2019/9/27, Fri.

 (……)強制収容所という場所は、外側からは一つの定義しかないが、内側からは無数の定義が可能であり、おそらく囚人の数だけ定義があるといっていい。私なりに定義づければ、そこは人間が永遠に欠落させられる、というよりは、人間が欠落そのものとなって存在を強制される[﹅8]場所である。(……)
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、63; 「無感動の現場から」)

     *

 自覚された状態としての失語は、新しい日常のなかで、ながい時間をかけてことばを回復して行く過程で、はじめて体験としての失語というかたちではじまります。失語そのもののなかに、失語の体験がなく、ことばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験があるということは、非常に重要なことだと思います。「ああ、自分はあのとき、ほんとうにことばをうしなったのだ」という認識は、ことばが取りもどされなければ、ついに起らないからです。
 (67; 「失語と沈黙のあいだ」)

     *

 では、ことばというものは、一人きりになった人間にとって、どういう意味をもっているのでしょうか。通常ことばは、人間と人間を結びつけるための手段と考えられています。しかし、私がそのとき置かれていた条件のなかで、ことばの機能をもう一度うたがいながら追いつめて行くと、ことばは結局は、ただ一人の存在である自分自身を確認するただ一つの手段である、という認識に到達せざるをえません。ことばは結局は、自分自身を納得するために、自分自身へつきつける疑問符とならざるをえません。
 (69; 「失語と沈黙のあいだ」)


 八時のアラームで一旦起き上がったが、コンピューターに寄ってTwitterを覗いたあと、寝床にふたたび舞い戻った。カーテンの隙間から覗く空に雲はなく、一面青を注ぎ込まれたそのなかで、太陽が意気揚々と光を広げていた。少し休んでからまたすぐ起き上がろうと考えていたが、結局正午まで止めどなく、寝床に留まる仕儀となった。ようやく床を離れて上階へ行くと、卓に就いた母親に挨拶をしてから便所に行って、黄色い尿を長々と放ち、次に洗面所に移動して、顔を洗うとともに髪を整える。台所の小鍋には即席の蕎麦がくたくたに柔らかく煮込まれていた。そのほかおにぎりや、前日の炒め物の残りや野菜を卓に運んで食事を始めると、テレビは御嶽山の噴火から五年を伝えて追悼式の模様などを映してみせる。母親はまもなく仕事に出るところで、こちらは今日は暮れ方からT田と、吉祥寺SOMETIMEに行くことになっている。日本ジャズベース界の重鎮、御年八六歳に達した鈴木勲のグループ、OMA SOUNDのライブである。出掛ける前に、ベランダの洗濯物を入れて行ってくれと母親は言うので了承した。
 食事を終えて抗鬱剤を飲んだ頃、母親は出掛けて行った。残されたこちらは食器を洗い、台布巾で卓を拭き、それから風呂場に入る。空に雲は乏しくて、湿気もさほど空気に籠らず、陽射しの明るさのわりに爽やかな日和と感じられたが、身を屈めて浴槽を擦っているとやはり、襟足のあたりに汗が滲み出す。出てくると冷たい水を一杯飲んでから下階に帰り、Evernoteを起動させ、『SIRUP EP』を背景に日記を書きはじめた。
 それからぶっ続けに二時間半、言葉を画面上に落として、三時を越える頃には一応、二五日も二六日も仕上がった。仕上がったと言ってしかし、仮に最後まで辿り着いたというほどの話で、これからまた文を整えなくてはならない。推敲など、身の丈に合わぬ難儀な仕事と思ってはいるのだが、どうも気楽に流すような書き方が出来なくなったようだ。いずれにせよ、文を直すのは帰ったあとか翌日の自分の仕事で、昼間の作業はここまで、上階に行って洗濯物を取り込み、タオルや肌着や寝間着を畳んだ。居室に戻るとSonny Rollins『Saxophone Colossus』を流して、ベッドに乗って身体をほぐしながら耳を寄せたが、これはどうにも、傑作ではないかと思った。随分と今更のことだ。『Saxophone Colossus』と言えばジャズ入門として定番中のまた定番、Rollinsの代表作として、また世紀の名盤として評価もとうに確立されていようが、この明朗な豪放さは、自分の思っていた以上のものだった、と遅れ馳せに耳を張った。
 それから歯磨きをしつつ英文を読む。 George Yancy and Judith Butler, "Judith Butler: When Killing Women Isn’t a Crime"(https://www.nytimes.com/2019/07/10/opinion/judith-butler-gender.html)を一五分で読み終わると、口を濯いできて街着に着替える。GLOBAL WORKの色とりどりの格子縞のシャツに、下はオレンジ、あるいは明るい煉瓦色のズボンである。それからさらに、ノーム・チョムスキーのインタビューなり対談なりを読もうかと思ってChomsky.Infoにアクセスしたが、記事の数が多すぎて目移りしてしまい、選べないので結局捨て置いて、代わりに"Ai Weiwei: Can Hong Kong’s Resistance Win?"(https://www.nytimes.com/2019/07/12/opinion/hong-kong-china-protests.html#)をひらいた。こちらも一五分きっかり読んで、あるいはこのあと着替えたのだったかもしれないが、どちらでも良いことだ。

・interdiction: 禁止
・stairwell: 階段の吹き抜け
・wilt: 萎れる
・slander: 名誉毀損、中傷
・droop: 垂れ下がる
・observe: 祝う
・oil: 円滑に運営する
・cog: 歯車の歯
・incompatible: 両立しない
・piggyback on: 便乗する
・iniquity: 不公正

 それから出発までの僅かなあいだで一年前の日記を読もうとEvernoteを遡ったが、ひらいてみるとこれが僅か三行ほどの簡素なもので、読むというほどの量でもない。鬱症状に陥っていた昨年中は、夏場のピークを越えたあと、秋に掛かって一時日記を再開し、いくらか書き継いだのだけれど、まだ病気はこの身を離れていなかったようで、じきに文を書く意味もわからなくなり、気力も失せて止めてしまい、今に続く二度目の再開のためには結局年末を待つことになる。この頃どうやら、いよいよ力が尽きてふたたび沈黙の期間に入ったようだ。一年前の日記をさっと流したあと、続けてfuzkueの日記も一日分を手短に読んで、ここのところ推敲などという仕事にこだわっているこちらだが、さほど文の密度を強く固めようとしなくとも、緩い文でも、記憶に引っ掛かっている事柄を一つずつ着実に記せばそれなりのものになるのではと思った。
 cero "Summer Soul"を歌ってから部屋を抜け、上がって仏間でカバー・ソックスを履き、Brooks Brothersのハンカチを取って居間を出ながら腕時計を見れば、ちょうど四時半だった。正午に起きた頃には晴れて大気に光が通っていたはずが、いつか雲が湧いて空を覆って、青さもさほど見えなくなっている。道の左右に彼岸花が顔を出しているそのあいだを通り、公営住宅の前まで来ると、犬を散歩に連れた婦人と杖を突いた老人が二人で、立ったまま道端で話し込んでいる。犬は二匹、大きめの体躯で、婦人の足もとに大人しく伏せっていた。
 空気は涼やか、しかし空腹が極まっており、身体は軽く頼りなく、重心が平常とちょっとずれたような感覚があり、"Summer Soul"のメロディを頭に流して坂を上りながら、息が切れるようだった。駅前に出れば頭上に低く掛かる桜の木の葉が、枝先で薄い黄に色づいている。階段通路を抜けないうちに電車が入線してきたので、急ぎホームに下りて、まもなく発車するだろうと先頭車両に至らないうちに途中で乗り込んだが、電車は少々遅れていた。扉際で携帯を出してメモを取るあいだ、涼しい大気と思っていたが歩けばやはり身体が芯から熱を持つようで、汗の玉が背中に垂れて肌をくすぐる。
 青梅に着くと降りたその瞬間から向かいの発車ベルが鳴っており、先の方まで歩く猶予もないのですぐ目の前の車両に乗り込んで、左右に身体を揺らされながらよたよたとした足取りで先頭車両へ向かった。こちらの前にはポロシャツに短パン姿の男が、同じく先頭へ向かって車両を移りながら、何か両腕に抱いている。初めは赤ん坊かとも見えたが、動く気配がなく、どうもキューピーのような人形ではなかったか。男はいくらか挙動が不審で、席に就いた女子高生の一団の前で時々立ち止まり、歳のわりに化粧の派手な少女らに抱いたものを見せるような素振りを取っていた。女子高生らは男が去ったあとから笑い転げていたものの、どうやら気色悪がっていたようだ。こちらが先頭車両に着くと、男はそのなかのさらに一番前の、車掌室に接した端に立っており、荷物を隅に置いたまま、車掌の仕事を代行するかのように、駅に着くたび駅名を宣していたが、小作に着いた頃、通路を戻ってこちらの前を通り過ぎ、後方の車両に移っていった。
 席に就いたこちらは携帯電話で道中のことをメモ書きしたあと、古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を読み出した。雲は空一面に薄く膜のように広がって、雲間というものもなく、あるのは青と白の混ざった濃淡の偏差のみで、車両のなかでは既に電灯も点いて、乗客の顔がのっぺりと均されて影も差さない。緩く腰掛け脚を組んだ上に本を載せ、両手で支えながら目で文字を追う。立川に着く前、視線を振れば、正面の空は青いが端の窓には赤味が覗き、電車が駅に近づくにつれて線路の角度が変じるようで、落日の色が隣の車両の窓へ流れていくのを見ていると、やがて遠ざけられて視界から消えた。
 国分寺を発った頃、ガラスの先の街並みはよほど黄昏れて、青緑色に浸っている。三鷹を過ぎたあたりで首を曲げて背後の窓を見やるとしかし、西の雲に残光が触れて、茜の色を差し込んでいる。吉祥寺に着くと本を片手に持ったまま降り、ベンチに寄って腰を下ろして、一行開けの挟まって切りの良い箇所まで読んだのち、手帳に時間を記録した。空はくすんだ縹色に暮れて、駅前の通りを縁取るビルのあいだに宿った信号やネオンの光が際立ちはじめ、蟻の隊列のようにぞろぞろと並んで横断歩道を渡る人々が眼下に見える。
 改札を抜けると、ここにいれば目に留まるだろうと手近の柱に寄って、携帯電話でメモを取りながらT田が来るのを待った。こちらの寄った柱の側面には、顔も服装も良くも見なかったけれど、大学生ほどかと思われる若い女性が二人、やはり待ち合わせをしている様子で佇んでいたところに、じきにこちらも若い男性が一人やってきて、よろしくとか何とか頭を下げて挨拶をしているのでどんな関係かと見れば、どうも女性のうちの一方が、自分の恋人を友人に紹介した形ではないか。男が頻りに可愛い可愛いと、軽薄ぶって口にして、女の方もそんなこと思ってないでしょと当たりながらまんざらでもないようにしているのは、自分の彼女をからかっていたらしい。男女はじきに、残った一人の女性と別れて去っていった。それからまもなく気配を覚えて右方に目を上げれば、T田がこちらに向けて携帯を構えながら近づいてくるところで、写真を撮ったらしく見せてもらうと、こちらの背後の壁に、あれは何の表示だったのか、「犯人」という言葉が見えて、まるでこちらが何かの犯人であるかのように写っているのだったが、髭も剃らず伸ばしっぱなしで口周りはいくらか汚れており、伏せた目つきも陰気そうで人相が大して良くもないので、それらしき雰囲気に見えなくもない。
 駅を出て通りを渡りながら、実は一昨日も同じ店に来たのだと口火を切り、大西順子の名前を出し、しかし予約をしていなかったところが満席で入れず、仕方ないので空いた時間で三鷹荻窪と古本屋を巡ればまた一〇冊も本が自己増殖したと話した。サンロードの賑わいのなかをまっすぐ進み、紳士服店の角で曲がってSOMETIMEの階段を地下へ下ると、リハーサル中で客は誰一人おらず、女性店員も電話中だったのでちょっと待って終わってからもう入れますかと訊けば、店は六時半からだと言う。二〇分ほど間があった。それで了承して引き返し、地上に出て開店までどうするかと訊けば、「らしんばん」に行くとT田は言う。「らしんばん」というのはアニメグッズを扱った店で、そこで同人誌を見分したいと言う。正確な場所がわからなかったが、以前吉祥寺でスタジオに入った際に近くにあったと朧気な記憶を頼りにこちらではないかと路地を辿っていると、ビルの二階の窓一面に設えられた店の表示が現れて、ここだと行き当たった。それでビルに入り、階段を上って入店、こちらはこうした店には来たことがないので物珍しい。T田は同人誌の区画に立って、小さな区画だが、と言っても同人誌は「薄い本」と呼ばれるように一冊が薄いから、二、三歩で前を通れるほどの小さな棚でも無数に並んでいるのを引き出し引き出し、確認を始めた。以前(……)くんと話をしていた『GUNSLINGER GIRL』の作品を探しているのだなと思ってそう訊いてみると、その通りだった。しかしもうだいぶ昔の作品なので、予想通り、その二次創作品はない。こちらも適当に棚から本を引き出して表紙を眺めてみたりもしたが、じきに場を離れ、中古のアニメDVDを売っている棚を隅から隅まで見分して時間を潰していた。大友克洋の『AKIRA』などあればちょっと欲しいような気もしたのだが、見当たらなかった。端までタイトルを見終えるとT田のもとに戻ったが、彼は新着やサービス品の区画を調べはじめていたので、こちらは店の奥の壁際の、漫画のコーナーに足を運んで、何か興味深い作品はないかと見回ったものの、日記に書けるほどに印象に残るものはなかったようだ。じきにT田がやって来て、時刻も六時半に達しようとしていたので退店し、サンロードに戻ってSOMETIMEにふたたび下りて、一番乗りで入店した。予約をしておりますFと申しますと名乗って、希望を伝えていた通り、ピアノやウッドベースの置かれた演奏場に面したカウンターに通された。とにかく腹が減っていた。飲み物は、こちらは勿論ジンジャーエールを頼むつもりで、食事をどうするかとメニューを見れば、鶏挽き肉と野菜のカレーというのがあったので、これにしようかと口にすればT田もそれを食うと言う。そのほかシーザーサラダも頼んで分けることにして、寄ってきた若い女性の店員に注文を伝えた。T田は酒もジュースも飲まず、飲み物はお冷で済ませるつもりだった。カレーは辛味は全然なくて、その代わりに滋味深くてなかなか美味いものだったが、それを食ってもまだ腹に余裕があったので、続けて何か食うかとT田に持ちかけ、茸のピザとソーセージのオーブン焼きを追加で頼んだ。
 演奏が始まるまでに一時間ほどあったはずだが、そのあいだに何を話したのか、良くも覚えていない。何が発端だったのか、最近こちらの関心の、ホロコーストに関する話がいくらかあったはずで、先日塾で、ユダヤ人大虐殺について説明し、アウシュヴィッツという収容所の名前を教えたら、それは覚えた方が良いですかと生徒に訊かれて嘆息したと、T田はこちらの日記を読んでいるからもう知っているのだが、改めて話した。今では悲劇的なまでに有名なアウシュヴィッツ強制収容所の名も、ワークの説明のなかでは太字になっていなかったし、それを言えばそもそも、ホロコーストという語句すら出てこなかった。六〇〇万のユダヤ人が殺されたと一般的に伝えられるホロコーストだが、ガス室に送られる自らの妻子の髪を切らねばならなかった床屋のエピソードにしてもそうだけれど、相手が人間ではないと、動物と変わりないと思わなければ出来ないことだなとT田は言う。それはそうだとこちらも受けて、「人間と猿の距離よりも、ユダヤ人とドイツ人の距離のほうが大きい」という言葉を紹介した。そもそも何故そこまでユダヤ人は憎まれたのかとT田は問うたが、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の根深さについてはこちらの仔細に理解出来ている事柄でない。それだけ裕福で、経済的に高い地位を得て、恨まれているユダヤ人が多かったのだろうかとT田は言うが、必ずしもそうとも限らないのではないか。ただ、一九一八年の大戦末期にドイツ帝国が革命で倒れ、ヴァイマル共和国へと移行した際に、共産主義者に加えてユダヤ人が裏で革命を煽動したと、そのように見做されてはいたらしく、ナチスからすればユダヤ人というのは共産主義者と並んで国益を損なう好ましくない対象で、二〇年代の経済の混乱のさなかにも彼らが一種のスケープゴートとして、不満の捌け口として利用されたということはあるのだろう。とは言えナチスも、一番初めからユダヤ人を完全に絶滅させようと目論んでいたわけでなく、当初は国外追放路線を取っていた。マダガスカル計画というものがある。四〇〇万のユダヤ人を、当時フランス領だったマダガスカル島に移送するという計画で、しかし戦時中にそのような大規模な事業を敢行することは不可能だから、終戦を待ってフランスとの講和でマダガスカル島を引き渡してもらってから実行するという見通しになっていた。ヒトラーは途中まで、かなりの程度、これに乗り気だったらしい。しかし戦争が長引くにつれて食糧事情の困窮などもあって、労働の役に立たないユダヤ人は抹殺するという要求が高まってきたのだと説明した。
 ホロコーストから逸れて、無論アウシュヴィッツほどではないだろうが、現在の日本でも入管施設で外国人がかなり劣悪な扱いを受けているらしいとちょっと触れると、そのあたりのことを詳しくとT田は求める。こちらだっていくつかインターネットの記事を読んだのみで全然詳しいわけでないが、東日本入国管理センターという施設が茨城県は牛久にあって、そこには滞在資格を持たない外国人などが収容されているところ、どうも職員から虐待じみた処遇を受けたりと、かなり手酷い環境になっているらしく、その改善を求めて五月には一人のイラン人がハンガーストライキを初め、七月には参加者が一〇〇人に達したと言い、ハンガーストライキで一〇〇人と言うと結構な規模ではないかと思うのだが、その後も身命を賭した訴えが続けられているようだ。なかに自殺した人も幾人かいると言う。また、ストライキによって仮釈放を勝ち取った者も数人あるようだが、仮釈放の期間はせいぜい二週間ほどで、それが尽きれば再収容されてしまうから何にもならないと、こちらが知っているのはそのくらいのことである。あまり待遇を良くして快適な環境を整えてしまっても、日本に不法に入国しようという人が増えてしまうだろうから、どこかで折り合いをつけなければならないのだろうとT田は言うが、こちらが思うところそれ以前に、人間存在に値するような、最低限尊厳のある待遇が確保されていないということが問題で、どこまで環境を整備するかということより前に、まずもって伝えられているような虐待的な扱い方は禁じられなければならないはずだ。いかにも左翼的な気味が出てこちらはあまり好きではないが、これは最低限の「人権」の問題なのだと言ってみても良いかもしれない。
 ほか、こちらが貸しているものだが、T田が持ってきていた梶井基次郎檸檬』を渡されめくり、「冬の日」は良いとか、「蒼穹」や「闇の絵巻」などもなかなか良い、という話をしたことくらいしか覚えていない。こちらの左方、一つ開けて向こうの席には、坊主頭の四〇代くらいの男性が就いていたのだが、彼は柄谷行人『帝国の構造』を読んでいたので、結構インテリだったのではないか。左隣にもそのうちにサラリーマンらしき中年の男性がやって来て、この人はどうもサックスの中山拓海の知人だったらしく、言葉を交わしていた。彼もまた、待ち時間にカバーを掛けた文庫本を読んでおり、めっきり目が悪くなって視線を送っても文字が良く見分けられなかったが、頁の上端に記された小さな章題のなかに「ポーランド」の語が見えたような気はするので、多分歴史の本だったのではないだろうか。
 七時半を少々過ぎてから開演した。現在のOMA SOUNDのメンバーは、ベースが言わずと知れた鈴木勲、アルトサックスが中山拓海、ギターが小山道之、ピアノが板垣光弘、ドラムが岡田佳太で、不勉強なことで御大の鈴木以外は全員、初めて耳にする名前だった。御年八六歳の鈴木は隅まで白く染まった髪を後ろで結わえて、脚には片方が赤、片方が緑とそれぞれ派手な色合いのタイツを履いており、随分とファンキーな爺さんである。一番年少だろう中山拓海は、縦横に蔦の這ったような模様のなかにミッキーマウスの姿が描かれている、結構攻めた柄物のシャツを着ていたが、それがなかなか似合っていた。
 曲目は大方、鈴木のオリジナルで占められていたようだ。冒頭はやや変則的なブルースで、ショップ何とか、あるいはショット何とかと言われていたと思うが、曲名を定かに聞き取れなかった。二曲目は一六ビートの"D Minor"、三曲目はスタンダードの"Body And Soul"、次に"ザ・シング"と言っていたと思うが、これは"The Thing"ということだろうか? フリージャズに少々寄ったような感じの曲だった。五曲目はキーボードをバックにした鈴木のソロでの"Love Is Over"。前半最後の曲は、"パライーソ"という、同音の連打が印象的な、これも変則的なブルースである。
 後半冒頭は"紫式部"という、これもアヴァンギャルドと言うかフリー風味の曲で、次が"My Life"、三曲目はファーストアルバム『Blow Up』からタイトル曲の"Blow Up"だが、これが大層ファンキーで格好良い一六ビートのブルースだった。四曲目はバラード、"In A Sentimental Mood"が演じられ、五曲目は"Overture"、アンコールとしてドヴォルザーク作曲の"家路"が最後にあっておひらきとなった。
 鈴木のベースは低音を主にして地を這いながら堅実に土台を支えると言うよりは、細かな動きを挟んで旺盛に動き回る種のもので、高音部にもたびたび上っていき、また時に勢いをつけて弦を弾く際のばちっと激しい音も演奏のなかに混ぜ込まれ、それはドラムやほかの楽器を煽る役割も果たしていたと思うが、良くも悪くも個性が強すぎるのだろう、アンサンブル全体に上手く混ざって同化するのではなく、ある種ほとんど常に前面に浮かび上がってくるような気味があった。縦が終始きっちりと嵌っているわけでなく、時にリズムは僅かにずれる場面もあったようで、音程も正確無比とは言えないが、それは彼にあっては、あるいはジャズにあっては問題ではない。激しい打弦時のノイズにせよ、音程やリズムのファジーさを越えた強烈な存在感にせよ、ジャンルは違うが同じ弦楽器の扱い手であるPablo Casalsを連想させるようなところがあった。いわゆる通常の、ランニング・ベースによるフォー・ビートという演じ方はほとんどしなかったように見受けられ、一六ビートや八ビートの曲目が多かったようだ。右手の薬指には指輪がつけられており、手指を細かく蠢かせて弾くあいだ、宝石が照明を反射して、赤や青の煌めきを放っていた。
 中山拓海は我々よりも年若か、せいぜい同年代というところだろうが、堂に入った吹きぶりで、T田は彼を気に入ったようだった。シーツ・オブ・サウンドって生で聞くと凄いんだなとT田は漏らしたが、その語の起源であるJohn Coltraneのように長々と、大蛇めいてひたすらにうねりまくるのでなく、節度というものを弁えている吹き方で、音使いもコードからさほど外れず、派手にアウトするでなく、いかにも現代的と言うよりは比較的オーソドックスなスタイルのように聞こえたが、ソロの終盤など佳境ではハイトーンを、音高を過たずぴたりと当てて熱情的に絶叫して、盛り上げ方のツボを心得ているという様子で、熱情的と言っても今時の若い者のあり方で、冷静さを失わないスマートな演じ方である。隣に立った鈴木も、曲の合間にはたびたび中山と顔を寄せて何か言葉を交わしたり、脇を小突いたりしていたので、おそらく六〇年ほどの年齢のひらきがあるだろうこの若者を気に入っているのではないか。ドラムスも、意外と、と言うべきかこちらはちょっとそういう感を受けたのだが、やはり現代的に卓越した技術を縦横無尽に駆使すると言うよりは、奇を衒わず直情的に連打して音を細かく埋めていくような、わりあいスタンダードなタイプと見えて、とは言え、ソロの合間にはポリリズムと言うか、曲の主となるビートから一時外れつつテンポを段々に変じる技なども披露していたが、演奏内容に加えて特筆すべきは彼の表情で、額に皺を寄せて目を大きく見ひらいて、あれで瞳が乾いて痛くならないのだろうか瞬きも長いことせず、ベースやほかの奏者の方を強く見つめて、これから獲物を喰らわんという猛獣のような顔貌を浮かべ、唸り声も上げながら叩くその様子をT田は、本当に音楽を心底楽しんでやっていることが如実に伝わってくると評していた。
 セットのあいだの休憩時間は、持ってきていた古井由吉『ゆらぐ玉の緒』を取り出して、T田に紹介した。冒頭を読んだT田は、よくもまあ天気や気候の変化だけでこれだけ書けるものだと言った。T田も最近は、昨年の一二月にT谷やらKくんやらと行った奥多摩での流星観測の機会のことを日記に認めているらしく、文を書くということの労力と奥深さを感じはじめているようだ。コンピューターに打ち込んで計ってみると総計で七〇〇〇字に達していて、自分としては相当書いたつもりだったが、Fはこの量を毎日やっているわけだからその異常さがわかったと話した。
 公演が終了したあと、鈴木がカウンターに座っていた近くの人に手を差し出したので、こちらも握手を受けて、ありがとうございましたと礼を言い、続けて中山拓海とも握手を交わした。T田も彼と手を握りあって、滅茶苦茶良かったですと好評を伝えていた。それでしばらく、レジに並ぶ人が途切れるのを待ってから、そろそろ行くかと立ち上がって、ひとまずこちらが全額まとめて払ってしまうことにしてT田を外に送り出し、会計を済ませた。チャージ代二五〇〇円の二人分、五〇〇〇円を含めて、一一一七八円だった。支払いを終えて扉をくぐるとそこに中山拓海がいたので、ふたたび握手を交わし、また観に来ますと残して階段を上り、T田と合流した。金を払おうにも、持ち合わせが大きいものしかないと言う。時刻は一〇時過ぎ、終電までまだ猶予があったので、それで金を崩しがてら喫茶店にでも寄って行くかということになり、ちょうど手近に現れたエクセルシオール・カフェに入った。入口近くに座り心地の良さそうな革張りの、一人掛けの席が二つ並んで空いていたが、そこを並んで占領してしまうのも気が引けたので、と言って閉店時間ももう近く店内がこれから混むわけでもないので別に良かったのだろうが、ともかく代わりに壁際のカウンター席に並んで入った。財布を持ってレジへ向かうと、こちらが頼むのはいつものようにココアである。T田は流行りに乗って、タピオカの入った抹茶味の飲み物を注文していた。それで席に戻って金を要求すると、五〇〇〇円で良いと言ったところがT田は五〇〇〇円札に加えて一〇〇〇円札を一枚足して寄越してみせるので、これではお前の方が多くなるが良いのかと一応訊きながらも、良いと言うのでありがたく頂いた。
 喫茶店で何を話したのか、記憶にない。いくらか話が乗ってきたところで、間が悪く一一時の閉店を迎えたのではなかったか。店員がフロアを回って、閉店のお時間ですと客に声を掛けはじめたので、我々も行くかと立って、トレイやグラスでいっぱいに埋め尽くされた返却棚の僅かな隙間に何とか容器を返し、退店した。サンロードを抜けて駅に渡り、改札をくぐってホームに上ると、電車は遅れていた。なるべく空いている場所に入りたかったので、端まで行くかとT田に呼びかけ、一号車のあたりまで歩き、そうして乗ったのはしかし二号車の端だった気がする。道中T田は、『Steins; Gate』の二次創作小説を同人誌にするつもりだと話した。来年三月、大阪のイベントで発表する予定で、その頃にはT田も大学助手の職を得て大阪に移っている見込みだと言う。一人でやるのかと訊けばそうではなくて、知り合いの同人作家と組んで作る。そうでもなければ、素人がなかなか一人で出来るものでもないだろう。T田はこの作家の人と、もう随分長いことで一年くらいにはなるのだろうか、文通のような形でやりとりを交わしており、何度か顔も合わせたことがあり、先日の月曜日にも大阪出張の合間に会って五時間くらい話し込んだと言っていた。先に書いたようにT田は今、昨年一二月の流星観測のことを日記に拵えているところで、と言うかこの文章を書いている九月三〇日現在、既にそれは仕上がって、LINEを通して仲間内に発表されたのだが、その際の体験を元にして二次創作を書く目論見らしい。
 立川に着くと、奥多摩行きの最終が一番線で待っているとアナウンスが入る。既に時刻は零時近くなっていたが、電車が遅れていたおかげで、乗換えの客を待ってまだ停まっているらしい。それで階段を上ってT田と別れ、間に合わないだろうと思いながら一番線に向かったところが意外と乗れて、扉際で本を出した。この日と翌日の帰りは電車内でメモを取らずに読書に時間を充てたのだが、それで日記を綴るのに苦労している現在、やはり遠出をした日の帰りは出来る限り書いておくべきだなと思う。
 東青梅駅で電車は、向かいの線路を過ぎる回送電車か何かを待っていたらしく、長く停まった。ひらいた扉の向こうから、秋虫の音が大挙して入りこみ、液体のように車内を浸していた。奥多摩へと向かうのは先頭四両のみで、あとの六両は青梅で切り離されて回送になる。こちらが乗っていたのは後方の端の車両だから、移動に時間が掛かって奥多摩行きの発車に間に合わないと困るので、青梅に着く前に立って車両を渡った。到着して降りてすぐ傍の四両目に入ったところ、車両の端で床に膝をついて、まるで這うように伏している人がいる。サラリーマンの風体だったが、折しも金曜日の夜半で、夜街に繰り出した末に酒に呑まれたのだろうか。通りすがりの人々も何かと目を向けながら、しかし止まらず過ぎていき、なかの一人、こちらもどうやら酒を飲んできたらしい中年の男などは、頑張れと気安く掛けながら、やはり手助けせずに素通りした。こちらも数歩行ってから振り向いて様子を見守ったあと、引き返して一応、大丈夫ですかと掛けてみたのだが、するとサラリーマンは返事とも呻きともつかない声を漏らして、よろよろと立ち上がりはじめた。酒に酔っている、という雰囲気でもなく、妙な様子だったが、水でも買ってこようかと思いつつ、しかしそろそろ発車が近いから乗り遅れてしまうと事だとぐずぐずし、結局特に手助けもせず、一応立てるようなのでと場を離れて車両のもう一方の端に行った。扉際で本をひらきながら、たびたび車両の向こう端を見やってみると、男は疲労困憊といったような風情で項垂れながら席に就いているが、ひとまず大丈夫らしい。それで最寄り駅で降りると、夜半も過ぎたこんな夜更けに線路の脇に作業員が集まって、なかの二人くらいはヘッドライトを灯していて、その白い光が闇を切り裂いていた。ホームを歩いていると表の道路の方ではバイクが何台か、野太い響きを散らしながら走っていき、それが過ぎると静寂が満ちて、通路を渡りながら頭上から、飛行機が空を泳ぐくぐもった音が落ちてきた。
 坂道で風が流れ、道を縁取る木々の群れが音を孕み、その一番外縁の草木は虫の足のように緩慢に蠢く。平らな道に出ると秋虫の音が、右からも左からも、木があればどこからでも響いてきた。道中、家の間近で軽自動車が一台、路肩に停まってエンジンを蒸かしている。カップルが逢引きに励んでいるのか、それにしてもこんなところで、と疑ったところが、どうもそんな様子でもなく、なかに乗っているのは一人のみと見えたが、しかし何をやっているのかわからない。ともかく過ぎて、家に入った。
 この日も三時過ぎまで夜を更かしたが、このあと特段に興味深いことはなかったと思う。入浴後、一時半から一時間ほど日記を書いて、それから読書を進めて眠ったようだ。