2019/9/26, Thu.

 私は八年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく三年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体験は、ほとんど問題でないといえる。苛酷な現実がほとんど一つの日常となってしまった状態から、もう一つの日常へ一挙に引きもどされたとき、否応なしに直面せざるをえなかった二つの日常の間のはげしい落差は、めまいに近いものであった。そしてこのようなめまいのなかで、かつて問われつづけた自分自身をもう一度問いなおして行く過程は、予想もしなかった孤独な忍耐とかたくなな沈黙を私に強いた。恢復期、正常な生命の場へ呼びもどされる時期の苦痛は、それ以後私の最大の関心事となったといっていい。
 苦痛そのものより、苦痛の記憶を取りもどして行く過程の方が、はるかに重く苦しいことを知る人は意外にすくない。欠落したものをはっきり承認し、納得する以外には、この過程をのりこえるどのような手段ものこされてはいなかったのである。
 そしてこれらの過程のすべてを通じて、私たちはのがれがたく、日常にとらえられており、およそ日常となりえないどのような悲惨も極限も、この世界にはないのだという認識に、やがては到達せざるをえないのである。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、47~48; 「強制された日常から」)

     *

 (……)実際、強制収容所の囚人にとって、彼らの現実にもかかわらず世界(自然)が美しいということは、それ自体がパラドックスであり、やりきれない現実であって、あと一歩で嗟歎は敵意に変りかねない。それは、いってみれば無責任きわまる美しさであって、自然のその無責任にまさに対応するかたちで、人間の側の無感動がある。そこでは、感動を欠落したままで美が存在しており、人間が自然と対峙するのは、いわば無感動の現場においてである。
 極度に無感動をしいられた環境で、唐突に、そしてひときわ美しく自然がかがやく時がある。その美しさは、その環境にとってはむしろいぶかしい。「どうして」という問いは、そのいぶかしさへのまっすぐな反応である。たぶんそれは、無関心なるが故の[﹅8]美しさという、ある種の絶望状態への反証のようなものであろう。およそ人間に対する関心が失われても、なお自己にだけは一切を集中しうるあいだはこのような問いは起らない。自己への関心がついに欠落する時、そのとき唐突に、自然はその人にかがやく。あたかも、無人の生の残照のように。
 感動をともなわない美しさとは奇妙なものだ。それは日常しばしば出会う、感動する程ではないという美しさとはあきらかにちがう。感動する主体がはっきり欠落したままで、このうえもなくそれは美しい。そしてそのような美しさの特徴は、対象の細部にいたるまではっきりと絶望的に美しい、ということである。いわばその美しさには、焦点というものがない。
 感動とは、情動の最も人間的な昂揚であるから、感動をともなわない美しさとは、いわば非人間的な美しさといわざるをえないが、しかしこの、非人間的であることの最大の理由は、見られるもの、たとえば自然の側にあるのではなく、見る人間の側にある。見るものの主体、感動の主体が欠落しているのである。
 人は戦場で、しばしばこのような美しさに、面[おもて]をあげた瞬間に向いあう。ミンドロ島の戦野を彷徨した大岡昇平氏に、いきなり向きあった緑の美しさはその例であろう。この美しさは、おそらく荒涼と記憶され、荒涼たるままで回想の座へ復帰する。違和そのものとしての復帰である。
 昂揚をもって戦場の生を終らなかったものが、もしかろうじて殺戮の場をうべなえるとしたら、それはこの、主体が故意にはずされた美しさによってである。私たちが永遠に参加できないことによって、たしかに美しいという瞬間はあるのだ。いわばそれは、美しいものの側から見捨てられた、美しい瞬間である。
 (61~62; 「無感動の現場から」)


 一一時五五分まで長く寝過ごした。コンピューターに寄って起動させ、Twitterを確認してから階を上がり、便所に行って糞を垂れてから洗面所で髪を梳かして寝癖を整え、それから食事の用意に掛かる。ガス台の上に置かれたフライパンの蓋を開けると、ハムがたった一枚入っていた。そのほかに冷蔵庫から、昨夜の残り物、ナメコとエノキダケの味噌汁とアメリカンドッグを取り出し、それぞれ火に掛けたり電子レンジに入れたりして温めたあと、米をよそって品物をそれぞれ卓に運んだ。新聞の一面の経済記事に目を通しつつものを食べる。テレビは『サラメシ』を流している。食事を仕舞えて、冷蔵庫で冷やされた水を水筒からコップに注ぎ、抗鬱剤を服用すると、台所に立って皿を洗った。そうしてそのまま風呂も洗いに行き、戻ってくると玄関の戸棚から海苔塩味のポテトチップスを取り出して、母親の分を皿に取り分けておいてから、袋を持って自室に帰った。前日の記録を付けたあとは日記に取り組まなければならないところを、長くなるのがわかっているから億劫で、cero『POLY LIFE MULTI SOUL』や16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』を背景にひたすら無益な時間に耽り、そうして三時二〇分に至ってようやく、Sonny Rollins『There Will Never Be Another You』とともにこの日の文を記しはじめた。コンピューターの前に長時間、背を丸めて座っていたから身体がこごって、椅子から下りて背を伸ばし、立ったままに打鍵を進めた。
 二五日の記事を四時過ぎまで進めたところで、身体の固さに耐え難くなって、ベッドに移って身を休めることにした。古井由吉『ゆらぐ玉の緒』をひらいたものの、クッションと枕に凭れて身を伸ばしているとじきに睡気に瞼が閉じて、寝転がってもおらず上体を起こしたままに意識を落とすことになった。五時半過ぎまで休んで上に行き、アイロン掛けをしようと炬燵テーブルの端に台を出すと、アイロンは良いからこっちをやってくれと台所の母親から掛かるので、そちらに移って包丁を取り、人参を小さな拍子木型に切ってさっと茹でた。それから玉ねぎを二つ、細く切り分けてフライパンで炒めて、しばらくしてから生姜焼き用の豚肉も、切らずにそのまま箸で一枚ずつ摘み上げて投入していき、蓋を閉ざしてしばらく火を通したあと、味付けは砂糖代わりに栗の渋皮煮に使ったシロップと、ニンニク醤油を垂らした。仕上げると台所を出て下階に戻り、六時一三分から日記に取り掛かったが、どうも筆の運びが重い。自然に無理なく流れるような書き方を忘れてしまったようだ。どのような文言を打ち込んでも違和感が拭えず、正解とは思われず、いくらか書いては遡って直すことになる。そもそも「正解」などという評価軸を、毎日の文章に持ち込む自体、危ういことだ。しかしその危うさから逃れられず、文言を直し直し進めて八時に至る頃、ようやく切って食事に行った。
 米の上に肉と玉ねぎを重ねて丼にして、そのほか野菜や、ワカメの汁物や、コンビニのメンチカツを卓に並べて、丼の米を貪るように搔き込むと、急ぎすぎたか妙なところに入って噎せる。食後に精神科の薬を飲み、皿を洗ってから布巾で卓を拭くと、早々と入浴に行った。温かな湯のなかに身を沈めて、汗をだらだらと首筋に流しながら安息に浸って、下着一枚で部屋に戻ってしばらくののち、一〇時から過去の日記の読み返しをした。二〇一八年の九月二五日と二六日、特別に印象に残ることは書かれていない。それから日記を書くのか、インターネットの記事を読むのか、書抜きをするのかと迷った挙句、三〇分だけ英文を読もうと定めて、George Yancy and Judith Butler, "Judith Butler: When Killing Women Isn’t a Crime"(https://www.nytimes.com/2019/07/10/opinion/judith-butler-gender.html)にアクセスした。オンラインの辞書サービスを用いて英単語を調べながらきっかり三〇分を英文に触れ、読み終えられなかった分はまた翌日とした。

・unvarnished: 率直な
・bracing: 元気づけてくれる
・mobilization: 動員
・underscore: 強調する
・paramount: 最重要の
・prerogative: 特権
・precarity: 雇用不安
・retribution: 報復
・as a matter of course: 当然のことながら、勿論
・abet: 幇助する
・way of the world: 世の常
・defection: 離脱
・well-meaning: 善意の
・deflect: そらす
・exonerate: 免除する

 そうしてふたたび日記に掛かるが、筆の運びは変わらず重たるく、二五日の記事を五〇分綴ったけれど文がいくらも増えないうちに力が尽きて、インターネットに遊んだあとに、零時半から寝床に移った。裸の上半身に薄布団を引き上げ、肌を包まれながら古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を読んでいたはずが、例のごとくいつか眠って、気づけば三時に掛かっていた。肌着のシャツを身につけて、入口横のスイッチで電灯を切って、暗闇のなか床に潜り込んで正式な眠りに向かった。


・作文
 15:20 - 16:04 = 44分
 18:13 - 19:55 = 1時間42分
 22:48 - 23:38 = 50分
 計: 3時間16分

・読書
 16:05 - ? = ?
 21:59 - 22:47 = 48分
 24:32 - ? = ?
 計: 48分 + ?

・睡眠
 ? - 11:55 = ?

・音楽

  • cero『POLY LIFE MULTI SOUL』
  • 16FLIP『Ol'Time Killin' Vol.4』
  • Sonny Rollins『There Will Never Be Another You』
  • SIRUP『SIRUP EP』
  • Sonny Rollins『Saxophone Colossus』