支払うとここでも礼を言って退店した。ドラッグストアの灯が明るく際立ち、人々の流れでざわめいている通りを歩いてエスカレーターに乗り、高架歩廊に上って通路を行くと、先ほど手摺りの途中に縛りつけられていた布がなくなっていた。駅前広場に入ると西から風が渡ってきて、半袖のTシャツから露出した腕の肌に柔らかく絡みつく。駅舎に入ると群衆の一員と化して改札に向かい、くぐると一・二番線のホームに下りた。一番線の青梅行きがちょうど発車の頃合いだったが、二番線にも数分後に発車の青梅行きが停まっており、まだ人がほとんどいなかったのでそちらに乗り込んだ。席に着くと、ここでは手帳を見るのではなくて本を読み進めることにして、リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』を取り出しひらいた。電車は混まず、発車した時点でも席の両端が埋まっている程度の乗客数だった。
 身体をなるべく動かさないように静止させながら頁に目を落として文字を吸収しているうちに青梅に着いた。降りるとホームを辿っていき、木製のベンチに腰を下ろした。こちらの背後、反対側の番線に面した席には老人が一人、ビニール袋などの荷物をいくつも足もとに置いて座っていた。何となくホームレスの人だろうかというような気がしたが、それ以上は追及せず、引き続き本に目を落として奥多摩行きを待った。電車がやって来ると例によって三人掛けに入り、さらに書物を読み続けてじきに最寄り駅である。時刻は九時前だった。駅舎を抜けて車の来ない隙に横断歩道を渡り、坂道に入ると今日も鈴虫の音が揺らぎ漂うその周囲を覆い囲むようにして、あれはアオマツムシのものなのだろうか、一聴すると鈴虫のそれと間違えてしまいそうな凛とした声が群れなして響き渡っている。そのなかを歩いていくとここでも風が上ってきて、街灯に照らし抜かれて路上に映る木の影を静かに揺らめかせる。坂を抜けて平らな道に入っても秋虫の音は続いて、林の抱く暗闇そのものが鳴き声と化したかのような満々とした歌いぶりだった。
 帰り着くと母親に飯は食ってきたと告げた。夕食はカレーにしたと言う。あとで食っても良いけれどと受けながら洗面所に入ってカバー・ソックスを籠に入れておき、下階の自室に行って服を着替えた。コンピューターを点けてLINEにログインすると、T田から返信が届いていた。二七日の夜ならもう東京に戻ってきている、夜なら空いていると言うので、それでは吉祥寺にジャズのライブを観に行こうと誘い、了承を得た。話し合いの結果、六時に吉祥寺駅北口に集合し、そこから店に向かって開演の七時半まで美味いものでも摘みながらくっちゃべるということになった。
 九時半過ぎから三宅さんのブログを読みはじめた。二五日に大西順子を観に行くつもりというわけで、Junko Onishi『Musical Moments』を背景に流していたと思う。そしてこの時多分、織田朝日「「入管は自分たちを殺したいのかな?」入管収容所で抗議のハンストが拡大」(https://hbol.jp/198820)の記事も読んだのではないか。そうして一〇時を越えると入浴に行った。さほど時間を掛けずに出てきて部屋に戻ると、間髪入れずに過去の日記を読み返した。昨年のものと、二〇一六年六月九日のものである。さらにfuzkueの「読書日記」も読めばそれで時刻は一一時、書抜きをしようというわけでまだ読んでいる途中のリチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』の序盤からいくらか文言を写しておくと、一一時一七分からふたたび読書に入った。
 それで午前三時半まで本を読み続けたのだが、途中、地元の図書館の蔵書を検索したり、もじゃもじゃと煩わしく伸びてきていた陰毛を鋏で短く処理したりと別の行動が挟まれた時間もあった。さらには例によってベッドに乗っていたために、二時頃から一時間くらいは意識を失っていたのではないかとも思う。三時半を回るといい加減に眠ることにして本を置き、入口横のスイッチに手を伸ばして明かりを消すと、暗闇のなか扇風機にぶつからないように慎重にベッドに戻って、横になった。


・作文
 15:48 - 19:14 = 3時間26分

・読書
 12:41 - 13:02 = 21分
 13:17 - 13:30 = 13分
 19:44 - 20:49 = 1時間5分
 21:33 - 22:11 = 38分
 22:40 - 23:00 = 20分
 23:02 - 23:16 = 14分
 23:17 - 27:33 = (1時間引いて)3時間16分
 計: 6時間7分

・睡眠
 ? - 11:40 = ?

・音楽

  • 16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』
  • Junko Onishi『Musical Moments』
  • ものんくる『RELOADING CITY』